薩摩藩出身の儒者泊如竹(とまり・じょちく)の生涯を描く小説。
泊如竹は、戦国期末から江戸初期を生きた儒者である。元亀元年(1570年)、屋久島の安房村で船大工の子として生まれた泊市兵衛は、どういうわけか幼少の頃出家し日章となり、やがて本能寺、法興寺で仏道の修行をする(日蓮宗)。時の住職は同じ屋久島出身の日逕であった。しかし30代になっても日章は平僧のままで、寺院内で出世した気配はない。
日章は日蓮宗を去り、これまたどういうわけか還俗して泊如竹と名乗り、鹿児島正興寺(国分)の南甫文之(なんぽ・ぶんし)和尚の下で儒学を学ぶ。正興寺は禅宗(臨済宗)であるが、如竹は転宗したのか、それとも俗人のままで正興寺に属したのか明らかでない。ただ法名を名乗っていないところを見るとおそらくは俗人として文之に私淑したのであろう(このあたりは本書には詳らかでない)。
当時文之は薩摩藩の外交顧問のような立場にあり、琉球や明との外交文書の作成を一手に引き受けていたという俊英であった。この文之の下で儒学を修めた如竹は、慶長18年(1623年)、屋久島の本仏寺(法華宗)に住職として帰山し、母の死を看取ってから、藤堂髙虎に侍読として仕えた(1614年)。
本書では、藤堂髙虎に士官している間、髙虎の領地(伊勢)の祭礼や文教政策に携わったことになっている。この間、如竹は桂庵玄樹『四法倭点』、文之『四書新註文之点』、『周易伝義』、『南甫文集』を寛永元年〜6年(1624年〜1629年)にかけて京都の版元から刊行。如竹は自らは一冊の本も書かず、残したのはこれらの本だけだった。
藤堂家を去った後、いっとき本仏寺へ戻り、今度は琉球の尚豊王の寺読となる(寛永9年(1632年)。当時の琉球は薩摩藩の事実上の植民地であるが、表向きは独立国であるということに仕立て、明の属国(明の冊封)となっていたから、薩摩藩はこれを通じて明と貿易していた。如竹はこうした外交活動にも関わっていたのだろうか。
寛永12年(1635年)、琉球を去ると、またいっとき本仏寺へ戻った後、伊勢貞昌の薦めにより島津光久の師となり、藩の顧問のような立場になった模様である。その後屋久島へ帰島(正保元年(1643年))。屋久島では、安房村に水を引く工事を行う(如竹堀)など社会事業にも取り組み、村人は如竹を「屋久聖人」と呼んだ。
如竹は、ことさらに顕職を歴任した人物ではなく、著作を残さず学問的にも全国的に名高かったとは言えない。しかし歴史の端々に顔を見せる、不思議な人物である。一体どうして如竹は強力な後ろ盾もなく、権力者に魅入られたのだろうか。著者は、こうした疑問から如竹の生涯を小説にしたという。
本書を手に取る人は、面白い小説を求めるというより如竹に興味を抱いた人がほとんどであろう。実際、本書はかなり脚色も多いとはいえ、余計な創作(例えば秘められた恋、とか)はなく、如竹の人生を実直になぞるものであり好感が持てる。しかも、大事件が起こるわけでもなく地味な話ではあるが、歴史小説としても割合面白く、儒者の生涯という小難しいテーマにもかかわらず平易で読みやすい。
あまり知られていない地味な儒者、泊如竹の人生を小説で辿れる好著。
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