いわゆる「征韓論」の虚構を暴き、その真相を究明する本。
明治6年、西郷隆盛は盟友・大久保利通と袂を分かち野に下った。幼少の頃より強い絆で結ばれてきた二人の間を引き裂いたのは「征韓論」。朝鮮との国交樹立のため使節として渡航しようとする西郷を大久保らは止めた。今朝鮮に渡れば朝鮮は西郷を暴殺し、戦争が起こるというのだ。二人の意見の相違は乗り越えられず、遂に西郷は政府を去った。
…と、我々は教えられてきた。西郷は征韓論争に負けて鹿児島に帰ってきたのだと。しかし本書によれば、これは政争の一面のみを見た誤解であり、真実の姿は全く別のものなのだという。
私自身も、昔から「朝鮮は使節を暴殺するに違いないというが、平和的にやってきた使節を殺害するはずだなんて、どんな政治状況だったんだろう」という疑問を持っていた。だが本書によれば、そもそもそのような緊迫した政治状況は、日朝の間には存在していなかったのである。緊迫していたのは、日本国内の権力闘争だった。
物語は、岩倉使節団の失敗から始まる。 岩倉使節団の目的は欧米諸国の視察であったが、そのためにしては岩倉具視、大久保利通、木戸孝允をはじめとして国家の中心人物を集めた過分な構成であり、その裏には隠れた目的が存在していた。この使節団は、木戸孝允を政府から引き離すために行われたものだったのである。薩長の軋轢や木戸の細かい性格に困っていた大久保は、木戸を政権の現場から遠ざけ、その間に改革を進めようとし、自らもその道連れに視察旅行に旅立った。
ところが最初に訪れた米国で思わぬ歓迎を受けて「この調子なら条約改正もできるのでは?」と思ってしまった一行は、条約改正の委任状もないまま条約改正交渉に入ろうとする。しかし案の定その不備を指摘され、大久保は委任状を取りに一時帰国までしたものの、不平等条約の是正に米国が応じるワケもなく、視察の日程は大幅にずれ無駄に数ヶ月が過ぎただけに終わり、使節団の士気も下がって内部は分裂。木戸と大久保は口もきかない状態にまで険悪化した。こうして貴重な外貨を厖大に費消しながら、岩倉使節団は惰性的に視察の旅を続けるしかなかった。
一方その間、留守政府は目覚ましい改革を行っていた。留守政府の筆頭に立ったのが西郷隆盛であり、中心となって実働したのが江藤新平であった。幕末の志士たちは政治的駆け引きには熱心だったが、政策立案や制度設計といった政権運営には不慣れで熱意もなかった。しかし江藤新平は緻密かつ論理的な頭脳の持ち主であり、維新政府の中で最も革新的・能動的な政治家として各種の改革を率いた。
留守政府が手がけた改革といえば、封建的身分制の廃止、徴兵制の実施、田畑の売買の自由化、地租改正、全国戸籍調査、学制の頒布、太陽暦の採用、国立銀行の創設など枚挙にいとまがない。これらの改革によって日本の封建的社会制度が短期間のうちに否定され、近代的社会へと生まれ変わっていった。「これほどの仕事をした政府は史上にも稀であった」。(p.41)
そして江藤新平は、行政権と司法権の分離にも取り組んだ。全国を網羅する裁判所体系を整備し、法治主義を徹底させようとした。当時の行政府にいた人々は、かつての封建領主になったかのように錯覚し人民に対し尊大に構える風があったが、江藤新平は弱者保護や法の下の平等の実現に邁進する。そして明治5年10月、人身売買を禁じる画期的な太政官布告に至るのである。これは「留守政府の開明性を示す栄光の記念碑」(p.57)となった。
また西郷隆盛も、通説のように封建士族のリーダーとして行動していたわけではなかった。西郷は士族の特権を解体することに熱心であり(例:秩禄処分)、世界の大勢に日本をキャッチアップさせるための改革に賛同していた。
しかしそうした華々しい改革の裏で、陸軍省で「山城屋和助事件」が起こる。これは、山県有朋との繋がりを利用して陸軍の御用商人となった山城屋が、投資のためと称して大量の金を陸軍から引き出し、しかも投資に失敗した上パリで遊興に使いこんだという事件。山城屋が陸軍から引き出したお金は64万9千円にも上り、これは国家予算の約1%、陸軍省予算の1割弱にもあたる。陸軍省の二代派閥である薩長は勢力争いで反目していたから、薩摩閥としてはこれを材料に長州閥を追い詰めようとしたのは当然である。そして江藤新平が率いる司法省も、これを重大な犯罪と見て捜査に乗り出した。窮地に立たされた山県は遂に山城屋をパリから呼び戻したが、山城屋は陸軍省の証拠書類を湮滅した上で、陸軍省の一室で切腹自殺した。
