2020年3月31日火曜日

『密教とマンダラ』頼富 本宏 著

マンダラを中心として密教の考え方に触れる本。

本書は、主に3つの内容で構成される。

第1に、密教がインドに発生してから日本に伝来し、発展していくまでの歴史である。日本に来るまでの歴史は簡略であるがよく要点がまとまっておりわかりやすい。日本が受容した密教は「中期密教」であり、「後期密教」(チベット密教として今も生きる)は、日本まで伝来していたもののほぼ影響を与えなかったとの指摘が興味を引いた。

第2に、密教の教義の要点である。密教は本来対立する「聖と俗」を接続するということにポイントがある。その象徴が「即身成仏」だ。即ち、煩悩にまみれた凡人たる自分が、そのまま仏そのものであると認知すること、いわゆる「煩悩即菩提」の考え方である。これは、非常に長い時間を要する厳しい修行によって悟りの境地に到ろうとする旧大乗仏教への批判の意味合いもあったのではないかと著者は言う。一方で密教は「煩悩即菩提」を認知(考え方)の問題とせず、そこに到るための実践的手法も種々用意した。修法(しゅほう=仏への供養)、護摩、加行(=段階的修行)、灌頂、阿字観、遍路などである。

また密教では、「密厳(みつごん)国土」の思想もポイントとなる。密厳国土とは、理想化された仏の美しい世界のことであるが、密教ではこれが現に我々が住む世界と本質的に異ならないとする。ところで私は、「煩悩即菩提」も「密厳国土」も、禅宗とかなり類似しているように思った。 「煩悩即菩提」は、中国南方の「頓悟禅」も同じ考え方をするし、例えば道元が自然の姿がそのまま悟りの世界だと考えたように、禅宗でも「密厳国土」的な世界観は根強いのである。禅宗と密教は表面的には全く違うが、思想内容には共鳴する部分が大きい。

なお密教が「日本文化の地下水脈」であるとして、密教が日本文化に与えた影響や文物も述べられているが、その項目はあまりに簡略でありやや物足りない印象である。

そして第3に、マンダラの解説である。マンダラは密教の世界観を集大成するものとして詳しく説明される。しかし教義との接続については若干説明不足で、なぜマンダラが重要なのかはいまいちピンと来なかった。一方解説の内容は丁寧で、マンダラの構造、仏たち(仏、菩薩、天など)、胎蔵界と金剛界の違い、信仰、そして発展・変化して生みだされたマンダラや各国のマンダラの違いなどが述べられている。

特に印象に残ったのは、インドで生みだされたマンダラは仏たちの集積なだけではなく、その外側にマンダラを護る構造があったのに、日本ではそういう構造は捨象されて仏だけになった、というところだ。一方分からなかったのは、なぜわざわざ密教の世界観はマンダラとして表現されたのか、という根本的なところである。マンダラの歴史も本書にはあまり述べられておらず、例えば最古のマンダラはなんなのかといったこともわからない。要するに、本書は「マンダラとはこうですよ」という描写をしているのであって、「マンダラとはそもそも何か」という問題提起はない。それから参考図版があまりない上に、印刷が小さいのでよく分からない点も多かった。図版はもっと豊富にあった方がよかった。

なお全体を通じて、密教は素晴らしいとするやや我田引水な(著者は真言宗の寺院の住職でもある)見解が多いのも気になった。また「どうしてそうなのか」ということにはあまり触れずに表面的な説明で終始している部分もあり、内容はあまり学術的ではない。というのも、本書は元々「NHK市民大学」のテキストを下敷きに書かれたものであり、一般向けにわかりやすく密教のポイントを説くことに重点が置かれたようである。

平易な解説による一般向けの密教入門書。

【関連書籍の読書メモ】
『密教―インドから日本への伝承』松長 有慶 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/09/blog-post.html
密教が日本に伝わってくるまでの、その教えを受け継いだ人々について述べる本。密教の歴史についてはこの本が詳しく、また学術的である。


