2021年12月30日木曜日

『第二の性 III 自由な女』ボーヴォワール著、生島 遼一 訳

『第二の性』、5分冊のうちの第3巻。

本巻には、「永遠の女性とは?」「ナルシスムの女」「恋する女」「神秘家の女」「自由な女」「結論」が収録される。原書では本巻が全体の最後の部分であり(翻訳の都合で原書後半の方が先に訳出された)、よって「結論」が『第二の性』全ての総括になっている。

また本巻冒頭の「永遠の女性とは?」は、本来は第2巻のまとめとして位置づけられる章であるが、分冊の都合により第3巻に収録されたものである。

【参考読書メモ】『第二の性 II 女はどう生きるか』ボーヴォワール著、生島 遼一 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/09/ii.html

第2巻では、女性の人生を辿りつつ女性が置かれた暗鬱な状況がこれでもかと列挙されたのであるが、「永遠の女性とは?」では、女性の<性格>がそういう状況によって生みだされたものであることが改めて詳述される。ことあるごとに男性は女性を劣ったものとして扱うが、それは女性がずっと「世界」から閉め出されおり、成長の機会を満足に持つことができなかったからだ。「世間は女を台所や寝室に閉じ込めてきながら、その視野展望がせまいといって嘆く(p.18)」のである。

女性は、自らの置かれた状況を改善する能力を涵養できないようにさせられているから、「男性にむかって挑戦できるような堅固な<反・世界>を自分達でつくることに成功しない(p.35)」。それどころか、女性は男性から虐げられていながら、女性同士で連帯することもなく、むしろ反目し合う。それは男性優位の社会で利益を得ている女性も多いからで、「こういう女性の空虚な傲慢さ、その絶対的な無能、頑固な無知は彼女たちを人類が生み出したもっとも不必要な、無能な存在にしている(p.50)」。

ボーヴォワールはこのように言うが、本書を読みながらこうした姿勢こそが女性運動を難しくする一因のように感じもした。「女にとっては、自分の解放のためにはたらくことしか、ほかにどんな出口もないのである。(中略)この運動はぜひ集団的でなければならない(p.51)」と呼びかけながら、ボーヴォワールは男に反抗しようとしない女を切り捨てているように見える。

次の「ナルシスムの女」 「恋する女」「神秘家の女」の3章は、厳しい状況に置かれながらもなんとか自己実現しようとする哀れな女の姿を描く(なお「自己実現」とした部分は、本書では「実存」とか「超越」とか、実存主義哲学の用語で述べられるが煩瑣なので単純化する)。

常に男の付属物にさせられようとする力を受けている女性が、それでも自己実現していくためには、自らを「特別なもの」にしつらえる必要がある。女は「ありのまま」では男社会に飲み込まれてしまうのである。そんな方途の一つが「ナルシスム」だ。これは文字通りの自己愛だけでなく、たとえば自分を「不思議ちゃん」にするといったことも含まれる。

「私って変わってるの」と言いふらし、自分は普通人と区別される存在だと思い込む。あるいは自分は世界で最も不幸な女性だと思い込むのも特別な存在になるための別の一手だ。こういう「異常な宿命に印された無数の女性たちに共通した特色は、自分がひとに理解されていないと感じること(p.64)」である。しかも彼女は自分しか見えていないのに、外の世界に評価されたいと望む。しかしその評価は十分に得られることはなく、「ナルシスムの女」は残酷なことに加齢によって凡庸な存在へと堕してしまう運命にある。

この章は、ボーヴォワールが毛嫌いするタイプの人間を容赦なく批判しているような内容である。「そりゃそうかもしれないけど、そこら辺で勘弁してあげなよ」と思うような辛辣さである。

次は 「恋する女」である。「彼女は自ら隷属を熱望することによって、自己の隷属を自己の自由の表現のように思いこもうと(p.81)」し、「恋が彼女にとって一個の宗教になる(同)」。愛する男性にその身を全て献げることは、神に全てをゆだねる信仰者のそれと等しい。「恋人の要求に応じることによって彼女は自分を必要なものに思うのである(p.93)」。これは最初のうちは確かに彼女の救済になる。ところが恋人に自分の存在を委ねることで、彼女は徐々に「自分」を失っていく。今の言葉でいえば「依存症」になる。

女は男の要求次第でどんな人間にも変わる。本来の自己が忘れられ、男に気に入るためにどんんどん要求に応えようとする。もちろんそれが恋人達に幸せをもたらすこともある。しかし男性に全面的に依存してしまった女の幸せが永続的であることは少ない。

まず、相手を偶像化するような恋愛は愛する男に絶対的な価値を与えるが、実際にはそんな価値を持った男はいやしないということだ。「あの男はあなたがそんなに愛するねうちのある人間じゃない(p.99)」と周りの人にはすぐわかる。さらに、男の方では暴君になるか、逆に自分に全面的に依存する女を疎ましく思うようになる。

結局、「恋する女の不幸の一つは、その恋愛自体が彼女をゆがめ、彼女を滅ぼしてしまうこと(p.117)」なのだ。ボロボロになってしまった女をもはや男は愛すことはない。「捨てられた女はもはや何物でもなく、何物ももっていない(p.119)」ということになる。

もちろん、男の方でも熱烈な恋愛に身を滅ぼすことはある。しかし男の場合は仮に女に依存していたとしても、現実の世界への足がかりが常に用意されているのに対し、女が恋に身を滅ぼした場合は、「社会復帰」が非常に難しいという事情がある。

本章における著者の主張は極めて明解である。それは、依存的な恋はよくない、ということだ。そして依存的でない「真正の愛は、二つの自由が互いに相手を認めることの上にうちたてられ(p.120)」るということなのだ。

これまでの二つの事例は、自己・恋人へいれあげる女性であったが、これが神に対するものになると「神秘家の女」ということになる。女性は現実の世界で自己実現ができないから、非存在の世界に赴くわけだ。こういう女性は単に度を超して敬虔なだけでなく、神の幻覚を見、恍惚とし、神と対話する。そして病人や貧しい人に対するマゾヒスティックなまでの奉仕に幸福を感じる。そして自分が神に選ばれた女であると思い、極端な場合には教派を起こす場合もある。本章は比較的短く、「ナルシスムの女」 「恋する女」のような辛辣な批判はないものの、女が神にいれあげるのは、結局は女性が現実世界で存分に自己実現できないことの埋め合わせであるとボーヴォワールは喝破するのである。

「自由な女」では、これまでの暗鬱な調子とはうって変わって、このように厳しい状況の中でも自己実現を果たした女、そしてそうなるためにはどうすればよいのかが力強い調子で語られる。

まず、女性は経済的に男性と平等でなくてはならない。男性と同じ条件で労働に参画し、正当に評価され、誰にも依存せずに自立した暮らしを送れるようにすべきだ。それが、女性が自ら男性に依存するようにしむけることで存立している旧システムを破壊する第一歩である。

そして性的にも女性は男性と対等でなければならない。今の社会で自立した女・自由な精神を持つ女は、自分の性を拒みがちだ。なぜならそういう女は「もっぱら男を誘惑することしか考えていないおしゃれ女(p.145)」と自分を同じ種族だとは見なしたくないからだ。しかし性を拒否することもまた自分を不具にすることになる。だから「男がもし奴隷女でなく、自分と対等の者を愛する気になるなら、(中略)女も女らしくすることをいまほど気にすることはなくなる(p.147)」はずだ。

ただし女性が男性と対等になっても、「母性」だけは女性だけが引き受けなくてはならない。職業を持つ女性には、自ら子供を持たないことを選ぶ人もいるが、それ自体も女性には負担である。仕事と母性の最適なバランスを見出すことが難しいのは事実である。

そして今(※約70年前のフランスで)、どうにか自立した「自由な女」であろうとする女性も出てきている。しかしボーヴォワールには、彼女らの苦闘は生ぬるく見えるようだ。多くの働く女性は、男性優位の社会を所与のものと考えて、いわば「控えめに」仕事する。男性の世界を乗っ取ろうとはしない。そして「自分は女性なんだから、一流の仕事ができなくても仕方がない」と考えて貪欲にトップを目指さない。もちろんそれは、いわゆる「ガラスの天井」があることを理解しているからだし、いくら仕事で業績を出しても家庭での義務(家事や育児)から免除されるわけではないという事情があるからだ。

文学の世界を考えてみても、ドストエフスキーとかスタンダールのような偉大な作品を女性はまだ生みだしていない。それは女性作家は、ただ自己を確立するということのために多大なエネルギーを費やさねばならず、それ以上の冒険に行くまでに力尽きたからだ、という事情もある。しかし昔に比べれば、女はずっと自己を解放することのできる条件が整ってきている。もはや女性も、スタンダールに比肩する作品を生みだしてもよい頃だ。芸術でも仕事でも、あらゆる分野で女性は男性と同じ高峰に登って仕事ができる能力があるのだ。

ではなぜ未だに女性はそういう業績を生みだしていないのか? それは、女性自らが、無意識に己に制限を加えているからだ、というのがボーヴォワールの考えだ。長年にわたって「第二の性」の立場に甘んじてきたから、女性は本当は自分が男性と同じ能力があるのだと信じ切ることができないのだと。

世界を変えなければならない、と考えるボーヴォワールにとって、男が作った世界から一歩も出ないことは真の意味で「自由な女」ではない。女性も男性と等しく世界を創造する必要がある。しかし「彼女がまだ人間らしい人間になろうとしてたたかわねばならぬかぎり、創造者となることはできない(p.180)」。だから、まだしばらくは「自由な女」は生まれないかもしれないが、「いまこそ女自身のためにもすべての者のためにも、女にあらゆる機会を開いてやるべき時であること、それだけはたしかなことだ(p.191)」

終章の「結論」では、これまでの様々な議論が別の形で繰り返される。しかしその主張はやや意外な展開を見せる。「男の世界への反抗」を呼びかけるのかと思いきや、むしろ男女が仲違いするのは必然ではないとし、互いに相手を対等だと認め合うことで今ある悶着が片付くのだと述べる。本書はあくまで女性差別を告発するものであり、理想の社会をどうやって実現するかという方策を述べるものではない。だから、男女が対等なものとなったら、社会や個人(男も女も)が抱えている多くの問題が解決するだろうとは予言するが、そこへ至るまでの道筋は語らない。

ただし、本巻の結語でボーヴォワールはこう述べる。「現実世界のまんなかに自由の支配を到来させることが人間に課された仕事だ。この崇高な勝利をかちえるためには、何よりもまず、男女がその自然の区別をのりこえて、はっきりと友愛を確立することが必要である(p.216)」と。すなわち必要なのは女性による「男の世界への反抗」ではなくて、まず人間として互いを理解する態度だというのである。これは、その後にフェミニズム運動の内部で起こる様々な軋轢を予言しているようで意味深な結語であると思った。

全体を通じ、女性を称揚するのではなく、むしろねじくれた女を執拗に描いているような感じを受けた。そしてねじくれた女を描けば描くほど、彼女らがねじくれなければならなかったのは、女性の天性ではなくて、彼女らが置かれた状況がいかに矛盾に満ちたものであるかを痛感させられる仕掛けになっている。そしてその矛盾を解消するのに必要なものは、闘争ではなくて友愛だと結論づけたのが印象的だ。実際には闘争でしか不平等は解消できないとしても、この長大な告発の書がそのような結論に行き着いたこと自体が興味深い。

女性運動の預言の書。

 

【関連書籍の読書メモ】
『第二の性 I 女はこうしてつくられる』ボーヴォワール 著、生島 遼一 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/07/blog-post_31.html
この巻では、女性が生まれてから成年になるまでを取り扱っている。

『第二の性 II 女はどう生きるか』ボーヴォワール著、生島 遼一 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/09/ii.html
この巻では、成人してから亡くなるまでの女性の生活が活写される。


2021年12月28日火曜日

『ガメ・オベールの日本語練習帳』ジェームズ・フィッツロイ 著

珠玉のエッセイ集。

著者のジェームズ・フィッツロイ氏は、「大庭亀夫」、「ガメ・オベール」(いずれもgame overのもじり)の筆名でブログを書いてきた。今は閉鎖され閲覧することはできないが(※)、「十全外人ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.〇」というタイトルだったと記憶する。

著者は英国生まれで、現在(本書刊行時)はニュージーランドに在住。若くして数学を修め、おそらくはその能力による発明? によって大金を得、企業経営しつつ投資家として暮らす、という輝かしい経歴を持つ。しかもその上、超弩級の知性を持っており、古今の書物を跋渉した博覧強記の知識人であると同時に、数か国語を操る多言語人でもある。

そんな多言語の一つが日本語であり、ブログのタイトルに「日本語練習帳」が冠されているのは、日本語の練習のために書かれたもの、という形式をとっているからだ。本書はそのブログから44編が選ばれて掲載されている。

このように書くと、多くの人はエリート成功者が上から目線で世の中を斬るような内容を想像するかもしれない。しかし実は真逆も真逆で、この超弩級の知性を持ったニュージーランドの詩人は、最も弱い立場に置かれた人間に寄り添って語り掛けるのである。

いや、「知性」とは、もともと、社会を訳知り顔に解説するためのようなものではなくて、ぎゅっと握りしめた掌の中にある「やさしさ」そのものなのだと、本書を読んで気づかされる。

その内容は、人生に打ちのめされた人間への言葉、鮎川信夫と岩田宏を中心とした日本の現代詩、太平洋戦争とその後の近代史、言葉について、この社会から抜け出すための助言など…で構成されている。どれもこれも、深い洞察と見聞や経験に裏打ちされているだけでなく、日本社会を外から見ている人ならではの視点がとても新鮮である。このように日本社会を理解している「外国人」が他にいるだろうか。

しかも本書が驚異的なのは、日本語を母語とする人が書いたものではないにも関わらず、その日本語がとんでもない高みに達していることである。これほどの高みに達した日本語を書いた人は、私の知る限りでは幸田露伴、南方熊楠くらいだ。単なる名文ではなく、言語そのものが我々をどこかに連れて行ってくれるような天衣無縫さがあるのだ。

さらに驚くべきことは、表現上の工夫が違和感なく取り入れられている、ということだ。例えば本書には、読点で蜿蜒とつながれた長い長い文が時おり登場する。こういうのは、近頃は悪文とされるに違いない。しかし幸田露伴の文章にそういう長大な文が登場するように、あるいは源氏物語が途切れのない、どこで息継ぎしていいかわからないような文だらけであるように、日本語の特性が生かされた文章は、決まって長大な文で構成されているものである。その他にも、現代詩のような文章もあれば、手紙風文章、改行が多用された文章など、いろいろな工夫がちりばめられており、「日本語練習帳」の名に恥じぬ多彩さである。それと同時に、それらが単なる表現上の工夫であるだけにとどまらず、ぴったりと内容に合致し、現代的な軽やかな表現となっているのが特徴だ。

もはや本書の出版は、日本語の歴史におけるひとつの事件だ、とさえ思う。このような日本語が登場したことは長く記憶されるに違いない。私も一人の日本語を使う人間として、この日本語には嫉妬せざるを得ないのである。

ところで本書は、どん詰まりにある人に一縷の光を投げかけるような「救い」が随所にみられる。だから、弱り切った人にこそぜひ手に取ってほしい。私自身、出版前に予約して手に入れたものの、実際には読まないで取っておいて、原因不明の肋間神経痛で仕事ができなかったときに本書を開いた。そういうときに寄り添ってくれるのが本書である。上述の説明でもしかしたら誤解された方もいたかもしれないが、本書に難解な部分は全くなく、病床にある人に、陽の刺す窓のカーテンを開けてくれるような本なのだ。

最高の「知性」による名編中の名編。

※現在は著者による別のブログが公開されている。
ガメ・オベールの日本語練習帳ver.7
https://james1983.com/

★Amazonページ
https://amzn.to/491RXKB

2021年12月20日月曜日

『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著

島津義久・義弘を中心とした歴史書。

本書は、戦国時代末期から江戸時代の当初を記述の対象とし、当時の島津家の当主である島津義久、その弟の義弘、義弘の息子忠恒の動きを中心にして記述した歴史書である。

彼らの活躍した時代、島津家は破竹の勢いで九州をほぼ統一する。豊臣秀吉に下った後、関ヶ原では西軍に参加して外様となったものの外交によって本領を安堵されて薩摩藩を確立するなど、激動のまっただ中にあった。そんな中で、巷間に流布されている説では、義久・義弘は固い兄弟の結束によって難局を切り抜けてきたとされてきた。

しかし実際には、兄弟の方針はバラバラで、しかも家臣団を統制することができない状況にあり、「強大な戦国大名」というイメージとは裏腹に非常にあやうい状態であったのである。本書は、そのあやうさを一次史料に基づいて丁寧に描くもので、特にこれまであまり注目されず伝記も明治以降出版されていない島津義久を丁寧に描いたところが新鮮である。

「第1部 戦国期の義久・義弘兄弟」では、島津家が三州(薩隅日)統一し、続いて九州をほぼ制圧するが秀吉に下るまでが記述される。第1部はほとんど、戦がいかにして起こり、それを収めたかという記述である。そこで強調されていることは、当主義久は、重臣談合——重臣たちの話し合い——の結果を尊重し、基本的にはそのまま承認して意志決定していたということである。つまり義久はボトムアップ型のリーダーだった。

そして島津家の行動原理は、「自他之覚」「外聞実儀」を重視するものだった。つまり「外から見てどう思われるか」ということをいつも気にしていたのだ。九州統一戦も、実は最初から九州を統一しようと思ってやったのではなく、あちらを倒せばこちらが頼ってくる、こちらを助けるとあちらと戦わねばならなくなる…といったように、行き当たりばったりで対立と和平が繰り返されて結果的に成し遂げられたもののようだ。ちなみに義久自身はほぼ常に慎重派・和平派で鹿児島を動かなかったのに対し、義弘は血気にはやり各地を転戦していた(といってもこの頃は家臣の立場なので自分の意志のみで転戦していたわけではない)。

この九州統一戦の中で、一つの重要な決定がなされる。義弘を当主の「名代」「守護代」とするというものだ。これは、島津家の領土が拡大したことから鹿児島にいる義久だけでは意志決定が遅くなったこと、義久に後継者がなく健康が勝れなかったことなどからなされた決定である。こうして義久・義弘の両頭体制が敷かれることとなった。ただ、この二人はお互いに尊重し合ってはいたが、戦略を共有していたとはいえない。豊臣秀吉との決戦においても、義久は一刻も早い講和を望んでいたらしいが、義弘は戦端を開き敗北している。こうして島津家の九州統一戦は終わりを告げ、義久は出家して秀吉に恭順の意を表した。

