2021年12月9日木曜日

『江戸の女』三田村 鳶魚 著

江戸の性風俗を述べる本。

著者の三田村鳶魚(みたむら・えんぎょ)は、明治生まれの江戸文化・風俗の研究家である。本書は、江戸時代の女性研究の嚆矢であり、当時の随筆・文芸作品などから女性の在り方を探った先駆的作品だ。

江戸には男が多く女が少なかった、とよく言われる。だから男は女を求めて遊郭に足繁く通ったのだと。しかし実は、男女比がひどく偏っていたというわけではない。それよりも重要なことは、江戸には江戸詰と呼ばれる出向の男が多かったということだ。これは妻子を残して江戸の藩邸などで働く今で言う単身赴任である。女の方も、江戸に奉公に出向くことは多かった。つまりフリーな(?)男女が寄せ集められていたのが江戸の町であった。その場限りの色恋へと傾いていくことは自然の流れだったのである。

とはいえそれは、江戸の世界の半分でしかない。なぜなら江戸は武家の世界と商人(町家)の世界がはっきりと二つ併存していたからだ。だから江戸の文化・風俗を見る場合には、武家と商人をくっきり分けて考える必要がある。

武士の世界には「号令結婚」が行われた。これは家の命令によって結婚させるものである(命令だからお見合いもない)。上級武士(国主、城主、一万石以上等)になると結婚に将軍の許可も必要とした。こういう次第であるから、一般の武士は婚礼を挙げるということも少なかった。結婚が「人事」の一種なので、披露の必要がなかったからだ。結婚は「取引」だったのである。ちなみに最も早くには延宝8年の『名女情比(めいじょなさけくらべ)』で恋愛結婚が唱えられているが、色も恋もない号令結婚でも大抵は済んでいたようである。

町家の方ではそういう窮屈なやり方は行われなかったが、若い男女の自由になるというのでもなかった。婚姻という人生の最も基本的な要素が人事として行われていたことは武家の江戸風俗の根幹を作ったようである。

江戸の男女の仲では(特に女性にとって)「情け」ということが重要だった。先述の『名女情比』でも情けが大事だ——人に想いを懸けられたらそれを無下にするのはよくない。たとえ自分に夫があっても——というようなことが述べてある。女は貞節が求められる、ではないということは、むしろ女が積極的に男を選び、おのれを高くする態度を生じてきた。情け重視のゆきつくところ皮肉なことに悍婦・驕女がつくり出されてゆくのである。 

だが実際には寛保の頃から姦夫姦婦(不倫)は男女とも死罪だった。しかしこの罪は犯した方ではなく犯された方にとって恥なので、この法令は厳格に執行されることはなく、むしろ穏便に済まそうという風を生じた。よって間男が流行し、ほとんど放っておかねばならぬなりゆきとなったのである。

そして江戸の人間は泰平に狎れて、次第に自重とか忍耐とかいうことは忘れ、ただ快楽を求めるようになっていく。規制と威厳の箍に嵌められていた武家の生活が緩んで自堕落な暮らしになる。そして町人は生活のモデルを芝居者や遊女の方においてより自由にやってきたところが、武家はそれに引き寄せられて真似するようになり、生活風俗において武家と町家の境が溶け合ってくるのである。特に文化・文政の頃になると姿や風俗が武家らしくなくなって町家の方がお手本になった。幕府が亡びるよりずっと早く、武家の根性が亡びた。それは一方では堕落であるが、無意味な規制からの「解放」の面があったことも否めない。そこには素朴な人間中心主義の萌芽もまた認められるように思う。

そういう変化が窺われるのが看板娘の扱いだ。商家では店先に女を出さないのがしきたりであったが、宝暦頃には看板娘がおかれるようになった。これはいかがわしい商人として軽蔑される風があったが、文久頃になるとそれが珍しくないようになる。

では看板娘をいかがわしいと思わせるくらい江戸の女は奥ゆかしかったか。それが周知の通りそうでもない。遊女ばかりでなく、料理茶屋にいた踊子も売笑行為を行っており、そのために料理茶屋は盛況した。踊子たちにとっても、それは当然金になったばかりでなく売笑行為を通じて大名に抱えられるという「出世」がありえた。大名の妾になって女の子を生めば「御腹様」、男の子なら「御部屋様」になってとんでもない出世になり、場合によっては親にまで扶持が出て生まれもつかぬ武士に取り立てられることもあった。

