2024年11月2日土曜日

『島津氏——鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略』新名 一仁・徳永 和喜 著

ポイントを押さえた島津氏の歴史。

本書は、帯では「専門家による「島津氏」通史の決定版」と銘打っているが、「はじめに」にも「あとがき」にも、本書が通史であるとは一言も書いていない。「はじめに」では、「長期にわたる同じ一族による支配の維持、政権との距離感、敗北後の危機回避など、七百年におよぶ島津氏の九州南部支配からは、現代においても学ぶべき点が多々あるのではないか。そうした観点から本書をお読みいただき(後略)(p.5)」とあるので、通史的に島津氏の支配の特質について述べることが目的ではあるが、通史そのものではないと理解できる。

本書では、島津氏の歴史を当主の治世を区切りとして記述している。章のタイトルも「第一章 島津忠久の治世——元暦二年(1185)〜嘉禄三年(1227)」などとなっている。

これを年表風に簡略化すると次のようになる(だいたい50年を1行として適宜間を入れた)。

┃第1章 島津忠久(1185〜1227)


┃第2章 島津貞久・氏久(1318〜1387)
┃第3章 島津元久・久豊(1387〜1425)
┃第4章 島津忠国・立久(1425〜1474)

┃第5章 島津忠良・貴久(1527〜1566)
┃第6章 島津義久・義弘(1566〜1599)
┃第7章 島津家久(1601〜1638)
┃第8章 島津光久(1638〜1687)


┃第9章 島津重豪(1755〜1787)

┃第10章 島津斉彬(1851〜1858)
┃第11章 島津久光(1858〜1869)

これを見ると、鎌倉時代後期と江戸時代中期の間が大きく、本書が通史ではないことは明らかだ。

なぜこんなことをくだくだしく書いているかというと、私は最初、本書を「通史」だと思って読み始めて途中で違和感を抱き、よく確認してみると著者たちはこれを通史であるとは言っていないことに気づき納得したからである。

なお、はっきりと明示されていないが、前半1〜6章は新名一仁が、後半7〜11章は徳永和喜が執筆しているようだ。以下前半と後半に分けてメモする。

前半は、鎌倉時代後期を欠いているとはいえ、通史といって差し支えない。それは、島津氏が薩隅日の三か国の守護として南九州を統治する過程を述べたものであり、またその後(義久・義弘の時代)は、その版図が九州全域にまで広がっていく次第を説明している。

初代の島津忠久は、近衛家の下家司(しもけいし)を独占的に継承していた惟宗家の出で、頼朝の御家人になると元暦2年(1185)に島津荘下司職に任じられた。その翌年には「島津荘地頭」と呼ばれており、やがて島津荘目代、押領使となって薩摩・大隅両国の「家人奉行人」に任じられ、後に日向国も兼務したようだ。これは後の守護のことらしいが、ここに薩隅日三か国支配の原型が見られる。

ただしその後「比企の乱」のため、島津荘の所職や守護職は剥奪された。追って忠久は「和田義盛の乱」で軍功を上げ薩摩方地頭職に任じられたものの(守護職にも復帰したとみられる)、大隅・日向の守護職は鎌倉幕府滅亡まで北条氏が相伝した。なお、この時代の守護職は、後のように領域的支配権は持っていない。

島津氏が再び薩隅日三か国の守護職を手に入れるのは約130年後で、島津貞久が鎌倉幕府滅亡の際に足利方についた軍功による。しかしこの時期の守護職もまだ領域的支配権はないので、領内には島津氏と敵対する在地勢力がたくさんあった。日本は南北朝時代へ突入し、南九州でも複雑な対立の構図となった。島津氏としては特に大隅の肝付兼重への対策が重要だった。

