2020年2月17日月曜日

『シチリアの晩禱—十三世紀後半の地中海世界の歴史』スティーブン・ランシマン 著、柳原 勝・藤澤 房俊 訳

「シチリアの晩禱」を極点にして13世紀の地中海世界を描く大著。

「シチリアの晩禱」とは、1278年、復活祭の礼拝を知らせる鐘を合図に、シチリアの住民がフランス人の圧制者に対して起こした暴動である。一晩で約2000人ものフランス人が殺され、その後も虐殺は続いた。

この「シチリアの晩禱」はなぜ起こったのか。

ことの発端はシチリア国王にして神聖ローマ帝国皇帝であったフリードリヒ2世があまりにも傲岸不遜すぎたことだった。

シチリアは今のヨーロッパを中心に考えれば辺境の島にすぎないが、ローマやギリシアといった文明を育んだのは地中海であり、地中海世界の中心にあったのがシチリアだった。シチリア王国は、ギリシア文明を受け継ぎ、アラブ人が活躍し、ノルマン人が支配するハイブリッドな国家であり、地中海世界に君臨する強国だった。

しかしシチリア王国は徐々に衰微し、王権は婚姻関係からドイツのホーエンシュタウフェン家へ移った。そして1198年、フリードリヒ2世が即位する。彼の知性は同時代人の中で卓抜しており、仏独伊語、ラテン語、ギリシア語、アラビア語にも堪能だった。彼は冷酷で独裁的であったがその有能さによってシチリアを繁栄させた。フリードリヒ2世は追って神聖ローマ帝国の皇帝になり、また北イタリアも支配した。

彼を神聖ローマ帝国皇帝として任命したのはローマ教皇であったが、フリードリヒにとって教皇など何ほどのものでもなかった。歴代の教皇は彼に翻弄された。とはいえ神聖ローマ帝国はフリードリヒの個人的な力量によって一見強力だったものの、実際には衰退の途上にあった。帝国の土地を実際に支配しているのはドイツの各地の王で、皇帝の称号は多分に理念的なものだったからである。

フリードリヒ2世の死後、その王国は子孫に分割されたが、一族の内情は必ずしも円満でなかった。教皇もドイツとシチリアの両方をホーエンシュタウフェン家が支配するのを望まず相続を妨害した。フリードリヒのような強大な王に手玉に取られるのにすっかり懲りていたのだった。フリードリヒの息子マンフレーディは教皇が自分たちの敵であると認識した。彼は実力行使によって教皇軍を撃破し、本来のシチリアの継承者である弟コンラーディンが死んだという噂を利用してシチリア王の地位についた。彼は父親譲りの知性と野心を持ち、シチリアを踏み台にして父親がつくろうとした広大な帝国を建設しようとしたのだ。1261年までにイタリア全土は彼の前に屈し、教皇は孤立した。

だがマンフレーディは教皇たちの力を軽視していた。フリードリヒ2世の存命時、すでに教皇インノケンティウス4世はフリードリヒを破門してシチリア王国の包囲網を準備していた。次の教皇アレクサンデル4世もマンフレーディを破門しキリスト教徒の敵だと位置づけた。さらにシチリア国王の地位をイングランド王国のエドマンド王子にすげ替えた。これは一種の売官であったが、教皇はイングランドに対して度外れた金額を要求したため沙汰止みとなった。

次の教皇は、フランス出身のウヌバヌス4世だった。彼はフランスの聖王ルイにシチリア王国の譲渡を打診し、マンフレーディを打倒するための十字軍(!)を呼びかけた。そして莫大な年貢や一方的に教皇に有利な条件と引き換えに、聖王ルイの弟シャルルをシチリア国王に就任させた。

しかしそれはあくまでローマ法王庁として王権のお墨付きを与えたに過ぎない。実際にはシチリアはマンフレーディが支配していたのだ。だから今やシチリア国王となったシャルルは自力でシチリアを征服する必要があった。一方その頃、マンフレーディは権力の絶頂にあった。たった一人でキリスト教世界を敵に回す程度には。しかしその足下はぐらついていた。シチリアの住民は、イタリア本土にいてシチリアを顧みないマンフレーディを不満に思っていたのである。