男女の道は公然と金儲けのために使われて、遊女と素人の区別が曖昧になってくる。素人も素人らしくせず、公然と売笑を行うようになり、特に安永・天明度からは、専門の遊女の方もだんだん遊女らしくせず「愛嬌がある」「ういういしい」とする方が喜ばれるほうになった。遊女と素人を分けていた社会規範が失われていったからだ。こうしていよいよ性は紊乱していく。

ついには亭主が女を買えば、女房も負けずに役者を買う、というようになった。元々日本は一夫一婦制ではないので、一人に義理立てしなくてはならないというものでもないし、「号令結婚」の場合はそもそも愛情もへったくれもなかったのである。お互いの都合で一緒になっているだけの夫婦であれば、互いに婚姻の利益を受ければそれでよく、色恋の方はお互いに楽しめばよろしいということになってきた。

こうなると女性は容色を維持することが重要になってくる。情人に大事にされるためにはやはり美しくあることが一番だ。子孫を残すなどどうでもいいので、避妊や堕胎が横行し、一時の快楽の方が重視される。子どもを産んだ場合も乳母を使う。授乳すると容色が早く衰えるからである。しかしどうしても容色は衰える。そうなってから離縁されてはかなわない。そこで持参金というものが重要になってきた。

諸道具・持参金を返還した上でなければ離婚はできないので、金の力で妻の立場を保護したのである。ところが多くの持参金が結婚につきものになると、今度は持参金目当ての結婚が横行した。元々、結婚が人事の一種であってみては、結婚が金目当てになっていくのも当然だった。そして正徳・享保あたりには、嫁入り支度・嫁入り衣装が凄まじいことになった。そうした豪華な道具を揃えることが娘の頼りになったからである。

このように男女の道が紊乱したことが幕府衰亡の一因ではないかと著者は言う。「男女の道が紊れた結果、遂に武家を破り、武家を倒すに至った、武家がなくなったから、幕府も倒れたのだ、という見方は、従来誰もしておらぬように思う。これは是非考えてみなければならぬことであります。(p.221)」

ところで、男女の道が売買取引になってしまうと、逆にプロっぽくない女が好まれることになる。江戸では「水茶屋の女」(今でいえばカフェ店員といったところか)が流行した。値札の付いた遊女より、値札のない素人女の方が却って高くついたという。そのため水茶屋が江戸では繁盛することとなった。また、どこそこの誰が綺麗だ、という評判は浮世絵にも取り上げられ、まるで役者のような扱いになった。

もう一つ、女の生きる道として重要だったのが「下女」である。本書では詳しく「下女」の在り方を考証している。「下女」たちは、身分の低い家柄の女子がつとめていたというよりは、田舎から出てくる働きものの女性であった。当初は農閑期だけにやってくる季節労働者であったが、やがて「下女」が彼女らの生きる道になって渡り者になった。これは今で言えば非正規労働者みたいなものではあったが、需要が大きかったので給金は時代が経るにつれて上昇しており、また江戸の暮らしに慣れて次第に驕慢の風を生じてきた。

化政の頃には、小身の武士の妻女などは、服装の上では下女と見分けがつかないようになっていたという。なお下女は決して出稼ぎではなかった。それは、主人の家の風儀を学び、将来の結婚のために必要な知識や経験を得るということも目的だった。大きな家の女中などは、むしろ田舎から仕送りしてもらって勤めるというような場合もあったようである。つまり下女は女性にとっての一種の教育の場だったのである。

この他本書では、「麦湯の女」「女巡礼」「囲い者」(月々いくらで契約する妾)について解説されており、特に「囲い者」は短いながら江戸の様子の移り変わりを如実に示すものとして面白く読んだ。

全体を通じて、本書は江戸の女の全体像を体系的に示すものではないながら、次々に興味深い話題が提出されて、その中からボンヤリと当時の女性像が浮かび上がってくるような仕組みとなっている。それは、虐げられていただけともいえないし、著者が強調するように「驕慢」ともいえないように思う。

後の研究によって、江戸時代の女性史は修正され、今では本書で述べられる若干一面的な見方はされなくなっている。しかし本書は、なんでもないような人々の風俗を等身大に見つめる手法によって、当時の人の暮らしや考えを非常に身近に感じることができる。江戸時代の性風俗というと、とにかく「芸者」と「遊女」のファンタジーを思い描くのであるが、本書はそういう単純化をしていないのが先駆的だと思った。

江戸時代の女性研究の古典。


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