これに続いて、長州閥の面々はさらに不始末を起こす。それが「尾去沢銅山事件」「小野組転籍事件」である。
「尾去沢銅山事件」は、民営の尾去沢銅山に難癖をつけて強制的に政府が没収し、それを大蔵大輔の井上馨が取りはからって無利子・15年賦の好条件で長州出身の政商に払い下げた事件。「小野組転籍事件」は、三井と肩を並べた巨商・小野組が京都から東京へ転籍しようと申請したところ京都府庁があれこれ理由をつけてこれを受理しなかったばかりか、小野家の代表を白洲に引き据えて転籍を断念するよう脅した事件。京都府が転籍を拒んだのは、小野組から得られる行政側の利益が背景にあった。そして京都府の実権を握っていたのが、長州出身の槇村正直だった。
この2つの事件は、要するに行政府が権力を私物化して民間の当然の権利を踏みにじるものであったから、江藤新平率いる司法省が行政府を糾弾したのは当然である。「尾去沢銅山事件」では井上の勾留を太政官に提案し、「小野組転籍事件」では槇村正直の拘禁が上申された。
「山城屋和助事件」「尾去沢銅山事件」「小野組転籍事件」という3つの事件によって、山県有朋は近衛都督を、井上馨は大蔵大輔を辞任。こうして江藤新平と長州閥との対立の構図が鮮明になっていく。
一方で、明治5年末から6年始めにかけて当時の政府の重大問題となっていたのは、 「島津久光問題」「予算紛糾問題」「台湾問題」「朝鮮問題」の4つであった。維新の功臣であったはずの島津久光は明治政府と対立し、その隠然とした影響力は維新政府の最大の敵になっていた。また大蔵省では予算の編成が紛糾、各省が要求通りの予算が得られないことを理由に職務がストップ。「台湾問題」は、琉球人が台湾で殺害されたことの処分をどうしたらよいかという問題。そして最後の「朝鮮問題」は、朝鮮との正常な国交が未だ開けていないという問題であった。
こうした難問に直面し、政府のトップを預かる三条実美は大久保・木戸を使節団から召還した。政府の大黒柱西郷隆盛は、久光から鹿児島に呼び戻されていて不在であり、凡庸な三条としては一人の手に余ったのである。急場しのぎのため予算案へ強硬に反対していた江藤新平らを新たに参議に任命すると、江藤らは大臣の権限を削って参議の権力を強化、さらに太政官を構成する正院・左院・右院のうち左・右院を形無しにして正院に権力を集中。予算編成権も正院に移って調整が可能となり、江藤時代の到来が必至となった。ちなみに正院のメンバーは、三条実美太政大臣、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、大木喬任、江藤新平の7人である。
三条からの召還を受けた大久保利通は明治6年5月に帰国したが、正院への権限集中により予算紛糾問題は落ちついており、また久光問題や台湾問題も一段落していて出番を失った形になった。岩倉使節団の失敗に責任を感じ肩身が狭くなっていた大久保は目立った動きもできないまま、8月には休暇を取って関西旅行に出かけた。大久保は政治に対する意欲を失っていたのだ。
対照的に、帰国した木戸孝允は長州の子分達が起こした不始末の揉み消しに奔走しなければならず、やはり政治の表舞台には上ってこなかった。
こういう状況でにわかに持ち上がってきたのが、それほど重大と見なされていなかった「朝鮮問題」であった。発端は、朝鮮政府が対馬藩に使用させてきた草梁倭館(在外公館のようなもの)を日本政府が接収し「大日本公館」としたことだった。この一方的な措置に朝鮮の対日感情は悪化し、現地では一触即発の危機となった。
