2019年10月20日日曜日

『一遍と時衆の謎—時宗史を読み解く』桜井 哲夫 著

一遍と時衆についてのこれまでの研究のまとめ。

著者の桜井哲夫は近現代ヨーロッパを主な対象とする社会学者であり、時衆については専門外である。が同時に時宗寺院の住職であって、その立場からまとめたのが本書である。よって本書は、著者自身の研究というよりも、これまでの時衆研究を概観してみようというものである。

本書は2部に分かれており、第1部は時衆とは何かということが様々なトピックから紐解かれている。先行研究が縦横に紹介されているので初学者には有り難いが、一方で「○○はこう言っている」という形で様々なことが雑然と語られているという側面もあり、時衆の全体像はやや摑みにくい。

個人的に気になったのは、時衆僧侶は「陣僧」として戦に同行して戦没者の葬儀を執り行っており、それが賦役として課されていたという点。本書では簡単に書いているが、時衆の性格を考察する上で重要だと思われる。

そもそも私が時衆に興味を抱いたのも、葬送との関連であった。中世の葬制が整っていくにあたり、大きな役割を果たしたのは禅宗であり、またそれを武士階級から一般まで普及させていったのは律宗の影響が大きいらしい。しかしその背景として、時衆の存在が非常に気にかかるのである。葬送は言うまでもなく死体を扱うので、当時(中世初期)には穢れの問題がやかましかった。そんな中で、「浄不浄を問わず」としていた時衆はかなり葬儀に関わっていたらしく、また実際に陣僧として活躍していたことを踏まえると、葬制の確立において時衆の果たした役割は大きいと考えられている。非人と時衆の関係がその核にあるのではないかという気がした。こうしたことについて本書ではほとんど触れられていないが、ここはさらに知りたいところである。

この他にも、江戸時代には時衆は遊行にかなり便宜を与えられていたということ、能などの芸道において時衆(と考えられている人)が活躍していたらしいということ、高野聖は時衆が吸収してしまったらしいということなど、様々な点が興味深かった。また、蓮如による浄土真宗の改革が真宗の時衆化ではなかったのかという指摘は面白かった。中世において時衆は非常に隆盛し、多くの信者を獲得したものの、蓮如によって浄土真宗が興隆してゆくと時衆は不思議と衰微していく。これは時衆の徒が浄土真宗に吸収されていった結果であると考えられる。確かに親鸞の浄土真宗は非常に学理的であるが、蓮如の浄土真宗は明解で庶民的であり、時衆風なのである。

第2部では、『一遍聖絵』に基づいて一遍の生涯を紹介している。『一遍聖絵』の研究と、一遍の伝記的研究が同時に扱われているので、こちらもやや煩瑣な部分があるが、時系列的になっている分、第1部に比べるとすっきりしている。

伝記的部分で気になったのは、一遍は神祇不拝ではなくむしろ積極的に神社等に参拝したということや、往生の際の奇瑞を信用せず、そうした奇跡的な現象を迷信だと退けていたという点である。時衆は教義らしい教義を持たない宗派であるとされることもあり、事実一遍は一冊の著書も残さなかったが(入寂の前に焼き捨てた)、彼が残した和歌を見ると宗教家としての思想が感じられる。

おのづから あひあうときも わかれても ひとりはおなじ ひとりなりけり

時衆は集団で念仏踊りに狂う宗派であったのは事実である。その興奮は時として入水往生(入水自殺)をも伴った。時衆教団はいつも「南無阿弥陀仏」の集団的熱狂を伴っていた。しかしその中心の一遍は、いつでも孤独を抱えていたのかもしれない。

先行研究の紹介は煩瑣でもあるが、中世において大きな存在感のある時衆について手軽に学べる本。


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