2020年3月10日火曜日

『達摩二入四行論』柳田 聖山 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

最初期の禅籍。

『達摩二入四行論』は最も古い禅籍であり、禅の初期思想を伝えるものである。達摩(「達磨」が一般的な表記だが、敦煌本の発見によりこちらの方が元来の表記とされ、本書ではこちらが採用)という人物の実在は怪しいが、達摩に仮託して表現された初期の禅のエッセンスがつまっている。

本書の表題「二入四行論」は鈴木大拙が便宜的につけたものである。「二入四行」とは悟りに到るための「2つのやり方、4つの実践的方法」を示し、確かに本書冒頭でそのような解説がある。しかしそれは最初だけで、全体としては他の禅籍と同じように達摩、また他の未詳の禅師たちの言行録であって、体系的な論述ではなくエピソード集である。

禅とは「老荘化した仏教だ」としばしば言われ、本書はまさにそれを体現する。真理は「道」と表現され、徹底的に「分別の心」を排除することが勧められている。あらゆる分別的な(分析的な、現実に即して考える)理解は妄想として否定され、「無知は是れ無碍の知なり(無知こそ自在の知り方だ)」など「無」が称揚される。

さらに「無為自然」的なありのままの世界が肯定され、全てが悟り(菩提)でないものはない、という。極めつけは、問答において「『老経(老子)』にしかじかとありますけどこれはどういう意味ですか?」と達摩に尋ねている場面があることだ。達摩は、『老子』に通暁していると考えられたのである。禅とは、老荘思想を仏教によって読み解くことから生まれたものであるようだ。

ところで、この老荘化した仏教は、仏教本来の考え方とは真逆な部分がある。というのは、元来の仏教はあくまで理知的な教えであって、むしろ分別の心を究極に推し進めることによって心の平安を得るものだからである。しかし本書では逆にそれを全否定する。例えば「 もしつとめて心のすがたを内省し、理法のすがたを観察して、つとめて、心のあり方そのものが、寂滅という在り方であり、(中略)そういう心の在り方は、存在の場所がなくて、それが理法の世界の立場であり、(中略)禅によって心が安定し障りのない場所であると——もしこのような考え方をする人は、まさしく無慚な生ける屍である」といった言明はその極端な場合だ。

本書には後代の禅が発展させた概念が萌芽的な形で現れており、思想史的にも興味深い。しかしそんな中で最も相違を感じるのが、本書で理想とされている悟りの姿が老荘の仙人のような静的なものであることだ。後の時代の禅では、悟りの境地は能動的なものであるとされているのとは対照的である。初期の禅は老荘思想の影響から始まったが、そこから老荘とは逆の能動性を獲得することによって発展していったのかもしれない。


『アマテラスの変貌—中世神仏交渉史の視座』佐藤 弘夫 著

神仏習合論に新しい視座を導入する本。

神仏習合は、古代末期から中世にかけて進行した。そして神と仏は人々の信仰の中でほとんど区別されないようになり、仏教と神道は切り分けることができないほど一体化した…と考えられてきた。しかし著者によれば、それはちょっと大雑把すぎる見方ということになる。もう少しその内実を見て、そこにどのようなコスモロジー(秩序)があるのか探ってみようというのが本書の意図である。

その結論をまとめれば次のようになる。

中世の人たちは(1)仏教の宇宙観を採用し、至高の存在として遙かな仏の世界を観想しつつも、(2)現実の願いや信仰を託すものとしては身近な地域神や仏像などとして表現された此土の神仏を拝んだ。それらは彼岸の仏の垂迹ではありながら、日本という辺境の(インドから遠い)国の人々を救うために具体化した存在であると考えられ、そのローカル性から神仏の世界での重要性が低い代わりに、却って卑近な信賞必罰を託すのに適していると見なしていた(著者はこれを<怒る神>と呼ぶ)。(3)一方で極楽往生については、彼岸の仏にすがる必要のあることだった。だが彼らは遙かに遠い世界=異界に存在すると考えられたから、現実の生活に及ぼす影響はほとんどなかった(著者はこれを<救う神>と呼ぶ)。(4)中世では神仏の区分けよりも、彼岸にいる救済者となる理念的な仏(大日如来、阿弥陀如来など)と、此岸にいる具体的で裁定者となる神仏(伊勢、八幡、各地の氏神、大仏や○○寺の仏像といったような具体的表現を持つもの)という2分類の方が実態に即していたと考えられる。