「第2部 豊臣政権との関係」では、朝鮮出兵への対応と秀吉の死までが記述される。島津氏は秀吉に下り、交渉の末に本領を安堵されたが、全てが当主義久に帰属したのではなく、直接に秀吉の家臣となったもの(御朱印衆)も多かった。御朱印衆の場合は秀吉から直接所領を宛がわれたため、彼らは義久の家臣であると同時に秀吉の家臣でもあるというねじれ状態になった。

義弘も御朱印衆となり、豊臣政権と接近していく。義弘は「両殿」ではあったが、家臣達は義久を当主と見なしており鹿児島では基盤が脆弱だった。しかも、朝鮮出兵において派兵された義弘は鹿児島からろくな補給を得られないまま孤立し、鹿児島への不信を強めていく。そうしてむしろ豊臣政権をバックにして鹿児島を動かすしかないと感じていくのである。

それでなくても強権的な秀吉の力を利用してのし上がろうとするのは御朱印衆にとっては自然なことだった。石田三成とその家臣安宅秀安に取り入り、豊臣政権との連絡役を買って出て家老から大名的な存在にまでなったのが伊集院忠棟であり、忠棟は三成の手代となって次期当主として義弘の息子島津忠恒を指名させるとともに太閤検地を主導した。三成の太閤検地とその所領分配は従前の領地を大きく入れ替えるもので、特に義久を鹿児島から追い出して義弘を代わりに据えようとし(しかし実際には義久はそれを遠慮して本拠地を帖佐とした)、さらに忠恒の所領を組み込んで、鹿児島で義久[浜之市]・義弘[帖佐]・忠恒[鹿児島]の三分割(三殿)体制が出現することとなった。

一方、義久は一貫して豊臣政権とは距離を取り、家臣団の再編成と信頼の回復に努めると共に豊臣政権の内政干渉を無効化しようと試みた。例えば太閤検地において分配された領地を旧来の領地割に戻そうとしたり、上知された(取り上げた)寺社領を戻そうとしたりといったことである。義久は明らかに政権の命令をのらりくらりとはぐらかそうとしていたが、それでも強制的に排除されることがなかった要因として、義久が琉球とのパイプを独占していたらしきことがあるようだ。豊臣政権は島津氏の代表を当主義久ではなく義弘としていたのだが、こと琉球との外交に関しては義久を経由しているのである。

「第3部 庄内の乱と関ヶ原の戦い」では、徳川幕府の樹立と薩摩藩の琉球侵攻、そして後日談的な義久・義弘の老後が記述される。先述の通り、忠恒は伊集院忠棟を通じて石田三成に取り入って家督相続を確かなものにしたが、あろうことか伊集院忠棟を茶会に招いて斬殺する。伊集院忠棟は、薩摩の太閤検地を主導してただひとり大幅な領地の加増を受けており、豊臣政権の力をバックにした専横が多くの家臣から恨みを買っていた。しかしながら彼を殺害することは公然とした石田三成への反逆であった。忠恒は直ちに蟄居させられたが、幸運なことに石田三成が失脚しその罪がうやむやになった。

しかしそれでは伊集院一族は黙ってはいられない。こうして島津家への反乱「庄内の乱」が起こった。忠恒はこれを鎮圧しようとしたがなかなか手こずった。忠恒は家臣を未だ統制できておらず、戦のセンスもなかったのである。

伊集院忠棟の誅殺は島津家として計画したものではなく突発的なものだったようだが、石田三成=伊集院忠棟への領内の反発が大きかったのは事実であり、京都に在番していた義弘も徳川家康について伏見城の警護を命じられていた。ところが関ヶ原の戦いが起こると、義弘は行きがかり上西軍に参加する。手勢の少ない状態であった義弘は本国に増援をお願いするが、反三成で合致していた国元の義久・忠恒はこれをほぼ無視。義弘を見捨てたのであった。

結果的にはこの判断が島津家を救った。島津家は明らかに西軍に参加しながら、義久・忠恒は「西軍へ参加したのは義弘の独断で島津家としては家康に従っていた。義弘も参加したくて参加したのではない」という理屈で押し通し、なんと本領の全ての安堵を受けるのである。なお、徳川政権と島津家の和平に当たっては、義久の上洛と謝罪が一つの焦点になっていたことが面白い。豊臣政権においては義弘が島津家の代表として扱われていたが、徳川政権になると義弘が西軍に参加したためもあり、再び義久が主役になってくるのである。

しかし義久はなかなか上洛せず、最終的には一度も上洛しなかった。どうやら富隈衆(義久の家臣)には、徳川政権と徹底抗戦を主張するものがいて、義久はそれに配慮して上洛ができなかったようだ。あまりにも義久が動かないため、家康の方が逆に下手になっていく感じが興味深い。普通なら逆心有りとして怒りそうなところである。そしてこの交渉中に忠恒へ家督が継承され、当主となった忠恒の上洛によって和平(本領安堵)と義弘の赦免が実現するのである。

さらに忠恒は、これまでほとんど軍功がない弱みを克服するためもあってか、琉球侵攻を計画する。先述のように琉球関係は義久が独自のパイプと権益(朱印状発給の権利)を持っていたのだが、それを忠恒は奪って琉球侵攻を徳川政権に認めさせ、また実際の侵攻にあたっては大きな戦いなくあっさりと琉球を制圧して属国とした。名実共に島津家の家督は忠恒に移ったのである。

本書は全体を通じ、こうした歴史の動きの背景にある義久・義弘の人間性に着目しているところが面白い。義久は鋭い大局観を持ったリアリストであり、大きな方針を示して細かいところは家臣たちの意志を尊重するリーダーだった。一方で義弘は上から示された方針を遮二無二貫徹するタイプで、情に篤く義理堅く多くの人から信頼された。同時に家臣や息子にやたらと細かく指示を下したり細かいことで叱責を加えるようなところもある、義久とは真逆の人間だったと言える。戦国末期にこの正反対の名将が対立しつつもバランスをとって島津家を支えたことが、難局を乗り切れた一因であったという。

戦国末の薩摩の歴史書としては、現時点で最良唯一の平易な良書。

 

2021年12月9日木曜日

『江戸の女』三田村 鳶魚 著

江戸の性風俗を述べる本。

著者の三田村鳶魚(みたむら・えんぎょ)は、明治生まれの江戸文化・風俗の研究家である。本書は、江戸時代の女性研究の嚆矢であり、当時の随筆・文芸作品などから女性の在り方を探った先駆的作品だ。

江戸には男が多く女が少なかった、とよく言われる。だから男は女を求めて遊郭に足繁く通ったのだと。しかし実は、男女比がひどく偏っていたというわけではない。それよりも重要なことは、江戸には江戸詰と呼ばれる出向の男が多かったということだ。これは妻子を残して江戸の藩邸などで働く今で言う単身赴任である。女の方も、江戸に奉公に出向くことは多かった。つまりフリーな(?)男女が寄せ集められていたのが江戸の町であった。その場限りの色恋へと傾いていくことは自然の流れだったのである。

とはいえそれは、江戸の世界の半分でしかない。なぜなら江戸は武家の世界と商人(町家)の世界がはっきりと二つ併存していたからだ。だから江戸の文化・風俗を見る場合には、武家と商人をくっきり分けて考える必要がある。

武士の世界には「号令結婚」が行われた。これは家の命令によって結婚させるものである(命令だからお見合いもない)。上級武士(国主、城主、一万石以上等)になると結婚に将軍の許可も必要とした。こういう次第であるから、一般の武士は婚礼を挙げるということも少なかった。結婚が「人事」の一種なので、披露の必要がなかったからだ。結婚は「取引」だったのである。ちなみに最も早くには延宝8年の『名女情比(めいじょなさけくらべ)』で恋愛結婚が唱えられているが、色も恋もない号令結婚でも大抵は済んでいたようである。

町家の方ではそういう窮屈なやり方は行われなかったが、若い男女の自由になるというのでもなかった。婚姻という人生の最も基本的な要素が人事として行われていたことは武家の江戸風俗の根幹を作ったようである。

江戸の男女の仲では(特に女性にとって)「情け」ということが重要だった。先述の『名女情比』でも情けが大事だ——人に想いを懸けられたらそれを無下にするのはよくない。たとえ自分に夫があっても——というようなことが述べてある。女は貞節が求められる、ではないということは、むしろ女が積極的に男を選び、おのれを高くする態度を生じてきた。情け重視のゆきつくところ皮肉なことに悍婦・驕女がつくり出されてゆくのである。 

だが実際には寛保の頃から姦夫姦婦(不倫)は男女とも死罪だった。しかしこの罪は犯した方ではなく犯された方にとって恥なので、この法令は厳格に執行されることはなく、むしろ穏便に済まそうという風を生じた。よって間男が流行し、ほとんど放っておかねばならぬなりゆきとなったのである。

そして江戸の人間は泰平に狎れて、次第に自重とか忍耐とかいうことは忘れ、ただ快楽を求めるようになっていく。規制と威厳の箍に嵌められていた武家の生活が緩んで自堕落な暮らしになる。そして町人は生活のモデルを芝居者や遊女の方においてより自由にやってきたところが、武家はそれに引き寄せられて真似するようになり、生活風俗において武家と町家の境が溶け合ってくるのである。特に文化・文政の頃になると姿や風俗が武家らしくなくなって町家の方がお手本になった。幕府が亡びるよりずっと早く、武家の根性が亡びた。それは一方では堕落であるが、無意味な規制からの「解放」の面があったことも否めない。そこには素朴な人間中心主義の萌芽もまた認められるように思う。

そういう変化が窺われるのが看板娘の扱いだ。商家では店先に女を出さないのがしきたりであったが、宝暦頃には看板娘がおかれるようになった。これはいかがわしい商人として軽蔑される風があったが、文久頃になるとそれが珍しくないようになる。

では看板娘をいかがわしいと思わせるくらい江戸の女は奥ゆかしかったか。それが周知の通りそうでもない。遊女ばかりでなく、料理茶屋にいた踊子も売笑行為を行っており、そのために料理茶屋は盛況した。踊子たちにとっても、それは当然金になったばかりでなく売笑行為を通じて大名に抱えられるという「出世」がありえた。大名の妾になって女の子を生めば「御腹様」、男の子なら「御部屋様」になってとんでもない出世になり、場合によっては親にまで扶持が出て生まれもつかぬ武士に取り立てられることもあった。

男女の道は公然と金儲けのために使われて、遊女と素人の区別が曖昧になってくる。素人も素人らしくせず、公然と売笑を行うようになり、特に安永・天明度からは、専門の遊女の方もだんだん遊女らしくせず「愛嬌がある」「ういういしい」とする方が喜ばれるほうになった。遊女と素人を分けていた社会規範が失われていったからだ。こうしていよいよ性は紊乱していく。

ついには亭主が女を買えば、女房も負けずに役者を買う、というようになった。元々日本は一夫一婦制ではないので、一人に義理立てしなくてはならないというものでもないし、「号令結婚」の場合はそもそも愛情もへったくれもなかったのである。お互いの都合で一緒になっているだけの夫婦であれば、互いに婚姻の利益を受ければそれでよく、色恋の方はお互いに楽しめばよろしいということになってきた。

こうなると女性は容色を維持することが重要になってくる。情人に大事にされるためにはやはり美しくあることが一番だ。子孫を残すなどどうでもいいので、避妊や堕胎が横行し、一時の快楽の方が重視される。子どもを産んだ場合も乳母を使う。授乳すると容色が早く衰えるからである。しかしどうしても容色は衰える。そうなってから離縁されてはかなわない。そこで持参金というものが重要になってきた。

諸道具・持参金を返還した上でなければ離婚はできないので、金の力で妻の立場を保護したのである。ところが多くの持参金が結婚につきものになると、今度は持参金目当ての結婚が横行した。元々、結婚が人事の一種であってみては、結婚が金目当てになっていくのも当然だった。そして正徳・享保あたりには、嫁入り支度・嫁入り衣装が凄まじいことになった。そうした豪華な道具を揃えることが娘の頼りになったからである。

このように男女の道が紊乱したことが幕府衰亡の一因ではないかと著者は言う。「男女の道が紊れた結果、遂に武家を破り、武家を倒すに至った、武家がなくなったから、幕府も倒れたのだ、という見方は、従来誰もしておらぬように思う。これは是非考えてみなければならぬことであります。(p.221)」

ところで、男女の道が売買取引になってしまうと、逆にプロっぽくない女が好まれることになる。江戸では「水茶屋の女」(今でいえばカフェ店員といったところか)が流行した。値札の付いた遊女より、値札のない素人女の方が却って高くついたという。そのため水茶屋が江戸では繁盛することとなった。また、どこそこの誰が綺麗だ、という評判は浮世絵にも取り上げられ、まるで役者のような扱いになった。

もう一つ、女の生きる道として重要だったのが「下女」である。本書では詳しく「下女」の在り方を考証している。「下女」たちは、身分の低い家柄の女子がつとめていたというよりは、田舎から出てくる働きものの女性であった。当初は農閑期だけにやってくる季節労働者であったが、やがて「下女」が彼女らの生きる道になって渡り者になった。これは今で言えば非正規労働者みたいなものではあったが、需要が大きかったので給金は時代が経るにつれて上昇しており、また江戸の暮らしに慣れて次第に驕慢の風を生じてきた。

化政の頃には、小身の武士の妻女などは、服装の上では下女と見分けがつかないようになっていたという。なお下女は決して出稼ぎではなかった。それは、主人の家の風儀を学び、将来の結婚のために必要な知識や経験を得るということも目的だった。大きな家の女中などは、むしろ田舎から仕送りしてもらって勤めるというような場合もあったようである。つまり下女は女性にとっての一種の教育の場だったのである。

この他本書では、「麦湯の女」「女巡礼」「囲い者」(月々いくらで契約する妾)について解説されており、特に「囲い者」は短いながら江戸の様子の移り変わりを如実に示すものとして面白く読んだ。

全体を通じて、本書は江戸の女の全体像を体系的に示すものではないながら、次々に興味深い話題が提出されて、その中からボンヤリと当時の女性像が浮かび上がってくるような仕組みとなっている。それは、虐げられていただけともいえないし、著者が強調するように「驕慢」ともいえないように思う。

後の研究によって、江戸時代の女性史は修正され、今では本書で述べられる若干一面的な見方はされなくなっている。しかし本書は、なんでもないような人々の風俗を等身大に見つめる手法によって、当時の人の暮らしや考えを非常に身近に感じることができる。江戸時代の性風俗というと、とにかく「芸者」と「遊女」のファンタジーを思い描くのであるが、本書はそういう単純化をしていないのが先駆的だと思った。

江戸時代の女性研究の古典。


2021年11月21日日曜日

『日本茶の自然誌―ヤマチャのルーツを探る』松下 智 著

茶の原産地と日本への伝来について述べる本。

著者の松下智は茶の原産地研究の第一人者である。本書は100ページに満たぬ小さなブックレットであるが、著者のこれまでの研究が簡潔にまとめられている。

著者の研究キャリアの出発点となったのは、茶の原産地はどこかという昭和28年に提議された問題で、特に日本には「ヤマチャ」と呼ばれる自生の茶があったことから、渡来説と自生説が対立していた。著者は日本の「ヤマチャ」研究に着手して日本各地の産地に足を運び、10年を要して「日本のヤマチャは中国から渡来した茶が自生化したもの」との結論に達した。

その時は中国は国交自由化していなかったため原産地調査はできなかったが、その後自由化されて著者は西双版納(シーサンパンナ:雲南省南部)だけでも9回も訪問して茶の原産地と思われるところを特定した。本書は、そうした一連の研究を一般向けにまとめたものである。

そもそも茶は、東アジアの照葉樹林帯の本来的な構成植物ではないようだ。茶は照葉樹林文化圏において広範囲で焼畑植物として栽培されていたが、それは自然に任せた栽培ではないのである。茶の木自体は本来山地(高山性)の植物なのだ。

ヤマチャは暖地に多いが特に九州山地に多く、山奥であっても消費地に運んでいけるところに生育している。これは茶が人々の自家用で栽培されていたというより、最初から商品作物として栽培され、それが自生化したことでヤマチャが生まれたのではないかということを示唆するのである。また遺伝的にもヤマチャは中国の品種と等しい。このような状況証拠を積み重ね、著者は「日本に茶の原産地は認められない」と結論づけた。

では茶の原産地はどこか。著者は中国・東南アジアを調査し「茶は雲南省南部の山中に原産したが、その地方に住んでいた人々は茶の木を利用するということはなく、漢文化がこの地方に及んでから茶の利用が始まった」と考える。少数民族の茶の栽培と利用、茶の遺伝的多様性(葉っぱが大きな大葉種とか高木性の茶の木、逆に小さな茶の木などがある)などを調査した結果である。

また茶の原産地問題を考慮するにあたり、ベテルと呼ばれるものが取り上げられる。これは「アレカヤシ(ビンロウジュ)」 の実をキンマの葉に石灰を塗ったもので包んで口にする古くからの嗜好品である。ベテル(檳榔)文化圏と茶の文化圏が雲南あたりで重なり合っていることは注目される。雲南あたりも元来はベテル文化であったものが、茶の効用を知り飲茶へと変化していったことが予測できるからだ。

こうして生まれた茶の文化は、どうやって日本まで到達したか。本書では唐代から宋代の「華中・江南ルート」(抹茶)、明代から清代の「華南・閩南ルート」(蒸した茶を揉む煎茶の製法)が簡単に検証されている。しかしながら、中国側の事情には詳しいものの、日本側のことについてはちょっと手薄な印象であり、概略的な説明である。ちなみに、このあたりは日本側資料を詳細に分析した神津朝夫『茶の湯の歴史』がずっと参考になる。

最後に本書では日本の茶文化の成立について語っているが、高尚な「茶の湯」ではなくて、どちらかというと僻地に残った古い茶の製法や飲み方について述べている。茶は「タンニンの渋みを味わうもの。茶の他に渋みを味わう食材はほとんどない」という指摘は、簡単ながら頷くところ大であった。柿にはタンニンが豊富だが、柿の場合は渋みを抜いて食べるのでタンニンを味わうというのは日常生活では茶だけかもしれない。

なお、より詳細な茶の原産地研究については、その後『茶の原産地を探る』として出版されている。

茶の原産地についての著者の半世紀にわたる研究が簡潔にまとまっている本。

 【関連書籍の読書メモ】
『お茶のきた道』守屋 毅 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/11/blog-post.html
お茶の起源をめぐるフィールドワークの記録。西双版納の旅行記は茶の原産地の記録として面白い。

 

