趙州従諗(じょうしゅう・じゅうしん)の言行録。
趙州和尚といえば、かの『無門関』の第1則「狗に仏性はあるのか?」で余りにも有名である。また道元の『正法眼蔵』にもたくさん登場するし、『碧巌録』にもその公案が多く集録されている。
彼の禅風は徹頭徹尾語りと問答にあった。ややもすればすぐに「三十棒!(30回棒で打つ)」と実力行使に出る当時の禅にあって、趙州は禅を言葉で説明することにこだわった。であるから、その言行録は禅のテキストとして貴重であり、広く流布した。
ところが多くの禅籍で取り上げられたためか、肝心の『趙州録』そのものはいつしか忘れられ、原典が顧みられなくなってしまった。中国にも日本にも、『趙州録』の注釈と呼べるものは現代に至るまで存在しなかったのである。
では『趙州録』はつまらないものだったのか、というと実はこれが大変に面白いものだったのである。後代(宋代)に編纂され「公案化」された彼の問答よりも、原典はもっとずっとヴィヴィッドであり、わかりやすい。『趙州録』は神秘的な「公案」ではなくて、直接的な生きた教えなのだ(おそらく、そのために却って廃れたのだろう)。
ではその問答の調子はどんなものかというと、例えば代表的な問に「祖師西来意」というものがある。これは「ダルマ(祖師)がインドから中国に来て伝えようとしたその精神はどんなものですか?」という問である。『趙州録』では、たくさんの僧が趙州にこの質問をしている。趙州のお寺では問答の時間(かノルマ?)があって、僧たちは趙州和尚に質問をすることになっていた。それで、気の聞いた質問を思いつかなかった僧が、「思いつかない時はこういう質問をしたらいいよ」という先輩僧の入れ知恵によって定型的な質問をしていたようなのである。「祖師西来意」はそういう定番質問の一つである。
であるから、そもそも「祖師西来意」を尋ねる僧に切実な疑問というか探求心があろうはずもなく、趙州も軽くあしらっているように見える。そしてその答えはいろいろあり、古来有名な答えは「庭前栢樹子——庭先の栢の木だよ」というものなのだが(『無門関』第37則に取り上げられた)、他にも20以上の答えがある。そこから抽出される趙州の答えの核心は、「ダルマのことはさておいて、それを問うオマエはなんなの?」というものである。「ダルマ云々よりも、まず本来の自己に目覚めないことには話にならないよ」と言ってもよい。
趙州の問答は、質問者の切実度合いと理解度と修行度合いによって変幻自在に変わっていた。であるから、彼の問答の意味を表面的な言葉の意味でだけ考えても無意味であり、「庭先の栢の木がどうして祖師西来意なんだろう?」と考えてもあまり実りはないのである(ちょっと庭先の栢の木を見てみろ、とでも理解した方がいい)。
それを象徴するのが『無門関』第1則にも取り上げられた「狗に仏性はあるのか?」で、『無門関』では趙州は「無」とだけ答え、それについての考究がなされる。そしてこの「無」の一字は禅の究極のようなものと捉えられ、それに因んで『無門関』——「無」に至る門への関所——という標題までつけられているのである。
ところが、『趙州録』を見てみると、「狗に仏性はあるのか?」を質問した僧は2人いて、確かに一人への答えでは「無」と答えているが、もう一人には「家々の門前[の道]は長安の都に通じている(=どんな道でも悟りへ至る道=狗にも仏性はある、という意味と思われる)」と答えている。この2つの問答を見れば、狗に仏性はあるのかないのか、どっちやねん! と思うわけだが、趙州にとってみれば、「なんでオマエは狗の仏性の有無をあーだこーだいうわけ?」というところなのだと思う。『趙州録』の全体を通して、そういう観念的な質問をする時点で「こいつわかってねーな」という応対なのである。
逆に、初歩的な質問、定型的な質問であっても、僧の方に切実な問題意識がある(ように見受けられる)場合には趙州は「いい質問だ」と褒めている。他の僧が同じ質問でメタクソにされているようなものであってもである。趙州の禅は、観念的なものを排し、本来の自己に目覚めることを究極の目的として、あくまでも目の前の人物に応じて臨機応変に説かれるものであった。
であるから、例えば「庭前栢樹子」のような一見すると意味不明の答えであっても、その裏に観念的な世界が広がっているというよりは、極めて具体的・即物的な意味合いがあったと考えるべきなのだと思う。しかし宋代になると、『趙州録』から問答の一部が切り出され、まるで暗号のような公案が多々できあがる。『無門関』はその代表で、それはそれで禅の精神の発露であることは否定しないが、趙州和尚の臨機応変の自在の禅とは、かなり違うものになっていたこともまた事実である。
宋代の禅よりも、その原典の唐代の禅の方が、ずっと普遍的で理解しやすく、私にとっては親しみが持てる。『趙州録』はまさに禅の原点となる、忘れられた名著である。
0 件のコメント:
コメントを投稿