2020年5月16日土曜日

『都城唐人町—16〜17世紀の南九州と東アジア交流』佐々木 綱洋

日向・大隅の海上交通についての論文集。

本書は、著者が高校教諭であった時から発表してきた論文を再編集して一冊の本としたものである。そのため、あまり体系的ではなく、また重複も散見される。しかし参考になる情報が多々含まれた本である。

「1の章 唐船の渡来地・内之浦」では、内之浦と外ノ浦の海上交通について述べる。応仁の乱の後、遣明船が南海路をとるようになると、ルート上にある日向・大隅の諸港は遣明船の寄港地として賑わうこととなった。ここから坊津を経て、寧波(明は入貢国ごとに港を規定していた)へ向かったのである。

外ノ浦を領有したのが飫肥城主豊州島津家で、飫肥城下にあった安国寺(臨済宗)や龍源寺(串間市市木)が外交文書の作成や航路の安全管理などにあたっていた。 そうした任務のため飫肥城主島津忠廉から安国寺に招かれたのが、日本儒学の嚆矢となった桂庵玄樹。桂庵玄樹の法統は薩南学派を形成し(桂庵玄樹[安国寺]-月渚[安国寺]-一翁[龍源寺]-文之[龍源寺])、飫肥は南九州の文化の中心となった。しかし永禄11年(1568)、伊東氏の侵攻に島津氏が敗北、文之は飫肥を去って薩摩へ渡った。

ところで文禄2年(1593)、明の福建巡撫許孚遠(きょ・ふえん)は、史世用という部下を商人にしたて、許豫という海商の船で内之浦に派遣しスパイ活動を行わせた(当時、秀吉の朝鮮の役のためスパイが必要だった)。まずは伊集院幸侃(忠棟)がこれを尋問し、史世用はスパイだとバレて送還された。替わって許豫がスパイの代理を務めたのだが、許豫は島津義久の信頼を勝ち取り貿易の権利を得て帰帆を認められた。この尋問の通訳を務めたのが正興寺(霧島市隼人町)の玄龍という僧侶で、著者は、この玄龍はすなわち文之であったと種々の資料から考察している。

「2の章 北郷氏と内之浦」では、慶長元年(1596)に内之浦にやってきた藤原惺窩の足取りを辿り、当時の内之浦が東アジア貿易圏の一角であったことをまず述べ、続いて都城を領有した都城島津家こと北郷(ほんごう)氏の概略史を述べる。内之浦は都城領であり、豊臣秀吉により伊集院忠棟が都城に配置された一時期を除いて北郷氏の領地であった。内陸の盆地である都城に唐人町ができたのは、内之浦を北郷氏が領していたからなのである。

なお、北郷氏の祖は島津忠久の曾孫忠宗の六男・北郷讃岐守資忠であり、正平7年(1352)に足利幕府より日向諸県北郷を与えられた。312年後、北郷氏はおそらく島津光久の命によって島津氏に復姓したのであるが、その背景として小杉重頼事件が取り上げられている。この事件の関係者を処分することにより島津本宗家は北郷家への圧力を強め、事実上島津家の分家とするに至った。

「3の章 都城唐人町の成立と町場の形成」では、都城唐人町がどのように成立し、変転していったかが述べられる。都城に唐人町ができたきっかけは、天正年間(1573〜1593)に時の領主北郷時久が内之浦に亡命してきた明人たちを城下に住まわせたことである。また天正18年(1590)にも明人たちが内之浦に漂着(となっているが著者は亡命と推測)し、その明人たち(の一部)も合流したと著者は考えている。北郷時久は一時(先述の伊集院忠棟の移封によって)祁答院に転封させられた時も明人たちを連れて行き湯田に唐人町を作らせた。都城唐人町は北郷時久の篤い保護によって成立したものであった。

さらに、江戸時代の鎖国体制下になって、再び明人たちが内之浦にやってきて唐人町に住んだ。何欽吉(か・きんきつ)、天水二官(てんみず・にかん)、江夏生官(えなつ・せいかん)、清水新老、汾陽青音(ふんよう・せいおん)らであった。この年代ははっきりとはわからないが、著者は状況証拠から通説の正保年間ではなく寛永8年(1631)以前と推測している。この唐人町は幾度かの変転を経ながらも繁栄していった。それにしても、北郷時久時代の亡命者の一群にしても、なぜ明人たちは都城にやってきたのだろうか。偶然ではないように思われる。

「4の章 何欽吉ら明人たちの足跡」では、明人たちの墓地を調査することでその足取りを推測している。特に何欽吉については、明人たちのリーダー的存在と考えられるためやや詳しく来歴を辿っている。本章では、さらに唐人町に伝来した媽祖像と出土した中国象棋の駒について紹介している。

「5の章 高氏四代と都城」では、長崎奉行所の大通事(通訳)として大きな足跡を残した高一覧(こう・いちらん)など高一族の歴史を取り上げる。一覧の父は、薩摩の帰化明人である高寿覚。儒医として島津家久に仕えたという。さて、一覧は川内で生まれたと一覧の子玄岱(げんたい)が述べているのであるが、一覧の供養塔が都城にあり都城とは縁が深く、著者は都城出生説を推している。

玄岱は黄檗宗に学び、京都に留学、朱子学を学ぶ。その後、島津光久に招かれて侍医として薩摩に住んだ。さらに61歳の時(1709)、新井白石の推挙で幕府の儒官となった。なお玄岱は宝永3年(1706)野間権現の「娘馬山碑記銘」を書いたという。また、玄岱の長男・有隣(ゆうりん)は家督を相続して幕府の儒官となり、書物奉行となって将軍吉宗のブレーンとして重用された。

「終章 都城唐人町と漂流民」では、延宝8年(1680)にバタン人(当時スペイン領のフィリピンの現地人)が外ノ浦に漂着し、それを長崎に陸送したことを詳述し、当時の国際関係などについてケーススタディ的に取り上げている。

なお「みやざき文庫」に所収されるにあたり、次の3編の論文が「補論」として加わっている。「都城市天水家媽祖像」、「飫肥の媽祖像」、「飫肥と明医徐之■(辶に粦)」。

全体を通じて、本書は著者の関心事である「都城」とそれに通じた内之浦や外ノ浦をいろんな角度から眺めてみようという本で、時代も行ったり来たりする上、論文集の性格上、概略的な説明よりも個別的な説明が優先していることもあって、決して読みやすいとはいえない。それから、増補改訂版であるにもかかわらず誤植が多いのは残念である。しかしいろんなところに参考になる情報がちりばめられている本で、体系的ではないが枝葉末節の部分が面白い本である。

著者の都城の海外交流研究の集大成。

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