2019年10月13日日曜日

『列島を翔ける平安武士—九州・京都・東国』野口 実 著

平安時代から鎌倉時代にかけての武士のネットワークを南九州にフォーカスして述べる。

鎌倉時代の武士というと、開発領主としての性格が強く、「一所懸命」という言葉に象徴されるように土地との結びつきが強固であった。彼らはその本拠地の地名を名字にし、土地を自らのアイデンティティとしていた。その土地のことを「本貫」とか「名字の地」という。それくらい、武士にとって土地は本質的なものであった。しかし一方で、戦国大名などとは違い、中世の武士はその本拠地からかなり遠方にも領地を持ち、遠隔地の荘園経営を行ってもいたのである。

南九州のような僻遠の地も、決して孤立的な地域だったのではなく、むしろ大陸や南島との交易での利益が期待できる有利な土地として武士や貴族たちの手を転がされていた。本書は、藤原保晶、平為賢と平季基、阿多忠景と源為朝、千葉常胤と島津忠久などを中心として、南九州と京都、鎌倉の関係性やネットワークを事例から検証するものである。

武士たちの社会的正統性は天皇(国家)を警護することにあったので、長期間京都に勤務する必要があった。そのため彼らは京都で上級の貴族との結びつきを作ることができ、また京都在勤の他の地域の武士との横の繋がりも持つことができた。そしてもちろん御家人にとっては鎌倉も重要な土地だった。本貫の地、京都、鎌倉、そして遠方の所領と、彼らは意外と活発に移動し、全国規模のネットワークを構築していたのである。

また本書は、島津庄(しまづのしょう)の成立と発展がもう一つのテーマとなっており、それを通して武士たちのネットワークを垣間見させるものとなっている。

島津庄の起源は、大宰府の大監であった平季基(すえもと)が島津院を中心とした地域を宇治関白家(藤原頼道)へ万寿年間(1024〜1028年)に寄進したことにある。それは今の都城市あたりだったが、そこは日向国府から大隅国府に向かう官道が通じ、大陸や南島との交易の拠点であった志布志へも通じる交通の要衝であり、農業生産というよりも当初から交易を念頭にして設置されたものだったらしい。

史料上では、季基は「無主の荒野」を開墾して寄進したとなっているが、実際の立荘の担い手は在地勢力で、彼らが季基の威勢を頼り、さらに季基が上級の権威を頼って摂関家へ寄進したというのが実状と見られる。この頃、大宰府に属する軍事貴族の南九州への進出が顕著であったらしく、島津庄の場合も、大宰府の権威を基盤として立荘されたといえる。

こうして設立された島津庄は、やがて薩摩・大隅にまで拡大され、12世紀後半には8000町歩もの日本最大の荘園に成長する。その領主は摂関家に相伝され、南方交易からもたらされる「夜光貝」「檳榔毛(びんろうげ)」など、並の貴族では手に入れられない贅沢品を手に入れるルートになった。だが、藤原基実(もとざね)が若くして急死したことでその妻が相続。この妻が平清盛の娘の盛子で、こうして島津庄は平家の支配下に入ることになる。

なお平季基の子孫は大宰府に基盤を確保しつつ肥前国で領主的な発展を遂げ、太宰府領を基盤として薩摩国に進出。そして河辺氏、頴娃氏、鹿児島氏といった郡名を姓とする「薩摩平氏」という有力在地勢力の一族に成長した。

その中でも有名なのが阿多忠景(ただかげ)である。阿多忠景は阿多郡(現南さつま市金峰町)の郡司職を梃子に国務に参与して「一国惣領」、つまり薩摩国全体を手中に収めた。その力の源泉となったのが、おそらくは万之瀬川河口を利用した大陸・南島との交易であって、それを裏付けるように河口の持躰松(もったいまつ)遺跡からは博多以外では他に類を見ないほどの大陸製陶磁器や国内産陶磁器が出土している。こうした交易からは莫大な利益が上がったものと見られ、阿多忠景は「成功(じょうごう)」、すなわち売官によって下野権守(しもうさごんのかみ)の官職を手に入れてのし上がったのである。

しかも忠景は、中央政界との結びつきをより強固にする意図があったと思われるが、鎮西(九州)に威を奮った源為朝を娘の婿に迎えている。こうして阿多忠景は為朝とのコンビで南九州に強大な勢力を誇った。しかし源為朝は保元の乱で敗れ、忠景は勅勘を蒙って平家の有力家人である筑後守平家貞(いえさだ)の追討を受けて没落し、その領地も平家の勢力下に入った。

時代が源平合戦の頃に移ると、南九州の勢力図も激変が生じる。鎌倉幕府設立の功労者である千葉常胤(本貫は房総半島)が九州に侵攻し、その侵略範囲を領地化していったからだ。南九州では現薩摩川内市や伊佐市にあたる北薩の地域の地頭が千葉常胤となった。また島津庄には、地頭として惟宗忠久(これむね・ただひさ)が任命される。これが島津氏の祖である。

惟宗忠久は、元来は摂関家たる近衛家の下家司(しもけいし)であり、つまり近衛家の職務に与る一介の京侍に過ぎず、今で言えば単なる下級役人であったと思われ、元来の頼朝の御家人ではなかった。それが島津庄という大荘園の地頭にいきなり抜擢されたのは、どういうわけか。

史料上ではその実状は不明であるが、状況証拠としては、忠久は近衛家の家臣であるとともに、頼朝の乳母(比企尼)の縁者であったと見られる。つまり島津庄という日本一の荘園を領主である近衛家ともめ事を起こさずに幕府の支配下に置くため、双方に関係を有する忠久を京都からスカウトして御家人とし地頭にしたのではないか、というのが著者の考えである。ともかく忠久はこうして本貫を島津庄と定めて「島津」姓とし、南九州の三国(薩摩・大隅・日向)を支配する島津氏の始まりとなったのである。

これまでの島津庄成立史を振り返ってみて思うのは、南九州は僻遠の地でありながら、大宰府や中央勢力の政治的力学が非常に強く影響しているということである。仮に南九州が孤立的地域であれば、そこには中央政府とは何の関係も持たない、力によって支配を打ち立てた勢力が盤踞していてもおかしくないのであるが、実際には中央政府と強いパイプを持つ人物が、公的な力を持って勢力を確立しているという感じが強いのである。中世の南九州は、荒くれ者たちが力で支配を競った無法地帯ではなかった。

中世の武士というと、忠義といった江戸時代的な固定関係の思想がなく、実利によって動く武力を頼みにする存在、といったイメージが強いが、それは物事の一面でしかない。むしろ実利を重視するがゆえに、中央政府の威光や貴顕の人物との縁戚関係を最大限に利用し、最小限の武力によって世を渡り歩いたということだったのかもしれない。事実、鎌倉時代における南九州の覇者である惟宗忠久は、一切軍功がない。彼は一兵をも動かすことなく島津庄を手に入れているのである。

すなわち、武士は意外と「政治的存在」であった。いや、この時代は後世とは違って世襲的階級としての「武士」は存在していないのである。「武士」と呼ばれた人々は、もちろん武力も行使したが、別の面では政治家であり、農地の開発領主であり、また交易を担う商人でもあった。そういう多様な側面を持つ存在として、日本全国にわたるネットワークと政治力を活用していたのである。

島津庄の歴史を繙くことで中世の武士像の修正を促す本。


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