2020年7月13日月曜日

『日本宗教史 I, II』笠原 一男 編(その1)

教科書風にまとめられた日本宗教史。

本書は、各分野の第一線の研究者が分担して執筆した日本の宗教史である。本書の前にも、こうした試みは幾多にもまとめられているが、本書は特に「宗教信仰史、政治権力と宗教、倫理と宗教、日本人と民俗」などの新しい研究成果を踏まえて新鮮な角度から外観したものという。

I、IIで合わせて800ページを超えるものであり(それでも、各項目はかなり簡潔に感じる)、その内容を網羅的にまとめるのは困難なので、以下私なりに感じた部分のみを述べる。

まず、日本の宗教の歴史を振り返ると、例外なく時代の転換期には、宗教、中でも民衆宗教が複数誕生したと編者はいう。そして現代(出版時1977年)も、たくさんの宗教が信者の獲得にしのぎを削っている状態だ。日本人は宗教に何を託してきたのか、日本民族と宗教の関係はいかなるものか、それが本書を貫く視点である。

第 I 部 原始・古代の社会と宗教

仏教伝来前の日本の宗教については、非常に簡潔な記載である。弥生時代の祭祀や聖地はその後にはあまり引き継がれなかったのに比べ、古墳時代の祭祀や聖地はそのまま継続して発展していくことが多いという指摘が興味深い。どうも日本人の宗教意識は古墳時代くらいが画期となっているようだ。

仏教公伝、崇仏派と排仏派の争い、聖徳太子については、今から見るとちょっと古びた記載である。今では、これらは多分に伝説と作為があると見られているが、本書では史実として書かれている。

私があまり意識していなかったのが、奈良時代の山林仏教だった。奈良時代でも、深山に分け入って呪験力を得た修行者が、官寺や宮廷において祈祷に奉仕する場合が多かった。しかし彼らの存在は僧尼令から逸脱しており、正式な仏教者ですらなく(=私度僧)、厳重な禁断を蒙ってもいた。

私には、奈良仏教は「平地の仏教」であるというイメージが強かった。法隆寺、薬師寺、唐招提寺、東大寺、興福寺など、南都六宗=奈良仏教の大寺院は例外なく平地に作られているからである。しかしそれを補完するものとして、非合法的な山林仏教が栄えていたというのが、平安時代の新しい仏教の動きに繋がってくるのである。

平安時代の仏教は、本書では「山の仏教」と「里の仏教」の2項目で描かれる。「山の仏教」とは言い得て妙で、平安時代の仏教を代表する天台宗と真言宗は、言うまでもなく比叡山と高野山を拠点としたわけで、奈良時代の仏教が「平地の仏教」であるなら、平安時代の仏教は「山の宗教」なのである。

なぜ平安仏教は「山」を指向したか、それは「平地の仏教」が貴族と癒着し、仏教本来の精神性が失われたからであった。そのため都市と距離を置いた「山」を拠点として新しい仏教を構築しようとしたのが平安時代の仏教であったといえる。そしてその中心になったのが、最澄と空海、そして中国からもたらされた密教であった。

最澄は、受戒のたった三ヶ月後、比叡山に入る。その後最澄は中国に渡ったが、最澄に期待されたのは天台の総合的な教えというよりは密教であり、そのおかげで公認された。

また最澄は、法相宗の徳一との論争の中で天台の教えの独自性を明確化し、特に天台僧には「具足戒は必要なく、大乗戒(『梵網経』に基づく十重四十八軽戒)がふさわしい」として南都六宗との決別を宣言した。南都仏教の側では当然これを認めなかったが、最澄の死後、藤原冬嗣らの奏請によって勅許され、延暦寺の号が授与されるとともに戒の授戒が行われ、ここに天台教団は完全に南都仏教から自立したのである。

しかし天台宗は、世俗の権力とは徐々に妥協していった。摂関期に天台座主になった良源は、教団に入ってきた貴族の子弟を優遇するという門閥重視の教団経営を行い、天台宗を変質させつつも興隆に導いた。

一方の空海は、大学を中退した一介の山林修行者として出発。やがて入唐して最新の密教をもたらし、嵯峨天皇にも重用された。だが最澄とは異なり、空海の場合は南都仏教との関係は融和的であった。最澄は南都仏教教団から「大乗戒壇」設立反対の非難を受けて憂死したが、まさにその年に、東大寺内に灌頂道場=真言院が創設されたのはその象徴である。

ところが空海没後には、真言宗はゴタゴタが続いた。天台宗の場合にも、山門(延暦寺)と寺門(園城寺)の抗争があって必ずしも教団は一枚岩ではなかったが、比叡山が中心であることは揺るがなかった。真言宗の場合は、空海があまりにも偉大なカリスマであったためにその没後には収拾がつかなくなり、東寺と高野山という地理的にも離れた二大潮流が9世紀末まで争い続ける。10世紀には東寺がこの抗争に勝利して中心となったが、11世紀には仁和寺(広沢流)と醍醐寺(小野流)にまた二分され、流派が分裂していく。

しかもそこには、思想的な発展はほぼ何もなかった。真言宗は現世利益を追求する行法の大系になり、空海の精神は閑却された。それなのに一方で、空海伝説は加速していった。最澄はほとんど伝説化されなかったのに、空海は各地で霊跡を残したことになり大師信仰が確立。また高野山では空海がまだ生き続けているという伝説が生まれ、納骨の習慣が広まり広大な墓域が出現した。比叡山にはあまり墓がないのとは対照的である。