マンフレーディは自らを過信しすぎた。教皇の後援と、マンフレーディに脅威を感じていた諸侯の支援を受けたシャルルとの戦いは思った以上に不利だった。腹心たちの忠誠心もぐらついていた。シャルルとマンフレーディは「ベネヴェントの戦い」で激突し、マンフレーディは無惨に死んだ。

新しい統治者シャルルは、シチリアに温情を示して寛大な政策を掲げたが、シチリア人には人気がなかった。シャルルは有能ではあったが人間味に欠けていたからかもしれない。シチリア人たちはマンフレーディも嫌っていたが、シャルルの官僚的なやり方(特に徴税)にも我慢がならなかった。こうしてシチリア島全体が反乱状態となり混乱した。この機に乗じて、兄マンフレーディから王位を簒奪された弟コンラーディンがシチリアの奪還のために出陣する。

コンラーディンは美貌と魅力を備えた少年王だった。彼はローマの民衆に熱狂的に迎えられた。ローマ教会の公然たる敵と位置づけられていたのにだ。コンラーディンにはほとんど封建的な地盤はなかったが、賛同するものが合流して大軍となり、「タリアコッツォの戦い」でシャルルと決戦した。コンラーディン軍はシャルル軍を圧倒し、その勝利は確実に見えた。しかし寄せ集めだったコンラーディン軍はギリギリのところでシャルル軍の奇襲に敗北した。

シャルルはまだ16歳のコンラーディンを公開斬首の刑に処した。当時の慣習では敗軍の将を処刑することは不法行為だと思われていたにもかからず。ダンテは半世紀後にコンラーディンは無実の犠牲者であると述べている。シャルルを後援していたフランス人によってさえも、この公開斬首は非難の対象となった。

こうしてシャルルはシチリアと(シチリア王国の一部だった)南イタリアを手に入れた。今度は、シャルルはシチリアに冷酷にあたった。反乱軍には厳しい処罰を下した。シチリアの名家たちの土地は没収され、フランス人の支配者がそれを封土として得た。シャルルの独裁的ではあるが効率的な政策によりシチリアの秩序は回復したが、その副作用として激しい憎悪がシチリア人たちに渦巻いた。

シャルルはシチリア王国を基盤に、北イタリアのほとんどを支配する上級君主(封建領主を統べる君主)となり、ローマ執政官でもあった。彼は地中海帝国の建設という、フリードリヒ2世やマンフレーディと同じ野心を持っていた。

一方、歴代の教皇たちは、強大すぎる世俗権力が生まれることを恐れていた。教皇こそが世界の支配者であらねばならなかった。だからホーエンシュタウフェン家を打倒するためにシャルルを担ぎ出したのだ。しかしいざマンフレーディが排除されてみると、今度はシャルルが侮りがたい世俗権力として教皇に立ちはだかることになった。今度の教皇の敵は、皮肉なことにシャルルだった。

しかしシャルルはマンフレーディとは違い、表向きには教皇と対立しないよう慎重に立ち回った。シャルルの利害は教皇とは対立してはいたが、教皇から得られる権威の利用価値もよくわかっていた。シャルルは、自らに都合のよい人物が教皇に選出されるよう、陰に陽に影響力を及ぼした。

シャルルの手の内で踊らされる危惧を感じていたローマ法王庁は、シャルルに対抗できる世俗権力をつくり出すため、フリードリヒ2世以来空位になっていた神聖ローマ帝国皇帝を指名することにした。白羽の矢が立てられたのはハプスブルク家のルードルフ。だがルードルフはシャルルに対抗するには小粒すぎ、教皇もルードルフをイマイチ信頼しきることができなかった。そのためルードルフは神聖ローマ帝国皇帝として内定していたものの、実際にはずっと戴冠させてもらえずドイツ王のみの称号だった。

ローマ教会のこの頃の懸案は、なんといっても十字軍であった。聖地を奪還するための戦力や資金(十分の一税)が必要だったし、そのためにはキリスト教国同士が争うことは避けたかった。またビザンツ帝国(現トルコ)は、ギリシア正教会を奉じていたからカトリックではないとはいえ同じキリスト教国だったので、十字軍の遂行のために同盟を模索した。衰微しつつあったビザンツ帝国は、この同盟を受け入れてギリシア正教を維持しながらカトリックの傘の下へと収まる決定をした。

