2017年10月23日月曜日

『罪深き愉しみ』ドナルド・バーセルミ 著、山崎 勉・中村 邦生 訳

現代アメリカ文学界における奇才の一人である、ドナルド・バーセルミの短編集。

本書に収録された短編は、主にパロディ、諷刺、コラージュの手法で作られたものである。はっきりと分かれているわけではないが、第1部がパロディ、第2部が諷刺、第3部がコラージュといった具合で、全24編の小品が並んでいる。

表題の「罪深き愉しみ」とは、そういう文学のお遊びのことであるらしく、「こんなフマジメな文学を書いてすいません」といいながら不敵に嗤うバーセルミが目に浮かぶようである。

鑑賞の上からいうと、第1部と第2部はやや難解である。特に第1部は、ほとんどがパロディ的な作品であるので、いわゆる元ネタを知っていないと楽しめない。第2部の諷刺は、我々日本の読者にも決して縁遠いとはいえない政治や社会風俗が取り扱われているので、これは十分に理解できるとはいえないまでも薬味が効いていて楽しい。

だが私が最も楽しめたのは第3部だ。コラージュ的手法はバーセルミが自家薬籠中にしているものであるだけに、材料となる言葉の選択は冴え渡っていて、こういう文章を切り取ってくることができたら、それだけで文学ができると感嘆させられた。映画や文学といった作品からだけでなく、何気ない日常の言葉や俗っぽい言い回しがたくさん利用されていて、とても卑近なものであるにも関わらず、それがバーセルミの手にかかると確かに文学的な価値を持ったものとして感じられるから面白い。

それが実際にどういったものなのかは、本書を紐解いてもらう以外にはないが、コラージュであるだけに、意味ありげに見えながらその実は単なる言葉遊びといったようなユーモア溢れる短編ばかりで、それはしかつめらしい顔をしながら「鑑賞」する文学ではなく、覗き込む方も面白半分でニヤニヤしながらページをめくるべきものだ。

特に本書の最後に掲載されている「無:予備録」はそれを象徴する作品だ。「無」を題材にしつつ、言葉の断片を徹底的にコラージュしていくことによって自らの文学が何の意味もないことをそれとなく説明しているようにも見える。この作品には笑わされた。

「文学」の新たな地平を切り拓いたバーセルミらしい、気の利いた短編集。

2017年10月18日水曜日

『鹿児島藩の廃仏毀釈』名越 護 著

鹿児島の廃仏毀釈の実態について、郷土資料を中心にまとめた本。

鹿児島藩は苛烈な廃仏毀釈を行い、藩内の全ての寺を廃止し、全ての僧侶を還俗(僧侶でなくなること)させた。本書は、このような徹底的な廃仏毀釈について、各市町村の郷土誌を参照することによって実態をまとめている。著者はこれに加えて、気になった廃寺についてはフィールドワークを行っているが、基本的には研究書ではなくて、一般向けの概要説明の本である。

本書の特色としては、廃仏毀釈の関連本はお寺関係者が書いていることが多いのに、本書の著者は元ジャーナリスト(南日本新聞社)であることで、仏教を擁護しようとか、神道を誹謗しようとかいう意図がなく、できごとを淡々と語っていることである。廃仏毀釈についてこのように淡々と語っている本は珍しい。

内容としても、廃仏に至る背景、”お手本”となった水戸藩での廃仏毀釈の概要、腐敗していた一部の僧侶の話なども含まれており、廃仏毀釈とはなんだったのか多面的に摑める。ただし本書の中心は個別のお寺がどのように廃仏されたのかというケーススタディにあって、実際にどういう政治的プロセスによって何が決まり、どう実行されたのかということは必ずしもはっきりとは書かれていない。

とはいえ、廃仏毀釈については残っている公式資料はほとんどなく、地元の口伝に頼る他ない上、実行した人々がほとんど西南戦争で死んでしまっているのだからしょうがないことだろう。ただ、実質的な責任者である桂久武(家老)の話や、記録を残している市来四郎(島津久光の側近)についてはもうちょっと深く記述してほしかったと思った。

また、ちょっと気になったのは、郷土誌を参照しているにも関わらず、それが巻末の参考文献にちゃんと取り上げられていないことである(『各市町村誌』としか書いていない)。文中には「『○○町郷土誌』によれば」などと書かれているにしても、何度も郷土誌を発行している自治体もあるので、後々に検証しようと思った時にやはりしっかりと文献情報を書いておく必要はあると思う。

やや概略的すぎるきらいはあるものの、鹿児島の廃仏毀釈について総合的にまとめられたわかりやすい本。

2017年10月15日日曜日

『神道指令の超克』久保田 収 著

国家神道を擁護する立場から書かれる、近代の宗教政策についての論文集。

著者の久保田 収は「皇国史観」の歴史家であった平泉 澄の弟子で、戦前の国家神道に対して全くと言っていいほど批判的な視点がなく、現代から見るとバランスを欠いたものになっている。

