宝篋印塔の起源を考察する本。
従来、宝篋印塔は「銭弘淑八万四千塔」をモデルとして日本で創作されたものと考えられてきた。しかし近年、大陸にも宝篋印塔が見つかったことから、大陸の宝篋印塔を模して作られたものだとする説が濃厚になった。ではこれを輸入し、制作したのは誰なのか。
著者は様々な理由から、日本における最初期の宝篋印塔「高山寺宝篋印塔」(1239年)の発願者を證月房慶政であり、その制作者を宋人石工、伊 行末(いの・ゆきすえ)であると推測する。慶政は京都の西山法華山寺を創建した天台宗の僧侶であり、伊 行末は、重源が大仏再興にあたって宋から招聘した石工である。
慶政は、自身が宋に留学しており、泉州近辺で宝篋印塔を見た可能性がある。その記憶に基づいて伊氏に日本版宝篋印塔を制作させたというのである。そして伊氏は代々石工となり、「伊派石工」を形成。またその分派の大蔵氏も「大蔵派石工」として活躍した。
このように1230年代に登場した宝篋印塔は、その後空白をおいて1260年前後に再度あらわれ、また空白期があった後1290年代以降に数多く作られるようになる。この1260年前後に作られた初期宝篋印塔については、律僧の忍性との関連が深く、伊派・大蔵派の石工によるものと考えられると言うことだ。
なお忍性の師にあたる叡尊は、非人や遊女、漁民などのために層塔をいくつか造立しているが、これも伊派石工によるものと見られる。また彼らは非常に完成度の高い五輪塔も造立した。
このように大陸に出自を持つ伊派・大蔵派という2つの職能集団は、100年あまりの間に中世における石塔造営に大きな影響を及ぼし、特に宝篋印塔の像容を確立させた。しかし彼らは忍性没後もしばらく活動を続けていたものの、大蔵派は鎌倉幕府の滅亡とともに途絶え、伊派も徐々に衰退して1350年代には存在が確認できなくなる。なぜ優秀な石工集団だったにもかかわらず両派が衰微してしまったのかは謎である。
宝篋印塔の成立事情を伊派・大蔵派の動向によって推測した意欲作。
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