2020年7月6日月曜日

『国家神道』村上 重良 著

国家神道の本質を描く。

国家神道とは、明治から敗戦までの国民の思想を国家が統制するための強力な道具だった。本書は、国家神道がどう生まれ、どう発展し、どう国民を支配したかをまとめた、ほとんど最初の本である。であるから、本書は国家神道を考える上での基本的な視座を確立した。

本書ではまず古代の神道の成り立ちから述べる。神社神道は、原始的な民族宗教が創唱宗教(仏教)に完全には包摂されないままに発展して生まれたもので、原始宗教的な体質を保持し続けた世界的に「まれに見る特異な宗教」であると著者は見る。神仏習合の理論によって仏教と神道は理念的には接続され、実際に民衆の間でも仏教と神道はほとんど区別されていなかったが、「原始宗教以来の共同体の祭祀」という性格は幸か不幸かずっと変わらなかった。「神社神道という、あまりにも特異な民族宗教の存在こそ、国家神道の形成を可能にした最大の要因」であると著者は言う(p.10)。

つまり、神道が教義的な内容を欠いた祭祀の体系という容れ物的なものであったために、明治以来の国家権力は「その時々の政治的必要に応じて、惟神の道に、フリー・ハンドで恣意的な内容をもりこむことができた」のである(p.224)。

国家神道の淵源は、幕末の儒家神道と復古神道にある。江戸時代、儒学が勃興してくると、本来は全く出自を異にする儒学と神道が不思議に結びつくようになり、神儒習合の各派が登場した。本来の神道には倫理的な教義は存在しなかったが、そこに儒教から忠孝の概念が導入され、神道が封建的イデオロギー性を獲得していったのである。特に山崎闇斎の垂加神道は強烈な天皇崇拝の性格が大きな影響を及ぼした。また平田篤胤の復古神道は、復古の絶対化によって新たな儀礼や祝詞を創造するとともに、神道がほとんど重視していなかった死後の魂の問題を取り扱い、神道に「宗教としての実体」を作りだした。

明治維新を迎えると、神道は当初国教化されたが、それはすぐに挫折して宗教は自由化された。ところが神道は宗教ではないとされて逆に国家がそれを強制することが可能になり、やがて国民生活全てを支配した。その過程を著者は(1)形成期(明治維新〜明治20年代初頭)、(2)教義的完成期(帝国憲法発布〜日露戦争)、(3)制度的完成期(明治30年代末〜昭和初期)、(4)ファシズム的国教期(満州事変〜敗戦)の四期に整理して述べている。

(1)形成期では、復古政策の一環として古代以来の「神祇官」が政府に復興され、まず神仏分離と、それに伴って各地で廃仏毀釈が行われた。また神祇官神殿には、八柱の皇神と全ての天神地祇、歴代皇霊が祀られた。これは「国家が直接、全神社の全祭神を支配するという、新しい宗教国家の構想に発するもの」(p.92)であり、神社は全て国家の祭祀として公的性格を与えられ、追って社格が定められた。一方で寺社領は上知(あげち=政府に取り上げられ)されて、寺領からの収入を絶たれた仏教勢力は弱体化した。

こうした神道優遇の諸施策が矢継ぎ早に実施されたが、国民教化についてはうまくいかなかった。そのため神祇官は神祇省に格下げされ、さらに教部省となって大教院体制が敷かれ、これまで教化運動から排除されていた仏教諸勢力も合同して国民教化が図られた。しかしその内容は、皇室への崇敬と祖先祭祀をミックスして人工的に作られた薄っぺらい教えだったためにうまくいかず、また政教分離を主張する開明派官僚からの評判も悪かった。例えば森有礼は「この創作された宗教をわが国民に対して押しつけようとする試み」を厳しく非難した。仏教勢力も国民教化運動の矛盾を問題視して脱退。こうして大教院と教部省は解体し、国民教化運動は終わりを告げた。

さらに神道界はその後混乱し、祭神論争(祀るべき神にオオクニヌシを加えるかどうかの論争)が起こった。これは神道内の論争によって決定することができず勅裁によって解決された。このゴタゴタがきっかけになって、明治15年(1882)政府は神社神道を一般の宗教から切り離して国家の祭祀とすることにした。神社神道を「宗教ではない」という整理にしたのである。神社の宗教活動については神社から分離された宗教である「教派神道14派」が公認された。

(2) 教義的完成期では、帝国憲法が発布されて「信教ノ自由」が認められるが、それに続いて「教育勅語」が発布される。帝国憲法で認められた「信教ノ自由」はあくまで「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於テ」の限定つきであったから、政府は表向きには信教の自由を掲げながら(そして帝国憲法の起草者たちは、日本には国教制度はないという見解をとり続けながら)、国家の都合によっていかようにも宗教を弾圧することができた。この見えない国教制度の当然の帰結として宗教公認制度が出来、各宗派の管長を勅任官(高級官僚)とすることによって、宗教を国家に従属させ支配した。