著者はこうした結論を導くため、「起請文」に現れる神仏を分析している。起請文とは、「○○の約束を破ったら神仏の罰をこうむります」というように、約束事を神仏に誓う形の請け書のようなものである。実は私も起請文には興味があって調べたことがあって、著者の問題意識には共感するし、結論は穏当だ。

ただし起請文には注意すべき点がある。それは、起請文にはずらずらと神仏の名が登場するのだが、本当にこれらの神仏は信仰されていたのだろうか? ということだ。なぜなら、とりあえず挙げておけばよいとばかりに多くの神仏を挙げて誓っているし、そもそも起請文は結構簡単に破られた。本当に信仰していたのならありそうもないことが起請文には散見される。著者はその点については何も留保していない。ここは考察の上で不十分だったと思う。

ところで、本書のタイトルともなっている天照大神については、それほど詳細には語られていない。先ほどのまとめにも書いた通り、本来中世人のコスモロジーの中では至高の存在としては仏であった。しかし国家、というよりも天皇家は、自らを権威付ける必要もあり天照大神を至高神として位置づけようとした。理念的には「辺土」の国主であるという妥協を受け入れつつ、実際には至高神としての普及活動を行うことで「日本国主」天照大神は浸透していったのだという。

なお、私がそもそも本書を手に取ったのは、天照大神の像容の変化に興味があってのことだった。天照大神は女性神であると我々は考えているが、中世ではいろいろに表現されており、童子神(雨宝童子)であったり、男性神官であったりしたらしい。本書ではちょっとだけ紹介されているが、このあたりをもう少し踏み込んでもらえると天照大神のイメージの変遷がもっとよくわかったと思う。

全体を通じて、著者の提示する中世の神仏のコスモロジーは説得的だし、議論は史料に基づいていて穏当である。しかしやや話題が散漫で、考察が少なく、構成が体系的ではない。「新しい視座」を提供するものとしてヒント的な書き方をしたのだろうが、習作的な部分があることは否めない。

神仏習合に対する考え方は参考になるが、ややまとまりに欠ける本。

【関連書籍】
『神仏習合』逵 日出典 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/08/blog-post_17.html
神仏習合の概略的な説明。『アマテラスの変貌』で再考を催される神仏習合の通説は本書が参考になる。


2020年3月8日日曜日

『観応の擾乱—室町幕府を二つに引き裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』亀田 俊和 著

観応の擾乱を丁寧に解きほぐす本。

観応の擾乱とは、室町幕府の成立初期、足利尊氏とその弟直義(ただよし)の兄弟が争った内乱である。関ヶ原の合戦などと違い、どちらが勝っても足利政権なわけで、地味な内乱としてあまり踏み込まれることがないが、本書はこの乱によって室町幕府の性格が確立したと考え、史料に基づいて擾乱の経過とその意味を丁寧に解きほぐしている。

乱の発端は、尊氏の執事高師直(こうの・もろなお)を直義が排除しようとしたことだった。幕府成立当初、尊氏は政務からほとんど引退し、実権を弟直義に譲っていた。そして僅かに残した重要な政務(恩賞宛行(あておこない)、守護職補任(ぶにん))を中心に業務を高師直に補佐させていた(著者はこれは「三条殿体制」と呼ぶ。三条殿=直義)。

それが気にくわなかったらしいのが直義。師直は特に専横ということもなく、直義にも恭順だったらしいが、勘所を押さえられている気がしたのかもしれない。南朝との争い(四条畷(なわて)の戦い)においても師直には軍功があったから正論によって対抗することもできず、直義は讒言によって師直を排除しようとした。

