観応の擾乱を丁寧に解きほぐす本。
観応の擾乱とは、室町幕府の成立初期、足利尊氏とその弟直義(ただよし)の兄弟が争った内乱である。関ヶ原の合戦などと違い、どちらが勝っても足利政権なわけで、地味な内乱としてあまり踏み込まれることがないが、本書はこの乱によって室町幕府の性格が確立したと考え、史料に基づいて擾乱の経過とその意味を丁寧に解きほぐしている。
乱の発端は、尊氏の執事高師直(こうの・もろなお)を直義が排除しようとしたことだった。幕府成立当初、尊氏は政務からほとんど引退し、実権を弟直義に譲っていた。そして僅かに残した重要な政務(恩賞宛行(あておこない)、守護職補任(ぶにん))を中心に業務を高師直に補佐させていた(著者はこれは「三条殿体制」と呼ぶ。三条殿=直義)。
それが気にくわなかったらしいのが直義。師直は特に専横ということもなく、直義にも恭順だったらしいが、勘所を押さえられている気がしたのかもしれない。南朝との争い(四条畷(なわて)の戦い)においても師直には軍功があったから正論によって対抗することもできず、直義は讒言によって師直を排除しようとした。
高師直はただちに行動に出た。軍勢を率いて尊氏邸を包囲し(御所巻(ごしょまき))、直義の罷免を要求したのである。この行動には幕臣の多くが賛同していた。どうやら幕政への不満が鬱積していたようである。尊氏・直義の兄弟はなすすべなく師直の要求を受け入れ、直義は失脚し出家した。直義の実権は、尊氏の実子足利義詮(よしあきら)が引継ぎ、尊氏・師直コンビが復活した。
一方、尊氏の別の実子直冬(ただふゆ)は父からなぜか冷遇され(実子としても認められなかった)、直義の養子となっていた。直義はこの甥を目に掛けて「長門探題」として西国に派遣したが、やがて直冬は九州へ下向し独自の勢力圏をつくっていく。直冬は尊氏の命令も聞かず、九州の武将を自分の意によって動かしていた。それが気にくわなかった尊氏は直冬に出家を命じるものの無視され、遂に直冬討伐に乗り出した。
その頃、出家して引退したかに見えた直義が、密かに京都を脱出し再起を図っていた。直義の下には重要な武将が次々に寝返り、巨大な勢力に成長していった。直冬の討伐でさえままならない尊氏・師直コンビに不利を感じていた各地の武将が直義に乗り換えていったのである。こうして、尊氏は配下の武将を次々に失い、戦う前から敗軍の将のような体になっていた。そして「打出浜(うちではま)の戦い」の激戦に負け、直義軍と講和した。
講和条件は、高師直・師泰(もろやす、師直の兄弟)の出家だったが、実際には高一族は講和後に斬殺された。ところで直義は尊氏に圧勝したものの、彼自身は戦には非常に消極的だった。味方への恩賞宛行(恩賞として領地を与えること)も一切行っていない。合戦にも参加することなく、別の国から傍観するだけだった。直義は幕政に不満を抱く武将に担がれただけのようだった。
そういう消極性からか、講和後の政権の体制は意外なほど尊氏に有利で、基本的には擾乱以前の「三条殿体制」を復活させることとなった。消極的な直義とは対照的に、尊氏は擾乱以前には決して見せなかった強烈な気概を見せはじめ、恩賞宛行権を保持することに成功したのである。
敗軍の将が恩賞宛行権を持っているのだから、勝者への恩賞が十分に与えられるわけがない。もちろん尊氏もその権利を自由に行使できたわけではない。にしても消極的なだけで十分に直義派への弱体化に寄与した。その上、直義自身にも積極的に恩賞を与える気がなかったようだ。守護職の補任もほとんど現状維持に留まった。官途の供与も限定的だった。これでは直義のために生命をかけて戦った武将たちが不満に思うのもやむを得ない。直義は南朝との講和だけは熱心に取り組んだがこれは不成功に終わった。
こうして新たな三条殿体制は直義の失政(=消極性)により瓦解した。風向きが悪くなり孤立気味になった直義は京都を脱出。時を同じくして南朝との戦闘も再開され、直義が実権を握っていることに不満な義詮や直義派の武将によってなし崩し的に観応の擾乱第二幕が始まった。ただし今回は尊氏も直義もあまり戦う意義を感じておらず武将の間にも厭戦気分が漂っていた。
失政により多くの武将からの支持を失っていた直義はあえなく敗北。戦乱の中で唯一の実子も失い、戦う意欲を阻喪した結果であった。一方尊氏は南朝との講和に成功し、皇統を南朝に統一することに同意した(正平の一統)。
直義死去後の体制は、東日本を尊氏が、西日本を義詮が治める東西分割統治体制であった。政権のメインは義詮が担い、尊氏は軍勢だけを引き連れて東国に臨んだ形だったが、恩賞宛行や守護職の補任を積極的に行い、東国経営を成功させた。
そんな中、三種の神器を南朝に渡すなど、尊氏方は講和条件を誠実に履行していたにもかかわらず、南朝が一方的に講和を破棄し幕府を滅ぼそうと攻勢に出た。南朝と尊氏軍は「武蔵野合戦」で激突し、尊氏軍は辛くもこれに勝利し東国での覇権を固めた。一方で西国では南朝軍との衝突が散発していたことなどから、尊氏自身がこれに対処するため分割統治体制を解消、尊氏が統一政権を担った。
また九州では、南朝の懐良親王、九州探題一色道猷、そして足利直冬の三つ巴の戦いが行われていたが、直冬は南朝に帰順し幕府と敵対。しかし実父と戦うつもりはあまりなかった直冬は自ら先頭に立つこともないうちに尊氏に撃破された(その後死亡)。
この観応の擾乱を、著者は「実に奇怪な内乱」と評する。短期間で形勢が極端に変動して離合集散が繰り返され、しかも戦いの目的がはっきりせず、当事者たちは戦う気があまりなかったのに戦乱が続いたからだ。その理由は従来様々に考察されてきたが、著者の考えは武将たちへの恩賞が少なく、功労に報いることが少なかったことに本質的な原因があったのではないか、ということだ。
実際、尊氏は擾乱を経て諸政策で広い意味での恩賞を充実させた。積極的な恩賞宛行や守護職の任命、訴訟制度の簡素化と迅速化(幕府に帰順したものへの優遇)などがそれに当たる。このようにして擾乱を契機として室町幕府は「努力が報われる政治」へと舵を切っていったのである。
ちなみに本書を読みながら気になったことがいくつか。 直義も義詮も寺社の所領保護にかなり気を遣っているように見受けられるが、そこにはどのような事情があったのか。擾乱以前は武将の権利よりも寺社のそれを優遇しているようにすら見える。寺社からどのような利益を得ていたのだろうか。それに関連して、室町幕府の財政事情についても気になった。本書を読む限り室町幕府は独自財源を持たず、所領の給付と守護職の補任のみが恩賞に使える手駒だったように見える。擾乱は、独自財源があればお金で解決できた面もあったように思った。
それから「九州で猛威を振るった」などと簡単に表現される足利直冬は、どうしてほとんど幕府の後ろ盾もない中、九州で一大勢力として成長することができたのか。本書には具体的な経過が述べられていないが、直冬の行動にも興味が湧いた。
観応の擾乱について一般向けにまとまったほぼ唯一の本。
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