2022年1月15日土曜日

『明治留守政府』笠原 英彦 著

明治留守政府の混乱した政治を描く。

明治4年11月から6年9月まで、岩倉使節団が洋行する。この間に国政を預かったのが留守政府である。岩倉使節団には政府首脳がゴッソリと入っていたから、留守政府は政権運営に苦労することになった。なにしろ明治政府は稼働して僅かな時間しか経っておらず一枚岩ではなかったし、その上廃藩置県を断行した直後だったのである。

岩倉使節団と留守政府の間は、留守中の政治について「12箇条の約定」を交わしていたが、そこには「新しい改革は進めないように」 とする文言と「準備してきた改革は進めるように」という矛盾する文言が含まれており、留守政府内ではこの解釈の相違も相俟って混乱がもたらされるのである(ちなみに本書には「12箇条の約定」の全文が掲載されていないのが不便だった)。

そして、それと同時に、留守政府が混乱したのは「太政官三院制」というもののせいであると著者は見る。これは廃藩置県に後に行われた政府の機構改革によって生まれたものだ。元々の太政官制では諸省を統べるものとして太政官が置かれていたが、ここに意志決定機構である「正院」「左院」「右院」を置いたのである。

「正院」は太政大臣、左・右大臣、参議で構成する最高意志決定機関である。「左院」は議長、副議長、議官で構成する立法諮問機関、「右院」は各省の卿、大輔で構成する行政機関であった。そしてこの下に太政官とその下の各省が置かれた。本書ではこの体制に「矛盾」があったしているが、どこがどう矛盾していたのかは曖昧な記述である。

ただ、今の体制になぞらえれば、「左院」は内閣法制局、「右院」は内閣に相当するわけであるが、最高意志決定機関である「正院」が内閣から浮いた存在であった、ということは制度の欠陥と見なせるであろう。「正院」には、具体的な行政を所管している責任者が誰一人メンバーに入っていなかったのである。

そしてさらにこの体制の欠陥は、各省の利害が対立した場合に、それを調停する仕組みがなかったことである。今の体制では、予算は国会で審議するし、それでなくても閣議があって、重要事項は閣議決定を経なければならない。しかし「太政官三院制」においては、どうやら今の閣議決定にあたる決裁を経なくても、各省が独自に施策を実行することが可能であった。そのため各省は急進的な施策を矢継ぎ早に実施することとなった。

また、留守政府の混乱には、大蔵省の在り方も一役買っていた。岩倉使節団の出発前には、民部省が大蔵省に合併されるという改革が行われ、巨大化した大蔵省のトップ(卿)には大久保利通が就任した。この人事にはいろいろ裏があったらしい。大蔵省は基本的に長州閥が幅をきかせていたが、そこに薩摩閥の大久保が据えられたのはなぜか。木戸孝允は他の人事面で大久保の意向を尊重する代わりに、逆に大蔵卿に大久保を据えることで大久保を牽制しようとしたのではないか、というのが著者の考えのようだ。

ともかくも、巨大化した大蔵省は大久保の手に余るものであった。今でいうと、総務省(地方行政、郵便行政)、法務省(戸籍)、経済産業省、国税庁、財務省を合わせたのがこの頃の大蔵省である。国政の7割は大蔵省が担っていたという。しかも、留守政府は極度の財源不足に見舞われていた。この頃、予算の約4割が華士族への賞典・秩禄の支払いに充てられており、身動きが取れなくなっていたのである。大久保は省内で微妙な立場に居続けるより、いっそ洋行して不在にしていた方がうまくいくと考え、責任放棄して岩倉使節団に参加するのである。

では大久保が離れた大蔵省がスムーズに運営されたかというと、案の定うまくは行かなかった。大蔵省は各省からの予算要求に応えることができず、予算協議は紛糾した。不思議なことに、大蔵省は非常に大きな所掌を持っていたが、どうやら立場は弱かったらしい。大蔵省は、各省から予算をくれと突き上げられていたように見える。所掌は大きかったがそれに見合う権限は与えられていなかったのだろうか。本書には詳らかでない。