しかしシャルルにとっては、この2つのキリスト教圏の同盟は好ましくなかった。なぜならシャルルはコンスタンティノープル(ビザンツ帝国の首都)を征服したくてたまらなかったからである。シャルルの夢、地中海帝国実現のためには、ビザンツ帝国を手中に収めることが必要だった。しかしその野望は、教皇グレゴリウス10世によって巧妙にルードルフが牽制球として使われ、悉く妨害されていたのだった。

だが東西教会の大合同を目前として、グレゴリウス10世が死去した。続く教皇たちは、思っていたほど教会大合同が簡単にいかないことを認めざるを得なかった。大合同は決定していたし、ビザンツ皇帝ミカエルは誠実に義務を果たそうとしたにもかかわらず、具体的な条約締結の作業は遅々として進まなかった。教皇とシャルルは互いに足を引っ張り合っていた。

ところが穏健な反フランス派の教皇ニコラウス3世が死去すると、シャルルはどさくさに紛れて軍を投入し、枢機卿たちを宮殿に閉じ込めてフランス人のマルティヌス4世を教皇として選出させた(1281年)。マルティヌス4世はシャルルの傀儡であった。彼は東西教会の大合同政策を躊躇なく打ち切り、ビザンツ皇帝ミカエルを問答無用で破門した。教皇を陰で操ったシャルルは急速に力を取り戻していった。1282年においてシャルルは、シチリア・イェルサレム・アルバニア王で、フランス各地の伯であり、またその他様々な要職を兼ねたヨーロッパ最大の権力者であり、地中海の支配者となる一歩手前であった。

その頃、遠く離れたスペインでは、シャルルが権力の絶頂へと上り詰めようとしたその裏で、密かな陰謀が組み立てられつつあった。マンフレーディの娘コンスタンツァがアラゴン王国(現スペイン東部)に嫁いでおり、そこにフリードリヒ2世の遺臣ジョヴァンニ・ダ・プロチダという稀代の策士が亡命していたのである。

プロチダはホーエンシュタウフェン家を再興しようとした。シチリアはシャルルからコンスタンツァの手に取り戻されなくてはならなかった。彼はコンスタンツァとその夫アラゴン王ペドロ3世に取り入って宰相となり、その野心を実現する仕事に着手した。

伝説では、プロチダは変装してヨーロッパ各地の宮廷を遍歴し、君主や女王の支持をとりつける反シャルルの地下活動を繰り広げたという。彼の冒険譚は存命中すでに広く流布していたほどだったが、すでに70歳近かったプロチダにはありえない話だ。しかしプロチダが彼のエージェントを派遣して反シャルル工作をしたことは事実のようだ。彼はシチリアで反シャルルの住民感情を煽ると同時に、ビザンツ帝国、そしてシャルルと貿易の上で競争関係だったジェノーヴァに協力を求めた。

特にビザンツ帝国は、シャルルの軍事侵攻の危険に怯えていた。シャルルはコンスタンティノープル征服の準備を着々と進めていた。独力でシャルルを打倒することはできないビザンツ帝国は、藁をもすがる思いで同盟者を捜していた。そういうわけだから、ビザンツ帝国はプロチダの工作に黄金を潤沢に提供したという。

アラゴン王ペドロ3世も艦隊の準備を始めた。表向きにはチュニジアへの十字軍ということになっていたが、シャルルへ対抗する意味合いも裏には含まれていた。

そしてシチリアでは、反シャルル、反フランスの住民感情が爆発しかかっていた。フランス人は決してシチリア人の言葉を覚えようとせず、要職は全てフランス人が握り、シチリアから遠い所で重要な決定がなされていた。フランス人による支配はシチリアに何の利益ももたらさないように見えた。島にはギリシア的要素がまだ強く残っており、フランスよりはビザンツ帝国のギリシア人にいくばくかの共感を持った。その上、ビザンツ帝国はシチリア人の反シャルル活動に秘密裏に資金援助してくれていた。

そんな中、遂にシャルルのコンスタンティノープルへの侵攻が始まる。シチリア人はシャルルの艦隊に強制的に編入されることになった。シャルルの大艦隊がシチリアにやってきた。シチリア人には、憎いシャルルのためにビザンツ帝国と戦うことなど耐え難かった。

