日本語訳された『碧巌録』。
『碧巌録』は、「宗門第一の書」と呼ばれ日本の禅宗、特に臨済宗には多大な影響を与えてきた。また難解であることでも有名であり、古来多くの注釈・講釈の本が出版されてきた。しかし意外にも長く日本語訳されることがなく、本書は出版時おそらく初めて日本語全訳された『碧巌録』である。
これは、雪竇(せっちょう)和尚が『伝燈録』から選んだ公案百則に頌(詩)をつけたテキストを作り、それに対して圜悟(えんご)和尚が解説と著語(じゃくご=ツッコミ)をくわえたノートの集録である。
つまり『碧巌録』は雪竇と圜悟の共同執筆なのであるが、ことはそう単純ではない。というのは、雪竇重顕(980年−1052年)と圜悟克勤(1063年−1135年)にはほぼ3世代の開きがあるからだ。
雪竇和尚が編集した公案百則に、3世代経って圜悟和尚が”超編集”を加えて出来たのが『碧巌録』なのである。その”超編集”ぶりを示すため、一則だけ例示しよう(なお、本来は一則につき、垂示(序論)[圜悟]、本則[雪竇]+著語[圜悟]、評唱(参考資料と解説)[圜悟]、頌古[雪竇]+著語[圜悟]、がセットになっているが、今本則+著語のみを引用する。なお本書では評唱は省略され、訳者による短い解説がそれに代わっている)。
第39則 雲門花薬欄 本則
挙。僧問雲門、如何是清浄法身。壒(*1)扱(*2)堆頭見丈六金身。斑斑駁駁是什麽。門云、花楽欄。問処不真答来鹵莽。祝(*3)著磕著。曲不蔵直。僧云、便恁麽去時如何。渾崙呑箇棗。放憨作麽。門云、金毛獅子。也褒也貶。両采一賽。将錯就錯。是什麽心行。
(*本来の漢字がPCで出せないため代字で表現した。*1「艹」不要、*2「扌」の代わりに「土」、*3 「祝」の下に「土」)
※黒字が雪竇による「本則」、青字が圜悟による「著語」。本書では「著語」は本文より小さい活字にすることで区別されている。
(日本語訳)
雲門大師のところへ、一人の僧がやって来て、「宇宙の本体ともいうべきビルシャナ仏とは、どんなかたですか」と尋ねた。ごみ捨て場の中に仏がいらっしゃるよ。きれい、きたない、いろいろなものが入り交じっているやつ、あれは何かね。雲門は、「便所の袖垣だよ」と答えた。質問がいい加減だから、答えもぞんざいだ。打てば響くようにぴったりだ。曲がったものは、曲がったままでよい。「それでは仰せのとおり、花薬欄は花薬欄と承知したら、どうなりましょうか」と、ひねくれた質問をした。こいつ雲門の答えをよく味わってもみず、丸呑みにしたな。うすぼんやりしていて、いい加減なことを問うたな。「獅子中の王者、禅僧中の禅僧とでもいうかな」と、雲門は答えた。上げたり、下げたりだな。花薬欄と金毛の獅子では同じ賽の目だな。雲門も僧もどっちもいかん。どういうつもりでいったのかな。
これを見れば、古来『碧巌録』が難解とされてきた理由が一目瞭然だろう。雪竇の編集した公案本体部分だけを見れば、その趣旨が理解できるかどうかは別として、なんとか読みこなせるものだろう。しかし圜悟がそこにツッコミの嵐を容赦なく加えており、しかもそれが口語調なものだから、ただでさえ文意があっちこっちしている上に日本人にとっては漢文として大変難しいのである。いや、読み下し文でこれを理解するのはほぼ不可能に近い。
しかし『碧巌録』が画期的だったのは、この圜悟のツッコミ部分だった。上の第39則でも、本文だけを見れば常人の理解を超越した何か高遠な問答のように見える。だが圜悟のツッコミも含めてみると、この問答はそれほど立派なものではなく、あまり噛み合っていない話であったことが理解できる。しかも圜悟のツッコミは、単に公案への対し方・味わい方を教えるだけでなく、公案に通底する禅の哲理を仄めかすものとなっているのである。
そもそも公案というものは、過去の偉大な禅匠たちの言行録で、有り難い教えが含まれていると考えられていた。臨済宗が依拠した「看話禅(かんなぜん)」というのは、公案の意味を考究する事によって悟りに至ろうとする禅のことであり、公案を悟りに至った事例と見なし非常に重視した。雪竇和尚が『碧巌録』の元となった公案百則を編集したのも、古来たくさん伝えられてきた公案(『伝燈録』1700則)から決定版的なものを百だけ選んで、その解読のヒントとして詩をつけたのである。
圜悟和尚は、それにツッコミの嵐を加える事によって、公案の意味を丸裸にしてしまった。それは、公案というものは自らの頭で考えることに意味があるのに、圜悟和尚のガイドによって公案が形無しになってしまったとも言えるし、公案集から神秘的なヴェールを剥ぎ、いたずらに公案を至上のものとする一種の思考停止に強烈な鉄槌を加えたとも言える。
そんなことで編集当時から『碧巌録』は毀誉褒貶が激しく、圜悟和尚の弟子大慧は『碧巌録』の版を焼き捨てたと言われる。また編集完成は1125年であったが、これが本格的に刊行されたのはなんと175年後の1300年であった(※1300年以前にも刊行はあったらしいが少部数だったのか残っていない)。そして、中国では『碧巌録』は、あまりにもわかりやす過ぎる禅籍として衝撃をもって迎えられ、大流行したのであった。
ところが日本では、『碧巌録』は難解な禅籍の代表のようになってしまった。先述の通り、『碧巌録』の本質である圜悟のツッコミが、中国語の口語体であるためかえって難しかったのである。そして、あたかも難解であることが『碧巌録』の価値であり、高遠さであると考えられてきた。現代ですら、「『碧巌録』に現代語訳を求めるなど邪道。難解な本文に直にあたってこそ意味がある」と考えている人は多い。しかし中国人がわかりやすい白話文(口語体)で禅を語り理解してきたのに、日本人がわざわざ難解な外国語を通してしか禅を理解できないなんてあるわけがないのである。
『碧巌録』を生き生きとした日本語訳によって表現した本書は画期的な訳業であり、日本の禅籍史に輝くものである。本書の刊行(1974年)より40年以上経過しているが、未だ『碧巌録』の日本語全訳は数えるほどしかない。とはいえ、本書の日本語訳は決定版とはいえない。刊行時点において『碧巌録』研究の集大成であると自負されてはいるものの、多数の訳者の共同作業であり、日本語訳の仕方も統一されていないからだ。読んだ感じとしても、明らかに訳者によって粗密を感じるところである。事実解説にも「歴史的・語学的な課題のすべてを今後に残すこととする。これが禅門の現状である」と記されている。なお分担は以下の通りである。
第1則ー第20則 苧坂光龍(般若道場)
第21則ー第40則 大森曹玄(鉄舟会)
第41則ー第60則 梶谷宗忍(相国僧堂)
第61則ー第80則 勝平宗徹(南禅僧堂)
第81則ー第100則 平田精耕(天龍僧堂)
『碧巌録』の初めての日本語訳として不朽の価値がある名著。
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