この危機に対して板垣退助などは開戦論を主張し、また正院でも開戦に傾きかけたがそれに待ったを掛けたのが西郷隆盛であった。西郷は、あくまでも対話によって筋を通すことを主張し、自ら使節として非武装で朝鮮へ渡ることを主張。即時開戦を求める板垣には「朝鮮が使節を暴殺すれば開戦の大義名分を得られる」と説得。巷間言われる「西郷は戦争を始めるため朝鮮に渡ろうとした」という「征韓論」は、このレトリックを真に受けて形作られていったもののようだ。
西郷の主張は正院で認められ使節派遣が内定したが、国家の重大事であるため岩倉らが戻ってからもう一度審議することと決定が留保された。こうして朝鮮問題もひとまず落ちついたところで、岩倉具視や伊藤博文ら岩倉使節団が帰国。
そして一大政争の幕が開ける。
政争の中心となったのは伊藤博文。政府首脳が岩倉使節団で留守にしている間に、政権はすっかり江藤新平とその賛同勢力である板垣退助・後藤象二郎を中心とする土佐閥が掌握していた。そして江藤新平の法治主義によって長州閥は弱体化させられていた。さらに薩摩閥の棟梁であるはずの西郷隆盛も江藤新平に与している。元来の政権樹立者であった岩倉具視、大久保利通、木戸孝允はバラバラとなり政権の中枢から遠ざかっていた。それを再組織化し、政権奪取を構想したのが伊藤博文という「稀代の策士」であった。
伊藤の構想は、岩倉を仲立ちにして木戸と大久保の仲を修復し、西郷を大久保によって江藤新平から切り離して江藤を孤立させて叩くといったようなものだったようだ。長州閥にとって邪魔な江藤や板垣を政権から追放するため、薩長が手を結んで政権を奪取しようというのである。しかし政治に対する意欲を阻喪していた大久保は政権に返り咲くことに乗り気でなかった。参議への就任も再三固辞したが、大久保なくては伊藤の構想は実現しない。こうして「大久保参議問題」が政権の重大事となった。
そのような時、西郷は岩倉帰国後もいっこうに閣議が開かれない朝鮮使節問題について痺れを切らし、三条の怠慢を厳しく抗議した。小心者の三条はこれに動揺する。「使節暴殺」による朝鮮との開戦の危険性を伊藤が煽ったこともあって、 戦争を本気で心配し始めた三条は、この局面を打開するには大久保参議就任しかありえないと考え、岩倉と共に大久保を口説き落とした。
大久保もこれには根負けしたものの、参議就任にあたって2つの条件を出す。1つは三条・岩倉が使節派遣問題の処理方針を確定し、それを変更しないという約定書を出すこと、もう1つは副島種臣も参議に就任させることと、伊藤博文に閣議に列席する便宜を与えること、であった。大久保としては、「そこまでいうなら命に従って動いてやる」という受動的な心持ちであり、自らの考えで政策を実行していこうというよりは、三条・岩倉の「駒」になりきってやろうと覚悟したのである。
1つ目の条件に基づいて三条・岩倉は使節派遣反対を確約し、大久保は参議に就任、果たして朝鮮問題を審議する閣議が開かれたが、しかし大久保の使節反対論は三条の戦争心配論に基づいていたため、和平を求めるために使節を派遣するという西郷の主張と噛み合わなかったばかりか論理的に破綻しており、江藤新平にもその論理矛盾を指摘され説得力を持たなかった。結果、三条・岩倉の要請に従って大久保が孤軍奮闘し使節派遣に反対したにも関わらず、閣議は全会一致で西郷の使節派遣を決定し、残すは天皇の裁可のみになった。約定書まで出していた三条・岩倉は、閣議で大久保が孤立したと見るや大久保を見捨て賛成に転じたのである。はしごを外され、一人バカを見させられた格好になった大久保は激怒。辞表をたたきつけた。
この大久保の怒りを知った岩倉は、「もう三条にはついて行けない」として共に辞意を表明。三条と岩倉は、家格の違いや能力の違いから実際には険悪なライバル関係にあったが、大久保とは幕末の死線を乗り越えた同志である。岩倉は三条を見捨てて大久保と運命を共にすることにしたのである。これにまたしても衝撃を受けたのが三条。相棒岩倉が全ての責任と難局を三条に押しつけて遁走する気配を見せたのに動顚し、高熱を発して人事不省に陥り職務遂行は不可能になった。こうして政局は一夜のうちに激変したのである。
