2019年10月22日火曜日

『八幡神と神仏習合』逵 日出典 著

神仏習合を軸に八幡神の成立過程を述べる。

八幡神社というと、日本中どこでも見られるもので、神社の中では最も多いとも言われる。この八幡神社はどのようにして成立し、発展していったのか。本書はそれをほぼ時系列的に述べるものである。

その流れを大まかにまとめれば、(1)八幡神は新羅からの渡来人が祀った神が日本化してできたもので、(2)宇佐周辺で行われていた山岳信仰と一体となって発展し、(3)隼人の乱への征伐や大仏造立といったことに協力したことから朝廷との持ちつ持たれつの関係となって権威を得、(4)護国的な性格を持つ神社となって、また仏教とも融合して「護国霊験威力神通大自在菩薩」とまで称するようになり、(5)源頼朝が鎌倉に鶴岡八幡宮を勧請したことから武家にとって重要な神社となって全国に広がっていった。となるだろう。

この流れについて、本書は縦横に史料を駆使して述べており説得的である。しかし私が本書を手に取った動機は、宇佐八幡の荘園支配の実態がどのようなものであったのか、というもので、それについては本書はほとんど述べるところがない。

中世初期において、鹿児島の土地は島津庄と八幡宮領(八幡宮の荘園)で2分されており、九州の他の地方でも八幡宮領がかなり多かった。また八幡宮直轄領だけでなく、その神宮寺であった弥勒寺領となっていたところも多い。なぜ八幡宮はこのように広大な荘園を支配することができたのだろうか? 特に九州では、国衙の近くに八幡宮が勧請されることが多かったが、これは何を意味していたのだろうか。

また中世において、九州の二大権門は大宰府と宇佐八幡宮であるが、この二大権門はどのような関係だったのか。例えば、有名な宇佐八幡宮神託事件では、「道鏡を皇位に就けるべき」という最初の神託を伝えたのが大宰府の主神(かんづかさ:諸々の祭司を掌る)習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)であったが、なぜ大宰府の役人が宇佐八幡宮の託宣を表明することができたのか。

さらに宇佐八幡宮神託事件では、「皇族でない人間を皇位に就けるべきではない」という趣旨の第二の神託を持ち帰った和気清麻呂が処分されるわけだが、これは宇佐八幡の神託が恣意的なものと考えられていたことを示しているのではないだろうか。もし実際に神託が出て清麻呂がそれを持ち帰っただけなのであれば、清麻呂自身には責任があろうはずもないからである。つまり宇佐八幡の神託は、作為的なものと考えられていながら、やはり権威を持っていた。それが不思議なのである。宇佐八幡宮神託事件自体が『続日本紀』の作為であるという説もあるが、であるにしても、宇佐八幡が持つ意味について考えさせられる事件である。本書ではこうしたことについて全く考察はないが、非常に気になった。

また本書では、八幡神の発展が日本の神仏習合を先導していたと述べており、神仏習合現象についての説明もかなり丁寧である。事実、八幡神は「八幡大菩薩」として親しまれ、僧形によって表現されるようになったのであるが、ここも疑問に思った。なぜ八幡神は「大菩薩」なのにもかかわらず僧形なのだろうか。素直に考えれば菩薩形であるべきなのに、どうして僧形とされたのか謎で、これも本書には全く考察がない。

本書は、八幡神の思想的発展については丁寧に記述するものの、それに対する考察はあまり充実しておらず、荘園経営や社殿造営などの実務面についてはほとんど触れていない。入門書としては当然かもしれないが、そこは少し残念だった。

八幡神を巡る種々の謎についてはあまり解きほぐされないが、史実を実直に辿れる八幡神入門書。

【関連書籍】
『神仏習合』逵 日出典 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/08/blog-post_17.html
神仏習合の概略的な説明。

0 件のコメント:

コメントを投稿