また平安仏教を特徴付けるのは、「山の宗教」であるということの他に、浄土教の大流行がある。浄土へ往生することが、この時代の宗教的な大目標になった。また、往生は思想というよりも、「実際に往生したこと」が人々を惹きつけ、そのための証拠として各種の往生伝が流行した。特に源信の浄土教思想(ex.『往生要集』)に代表される天台宗の浄土思想は次世代の仏教を形作っていく土台となる。

第 II 部 中世の社会と宗教

鎌倉仏教の旗手たち、法然、親鸞、一遍、道元、栄西、日蓮の6人は、一遍を除く5人が天台宗で学んだ。天台宗が新しい仏教の母体となったのである。対して、真言宗からは新しい仏教が全くといっていいほど生まれなかった(真義真言宗くらい)。真言宗は鎌倉時代には思想的には停滞していた。だが東国を中心に教勢は拡大。南北朝時代から室町時代初期にかけては真言教学が集大成していく。天台宗に絶え間ない思想の展開があったとすれば、真言宗にはそういう発展はなかった代わり、実践的な布教活動が展開された。

鎌倉仏教については、伝統的な(最新の研究成果を取り入れていない)描き方である。本書出版は黒田俊雄の「顕密体制論」が発表された直後であり、その成果を取り入れられなかった模様だ。よって現在から見ると本書の記載は鎌倉新仏教の生成発展に比重がありすぎ、当時の宗教界の大勢を等閑にしている感じがする(もっと「寺社勢力」のことについて紙幅を割くべきだっただろう)。

法然と親鸞についてはあまり接続を強調せず、どちらかというと独自性を強調した書き方。真宗については蓮如が重要視されているのがよかった。親鸞の信仰は研ぎ澄まされたものに完成していたが、親鸞は組織者としては全く一流ではなかった。親鸞の存命時にはその影響力は小さく、また弟子たちは四分五裂して好き勝手していたのである。死後発展したのも、親鸞の本流を次ぐ本願寺ではなく、亜流の仏光寺教団であった。

本願寺を発展させ、本流の面目を回復させたのは蓮如であった。蓮如は親鸞の信仰の本道を蘇生させるとともに、真宗の教えをわかりやすく説き、また門徒とは徹底的な平等・朋友の立場を貫き、服装の色までも気を遣い、人心の掌握に細心の注意を怠らなかった。さらに世俗の権力と対立せず、門徒には権力への服従を求めた。にも関わらず、この頃加賀一向一揆が起こって真宗の国が生まれたことは皮肉である。

時宗についてはけっこう詳しく書かれているのがよかった。興味深かったのは、託何(たくが)の『器朴論』である。時宗は、一遍が一冊の本も残していないので教義らしい教義がなかった。よって一遍の孫弟子の時代になると拠り所となる教義が必要になってきた。それで託何が書いたのが『器朴論』である。ここでは密教(真言宗)の即身成仏観から導き出された「この世が浄土」という思想が展開される。他の鎌倉仏教が天台宗的であるのに、時宗のみが真言宗的な教義を形成していくのが興味深い。

また時宗は、上人が遊行(全国を廻る)するのが特権であり義務だったが、これが時の政権に(少なくとも室町時代を通じ、戦国争乱の時でも!)かなり優遇されていたのが不思議である。遊行上人は関所の通過が自由で、乗馬や人夫を徴用する権利を持っていた。遊行上人の威光はかなり大きかったようだ。

禅宗については、臨済宗については教科書的な記述である(特に重点はなく簡潔にまとまっている)。曹洞宗については(当然であるが)道元が大きく取り上げられる。しかしその思想については意外とあっさりと扱っている。道元の次は瑩山紹瑾(けいざん・じょうきん)が教団を発展させた立役者である。瑩山紹瑾は、曹洞禅を密教化させ、また白山信仰など諸神仏の信仰を教義に組み入れて教義を時代に適合させた。また峨山韶碩(がざん・しょうせき)の超人的な布教活動によって、全国的に非常な勢いで曹洞宗が普及し、驚異的な発展を遂げたのである。

日蓮については、今までさほど注目していなかったが、通史によって他と比べてみるとその異彩ぶりが際立っている。他の鎌倉仏教は、基本的に中国から輸入された教義・思想に基づいてそれを発展させたものだが、日蓮宗の「南無妙法蓮華経」は全くのオリジナルだ。日蓮が三度の諫暁(かんぎょう=権力者への意見具申)をしながらも当然の如く黙殺され、災害や国難が続くのは正しい仏教信仰(日蓮の考え)が採用されないからだと怒り、不遇のままに世を去るまで、日蓮のドン・キホーテ的な戦いは続いた。

日蓮宗は、他宗排斥の強硬な姿勢があり、基本的には法華経のみを信奉する一神教的な性格が強い。これはもはや「新しい仏教」なのだと思った。しかし、日蓮没後わずか2、3年にして諸宗との協調的な気運が生まれてきた。法華経唯一主義では居心地が悪かったからであろう。そうして、諸宗との関係や師弟関係などによって高弟らは門流として分裂していき、統合されない門流の総括として中世日蓮宗が展開していくのである。

さらに、「三十番神(一月の一日ごとに守護神が宛てられた)信仰」が取り込まれるとともに、日蓮宗は京都の町衆に受け入れられ、天文年間(1530年代)には日蓮宗は京に大流行、町衆は日蓮宗によって京都を自治するようになる。しかしこの頃の日蓮宗は、日蓮が構想した「新しい仏教」ではなく、すっかり伝統的仏教の枠内に収まるものになっていたと言えるだろう。

また本書では、通史部分に加え、主に鎌倉仏教の旗手たちが女性の救済をどう考えたかという「女性と仏教」、神道理論の誕生(特に吉田神道)と修験道の小史である「中世の神道と修験」が掲げられている(以上第 I 巻)。

第 II 巻へつづく)


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