そして1282年3月、シチリアは「晩禱」の日を迎える。

きっかけはシャルル軍の下士官が民衆の女にからんだことだった。彼女の夫は怒り、下士官を刺し殺した。すぐにフランス人が仲間の報復に向かったが、たちまち武装し怒り狂った大勢のシチリア人に囲まれ全員殺された。その時、教会の晩禱を知らせる鐘が鳴り始めた。

鐘を合図に、パレルモ(シチリアの大都市)では圧制者に対する蜂起を呼びかける使者が走り抜け、翌朝までに約2000人のフランス人男女が殺され、町は自治都市となったと宣言した。パレルモの蜂起は直ちにシチリア全土に燃え移った。こうしてシャルルのコンスタンティノープル侵攻はすんでのところで頓挫し、ビザンツ帝国は首の皮一枚で繋がった。

これが圧政に耐えかねた単なる民衆蜂起であったなら、シャルルの大艦隊に速やかに駆逐されただろう。それに5月には教皇が反乱を起こしたシチリア人と彼らを援助するもの全てを破門する勅書を出した。シチリア人はキリスト教世界を敵に回して戦わねばならなかった。

だが戦いの当初において、シチリア人は強大なシャルル軍に対して互角以上の戦いをした。彼らはフランス人の支配に激しく憎悪していた。戦いに展望はなかったが、彼らはアンジュー家(シャルルの一族)にあまりに苦しめられたため、自分たちの誇りに目覚めたのだ。彼らには不平等に対して戦う決意があった。だから装備は十分ではなかったが、誇りが彼らを強くしていた。

さらにシチリア人はアラゴン王を後援に恃むことができた。フランス人よりもアラゴン王ペドロとコンスタンツァを自分たちの国王・女王として受け入れることが賢明のように思われた。コンスタンツァは、かつてのシチリア王マンフレーディの娘であり、シャルルよりは正統な王位継承者に見えたからだ。シチリア人の蜂起はアラゴン王にとって必ずしも計画通りではなかったが、その提案は彼の野心を満足させた。こうしてシチリア人とシャルルとの戦いは、アラゴン王ペドロとシャルルとの戦いに変質した。

ペドロはシャルルと同じく野心家であったし、プロチダの策謀によって反シャルルの同盟を組織していた。彼らが正面衝突すれば大規模な戦いにならざるをえなかった。シャルルは一時退却し、ペドロはシチリアを手に入れたが、戦いは膠着状態へと入っていった。そして両者ともさかむ戦費に苦労するようになった。そのためシャルルは世にも奇妙な提案を行った。王同士の決闘で雌雄を決しようというのだ。

総力戦になれば不利だったペドロはこれを受け入れた。ただし追ってその条件は王と100人の騎士での決闘と改められた。決闘は当人たちには最も金のかからない解決策だったが、当人たち以外には無責任な方法に映った。これは紛争を神の裁定に委ねる意味合いがあったにしても、教皇はそんな騎士道精神は馬鹿げたものとみなしたし、シチリア人にとっても自分たちがあずかり知らぬ決戦でまたフランス人支配に戻る危険性を感じた。

周囲からの評判の悪さの上に、当人たちも冷静になってみれば失う物が多すぎる決闘には嫌気が差し、決闘のその日には両者が時間をずらして現れて、それぞれ「不戦勝」を宣言するという茶番が行われた。

決闘は喜劇的な茶番ですんだが、資金不足はそれぞれ現実だった。両陣営は金欠に苦しみ、特にシャルルは資金の面で苦境に立っていた。陣営内の連携ミスや小さな戦闘の敗北が積み重なり、いつの間にかにっちもさっちもいかなくなっていた。1285年の1月、シャルルは58歳で病没した。

彼は20年にわたって地中海を支配した。意志は強く、自らに厳しく、壮大な計画を立て、緻密に実行した。地中海帝国は、彼のものとなる一歩手前だった。それに反旗を翻したのは、彼が警戒を怠らなかったヨーロッパの王たちではなく、シチリアの住民たちだった。シャルルにとって、力のない民衆たちが自由を求めて蹶起することなど思ってもみなかった。シャルルに足りなかったのは人間理解だった。皮肉なことに、シャルルはシチリア人を弾圧することで自らの敵を育てるという墓穴を掘っていたのだ。