高師直はただちに行動に出た。軍勢を率いて尊氏邸を包囲し(御所巻(ごしょまき))、直義の罷免を要求したのである。この行動には幕臣の多くが賛同していた。どうやら幕政への不満が鬱積していたようである。尊氏・直義の兄弟はなすすべなく師直の要求を受け入れ、直義は失脚し出家した。直義の実権は、尊氏の実子足利義詮(よしあきら)が引継ぎ、尊氏・師直コンビが復活した。

一方、尊氏の別の実子直冬(ただふゆ)は父からなぜか冷遇され(実子としても認められなかった)、直義の養子となっていた。直義はこの甥を目に掛けて「長門探題」として西国に派遣したが、やがて直冬は九州へ下向し独自の勢力圏をつくっていく。直冬は尊氏の命令も聞かず、九州の武将を自分の意によって動かしていた。それが気にくわなかった尊氏は直冬に出家を命じるものの無視され、遂に直冬討伐に乗り出した。

その頃、出家して引退したかに見えた直義が、密かに京都を脱出し再起を図っていた。直義の下には重要な武将が次々に寝返り、巨大な勢力に成長していった。直冬の討伐でさえままならない尊氏・師直コンビに不利を感じていた各地の武将が直義に乗り換えていったのである。こうして、尊氏は配下の武将を次々に失い、戦う前から敗軍の将のような体になっていた。そして「打出浜(うちではま)の戦い」の激戦に負け、直義軍と講和した。

講和条件は、高師直・師泰(もろやす、師直の兄弟)の出家だったが、実際には高一族は講和後に斬殺された。ところで直義は尊氏に圧勝したものの、彼自身は戦には非常に消極的だった。味方への恩賞宛行(恩賞として領地を与えること)も一切行っていない。合戦にも参加することなく、別の国から傍観するだけだった。直義は幕政に不満を抱く武将に担がれただけのようだった。

そういう消極性からか、講和後の政権の体制は意外なほど尊氏に有利で、基本的には擾乱以前の「三条殿体制」を復活させることとなった。消極的な直義とは対照的に、尊氏は擾乱以前には決して見せなかった強烈な気概を見せはじめ、恩賞宛行権を保持することに成功したのである。

敗軍の将が恩賞宛行権を持っているのだから、勝者への恩賞が十分に与えられるわけがない。もちろん尊氏もその権利を自由に行使できたわけではない。にしても消極的なだけで十分に直義派への弱体化に寄与した。その上、直義自身にも積極的に恩賞を与える気がなかったようだ。守護職の補任もほとんど現状維持に留まった。官途の供与も限定的だった。これでは直義のために生命をかけて戦った武将たちが不満に思うのもやむを得ない。直義は南朝との講和だけは熱心に取り組んだがこれは不成功に終わった。

こうして新たな三条殿体制は直義の失政(=消極性)により瓦解した。風向きが悪くなり孤立気味になった直義は京都を脱出。時を同じくして南朝との戦闘も再開され、直義が実権を握っていることに不満な義詮や直義派の武将によってなし崩し的に観応の擾乱第二幕が始まった。ただし今回は尊氏も直義もあまり戦う意義を感じておらず武将の間にも厭戦気分が漂っていた。

失政により多くの武将からの支持を失っていた直義はあえなく敗北。戦乱の中で唯一の実子も失い、戦う意欲を阻喪した結果であった。一方尊氏は南朝との講和に成功し、皇統を南朝に統一することに同意した(正平の一統)。

直義死去後の体制は、東日本を尊氏が、西日本を義詮が治める東西分割統治体制であった。政権のメインは義詮が担い、尊氏は軍勢だけを引き連れて東国に臨んだ形だったが、恩賞宛行や守護職の補任を積極的に行い、東国経営を成功させた。

そんな中、三種の神器を南朝に渡すなど、尊氏方は講和条件を誠実に履行していたにもかかわらず、南朝が一方的に講和を破棄し幕府を滅ぼそうと攻勢に出た。南朝と尊氏軍は「武蔵野合戦」で激突し、尊氏軍は辛くもこれに勝利し東国での覇権を固めた。一方で西国では南朝軍との衝突が散発していたことなどから、尊氏自身がこれに対処するため分割統治体制を解消、尊氏が統一政権を担った。