特に題名の元となっている冒頭の論文「占領と神道指令」はその性格が顕著で、国家神道は日本人元来の宗教だったとして、GHQの神道指令(国家神道を解体せよという指令)を日本文化の否定であったと非難し、GHQの統治が終わってからもその影響は甚大で未だに神道界はその痛手から回復していないと嘆く。

しかしこれは現代の標準的な見解とは真逆である。国家神道は日本人が自然発生的に育んできた「神道」とはほぼ無縁のもので政府が創造したものであり、GHQの神道指令にもかかわらず国家神道的なものは現代にまで生き延び続け、神社本庁などによって未だに政治的な影響力を保持している、というのが標準的な見解であろう。

よって、本論文集の歴史観はちょっと頷けないところが多いが、一方で他書にはない視点でまとめているという部分もあるので、内容は意外と参考になるところも多かった。

収録されている論文は、「占領と神道指令」「神宮教院と神宮奉斎会」「信教自由問題と神宮・神社」「明治維新と復古思想」「出雲大神と神道思想」「薩藩における廃仏毀釈」「薩摩の楠公社」の7編。

このうち最も参考になったのが「薩藩における廃仏毀釈」である。著者はこの論文を書いた頃に鹿児島の第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)で教鞭を執っていた。そのため、他書ではほとんど取り上げられない明治初期の造士館(藩校)の動向がかなり詳しく論じられており、明治初期の鹿児島の神道形成には造士館(の「国学局」)がかなり影響していたことがよくわかった。特に、『敬神説略』や『神習草』の刊行に至る経緯や背景といったものは本書で初めて知った。

歴史観は偏っていると言わざるを得ないが、神道側から見た明治の宗教行政の考察という意味では価値ある本。

【関連書籍の読書メモ】
『国家神道』村上 重良 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/07/blog-post.html

国家神道の本質を描く。国家神道を考える上での基本図書。


2017年10月10日火曜日

『<出雲>という思想』原 武史 著

近代日本における出雲系と伊勢系の派閥の対立を描く本。

明治政府は、王政復古を旗印にした。遙かな古代に行われていた神権政治を現世(うつしよ)に再現することを一度は企図した。その神権政治の思想は、「復古神道」と呼ばれた。これは、それまで千年来培われてきた自然発生的な神道ではなくて、国家の統治の道具として新たに構想されたものであり、古事記や日本書紀、風土記などに現れる神話を再解釈して作られた神道であった。

その神道を形作った人々は大勢いるが、大きく分ければその流れは5つに整理できる。すなわち、(1)平田篤胤の思想を受け継ぐ人々(平田派)、(2)平田派から派生し、明治政府に大きな影響力を持った旧津和野藩の人々(津和野派)、(3)一時期ではあるが神道行政を主導した旧薩摩藩の人々(薩摩派)、(4)アマテラスの一神教的な運動を繰り広げた伊勢神宮に近い人々(伊勢派)、そして(5)オオクニヌシを信奉する出雲大社に近い人々(出雲派)であった。

この5つの派閥をさらに大きく分ければ、アマテラスや天皇の神聖性を強調する方(2)(4)と、オオクニヌシと彼が主宰する目に見えない世界(幽冥界)を強調する方(1)(5)の2つに分けうる。

例えば平田篤胤(1)は、現世での支配者はアマテラスであるにしても、死後の世界あるいは目に見えない世界での支配者はオオクニヌシであり、むしろオオクニヌシの方が永続的な世界の支配者であると考えた。篤胤は、天皇すら死後にはオオクニヌシの審判を受けるとした。この考えを受け継いだ平田派は、明治初年の段階でかなり多数派を占めていたのであるが、その影響力は限定的であり、割合に早く新政府内での存在感をなくした。

一方で、篤胤の門人でありながら篤胤神学を批判し独自の思想を発展させた大国隆正(2)は、アマテラスこそ世界の支配者だと見なし、アマテラス一神教とも言うべき神道を構想した。この構想は津和野藩の藩主であった亀井茲監(かめい・これみ)や福羽美静(ふくば・よししず)に受け継がれ、神道を国教化するという明治4年くらいまでの神祇行政の基本路線となった。

薩摩派(3)は、こういった神学論争にはあまり参加しなかったので、アマテラスにもオオクニヌシにもさほど思い入れはなかったようである。彼らは造化三神(アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カミムスヒ)を重視し、津和野派の構想には反対であった。薩摩派は神祇行政の実権を握った明治5年頃に津和野派の人々を政府から追い出し、津和野派の構想を挫折させた。

ところが薩摩派の命脈も長くは続かなかった。薩摩派には思想的な指導者がおらず、自らの依って立つ神学的理論を打ち立てることができなかった。しかも信教自由などを志向する開明派の官僚からの抵抗にもあって薩摩派が主導した国民強化運動はうまくいかなかった。

