本巻には、「永遠の女性とは?」「ナルシスムの女」「恋する女」「神秘家の女」「自由な女」「結論」が収録される。原書では本巻が全体の最後の部分であり(翻訳の都合で原書後半の方が先に訳出された)、よって「結論」が『第二の性』全ての総括になっている。
また本巻冒頭の「永遠の女性とは?」は、本来は第2巻のまとめとして位置づけられる章であるが、分冊の都合により第3巻に収録されたものである。
【参考読書メモ】『第二の性 II 女はどう生きるか』ボーヴォワール著、生島 遼一 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/09/ii.html
第2巻では、女性の人生を辿りつつ女性が置かれた暗鬱な状況がこれでもかと列挙されたのであるが、「永遠の女性とは?」では、女性の<性格>がそういう状況によって生みだされたものであることが改めて詳述される。ことあるごとに男性は女性を劣ったものとして扱うが、それは女性がずっと「世界」から閉め出されおり、成長の機会を満足に持つことができなかったからだ。「世間は女を台所や寝室に閉じ込めてきながら、その視野展望がせまいといって嘆く(p.18)」のである。
女性は、自らの置かれた状況を改善する能力を涵養できないようにさせられているから、「男性にむかって挑戦できるような堅固な<反・世界>を自分達でつくることに成功しない(p.35)」。それどころか、女性は男性から虐げられていながら、女性同士で連帯することもなく、むしろ反目し合う。それは男性優位の社会で利益を得ている女性も多いからで、「こういう女性の空虚な傲慢さ、その絶対的な無能、頑固な無知は彼女たちを人類が生み出したもっとも不必要な、無能な存在にしている(p.50)」。
ボーヴォワールはこのように言うが、本書を読みながらこうした姿勢こそが女性運動を難しくする一因のように感じもした。「女にとっては、自分の解放のためにはたらくことしか、ほかにどんな出口もないのである。(中略)この運動はぜひ集団的でなければならない(p.51)」と呼びかけながら、ボーヴォワールは男に反抗しようとしない女を切り捨てているように見える。
次の「ナルシスムの女」 「恋する女」「神秘家の女」の3章は、厳しい状況に置かれながらもなんとか自己実現しようとする哀れな女の姿を描く(なお「自己実現」とした部分は、本書では「実存」とか「超越」とか、実存主義哲学の用語で述べられるが煩瑣なので単純化する)。
常に男の付属物にさせられようとする力を受けている女性が、それでも自己実現していくためには、自らを「特別なもの」にしつらえる必要がある。女は「ありのまま」では男社会に飲み込まれてしまうのである。そんな方途の一つが「ナルシスム」だ。これは文字通りの自己愛だけでなく、たとえば自分を「不思議ちゃん」にするといったことも含まれる。
「私って変わってるの」と言いふらし、自分は普通人と区別される存在だと思い込む。あるいは自分は世界で最も不幸な女性だと思い込むのも特別な存在になるための別の一手だ。こういう「異常な宿命に印された無数の女性たちに共通した特色は、自分がひとに理解されていないと感じること(p.64)」である。しかも彼女は自分しか見えていないのに、外の世界に評価されたいと望む。しかしその評価は十分に得られることはなく、「ナルシスムの女」は残酷なことに加齢によって凡庸な存在へと堕してしまう運命にある。
この章は、ボーヴォワールが毛嫌いするタイプの人間を容赦なく批判しているような内容である。「そりゃそうかもしれないけど、そこら辺で勘弁してあげなよ」と思うような辛辣さである。
次は 「恋する女」である。「彼女は自ら隷属を熱望することによって、自己の隷属を自己の自由の表現のように思いこもうと(p.81)」し、「恋が彼女にとって一個の宗教になる(同)」。愛する男性にその身を全て献げることは、神に全てをゆだねる信仰者のそれと等しい。「恋人の要求に応じることによって彼女は自分を必要なものに思うのである(p.93)」。これは最初のうちは確かに彼女の救済になる。ところが恋人に自分の存在を委ねることで、彼女は徐々に「自分」を失っていく。今の言葉でいえば「依存症」になる。
