石仏を民間宗教の側から読み解く。
日本には、夥しい数の石仏や石塔が存在する。しかしその意味がよくわからなくなって久しい。なぜ昔の人はこんなにも石物や石塔を作ったのだろうか。これまでの仏教史学では、儀軌(仏像の決まり)などは細かく分かっていても、そこにそれがある理由については全くお手上げのことが多かった(と著者はいう)。
それに対し、著者五来重(ごらい・しげる)は「仏教民俗学」(後に「宗教民族学」に拡張)によって、快刀乱麻を切るように謎を解いていく。その主張をまとめれば、「民衆は、昔から石自体に不思議(神聖)な力があるという信仰を抱いていて、それを表現したのが石仏である。それが地蔵であれ道祖神であれ、何が表現されたかはさほど重要ではなく、そこに祈りの対象となる「石」があることが重要なのだ」とでもなるだろう。
著者によれば、神聖性を感じさせる石は、第1に魁偉な容貌をした自然石である。そういう自然石の周りを巡ることを「行道(ぎょうどう)」といい、これは巡礼の原始的形態なのだという。
第2に、並べた石・積んだ石である。ストーンヘンジのような列石信仰もそうだし、日本では積石信仰や磐境(いわさか)がそれに当たる。例えば賽の河原になぜ石を積むのか、著者はそれを古代の葬制の名残だと推測している。死体を葬った洞窟の入り口を石を積んで塞いだこことが積石の由来だという。なぜ石を積むかというと、それは悪霊が外の世界に出てこないようにするためだ。磐境の列石も、それ自体が神の依り代ではなく、神の荒魂を封鎖するために作られたのではないかというのが著者の説だ。
第3に、人工的に(特別な形に)造形した石である。その最も起源的なものは陰陽石ではないかと著者は考える。特に男根形は、様々な石造物の祖型となった。例えば道祖神、地蔵菩薩は、その根幹に男根があると考えられる。
さらに本書では、庚申塔と青面金剛(しょうめんこんごう)、馬頭観音、如意輪観音、地蔵石仏の信仰、磨崖仏と修験道などについて語られる。特に面白かったのが庚申塔についてで、これは非常にたくさん残っている石造物であるにもかかわらず、なぜ庚申供養塔を立てたのか普通の仏教理論(+道教理論)でも分からない。著者はこれは庶民の先祖供養と習合した結果であり、先祖供養をまとめてする意味があったと述べている。馬頭観音も、元来の仏教理論ではほとんど重要ではない存在なのに、民間信仰では牛馬の守り神として絶大な人気を得た。仏塔に占める馬頭観音の割合は非常に多いのである。こういうのも、仏教史学ではなく「仏教民俗学」でないと解けない存在である。
また、如意輪観音は水子供養のために造立されたのではないかという考察をしている。これは今まであまり気にしていなかったので、今後見ていく時に確認してみたいと思う。
それから、磨崖仏の項目には弥勒信仰についての言及がある。阿弥陀信仰が広まる前、古代に於いては弥勒信仰の方が盛んであったとはしばしば言われることであるが、古代石窟の弥勒仏が修験道の原始的形態であったと著者は言う。
ちなみに、私は本書を10年くらい前に一度読んでおり、今回は再読である。10年前に読んだ時はあまりピンと来ていなかったのが庚申塔の項であったのだが、今回はナルホドと思わされた。
また、再読して感じたのが、著者の旧来のアカデミズムに対するちょっと攻撃的な姿勢である。「仏教民俗学」を打ち立てるにあたって、著者は旧来の仏教史学と軋轢を抱えていたというが、それを乗り越えようとする強烈な気概を本書からは感じる。逆に言うと「旧来の石造美術史・仏教史学でわからなかったことが、仏教民俗学で考えればほらこの通り!」みたいな部分もあって、ちょっと断定が過ぎるような部分も散見された。もう少し学問的に慎重に述べていたら、本書は第一級の作品になった気がする。
また、本書は「石の宗教」の全貌というよりも、全編がケーススタディ的である。非常に示唆的な記述が多く、また読みやすくもあり、主張は明解に伝わってくるものの、扱っていない話題も多いのである。例えば五輪塔や一般の(四角の)墓塔、板碑については取り上げて欲しかった。また、仏像の中では特に地蔵菩薩だけが取り上げられているが、もう少し幅広く石仏の世界を案内して欲しかったところである。
石仏の奥にある、石自体の神聖性に着目した刮目すべき本。
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