唯物史観から見た明治維新の分析。
本書は、奇形的な本である。というのは、注の方が本文よりも多く、本文と注を行ったり来たりしながら読むのにかなり苦労するからだ。このような構造なのは、本書が東京大学で行われた講義を元にしているためで、講義本体の概略的な明治維新の分析と、その背景となっている大量の資料や関連の研究への言及が、本文と注にそれぞれ分かたれて書かれているのである。
よって本書を読み解くには、まず明治維新の歴史を予め把握している必要がある。概略的な本文の記載にはいちいち何があったとは書いていないし、注の方では微に入り細に入った資料が次々と提示されるばかりで出来事の説明というのを丁寧にはしてくれない。本書は大学の講義と同じように、ある程度予習をしてから向かうべきものである。
実は私は、数年前予習無しで本書を読んだ。明治維新に興味が出始めたくらいの時に本書を手に取ったのである。その時は一応読んだものの、その奇形的構造と、明治維新の歴史が頭に入っていなかったことから歯が立たず、あまり理解できなかったというのが正直なところだ。
しかしある程度明治維新に詳しくなってから再読してみると、こんな面白い本もないのである。
本書は、明治維新を理解するにあたり、それが外圧(黒船)への対応として行われたという立場を取っていない。明治維新は、天保の頃から顕在化していた社会の矛盾を解消するために行われたと考え、下は百姓一揆のような民衆的レベル、上は幕府と朝廷、志士と公家といった権力闘争のレベルのそれぞれの層においてどのような構造的な変動があったのかを分析している。
それにあたり、著者はマルクスの唯物史観、すなわち階級闘争史観を採用していて(と本書に書いているわけではないが自明)、本書は階級闘争史観から見る明治維新史の趣がある。そしてそこから予想される通り、著者の明治維新の評価は極めて厳しい。というのは、幕末には百姓一揆の多発など下からの社会変革の兆しがありながらも、それが一つの力として糾合されていくことがなく常に場当たり的な生活改善要求に終始し、さらにはそれすらも幕府や続く明治政府によって弾圧されてしまい、結局民衆のレベルでの社会矛盾は解消されるどころか明治政府というより強大な権力によって抑圧される結果となったからである。
明治維新は確かに封建社会の崩壊をもたらし、人々はある種の自由を上から与えられて謳歌はしたが、そこからさらに自由や権利の思想を発達させることはなく、むしろ天皇を中心とする絶対主義体制を生みだし、封建時代以上に強権的な原理主義体制へとなだれ込んだ。「明治維新は、社会変革としての底のきわめて浅い、政権移動として実現されたのであって、薩州・土州・宇和島・長州・芸州などの雄藩大名と、それを背後から動かす少数の指導的藩士、および将軍・幕閣、さらにそれらと結び合う公卿、これらの人々の、政権取引をめぐる複雑怪奇な個人的策謀に矮小化され、卑俗化された」(p.146)のである。
こうした見方は、英傑達が活躍した明治維新をイメージしている人には受け入れがたいに違いない。 しかしながら本書には非常な説得力があり、著者の述べる個々の主張を覆すにはかなりの考究が必要である。本書は、戦後の明治維新研究の古典となったのであるが、その見方に賛同するにせよ反対するにせよ、いわば乗り越えなければならない峰のような本であったようだ。
そして、それは今でも変わっていないと思う。執筆から60年以上が経過し、やや時代遅れの点は見受けられるが、著者の主張は概ね覆っていない。だが、明治維新が単なる支配者の交替に過ぎないとしても、経済発展の端緒を開いたことは事実だし、日本の独立を守り、大規模な内戦や混乱に陥ることなく、速やかな政権交代を成し遂げたことは評価しなければならない、と人は言うだろう。
しかし本書は、終戦間もない頃に書かれている。本書にはっきりとは書いていないが、太平洋戦争まで突き進まざるを得なかった、その見えない不気味な力を、明治維新の頃にまで遡って反省したのが本書だと考えることもできる。明治維新にはある程度功績があるとしても、明治維新の生んだ絶対主義——近代天皇制——に破滅への道が内在していたのだとしたら、その功罪を比較考量してみないことには明治維新の評価は出来ないのである。
明治維新について考える際には必ず手に取るべき古典。
※私は岩波現代文庫版で読んだが、現在は岩波文庫になっている。
0 件のコメント:
コメントを投稿