最初期の禅籍。
『達摩二入四行論』は最も古い禅籍であり、禅の初期思想を伝えるものである。達摩(「達磨」が一般的な表記だが、敦煌本の発見によりこちらの方が元来の表記とされ、本書ではこちらが採用)という人物の実在は怪しいが、達摩に仮託して表現された初期の禅のエッセンスがつまっている。
本書の表題「二入四行論」は鈴木大拙が便宜的につけたものである。「二入四行」とは悟りに到るための「2つのやり方、4つの実践的方法」を示し、確かに本書冒頭でそのような解説がある。しかしそれは最初だけで、全体としては他の禅籍と同じように達摩、また他の未詳の禅師たちの言行録であって、体系的な論述ではなくエピソード集である。
禅とは「老荘化した仏教だ」としばしば言われ、本書はまさにそれを体現する。真理は「道」と表現され、徹底的に「分別の心」を排除することが勧められている。あらゆる分別的な(分析的な、現実に即して考える)理解は妄想として否定され、「無知は是れ無碍の知なり(無知こそ自在の知り方だ)」など「無」が称揚される。
さらに「無為自然」的なありのままの世界が肯定され、全てが悟り(菩提)でないものはない、という。極めつけは、問答において「『老経(老子)』にしかじかとありますけどこれはどういう意味ですか?」と達摩に尋ねている場面があることだ。達摩は、『老子』に通暁していると考えられたのである。禅とは、老荘思想を仏教によって読み解くことから生まれたものであるようだ。
ところで、この老荘化した仏教は、仏教本来の考え方とは真逆な部分がある。というのは、元来の仏教はあくまで理知的な教えであって、むしろ分別の心を究極に推し進めることによって心の平安を得るものだからである。しかし本書では逆にそれを全否定する。例えば「 もしつとめて心のすがたを内省し、理法のすがたを観察して、つとめて、心のあり方そのものが、寂滅という在り方であり、(中略)そういう心の在り方は、存在の場所がなくて、それが理法の世界の立場であり、(中略)禅によって心が安定し障りのない場所であると——もしこのような考え方をする人は、まさしく無慚な生ける屍である」といった言明はその極端な場合だ。
本書には後代の禅が発展させた概念が萌芽的な形で現れており、思想史的にも興味深い。しかしそんな中で最も相違を感じるのが、本書で理想とされている悟りの姿が老荘の仙人のような静的なものであることだ。後の時代の禅では、悟りの境地は能動的なものであるとされているのとは対照的である。初期の禅は老荘思想の影響から始まったが、そこから老荘とは逆の能動性を獲得することによって発展していったのかもしれない。
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