2020年12月31日木曜日

『カルル・チェルニー—ピアノに囚われた音楽家』グレーテ・ヴェーマイヤー 著、岡 美知子 訳

チェルニーの人生を辿り、19世紀前半の音楽シーンを描く。

チェルニーといえば、ピアノ学習者にはおなじみで、『チェルニー30番』とか『同40番』などの練習曲に苦労した記憶は誰にでもある。だが、チェルニーという音楽家がどのような人物であったのかは知らない人が多い。本書は、チェルニーという知られざる音楽家の全貌を紹介するとともに、それを通じて19世紀ヨーロッパにおける音楽事情を活写するものである。

チェルニーは、850曲以上を出版した作曲家であった。彼はベートーヴェンの弟子であるが、ベートーヴェンが作品番号を与えたのが150曲に満たなかったのを考えると非常なる多作家である。ではその内容はどのようなものであるか。今では練習曲が高名であるがそれは作品全体のごく一部であり、全体の半分を占めるのは当時流行したオペラや歌曲のパラフレーズ(編曲やアレンジ)である。

なにしろ、当時は録音ができないため、音楽を楽しみたい市民は、劇場に行くか、あるいは自分たちで演奏する以外にはなかった。だから、今の人が流行の曲をカラオケで歌うのと同じように、当時の市民は自宅のピアノ(やその他の簡単な伴奏楽器)でオペラや歌曲を演奏したのである。そのため、誰でもさほど練習せずとも弾ける簡単なパラフレーズは非常に需要が大きかった。ウィーンでこういう仕事を一手に引き受けていたのがチェルニーである、といっても過言ではない。

我々は、チェルニーがどのようなパレフレーズを作曲したかを辿ることで、今では失われた当時のウィーンの音楽シーンを再構成することができる。それは、必ずしも古き良き時代の記憶を呼び起こすことではない。むしろ、苦々しい音楽シーンの記録でありさえする。

19世紀初頭のウィーンは、政治的な混乱のまっただ中にあった。1848年、ヨーロッパの他の都市より遅れてウィーンにも革命が起こるが、この革命の年まで、ウィーンの貴族や市民たちは先の見えない政治情勢に右往左往した。この、一見するとナポレオン戦争後の平和な時代、社会の不平等や格差は大きく広がり、どうしようもない矛盾が世の中に横たわっていた。それゆえに人びとは自分が政治的に無力であると諦観し、混乱した政治を視て見ぬ振りしながら、「政治から芸術にへ、社会から個人へ、現実から夢へと逃避した(p.48)」。

そして人びとは音楽に熱狂した。だがそこで好まれたのは真の芸術ではなかった。理想に燃えた高尚な芸術ではなく、その場しのぎの、簡単に盛り上がるがすぐに忘れられる音楽が好まれた。そもそも、音楽は政治に従属していた。オペラの台本は検閲され、問題のある箇所は削除され書き換えられた。そういう中で、音楽は当たり障りのないものへと堕落していった。チェルニーが厖大にパラフレーズした作品は、そういう、閉ざされた時代の産物であった。彼は高尚な芸術を作るよりは、市民の需要に応えた、まるで手工業製品のような作品—ビーダーマイヤー(小市民)様式の曲—を生みだした。

また、19世紀前半は、空前の「名人芸(ヴィルトゥオジテート)」の時代でもあった。産業の発展とともに市民階級が音楽を楽しむようになると、誰にでも分かるすごい音楽、として「名人芸」がもてはやされた。つまり、人間業でないスピード、跳躍、和音の連打といったものである。折しも、ウィーンの音楽シーンにヴァイオリンの悪魔、ニコロ・パガニーニが出現して人びとは熱狂した。1830〜1848年に活躍した名人芸的ピアニストといえば、フンメル、カルクブレンナー、リスト、タールベルグといった絢爛たるヴィルトゥオーゾが挙げられる。

そして、こうした綺羅星に憧れて、いやその収入に憧れて、多くの親たちは子供に音楽教育を施すのである。14歳以下の少年少女たちが機械的に訓練させられたピアノの技を披露し、市民が喝采した。子供が難しい曲を弾けば喝采するのは当然である。そして演奏会での収入は、思うように出世できない中産階級の親たちには魅力的だった。こうしてウィーンでは空前の音楽教育ブームが到来する。