本書はこうした混乱を主に派閥の対立の構図から描いているが、何について対立していたのか、という政策面の記述は薄く具体性に欠けると感じた。

ともかく、留守政府のガバナンスは散々であったことは間違いない。ところが、このだらしない政府の下で開明的施策がどんどん実現していくのである。封建的身分制の廃止、徴兵制の実施、田畑の売買の自由化(地券制度)、地租改正、全国戸籍調査、学制の頒布、太陽暦の採用、国立銀行の創設などといった近代化施策が留守政府の手によって実現された。毛利敏彦は「これほどの仕事をした政府は史上にも稀であった」と評している。

これをどう考えたらいいのか。一つには、薩摩と長州が冷戦的なかけひきをしている中で、開明派の肥前閥が国政実務を担うことになったという理由がある。肥前といえば、近代化制度について超人的嗅覚を有し司法卿として司法制度の確立に心血を注いだ江藤新平、文部卿として学制頒布を実施した大木喬任、外務卿として台湾問題を処理した副島種臣、そして参議の大隈重信がいた。8名の省卿のうち半分の4名を肥前出身者が占めていたのである。

そしてもう一つ、本書を読みながら思ったのは、ガバナンスがない方がむしろキチンとした仕事ができるという日本人の気質があるのではないか、ということだ。どうも今の社会から推して考えれば、この頃の「政治不在」の状況は、かえって開明派官僚にとってやりやすい状態だったのかもしれない。

しかしながら、政府としての統制が取れない状況は、特に予算配分など各省の利害を調停する必要がある場面では不都合である。そこで明治6年5月(つまり岩倉使節団帰国直前)には、太政官三院制の「潤色」(と言う名の改革)が行われる。「潤色」というのは、「12箇条の約定」において改革が停止されていたためこういう呼び方がされている。この「潤色」では、あまり機能していなかった「左院」「右院」は事実上棚上げされ、権限を「正院」に集中した。これには新たに参議に就任した江藤新平の寄与があったのではないかという。

しかしこの改革の翌日、井上馨と渋沢栄一(共に大蔵省)は辞表を提出する。この「潤色」が強大すぎる大蔵省を統制下に置く意味があったことは明瞭であるが、一方で「正院」には省卿が参加しておらず実務と切り離されていたという本質的欠陥がそのままになっていたことも否めない。結局、留守政府は政治的混乱を解決できないまま終局へ向かった。

ところで、留守政府の首脳でありながら、イマイチ働きが明確でないのが西郷隆盛である。彼は「島津久光問題」(久光が明治政府+西郷・大久保と敵対していた問題)を抱えていたという事情があるにせよ、留守政府で目立った働きをしていないというのは不思議だ。しかも派閥間の闘争にも超然としているように見える。留守政府における西郷の立場は謎めいていると感じた。

本書は最後に附論として「太政官三院制に関する覚書」という論文が収録されており、本書全体はこれを一般向けにかみ砕いて説明したものという印象を受ける。しかし先述のとおり、具体性に欠ける記述が散見されかえって分かりづらい感じがした。附論の論文の方がわかりやすいと思う。また、政治的対立をテーマにしているため、留守政府が何をしたのかという記述が少なく、その点でも不十分な印象を持った。例えば徴兵制、太陽暦の導入、国立銀行の設立などは本書には全く出てこない。

また留守政府において大蔵省を揺るがした「山城屋和助事件」「尾去沢銅山事件」「小野組転籍事件」なども全く記述されないが、これなどは政争にも影響を及ぼした事件であり記載した方がいいと思った。

留守政府について述べる一般書としては貴重だが、政争というテーマがやや上滑りした印象がある本。

【関連書籍の読書メモ】
『明治六年政変』毛利 敏彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/03/blog-post_21.html
いわゆる「征韓論」の虚構を暴き、その真相を究明する本。明治六年の政界を実証的に解明した名著。

 『江藤新平—急進的改革者の悲劇』毛利 敏彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/09/blog-post_22.html
江藤新平の驚くべき先見的業績を通観する本。時代を先んじた江藤新平の悲劇によって、維新後の日本が向かう暗闇さえ幽かに感じさせる良書。

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