ちなみにこの時代(14世紀後半)、貞久は鎮西管領の斯波氏経に対し「島津氏は薩隅日三か国の支配権を領有している」と強く主張しているのが興味深い。次代の島津氏久は志布志での中国交易を重視し、志布志の宝満寺・大慈寺を庇護した。ここに島津氏の交易重視政策が形成された。同時に、倭寇もこの頃盛んになってくる。九州南部は倭寇の拠点の一つだった。中国との貿易を目指す幕府にとって倭寇の存在は迷惑であったが、そのために倭寇対策が政策課題となり、島津氏が貿易のキーとなっていくのが面白い。

九州探題今川了俊との抗争に勝利した島津氏は、薩隅日三か国の実効支配を幕府に認めさせ、氏久を祖とする奥州家が三か国の守護職を兼帯した。氏久を継いだのが子の元久(母は伊集院忠国の娘)。なお応永元年(1394)、石屋真梁(伊集院忠国の子)を開山として福昌寺が創建され、島津氏の菩提寺となった。奥州家は伊集院氏と深い関係にあった。

実子の男子が出家していた元久は、妹と伊集院頼久の間に生まれた初犬千代丸に家督を譲ることとしており一門も了承していたが、元久の異母弟久豊はこれに異を唱え、伊集院氏から元久の位牌を奪って守護所鹿児島を占拠し、また福昌寺を保護した。伊集院氏との抗争の後、久豊が権力を確立して足利義持から三か国の守護職に任じられた。こうして奥州家が守護職を相伝し「三州太守」と表現されるようになった。

久豊の長男、忠国の時代は、山東(宮崎県西都市)の伊東氏との関係が大きな政策課題となった。忠国の母は伊東祐安の娘だったが、伊東氏と対立するようになったのである。そうした状況で伊集院煕久が反島津方国人を糾合し一揆を起こした(国一揆)。忠国はこれを制圧できず和睦。伊東氏とも和睦していた。これを不服としたグループは忠国の弟持久を擁立し、忠国を隠居させた。持久は福昌寺で父久豊の十三回忌法要を行って家督相続を確かなものにしたかに見えたが、ここで「大覚寺義昭事件」が起こる。

ことの次第はこうである。足利義教の弟・義昭が京都から出奔。これが後南朝勢力と結ぶことを恐れた幕府はこれを探索したが見つからなかった。そんな中で義昭が義教追討の檄文を忠国方の樺山孝久(のりひさ)に発したため、樺山は幕府に通報。このため幕府は忠国に対して義昭追討を命じたのである。忠国は末吉に隠居中だったが、自派の武将に命じ嘉吉元年(1441)、日向国櫛間院の永徳寺を包囲させ義昭は切腹。これで幕府の信任を得た忠国は返り咲いた。一方、持久は北薩と南薩を治める薩州家を創始した。

一方、忠国の治世は安定せず、これに不安を覚えた嫡子立久と重臣は忠国を強制的に隠居させた。立久はアメとムチで経営を行い、伊東氏とも和睦して領国内を安定させた。この際に、相州家豊州家も創出され、「有力御一家・国衆を相互にけん制する体制(p.74)」が作られた。

一方、忠国の三男久逸(ひさやす)が、断絶した系統を養子となって引き継いだのが伊作家。伊作家は伊東氏との合戦に敗れ、また久逸の子善久が奴僕に殺害されて風前の灯となったが、その妻常盤が相州家の島津運久(ゆきひさ)に再嫁し、それによって善久の子忠良が伊作家・相州家を相続した。一方で、奥州家は忠昌が自害、その後嫡男の早世が二人続くなどして弱体化し、反島津勢力が蜂起した。

そうした状況を利用して、忠良は奥州家(島津忠兼=勝久)に自身の子虎寿丸(後の貴久)を養嗣子とすることを受け入れさせた。これは事実上のクーデターであった。薩州家の島津実久はそれを認めず、自らが「三州太守」を継承したと標榜してクーデターを仕返したが、忠良・貴久は薩州家を打倒。荒廃していた福昌寺の寺領を安堵し、「三州太守」として認められた。こうして貴久は奥州家当主として地位を確立させた。貴久はさらに在地勢力を次々と下して薩摩統一を実現した。

