密教占星術「宿曜道」の理論を解明する本。
本書は、英語による宿曜道(すくようどう)についての論文を著者自身が一般向けに書き直したものである。よって、宿曜道の概説というよりは研究論文としての内容を持つ。
本書に書かれる宿曜道についての新知見で、私が重要だと思ったのが主に次の3点。第1に、『宿曜経』上下巻は同じ書物の新訳と旧訳(くやく)であるということ。第2に、『宿曜経』和本のみに伝えられた第7章「宿曜経算曜直章第七」は『九執暦』の抜粋であること。第3に、『七曜攘災決』に解説される「羅睺(らこう)」は月の昇交点であり、「計都(けいと)」は月の遠地点であること、を解明したことである。
これだけを読むと、本書がとても専門的で難解なものと思われるかもしれない。しかしその筆致は平明であり、丁寧に解説されるため初学者にも易しい。備忘を兼ねて上記の内容を紹介しよう。
第1:『宿曜経』上下巻は同じ書物の新訳と旧訳(くやく)である
『宿曜経』は、平安時代に空海によって日本に将来された。正式名称は『文殊師利菩薩及諸千所説吉凶時日善悪宿曜経』といい、その表題が示すように「文殊菩薩と諸仙人が日時の吉凶を説いたお経」である(よって仏説ではない)。具体的には、「宿」すなわち月の運行上にある1日ごとの恒星(27宿)と黄道12位の関係、「曜」すなわち惑星の運行から派生した曜日の観念とを組み合わせて日の吉凶を述べるものだ。つまりこれはインド占星術の初歩の概説書である。
これを翻訳したのは、中国において密教を国家的宗教に発展させた不空のチームであるとされるが、著者はこれはインドには原本はなく、不空自身が撰述した(つまり偽作した)ものだと考えている。それはその内容にインド占星術の専門的なテクニックが述べられていないことなどから推測されるのだという。
それはともかく、『宿曜経』は759年に不空の弟子史瑶(しよう)が最初の翻訳を行い、同じく弟子の楊景風が764年に改訳版を作成した。初訳版はインド的な要素を残していたが、中国語の文章もこなれておらず、構成にもまとまりがなかった。そこで不空は5年後、俗人の弟子で史瑶よりもはるかに学があった楊景風に再編集を命じ、より大系的に構成され中国化した『宿曜経』の改訳版を作成した。
ここまでは『宿曜経』序文により明らかだったのであるが、『宿曜経』上下巻の内容を検証したところ、構成や文章は全く異なるが内容的に同一箇所が散見され、上巻が楊景風訳の新訳版、下巻が史瑶訳の旧訳版であることが明らかになったのである。ということは上巻だけあれば十分だったのであるが、『宿曜経』の編纂者は旧訳も捨て去ることはせずに下巻として残したということだ。おかげで、我々はよりインド占星術の原型を留めた旧訳を参照することが可能となり、その内容を正確に理解できるのだという。
第2:『宿曜経』和本のみに伝えられた第7章「宿曜経算曜直章第七」は『九執暦』の抜粋である
『宿曜経』は日本に伝えられ、陰陽道と並んで「暦と吉凶の理論」として発展し、やがて「宿曜道」となっていった。一方、陰陽道が早くから「陰陽寮」という国家機関が設置されたのに、宿曜道の方は密教の一要素となって国家機関化はせず、南北朝期か遅くとも室町所期には衰微してしまった。ところが『宿曜経』は原型に近い形を留めたまま伝承され続け、『宿曜経』に述べられる27宿の理論は「宣明暦(862〜1684年施行)」の間用いられた。
さらに江戸中期に『宿曜経』を研究し頭注を附して出版(1736年)したのが学僧の覚勝である。この覚勝本は中国では失われた部分をも保存した優れたもので、その第7章「宿曜経算曜直章第七」こそは中国の『宿曜経』でも日本の大正大蔵経でも収録されていない失われた部分であったのである。
その内容は、ずばり曜日の計算方法である。『宿曜経』と相前後して中国に伝えられたのが七曜、つまり「日月火水木金土」という曜日の概念であったが、『宿曜経』本体は曜日の吉凶については述べていても、ある特定の日が何曜日であるのかを調べる手法は書いていない。しかし『宿曜道』成立のころ、そもそも曜日の観念が普及していなかったのだから、曜日を求める方法がなくては吉凶自体が占えない。そこで楊景風は新訳を作成する際、曜日の算定方法を述べた「宿曜経算曜直章第七」を付け加えた。そして著者はこの内容を検証し、罌曇悉達(くとんしった)が718年に著した『九執暦』からの抜粋であることを明らかにした。
しかしながらこの「宿曜経算曜直章第七」には決定的な弱点があった。それは『九執暦』にある正確な曜日の計算方法を引き写しながら、楊景風は暦元(暦の起点となる日)を勝手に「2月白分朔日」から「上元の日(1月15日)」に勝手に押し上げてしまった。暦の起点がずらされているので、この章の計算方法自体は正しいのに、結果は間違っているということになる。そのため中国ではこの章は早くに削除されてしまった。だが日本では、中国からきた有り難いお経が間違っているわけがないということでそのまま伝承され、1000年後の僧侶たちが曜日の計算が合わない事に呻吟することになったのである。
第3:『七曜攘災決』に解説される「羅睺」は月の昇交点であり、「計都」は月の遠地点である
既に述べたように、『宿曜経』は「宿」と「曜」により日の吉凶を判断する手法を概説したものだが、ホロスコープでは肝心な情報である惑星の運行については全く述べられていない。これでは、観測に基づいて吉凶を判断することはできても、未来の特定の日の吉凶を占うことには役立たないのである。そこで惑星の運行の計算方法が必要になってくるのであるが、これこそが8世紀末から9世紀初頭に中国で作られた『七曜攘災決』であった。なお日本には宗叡が伝え、中国では失われている。