2021年11月17日水曜日

『お茶のきた道』守屋 毅 著

お茶の起源をめぐるフィールドワークの記録。

著者はお茶の研究者ではなく、日本文化(芸能や民俗)を専門とする国立民族学博物館助教授(当時)だ。しかしお茶の起源について興味を持ち、機会を捉えて中国や東南アジア等に「観光」に出かけていく。観光といっても実態はフィールドワークに近い。本書はその旅行記をまとめたものである。

「第1章 茶の原郷を訪ねて」では茶の原産地と考えられている西双版納(シーサンパンナ)、四川に赴く。シーサンパンナとは雲南省の最南部、ラオスとの国境に接するところでタイ族の自治区である。ここは長く外国に閉ざされたところだったが1979年に外国人が訪れることができるようになったため、著者らはここを訪れる。ここでは、「茶樹王」と呼ばれる野生の大茶樹(野生とはいいつつも、かつて栽培されていたものが野生化したもの)、焼畑による茶園の造成(茶は焼畑の植物であるという性格が強い)、プアール茶の栽培と販売の様子などを見ている。ここには遺伝的にも、利用的にも多様なお茶が存在している。

茶はシーサンパンナで生まれたが、それを「文化」にまでしたのは四川である。四川では大まかに緑茶、紅茶、そして「辺茶」が作られている。辺茶とは、辺境向けの茶であり、チベットや青海省へ運ばれていく。これは長い距離を輸送するため、レンガ状(楕円形もある)に固められた茶であり、本書ではその製法を詳しく紹介している。なお、固められたお茶をより広く総称して磚茶(緊圧茶)と呼ぶ。 

「第2章 <たべるお茶>をもとめて」では北部タイとビルマに赴く。食物の歴史を考えてみると、茶が最初からお湯で煮出して飲むものだったとは考えがたい。茶もその起源においては食べるもので、それが発展して飲み物になったのだろう。と考えると東南アジアにある「ミエン茶」はその起源的形態に近いのかもしれない。ミエン茶は、ひとつまみのミエン(茶葉)に塩を加えてくちゃくちゃ噛み続けるガムみたいなものである(ただし最終的には飲み込む)。時にはナッツや生姜、肉や脂を加えることもある。

著者はこのミエン茶がどのように生産され、消費されているか実地調査した。具体的にはタイの農村に分け入り、僅かな手がかりからミエン畑(茶畑)とその加工を行っている村を訪れたのだ。ミエン畑は高木の茶畑である。畑といっても整然としたあの茶畑ではなく、焼畑から自然発生的に生えてきた茶の木、しかも無剪定の大きな木によじ登って葉っぱを摘む。この葉を蒸して、それをキレイに束ね、土中の穴に1ヶ月から1年つけ込む。ミエンとは茶の漬物なのである(ただし塩漬けするわけではない)。

一方、ビルマでは「ラペ・ソゥ」というたべるお茶がある。これは付け合わせのおかずと一緒に食べるお茶である。ミエンのようにくちゃくちゃ噛むのではなくレッキとした食べ物だ。こちらの方も、生産・加工している村を探して著者は奥地へ分け入っていく。ここでも茶樹は剪定しない高木性のものとなっている。ラペ・ソゥは茶の葉を茹でて揉み、水にさらして出来上がるが、本格的にはさらにつけ込みの作業をする。竹筒に茶を入れて密閉し、8ヶ月ほど土の中で熟成させるのである。2年間は保存がきくという。

「第3章 世界の紅茶地帯をゆく」ではアッサムとシッキムに赴く。この頃アッサムは政情不安定でインド政府はアッサムを外国人に閉ざしていたため、著者らは「アッサムを訪れた最初の日本人団体客」だったそうである。ではなぜ入域が認められたのかというと、それが学術研究ではなく「観光」だったからだそうだ。アッサムといえば紅茶で名高いわけだが、アッサムがどんなところなのかは私自身全くイメージがなかった。著者によればアッサムは「日本の中世」のようだということである。アッサムの街並みは「洛中洛外図屏風」や『一遍聖絵』に描かれた風景を彷彿とさせるという。紅茶の産地が日本の中世のようだったとは面白い。

ちなみにアッサムには元々茶の文化はなく、アッサム茶を「発見」したイギリス人によって産業として紅茶の生産・製造が導入されたものである。著者はダージリンにも訪れているが、こちらもいかにも植民地産業的な茶栽培が行われている。ミエンとかラペ・ソゥのお茶のような、古く自由な栽培とは全く異質な、工業的な茶園が広がっている。

ダージリンのそばにシッキムがある。アッサムよりもさらに秘境だったのがシッキムで、著者らはアッサムには割とあっさり行くことができたがシッキム(インド軍の統治下にあった)には入るのに苦労し、しかもほぼ入域の許可が下りなかったためたいした見聞はできなかった。さらに著者らはネパール、チベットへ赴いている。チベット式のお茶の取材とともに、文化面の記述が多い。

「第4章 茶堂・碁石茶・釜炒茶」では、四国山地へ赴く。四国には「茶堂」と言われるものがある。これは山中の街道の路傍にあって、道をいく旅人がしばし疲れをいやしたお堂である。他の地域でいう「辻堂」にあたり、おおよそ一間四方で、中にはご本尊の石仏などがある。かつてはこの小さなお堂で旅人を茶でもてなしたことから茶堂を言われるようになったそうだ。私は茶堂について以前興味を持ったものの満足な情報が得られなかったことがあるが、その実態を知ることができて大変参考になった。

ではなぜ四国には「茶堂」があるのか。ここに面白い統計が紹介されている。明治25年の段階で、愛媛のお茶栽培面積は静岡について全国2位だったというのである。かつて一時期、愛媛は全国有数の茶産地だった。これは松山藩や伊予藩が茶業を奨励していたためらしい。そのためか四国には「茶堂」のような独特の茶文化があるのである。さらに阿波晩茶、土佐の碁石茶は極めて特異な製法のお茶であり、日本国内では類例がない。むしろ東南アジアの茶に近いような製法なのである。しかしながらそれがどのような来歴によるものなのか、両者に関係があるのかは全くの謎である。

全体を通じ、本書は茶の研究書ではなくて紀行文であるため平易で読みやすい。しかも他では得られない現地情報が生き生きと述べられており、学術的にも参考になる部分が多いと思われる。なおお茶がその起源において食べられるものであり、しかも入手が困難な辺境地帯にもそれが辺茶として運ばれているということは、単なる嗜好品ではなく栄養学的な根拠がありそうなものだが、本書はあくまで紀行文であるためそうした分析はなされていない。

それから、お茶は原産地においては、焼畑の後の自然発生的な植物として栽培され、剪定もされない粗放な管理が普通な一方で、加工にはかなり手間がかかっている。東南アジアでは多種多様なお茶が作られているが、全てに共通して加工には手間がかかるのである。唯一の例外はラペ・ソゥの簡易版である。食べ物よりも飲み物の方に手間をかけるというのは世界中で普遍的な現象だが、それがお茶にも当てはまるのが面白い。

一つ心に残ったことは、第2章の「たべるお茶」の文化はタイやビルマの若者にはすでにあまり馴染みがなく、本書執筆の時点において消え去りつつあるものとして描かれているということだ。茶の文化は、いろいろな地域で多様に育まれてきた。しかしそれが資本の力によって画一化され産業となっていく。新しい茶の文化は高効率ではあるかもしれないが、土着の豊かな文化を潰滅させてしまうという面も否定できない。しかも古いお茶の栽培の仕方・お茶の飲み方・食べ方は現代化した暮らしに合うものでもない。本書は消えゆく文化の記録としても読めるだろう。

茶の起源を巡る貴重なフィールド・ノート。

【関連書籍の読書メモ】
『茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会』角山 栄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2015/04/blog-post_19.html
茶の近代貿易のありさまを通じて歴史のダイナミズムを感じる本。植民地化と茶についても詳しい。

 

2021年10月11日月曜日

『ベートーヴェンとバロック音楽—「楽聖」は先人から何を学んだか』越懸澤 麻衣 著

ベートーヴェンがバロック音楽からどのように影響を受けたか述べる本。

バッハを「音楽の父」と呼ぶことがある。しかし近代西洋音楽の父は間違いなくベートーヴェンの方である。ベートーヴェンは、西洋音楽の歴史を転回させたといっても過言ではない。それまでの古典派音楽と比べると、ベートーヴェンの音楽の響きは恐ろしく現代的だ。ところが驚くべきことに、この独創的な音楽を作った男は、名をなしてからも過去の音楽を学び続けており、実は伝統的な書法に基づいて曲を作っていたのである。

ベートーヴェンが生きていた頃は、まだバッハが再評価される前だったし、ヘンデルですらも「メサイア」以外はさほど演奏されていない(ヘンデルの全集が出たのはベートーヴェンの晩年だった)。ベートーヴェンは、いわば「自然体」ではそうした古い音楽を利用することはできなかったのである。彼は積極的に、わずかな機会を捉えてバロック時代の音楽の楽譜を手に入れていた。

本書では様々な証拠から、ベートーヴェンが入手していた楽譜、聞いていたはずのバロック音楽を推測・整理している。それは、現代の目からは非常に限られたものであると感じる。バッハについては、『平均律クラヴィーア曲集』以外若い頃のベートーヴェンはほとんど知らなかった。1801年から『バッハ作品全集』がホフマイスター社により刊行され、ベートーヴェンはこれを手に入れたらしいが遺産目録にはこの楽譜は完全には残されていない。

ところがこの限られた環境で、ベートーヴェンはバロック音楽を非常に熱心に研究した。楽譜の一部をスケッチ張に書き写し、自作のアイデアに活かしたのである。それはほぼ対位法的なものに限られ、フーガが探求された。バッハの『平均律クラヴィーア曲集』でもフーガは何曲も書き写されているのに、プレリュードは一曲もそこに登場していない。なおベートーヴェンは若い頃からバロック音楽に関心があったらしいが、特に集中的に楽譜を書き写して研究したのは1817年頃である。47歳ほどの頃ということになる。既に名声と作曲スタイルが確立してからこうした研究を行っていることは特筆すべきことだ。

その研究の結果生まれたのが、<ハンマークラヴィーアソナタ>作品106のフィナーレのフーガである。この「非常に斬新に響くこの楽章は、しかし「技法」として見るならば、伝統的なフーガの技法をほぼ網羅的に使用している。とりわけ逆行形は、理論書には説明されていても、実際に作品に用いられるのは珍しい(p.118)」 と述べられ、本書では詳細に分析されている。このソナタは傑作であるばかりでなく、「ピアノ・ソナタの歴史の転換期をなす(p.120)」ものとなった。

さらにこのフーガ書法は、<大フーガ>作品133、<弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調>作品131などで活かされているが、これらについての紹介は簡略である。<大フーガ>については有名な作品でもあり、もう少し丁寧に解説してもらえたらありがたかった。

一方、ヘンデルからの影響については、 <「ユダス・マカベウス」の主題による12の変奏曲>WoO45が取り上げられ、ヘンデルの音楽をいかにベートーヴェンがアレンジしたかという視点で考察されている。また当時からヘンデル風とされた<自作主題による32の変奏曲>WoO80と<献堂式>序曲作品124についてそのヘンデル的特徴を分析している。

さらに分析は晩年の大作<ディアベッリ変奏曲>作品120へ進む。この有名な変奏曲で、ベートーヴェンははじめの方では近過去の音楽の書法を用い、終盤にはバロック音楽的な変奏曲となっていく。特に終わりの第32変奏はヘンデル的な長大なフーガとなる。この第32変奏の何が「ヘンデル的」なのかの解説は大変参考になった。

そしてベートーヴェン自身が最高傑作と位置づけていた<ミサ・ソレムニス>作品123。その<クレド>は壮麗な二重フーガで書かれ、バッハやヘンデルに比肩するものとなった。この作曲にあたり、ベートーヴェンはバッハの<ロ短調ミサ曲>を知っていたかどうかは論争となっているが、状況証拠を総合してみると「曲の存在自体は知っており、楽譜の一部も見たことがあったかもしれないが楽譜自体は持っていなかった」というところらしい。むしろベートーヴェンは<ミサ・ソレムニス>作曲後に<ロ短調ミサ曲>への関心が高まったようである。

さらに晩年、ベートーヴェンはヘンデルの様式でオラトリオ<サウル>を作曲しようとした。当時のウィーンではヘンデルのオラトリオ人気には陰りが見えていたが、オラトリオ自体は非常に重要な形式であり、折よくオラトリオ作曲の委嘱を受けたベートーヴェンはかなりのこだわりでこれに向き合ったようである。しかし具体的な作曲作業に入らないうちにベートーヴェンは死去してしまった。

ちなみにバッハについては、ベートーヴェンはいわゆる「B-A-C-Hモティーフ」を使って生涯に何度もバッハを顕彰する作品を作ろうとした。 フーガや序曲の構想がスケッチ帳に残されている。これらは結局完成させられることはなかったが、もしベートーヴェンが「バッハ序曲」を完成させていたら、その後のバッハ受容史は変わったものになっていたかもしれない。

本書ではこれらの他、コラムとして「バロック音楽を愛したパトロンたち」と題してべートーヴェンのパトロンが取り上げられている。具体的には(1)ヴァン・スヴィーテン男爵、(2)ルドルフ大公、(3)リヒノフスキー侯爵、の3人である。

ルドルフ大公はベートーヴェンの唯一の作曲の弟子であり、ルドルフ大公が対位法書法に関心を抱いていたことがベートーヴェンの作曲活動にも影響を与えていたかもしれない。リヒノフスキー侯爵はライプツィヒ大学で学んでおり、最初のバッハ伝を編んだフォルケルとも親しかった。1796年、ベートーヴェンはリヒノフスキー侯爵とライプツィヒやベルリンを巡る旅をしており、その詳細は不明ながらバッハとベートーヴェンを繋ぐ一つの要素であったと考えられる(ちなみに1789年、モーツァルトもリヒノフスキー侯爵と同様の旅をして、ベルリンで印象深いバッハ体験をした)。

なおコラムには取り上げられていないが、ラファエル・ゲオルグ・キーゼヴェターという人物にも興味を持った。彼は古い音楽に興味を持ち、多くの楽譜を蒐集。1816〜38年にかけて定期的に「歴史演奏会」を開催した。そこではバッハやヘンデルが取り上げられ、「この時期のバロック音楽、あるいはさらに古いルネサンス 音楽についてのキーパーソンであり、ヴァン・スヴィーテン男爵亡きウィーンでは、貴重な存在であった(p.209)」という。

本書は、著者が東京藝術大学に提出した博士論文を元にしたものだが、とても読みやすく平易にまとまっている。ただし基礎的な楽典の知識を有していた方が理解はしやすい。とはいえ楽譜はいくらか挙げられているものの、楽典的説明を読み飛ばしても論旨の理解には問題ないと思われる。

ベートーヴェンとバロック音楽についての繋がりを丁寧に解きほぐした良書。

【関連書籍の読書メモ】
『ベートーヴェンの生涯』青木 やよひ 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/11/blog-post_23.html
実証的な資料によって構成したベートーヴェンの伝記。偉大な音楽家の真実の姿を平易に述べる、ベートーヴェン伝の新しい基本。

 

2021年10月8日金曜日

『石仏の旅 西日本編』庚申懇話会編

石仏を巡る旅のモデルコースを紹介する本。

本書は、普通の旅行ガイドとはちょっと違う。有名な石仏を巡るのではなくて、有名ではなくても、見所のある・変わった・興味深い石仏を見、そして(驚くべきことに)その旅の途上にある何気ない石仏にまで注意を向けるものだからである。

本書の構成は、西日本の各県(県単位でないのも若干ある)について石仏巡りのモデルコースを設定し、概ね公共の交通機関を使って見に行ける石仏を紹介する、というものである。このような、地味ではあるが極めて文化的な旅のガイドブックが出版されていた、というだけで素晴らしいことである。

また、こうしたガイドブックを作った「庚申懇話会」の活動もすごい。「庚申懇話会」は全国に会員を有し、庚申塔の研究は元より路傍の石仏までも含めて研究し続けた団体である。これを主宰していた小花波平六(こばなわ・へいろく)さんにも興味が湧いた。

本書は西日本各県の石仏を網羅的に紹介するものではなく、いわばハイライトするものであるから、各県の特徴がよく出ていて面白い。

例えば和歌山にある「不食供養碑」のことは初めて知った。これは女性(未成年も含む)が毎月1日、3年3月の間断食をして供養をする信仰のようだ。「紀の川沿いの旅はまた、不食供養碑をたずねる旅でもある(p.48)」というほど多くの「不食供養碑」があるそうだ。

それから京都市内には江戸期の庚申塔が1基を除き存在しないのだそうだ。あれほど全国を席巻した庚申信仰が京都市内でほとんど存在しないというのはなぜなのか。本書でもその理由はわからないとされている。

滋賀県は本格的な磨崖仏があり、また「宝塔、宝篋印塔の一大天国(p.75)」なのだそうだ。富川磨崖仏、狛坂磨崖仏、妙光寺山地蔵磨崖仏などが紹介されており、特に狛坂磨崖仏については「花崗岩半肉彫り磨崖仏ではわが国で最も雄大なもの(p.78)」という。

徳島県には板碑が多い。1500〜2000基はあるのだという。私も知らなかったが、徳島県には板碑を作るのに使う青石(緑泥片岩)がよく採れるのだそうだ。

長崎には六地蔵塔が多い。「県下のどこにでもあり、珍しくない(p.168)」というとおり、たくさん紹介されている。私はこれまで六地蔵塔といえば鹿児島県と思っていたが、長崎が強力なライバルだったようだ。鹿児島と長崎の六地蔵塔の比較はこれまで誰もやっていないように思う。

ちなみに鹿児島では、大隅路、薩摩路、指宿周辺の3つのモデルコースが紹介されている。知らなかったのは、蒲生の漆(うるし)にある庚申塔が大永3年(1523)で九州最古のものであるということ。なんでこんなところに九州最古の庚申塔があるのか不思議である。

さらに宮之城には享禄4年(1531)の庚申塔があり、これは九州で2番目に古い。これは塔婆の形式のうえからも貴重な資料だそうだ。なお庚申信仰は鹿児島では田の神と習合しており、県下で19の庚申田の神があるのだという。

また非常に興味を覚えたのは、入来の浦之名麓の古春(こしゅん)にある三十三観音の石塔である。これは鹿児島県にただ1基ある珍しいものだそうだ。いつかぜひ見てみたい。

全体を通じ、全部モノクロなのと写真がそれほど多く掲載されていないこと、また実際に行こうと思ったらちょっと地図が頼りない(大雑把すぎる)ことが欠点であるが、読むだけでも石仏の世界の多様性を感じることができ、非常に優れた本である。このような本が出版される時代がもう一度来ることを期待したい。

