2022年1月1日土曜日

『定家明月記私抄』堀田 善衛 著

藤原定家の「明月記」を読む。

定家の「明月記」は、よく歴史書・研究書に引用され名高いものであるが、解読が必要な独特の漢文で書かれていることもあり、「少数の専門家を除いては、誰もが読み通したことがないという、それは異様な幻の書であった(あとがきより)」。

著者は戦時中に「明月記」の一文を知る。19歳の定家が記した「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ(=戦争なんて俺の知ったことか)」という言葉だ。時代の動きをとらえつつ、自己自身の在り方を昂然と記したこの言葉に著者は衝撃を受ける。まさに戦争によっていつ死ぬともしれぬ状況にいた著者は「この定家の日記を一目でも見ないで死んだのでは死んでも死に切れぬ(p.8)」と思い、なんとか日記を手に入れた。

しかしなかなかこの日記は難解であり、また退屈でもある。それは当時の日記は文学的なものではなく、有職故実(=しきたり)を「秘伝」として記録し後の世に備えるためのものであったからだ。よって儀式や行事があった際のやり方、服装、使われた器具などを事細かに記録するのが主目的だったのである。

ところが定家の日記はもちろんそれにとどまらない。60年間にわたって、彼は毎日日記を書き続けた。この執念は何に基づいていたか。定家は異常に細かい有職故実の記録を書き留めながら、やはりそこに人間性の発露とでも呼ぶべきものを記録した。本書は、それを丁寧に、一歩一歩読み解いていく本である(ちなみに執筆時に著者はバルセロナ在住であり、参考資料の手に入らない中、6年かかったという)。

一年一年、定家の日記に付き合っていくと、時代の大きな動きが克明に記録され、そこに翻弄されている様子もまた伝わってくる。「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」と言って戦乱との距離を置いても、職業歌人としてのプライドからくだらない遊興を拒否しても、定家はやはり後鳥羽院に振り回され、宮廷をうまく立ち回ることでしか生きていけない二流貴族なのだ。

「明月記」にはその悲哀を感じさせる場面が多い。例えば、定家は所有する荘園から満足に貢納がやってこない、といったようなことだ。ちなみにこの頃の宮廷では官職には給与がない。無給なのである。荘園からの収入が頼みだ。その荘園が、現地管理人の横暴などで有名無実化していたのだ。これは当然、戦乱のせいである。これを改善するにはヤクザ者を派遣して力づくで上がりものを出させるか、それでなければ武家政権との関係を樹立する必要がある。「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」と言っている場合ではなかった。

さらには、後鳥羽院が異常なほどエネルギッシュな君主であったことが、定家にとっては(というより多くの宮廷人にとって)災いした。後鳥羽院はこの混乱の時代を有り余るエネルギーで泳ぎながら、次から次へ遊びまくったのである。しかもその「遊び」は競馬、相撲、蹴鞠、闘鶏、囲碁、双六、別邸と庭園の建造…何をしても規格外であり、その遊びに付き合わなければならない宮廷人にとってはたまったものではない。

そして彼らの芸術(=和歌)は、そうした冴えない現実からはすっかり遊離した抽象的なものになっていた。定家が頭角を現した「初学百首」などは、京に餓死者が4万2千以上も放置された養和の大飢饉のさなかに詠まれるのである。宮廷人たちは、社会が阿鼻叫喚になっているというのに、そんなことはどこ吹く風と「遊び」に興じていたのである。だが定家にとって歌は「遊び」ではなかった。彼にとっては歌が本気も本気、歌だけは二流であってはならなかった。歌が彼の存在を支えていた。

では定家の歌、というか当時の歌はどんなものだったか。著者の評価は両義的だ。歌は現実から遊離して、本歌取りといういわば「二次創作」のような手法が普通となり、言葉の上だけの抽象芸術、美のための美となっていた。このように高度に抽象的な言語芸術は、同時代の世界を見回しても存在しない。しかしながらそのために歌は真の意味での創造力を失ってもいた。そしてまさにその抽象言語芸術の極限にいたのが定家だった。定家は自身困窮に喘ぎながら、優にして雅、鑑賞にも繊細な感性を必要とする玄妙な歌を作っていたのである。

それは最初は十分に評価されず「達磨歌」などと誹られたが、「初度百首和歌」が後鳥羽院に認められ、後鳥羽院直属の歌人となる。定家が39歳の時だった。さらに定家は正四位に叙せられる。またこの頃、新古今的な作風を確立して、歌におけるピークを迎えた。しかし同時に「作歌について深甚な倦怠感をもちつづけている(p.168)」。

しばらくすると、どうやら経済面でも上向いてくる。念願だった左近衛権中将にも任じられる。これでも官位は低く、自分の息子ほどの若輩と肩を並べなくてはならない。今や定家がつまらない現実に飽いている様子がはっきりと日記に感じられる。父俊成の90歳の祝賀とそれに続く一大遊興も、日記に全く記されていない。日記には無学な宮廷人への罵詈雑言が書かれる。それでも、定家は宮廷人として生きるしかない。まさにそれこそが定家という人物を興味深くしている。

そしてついに新古今和歌集の編纂が彼の人生に入ってくる。職業歌人として譲れぬものがあったにしろ、後鳥羽院の壮大な計画に定家は巻き込まれ、彼はうんざりさせられる。後鳥羽院の情熱は驚くべきもので、歌の入れ替え(切継)はなんと11年も蜿蜒と続いたからだ。しかも歌を入れるかどうかが人事のようになり、選考は思うままにならなかった。

本書は定家48歳(承元3年=1209)の日記までで擱筆されている。続きは続編にて。

それにしても、本書はある意味で単なる日記の読解なのであるが、めっぽう面白い。定家はジャーナリストとしての才能もあった人らしく、当時の事件が詳説されるうえに、他の宮廷人とは一歩引いた彼独自の観点から書かれるのがスパイスとなっている。また、定家には例えば「方丈記」とか「愚管抄」が持っているような大局的な批評精神・歴史観はなく、あくまでも宮廷の中で呻吟している人、つまり現場にいる人であることがかえって面白みを加えていると思う。

堀田善衛がそういう「読み」を共有してくれたことは非常にありがたかった。この本のおかげで、「明月記」は我々がアクセスできるものとなったのである。

「明月記」を蘇生させた、優れた読解の文学。

※文中ページ数は単行本版のもの。


【関連書籍の読書メモ】
『時代と人間』堀田 善衛 著
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「時代の観察者」を通じて、人間について深く考えさせる優れた本。

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