また九州では、南朝の懐良親王、九州探題一色道猷、そして足利直冬の三つ巴の戦いが行われていたが、直冬は南朝に帰順し幕府と敵対。しかし実父と戦うつもりはあまりなかった直冬は自ら先頭に立つこともないうちに尊氏に撃破された(その後死亡)。

この観応の擾乱を、著者は「実に奇怪な内乱」と評する。短期間で形勢が極端に変動して離合集散が繰り返され、しかも戦いの目的がはっきりせず、当事者たちは戦う気があまりなかったのに戦乱が続いたからだ。その理由は従来様々に考察されてきたが、著者の考えは武将たちへの恩賞が少なく、功労に報いることが少なかったことに本質的な原因があったのではないか、ということだ。

実際、尊氏は擾乱を経て諸政策で広い意味での恩賞を充実させた。積極的な恩賞宛行や守護職の任命、訴訟制度の簡素化と迅速化(幕府に帰順したものへの優遇)などがそれに当たる。このようにして擾乱を契機として室町幕府は「努力が報われる政治」へと舵を切っていったのである。

ちなみに本書を読みながら気になったことがいくつか。 直義も義詮も寺社の所領保護にかなり気を遣っているように見受けられるが、そこにはどのような事情があったのか。擾乱以前は武将の権利よりも寺社のそれを優遇しているようにすら見える。寺社からどのような利益を得ていたのだろうか。それに関連して、室町幕府の財政事情についても気になった。本書を読む限り室町幕府は独自財源を持たず、所領の給付と守護職の補任のみが恩賞に使える手駒だったように見える。擾乱は、独自財源があればお金で解決できた面もあったように思った。

それから「九州で猛威を振るった」などと簡単に表現される足利直冬は、どうしてほとんど幕府の後ろ盾もない中、九州で一大勢力として成長することができたのか。本書には具体的な経過が述べられていないが、直冬の行動にも興味が湧いた。

観応の擾乱について一般向けにまとまったほぼ唯一の本。


2020年3月1日日曜日

『梵字悉曇』田久保 周譽 著、金山 正好 補筆

梵字(悉曇文字)についての総合的な手引き。

梵字とはサンスクリット語を表記するためのブラーフミー系文字の総称であるが、その中のシッダマートリカ文字——悉曇(しったん)文字が日本では梵字として相承されてきた。

本書は、(1)悉曇文字が日本へ伝来するまでの歴史、(2)日本での受容とその批判的検証、(3)悉曇文字の解説、が掲載されており、現在手に入る中では最も総合的かつハンディな悉曇文字の手引き書であると思う。

(1)悉曇文字が日本へ伝来するまでの歴史
仏典は始め文字に書かれることはなかったが、大乗仏教徒が文字による聖典の編纂に取り組んだ。特に最初期の仏教文献と見なせるのは紀元前3世紀のアショーカ王碑文(ブラーフミー系文字)であり、本書では割合丁寧にこの文字を紹介している。

悉曇文字は4世紀〜のグプタ朝に使われた文字に由来する。中国では梵字は旧訳(玄奘以前)の漢訳仏典に全く残存しておらず、6世紀頃までは梵語は必要な場合は音写によって表示するものであった。しかし隋代には梵字の知識が進み、唐代に玄奘が出て旧訳を批判し、また義浄は『梵語千字文』を撰して梵字そのものを紹介するとともに一種の辞書として活用可能とした。

さらに中唐になり善無畏、金剛智、不空らが純密の教典や儀軌を翻訳する。これには漢字音写ではなく梵字がそのまま使われ、次第に経典は梵字の原文でなければ満足しないという風潮になっていった。こうして梵字学は中国の学僧の必須科目となり、文字の構成や字義などが盛んに研究された。そういう解説書の中で著名なのが唐智広の『悉曇字記』である。