地味な石仏の世界を楽しく案内してくれる真に文化的な旅の本。


2021年9月24日金曜日

『第二の性 II 女はどう生きるか』ボーヴォワール著、生島 遼一 訳

『第二の性』、5分冊のうちの第2巻。

本巻では、「妻」「母」「社交生活」「娼婦と囲い女」「成熟期から老年へ」という章分けで、成人してから亡くなるまでの女性の生活が活写される。

「第1章 妻」では、結婚制度が再考される。

女性にとって結婚は大きな意味を占めている。将来の方針を尋ねると「結婚したい」と応える若い娘は多い。しかし男性も同様に結婚はするはずなのに、そのように応える男性は少ない。それは、男性の成功は主に経済的成功であって結婚は副次的なものであるが、女性は経済的成功を自ら手にすることができないために、結婚を通じて成功するしかないからである。もちろん職業につく女性もたくさんいることはいる。だが女性の職業はしばしば不利で給料が安いので、仕事での成功を追い求めるよりは結婚に落ちついた方が有利なのである。そのため、結婚自体にも女性に不利な点は多いのに、結局は女性はそれを自ら望んで行うのである。

結婚は愛し合う二人のゴールだと見なす考え方がある。しかしボーヴォワールは、それが幻想であることを執拗なまでに例証する。むしろ結婚とは愛の否定ですらあるというのが著者の考えのようだ。ちなみに数多いその例証の一つに挙げられているのが「無痛分娩」への反対だ。この頃、「陣痛は母性本能の出現のために必要だ」というような理由で、「無痛分娩」に反対する男性がいた。しかし母性本能云々は彼らにとってさほど重大な理由ではなく、その実は「女の負担が軽くなることをよろこばぬ若干の男達があるというのが実状(p.25)」だったのである。この「無痛分娩」への態度は、現代の日本でもほとんど変わっていないのではないかと驚かされる。

では、女の不幸や苦痛を喜ぶ男がなぜいるのか? 愛し合って結婚したはずの妻の負担をも軽減しようとしない男がいるのはなぜなのか? それは、結婚が「制度」であるためだ、と著者は考える。結婚前の、互いに自由な、愛によって結びついている段階では、男女はお互いをいたわり、尊重する。しかしひとたび結婚するや、二人を結びつけるものは愛でもいたわりでもなく「制度」なのである。夫婦生活が味気ないものであってもそこから逃げ出すことはできないから、時として嗜虐的な行動に出る男性(女性も)が出てくるのである。

手垢のついた言葉ではあるが、結婚は自由意志を弾圧する、という意味で「牢獄」なのだ。 しかし結婚が「牢獄」だとしても、男性が活躍する場はたいてい職場であるから、それほど気に病むことはない。だが女性は結婚すると家庭に閉じ込められる。だから彼女の仕事は「この牢獄を一つの王国に変えること(p.56)」になる。それは家や衣服を清潔に保ったり家具を調えたりすることであって、「善」を建設することではなく、「悪」を追っ払うこと、つまり果てしない現状維持の仕事である。「家庭の主婦の仕事ほどシジフォスの刑罰によく似たものは(p.62)」ないのだ。

こまごまとした雑用を好きになり、そういうものを愛するように自分を仕向ける女性も多い。趣味よく調えられた部屋を作りあげることはひとつの創造的行為かもしれない。しかし多くの場合、やはりそれは本当の意味での(つまり経済的に報われる)やりがいのある仕事ではない。 女性は、終わることのない面倒な雑務を押しつけられていながら、重要な仕事には何一つ関与させてもらえない。というのは夫は妻を無能だと見なしているからだ。「女性には無理だよ」といいながら夫は妻から重要な仕事を取り上げ、代わりに「誰でもできる簡単な仕事」を大量に押しつけるのである。

この議論が展開されていけば、話は自然と「家事の平等分配」に移っていくと予想される。女性だけが家事をやらされるのは不平等だと。ところがボーヴォワールはそう進まない。むしろ結婚制度自体が無用だと糾弾するのである。「夫婦のあいだに誠実と友情が存在するためには、そのための必須条件は二人がともに互に自由であり、具体的に平等であること(p.110)」なのだから、本当に「愛」が存在するのならば、自由を縛る結婚「制度」はむしろ害悪なのである。

もちろん、幸せな結婚生活を送る夫婦も少なくはない。 本書に大量に引かれる不幸な結婚の事例が極端なものであることは著者も認めている。しかし結婚の失敗は少なくない数で起こっている。そしてそれは、個人の選択ミスというよりは、結婚という「制度そのものが根本的に頽廃している(p.132)」ためなのである。結婚が、女性を不当に従属的にするとしたらそんな制度はないほうがいい。

そして、女性に男性と同様の経済的自由が与えられない限りは、「家事の平等分配」のような見せかけだけの平等は意味がない。「深い本質的な不平等は、男は労働者あるいは行動の中に具体的に自己完成ができるのに、妻の方は妻であるかぎり、その自由は消極的な形のものでしかない、ということから来る(p.133)」。そういう不平等を助長するのが結婚制度なのである。要するに、女性は自己実現の機会を結婚によって不当に奪われているのである。

「第2章 母」の出だしはちょっと奇異である。それは、堕胎の問題から始まるからだ。当時(約70年前)、フランスでは堕胎は非合法だったが、それに頼らざるを得ない女性たちがいた。社会は胎児の権利を保護することには熱心だったのに、いったん生まれた子どもには無関心で、女性への支援など眼中になかった(←今の日本と同じ!)。だからこそ女性達は望まない妊娠をしたとき、やむなく堕胎をしたのである。それなのに社会は堕胎した女性たちを断罪した。堕胎には男性にも責任があるはずなのにそれはなかったことにされ、全てを女性に押しつけたのである。

堕胎への断罪は、女性がおかれた状況を象徴するものである。子どもを産むということは男女がともに関与することなのに、実際には女性にのみその重みを負わせているということなのである。

このように始まった「母」になることの検証は、「妻」に引き続き厖大な例証によって暗鬱な様相を帯びるが、その要諦といえば「母性<本能>などというものがそれほどはっきり存在しないことを示す(p.182)」ことにある。

世間では「母性本能」なるものを当然とみなして、「お母さんなら赤ちゃんがかわいいはずだ」「子どもの世話に幸せを感じるはずだ」などという。もちろん親にとって子どもは大切な存在だし愛おしいことが多い。しかしながらそれを世話するのは楽ではないし、しかもそれが母にだけ一方的に押しつけられているならなおさらだ。子育てを通じて「母性愛」が女性を満足させるなどというのは間違っている。子どもをたくさん産んでも「不幸で、ヒステリックで、不満な母親がたくさんある(p.201)」

結局、「母性愛」も社会が女性に押しつけた都合のいい神話に過ぎないのである。赤ちゃんや小さい子どもの世話をするには、自分の生活を犠牲にしなければならない。実際、毎日のほとんどすべてを子どもの世話に献げなくてはならない女性は、結局は自分のやりたいことを諦めるのを学ぶ。ひとたび自分の意欲を封印してみれば、子どもの世話にかかりっきりになる生活にもそれはそれで充実はある。しかしずっとそういう生活をしていると、やがて「子ども」が自分の失われた人生の埋め合わせと見なされてくることが多い。こうなると子どもの成長にもよくない親子関係になっていくのである。

子どもを持つことが男性にとっての最高目的ではないように、女性にとってもそうではない。「女に一切の公的活動を拒否し、男性がいとなむような職業を閉ざし、あらゆる領域において女の無能をはっきり公言しつつ、<人間の形成>というもっともむつかしく、もっとも重大な仕事を女にゆだねるというのは許しがたい矛盾(p.205)」なのだ。

その問題を解決するため、ボーヴォワールは子どもの世話は大部分外部委託する(≒保育園)ことを提案する。その方が子どもの人間形成にもいい影響があるし、なにより「もっとも豊富な個人的生活をもっている女こそ子供にもっとも多くを与え、子供からはもっとも少なく要求する(p.207)」のである。そして「子供は大部分は集団によって負担され、母もちゃんと世話され援助されている場合は、母になることは女が働くことと絶対に両立せぬのではない(p.206)」のだ。このあたりの議論は、保育園に入れないために「保活」などというものをしなくてはならない今の日本の状況にぴったりはまってくる話だろう。

「第3章 社交生活」では、女性の人付き合いについて述べており、今の言葉でいえば「社会生活」のことである。 が、ここで述べられるのは、女性が社会生活を営む上ではおしゃれが必須になっている現況である。もちろん男性もしっかりした服装は着なければならない。しかし男性の場合は社会的地位や仕事の能力の方が重要であるため、外見にはそれほど気を遣う必要は無い。一方女性は、社会からモノとして扱われているために、どう装うかがその価値を大きく左右する。だから女性は「自分をひとに見せたい気持ちと、そんなことはいやだという気持ちとに分裂する(p.212)」ことも多い。

ここに描かれる姿は、約70年前のそれであるにも関わらず今の日本と全く同じである。本書に引用されるコレット・オードリィの描く女性の毎日は驚くほど「現代的」だ。それは美容に気を遣い、健康食品を食べ、アンチ・エイジングに血眼になる姿である。「美容雑誌は無限に更新される処方で彼女に息もつがせぬ(p.221)」。女性にとっておしゃれは、「武器、看板、護身用の物、そしてまた推薦状(p.220)」であるから、それは半ば義務なのである。

女性は中身がないから外面を着飾るのだ、というような批判は当を得ていない。例えば素晴らしい頭脳を持った女性学者がいたとする。しかし彼女が不美人でおしゃれに気を遣っていなかったら、人は彼女は不完全であるという印象を持つ。女性は能力が十分にあるだけではだめなのだ。見た目も麗しくなくては! 社会は、女性におしゃれを強いているのである。

このような議論を展開した後、女性同士の人付き合い(家に招待することなど)について述べ、そして話は不倫へと展開していく。先述の通りボーヴォワールは結婚制度について口を極めて攻撃するのであるが、その理由の一つとして夫婦が互いに性的に満足することはめったにない、ということを挙げている。それは結婚制度は「肉体的な愛」を基盤としていないからである。だからボーヴォワールは、結婚と性的関係は区別した方がいいのではないかという。つまり結婚していても、互いの性的自由は認めてもいいのではないか、と。実際、ボーヴォワールはサルトルと事実婚の状態にあり、深く愛し合ってはいたのだが、互いの性的自由を認めていた。

しかしながら、世界中の社会で、結婚は排他的な性的関係の樹立と等しい。それは人為的な制度ではなく文化人類学的な基盤を持ったもののように思える。ボーヴォワールの提案はちょっと無理があるような気がした。

「第4章 娼婦と囲い女」は、女を売りにする女のことが語られる。まず、娼婦が存在するのは、女性が堕落した存在だからではなく、女性が職業的に差別され、経済的に弱いからだとしている。ある種の女性は「社会にちゃんと入れてもらえず、大都会の中に見失われたようになっている(p.258)」から、そういう「仕事」を選ぶのである。売淫の存在は、女性の堕落を示すのではなくて、社会の悪さに依るものなのである。

そして当然、娼館に通ってくる男性の需要があるからこそ、その商売は成り立つ。女性が堕落しているとするなら、男性も堕落しているとしなければならない。しかし男の方は、娼館では堕落していたとしても、一歩そこを出れば立派な顔をしているのである。だから娼婦たちは、男が振りかざす高尚な道徳や立派そうに見える品位といったものを鼻で笑う。

一方、「囲い女」の方はこちらとはちょっと違う。「囲い女」とは、「自分の全人格を資本とかんがえて利用する、そういう女たち全部(p.277)」を指す。つまり「女を武器としている女」だ。「逆説的な言い方では、女としての武器を徹底的に利用する女は、ほとんど男性に劣らぬ立場をつくることができる(p.278)」。彼女は「男性社会」に完璧に適合し、それを逆手に利用する。これは女性の生き方としては最も自己実現を図れるもののようだ。ところがボーヴォワールは(予想されるとおり)、この生き方を積極的には評価しない。結局、彼女は「男性社会」に寄生しており、その道を突き進む限り本当の自由を手に入れることはない、ということのようだ(はっきりとは書いていない)。

「第5章 成熟期から老年へ」では、更年期から老年が語られる。更年期あたりになると、女性は自分の人生を無駄遣いしたように感じ、未だ何も成し遂げていないことに愕然とする。そして今のうちにできることをやっておこうと齷齪(あくせく)するが、やがて閉経を迎えて老年に入っていくと、むしろ女性は自由を手に入れるのである。それは「女性であること」から解放されるからだ。女性は「女性」としての価値を失って初めて、社会が彼女に押しつけていた義務から逃れられる。「彼女はまた流行や世間ていをはっきり無視し、社交的な義務や摂生や美容の手入れなど一切ごめんこうむる(p.300)」。

だから老境においては、女性は男性よりもかえって生き生きし出す。それに男性は職業を退くと社会生活においてはほぼ無用の存在と化すが、女性は家庭を切り盛りするという今や重要な仕事を手にしている。「夫にとって彼女は必要なものだが、夫の方はただ邪魔ものでしかない(p.318)」のだ。男性と女性の立場は逆転し、「ついにここで彼女は、世界を自分自身の目で眺め出す(同)」。こうして封じ込まれていた批判精神が自由に働くようになるとはいえ、それは老境の慰み程度の意味しか持たないのだ。

全体を通じ、本書に描かれる女性の姿は不幸をかなりデフォルメしている、というのは誰しも感じるところだろう。幸せな女性だって世の中にはたくさんいるのだから。だが本書が言いたいのは、個別の女性が幸せであるか不幸であるかということよりも、社会の構造自体が女性を抑圧している、ということなのである。本書の価値はまさにそれを徹底的に論証したことにある。

本書(原書)の刊行時、本書は女性の「性」の問題をあけすけに取り上げたことでスキャンダルな反応を引き起こし、ために世界各国でベストセラーになった。しかしそれは本書の価値の一端でしかない。刊行から約70年経ち、女性問題への理解は格段に進んでいるが、それでも本書が言っていないことはそれほど多くないのではないか、と思わせるほど、本書は包括的に女性問題を取り上げている。女性問題がまだそれほど認知されていなかった時代に、これほど総合的で徹底的で、容赦ない本を書いたということは奇跡的だった。

 

【関連書籍の読書メモ】
『第二の性 I 女はこうしてつくられる』ボーヴォワール 著、生島 遼一 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/07/blog-post_31.html
この巻では、女性が生まれてから成年になるまでを取り扱っている。


2021年9月12日日曜日

『コーヒー・ハウス—18世紀ロンドン、都市の生活史』小林 章夫 著

17世紀に勃興したロンドンのコーヒー・ハウスについて述べる。

イギリスと言えば紅茶で、コーヒー(カフェ)はフランスの文化だと思われている。が、実は17世紀のロンドンはコーヒー・ハウスが大繁盛し、そこでは活気ある世界が展開されていた。

イギリスはモカの産地である現イエメンを植民地としていたためコーヒーが輸入され、この新規な飲み物を提供する店が、新しいライフスタイルの提案とともに登場したのである。

それは、第1に情報交換と仕事の場、第2に言論とニュースの発信地、第3に文芸・文化の交流の場、であった(本書でこのような章立てがされているわけではない)。

第1の点「情報交換と仕事の場」については、当時のロンドンの住宅事情がからんでいた。ロンドンは過密都市で、ボロ屋が犇めき衛生的でもなかった。これは1666年のロンドン大火でその大部分が焼け落ちたことで改善され、家が石造りに変えられたりはするものの、過密都市であることは変わらなかったので家賃が高く、狭小で汚く、当時の個人住宅は人を呼べるようなところではなかった。そして家賃が高いということは、商売をやっている人が事務所をもちたくてもおいそれと持つことはできないということだ。

そんなわけで、コーヒー・ハウスは商売人(この時期、投資家がたくさん登場した)にとって事務所のような場所として活用されるのである。郵便もコーヒー・ハウス留めにして受け取っていた。当時は電話もないので事務所を開いてもそこだけで仕事ができるわけではない。それよりは、市場関係者や事情通が集まる場所にいて仕事する方が効率がよかった。

また、ものを販売するにしても、ショーウィンドウがあるような時代ではない。コーヒー・ハウスに商品を置かせてもらい、欲しい人にその場で販売するのが合理的だった。であるから、当時のコーヒー・ハウスの内部はいろいろな商品(怪しげなものもたくさん)が所狭しと置かれた雑貨屋的なところでもあった。 

他にも、世界最大の保険機構である「ロイズ」は元々コーヒー・ハウスであった。ロイズは客のために海事ニュースを提供し、海上保険の元締めとして不動の地位を占めていく。ロイズは最初から保険会社だったのではなく、海事情報を提供するコーヒー・ハウスだったというのが面白い。ロイズは、正確な情報が商売には一番大切だということを分かっていたのである。

なおこのようにコーヒー・ハウスが商売に利用されたのは、それが当初はノン・アルコールの店だったということも影響していた。イギリスではパブで飲んだくれるのが日常茶飯事であったが、いくらたくさんの人が集まる場所であっても酔っ払っていては仕事はできない。コーヒー・ハウスはノン・アルコールの”真面目な"店であった。

第2の点「言論とニュースの発信地」については、コーヒー・ハウスはお金さえ払えれば誰でも入ることができたので(コーヒー代と別に入場料のようなものを取った)、身分に関係なくいろいろな人が出入りした。身分というものが非常に強力であるイギリスの社会において、コーヒー・ハウスは「人間の<るつぼ>」としての役割を果たした(ただし女性は入店できなかった)。

そしてそこでは、新聞や雑誌が置かれて回し読みされ、また時事問題についての議論が自由に交わされたのである。当時は新聞や雑誌は非常に少部数でしか発行されなかった上、当然のように高価なものでもあったので、コーヒー・ハウスに置かれることには集客上の利点もあった。そこに貴賤の人々が雑多な情報を持ち寄っていたから、政府広報的な情報のみならず市井の生きた情報が集まることとなり、コーヒー・ハウスでの話題や人々の批評が新聞や雑誌に掲載されていくというジャーナリズムが育っていくのである。

特に雑誌と呼べるものができたのがこの時代であり、デフォーの『レビュー』、スウィフトが主筆だった『エグザミナー』、リチャード・スティール創刊の『タトラー』などが18世紀前半に矢継ぎ早に創刊される。特に重要な存在が1711年に創刊された『スペクテイター』(なんと毎日発行)で、この雑誌によってイギリスの雑誌は一挙に隆盛した。『スペクテイター』は当時の文化風俗を知るのに不可欠な有名な雑誌である。こうした雑誌が生まれる母体となったのがコーヒー・ハウスだったのである。