貴久の子供が、有名な島津四兄弟(義久義弘・歳久・家久)であり、義久・義弘の時代に島津氏は最強となった。彼らは大隅と日向を統一して、ここに「三州統一」が成し遂げられた。彼らの目標はあくまでも「三州統一」であったが、九州六か国の守護職と九州探題であった大友宗麟とのパワーバランスから、肥後の国衆から救援を求められ、また島津氏の重臣たちも外征に積極的だったため、北部九州に侵攻していくこととなった。特に龍造寺隆信を圧倒的少数で撃破した(沖田畷の戦い)ことで九州で島津一強となり、残すは大友氏との対決となったが、このタイミングで豊臣秀吉が九州へ征伐へ動いたため、島津氏はやむなく降服した。秀吉は、義久に薩摩国、義弘に大隅国、義弘の子の久保に日向国真幸院を安堵している。

秀吉は明らかに義弘を当主として扱ったが、義久を主君とする家臣団もおり、島津氏は分裂気味になった。さらに太閤検地では多くの家臣が減封となり不満が高まった。そんな中で独り勝ち状態だったのが伊集院幸侃(忠棟)であるが、義久の子忠恒(のちの家久)は伊集院幸侃を突如惨殺、追って子の伊集院忠真とその一族も誅殺した。なお、義弘は実際には家督は継承していないが、後の島津氏の公式見解では義久-義弘-忠恒と家督が継承されたことになっている。

ここからは後半である。前半とは打って変わって通史風の記述はなくなり、著者(徳永)の重視する事項を詳しく述べていくスタイルになる。島津家久と続く光久の時代については、交易の記述がほとんどである。

薩摩藩は琉球国を通じて南蛮(東南アジア)・中国と交易を行っていた。それは近世初期では自由貿易を志向しており、近畿の貿易商人にも支えられていた。この交易は薩摩藩を繁栄させ、島津領内では中国人が多く居住していた。もちろん島津氏自身も貿易を行い、島津氏は最大級の朱印船貿易家であった。また島津氏が取得した貿易の権利を民間に譲渡した場合もあり、これについて本書では「大迫文書」からその実態を考察している。

家久は慶長14年(1609)に琉球侵攻を行い、琉球国を属国にした。これは琉球の貿易権を薩摩藩の管理下に置くことが目的であった。琉球は中国の冊封体制に組み込まれながら、同時に薩摩藩にも隷属するという二重の支配を受けた。そのおかげで、薩摩藩は琉球の朝貢貿易を通じて中国の物品を入手することができたのである。

それは逆に言えば、中国への輸出品を入手する必要があったということだ。薩摩藩にとってこれは大きな負担でもあり、その費用を取り戻すためにも琉球口交易は必要だった。農地に恵まれない薩摩藩にとって琉球口交易は重要な財源でもあったが、その負担もまた大きかった。続く光久の時代も琉球口交易の確立に絞って記述されている。

ここから時代が一気に飛んで島津重豪の時代となる。重豪の時代には、薩摩藩の膨大な借金の整理が重要な政策課題となった。そんために抜擢されたのが調所広郷である。調所は様々な改革を行って借財の整理・減免・返済を行ったが、本書では特に琉球口交易の拡大が焦点となっている。

次の島津斉彬の時代では、斉彬の世界観とそれに基づく近代化政策が触れられる。特に西洋通事の養成の中で、唐通事の石塚崔高が紹介されているのは目を引いた。薩摩藩では蘭学から英学へ路線変更するが、そこで上野景範が比較的詳しく紹介される。上野景範は独断で上海に渡航して西洋にいこうとした人物である。本来脱藩の罪に問われるべきところ、彼は逆に薩摩藩開成所の句読師に抜擢されている。