さて、「攘災決」というのは惑星によってもたらされる災厄を鎮める方法のことで、この本では「七曜」の他に「羅睺(らこう)」・「計都(けいと)」という架空の天体についても論じられている。
なお日月火水木金土+羅睺・計都の9天体を「九曜」または「九執」という。先述の『九執暦』はこの意味であるが、実は『九執暦』では5惑星を論じていない(あくまで「曜日」として扱っている)。『七曜攘災決』はこれを補い、科学的な観測によって5惑星のかなり正確な運行表を作成したものだ。そこに加えられたのが、「羅睺」・「計都」という架空の天体なのだ。
では「羅睺」・「計都」とは何なのだろうか? インドの伝説では、「羅睺(ラーフ)」は日蝕・月蝕を起こす魔物で、「計都(ケートゥ)」はその尻尾であるとか、「計都」は彗星であるとかいう。『宿曜経』の時点ではその存在すらなかったこの架空の2惑星は、『七曜攘災決』の頃には5惑星に並ぶ重要な天体になっていた。
しかしそれは凶事をもたらす魔物だという伝説的存在だったわけではない。というのは、『七曜攘災決』では5惑星と同じように詳細な運行表や計算がなされているからである。それは科学的な観測に基づいたものでしかありえない。そして著者は、『七曜攘災決』と現代の惑星計算の対照に基づいて、羅睺が月の昇交点であり、計都が月の遠地点であることを解明したのである。
月の昇交点とは、月の軌道(白道)が黄道と交わる2つの交点のうち、南半球から北半球に向かって北向きに交差する点のことである。白道と黄道は約5度の角度で交わっている。つまり月が地球を公転している軌道と、太陽が地球の周りを回っているとみなした時の軌道は5度ずれている(ずれていなければ白道と黄道は一致する)。よって2つの軌道をリングとすれば、そのリング同士が交わる点が「交点」であって、片方を昇交点といい、もう片方を降交点と呼び区別する。
この交点は常に同じところにあるわけではなく、月の公転面に歳差運動(軸のブレ回転)があるため移動していき、約19年周期で1周する。リング同士が5度の角度を保ちながらズレていくことをイメージしてみればよい。そして、この交点の天文学的意味は、月と太陽と地球が一直線に並ぶ点になるわけだから、日蝕・月蝕が起こるポイントというわけだ。
ということは、日蝕の計算を行うには、もちろん太陽と月の動きをそれぞれ計算してもよいが、重要なのはその交点のみであるから、昇交点を19年周期で一回転する1つの天体であると見なして計算すれば、それでかなり計算の手間が省けるというわけである。それが架空の天体「羅睺」であったのだ。ということは、天体としての「羅睺」を考え出したインド人がこれを魔物と思っていたというのはありそうもなく、計算上の便宜として導出した架空の天体を、日蝕を起こす魔物になぞらえて呼んだのであろう。
「羅睺」が、日蝕・月蝕を起こすということで月の昇交点と考えられることは、著者が示す以前にも半ば予見されていたのであるが、著者の独創は「計都」の方にある。
「計都」は「羅睺」の尻尾だという伝説があったことから、著者以前には「計都」は昇交点と対になる降交点であると考えられていた。だとすれば、「羅睺」の座標から180度を加えれば「計都」の位置が算出できるはずだ。ところが『七曜攘災決』では「計都」の位置計算はそのようになっていなかった。では何か? ということで著者が現代の惑星計算と照合した結果、「計都」は月の遠地点であることが明らかになったのである。
遠地点にも少し説明が必要かも知れない。月は地球の周りを楕円運動しているから、一番遠くなる位置と近くなる位置があり、それをそれぞれ遠地点と近地点という。そしてこの楕円運動についても、その楕円の膨らみ方は常に地球から見て同じ位置にあるわけではなく、約9年で白道上を一周する。これも厳密には月の楕円運動の計算によって求められるものであるが、遠地点をあたかも1つの天体と見なすことで簡易に計算結果が表現できるのである。
そして「計都」が月の遠地点であるとするなら、観測上、それは月が最も小さく見えるところであることを意味する。「羅睺」は日蝕・月蝕と関係し、「計都」は月が小さくなるということで、この2つの架空の天体はどちらも月の特徴的な位置関係を表すものであったことが解明された。
本書はこの他、インドのホロスコープがどのようにして『宿曜経』に受容されているかを分析している。著者は古代インドの天文学・数学・占星術を専門としており、分析はその面目躍如たるところがある。全体を通じて非常に重厚な学問的内容を持ちながら平易でもあり、特に「羅睺」と「計都」の考察はスリリングですらあった。
本書を読んで気になったのは、陰陽道でも日の吉凶をやかましく云々していたし、暦を作成したりしていたわけだが、陰陽道と宿曜道の暦(特に天体運動)の理論がどう異なっていたのかということだ。陰陽師と宿曜師は対抗関係にあったが、科学的な面において彼らはどちらが勝れていたのか。また九曜の理論が日本にはどのように受容されていたのかということ(例えば「羅睺」=月の昇交点、などということは理解されていたのだろうか?)にも興味を抱いた。
宿曜道を理解する上での必読書。
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