なおコーヒー・ハウスにおける自由な言論・政治談義は、時の政権にとって好ましくなかったのは言うまでもない。そこで1675年にはチャールズ2世が「コーヒー・ハウスは不満分子の根城になっている」としてコーヒー・ハウスの閉鎖令を出したこともある。しかし既にコーヒー・ハウスはさまざまな階層の人にとって欠くべからざるものになっていたため、大反対に遭ってこの命令は10日後に撤回されるのである。

しかしながら、開放的で自由な言論・政治談義がコーヒー・ハウスで行われたのはそんなに長くなかった。次第に政治的な立場によってどの店にいくか決まるようになっていったからだ。そしてやがては会員制のクラブが交流の中心となっていくのである。

第3の点「文芸・文化の交流の場」については、著者の専門がイギリス文学であるためにかなり詳しい。17世紀の文芸(詩作・劇作)というものは、著者が書斎で呻吟しながら書き上げるものではなく、大勢の前で披露し、批評され、それに応じて書き改めるといった公的な場でつくりあげる性格を持っていた。であるから、コーヒー・ハウスにおける交流が文芸の中心、つまり「文壇」となったのである。この時代の、いわば文壇の流派は「ウィル」「バトン」「ベッドフォード」といったコーヒー・ハウスに分かれて存在しており、それらの店の特徴やそこに集まった文士たちについて本書では詳しく触れている。

そしてコーヒー・ハウスは中産階級における読書の啓発にも大きな役割を果たした。17世紀後半には、まだ本は高価で普通の人の手には届かなかったし、また図書館も不十分だった。一方で雑誌の普及や小説の登場(例:デフォーの『ロビンソン・クルーソー』)などにより、中産階級の読書欲も高まってくるのである。そこでコーヒー・ハウスでは、店内で本が買えるようになるばかりでなく(=つまり本屋の機能もあった)、18世紀には店内に図書室を設けて本が読めるようになっていくのである。

18世紀のコーヒー・ハウスには、今風にいえば「ブックカフェ」が流行ったのである。 また貸本屋や本の共同購入サークル(本を回し読みする)、そして「読書会」もコーヒー・ハウスを舞台として行われた。コーヒー・ハウスは読書文化の発信基地でもあったのである。

このように様々な面で時代の先端を走ったコーヒー・ハウスだったが、その栄華は長く続かなかった。17世紀後半から18世紀前半までの約100年がコーヒー・ハウスの栄えた時代であり、特に活発な活動や展開が見られたのはその前半50年に過ぎない。

ではなぜコーヒー・ハウスは衰退したのか。その理由としては、(1)数が増えすぎて需要を超えた、(2)モラルが低下し賭博やアルコールの提供が行われるようになった、(3)コーヒー・ハウスの発展にともなって店ごとに客層が固定化し、「人間の<るつぼ>」でなくなった、(4)オランダによってジャワ・コーヒーがヨーロッパにもたらされて、イギリスのモカ・コーヒーが競争力を失いコーヒー輸入が減少した(それを埋め合わせるように茶の輸入が増大する)、(5)ロンドンの住宅事情が改善された、といったことが挙げられている。

ただし、1849年の報告で、ロンドンには2000軒のコーヒー・ハウスがあって労働者で賑わっている、うち500軒には付属図書室があって労働者が読書にふけっている、といった情報があるので、18世紀後半には衰退したといっても、19世紀半ばにもかなり繁盛しているのも間違いない。コーヒー・ハウスの勃興期の研究はいろいろあるらしいが、衰退期の研究はあまりないようで、どのように衰退していったのかは不明な点もあるそうだ。

本書はコーヒー・ハウスの歴史を多面的に追うもので、時系列的ではないので混乱する部分もあるが筆は平易で読みやすい。ただし、副題に「18世紀ロンドン」とあるものの、分量的には17世紀の記述の方が多いくらいで、18世紀についてはほぼ前半に限られている。また先述のとおり著者はイギリス文学を専門にしているためその面は詳しい一方、逆に言えば他の文化についてはあまり触れられていない。

例えばこの時代は演奏会が勃興してくる時期と重なっているが、コーヒー・ハウスはそれにどう関わっていたのか(関わっていなかったのか)。そのあたりはもう少し書いて欲しかった。

ロンドンのコーヒー・ハウスについて多面的に学べる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『生活の世界歴史〈10〉産業革命と民衆』角山 榮 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/12/10.html
本書の参考文献として「17世紀から19世紀のイギリス社会、生活について概観したもので、日本人の手になるものとしては最も包括的で、また面白く読める本といえる」と紹介されている。コーヒー・ハウスについても詳しく述べている。

 

2021年8月30日月曜日

『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』吉川 宗明 著

日本における岩石信仰について整理する本。

岩石信仰とは、「岩石を用いて霊を信仰した信仰体系全般を指す(p.76)」。 つまり岩石そのものを神とみなしたり、岩石が神の依り代となったりする信仰だけでなく、祭祀の中で石が使われたり、特に石を神聖なものとみなしていなくても特別な役割が与えられている場合をも含め、著者は岩石信仰と呼ぶのである。

著者は、岩石信仰を体系的に考察するための学問的基盤を作ろうとしているようだ。 

本書では、まずこれまでの岩石信仰の先行研究を整理する。この部分だけでも私には大変参考になった。本居宣長、柳田國男、折口信夫といった先駆者たちの業績、今では学界からは冷笑されているが当時は大きな影響を及ぼした鳥居龍蔵の巨石文明論、神社界から「イハクラ」を研究した遠山正雄、神道考古学を提唱し石神・磐座・磐境の概念整理をした大場磐男、その他民俗学や仏教学からの研究が手際よく紹介される。

そうしたこれまでの岩石信仰研究では、しっかりした学問的枠組みがないまま、自身が「見たいものを見る」式の研究が行われてきたきらいがあった。祀られている巨石をなんでも「 磐座(いわくら)」と見なしたり、それどころかたいして祀られていなくてもそれらしい岩を「 磐座だ」としてしまうようなところがあった。信仰とは外からは見えないものも多いので、研究者がそう言えば地元の人も「あの岩は磐座なんだ」と納得してしまう場合さえあったのである。

そうした反省に基づき、著者は非常に抑制的な態度で岩石信仰を見る。「巨石」とか「磐座」のような曖昧で価値判断を伴う概念を避け、ある程度はっきりと評価できる機能面に注目して岩石信仰を体系的に分類していくのである。

著者の分類では、A. 信仰対象、B.媒体、C.聖跡、D.痕跡、E.祭祀に至らなかったもの、という5つの大分類があり、さらにそれぞれが中・小分類に分かれていく。特にB.媒体は中分類・小分類・その細目があり、例えば「BABB.岩石の上に別の依代が置かれて祭祀される」とか、「BCA.神聖な空間や祭祀空間を示す岩石」といったような細かい分類がアルファベットを用いて規定されている。これは帰納的に作られた分類で、あまり信仰の内面に立ち入らないで構成されたものである。

もちろん全ての岩石信仰の事例がどれか一つのカテゴリに収まるというわけではなく、信仰はいろいろな性格を持っているのでBABB.でありまたBCA.である、といったようなケースも出てくる。そういう重複はありながらも、この分類は誰がやってもある程度似たようなところに決まってくるもののように感じた。けっこう優れた分類である。

ただし、この分類法の欠点は、BABB.とかBCAというようなアルファベットの羅列がわかりづらいことである。もうちょっとわかりやすい表示の仕方はなかったのだろうかと思ってしまった。

それはともかく、このような分類作業を行ってから、ケーススタディとしていろいろな岩石祭祀の事例を提出し、またそれが分類のどこに当たるのかを考察している。先ほど「誰がやってもある程度似たようなところに決まってくる」とは書いたものの、実際には信仰・祭祀がどのようなものであったのかははっきりとはわからない。何しろ、岩石そのものに霊性を感じていたかどうか、というようなことは当時の人に聞いてみないとわからないことで、しかも聞いてみたとしても人それぞれの考えがあったかもしれない。よって著者は様々な状況証拠からそれを考察しており、優れた分類があるからあとは当て嵌めるだけ、というような作業ではないのも事実である。

そしてケーススタディの部分は、当然だが事例列挙的であって、やや行き先を見失いそうになる部分である。どのような意図で提出された事例なのか最初に書いてくれているとわかりやすかったかもしれない。しかしながら、このケーススタディによって、著者が強調する岩石信仰の「多様性」の一端を垣間見ることはできる。

全体として、著者の目的と思える「岩石信仰を体系的に考察するための学問的基盤づくり」は十分に達成している。大げさに言えば、本書は岩石信仰研究の上で画期的なものである。

ただし本書は、著者自身が言うように「木や水などではなく、なぜ岩石を信仰したのかという根源的な問いに対する回答を用意できていない(p.313)」し、岩石信仰は日本人に何をもたらしたのか? といった思想史的な部分についてはほぼ全く手がつけられていない。だが、こうしたより深い研究に移っていくための基盤の部分までで本書を終わらせたのは、物足りない感じがする一方で好感も持った。あくまでも学問的な姿勢を崩さず、安易に「岩石信仰とは…」と語らないのが本書のよさである。今後のさらなる研究に期待したい。

なお、岩石信仰の分類では、石仏・磨崖仏・墓石のようなものは対象外になっているようである。石で作られる祭祀の道具といえば誰でも真っ先に墓石が思いつくし、本書でも紹介される大護八郎『石神信仰』、五来重『石の宗教』などの先行研究でも、そうしたものが「岩石信仰」の中心をなしている。石仏などはあくまでも素材としての利用だからということで省いたのだろうか。どのような整理を行ったのか記述してもらいたかったところである。

岩石信仰に学問的基盤を与えた画期的な本。

【関連書籍の読書メモ】
 『石の宗教』五来 重 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/05/blog-post.html
石仏を民間宗教の側から読み解く。石仏の奥にある、石自体の神聖性に着目した刮目すべき本。

 

2021年8月29日日曜日

『日本の歴史(9) 南北朝の動乱』佐藤 進一 著

南北朝時代がいかに始まり、いかに終わったかを述べる。

本書は、川添昭二(中世の九州を専門とする歴史学者)により「まさに完成された芸術作品をみる思いである」と評されたもので、南北朝の動乱を多角的に描き、その学問的骨格を与え、その後の南北朝史研究を触発した名著である。

確かに記述は平易であるにもかかわらず分析は深く、ややこしい南北朝時代を生き生きと描いている。が、私自身がこの時代にあまり詳しくないこともあり、とても内容が頭に入ったとはいえず、本を読み終わった今でも「一知半解」というのが実感だ。

というわけで、以下はその「一知半解」のメモである。

南北朝の動乱とは、大まかに言うと室町時代のはじめの方で、後醍醐天皇の「建武の新政」が瓦解してから、皇統が南朝・北朝に分かれて、それが再び統合されるまでの約60年間の動乱を指す。なぜそのようなことが起こったか?

後醍醐天皇は反鎌倉幕府の勢力をまとめ、1333年、幕府を打倒して天皇親政国家を樹立した(建武の新政)。その勢力の一人だったのが足利高氏だ。高氏は後醍醐天皇の名(尊治)から一字もらって「尊氏」に名を変えたのである。

しかし建武の新政はすぐさま瓦解する。後醍醐天皇が、異常なまでに天皇一極集中の政体を作り、法と慣習を無視した政治を行ったからだ。一方で、尊氏は庄園領主(これは今の言葉で言えば既得権益層とでもいえるかもしれない)の権限を認める保守的な考えを持っていたから、後醍醐の新政を歓迎しない勢力が靡くようになり、それを基盤として独自の権力を行使し始めた。それを反逆とみた後醍醐は尊氏討伐に打って出たが、激しい戦いの後に敗北した。

尊氏は後醍醐天皇と講和し、光明天皇(持明院統)を擁立。ところが、講和したはずの後醍醐は「そちらに渡した三種の神器は偽器(ニセモノ)である」といって、自らが正統な天皇であることを主張、吉野に潜行して独自の政権(南朝)を打ち立てたのである。元々、鎌倉時代の後半から、天皇家は持明院統と大覚寺統に分かれて交互に天皇を擁立した(両統迭立)のであるが、後醍醐がこの無茶をやったお陰で持明院統と大覚寺統が完全に分裂し、北朝と南朝となるのである。

足利尊氏は、後醍醐のように明確な支配のイメージは持っていなかったように見受けられるが、弟の直義と権力を二分する両頭体制で政権を樹立(著者はそれを「建武式目」制定の時に置く)。 南朝が政権を奪還すべく果敢に攻勢してくる中、徐々に政権は整っていった。そして延元4年(1339)、後醍醐は12歳の後村上天皇に帝位を譲り亡くなった。1333年から僅か6年間。その間に護良親王、楠木正成、北畠顕家、新田義貞ら南朝の武将の多くは死んで、武家=北朝方の優位が確立するかに見えた。

が、動乱はまだ始まったばかりだったのである。

それは、南北朝の動乱は、単に権力奪取のゲームであったのではなく、その背景に様々な時代の変化が内包されていたからだ。特に武士の在り方がいくつかの点で鎌倉時代とは変わっていった。

第1に、鎌倉時代には御家人としてまとまっていた武士のまとまりがなくなった。それは、鎌倉幕府倒壊によって主従関係が解消されたからである。もともと武士は傭兵である。武士たちは誰を主人にしてもよかった。足利尊氏は征夷大将軍に任命されていたが、「征夷大将軍」とは象徴的な官名であるだけで、全国の武士には尊氏に従う義理はなかった。

第2に、そういう状態であったから、武士はより有利な条件を求めて分裂した。これはもちろん保険の意味もあった。南朝と足利政権のどちらが勝ち残るかわからないからだ。政治状況次第で武士団は分裂し、武士団が分裂することによってさらに政治が複雑になった。

第3に、武士の相続が、分割相続から単独相続になっていった。鎌倉時代の武士は所領が各地に分散していたが、これは動乱の時代には維持しきれなくなる。いつでも見張っていなければ横領の危険があったからだ。自然と所領は本拠地の一箇所になっていく。そのため、兄弟に分割する余裕はなくなり、単独相続に変わっていくのである。こうして、惣領制から家督制(←この用語は本書にはない)へ徐々に移行していくことになる。

第4に、戦い方も変わった。それを象徴するのが徒歩(かち)武者=歩兵の登場である。鎌倉時代の武士は騎馬武者であって一対一で戦うものだったが、南北朝時代には既存の、いわば「古き良き」戦いかたではなく、悪党的なゲリラ戦法が中心になってくる。そして槍が武器として使われるようになるのもこの時代である。集団的な戦い方、殲滅戦になってくるのである。

このような武士の変容を背景にして、足利尊氏と直義の争いである「観応の擾乱」が起こる。

もともと室町幕府は、尊氏は直接には政権運営を行わず、高師直(こうの・もろなお)を執事として、実務を直義が担う体制になっていた。

直義は日野有範(儒学を家業として王朝に使えた家)を幕府政治に参与させるなど儒教思想を好み、性格は誠実・真面目で、夢窓疎石との対話『夢中問答』でも有名なとおり仏教教理にも明るかった。

一方の高師直は、仏神や天皇を含め既存の権威を全くみとめず、合理性を至上とした、全く違ったタイプの執政官であった。この二人は当然のように対立し、武士団が二人を筆頭に分裂していくのである。

こうして、鎌倉幕府的な秩序の存続を願う勢力が直義に、それと反対の破壊勢力が師直=尊氏につき、さらに南朝がそれに加わって、「天下三分の形勢」にいたるのである。観応の擾乱は、高師直と足利直義が共に没落して決着し、尊氏の覇権が確立するものの、尊氏の非嫡出子で直義の養子になっていた直冬が新たな勢力となって「天下三分の形勢」は続く。

そして観応の擾乱後、またしても南朝が奇策を弄する。北朝から三上皇と廃太子を拉致したのである。こうして北朝は天皇不在の異常事態に見舞われる。皇位を与える資格がある上皇すらいないのだから、北朝としては天皇を新たに立てるのも不可能になった。天皇不在の王朝はありえないため、自然と北朝は解消されると南朝は考えたのだろう。

ところが北朝は、これを常識外れのウルトラCによって克服する。広義門院が上皇の代わりとなって神器の代わりに神鏡の容器(小唐櫃)をつかい、後光厳天皇を擁立したのである。広義門院は後伏見天皇の妻で、また花園天皇の准母(名義上の母)であったが皇族ですらない人物だ。北朝は苦し紛れにありえない方法で天皇を擁立したため、天皇の権威低下は避けられなかった。

14世紀後半、畿内では南朝が低調になった一方、九州では南朝方が興隆する。それには、延元元年、8歳で征西大将軍になりたった12人の従者とともに九州に下向した懐良親王が関わっていた。九州では、郡司系の土豪が守護からの圧迫に耐えかねて南朝に帰属したのである。九州には筑前の少弐、豊後の大友、薩摩の島津という強大な守護がいたため、これに対抗するために「敵の敵は味方」方式で土豪たち(鹿児島では「国人」という)が南朝についたのである。

また、足利直冬も九州に移り、少弐頼久に迎えられて幕府党が直冬に応じたため一時は強大な勢力となったが、直冬はやがて南朝に転じて影響力を失うこととなる。ちなみに少弐頼久が直冬を迎えたのは、全九州の軍事指揮官=鎮西大将軍である一色道猷を排除しようとした思惑があったようだ。九州でもいろいろな勢力が競い合うことで「天下三分の形勢」が出来したのである。

ところで、南朝の最高指導者にあたる立場だったのが北畠親房(ちかふさ)である。彼は『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』を著し、王朝の絶対性を主張することで武士を説得しようとした。彼の論は、武士に対し南朝に帰順する利益(官位がもらえるとか)を説くものではなく、利益を度外視して王朝に尽くせという主張だったので当時は形勢を変える力を持たなかったが、むしろ後世に影響を与えた。

文和4年(1355)、幕府は三度の京都奪回に成功してほぼ勝敗の帰趨が明らかになった。ここからは天下三分の残した課題に答えようとする幕府の苦闘の歴史となる。延文3年(1358)、尊氏は死んで、その子の義詮(よしあきら)の時代となったが、同年、義詮に男子が産まれる。南北朝動乱を終わらせる足利義満の誕生であった。

幕府の苦闘は、第1に政権の組織をどう組み立てるのかということと、第2に庄園領主と武士(守護)間をどう調停するかということに主眼があった。

第1の点は、両頭政治によって混乱したことの反省を踏まえ、権力を一元化することが図られた。具体的には、執権の在り方が変わった。執権はかつては将軍の補佐官・秘書であったが、幕府は執事の地位・権限を強化し、幕府の支配機構を一元化した。これによって執権は「管領」となっていった。これは今風に言えば官房長官のようなものになったのだと思う。

