お茶の起源をめぐるフィールドワークの記録。
著者はお茶の研究者ではなく、日本文化(芸能や民俗)を専門とする国立民族学博物館助教授(当時)だ。しかしお茶の起源について興味を持ち、機会を捉えて中国や東南アジア等に「観光」に出かけていく。観光といっても実態はフィールドワークに近い。本書はその旅行記をまとめたものである。
「第1章 茶の原郷を訪ねて」では茶の原産地と考えられている西双版納(シーサンパンナ)、四川に赴く。シーサンパンナとは雲南省の最南部、ラオスとの国境に接するところでタイ族の自治区である。ここは長く外国に閉ざされたところだったが1979年に外国人が訪れることができるようになったため、著者らはここを訪れる。ここでは、「茶樹王」と呼ばれる野生の大茶樹(野生とはいいつつも、かつて栽培されていたものが野生化したもの)、焼畑による茶園の造成(茶は焼畑の植物であるという性格が強い)、プアール茶の栽培と販売の様子などを見ている。ここには遺伝的にも、利用的にも多様なお茶が存在している。
茶はシーサンパンナで生まれたが、それを「文化」にまでしたのは四川である。四川では大まかに緑茶、紅茶、そして「辺茶」が作られている。辺茶とは、辺境向けの茶であり、チベットや青海省へ運ばれていく。これは長い距離を輸送するため、レンガ状(楕円形もある)に固められた茶であり、本書ではその製法を詳しく紹介している。なお、固められたお茶をより広く総称して磚茶(緊圧茶)と呼ぶ。
「第2章 <たべるお茶>をもとめて」では北部タイとビルマに赴く。食物の歴史を考えてみると、茶が最初からお湯で煮出して飲むものだったとは考えがたい。茶もその起源においては食べるもので、それが発展して飲み物になったのだろう。と考えると東南アジアにある「ミエン茶」はその起源的形態に近いのかもしれない。ミエン茶は、ひとつまみのミエン(茶葉)に塩を加えてくちゃくちゃ噛み続けるガムみたいなものである(ただし最終的には飲み込む)。時にはナッツや生姜、肉や脂を加えることもある。
著者はこのミエン茶がどのように生産され、消費されているか実地調査した。具体的にはタイの農村に分け入り、僅かな手がかりからミエン畑(茶畑)とその加工を行っている村を訪れたのだ。ミエン畑は高木の茶畑である。畑といっても整然としたあの茶畑ではなく、焼畑から自然発生的に生えてきた茶の木、しかも無剪定の大きな木によじ登って葉っぱを摘む。この葉を蒸して、それをキレイに束ね、土中の穴に1ヶ月から1年つけ込む。ミエンとは茶の漬物なのである(ただし塩漬けするわけではない)。
一方、ビルマでは「ラペ・ソゥ」というたべるお茶がある。これは付け合わせのおかずと一緒に食べるお茶である。ミエンのようにくちゃくちゃ噛むのではなくレッキとした食べ物だ。こちらの方も、生産・加工している村を探して著者は奥地へ分け入っていく。ここでも茶樹は剪定しない高木性のものとなっている。ラペ・ソゥは茶の葉を茹でて揉み、水にさらして出来上がるが、本格的にはさらにつけ込みの作業をする。竹筒に茶を入れて密閉し、8ヶ月ほど土の中で熟成させるのである。2年間は保存がきくという。
「第3章 世界の紅茶地帯をゆく」ではアッサムとシッキムに赴く。この頃アッサムは政情不安定でインド政府はアッサムを外国人に閉ざしていたため、著者らは「アッサムを訪れた最初の日本人団体客」だったそうである。ではなぜ入域が認められたのかというと、それが学術研究ではなく「観光」だったからだそうだ。アッサムといえば紅茶で名高いわけだが、アッサムがどんなところなのかは私自身全くイメージがなかった。著者によればアッサムは「日本の中世」のようだということである。アッサムの街並みは「洛中洛外図屏風」や『一遍聖絵』に描かれた風景を彷彿とさせるという。紅茶の産地が日本の中世のようだったとは面白い。