女は男の要求次第でどんな人間にも変わる。本来の自己が忘れられ、男に気に入るためにどんんどん要求に応えようとする。もちろんそれが恋人達に幸せをもたらすこともある。しかし男性に全面的に依存してしまった女の幸せが永続的であることは少ない。
まず、相手を偶像化するような恋愛は愛する男に絶対的な価値を与えるが、実際にはそんな価値を持った男はいやしないということだ。「あの男はあなたがそんなに愛するねうちのある人間じゃない(p.99)」と周りの人にはすぐわかる。さらに、男の方では暴君になるか、逆に自分に全面的に依存する女を疎ましく思うようになる。
結局、「恋する女の不幸の一つは、その恋愛自体が彼女をゆがめ、彼女を滅ぼしてしまうこと(p.117)」なのだ。ボロボロになってしまった女をもはや男は愛すことはない。「捨てられた女はもはや何物でもなく、何物ももっていない(p.119)」ということになる。
もちろん、男の方でも熱烈な恋愛に身を滅ぼすことはある。しかし男の場合は仮に女に依存していたとしても、現実の世界への足がかりが常に用意されているのに対し、女が恋に身を滅ぼした場合は、「社会復帰」が非常に難しいという事情がある。
本章における著者の主張は極めて明解である。それは、依存的な恋はよくない、ということだ。そして依存的でない「真正の愛は、二つの自由が互いに相手を認めることの上にうちたてられ(p.120)」るということなのだ。
これまでの二つの事例は、自己・恋人へいれあげる女性であったが、これが神に対するものになると「神秘家の女」ということになる。女性は現実の世界で自己実現ができないから、非存在の世界に赴くわけだ。こういう女性は単に度を超して敬虔なだけでなく、神の幻覚を見、恍惚とし、神と対話する。そして病人や貧しい人に対するマゾヒスティックなまでの奉仕に幸福を感じる。そして自分が神に選ばれた女であると思い、極端な場合には教派を起こす場合もある。本章は比較的短く、「ナルシスムの女」 「恋する女」のような辛辣な批判はないものの、女が神にいれあげるのは、結局は女性が現実世界で存分に自己実現できないことの埋め合わせであるとボーヴォワールは喝破するのである。
「自由な女」では、これまでの暗鬱な調子とはうって変わって、このように厳しい状況の中でも自己実現を果たした女、そしてそうなるためにはどうすればよいのかが力強い調子で語られる。
まず、女性は経済的に男性と平等でなくてはならない。男性と同じ条件で労働に参画し、正当に評価され、誰にも依存せずに自立した暮らしを送れるようにすべきだ。それが、女性が自ら男性に依存するようにしむけることで存立している旧システムを破壊する第一歩である。
そして性的にも女性は男性と対等でなければならない。今の社会で自立した女・自由な精神を持つ女は、自分の性を拒みがちだ。なぜならそういう女は「もっぱら男を誘惑することしか考えていないおしゃれ女(p.145)」と自分を同じ種族だとは見なしたくないからだ。しかし性を拒否することもまた自分を不具にすることになる。だから「男がもし奴隷女でなく、自分と対等の者を愛する気になるなら、(中略)女も女らしくすることをいまほど気にすることはなくなる(p.147)」はずだ。
ただし女性が男性と対等になっても、「母性」だけは女性だけが引き受けなくてはならない。職業を持つ女性には、自ら子供を持たないことを選ぶ人もいるが、それ自体も女性には負担である。仕事と母性の最適なバランスを見出すことが難しいのは事実である。
そして今(※約70年前のフランスで)、どうにか自立した「自由な女」であろうとする女性も出てきている。しかしボーヴォワールには、彼女らの苦闘は生ぬるく見えるようだ。多くの働く女性は、男性優位の社会を所与のものと考えて、いわば「控えめに」仕事する。男性の世界を乗っ取ろうとはしない。そして「自分は女性なんだから、一流の仕事ができなくても仕方がない」と考えて貪欲にトップを目指さない。もちろんそれは、いわゆる「ガラスの天井」があることを理解しているからだし、いくら仕事で業績を出しても家庭での義務(家事や育児)から免除されるわけではないという事情があるからだ。
