2021年6月20日日曜日

『破戒』島崎 藤村 著

被差別部落出身の青年の苦悩を描く小説。

本書は、日本近代文学の重要作品として名高いものであるが、読むのが暗鬱な本である。

主人公の瀬川丑松は、被差別部落出身(穢多)であることは絶対に隠せという父の言いつけを守り、小学校教員になって生徒からも慕われるが、校長などからは生一本な性格が疎まれて、やがて出生の秘密を探られるようになる。周囲の差別意識が徐々に露わになり、丑松は追い詰められる。その上、自分が穢多であることを隠しているという自意識が丑松自身を蝕み、丑松は鬱病のような状態へと陥る。

このプロセスは見ていて痛々しく、読み進めるのが苦痛なほどである。そこにどんな救済も用意されていないことを感じるからである。

一方、丑松が尊敬するのが猪子蓮太郎という人物で、彼はいわば「目覚めた人」として力強く描かれる。猪子は「我は穢多なり」と公言し、穢多も平等な一人の人間であることを訴える。その猪子が暴漢に襲われて死亡したことで、丑松は自らの人生の欺瞞に耐えかね、何もかも捨てる覚悟で穢多であることを公言。丑松は小学校の生徒たちの前で跪き、「今まで隠していて済まなかった」と謝り学校を去った。

その後、同じく穢多で社会から放逐された大日向という人物がテキサスに移住するという話に乗り、また以前より思いを寄せていた落ちぶれ士族の娘・お志保と両想いだとわかって、将来の結婚を臭わせて物語は終わる。

この終わり方は、「捨てる神あれば拾う神あり」という安易なラストであるが、私にとっては、最後の最後に少しでも丑松に救済が訪れてよかったと安堵できた。

しかしながら、丑松には本当の意味での救済は訪れていない。それは、丑松にとって穢多であることはあくまで恥ずべきことであり、自ら穢多を卑下してしまう差別意識を持ってしまっているからだ。その点が真に目覚めた人物である猪子とは違う。

そしてそれは、作者である島崎藤村自身にもおそらく言えることだ。藤村は、この優れた反差別小説を書きながら(そして猪子という反差別の旗手を登場させながら!)、やはり穢多を賤民視する「常識」から抜け出ることができず、言葉の端々で穢多を卑賤なものとして描いてしまったのである。

このことは『破戒』が部落解放同盟から問題視されたことからも明らかだ。藤村はそれに応じて(特に「穢多」を他の言葉に言い換えるなど)作品を訂正したが、それは本当の問題が何かを理解しない表面的な訂正で、しかも文学的に意味の通らないものとなり、むしろ改悪と呼べるものであった(本書はこの改悪が批判されて復活した初版本に基づくもの)。このことを見ても、藤村自身に拭いがたい差別意識があり、しかも差別意識の底にある本当の問題は何かということを閑却していたことの証左であるように思われる。

しかし、本書が藤村初の長編小説として自費出版されたのは明治39年で、これは差別問題がようやく社会の表面に出てきた頃である。このような早い時期に差別をテーマにしてこの重厚な作品を書いたということだけでも画期的なことであるし、今では暗鬱すぎて読むのが苦痛なほどであるが、当時は評判となって新潮社が出版権を2千円(破格)で買い取ったことから見ても、少なくとも同時代の読者に広く理解される描き方であったことは間違いない。

そして、丑松の態度は、非常にリアルなものだと私は思う。差別されてきた人間で、猪子のように突き抜けられるものはめったにいない。「差別されても強く生きなよ!」というのは、差別されないものの勝手な言い草で、実際には萎縮した生き方になってしまうのがやむを得ないのである。丑松が(まだ本当には問題が起こってもいないのに)徐々に自暴自棄になっていく姿、思いを寄せるお志保にまともに話すことができない意気地のなさ、穢多であるという自意識に押しつぶされていく様子など、等身大の若者の姿が描かれているような気がした。

そして丑松は言う。「何故、自分は学問して、正しいこと自由なことを慕うような、そんな思想(かんがえ)を持ったのだろう。同じ人間だということを知らなかったなら、甘んじて世の軽蔑を受けてもいられたろうものを」と。

本書のテーマは「目覚めたものの哀しみ」だといわれることがある。確かにそれはそうかもしれない。丑松は、学生時代には穢多を隠すことは何とも思っていなかった。しかし猪子の思想と出会ったことで、素性を隠しながら生きていることに後ろめたさを感じるようになるのである。それは、猪子が「穢多も人間だ。恥じることはない」と力強く主張することに共感しながら、実際には素性を隠して生きているという矛盾に耐えかねたためであった。

しかし既に述べたように、最後まで丑松は本当の意味では目覚めることはない。目覚めるということはどういうことかを知り、また自分では目覚めたのだと思っていながら、実際には未だ古い社会通念に自分自身が囚われているのである。そしてそれが、私が非常にリアルだと感じた部分でもある。

例えば、小説の最後に丑松は「隠していて済まなかった」と惨めに土下座する。しかし丑松は何も悪いことをしていないのである。悪いのは、穢多を差別してきた社会の方なのだ。丑松は被害者である。にもかかわらず、丑松は「隠していて済まなかった」と謝ってしまう。それまで散々、「なぜ穢多は穢多であるというだけでこんな目にあわなければならないのか」と煩悶しながら、ついにそれが社会批判として昇華することはないのだ。それが、目覚めたつもりになっているのに、いまいち目覚めきれない丑松の限界である。そしてそういう丑松の心理は、現実の人間の非常に精確な写実であると感じた。

明治時代の反差別小説の傑作。

 

【関連書籍の読書メモ】
『夜明け前』島崎 藤村 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/08/12.html
幕末明治の社会を、ひとりの町人の一生を通して描いた大河的小説。明治維新を反省させる大作。

 

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