2020年3月1日日曜日

『梵字悉曇』田久保 周譽 著、金山 正好 補筆

梵字(悉曇文字)についての総合的な手引き。

梵字とはサンスクリット語を表記するためのブラーフミー系文字の総称であるが、その中のシッダマートリカ文字——悉曇(しったん)文字が日本では梵字として相承されてきた。

本書は、(1)悉曇文字が日本へ伝来するまでの歴史、(2)日本での受容とその批判的検証、(3)悉曇文字の解説、が掲載されており、現在手に入る中では最も総合的かつハンディな悉曇文字の手引き書であると思う。

(1)悉曇文字が日本へ伝来するまでの歴史
仏典は始め文字に書かれることはなかったが、大乗仏教徒が文字による聖典の編纂に取り組んだ。特に最初期の仏教文献と見なせるのは紀元前3世紀のアショーカ王碑文(ブラーフミー系文字)であり、本書では割合丁寧にこの文字を紹介している。

悉曇文字は4世紀〜のグプタ朝に使われた文字に由来する。中国では梵字は旧訳(玄奘以前)の漢訳仏典に全く残存しておらず、6世紀頃までは梵語は必要な場合は音写によって表示するものであった。しかし隋代には梵字の知識が進み、唐代に玄奘が出て旧訳を批判し、また義浄は『梵語千字文』を撰して梵字そのものを紹介するとともに一種の辞書として活用可能とした。

さらに中唐になり善無畏、金剛智、不空らが純密の教典や儀軌を翻訳する。これには漢字音写ではなく梵字がそのまま使われ、次第に経典は梵字の原文でなければ満足しないという風潮になっていった。こうして梵字学は中国の学僧の必須科目となり、文字の構成や字義などが盛んに研究された。そういう解説書の中で著名なのが唐智広の『悉曇字記』である。

しかしインドにおける文字の変遷に合わせて中国では梵字が遷移し、悉曇文字は唐宋をもって使われなくなり、その後継文字であるナーガリー文字が使われるようになった。さらに明代以降にはチベットから伝わったランツァ文字が標準となった。

(2)日本での受容とその批判的検証
一方日本では、空海が『悉曇字記』をはじめとした梵字資料をもたらして梵字時代が幕を開けた。空海自身も『梵字悉曇字母并釈義』『大悉曇章』を著し日本人による梵字研究の嚆矢となった。こうして平安時代には日本梵字学が大成された。比叡山五大院安然の『悉曇蔵』8巻はその最大の成果である。

ところが鎌倉時代になると梵字研究は停滞期に入る。梵字は師匠から弟子へと秘密裡に奥義として相承されるものとなり、批判や訂正を受ける機会もなく、次第に独断と主観的推測が累積して、本来の語学としての形から逸脱していったからである。何よりも日本では梵字は仏典の有り難い神聖文字としてだけ受け取られ、語学として実用することもなかった。そのため「日本の学僧の間では、梵字悉曇学の本質は十中八九までは理解されていなかった(p.1)」。

日本の悉曇学を復興する努力をしたのは江戸時代の学僧である。彼らは平安時代以来の伝承資料に基づき梵字の字形を再吟味するとともに、梵語の語義を研究した。例えば浄厳は『悉曇三密鈔』を著し、従前の悉曇学の成果を集大成した。ちなみに国学の契沖は浄厳の弟子で、『悉曇三密鈔』の音韻学はその国語学の基礎となっているといわれる。

そして慈雲飲光(おんこう)は梵学資料の一大叢書『梵学津梁』を完成し、それに基づいて梵字資料の解読を行い、梵字学を語学として蘇生させた。「複雑な梵語の文法については極めて断片的な知識しか得られず、特に梵語を解する人物の皆無な状況下にあって、梵文を解読するための可能な限界にまで尽くした努力は、杉田玄白等の『解体新書』訳出に遭遇した困難の比ではなかった(p.137)」。また宗淵は梵字の重要資料を原寸大に臨摹(りんも)した『阿叉羅帖(あらしゃちょう)』を刊行した。これは『梵学津梁』とは別の方向性の輝かしい業績であった。

(3)悉曇文字の解説
悉曇文字の解説は伝統的な切り継ぎ18章(悉曇文字の作字を18章に分けて段階的に学ぶもの)によらず、より実用的な形で説明している。また日本悉曇学の伝承を批判し、より簡明で正確な悉曇文字の確定を試みている。ただし、この部分は文字学習というよりは、日本悉曇学の批判の意味合いが強いため、情報量は多いがこの解説を読んで悉曇文字が書けるようにはならないと思う。悉曇文字を書きたいという向きには、川勝政太朗『梵字講話』の方が参考になる。

さらに本書では梵字真言集、梵字般若心経が資料的に掲載されている。ただし、一般民衆にとっての梵字の大きな受容方法であった種子(しゅじ:諸尊を表す梵字)については、ほとんど触れられていない。種子は語学とはほど遠く、記号の組み合わせ術でしかなかったため記載しなかったのだと思われるが、一般には梵字は種子として目に触れるものなのでもっと解説が欲しかったのが正直なところである。

そういう部分もあるにしろ、全体として梵字(悉曇文字)について総合的に学ぶ本としてこれほど学術的で視野が広くしかも読みやすいものは珍しく、非常に参考になった。なお、本書は田久保周譽が残した原稿を元に、金山正好が再編集し、若干補足した本であり、例えば中国での梵字の変遷などは別の田久保の本にあるものをリライトして挿入している。そういう再編集をしたのは、一冊で梵字の世界を学べるようにした工夫で、初学者にとって大変有り難い本になったと思う。

梵字について知りたくなったらまず手に取るべき基本図書。

【関連書籍】
『密教―インドから日本への伝承』松長 有慶 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/09/blog-post.html
密教が日本に伝わってくるまでの、その教えを受け継いだ人々について述べる本。
梵語の中国への導入に大きな役割を果たした善無畏、金剛智、不空についても詳しい。


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