ウィーンに医者が500人もいなかかった時代に、「心もとない知識でレッスンをしている人も勘定に入れれば、実際に1,600人のピアノ教師が稼働していたという(p.165)」。 このような莫大なピアノレッスンの需要に応え、優れた音楽教師として多くの俊英を育てたのがチェルニーであった。

ピアノの神童であったチェルニーは、ベートーヴェンの弟子となりピアノや作曲を学んでいた。チェルニーがベートーヴェンのような芸術家になる理想を持っていたことは疑いない。 だが、彼の両親は演奏旅行を行うには歳を取りすぎており、また裕福でもなかった。チェルニーは15歳の頃から、毎日20人もの生徒のレッスンを朝から夕方まで行った。それは、おそらく少年にとって耐え難い日々であったに違いない。

チェルニーは非常に規則正しく生活し、毎日のレッスンを終えると、夜には毎晩作曲を行った。 残された大量の作品は、おそらくは日中のつまらない仕事を埋め合わせようとする試みであり、皮肉なことに夢破れた結果でもあった。

だがチェルニーがいやいやながらピアノレッスンを行っていたとしても、その手法は時代に先んじていた。彼は無味乾燥で機械的な指の訓練を誡め、音楽的に優れた演奏を行うことを目的にしている。今のピアノ学習者は『チェルニー40番』の無味乾燥さに嫌気が差しているだろうが、当時としてはチェルニーの指導は大変優れていた。とはいってもチェルニーが自身の練習曲を弾かせて生徒をうんざりさせたことも間違いはない。進展する産業化社会の中で、音楽の世界のみならず「勤勉」で「禁欲的」なピューリタン的なやり方が求められるようになっていた。チェルニーは、ピアニストの卵たちに「労働」を指示したのである。チェルニーの、いわば「公文式」のような指導は、時代の子であったともいうことができる。

だが、当時は(今でも?)頭ごなしに子供を押さえつけ、泣き叫んでも無理矢理弾かせるような苦行のような「指導」が横行していたことを考えると、チェルニーの元に引きも切らさず入門希望者が訪れたのは不思議ではない。チェルニーの指導はとても穏やかで、人間味に溢れていたという。

ベートーヴェンの弟子としての名声も彼の成功に一役買っていたには違いないが、ピアノ教師として優秀であったことは確実だ。しかもチェルニーは、リストのような天才少年が現れると無料でレッスンを行った。貧しかったリストはチェルニーの家で住み込みで教わっている。

1840年代になると、名人芸の時代は下火になる。そこに音楽的な感動はなく、いわば一発屋的なものだったからだ。例えばリストは、もはや名人芸の演奏会を開くのではなく、作曲に重点を置いていった。一方チェルニーは、1827年に母親を、1832年に父親を亡くして天涯孤独となった。それまでのチェルニーは、年老いた両親を支えなくてはならないという責任感が大きかったようにみえる。そして自由な立場になった1836年、彼は36年に及んだピアノ教師業を一切辞める決心をした。時にチェルニー45歳であった。

チェルニーは、それまでの需要に応えた音楽活動を、後悔し始めていた。自分の音楽的才能を無駄遣いしてしまったのではないかと。そして間違った作品を大量に生みだしていた無意味さを思うのだった。そして後半生を懸けて、本当に自分が作りたかった芸術の道へと入っていくのである。彼は大量のパラフレーズを作るのを辞め、「古典様式」—つまりハイドンやベートーヴェンの到達した音楽様式—の曲を作るようになった。しかもそれらは気軽に演奏出来るものではなく、本格的な芸術を志向していた。

また、チェルニーは1837年にJ.S.バッハのクラヴィーア作品(『平均律クラヴィーア曲集』)の校訂版、1839年にはスカルラッティの校訂版を出版する。このスカルラッティ校訂版は、先駆的な掘り起こしであった。またチェルニーは自身では作曲の教本は書かなかったが、アントニン・ライヒャの『作曲法講義』(仏語)を独訳して注釈をつけて出版した。彼はピアノ教師から引退した後も、変わらぬ勤勉さで幅の広い仕事を行っている。なおチェルニー版の『平均律』は、時代に先んじたものではなく、また19世紀の過剰なアーティキュレーション(表情付け)によって味付けされたものであるが、これはベートーヴェンが弾いていたバッハを再現したものと言われており、その意味で価値のあるものである。