ここで大久保は、自分の辞表や怒りが政局を速やかに動かしたことで、「かれ本来の強固な権力意志が蘇ってきて」「何としても面目を回復したいと考え」「「挽回」への意欲が急速に復活してきたものと思われる」(p.197)。全体的に綿密な裏付けがなされている本書の中で、この大久保の心の動きだけは明示的根拠がない著者の推測であるが、事実この瞬間に大久保は変節したのである。
それまで、伊藤のたゆまぬ工作によってもいまいち長州閥との信頼関係がなかった大久保であったが、政権奪取のためには江藤新平を排除することが必要であり、「敵の敵は味方」理論によってここに大久保=(伊藤=)木戸ラインが確立された。また岩倉が三条を見捨て辞意を表明したことで岩倉=大久保ラインも復活。こうして岩倉=大久保=木戸が結ばれた。
三条が倒れたことで岩倉は太政大臣代理となり、天皇へ使節派遣問題についての閣議決定を天皇に奏上することとなったが、大久保と結ばれた岩倉は「三条と自分は別人だから自分の思いどおりにする、すなわち閣議決定に拘束されないといいはなった。」(p.199)
「太政官職制」を無視し、政権運営の形式論をかなぐり捨てて、岩倉は閣議決定とは異なる方向に天皇を誘導。結果閣議決定が天皇の裁可によって否定されるという異常事態となった。岩倉のこの露骨な違法・越権行為に西郷は、それでは「退き申すべし」と抗議辞職。違法な手続きによって決定を覆されるのであれば、閣議など意味がなくなる。さらに天皇が閣議決定を否定したということは、それは天皇による内閣不信任の表明でもある。「ここにおいて、天皇の信任を失ったかたちの全参議は、辞表を提出しなければならなかった。」(p.206)
そしてこれこそが、大久保と伊藤の秘策なのだった。大久保の入れ知恵に従って、人事権者の岩倉は、西郷・板垣・江藤・後藤・副島の5参議の辞表のみを受理し、木戸・大隈・大木・大久保の辞表は却下したのである! 露骨な反対派排除の選別処理であった。ここに大久保と伊藤によって構想されたクーデターは完成し、江藤新平と土佐閥が政権から排除され、薩長中心の「有司専制(=独裁)」体制が出現したのである。
この「明治六年政変」によって司法省は弱体化させられ、超法規的措置によって長州汚職派にかけられていた嫌疑は解消させられた。こうして長州閥は息を吹き返し、失脚は時間の問題だった山県有朋、井上馨、槇村正直などが政界に返り咲いていくのである。そして露骨な排除工作にあった江藤新平や土佐派、西郷と運命を共にした陸軍省の軍人たちは、政権に絶望して下野し、それぞれのやり方で反政府勢力として立っていくのだった。
これまで「明治六年政変」は、西郷と大久保による「征韓論」の意見の対立だと考えられてきた。しかしこの政争の経過において、「征韓論」はその時たまたま廟堂の俎上にあっただけの問題に過ぎず、真の対立は別のところにあった。それは、長州閥と江藤新平の確執であった。「明治六年政変」の本当の標的であり敗者は江藤新平だったのである。そして西郷隆盛は、江藤新平を排除するための巻き添えになったのだった。もともと大久保としては、西郷を江藤から引き離して味方につける算段だったようだ。
そして「明治六年政変」の表面的な勝者はもちろん大久保利通であったが、本当の勝者はこの政争の裏で糸を引き、単なる工部大輔から政権の中枢へのし上がっていった伊藤博文であった。
後世、歴史書にまことしやかに描かれることになる「征韓論」は、彼らの念頭にほとんど存在していなかった。真面目に朝鮮との戦争を心配していたのは三条実美ただ一人だったように思う。
本書は、これまでの全ての征韓論の研究をひっくり返してしまう力を持っている。本書の主張はどれもこれも非常に堅牢であって、著者の推測に基づく部分は先の述べたようにほんの僅かしかない。その論証はスリリングですらあって、異常に引き込まれた。「征韓論」や西郷の下野について考える上には、まず読むべき本である。
明治六年の政界を実証的に解明した名著。
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