幕末の勤王僧・月照の評伝。
月照といえば、西郷隆盛と共に錦江湾で入水自殺したことで有名であるが、逆にそれ以外のことはほとんど知られていない。私自身も月照について無知であった。そこで読んだのが本書である。
月照は、京都清水寺の本坊付の塔頭(たっちゅう)成就院の住職であった。これは、一山(清水寺全体)の経営を預かる立場だったようだ。月照は、決して政治活動に血道を上げるような人物ではなく、病弱ではあったが戒律を厳しく保ち、世間と距離を置いて宗教性の中に沈潜するような人物であった。
そんな月照がどうして勤王の活動で活躍するようになったか。本書によれば、それは月照自身の考えと言うよりも、様々な巡り合わせによるものなのである。
こうした大寺院では公卿の子が住持をしたり、住持を公卿の猶子(養子)にしたりする慣習があり、公家との関係が近かった。月照も園基茂の猶子となり、俗名「宗久」を「久丸」と改め、2ヶ月後に出家して公家風に「中将房」と字(あざな)している(なお法名は「忍鎧(にんかい)後に「忍向」、「月照」は晩年に用いた雅号)。こうして月照は公家の社会に近づいていくのである。
さらに、清水寺は元々近衛家との繋がりが深かった。清水寺が、近衛家の祈願寺であったからである。幕末に異国船がやってくると、神社では「攘夷祈願」なるものが盛んに行われたが、寺院でも法力によって夷狄を追い払うということで同様な祈願が行われ、成就院でも安政元年に「異船退治祈願」を行っている。堕落し形式化してしまっていた僧侶たちの中にあって、宗教的であった月照の法力がこうした祈願に恃まれたのに違いない。
また近衛忠煕(ただひろ)の八男(後の水谷川忠起(みやがわ・ただおき))は、嘉永5年に興福寺の一乗院の附弟(跡継ぎ)となっている(のち、門跡となる)。興福寺一乗院は清水寺の本山であるから、近衛家が一乗院を支配したということは、月照にとって近衛家はいわば経営者一族ということになる。
さらに月照は、歌道にものめり込んでいた。近衛家に積極的に近づこうという意味合いがあったのかどうか定かでないが、月照は安政元年に近衛家の歌道に入門している。こうして近衛家と成就院という祈檀関係から出発した関係が、次第に近衛忠煕と月照という個人の繋がりへと深化していった。
この関係の仲立ちをしたのが、原田才輔(才介)という近衛家の侍医(鍼灸師)であった謎の人物。 原田は薩摩藩出身で近衛家に入り、近衛家・月照・薩摩藩の間の周旋を行っている。原田の周旋によって月照は近衛家と親密に付き合うようになり、また薩摩藩とも繋がって国事に奔走することになったのである。
月照がこうした中で果たした役割は、一言で言えば近衛家と薩摩藩の連絡係ということになるだろう。というのは、当時幕府の公武離間政策によって、武家と公家は自由に交わることができなかった。近衛家と島津家は姻戚関係で結ばれていたのだから(近衛忠煕は島津興子を正室に迎えている)、ある程度自由に交通ができたのではないかと思われるが、一般的には執奏・伝奏などいった取次なくしては公武の勢力は接近できない仕組みとなっていた。幕府の規制では公武の交流が完全に禁じられていたわけではないものの、非常に手間がかかる仕組みとなっていたのである。
しかしこの仕組みには「祈祷寺院」という大穴が残されていた。祈祷寺院には、公武双方が病気平癒をはじめとして様々な祈願を行っていたから、ここを通じて公家と武家が直接連絡を図ることが可能となっていたのだ。そして国事が囂しくなる時期に、ちょうど清水寺という大祈祷寺院の住職をしていたのが月照その人なのであった。
もちろん、月照自身にも国事に奔走する気質がなかったとはいえない。月照は外国人がキリスト教を広めることで仏教の危機になるのではないかと心配していたし、月照は政治状況を的確に判断して、各種の周旋を俊敏にこなしもしているのである。「清水寺の月照に頼めばうまくやってくれるだろう」というような評価が定まったことで、いろいろな案件が月照に持ち込まれることになったのだろう。
ところで既に述べたように、月照は清水寺の経営に携わっていたのであるが、この頃の清水寺は今の立派な様子とは違い、「破れ寺」になり山内はもめ事が絶えなかったらしい。収入も少なく借金経営であり、山内の不和は覆うべくもなかった。そうした俗事に嫌気が差したのか、月照は隠居願い(住職を退職する)を出したが許可されない。しかし山内不和のため許可も得ずに黙って清水寺を去り寺務を放り出してしまった。その非により月照は「境外隠居」(境外というが清水寺を追放されたわけではなく立ち入りはできる身分)の処分を受ける。
こうして月照は、清水寺から去って不安定な立場となったものの、逆に言えば自由に動ける遊軍的な存在となり、この隠居の身になってからさらに近衛家との親密度を増して(歌道入門したのがこの時期=嘉永7年)、その身軽さを利用して国事周旋に奔走するのである。
そうして、月照は幕府によって危険人物とみなされるようになる。井伊直弼による安政の大獄で捕縛の危険を感じた月照は薩摩藩の導きによって大阪に一時避難。この時近衛家から月照の警護を任されたのが西郷隆盛であった。しかしそこにも危険が迫ったため、薩摩にまで落ち延びてはきたものの、島津斉彬の急死によって一変した藩論をどうすることもできず、西郷にはあまつさえ月照追放(実質的には斬り捨て)の指示すら出る。こうして西郷は、月照警護が果たせなかったことを死を以て償うため、月照と共に冬の錦江湾に飛び込んだのであった。西郷は助け出されて蘇生したが、月照は享年46歳であった。
西郷と月照は、史料上で見る限りそれほど長い付き合いではなく、両者の激しい交渉が始まったのは、著者は安政5年7月以降と見ている。つまり親密に付き合うようになったのは死の僅か半年前に過ぎない。さらに近衛忠煕をはじめとして原田才輔など月照の勤王運動との関わりが深い人はいずれも『成就院日記』にたびたび登場し詳しく記録されているにも関わらず、そうした記録には西郷のことは一度も登場しないのだという(ただし安政5年の『成就院日記』は欠けている)。
西郷との入水は、確かに月照の人生のハイライトであった。しかしそれは彼の人生の中にあって、かなり例外的な展開を見せた事件であった。月照は幕末の志士にありがちな梗概家タイプとは違った。自ら国事に進んでいったというよりは、清水寺という寺院の機能が彼にそれを求め、巻き込まれていったのであった。
月照の名は、西郷との入水という事件によって幕末史に永く留まることだろう。しかし、社会を変えようなどと大それたことは思っていなかったに違いない地味な僧侶が、なぜ担ぎ出されなければならなかったのか、ということも同時に記録に留めるべきだ。月照は時代に翻弄されただけの存在ではなかったが、結果的には近衛家や薩摩藩にいいように利用され切り捨てられたのであった。それを真摯に受け止め責任を感じ命を投げ出したのが、月照より15歳年下だった、31歳の西郷隆盛だったのである。
コンパクトにまとまった月照伝であり、勤王僧という存在の意味を考える上でも参考になる好著。
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