ちなみにアッサムには元々茶の文化はなく、アッサム茶を「発見」したイギリス人によって産業として紅茶の生産・製造が導入されたものである。著者はダージリンにも訪れているが、こちらもいかにも植民地産業的な茶栽培が行われている。ミエンとかラペ・ソゥのお茶のような、古く自由な栽培とは全く異質な、工業的な茶園が広がっている。
ダージリンのそばにシッキムがある。アッサムよりもさらに秘境だったのがシッキムで、著者らはアッサムには割とあっさり行くことができたがシッキム(インド軍の統治下にあった)には入るのに苦労し、しかもほぼ入域の許可が下りなかったためたいした見聞はできなかった。さらに著者らはネパール、チベットへ赴いている。チベット式のお茶の取材とともに、文化面の記述が多い。
「第4章 茶堂・碁石茶・釜炒茶」では、四国山地へ赴く。四国には「茶堂」と言われるものがある。これは山中の街道の路傍にあって、道をいく旅人がしばし疲れをいやしたお堂である。他の地域でいう「辻堂」にあたり、おおよそ一間四方で、中にはご本尊の石仏などがある。かつてはこの小さなお堂で旅人を茶でもてなしたことから茶堂を言われるようになったそうだ。私は茶堂について以前興味を持ったものの満足な情報が得られなかったことがあるが、その実態を知ることができて大変参考になった。
ではなぜ四国には「茶堂」があるのか。ここに面白い統計が紹介されている。明治25年の段階で、愛媛のお茶栽培面積は静岡について全国2位だったというのである。かつて一時期、愛媛は全国有数の茶産地だった。これは松山藩や伊予藩が茶業を奨励していたためらしい。そのためか四国には「茶堂」のような独特の茶文化があるのである。さらに阿波晩茶、土佐の碁石茶は極めて特異な製法のお茶であり、日本国内では類例がない。むしろ東南アジアの茶に近いような製法なのである。しかしながらそれがどのような来歴によるものなのか、両者に関係があるのかは全くの謎である。
全体を通じ、本書は茶の研究書ではなくて紀行文であるため平易で読みやすい。しかも他では得られない現地情報が生き生きと述べられており、学術的にも参考になる部分が多いと思われる。なおお茶がその起源において食べられるものであり、しかも入手が困難な辺境地帯にもそれが辺茶として運ばれているということは、単なる嗜好品ではなく栄養学的な根拠がありそうなものだが、本書はあくまで紀行文であるためそうした分析はなされていない。
それから、お茶は原産地においては、焼畑の後の自然発生的な植物として栽培され、剪定もされない粗放な管理が普通な一方で、加工にはかなり手間がかかっている。東南アジアでは多種多様なお茶が作られているが、全てに共通して加工には手間がかかるのである。唯一の例外はラペ・ソゥの簡易版である。食べ物よりも飲み物の方に手間をかけるというのは世界中で普遍的な現象だが、それがお茶にも当てはまるのが面白い。
一つ心に残ったことは、第2章の「たべるお茶」の文化はタイやビルマの若者にはすでにあまり馴染みがなく、本書執筆の時点において消え去りつつあるものとして描かれているということだ。茶の文化は、いろいろな地域で多様に育まれてきた。しかしそれが資本の力によって画一化され産業となっていく。新しい茶の文化は高効率ではあるかもしれないが、土着の豊かな文化を潰滅させてしまうという面も否定できない。しかも古いお茶の栽培の仕方・お茶の飲み方・食べ方は現代化した暮らしに合うものでもない。本書は消えゆく文化の記録としても読めるだろう。
茶の起源を巡る貴重なフィールド・ノート。
【関連書籍の読書メモ】
『茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会』角山 栄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2015/04/blog-post_19.html
茶の近代貿易のありさまを通じて歴史のダイナミズムを感じる本。植民地化と茶についても詳しい。
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