文学の世界を考えてみても、ドストエフスキーとかスタンダールのような偉大な作品を女性はまだ生みだしていない。それは女性作家は、ただ自己を確立するということのために多大なエネルギーを費やさねばならず、それ以上の冒険に行くまでに力尽きたからだ、という事情もある。しかし昔に比べれば、女はずっと自己を解放することのできる条件が整ってきている。もはや女性も、スタンダールに比肩する作品を生みだしてもよい頃だ。芸術でも仕事でも、あらゆる分野で女性は男性と同じ高峰に登って仕事ができる能力があるのだ。
ではなぜ未だに女性はそういう業績を生みだしていないのか? それは、女性自らが、無意識に己に制限を加えているからだ、というのがボーヴォワールの考えだ。長年にわたって「第二の性」の立場に甘んじてきたから、女性は本当は自分が男性と同じ能力があるのだと信じ切ることができないのだと。
世界を変えなければならない、と考えるボーヴォワールにとって、男が作った世界から一歩も出ないことは真の意味で「自由な女」ではない。女性も男性と等しく世界を創造する必要がある。しかし「彼女がまだ人間らしい人間になろうとしてたたかわねばならぬかぎり、創造者となることはできない(p.180)」。だから、まだしばらくは「自由な女」は生まれないかもしれないが、「いまこそ女自身のためにもすべての者のためにも、女にあらゆる機会を開いてやるべき時であること、それだけはたしかなことだ(p.191)」
終章の「結論」では、これまでの様々な議論が別の形で繰り返される。しかしその主張はやや意外な展開を見せる。「男の世界への反抗」を呼びかけるのかと思いきや、むしろ男女が仲違いするのは必然ではないとし、互いに相手を対等だと認め合うことで今ある悶着が片付くのだと述べる。本書はあくまで女性差別を告発するものであり、理想の社会をどうやって実現するかという方策を述べるものではない。だから、男女が対等なものとなったら、社会や個人(男も女も)が抱えている多くの問題が解決するだろうとは予言するが、そこへ至るまでの道筋は語らない。
ただし、本巻の結語でボーヴォワールはこう述べる。「現実世界のまんなかに自由の支配を到来させることが人間に課された仕事だ。この崇高な勝利をかちえるためには、何よりもまず、男女がその自然の区別をのりこえて、はっきりと友愛を確立することが必要である(p.216)」と。すなわち必要なのは女性による「男の世界への反抗」ではなくて、まず人間として互いを理解する態度だというのである。これは、その後にフェミニズム運動の内部で起こる様々な軋轢を予言しているようで意味深な結語であると思った。
全体を通じ、女性を称揚するのではなく、むしろねじくれた女を執拗に描いているような感じを受けた。そしてねじくれた女を描けば描くほど、彼女らがねじくれなければならなかったのは、女性の天性ではなくて、彼女らが置かれた状況がいかに矛盾に満ちたものであるかを痛感させられる仕掛けになっている。そしてその矛盾を解消するのに必要なものは、闘争ではなくて友愛だと結論づけたのが印象的だ。実際には闘争でしか不平等は解消できないとしても、この長大な告発の書がそのような結論に行き着いたこと自体が興味深い。
女性運動の預言の書。
【関連書籍の読書メモ】
『第二の性 I 女はこうしてつくられる』ボーヴォワール 著、生島 遼一 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/07/blog-post_31.html
この巻では、女性が生まれてから成年になるまでを取り扱っている。
『第二の性 II 女はどう生きるか』ボーヴォワール著、生島 遼一 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/09/ii.html
この巻では、成人してから亡くなるまでの女性の生活が活写される。
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