しかしインドにおける文字の変遷に合わせて中国では梵字が遷移し、悉曇文字は唐宋をもって使われなくなり、その後継文字であるナーガリー文字が使われるようになった。さらに明代以降にはチベットから伝わったランツァ文字が標準となった。

(2)日本での受容とその批判的検証
一方日本では、空海が『悉曇字記』をはじめとした梵字資料をもたらして梵字時代が幕を開けた。空海自身も『梵字悉曇字母并釈義』『大悉曇章』を著し日本人による梵字研究の嚆矢となった。こうして平安時代には日本梵字学が大成された。比叡山五大院安然の『悉曇蔵』8巻はその最大の成果である。

ところが鎌倉時代になると梵字研究は停滞期に入る。梵字は師匠から弟子へと秘密裡に奥義として相承されるものとなり、批判や訂正を受ける機会もなく、次第に独断と主観的推測が累積して、本来の語学としての形から逸脱していったからである。何よりも日本では梵字は仏典の有り難い神聖文字としてだけ受け取られ、語学として実用することもなかった。そのため「日本の学僧の間では、梵字悉曇学の本質は十中八九までは理解されていなかった(p.1)」。

日本の悉曇学を復興する努力をしたのは江戸時代の学僧である。彼らは平安時代以来の伝承資料に基づき梵字の字形を再吟味するとともに、梵語の語義を研究した。例えば浄厳は『悉曇三密鈔』を著し、従前の悉曇学の成果を集大成した。ちなみに国学の契沖は浄厳の弟子で、『悉曇三密鈔』の音韻学はその国語学の基礎となっているといわれる。

そして慈雲飲光(おんこう)は梵学資料の一大叢書『梵学津梁』を完成し、それに基づいて梵字資料の解読を行い、梵字学を語学として蘇生させた。「複雑な梵語の文法については極めて断片的な知識しか得られず、特に梵語を解する人物の皆無な状況下にあって、梵文を解読するための可能な限界にまで尽くした努力は、杉田玄白等の『解体新書』訳出に遭遇した困難の比ではなかった(p.137)」。また宗淵は梵字の重要資料を原寸大に臨摹(りんも)した『阿叉羅帖(あらしゃちょう)』を刊行した。これは『梵学津梁』とは別の方向性の輝かしい業績であった。

(3)悉曇文字の解説
悉曇文字の解説は伝統的な切り継ぎ18章(悉曇文字の作字を18章に分けて段階的に学ぶもの)によらず、より実用的な形で説明している。また日本悉曇学の伝承を批判し、より簡明で正確な悉曇文字の確定を試みている。ただし、この部分は文字学習というよりは、日本悉曇学の批判の意味合いが強いため、情報量は多いがこの解説を読んで悉曇文字が書けるようにはならないと思う。悉曇文字を書きたいという向きには、川勝政太朗『梵字講話』の方が参考になる。

さらに本書では梵字真言集、梵字般若心経が資料的に掲載されている。ただし、一般民衆にとっての梵字の大きな受容方法であった種子(しゅじ:諸尊を表す梵字)については、ほとんど触れられていない。種子は語学とはほど遠く、記号の組み合わせ術でしかなかったため記載しなかったのだと思われるが、一般には梵字は種子として目に触れるものなのでもっと解説が欲しかったのが正直なところである。

そういう部分もあるにしろ、全体として梵字(悉曇文字)について総合的に学ぶ本としてこれほど学術的で視野が広くしかも読みやすいものは珍しく、非常に参考になった。なお、本書は田久保周譽が残した原稿を元に、金山正好が再編集し、若干補足した本であり、例えば中国での梵字の変遷などは別の田久保の本にあるものをリライトして挿入している。そういう再編集をしたのは、一冊で梵字の世界を学べるようにした工夫で、初学者にとって大変有り難い本になったと思う。

梵字について知りたくなったらまず手に取るべき基本図書。

【関連書籍】
『密教―インドから日本への伝承』松長 有慶 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/09/blog-post.html
密教が日本に伝わってくるまでの、その教えを受け継いだ人々について述べる本。
梵語の中国への導入に大きな役割を果たした善無畏、金剛智、不空についても詳しい。