それに、チェルニーは廃れゆくポリフォニー(多声)音楽の擁護者でもあった。名人芸への賛美の裏で、ポリフォニー音楽は演奏会で人気がなく、地味で衒学的、時代遅れなものと見なされていたのがこの時代であった。チェルニーは『フーガ演奏教本』Op.400を作曲し、また最晩年には『クラシック・スタイルにおけるピアニスト』(24の全調性による前奏曲とフーガ)を作曲している。

さらにチェルニーは、『完全なる音楽史の概要(Umriss der ganzen Musik-Geschifgt)』を1851年に出版する。これは音楽事典であり、トロイア戦争の時代から1800年に至るまでの音楽年表であった。チェルニーは完全主義者であったから、どんな仕事でも高い完成度を持っていなければ満足しなかった。「あらゆる時代を網羅して著名な音楽家の一覧を挙げ、年齢に従って作品を列挙し、それを年代順に並べた。また国別、時代別に区切って、同時代の歴史的事件を並列し、アルファベット順の人名索引を備えた(p.297)」この音楽史の巻末には1477名の音楽家が索引に挙げられた。

こうした労作を準備しながら、50年代のはじめ頃のチェルニーは非常に多作だったというのが驚きを禁じ得ない。チェルニーは、若い頃、糊口を凌ぐために作らなければならなかったくだらない音楽を上書きするかのように、弦楽四重奏曲や交響曲などの本格的な作品をどんどん生みだし、「死を目前にしてもなお人生の階段をもう一段昇ることを考えていた(p.120)」。

1857年、ある出版人に向けてチェルニーは書いている。「あんなもの(注:チェルニーを有名にした練習曲群)は私の芸術家という職には何のプラスにもならないのです。もし神が私の人生に今少しの猶予をくださるのなら、私はこの何年来とり組んでいる『四重奏、交響曲、教会音楽など』の芸術作品によって、ひとえに出版業の方々に対する好意から犯してきたあやまちを正したいと思っています(p.121)」と。そしてこの手紙を出したたった10日後、チェルニーは10万フロリーンという多額の遺産を残して死んだ。

チェルニーの人生は、良くも悪くも小市民的であった。彼は芸術に殉じて破滅的な人生を歩むタイプではなかった。芸術家として生きる夢がありながら、現実と妥協してより堅実なピアノ教師となり、社会の求めるままに流行の曲のパラフレーズを書きまくった。その仕事は規則正しく、また穏当で優れたものであったが、本当にやりたいことではなかった。彼が本来の自分に目覚めたのは45歳の時で、それはやや遅すぎたのである。

だが、チェルニーは優れたピアノ演奏家を育て、それは次の音楽の主流を作っていった。フランツ・リスト、ハンス・フォン・ビューローなどといった「チェルニーの門下生を数えあげれば、二十世紀にいたるまでピアノ音楽界は彼の流れをくむ人々で占められていたといわざるをえない(p.166)」。その意味では、彼を大音楽家と言って差し支えないと思うのである。そして、最晩年に作曲した『クラシック・スタイルにおけるピアニスト』は、まさにチェルニーがベートーヴェンの弟子であり、対位法を使いこなした優れた作曲家であったことを如実に物語る傑作である。チェルニーの本当の姿は、もっと知られるべき価値がある。

本書は、当時の史料を縦横に駆使しており、またチェルニーの人生を時代的に辿るというよりトピック的に巡っているので、やや難解である。ただ、この本を手に取る人はある程度音楽史や音楽に詳しい(少なくとも楽譜は読める)人だと思う。そういう人にとってはかなりエキサイティングで、滅法面白い本である。

また、本書には上にまとめたこと以外にも興味深い事項(例えば暗譜演奏、即興演奏の扱いについてなど)が盛り込まれている。チェルニーにあまり興味がない人にも音楽ファンに広くお勧めできる本である。

時代に適合しすぎた音楽家チェルニーを描いた力作。

 

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