島津久光の時代については、幕末史を足早にまとめ、その頃の薩摩藩の財政を支えた「琉球通宝」などの通貨鋳造事業について述べている。なお、通貨鋳造事業は「琉球通宝」は幕府から許可を得ているので「偽金」ではないが、「天保通宝」は許可を得ているのか得ていないのか定かでない(記録も関係者の証言も曖昧)。なお、ここでは幕府から鋳造許可を得た日付がどうであるのかなど、かなり細かい議論があり、この辺りは全く通史的ではない。

なお、著者には『偽金づくりと明治維新』(新人物往来社、2010)という前著があるが、不思議なことにこの本は本書では参照されていない(参考文献に挙げられていない)。もしかしたら旧説を改める意図があるのかもしれない。

本書は、前半と後半では良くも悪くも調子がだいぶ違う。私は前半は通史として読み、後半は薩摩藩論として受け取った。だが後半は、薩摩藩論だとしても特定事項に記述が偏っていることは否めず、わかったようなわからないような感じである。

一方前半は、島津氏が薩隅日三か国を統一する次第が端正にまとめられており、頭の整理に非常に役立つ。著者(新名一仁)はこれまで、戦国島津に関する本や論文を多数著しており、本書によってそれらの著作を俯瞰することができると思う。

前半を読んで改めて思ったことは次の3点である。

(1)島津氏にとって「三州太守」すなわち薩隅日三か国を統治するというのがアイデンティティとなっていた。大隅の肝付氏や、川内川流域の渋谷一族など、島津氏と対抗する勢力がなかったわけではないが、そうした「支配者としてのアイデンティティ」を持っていたのは島津氏だけだった。

(2)伊集院氏と島津氏の関係が興味深い。島津氏は多くの庶流・分家を持っていたが、中でも伊集院氏とは独特な関係があったように思われる。島津氏の菩提寺である福昌寺は実質的に伊集院氏が創建しており、伊集院氏の初犬千代丸は島津家の家督を狙える位置にあった(これは伊集院氏による乗っ取りのようにも見える)。そして戦国末には、伊集院幸侃は豊臣支配の矛盾を押しつけられる形で斬殺されるのである。伊集院氏から南九州・島津氏の歴史を見るとどうなるのか、興味が湧いた。

(3)福昌寺が、島津氏の家督継承に大きな役割を演じているらしい。歴代の島津家当主にとって、福昌寺の寺領を安堵し、またそこで先祖の法要を行うことが大きな意味があったように見受けられる。福昌寺は荒廃していた時期もあるので、常にそうであったとは限らないが、家督継承の正統性や権力基盤が弱い時期に担ぎ出されたのが福昌寺だった。菩提寺を正統性の源泉としていたのは他の戦国武将たちでも同じなのか、それとも島津氏の特質なのか、どちらなのだろうか。

 

【関連書籍の読書メモ】
『日向国山東河南の攻防—室町時代の伊東氏と島津氏』新名 一仁 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/07/blog-post_11.html
鎌倉から室町までの日向国山東河南の歴史について、島津氏と伊東氏の関係を軸に語る本。

『中世薩摩の雄 渋谷氏(新薩摩学シリーズ8)』小島 摩文 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/06/8.html
中世の渋谷氏に関する論文集。「第2章 南北朝・室町期における渋谷一族と島津氏」(新名一仁)は渋谷氏との関係を軸として南北朝・室町期の島津氏の歴史を述べている。

『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/12/blog-post_20.html
島津義久・義弘を中心とした歴史書。戦国末の薩摩の歴史書としては、現時点で最良唯一の平易な良書。

『海洋国家薩摩』徳永 和喜 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/blog-post.html
鎖国体制の中でも薩摩が東アジア世界と繋がっていたことを述べる。薩摩の海洋・貿易政策を考えるために参考になる本。