第2の点は、そもそも南北朝の動乱の根っこにある問題だった。それを象徴するのが、「半済(はんぜい)令」である。これは、庄園・国衙領の年貢の半分を守護が兵粮米として徴集できる法である。長引く戦争の費用を捻出するために守護は税金の5割を取ったのである。「半済令」の問題は、幕府は全国に領域的支配権を確立していたわけではなかった、ということにある。

つまり本来的には幕府の支配領域ではない国衙・庄園に守護が税金をかけていた。庄園領主、すなわち寺社がこれに反対するのは当然である。しかし戦乱が続く限りその費用はどこからか出さなくてはならない。守護職には所領が付属していたとはいえ、所領と遠く離れた戦地で全ての戦費を弁済するのは難しかったので、寺社勢力と対立してでも各国で「半済令」が乱発された。

本書には詳らかでないが、もしかしたら守護の収支を考えてみると、戦乱が続いて「半済令」が適用できる方が利益になったのかもしれない。戦時の特別税である「半済令」を使えるよう、むしろ守護は戦乱の収束を願わなかったのかもしれないと思った。

それはともかく、「半済令」はあくまでも戦時の特別説である。よって幕府の覇権が確立し、戦乱が収まってくると幕府はそれを禁止した。つまり幕府は寺社を保護し、守護以下の武士の抑圧したのである。ではなぜ幕府は同胞である守護ではなく、むしろ社寺を保護したのか。

それは、庄園領主=寺社本所と守護勢力の均衡の上に幕府が成り立っていたからである。この二つの勢力がせめぎ合い、そしてそのバランスを取ることに幕府の存在価値があった。守護が強くなりすぎるのも困るのである。

もともと、「守護」とは一国の軍事指揮官であり、幕府はそれを吏務職(りむしき=役人)化したかった。直義は「国を治める能力があるものが守護を務めるべきで、恩賞として守護を与えるべきではない」と至極真っ当なことを言っている。

一方で守護の方では幕府から独立した勢力を打ち立てたかった。しかし守護というのは一国の運営全てを担うのではなくあくまでも軍事指揮官である。つまり領域的支配権(土地の支配権)があるわけではない。よって土地の実権を持っている庄園領主を徐々に圧迫する形で統治権を広げて行った。守護は庄園制に寄生したといえばいいのかもしれない。そして本来は国衙(国司)が持っていた国検(検地)の権利も守護が奪取したものと見られる。こうして、国衙領や国衙の実務を守護が奪うことで、一国の主としての守護の支配体制が出来上がっていった。それを「守護領国制」と呼ぶ。

よって第2の点、庄園領主と武士(守護)間をどう調停するか、ということについては、幕府は庄園領主を保護する政策を行ったものの、結局は守護の力が自然と強くなっていったということになる。1360年代が守護領国制にとっての画期であり、応永(1394〜1428)あたりには守護職は一家相伝のものに変質してしまった。ちなみに国司は自然消滅したようだ。

なおこの時代、庄園の在り方も変わっていった。多くの庄民が寄合に参加する庄民結合あるいは村落結合が出現する。少数の支配者が村落を治めるのではなく、庄民の結合が庄園=村の実体となり、それが法人格的に扱われるようになったのである。

このように多くの変化を内包しつつ、足利義満の治世になって、南北朝の動乱は終結する。

義満は、管領・侍所・直轄軍をそれぞれ将軍直属にするなど幕府の権力を将軍に一極集中させた。また奉公衆(将軍直属の高位の武士)を将軍の直轄領の代官にする制度をつくるとともに、将軍家を頂点とする家格の固定化を行った。

また、衰微していた南朝と和睦し、実質的には吸収合併に近い形で南朝を接収した。

義満は王朝に強い関心を示しており、早くから異常な早さで官位を進めて太政大臣に昇りつめ、しかもそれをすぐに辞任した。義満は無力な公家をバカにしていたらしいが、それと距離を取るのではなくて、公家のルールを逆手にとって形式的にその上位に立つという老獪さを持っていた。義満はさらに出家によって聖俗の身分を超越し、武家・公家の上に超然と立つ立場へ自らを置いた。義満は自らを天皇に擬していた。

そして、統治の最後の仕上げが九州の統一であった。この頃の九州は、管領・細川頼之によって九州探題として派遣された今川貞世(了俊)が九州を制圧する勢いだったが、守護たちとの諍いによって混乱している中でもあった。九州が中央にとっての大きな政策課題になっていたのは、九州は対中国貿易の窓口となっていて、その実権を奪い合っていたからで、事実、今川了俊はこの時期に盛んになっていた倭寇=海賊衆の力を借りていたのではないかという。

しかし、1368年に成立した明は、自由貿易を禁止して朝貢貿易のみに一本化する政策を実施(1371年、海禁令)。義満としては自由貿易か対等な形での貿易を行いたかったようであるが、明がそのような方針である以上、明に朝貢するという臣下の礼をとる以外には貿易ができない。そこで義満は今川了俊を解任、それによって大内義弘が力をつけて反乱を起こしたがそれを鎮圧。このように九州を直接平定し、応永8年、明帝に臣下の礼をとった。

そして明は、天皇ではなく義満を「日本国王」と認めたのである。これは対外的にはもちろん、国内へ向けても、義満が完全な支配権を確立したことを明のお墨付きで示した画期的なことだった。このようにして室町幕府の覇権が確定したのである。

南北朝の動乱全体を通じて私が感じたのは、武士の支配にあたって問題を複雑化させたのが「所領給付」にあったのではないかということだ。そもそも鎌倉幕府の成立にも所領の問題が大きく関わっているのであるが、鎌倉幕府がなくなってしまったことでその問題が蒸し返された観がある。所領が武士の働きの見返りである以上、戦乱が起こればかならず土地が必要になる。一方で、幕府は土地の支配権の獲得によって成立した統治機構ではない(「征夷大将軍」という軍事指揮官としての統治機構である)ので、そこにどうしても矛盾が生じるのである。

しかもこの時代、幕府の財政の中心は土地からの年貢ではないようだ。そもそも守護は別として、幕府自体は年貢をとっていないように見える。幕府は、営業税や貿易による利益、つまり商業を手中に収めることで収益を得ているような感じである。だから守護以下の家臣団と幕府の双方の思惑は、何かちぐはぐな感じがぬぐえないのである。

そうした考察は本書にはないので私の勘違いなのかもしれないが、幕府と家臣団の双方の財政構造はもうちょっと詳しく知りたいと思った。

南北朝時代の優れた概説書。

 

【関連書籍の読書メモ】
『観応の擾乱—室町幕府を二つに引き裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』亀田 俊和 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/03/blog-post_8.html
観応の擾乱を丁寧に解きほぐす本。『南北朝の動乱』とは違った視点で足利尊氏を描いている。

『中世奇人列伝』今谷 明 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/12/blog-post.html
中世における、知られざる6人の小伝。広義門院による天皇擁立というウルトラCについて詳しく述べており非常に面白い。

『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html
中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。寺社勢力が公家・武士と並ぶ権門であったことを明らかにした名著。

『中世薩摩の雄 渋谷氏(新薩摩学シリーズ8)』小島 摩文 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/06/8.html
中世の渋谷氏に関する論文集。南北朝時代の鹿児島の状況に詳しい。

 

2021年7月31日土曜日

『第二の性 I 女はこうしてつくられる』ボーヴォワール 著、生島 遼一 訳

不朽の女性論。

『第二の性』は哲学者ボーヴォワールの主著である。彼女は1949年という早い時期にフェミニズム運動の先駆けとなる本書を発表した。彼女自身が、哲学者のサルトルと恋人同士でありながら婚姻も子供を持つことも拒否し、互いの性的自由を尊重しつつ共同生活するという新しい時代の女性観・夫婦観の実践者であった。

『第二の性』は、第1巻「事実と神話」第2巻「体験」によって構成され、原語(フランス語)版で1000ページ以上にもなる大著である。この生島遼一訳では、第2巻「体験」の方から訳出されており、本書は「体験」3分冊のその1である。

その内容は、あまりにも有名な冒頭「人は女に生まれない。女になるのだ」が象徴する。男が作った、男が実権を持つ社会の中で、女は少女時代から老年に至るまで副次的な役割だけが割り振られるという「第二の性」に甘んじなくてはならない。(セックスではなくジェンダーの)「女」は生得的なものではなく、社会によって作られたものなのだ。

幼児期は男女の区別はさほど厳しくないが、少女時代になるといろいろな点で女の子は行動に制限が加えられる。女の子は木登りなんかしない方がいいとか、ズボンをはくべきじゃないとか、そういう些細なことから区別は始められる。

そして少女は、自分は人生を主体的に生きることができない「第二の性」なのだということを理解するようになる。最も野心に富み、自らの可能性を開花させていきたいという欲望を持つ若者の頃に、そういう残酷な現実が少女に降りかかってくるのである。女性は自分の可能性を十分に発揮することが許されておらず、あくまでも男の付属品として生きなければならないという現実に。「少女は大人に変形するためには、女性なるがために課せられる狭い限界のうちにちぢこまらなければならない(p.87)」のである。

もちろん、本書執筆の時点(約70年前)においても、ボーヴォワールを含め自らの信じた道を突き進む女性はいた。女性であっても仕事中心の生き方をする人は皆無ではなかった。しかし一方で、その女性たちは、結婚や出産といった(ある意味では唾棄すべき役割だったとしても)世間並みの幸せを諦めなくてはならなかった、というのも事実だったのである。男たちは当然のように仕事も家庭も手に入れているのにだ。

しかも、女性が男性の付属品として生きる――つまり子供を産み、それを育てるという役割を男のために果たす――のは、自分の自主性を押し殺すのを別にしても、楽ではない。なぜなら、女性は値打ちある男に気に入られなくては、値打ちある女になれない。そして男に気に入られるためには、たいていの場合は可愛さ以外のことは評価されないからだ。「王女さまだろうと、羊飼いの娘だろうと、愛と幸福を手に入れるためには、きっと美しくなければならない(p.47)」のである。

男の場合は、スポーツや勉強、面白い話、リーダー性といったいろいろな観点で女性から評価されるのに、女性の場合は、そうした長所を持っているだけでは十分ではなく、さらに美しくなければ男性から評価されない。しかも、しばしば「あまり教養があるのや、あまり賢いのや、あまり個性的な女は、男たちを恐がらせる(p.117)」。

だから女性は、時としてあえて堕落したり自分を傷つけたりすることで世間に反抗してみたりもする。だが「若い娘は――特に不器量者でないかぎりは――けっきょく女らしさを受諾する(p.168)」。自分が主体になるのを諦めなければならないにしても、大部分の若い娘にとっては、「まじめな恋人・夫」を手に入れることが結局は有利だからだ。

それに若い娘がおしゃれをすることは、単に男性に媚びを売っているだけでもない。自分を美しくしつらえることは、それ自体が喜びであることも多い。また若い娘は(空想的な)「まじめな恋人」を夢想することも多いが、それも一つの遊戯であり、別にそういう男を手に入れるための「取引」を肯定しているわけでもない。しかし長い目で見れば、女性は「自主的個体」であることを諦め、男性に気に入れられる客体(モノ)となる選択をせざるをえないように追いつめられ、むしろ「受け身のかたち」で成功することが女性の夢となっていくのである。

こうして女は作られていく。だがもちろん、それは男性にだって言えることだ。男性だって、「男」として与えられた役割をこなさなくてはならない。でも歴史を顧みれば、重力を発見したのも、アメリカ大陸を発見したのも、憲法を作ったのも男だった。「男だって苦しんでいる」のが事実だとしても、ジェンダー(という用語は本書にはない)が平等でないのは明らかなのである。

本書は、「第1章 幼年期」「第2章 若い娘」「第3章 性の入門」「第4章 同性愛の女」で構成され、以上は第1章と第2章の内容である。第3章からは、発表当時かなりスキャンダラスに受け取られた(批判が殺到した)ところで、女性の性について率直に語られている。月経の問題などは最近になってようやく世間がボーヴォワールに追いついてきたと感じた。一方、女性の性欲についての論考は、当時は衝撃をもって受け取られた(そのおかげで本書はベストセラーになった面もある)のであるが、現代から見ると穏当である。

女性の性について多角的に述べる中でも、特に「冷感症の女」の話題が長かったように感じた。つまり性の快楽を感じない女がいるのはどうしてかということで、処女が暴力的に奪われる場合が多いこと、夫や恋人の冷たい態度、モノとして扱われることなどをその原因に求め、「冷感症」を改善させるためには、性の技巧ではなく「肉体と精神との両面の相互的な思いやり」が大事だと結論付けている。

また当時としては「第4章 同性愛の女」もかなり先進的である。若干時代を感じさせる部分もあるが、同性愛を(「正常」と対置する)「変態」として扱わなかったのは慧眼だと思った。なお本性は「同性愛」自体を考察するものではなく、同性愛の女はどうして存在するのか、ということを入口にして、女性のおかれた苦しい状況を再確認させるような内容だ。

女性は、様々な面で男性に比べ苦しい立場に置かれている。にもかかわらず、彼女は弱さを 武器として魅力として生きなければならない。女性は、主体的に戦うことを奪われているのである。ボーヴォワールは本書執筆の後に女性解放運動に加わるが、本書には女性の闘争を呼びかける要素はほとんどないのに、女性が不当に受動的な社会的役割を押し付けられていることを緻密に論証することでその戦いの土台を作っていたといえる。

なお本書は、ほとんど改行がなく切れ目なく話題が続いていく形式(小見出しなどがない)であるため、現代の読者にはちょっと読みづらい。議論がどこへ向かっているのかよくわからない哲学者的な書き方である。それに、やはり70年も前の著作であるため、女性のおかれた立場も今とは少し違う。だが70年経っても、むしろ全然変わっていないところも多いのである。それは、生殖は女性にしかできない、という普遍的な前提があるためだ。だからこそ両性の不平等を是正していかななくてはならないのに、ボーヴォワールの頃とさほど変わっていない日本の状況にも暗澹たる思いがした。


2021年7月29日木曜日

『ウィーン楽友協会二〇〇年の輝き』オットー・ビーバ、イングリード・フックス著、小宮 正安 訳

ウィーン楽友協会の歴史を述べる本。

「音楽の都」ウィーン、その近代音楽シーンの中心にあったのがウィーン楽友協会である。ウィーン楽友協会の誕生以前には、音楽家が公に作品を発表する場合、自らが興行主となって演奏会を企画するしかほとんど道はなかった。つまりこの頃の「クラシック音楽」の在り方は、今のロックやポップスと似ていて、音楽家本人が会場手配・広告・チケット売りさばき・共演者手配・チケットもぎり…といったことを差配しなくてはならなかったのである。こうした演奏会開催の実務を引き受ける企画者がウィーン楽友協会であり、その誕生には画期的な意味があった。

ウィーン楽友協会の誕生以前も「音楽愛好協会」という団体が定期演奏会を開催したことはあったが、ナポレオン侵攻によって活動は頓挫していた。

やがてオーストリアがナポレオン軍に勝利すると、1812年、その戦勝や被災者の救援を目的に大演奏会が行われ、それがきっかけになってウィーン楽友協会が設立されることになる。この団体は単なる音楽の興行団体ではなくて、政治的な意味、愛国的な意味を付与された存在だった。それは当時のオーストリア皇帝フランツ1世の弟ルドルフ大公が楽友協会の名誉総裁を引き受けていたことからも明らかである。

オーストリア帝国はヨーロッパの新秩序の建設にあたり、芸術の力を政治的な立場の強化に活用しようとしたのである。

しかしウィーン楽友協会が政治的な使命を帯びた御用団体だったかというと、そうでもなかったのが面白いところで、この団体はまずディレッタントの集まりとして誕生する。つまり職業的音楽家は会員になれず、音楽を趣味とする人(多くは貴族)による音楽サークルみたいな存在だった。

彼らにとって音楽はあくまでも趣味であるために却って真剣であり、協会の活動方針は「音楽を高い水準で広めることこそ協会の主目的であり、協会員がみずから演奏したりそれを聴いたりすることは、副次的な目的である」とされていた。またこのために資料館と音楽院が併設され、その収蔵品と教育の水準も非常に高かった。 

ところでウィーン楽友協会といえば、毎年お正月に演奏されるニュー・イヤー・コンサートの会場である「ウィーン楽友協会大ホール」が有名だ。実は楽友協会がコンサートホール(1831年建設の初代ホールは現存せず)を作るまで、ウィーンにはコンサートホールというものは存在していなかった。先述の1812年の大演奏会も、王宮内部のスペイン乗馬学校乗馬ホールを借りて開催されたのである。

現在のウィーン楽友協会会館が完成したのは1870年。ウィーンは1848年に革命が起き、その鎮圧からの政治的混乱、そこからの復興の気運の中での新会館の建設だった。革命後、楽友協会の活動が低迷し借金漬けになっていたところ、カルル・チェルニーが遺産を協会に寄贈したことをきっかけにして経営が好転し、皇帝から土地を下賜(無償寄贈)されて建設したのが現会館である。

日本ではコンサートホールというものは公共の施設として建設されるものがほとんどだと思うが、ウィーンでは政治とは近かったとはいえ民間の団体が最初の音楽ホールを建設したというのが、国の在り方の大きな違いを感じさせるところである。

ところで話が逸れるが、今の日本の小都市には結構コンサートホールがある。例えば鹿児島だと姶良市の「加音ホール」、霧島市の「みやまコンセール」などは有名だ。だがモーツァルトやハイドン、そしてベートーヴェンが活躍していた時代のウィーンには、コンサートホールがなかったというのだから驚きなのである。彼らが人類史に燦然と輝く珠玉の名曲を作っていたのは、コンサートホールすらない頃だった。今の日本では立派なコンサートホールがそれこそ日本中にある(もちろん世界にも)。にも関わらず第2のモーツァルトやベートーヴェンがどんどん生まれて来ないのはなぜなのか。本書を読みながら文化の在り方について考えさせられた。

本書には協会の歩みの他、「楽友協会と演奏会」「楽友協会音楽院」「ウィーン楽友協会資料館」について述べており、それぞれ興味深い話題が盛りだくさんである。特に音楽院に無試験で入学を許された上、さまざまな特別扱いを受けたマーラーの話と、家族がいなかったので協会が葬儀を行い、貴重なコレクションが遺贈されたブラームスの話が面白かった。

しかし本書にはちょっとした弱点がある。それは著者が協会の資料館館長・副館長なので、どうしても内容が宣伝というか自己紹介的になっていることである。よって本書はジャーナリスティックではなく、いいところだけを切り取ってまとめたような箇所がある。また創設の事情なども、どうも説明がボヤッとしていて、書き方が明解ではない。

