中世における、知られざる6人の小伝。
本書に収められているのは、一般的な歴史書ではほとんど看過される人物であるが、型破りの人生を生きた人ばかりである。「奇人」とはいっても「変わった人」のことではなく、数奇な運命を辿った人のことだ。
歴史書というのは面白いもので、同時代に大きな存在感があった人でも、何らかのことでその重要人物が省略され、後続の歴史書でもそれが踏襲されてほとんど顧みられぬままになっていることがある。本書が収録する6人は、そういう過小評価が続いてきた人たちだ。その6人は次の通り。
法印尊長:尊長は頼朝との血縁から出世し、寺院社会の中でも最高位に上り詰めた。厖大な天皇家荘園が寄進されていた法勝寺の執行を始め、蓮華王院、歓喜光院等の歴代上皇の御願寺の執行、備前の任国司までにもなって、彼の元には全国から財宝が集まった。後鳥羽上皇の信が篤かった尊長は、承久の乱の黒幕となったが乱は幕府から鎮圧され逃亡。最後は捕らえられて壮絶な死を遂げた。
京極為兼:伏見天皇の腹心であり、一流の歌人でもあった為兼は興福寺の騒動(永仁の南都闘乱)に巻き込まれて失脚したが復活。勅撰和歌集『玉葉和歌集』は為兼の独撰となった。晩年には再び失脚して配流され、その業績は以後顧みられることはなかった。
雪村友梅:一山一寧の侍童で聡明だった友梅は中国へ留学するが、日元関係の悪化から捕らえられ長年にわたり中国で幽囚生活を送る。しかし斬首されかけた際に詠んだ「臨剣頌(りんけんじゅ)」が友梅の作とされるほど(本当は無学祖元作)中国でもその学識は認められ、帰国後は各地の名刹の住持を歴任した。
広義門院(西園寺寧子):南北朝の動乱の渦中にいた広義門院は、後伏見天皇の妻であり、花園天皇の准母(名義上の母)であり、また後に光厳天皇と光明天皇も生んだ。南朝が北朝の三上皇・皇太子を拉致し、三種の神器を奪ったことで幕府により北朝の中心として担ぎ出される。幕府は北朝に天皇がいないという異常事態に直面し、上皇后によって天皇の権能が代行できると解釈、さらに「天下同一法」という人事・官位等の全てを過去に遡らせるという大奇策によって切り抜けた。広義門院はこれらの策を実行するための名目上の登場かに思われたが、その権力は実質化し、あらゆる政治の決定に関与、文和2年(1353)には政務を後光厳天皇に譲ったものの、長講堂領、法金剛院領、今出川領という天皇家領荘園の全てを所有し続け、北朝の家督者として死ぬまで重きをなした。
願阿弥:時衆の僧で、著名な勧進聖であった願阿弥は、寛正の大飢饉で京が難民と死体で溢れるや、勧進(募金)を募って難民収容所を開設し人々を救った(しかし多くは収容の甲斐なく死亡したという)。18年後、応仁の乱後には、消失していた清水寺の再建に取り組んで諸国を勧進に巡り成功させた。この背景には、清水寺の参拝者を宛てに生活していた清水坂の乞食非人たちの救済があったと考えられるという。
足利義稙(よしたね):足利義視の子である義稙は、義視・義政という父世代の対立がありながらも、義政の子義尚が若くして陣没したことで棚ぼた的に将軍に就任する。ところが政権を牛耳っていた日野富子と不仲になり、細川政元らがクーデターを起こし幽閉された。脱出後、大内義興の力を借りて将軍に返り咲いたものの、お人好しの義稙には政権運営能力はなく、かつての腹心細川高国との確執から逐電し逃げ延びた撫養(むや:鳴門市)で病没した。武家で将軍を再任したのは彼だけである。
著者自身が後書きで書いているように、本書に取り上げられた6人のうち義稙を除く5人が法体(ほったい:出家後の姿)で生涯を終えている。しかし専門的宗教家と呼べるのは雪村友梅だけである。中世においては、人は晩年には出家するのが普通だったし、また法体であることに各種の便宜があった時代だったからだという。本書の中心テーマではないが中世における出家の意味を改めて考えさせられた。
また、6人の中で私が最も興味を抱いたのは広義門院。幕府によって担ぎ出されたのにもかかわらず、その権力が実質化した過程を知りたくなった(本書ではごく簡単に書いている)。
歴史書ではあまり語られない人物を題材に、いろいろな角度から中世を知れる良書。
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