そこで登場するのが出雲大社の大宮司であった千家尊福(せんげ・たかとみ)(5)である。尊福は代々続く出雲国造(いずもこくそう)の第80代目であった。出雲国造は、出雲では藩主を上回る権威を持ち、生き神とさえ見なされていた。尊福はその影響力を背景に、出雲に深い関わりを持つオオクニヌシの復権を試みた。一度は明治政府から排除された平田派の人たちはこの動きに同調して出雲派を形作った。

そんな中、津和野派と薩摩派がそれぞれ影響力を競う形で共同して伊勢神宮の強化が図られ、次第に伊勢神宮が国家にとって特別な地位の神社として擡頭してきた。特に薩摩派出身の田中頼庸(よりつね)が大宮司としてその運動を主導した。こうしてアマテラスこそが国家の主宰神であるとする思想が強化された。

こうして明治政府内では、祭神論争が巻き起こった。顕事(現世での出来事)を司るアマテラスを祀るべきか、それとも幽事(目に見えない世界での出来事)を司るオオクニヌシを祀るべきか。それは神学論争では決着がつかず、結局天皇の勅裁を仰ぐことになった。その勅裁では、どちらを祀るべきという優劣はつけていなかったが、オオクニヌシについては言及されなかったため結果的にアマテラス派の優位を確定させた。

本書は、こうした明治政府内の派閥間の神学的ダイナミズムを克明に描くもので、派閥の動きなども類書に比べわかりやすく、テーマは出雲の思想であるが、出雲だけでなく明治初期の神道行政の動き全体を追うものとしても非常に参考になる。

なお、全体の4分の1ほどを占める第2部では、「埼玉の謎」と題して埼玉県成立の歴史と県庁所在地がなぜ大宮ではなく浦和なのかということを、なぜ埼玉には氷川神社が多いのかということから考察している。これには実はオオクニヌシが関係しており、千家尊福は埼玉県の知事に就任して氷川神社の復興にも取り組んでいる。第2部は第1部での話を下敷きにしたケーススタディとしても読めるが関連は深くない。

オオクニヌシを信奉する出雲派の明治初期での動向から、神祇行政全体まで概観させる良書。

2017年10月9日月曜日

『島津斉彬公伝』 池田 俊彦 著

島津斉彬の伝記。

本書は、鹿児島出身の西洋史学者である池田俊彦が、伝統的な資料(斉彬と関わりがあった人の残した資料など)に基づいて書いた島津斉彬の伝記である。

明治生まれの著者らしく、文語文で書かれており、慣れていない人には少し読みづらい。またかなり難しい漢字も使われており、平易とはいえない。

記述は、襲封(しゅうほう:藩主の地位を継ぐこと)以前は概ね経年的に書かれ、襲封以後はテーマ毎に斉彬の事績を辿る構成になっている。具体的には、「勤王の事績」「民政、勧業、経済」「将軍継嗣問題」「外交上の諸問題」「薩摩藩士風の改善と教育」「洋式造船ならびに科学的事業」「斉彬の経綸とその臨終」等である。これらは、経年的記述ではないためそれぞれの前後関係がわかりにくいきらいもあるが、斉彬の多彩な側面を概観できる。

ただし、本書は歴史家の視点から斉彬の伝記を編んだというよりも、斉彬の讃仰のために書かれたという面がある。実際、本書は最初「岩崎育英奨学会」から出版され無料で頒布されたものである。そのため、随所に斉彬への賛美・讃仰がみられる。決して無理に斉彬称讃をしているわけではないのだが、 やや過剰な感じは否めない。

とはいっても、時代を遙かに超えた見識を持ち、仁政を敷いて国を富ませ、その上温和な人柄だったというのだから、鹿児島にとってというよりも、全国的に見て稀有な名君であったことは、本書を批判的に読むにしても明らかなことである。実に、鹿児島を明治維新を主導する雄藩に仕立て上げたのは、斉彬の功績であった。

そんな斉彬であったが、唯一、子どもだけには恵まれなかった。六男五女に恵まれるものの、男子は全て夭折。女子も長じたのは3人だけであった。斉彬の人生は天才的な慧眼と活発な行動力に裏付けられ、ほとんど陰らしい陰がないのに、子どものことに関してだけは、夫婦の間に深い悲しみが漂っているのである。本書は公務での業績を辿るものであるので、そういった個人的側面はほとんど描かれていないが、私はそこにも興味を抱いた。

なお、伝記としてはちょっと古びたところ(情報が古いところ)もあり、斉彬伝の決定版とは言えない。しかし本書は600ページ近くもありかなり詳しく総合的な斉彬像が提供されており、斉彬に関する通説を形作ったという意味で存在感の大きな本である。

やや難しいが、情報量が豊富で斉彬伝の嚆矢として価値ある本。