一方で、伊藤博文は政教分離の原則を強調し、私立学校令(明治32年)では学校教育で宗教教育が行えないこととなった。学校では宗教を教えないようにしつつ、宗教ではない「国家神道」は、いくらでも学校に強制できる体制が整った。とはいえ政府内も一枚岩ではなく、国家神道を国教化したい勢力と、反国教化の西欧流の合理主義的勢力があった。国教の教義の基本となる文書「教育勅語」を作成する際、この2つの勢力を代表して起草作業を行ったのが国教派の元田永孚(ながざね)と反国教派の井上毅(こわし)であり、その見解の妥協点として「宗教にかんする問題はすべて除かれ」、「君主の個人的著作」として各大臣の副署を欠いた異例の形式で発布された。

ところが、ひとたび「教育勅語」が発布されるや、政府内のそのような対立は問題ではなくなり、学校教育で叩き込まれたことによっておそるべき強制力を以って国民の意識に浸透した。それは、儒教にもとづく封建的忠誠の観念と、祖先崇拝の観念との結合であり、有事の際には天皇に命を捧げることを理想とする教えであった。さらに全国の小学校に天皇、皇后の「御真影」が下賜された。「教育勅語」と「御真影」は、国家神道にとっての聖典と神像の役割を果たした。国家神道は宗教ではない、とされていたが、「それは特定の神を立て、それらの神々への信仰を説く、まぎれもない宗教であった」(p.140)。

(3)制度的完成期では、国家神道の各種の儀礼や祭祀が整備されるとともに、国家神道の軍事的性格が強まっていく。天皇の祭祀、すなわち宮中祭祀は、日露戦争後の明治41年(1908)の皇室祭祀令によって決定され、おびただしい祭典が定められた。しかしそれは、神嘗祭や新嘗祭を除いてほとんどが明治期に整備されたものだった。

ところで時代は遡るが、明治20年(1887)に官国幣社の神職制度が定められ、内務省が宮司を直接任命するようになったのを初めとして、府県社、郷社、村社、無社格の神官神職制度が系統的に整備され、神官の人事権は政府・地方庁が完全に掌握していた。このことは神社の数の増大をもたらした。それは、政府が私的な神社の存在を認めず、全ての神社を公的なものとして取り扱ったため、「路傍の小祠でも、いちおうの形を整えて神社と称することで、自動的に公的性格を賦与され、管理、運営のうえで、公費の支出を期待することができた」(p.166)からであった。

こうした群小神社の存在は政府にとって好ましくなかったため、明治39年(1906)、内務大臣原敬のもとで神社の大々的な合併に着手し、神社の統廃合は明治39〜42年に頂点に達した。これは「神社寺院仏堂合併跡地譲与二関スル件」によって後押しされた。これは、合併によって不要になった境内地(官有地)を、合併した神社に譲与することを許可したものである。こうして、村社は村ごとに一社、無社格は字ごとに一ないし数社に減らす方針が断行され、約19万余あった神社が、大正初年までに11万余社に激減した。

この神社整理によって全国各地の由緒ある古社が破壊され、神事や行法も多く失われた。国家神道の威信を保つために、神道の伝統が破壊されたのである。そしての代わりに導入されたのが、宮中祭祀を基準として画一化された祭式であった。画一化されたのは祭式だけでなく、「祭神の明らかでない神社については、祭神をさだめたほか、祭式の制定、社殿、社地等の確保についても、(中略)可能なかぎり画一化する方針をとった」(p.174)。全国どこでも、神社といえば鳥居、奥の神殿、その前の拝殿、そして手前の手洗所があるが、これはこの時に画一化したことによって整備された面も大きい。

そして神社整理の動きと並行して、政府は神社界の多年の要望に応えて、国庫共進金制度が整えられた。まず官国幣社の経費が国庫負担になり、また府県社や郷社、村社の経費も地方庁から支出できることと定められた。ただし、全ての神社がこの恩恵を受けたわけではなく、府県社以下の神社では限定的な支出だった上、共進指定されなくてはその支出を受けられなかった。その基準を決めたのは内務省であり、実質的には神社を官社、共進指定神社、指定外神社に三分する最終的な社格の設定であった。

さらに明治41年(1908)には、総理大臣桂太郎の副署により「戊辰詔書」が発布された。これは「国民教化を健全化」するため、国民に対し、国家を隆昌に導き、皇祖皇宗の威徳を発揚するように命じたものである。これは国民教化の新経典として普及が図られ、全国の神社で「奉読」された。神社は国家主義のイデオロギーを強制する拠点となり、地方行政の運営にあたっては神社が最大限に利用された。