しかし「シチリアの晩禱」でシチリア人が得たものは、それほど輝かしくはなかった。シャルル亡き後も、教皇は新しいシチリアの支配者アラゴン王国を教会の敵として十字軍を派遣する。アラゴンに侵攻した十字軍は、マラリアの蔓延のせいもあって屈辱的な失敗となったがその後も争いは続いた。和平工作とその失敗が絶え間なく繰り返され、やがてどちらの陣営にも、泥沼が続くこの戦いが高くつきすぎるという厭戦的な雰囲気が漂ってきた。最後まで教皇はシチリア国王の任命権を持っているという面子にこだわっていたが、もはや戦いを続ける意味はあまりなかった。それにヨーロッパの中心はもう地中海ではなくなっていた。

最終的には1302年、「カルタベロッタの条約」でシチリアは「トリナクリナ国」として独立を果たす。この奇妙な国名は、「シチリア」は名目的にはアンジュー家のものだが、今のシチリアは「トリナクリナ(シチリアの古名)」だからそれとは無関係だ、という子供じみたレトリックに基づくものだった。こうしてようやく戦いは終わったものの、もはやシチリアは重要な国でも、繁栄した国でもなくなっていた。それでもシチリアはやっと自由で独立した国になったのだ。

歴史を概観してみて、シチリア王国の歴史を引っかき回したのがローマ教皇だったことは疑い得ない。マンフレーディやシャルルはもちろん、アラゴン王ペドロもシチリアにとって有り難い支配者ではなかった。にしても彼らは彼らなりにシチリアの現実を見ていた。しかし歴代教皇たちはシチリアの現実よりも自分たちの面子を優先させ、分不相応な権威を軽々しく行使した。シチリア王を選ぶのは教皇だ——という住民を無視した支配権を信じていたのが、そもそもの間違いだった。

そして教皇の政権は、短命が続き不安定だった。フリードリヒ2世を破門したインノケンティウス4世から、アラゴン王ペドロを破門したマルティヌス4世までちょうど10代。彼らは就任から5年ほどで死去し、代が変わるたびにその政策は変転した。教皇は無責任だったのに宗教的権威だけは高かったのが災いした。教皇のせいで、シチリアはしなくてもいい苦労をたくさんする羽目になった。

だがその苦労の裏で、現代なら「ナショナリズム」と呼ぶべきものがシチリア人の中に育った。シチリア人は人種的には混淆していた。そのナショナリズムは、民族性というより、「シチリア人」としてのアイデンティティに基づくものだった。そして「シチリアの晩禱」は、フランス革命のような市民革命を先取りしていた。シチリアは至上の宗教的権威にも、絶対的と見えた王権にも逆らって民衆が蜂起し、ある程度の自由を獲得したのである。

本書は、本文で500ページ近い分量があり、お世辞にも読みやすいとは言えない。中世ヨーロッパに関するある程度の知識を前提としているので初学者には向かない。登場人物や言及される地名も夥しい数にのぼり、索引だけで40ページもある。ヨーロッパ全土の政治状況や王族の婚姻関係が縦横に繋がり、時間も行ったり戻ったりしてこんがらがる。私も最初の3分の1くらいは理解するのに苦労した。

ところが半分を過ぎて、当時の地中海世界を巡る政治や人間関係が頭に入ってくるようになると、俄然、熱中して読んでしまった。しかもそれは小説的な面白さではない。マンフレーディにもシャルルにも、全く感情移入することはできないのに、白熱する地中海世界の行く末が気になって目を離せなくなるのだ。これぞ歴史書の醍醐味だと思う。

ところで本書にはもう一つ特筆すべきことがある。それは本書の訳者・榊原 勝のことだ。榊原は肺がんに冒され、治療法がなく、余命幾ばくもない状態で、生きる意欲を失い鬱病になった。だが共訳者・藤澤 房俊(義理の兄)の勧めで本書の翻訳をスタートさせ、それは生きる意欲に繋がっていく。死を待つ日々、痛み止めのモルヒネを打ちながら規則正しく本書の翻訳を続け、完成させて死んだ。本書は残された人々がその原稿を元に図版、系図などを新たに作成して出版したものである。このような大著が、闘病生活の中で生を賭して訳出されたというだけで驚異的なことである。

西洋中世の転換期をシチリアを中心に描く名著。

【関連書籍】
『中世シチリア王国』高山 博著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2014/10/blog-post_14.html
『シチリアの晩禱』の約1世紀前の、シチリア王国の全盛期を描く本。


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