関係者が書いているために貴重な情報が開示されている一方で、見栄えの良いところだけをまとめたような部分もある社史的な本。


2021年7月11日日曜日

『廃仏毀釈—寺院・仏像破壊の真実』畑中 章宏 著

各地の廃仏毀釈の事例を述べる本。

本書は、安丸良夫『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書)で描いた廃仏毀釈の経過を、事例面で補足するものである。『神々の〜』は明治政府の宗教政策を包括的に明らかにした名著であるが、廃仏毀釈で何が行われたかについては、象徴的な事例がいくつか引かれるだけで全国の具体例が掲載されていない。また近年刊行された廃仏毀釈関連本では、それが乱暴狼藉だったという一面的な捉え方をしているものが多く、多面的な見方では描かれていない。

そこで著者は、全国の主な信仰の地における廃仏毀釈の経過をまとめ、またその伝承を民俗学的な視点—つまり伝承をそのまま事実として見なすのではなく、なぜその伝承が生まれたのか考察するという見方—で捉えようとした。

具体的には、神仏分離以前のいわゆる「神仏習合」と呼ばれる状態がどうであったのかを簡単に紹介し、それから第1章:日吉社・薩摩藩・隠岐・松本藩と苗木藩の事例を述べる。次に第2章:奈良・京都・宮中・鎌倉の事例、第3章:伊勢・諏訪・住吉・四国の事例、第4章:各地の「権現」がどのように排除されたか、特に山岳信仰と金比羅信仰について述べ、第5章:各地の牛頭天王信仰(八王子・祇園・大和など)の改変、と続く。そして終章において、廃仏毀釈はどの程度”順調に”果たされたのかについて改めて検証している。

ただし最後の検証結果については、『神々の〜』における安丸の叙述や、その他の廃仏毀釈の研究とあまり異ならない。それは、大寺院の僧侶の場合は一部に反抗はあったものの多くは廃仏の指令に素直に従った一方、民衆や地方的な寺院については抵抗するものがけっこういた、というものである。

本書のやや新しいところは、前述の「民俗学的な視点」であり、これまでの廃仏毀釈の本では、例えば興福寺の五重塔が25円で売りに出された、といった伝承がそのまま事実として描かれていたのに比べ、「本当にそういうことがあったのかは分からないが、そういう伝承が残っている」という形で、留保しながら記述されていることである。

それらの伝承は、今となっては事実であったかそれとも誇張であったのかは検証できない。とはいえ廃仏毀釈を免れた仏像とその破壊の伝承が微妙に整合していないことを考えると、一部誇張が混じっているだろう、というのが著者の考えのようである。しかしながら「民俗学的な視点」は本書の全体には貫徹していないように見える。というのは、事例紹介がほとんど公刊されたものや公的な記録(郷土誌とか)に負っており、伝承の聞き取りといったものが行われていないからである。そこはやや期待はずれの点である。

ところで、本書を読みながら、ある地域の廃仏毀釈では堂宇の取り壊しが徹底的に行われているのに、別の地域では堂宇のいくつかが神社の社殿に転用されている、という違いが気になった。神仏分離令では神社から仏教的なものを取り除け、といっているだけなので、 必ずしも建物を壊す必要はない。例えば五重塔のような、完全な仏教建築を壊すのはしょうがないとしても、経堂とか金堂は神社の社殿に転用が可能なのである。にも関わらず、なぜ頑なに全部破却しようとした人がいたのだろうか。建物は残して神社の社殿にしてしまった方が合理的に思えるのに、どうも「壊す」こと自体に価値を置いていたように感じてしまう。やはり暴動的な心理が働いていたのだろう。

それから、明治7〜8年になって廃仏毀釈が行われている事例がいくつか紹介されていて興味を引いた。本書には記載がないが、明治5年には大教院体制が出来て神仏合同の国民教化運動が行われる。つまり明治7〜8年の頃は仏教勢力も国家に協力する立場になっていて、必ずしも一方的に弾圧される存在ではない。にも関わらず「神仏分離令」が停止されていたわけではないため、この頃になっても神仏分離とそれに続く廃仏は行われていたのである。「神仏分離令」はいつくらいまで実効性を持っていたのだろうか。これはさらに検証してみたいところである。

なお、本書では神仏習合の様相が大きく取り上げられており、今のような(仏教的ではない)神社の存在は廃仏毀釈によって生まれたものだということが強調されている。 そして例えば八坂神社については元々が疫病を抑える「牛頭天王」を奉ったものであるのに、神仏分離によって「牛頭天王」が抹消されたためにその信仰内容が不明確になってしまった…というような事例をいくつか引き、神仏分離・廃仏毀釈は単に神社から仏教的要素を取り除いただけでなく、信仰そのものの改変であったとしている。

著者自身が「問題追及の途中経過」と言うとおり、全体的に必ずしも調査内容は重厚ではないが、廃仏毀釈の全国的な動向がまとまっているのは便利であり、「民俗学的な視点」は今後の研究に期待できるものである。

廃仏毀釈の事例集として分かりやすい本。

【関連書籍の読書メモ】
『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。「国家神道」まで繋がる明治初年の宗教的激動を、わかりやすくしかも深く学べる名著。

『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち』佐伯 恵達 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/01/blog-post_11.html
宮崎で行われた廃仏毀釈についてまとめた本。廃仏毀釈や神道の見方はやや一面的なところはあるが、仏教側への考証は緻密で、地元に関する情報が豊富な真摯に書かれた本。地方の廃仏毀釈の実態を探るためには、このくらいの情報量が必要と思う。

 

2021年7月10日土曜日

『中世の罪と罰』網野善彦・石井 進・笠松宏至・勝俣鎮夫 著

日本中世における罪と罰の在り方を考察する論文集。

何を悪事と見なし、どのような罰を加えるか、ということは社会の特質を示す格好の素材である。例えば外国に行ったとき、日本ではごく普通に許されていることが罰せられたり、逆に日本ではしてはならないことが堂々と行われたりしていて、その文化の違いにハッとさせられることは多い。その一つひとつが、その国の人々が考える社会のあるべき姿と繋がっているからである。

だから、日本の中世における罪と罰の在り方を知ることは、その社会がどのようなものであったかを照射するテーマとなるのである。

しかしながら、中世の刑法システム—今で言えば刑事訴訟法とか民事訴訟法のようなもの—は完全な形では残っていない。というよりも、中世においてはそれはその場しのぎで増築されていった建物のようなもので、当時の人にとってもその全貌が分かりづらいものだったようだ。よって、それは史料に残る片言隻句から推測・考察していくしかない。

本書には、そのようなスタンスで書かれた10の論文と著者たちによる討論会(の速記録)が収録されている。

1「お前の母さん……」(笠松宏至):鎌倉時代、悪口は重罪の一つだった。御成敗式目は前時代までの罪を踏襲していたが、唯一「悪口」だけは式目で規定された罪である。著者は特に母子相姦を表す悪口について考察している。

2 家を焼く(勝俣鎮夫):荘園領主はその領民が罪を犯したとき、追放とその住居を破却・焼却するだけでそれ以外の断罪の手段をほとんど持たなかった。では追放はともかく家の破却はどうして行われたのか。それは犯罪を穢れと見なしていたためで、穢れている犯罪者の住居を領内からなくすためだったのだという。

3「ミゝヲキリ、ハナヲソグ」(勝俣鎮夫):中世では、追放・所領没収・死刑が代表的な刑罰であったが、劓刑(はなそぎけい)や指斬り刑などの肉体刑、また片側だけ鬢を剃るとか女性の髪を切るといった刑罰も行われた。これらは「異形の姿にする刑罰」であり、詐欺や密通など「あざむきの罪」に対応していたと見られる。

4 死骸敵対(勝俣鎮夫):死骸を辱めることは中世ではよく行われた。合戦で死骸が敵方に渡らないように処置することは残されたものの務めだった。死骸は意志あるものと考えられ、その意志に反する行為は「死骸敵対」として非難された。

5 都市鎌倉(石井 進):鎌倉は政治の中心として数々の規制にがんじがらめになっていたが、実際にはその禁制が現実に力を持っていたとは限らない。また相次ぐ災害や飢饉によって鎌倉は荒廃して人肉が喰らわれていたことさえあった。そのような環境を踏まえて罪と罰の体系を考察していく必要がある。 

6 盗み(笠松宏至):盗みは公家法・幕府法では盗んだものの金額次第で罪の軽重が計られる軽罪だったが、実際に機能していた在地法(荘園本所法)では金額によらず本人の死刑のみならず妻子所従に及ぶ重罪と見なされた。盗みは不浄なことと考えられたため、このようなダブルスタンダードが長く続いたのかもしれない。

7 夜討ち(笠松宏至):現代の感覚では、昼の討ち入りと夜討ちは同じものに思えるが、中世では夜討ちは斬罪が原則の凶悪犯罪だった。やることは同じなのになぜ夜に行うことが問題になるのか。他にも夜間の通行に対する規制も多かった。どうやら中世の夜には昼と違うルールが存在していたようである。

8 博奕(網野善彦): 博奕は古代から盛行し、10世紀から11世紀には「芸能」の一つとなった。博奕は巫女と同様に神と関わりを持つ呪術的な側面があったらしい。しかし鎌倉期になると博奕は公権力によって禁止され重罪と見なされるようになり、戦国時代には刑罰も厳しくなり、その姿勢は江戸幕府にも引き継がれる。

9 未進と身代(網野善彦):未進、すなわち納入すべき年貢を納められないことは罪であった。それは借銭・借米の未返済と同じような契約不履行の罪であって、その罰として身代を取り上げられる=債務奴隷化するということが多く行われた。これは年貢の制度自体が出挙の仕組みを基盤としていたからではないかという。

10 身曳きと”いましめ”(石井 進):「9 未進と身代」での考察が再び取り上げられる。未進だけでなく犯罪の場合も「身曳き」といって、自分の身を領主の下人とすること、即ち犯罪奴隷化が行われた。 しかしその場合も上位権力による命令によったのではない。「曳文(ひきぶみ)」、すなわち「自分はこれこれの罪を犯したので自分の意志で所従になります」という自発的な文書を作成した(形にした)。「刑罰に処される人間が、自発的にそれを承認する文書を提出する形式をふまざるをえなかったところに、われわれは中世という時代の特色をもとめることができる(単行本版p.178)」。

討論[中世の罪と罰]: 興味深い話題が次々に、脈絡なく語られている。特に面白かったのは、「2 家を焼く」では荘園領主は犯罪者に対して追放・家の破却しかできなかったとしているのに、「9 未進と身代」「10 身曳きと“いましめ”」では明らかに債務奴隷・犯罪奴隷にするという処罰が存在していたとする矛盾をどう考えるか。それは荘園領主(=公家)と在地領主(=武士)では違う罪観念があったことの反映ではないかという。公家では犯罪は穢れであり遠ざけておきたいもので、その検断(逮捕・裁判・処罰)にもできるだけ関わりたくなかったが、逆に武士では積極的に摘発や追捕してその人間を殺すなり奴隷にしたりということが行われた。つまり武士は犯罪=穢れと思っていなかったフシがある。だからこそ武士が検断権を独占的に請け負うようになり、それが武士の力を高めたのではないかという指摘は面白い。

本書は雑誌『UP』に連載されたもので、論文集とはいっても、普通の論文では成立しないアイデア段階のものが自由に書かれており大変エキサイティングである。中世の刑法システムを体系的に語るものではなくトピック的なのでやや分かりづらいところもあるが、全体像がわからなくても面白く読める。

中世の罪観念を繙き、そこから中世社会の特質を窺うエキサイティングな本。


2021年6月20日日曜日

『破戒』島崎 藤村 著

被差別部落出身の青年の苦悩を描く小説。

本書は、日本近代文学の重要作品として名高いものであるが、読むのが暗鬱な本である。

主人公の瀬川丑松は、被差別部落出身(穢多)であることは絶対に隠せという父の言いつけを守り、小学校教員になって生徒からも慕われるが、校長などからは生一本な性格が疎まれて、やがて出生の秘密を探られるようになる。周囲の差別意識が徐々に露わになり、丑松は追い詰められる。その上、自分が穢多であることを隠しているという自意識が丑松自身を蝕み、丑松は鬱病のような状態へと陥る。

このプロセスは見ていて痛々しく、読み進めるのが苦痛なほどである。そこにどんな救済も用意されていないことを感じるからである。

一方、丑松が尊敬するのが猪子蓮太郎という人物で、彼はいわば「目覚めた人」として力強く描かれる。猪子は「我は穢多なり」と公言し、穢多も平等な一人の人間であることを訴える。その猪子が暴漢に襲われて死亡したことで、丑松は自らの人生の欺瞞に耐えかね、何もかも捨てる覚悟で穢多であることを公言。丑松は小学校の生徒たちの前で跪き、「今まで隠していて済まなかった」と謝り学校を去った。

その後、同じく穢多で社会から放逐された大日向という人物がテキサスに移住するという話に乗り、また以前より思いを寄せていた落ちぶれ士族の娘・お志保と両想いだとわかって、将来の結婚を臭わせて物語は終わる。

この終わり方は、「捨てる神あれば拾う神あり」という安易なラストであるが、私にとっては、最後の最後に少しでも丑松に救済が訪れてよかったと安堵できた。

しかしながら、丑松には本当の意味での救済は訪れていない。それは、丑松にとって穢多であることはあくまで恥ずべきことであり、自ら穢多を卑下してしまう差別意識を持ってしまっているからだ。その点が真に目覚めた人物である猪子とは違う。

そしてそれは、作者である島崎藤村自身にもおそらく言えることだ。藤村は、この優れた反差別小説を書きながら(そして猪子という反差別の旗手を登場させながら!)、やはり穢多を賤民視する「常識」から抜け出ることができず、言葉の端々で穢多を卑賤なものとして描いてしまったのである。

このことは『破戒』が部落解放同盟から問題視されたことからも明らかだ。藤村はそれに応じて(特に「穢多」を他の言葉に言い換えるなど)作品を訂正したが、それは本当の問題が何かを理解しない表面的な訂正で、しかも文学的に意味の通らないものとなり、むしろ改悪と呼べるものであった(本書はこの改悪が批判されて復活した初版本に基づくもの)。このことを見ても、藤村自身に拭いがたい差別意識があり、しかも差別意識の底にある本当の問題は何かということを閑却していたことの証左であるように思われる。

しかし、本書が藤村初の長編小説として自費出版されたのは明治39年で、これは差別問題がようやく社会の表面に出てきた頃である。このような早い時期に差別をテーマにしてこの重厚な作品を書いたということだけでも画期的なことであるし、今では暗鬱すぎて読むのが苦痛なほどであるが、当時は評判となって新潮社が出版権を2千円(破格)で買い取ったことから見ても、少なくとも同時代の読者に広く理解される描き方であったことは間違いない。

そして、丑松の態度は、非常にリアルなものだと私は思う。差別されてきた人間で、猪子のように突き抜けられるものはめったにいない。「差別されても強く生きなよ!」というのは、差別されないものの勝手な言い草で、実際には萎縮した生き方になってしまうのがやむを得ないのである。丑松が(まだ本当には問題が起こってもいないのに)徐々に自暴自棄になっていく姿、思いを寄せるお志保にまともに話すことができない意気地のなさ、穢多であるという自意識に押しつぶされていく様子など、等身大の若者の姿が描かれているような気がした。

そして丑松は言う。「何故、自分は学問して、正しいこと自由なことを慕うような、そんな思想(かんがえ)を持ったのだろう。同じ人間だということを知らなかったなら、甘んじて世の軽蔑を受けてもいられたろうものを」と。

本書のテーマは「目覚めたものの哀しみ」だといわれることがある。確かにそれはそうかもしれない。丑松は、学生時代には穢多を隠すことは何とも思っていなかった。しかし猪子の思想と出会ったことで、素性を隠しながら生きていることに後ろめたさを感じるようになるのである。それは、猪子が「穢多も人間だ。恥じることはない」と力強く主張することに共感しながら、実際には素性を隠して生きているという矛盾に耐えかねたためであった。

しかし既に述べたように、最後まで丑松は本当の意味では目覚めることはない。目覚めるということはどういうことかを知り、また自分では目覚めたのだと思っていながら、実際には未だ古い社会通念に自分自身が囚われているのである。そしてそれが、私が非常にリアルだと感じた部分でもある。

例えば、小説の最後に丑松は「隠していて済まなかった」と惨めに土下座する。しかし丑松は何も悪いことをしていないのである。悪いのは、穢多を差別してきた社会の方なのだ。丑松は被害者である。にもかかわらず、丑松は「隠していて済まなかった」と謝ってしまう。それまで散々、「なぜ穢多は穢多であるというだけでこんな目にあわなければならないのか」と煩悶しながら、ついにそれが社会批判として昇華することはないのだ。それが、目覚めたつもりになっているのに、いまいち目覚めきれない丑松の限界である。そしてそういう丑松の心理は、現実の人間の非常に精確な写実であると感じた。

明治時代の反差別小説の傑作。

 

【関連書籍の読書メモ】
『夜明け前』島崎 藤村 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/08/12.html
幕末明治の社会を、ひとりの町人の一生を通して描いた大河的小説。明治維新を反省させる大作。

 

2021年6月16日水曜日

『ハプスブルク 記憶と場所——都市観相学の試み』トーマス・メディクス 著、三小田 祥久 訳

ハプスブルク帝国の残滓を見つめる旅。

本書は、副題に「都市観相学の試み」とつけられているが、このような学問があるわけではないらしい。それは、観相学——すなわち顔立ちから内面を窺う技術——を都市に応用し、都市の相貌からその内面を覗いてみようというもののようだ。しかし本書は学問的というよりは、エッセイや旅行記に近く、結論じみたものもない。

正直に言えば、私は本書の叙述の半分もピンと来なかった。なぜなら、私は本書に取り上げられる都市の一つも訪問したことがないからで、本書には写真もないため、著者のいうことが現実の場所とどう繋がるのかが全く分からなかったからである。なので以下は甚だ心もとない読書メモである。

本書では、ウィーン、プラハ、ヴェネツィア、ブダペスト、トリエステが取り上げられる。これらはヴェネツィアを除きハプスブルク帝国(ハンガリー=オーストリア二重帝国)の版図に含まれた都市である。著者はこれらの都市に残されたハプスブルク帝国の記憶をその相貌を頼りに辿っていく。

ハプスブルク帝国とは、失敗したもう一つの「ヨーロッパ」である。それは現在の「ヨーロッパ」、即ち「欧州連合」とは違った原理で他民族・多言語を統合しようとし、瓦解した。本書では、そういうことが批評家風に語られるわけではない。しかしなんとなく浮かび上がってくるのは、ハプスブルク帝国という経験が、ヨーロッパに何をもたらしたか、であるように思われる。

