2020年3月10日火曜日

『アマテラスの変貌—中世神仏交渉史の視座』佐藤 弘夫 著

神仏習合論に新しい視座を導入する本。

神仏習合は、古代末期から中世にかけて進行した。そして神と仏は人々の信仰の中でほとんど区別されないようになり、仏教と神道は切り分けることができないほど一体化した…と考えられてきた。しかし著者によれば、それはちょっと大雑把すぎる見方ということになる。もう少しその内実を見て、そこにどのようなコスモロジー(秩序)があるのか探ってみようというのが本書の意図である。

その結論をまとめれば次のようになる。

中世の人たちは(1)仏教の宇宙観を採用し、至高の存在として遙かな仏の世界を観想しつつも、(2)現実の願いや信仰を託すものとしては身近な地域神や仏像などとして表現された此土の神仏を拝んだ。それらは彼岸の仏の垂迹ではありながら、日本という辺境の(インドから遠い)国の人々を救うために具体化した存在であると考えられ、そのローカル性から神仏の世界での重要性が低い代わりに、却って卑近な信賞必罰を託すのに適していると見なしていた(著者はこれを<怒る神>と呼ぶ)。(3)一方で極楽往生については、彼岸の仏にすがる必要のあることだった。だが彼らは遙かに遠い世界=異界に存在すると考えられたから、現実の生活に及ぼす影響はほとんどなかった(著者はこれを<救う神>と呼ぶ)。(4)中世では神仏の区分けよりも、彼岸にいる救済者となる理念的な仏(大日如来、阿弥陀如来など)と、此岸にいる具体的で裁定者となる神仏(伊勢、八幡、各地の氏神、大仏や○○寺の仏像といったような具体的表現を持つもの)という2分類の方が実態に即していたと考えられる。

著者はこうした結論を導くため、「起請文」に現れる神仏を分析している。起請文とは、「○○の約束を破ったら神仏の罰をこうむります」というように、約束事を神仏に誓う形の請け書のようなものである。実は私も起請文には興味があって調べたことがあって、著者の問題意識には共感するし、結論は穏当だ。

ただし起請文には注意すべき点がある。それは、起請文にはずらずらと神仏の名が登場するのだが、本当にこれらの神仏は信仰されていたのだろうか? ということだ。なぜなら、とりあえず挙げておけばよいとばかりに多くの神仏を挙げて誓っているし、そもそも起請文は結構簡単に破られた。本当に信仰していたのならありそうもないことが起請文には散見される。著者はその点については何も留保していない。ここは考察の上で不十分だったと思う。

ところで、本書のタイトルともなっている天照大神については、それほど詳細には語られていない。先ほどのまとめにも書いた通り、本来中世人のコスモロジーの中では至高の存在としては仏であった。しかし国家、というよりも天皇家は、自らを権威付ける必要もあり天照大神を至高神として位置づけようとした。理念的には「辺土」の国主であるという妥協を受け入れつつ、実際には至高神としての普及活動を行うことで「日本国主」天照大神は浸透していったのだという。

なお、私がそもそも本書を手に取ったのは、天照大神の像容の変化に興味があってのことだった。天照大神は女性神であると我々は考えているが、中世ではいろいろに表現されており、童子神(雨宝童子)であったり、男性神官であったりしたらしい。本書ではちょっとだけ紹介されているが、このあたりをもう少し踏み込んでもらえると天照大神のイメージの変遷がもっとよくわかったと思う。

全体を通じて、著者の提示する中世の神仏のコスモロジーは説得的だし、議論は史料に基づいていて穏当である。しかしやや話題が散漫で、考察が少なく、構成が体系的ではない。「新しい視座」を提供するものとしてヒント的な書き方をしたのだろうが、習作的な部分があることは否めない。

神仏習合に対する考え方は参考になるが、ややまとまりに欠ける本。

【関連書籍】
『神仏習合』逵 日出典 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/08/blog-post_17.html
神仏習合の概略的な説明。『アマテラスの変貌』で再考を催される神仏習合の通説は本書が参考になる。


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