著者のジェームズ・フィッツロイ氏は、「大庭亀夫」、「ガメ・オベール」(いずれもgame overのもじり)の筆名でブログを書いてきた。今は閉鎖され閲覧することはできないが(※)、「十全外人ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.〇」というタイトルだったと記憶する。
著者は英国生まれで、現在(本書刊行時)はニュージーランドに在住。若くして数学を修め、おそらくはその能力による発明? によって大金を得、企業経営しつつ投資家として暮らす、という輝かしい経歴を持つ。しかもその上、超弩級の知性を持っており、古今の書物を跋渉した博覧強記の知識人であると同時に、数か国語を操る多言語人でもある。
そんな多言語の一つが日本語であり、ブログのタイトルに「日本語練習帳」が冠されているのは、日本語の練習のために書かれたもの、という形式をとっているからだ。本書はそのブログから44編が選ばれて掲載されている。
このように書くと、多くの人はエリート成功者が上から目線で世の中を斬るような内容を想像するかもしれない。しかし実は真逆も真逆で、この超弩級の知性を持ったニュージーランドの詩人は、最も弱い立場に置かれた人間に寄り添って語り掛けるのである。
いや、「知性」とは、もともと、社会を訳知り顔に解説するためのようなものではなくて、ぎゅっと握りしめた掌の中にある「やさしさ」そのものなのだと、本書を読んで気づかされる。
その内容は、人生に打ちのめされた人間への言葉、鮎川信夫と岩田宏を中心とした日本の現代詩、太平洋戦争とその後の近代史、言葉について、この社会から抜け出すための助言など…で構成されている。どれもこれも、深い洞察と見聞や経験に裏打ちされているだけでなく、日本社会を外から見ている人ならではの視点がとても新鮮である。このように日本社会を理解している「外国人」が他にいるだろうか。
しかも本書が驚異的なのは、日本語を母語とする人が書いたものではないにも関わらず、その日本語がとんでもない高みに達していることである。これほどの高みに達した日本語を書いた人は、私の知る限りでは幸田露伴、南方熊楠くらいだ。単なる名文ではなく、言語そのものが我々をどこかに連れて行ってくれるような天衣無縫さがあるのだ。
さらに驚くべきことは、表現上の工夫が違和感なく取り入れられている、ということだ。例えば本書には、読点で蜿蜒とつながれた長い長い文が時おり登場する。こういうのは、近頃は悪文とされるに違いない。しかし幸田露伴の文章にそういう長大な文が登場するように、あるいは源氏物語が途切れのない、どこで息継ぎしていいかわからないような文だらけであるように、日本語の特性が生かされた文章は、決まって長大な文で構成されているものである。その他にも、現代詩のような文章もあれば、手紙風文章、改行が多用された文章など、いろいろな工夫がちりばめられており、「日本語練習帳」の名に恥じぬ多彩さである。それと同時に、それらが単なる表現上の工夫であるだけにとどまらず、ぴったりと内容に合致し、現代的な軽やかな表現となっているのが特徴だ。
もはや本書の出版は、日本語の歴史におけるひとつの事件だ、とさえ思う。このような日本語が登場したことは長く記憶されるに違いない。私も一人の日本語を使う人間として、この日本語には嫉妬せざるを得ないのである。
ところで本書は、どん詰まりにある人に一縷の光を投げかけるような「救い」が随所にみられる。だから、弱り切った人にこそぜひ手に取ってほしい。私自身、出版前に予約して手に入れたものの、実際には読まないで取っておいて、原因不明の肋間神経痛で仕事ができなかったときに本書を開いた。そういうときに寄り添ってくれるのが本書である。上述の説明でもしかしたら誤解された方もいたかもしれないが、本書に難解な部分は全くなく、病床にある人に、陽の刺す窓のカーテンを開けてくれるような本なのだ。
最高の「知性」による名編中の名編。
※現在は著者による別のブログが公開されている。
ガメ・オベールの日本語練習帳ver.7
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