なお、全体的な傾向として神社は整理統合され減少したが、新たに創建され、しかも国家的な位置付けを持つ神社が出現した。それは、(i)近代天皇制国家のための戦没者を祀る神社(靖国神社、護国神社)、(ii)南北朝時代の南朝方忠臣を祀る神社(湊川神社)、(iii)天皇・皇族を祀る神社(橿原神宮、平安神宮、明治神宮)、(iv)植民地、占領地に創建された神社(朝鮮神宮、昭南神社)といったものである。これらは国家神道の教義を代表し天皇制を支えるものであり、極めて高い社格を持った。

ちなみに鹿児島でも、(iii)の類型として日向三代を祀る神社が霧島神宮、鹿児島神宮、鵜戸神宮として列格された。もともと日本には「天皇を神として神社に祀る伝統はなかったが、国民の間に天皇崇拝を定着させるために、天皇、皇族を祭神とする神社という新しい発想が具体化された」(p.190)のである。こうした新設の神社では、新設であるにも関わらず、ことさらに古式・古制が強調され、境内地も古くからの社叢であるかのように設えられた。国体の教義は、神代に淵源するものだと強弁することしか国民に強制する根拠を持ち得ないものだったからである。であるから、新たに作り出した儀礼や神社までもが、まるで悠久の昔から続けられてきたものであるかのうような錯覚を国民に与えた。

(4)ファシズム的国教期では、国家神道は国民生活の全てを支配した。神社は宗教ではないという建前は、各宗教勢力と軋轢を生んだが、満州事変の勃発を期に思想統制は加速度的に強化され、結局はいかなる宗教上の理由によっても、国家神道は拒否できないこととなった。さらに昭和14年(1939)、宗教団体法が公布され、これにより各宗教各宗派は半強制的に合併させられ、仏教は13宗56宗派が13宗28宗派に統合された。宗教団体法は「天皇制ファシズムによる宗教の統制と利用を完璧にするための宗教法であった」(p.204)。

さらに皇紀2600年を機に「神祇院」が設立された。これは神祇官の神祇省への格下げ後、70年ぶりの失地回復であった。この設立を機に神社行政は大幅に拡充強化され、遂行中の戦争は「聖戦」であるという侵略思想が鼓吹された。神道を国教とせよという主張も公然となされたが、皮肉なことに帝国憲法の「信教ノ自由」条項が防壁の役割を果たした。

こうして国家神道は絶頂を迎えたが、終戦によってGHQにより形式的には解体された。「神祇院が廃止され、国家神道に終止符が打たれた1946年2月2日は、日本の宗教史にながく記念されるべき日となった」(p.215)。しかし私的な信仰としては神社は規制を受けなかった。戦争中の神社関係団体がまとまって神社本庁が設立されたことで、国体の教義と神社の中央集権的編成は形を変えて存続した。

「紀元節」は「建国記念の日」と変わって復活し、神社に公的性格を与えようとする戦前回帰的な運動が開始されている。「広範な国民が、国家神道に主体的な関心をもち、その本質を確認することなしには、国家神道の復活を阻止し、日本の民主主義を前進させることは不可能」(p.ii)だというのが、著者が本書を書いた動機でもある。

また本書では、国家神道の歴史を縦糸とすれば、江戸時代から勃興してきた神道系の民間宗教の歴史が横糸として語られる。黒住教、天理教、金光教などである。これらは、江戸幕府の封建的宗教政策によって民衆の心から離れた仏教に代わって、現世利益や人間中心主義、開明性(男女の平等)を説くなど、人々の救済のために生まれた宗教であった。

それらの教義や神話は、神道に基づくものであったし、また表向きには政府に従属していた。しかし国家神道を絶対化していった政府は、いくら政府に従順であってもそれらを異端として扱い、異質な神話の存在そのものを不敬とみなした。国家神道のファシズム的国教期においては、 大本教に対する大弾圧が行われ、同教本部の全施設を破壊し尽くした。このほか、「ひとのみち教団」「ほんみち」なども弾圧を受けた。

こうした弾圧によってこれらの宗派は壊滅こそしなかったものの、神道が人々の素直な信仰心から発展していく芽が摘まれることとなった。断行された神社整理においても、多元的な伝統が断絶させられ、国家の都合によって画一的なものへと矯正されてしまった。国家神道の成立過程において、「神道」は強化されたのではなく、むしろ国家の都合で歪められ、削ぎ落とされ、画一化され、換骨奪胎され、人々の信仰心を受け止められるものではなくなっていた。

国家神道は確かに仏教やキリスト教、神道系の民間宗教を弾圧したが、最も激しく破壊し尽くされたのは、ほかならぬ「神道」だったのである。

国家神道を考える上での基本図書。


【関連書籍の読書メモ】
『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。
『国家神道』まで繋がる明治初年の宗教的激動についてはこの本が詳しく、しかも深い。

『国家神道と日本人』島薗 進 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/02/blog-post_23.html
明治維新から現在に至るまでの「国家神道」を概観する本。
本書は俯瞰的な視野を持ち、「下からの国家神道」運動(民衆が国家神道の強化を求めた運動)から皇室祭祀まで、小著ながら様々な角度で「国家神道」を再考する。


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