それは、ヨーロッパにとって18世紀が何であったのか、ということなのかもしれない。激動の19世紀を迎える前、比較的平穏だったヨーロッパが、その平穏さの中に、暗鬱な火種を宿していたことを、なんとなく都市の相貌からえぐり出しているような気がした。ハプスブルク、という豪華絢爛な言葉のイメージとは逆に、本書から滲み出てくるのはむしろ崩壊の響きである。

しかし実際、本書はそういうものではないのである。著者は都市を巡り、歴史に思いを致す。そのシンプルな営みの中で、都市が置いてきた前近代の記憶をそこはかとなく掘り起こしていくだけなのだ。


『時代と人間』堀田 善衛 著

「時代の観察者」を描く本。

本書は、「NHK人間大学 時代と人間」のテキストを単行本化したものである。その内容は、ある時代の中で活躍しつつも、それをどこか醒めた目で見つめた人々を紹介するというもので、鴨長明、藤原定家、法王ボニファティウス、モンテーニュ、ゴヤの6人が取り上げられている。

平安時代、世の中は飢饉、大火事、地震などが立て続けに起こり、人々の暮らしは惨憺たる有様になっていた。そうでありながら、同時に宮廷では、そういう悲惨な現実とはすっかり遊離した『新古今和歌集』のようなシュルレアリスム的でさえある文学が組み立てられつつあった。

鴨長明は、自身でもそうした文学をつくりながら、批評家としてはその限界を認識し、遂には世を捨てて小さな移動式の家で無所有の暮らしをした。そこで彼は、「一人の孤独な、少し大仰なことばを使えば全人間というものに長明はなったのだろう(p.60)」と著者はいう。時代に背を向けるのではなく、むしろ時代をとことんまで見極めた人=「時代の観察者」、それが本書のテーマである。

一方、『新古今和歌集』の中心にいたのが藤原定家である。定家は日記『明月記』を書き続け、時代の様相を記録した。著者は定家が「紅旗征戎我ガ事ニ非ズ(戦争なんて俺の知ったことか)」と書いたのに衝撃を受けて『明月記』にのめり込んでいく。戦時中の日本で、仮にそんなことを書けば非国民と誹られたにもかかわらず、日記とはいえ平安時代に、自由で個人主義的な言論があったのである。

とはいえ『明月記』は変則的な漢文で書かれていて読むのに大変骨が折れる。そこで著者は自分の年齢の分の日記を読む、というやり方で20年以上も『明月記』に付き合い、その時代を見る目を追体験していった。それは平安時代が終わり、武家の時代が始まっていくことのヴィヴィッドな記録であった。

ところ変わって、フランスのモンテーニュ(著者は「ミシェルさん」と呼ぶ)も稀代の「時代の観察者」であった。ミシェルはボルドーの廻船問屋のお坊ちゃんで、当時最高の教育を受け、学校に入る前にラテン語がペラペラだった。長じてはボルドー高等法院の裁判官になったが、13年間務めながら一度も昇進しなかった。ミシェルは、法の公正性に疑問を感じ、裁判が欺瞞に満ちたものであることを見抜いていたからである。そこで39歳の時に公職を辞し、モンテーニュ領のシャトー(城館)へ引っ込んでしまうのである。

そして彼は、シャトーの塔の3階に引きこもって思索に耽った。透徹した目で時代を見つめながら、宗教戦争で荒れ狂う社会とは距離を置き、何者にも囚われない自由な発想で人間とは何か、国家とは何か、権力とは、理性とは…と考え抜いた。このような思索が『エセ—』として残されているということは、人類にとって僥倖であると言わねばならない。

それとは全く違うタイプの「時代の観察者」がゴヤである。彼は宮廷画家であったが、貴族にこびへつらうような宮廷人とは全く違った。それは貴族の時代が終わりを迎えていたからでもあって、絢爛豪華な宮廷文化が内側から腐っていき、新しい時代がわき出すのを皮肉っぽい目で観察していた。そしてナポレオン軍がスペインにやってきてゴヤは悲惨な戦争を目撃する。正視に耐えないような蛮行——それを彼はある程度時間が経ってから銅板に刻みつけた。その連作銅板が『戦争の惨禍』である。

彼は「この絶望を超えてなお生きていくことができるためには、人間がかかるものであることを身を徹して見聞きし、かつ表現しなければならない(p.184)」と言っている。人間の非常に醜いところ、下劣なところをも直視し、なおも進んでいこうとしたところにゴヤのすごみがある。人間なんてこんなものさ、と突き放すのではなく、人間の醜さを引き受けようとしたのがゴヤだった。

ちなみに著者はゴヤに惹かれ、晩年になってスペインに10年間住んでいる。著者は『明月記』を読み解いた『定家明月記抄』を上梓しているが、これもスペインで書かれたものだ。堀田善衛自身が、社会から距離を置いて、歴史から今の時代を見つめた「時代の観察者」であった。

また、鴨長明、モンテーニュ、ゴヤについても著者はそれぞれ名著と呼ばれる本を書いており、私はその全てを読みたいと思った。本書は、それらの本のエッセンスで構成されているとも言える。

「時代の観察者」を通じて、人間について深く考えさせる優れた本。



2021年6月4日金曜日

『「黄泉の国」の考古学』辰巳 和弘 著

古墳時代のあの世観を推測する本。

古代、海沿いの崖にある自然の洞窟(海蝕洞窟)は、しばしば葬送の場所になった。そこでは海に向けて置かれた船形の木棺で葬られた場合が散見される。また、古墳に船形木棺が安置されることもたびたびあった。それは「舟葬(しゅうそう)」と呼ばれる葬送方法で、神話学者の松本信広はこれを東南アジアの海洋文化に淵源するものと見た。

また、古墳には内部に様々な絵が描かれたものがあるが(装飾古墳)、そこにもゴンドラ型の船のモチーフがしばしば登場する。その他、霊魂を運ぶ(ように見える)馬も描かれることが多い。こうしたことは何を意味しているのだろうか。

著者によれば、そういった考察はこれまでの考古学ではあまりされてこなかったのだという。そうした空白を埋めるべく、古代人が考えた死後の世界を考古学的遺物を通じて推測したのが本書である。

しかしがら、そうした推測が妥当なものだと言えるのか、私には全く判断が付かなかった。悪く言えば著者の妄想のような推測もある。描かれたもの、残されたものは多様に解釈可能であるから、著者の解釈はたくさんある可能性の中の一つに過ぎず、「そういう考え方もできる」以上の受け止めは難しいと感じた。

とはいえ、船や馬といった移動手段を葬送に関係させたということは、「古代人は死後の世界を、船や馬を使って行く遠いところにある場所」と認識していたのではないか、という考えは説得的だと思った。

しかし例えば、記紀では死んだイザナミは「黄泉比良坂(よもつひらさか)」を過ぎたところにいるわけで、さほど遠い所にいる印象ではない。少なくとも現世と地続きにあの世が存在している感じである。この違いはどう考えればいいのだろうか。黄泉の国神話は日本に元々あったものではなく、外来のものなのかもしれないと思わされる。

というわけで、本書を読み終えても、古代人のあの世観はよくわからない…というのが率直なところだ。

舟葬に関する議論は興味深いが、著者の推測がどの程度妥当なのか不明なためなんともいえない本。


2021年6月2日水曜日

『新編 大蔵経—成立と変遷』京都仏教各宗学校連合会編

大蔵経の歴史を描く本。

大蔵経とは、仏教の経典や律・論書等、すなわち仏教のテキストの集成である。それはただテキストを集めたものではなく、大蔵経に編入(入蔵)するかどうかは、中国においては皇帝の勅許を必要としたほど権威ある集成であり、大蔵経は仏教テキストの正統にして最大のデータベースであった。

大蔵経は、成立の当初からかなり大部であった。劈頭に置かれることが多かった『大般若経』だけでも600巻あって、その全体は時代ごとの変遷はあるが大体5000巻余りを要したのである。であるから、これを出版するという事業はとても個人の力のなし得るところではなく、国家またはそれに並ぶような権力・財力によってようやく可能となるようなものだった。

即ち、大蔵経の歴史を繙くことは単にテキストの行方を追うだけでなく、国家と仏教の関係を概観するようなことでもあるのだ。

インド

仏教テキストが最初にまとめられたのはインドであり、幾たびか「仏典結集」が行われてテキストが整理されていった。しかし小乗仏教においては、論や律はテキスト化されたが、経典は基本的に口誦するものであり写本は作られなかったようである。経典が写本化していくのは大乗仏教以降であり、現在発見されている最古の写本はガンダーラから発見されたカローシュティー文字のもので紀元1世紀のものである。

中国

一方、中国においては仏典は翻訳によって普及した(最初からテキストで流布した)。そして翻訳の混乱を避けるため、翻訳された仏典の目録を作ることが次第に大蔵経に繋がっていく。特に五胡十六国時代には仏教が非常に盛んになってテキストの整備が進んだ。しかし中国では廃仏運動もたびたび起こり、特に隋代の前には徹底的な廃仏があった。隋代には、逆に仏教の復興運動が起こって、初めて組織的に大蔵経を整備する体制が作られた。隋代には写本の一切経(大蔵経の先蹤)もたくさん作られたようである。

唐代には『開元録』全20巻が著される。これは大蔵経編成史上、最善の総合目録である。これにより1076部、5048巻の大蔵経の構成が明示され、その後の大蔵経は『開元録』の構成を長く踏襲した。またこの頃より入蔵には勅許が必要とされるようになった。

なお、こうした大蔵経編纂の動きとは別に、石刻経典が制作された歴史もある。末法思想などを受け、仏典の永続性を願い、経典を石に刻んだのである。特に隋代の静琬(じょうえん)は、全経典の全文を石板に刻んで洞窟内に封蔵し、法滅の到来に備えるという異次元の事業を企画した。この事業は300年かけて完成され、さらに補刻追雕は明末まで約一千年に及ぶ一大護法事業であった。これは今でも1万4620石が保存されている。

開板(印刷)の大蔵経のはじめは、宋の太祖による開宝蔵(蜀版大蔵経)である。太祖は四川の人心収攬政策の一環としてこれを企画したと見られる。開宝蔵は日本僧奝念(ちょうねん)によって日本にももたらされ、藤原道長に献上された。その後、金版大蔵経、契丹版大蔵経、などが開版された。

さらに11世紀後半からは、国家ではなく寺院による大蔵経開板が行われる。蜀版大蔵経以来の伝統がある福建では福州東禅等覚院、それに続き福州開元禅寺が開板。江南では思渓円覚禅院、蹟砂延聖禅院、白雲宗教団の普寧寺などが大蔵経を開版した。これらは、地域の富豪や名家からの協力や浄財を募って実施されるプロジェクトであった。ただし、蹟砂延聖禅院の場合は、なんと僧了懃(りょうごん)によるたった一人の個人的運営でスタートした。しかしそれにしても大檀越(支援者)が現れてようやく事業が進捗していったのである。

なお白雲宗は仏教系の新宗教であったが、元のクビライに教団の公認と大蔵経開板の許可を取り付け、14年という短期間で完成した。普寧寺蔵は中国のみならず日本にも多くもたらされた。(なお元は勅版大蔵経もつくっている。)

明代になると、南・北両京で勅版大蔵経が開板した。南蔵は、洪武南蔵と永楽南蔵の2種が作られた。北蔵は、永楽帝によって永楽南蔵と時を隔てずして企画され、非常に精確であったが宮中に秘蔵され、「特賜」や「奏請」以外に入手が不可能だった。そのため明末にはその普及版とも言うべき嘉興蔵が寺院・民間の力によって開板された。嘉興蔵の大きな特徴は、それまでの折り本に変わって袋とじ製本を採用したことである。南蔵・北蔵は日本へは舶載されなかったが嘉興蔵は50蔵以上輸入されたと見られる。

清代では、雍正帝が大蔵経開板を企画して乾隆帝の時に完成した。これが龍蔵である。中国では、古代から近世までずっと大蔵経が作られ続けていたといえる。その事業の目的は必ずしも弘法だけでなく、政治的な意図も多分に含まれていたのであるが、大蔵経が国家・民間のそれぞれで継承・発展せしめ続けられてきたのは確かである。

朝鮮

朝鮮では高麗時代に2度の大蔵経開板が行われた。1度目は、契丹の侵攻を受けて、仏力による契丹退散を祈願して大蔵経が開板された。この版木はモンゴルの侵攻によって焼失してしまったため、モンゴル軍の退散を祈願して2度目の大蔵経が開板された。

日本

日本では、奈良時代に(「大蔵経」ではなく)「一切経」の書写が盛んになった。「一切経」は当時の用語で、大蔵経よりも意味が広く、たくさんのお経の集成といった意味合いで使われていた。最古の確実な一切経書写は「聖武天皇発願一切経」。国家的な写経機構もあり、7〜8世紀には頻繁に一切経の書写がなされた。

平安時代前期には一切経書写は一時低調になるが、9世紀には律令国家が諸国に一切経の書写を命じ、実際に(全国でないにしても)実行に移された。また平安時代後期になると、各地の寺社で勧進(寄附集め)による一切経書写が広く行われるようになった。また奝念によって開宝蔵が日本にもたらされると(前述)、筆写ではなく印刷の大蔵経が正統な一切経であるという意識が生まれ、強い憧れが生じた。

11世紀になると、末法思想の影響を受けて一切経を供養する「一切経会」が行われるようになる。これは、衆僧を請じ、転読あるいは真読して供養し、またそれに付随して管弦舞楽を行う貴族の遊楽の行事である。

中世に入ると、栄西、重源らは宋版の大蔵経を持ち帰り、次第に大蔵経が宗教的・政治的に重要な役割を果たすようになっていく。それには、二度の元寇の脅威も影響していた。大蔵経に国土安全や攘災の役割が期待されたのである。例えば、弘安2年(1280)、西大寺の叡尊は亀山天皇からの勅命を受けて、多くの僧侶を率いて伊勢神宮(内宮・外宮)に参詣し、亀山天皇から託された大蔵経を内・外宮に献納した。神社に大蔵経を献納するというのが今から見ると面白い。また禅僧で宗像社一宮座主だった色定法師は一人で一切経を書写した(色定法師一切経)。一切経会も賀茂社など神社で催されるのが恒例だったが、神社でも一切経は重んじられたようである。

南北朝・室町期で注目されるのは、足利尊氏発願の一切経である。尊氏は南北朝動乱で命を失った敵味方一切の亡魂供養のために一切経書写を発願した。この一切経は、亡魂供養のみならず政治的混乱を収拾し、社会の安定を図る意図が込められていた。後年、足利義満によって万部経会が始められ、歴代将軍が参詣する北野社で行われる重要行事となった。このため、北野社ではこの法会を管掌した覚蔵坊増範が主導して一切経が書写された(北野社一切経)。

室町期、特に応永年間には多くの大蔵経が海外(特に高麗)に求められた。しかも足利義持は高麗に大蔵経の版木を譲ってもらえるように交渉した(当然断られた)。この時期は「応永の平和」と呼ばれる安定期である。かつては元寇によって大蔵経の価値が高まった一方で、平和になっても大蔵経が求められたのが不思議といえば不思議である。しかしさらに不思議なことに、大蔵経の需要は大きかったのにもかかわらず、日本で大蔵経が開板されることはなく、海外に依存していた。一切経の書写は多く行われていたにもかかわらず印刷はされなかったのはなぜか。技術的な問題だけでなく思想的なものが関わっていそうである(筆写の方が有り難いという認識があったのかもしれない)。

江戸期に入ると、遂に日本でも大蔵経が出版される。しかも宗存版、天海版、鉄眼版と、立て続けに3回も開板された。

宗存版の著しい特徴は、それまでの大蔵経が木版による整版だったのに対し、古活字版だったことである。宗存版は残念ながら未完に終わったが、世界初の活字版大蔵経であった。なお印刷は北野社の経王堂(万部経会を開催するための広大な建物)で行われた。

天海版は、徳川家光の支援を受け、日本初の活字版大蔵経として完成した。印刷部数は30部程度と少ないが、出版文化史に残る業績である。

鉄眼版は、いわば普及版の大蔵経である。黄檗僧の鉄眼道光は何の資金的裏付けも持たない一介の僧侶であったが、全国に行脚して浄財を集め、非常なる情熱で全6930巻を完成させた。これは全国に予約販売のような形で販売され、当時405蔵が納入されたという。昭和までに2000蔵以上が納品されたヒット商品であった。鉄眼版大蔵経によって全国共通の大蔵経の底本ができたことは、日本の仏教を大きく転換させるほどのインパクトがあった。これをきっかけに、以後の各宗派では盛んに校訂が作られ、近代仏教学の成立に繋がっていった。

明治になると、日本初の金属活字を利用した「大日本校訂大蔵経(縮刷大蔵経)」(明治14年)が出版された。これは廃仏毀釈で痛手を受けた仏教界の再興を願って、島田蕃根(みつね)、福田行誡(ぎょうかい)が企画したものである。これは明治の仏教学研究に大きな影響を与え、海外でも評価された。

有名な「大正新脩大蔵経」(昭和9年完成)は、それまでの大蔵経とは違い研究のためにまとめられたもので、大蔵経の集大成でもあり、仏教研究の基礎的文献として世界各地で今でも使われている(DB化されてインターネットで利用出来る)。

本書では大蔵経の歴史を書くにあたり、それぞれ判型(一行何字・何行といった)や千字文函号(いろはに…と同じような千字文の字によるナンバリング)の有無をまとめており、そうした形式面の変遷をたどるだけでも面白い。

本書を読みながら驚きを禁じ得なかったのは、冒頭に書いたように大蔵経の出版は「とても個人の力のなし得るところではない」のにもかかわらず、それに果敢に挑戦した無謀な人物が歴史にはたびたび登場することだ。

では、彼らは何故人生を賭けてまで大蔵経を出版しようとしたのだろうか? 本書にはそれは詳らかに書いていないし、そもそも発願の趣旨は史料に残っていることは少なく、よくわからない。弘法のためということは言えても、弘法の手段としてなぜ一切経の出版を選んだのか、そこは非常に興味を引かれるところである。

その点に関して一つ言えることは、中国と日本・朝鮮では大蔵経の持つ意味が少し異なっていたということだ。中国では、大蔵経はテキストとして意味があったが、日本・朝鮮ではテキストの内容よりも大蔵経の存在自体に象徴的意味を見出していたように見受けられる。元寇に際して高麗が大蔵経を開板して攘災を願い、また叡尊が伊勢神宮に大蔵経を献納して敵国降伏を願ったように、大蔵経は不思議な力を持っているとさえ見られていた。大蔵経は、テキストの集成以上のものだったのである。

大蔵経とは何かを学ぶための最良の本。