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2024年10月22日火曜日

『認識と超越<唯識> (仏教の思想4)』服部 正明・上山 春平 著

唯識(ゆいしき)とは何か述べた本。

かの玄奘がはるばるインドまで旅して求めたのが、アビダルマ哲学と唯識の本だったという。唯識はインドの仏教思想においてその到達点といえるものである。

しかし私は唯識はあまり日本の仏教に影響を与えていないと考え、これまでこれを知らずに済ませて来た。先日『往生要集』を読んで、本当に日本仏教に唯識があまり取り入れられていないのが検証する必要を感じ手に取ったのが本書である。

唯識の源流は『華厳経』の「三界唯心」の一文である。「三界はただ心なり」、これは鴨長明が『方丈記』の終わりにいう「夫(それ)、三界は只心ひとつなり」の元ネタである。世界に存在するのは心だけだという認識は、インドではどう発展していったか。

本書にはそれが丁寧に跡付けられているが、私にはよくわからなかったことも多いので、大まかにメモする。

紀元1世紀ごろに、インドではアビダルマ(論・哲学)が盛んになった。これは仏教的な哲学で、存在論である。アビダルマでは、存在するということを思弁的に考え、いくつもの存在の基本単位(原子のごときもの=法:ダルマ)を措定した。地水火風空といった物質(色)についてはもちろんのこと、アビダルマでは心理作用とか文章のようなものも法があるとみなした。物質のみならず現象にも、心とは独立して原因の元があると考えたのである。

一方で2世紀には、空思想がナーガルジュナ(龍樹)によって大成された。紀元後に述作されていた大乗仏典にはすでに空の思想が説かれていたが、これを精緻に理論化したのがナーガルジュナの『中論』である。空とは、この世の全ては相互依存的に存在しており、絶対的な実体はないとする思想である。

ところがすぐにわかる通り、これはあらゆるものに原子のごとき普遍の素(法)があると考えたアビダルマ哲学と矛盾する。そこで2~4世紀頃には、アビダルマ哲学を受け継ぎながら、その存在論を転換させ、空の理論を取り入れた認識論である唯識が『解深密教(げじんみっきょう)』において登場するのである。

これを受けて唯識思想を体系化したのが、マイトレーヤ(彌勒、ただし実在の人物ではない可能性が高い)であり、アサンガ(無着)・ヴァスバンドゥ(世親)の兄弟であった。特に重要な著作としては、マイトレーヤの『瑜伽師地論』、アサンガ『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』、ヴァスバンドゥ『唯識二十論』・『唯識三十頌』が挙げられる。5世紀ごろまでに現れたこれらの著作が唯識の基礎を築き、6世紀にはこれを発展させるとともに、それらに対する注釈の形で理論が精緻化した。

そうした仕事をしたのが、例えばディグナーガ(陳那)、ティラマティ(安慧)、ダルマパーラ(護法)、パラマールタ(真諦)である。中でもダルマパーラの『成唯識論』は基本原典の位置づけが与えられ、法相宗の根本経典となった。なおこの頃に玄奘はインド旅行をした。さらに7世紀には、ダルマキールティ(法称)が出て認識論、論理学を発展させた(有形象唯識論)。この頃にインドを訪れたのが義浄である。

日本で唯識をはっきりと受け継いでいるのは法相宗である。法相宗大本山の興福寺には、有名な無着・世親像があるが、あれこそが日本における唯識のアイコン的なものであろう。

ではその思想はどのようなものだったか。

それを簡単に言うと、「この世界には実在するものは何もなく、それは幻のようなものである」ということである。これは西洋哲学でいえば、ソリプシズム(独我論)にあたる。もう少し正確に言えば、唯識派は、あらゆる外界の対象は実在せず、ただ表象とその認識だけがあると考えた。だから「唯識」なのである。

例えばここに牛が歩いているとする。だが唯識の考えでは、実際には牛は存在しない。ただ「牛が存在する」との認識だけがあるのである。さらに牛の前に大きな岩があったとしよう。唯識ではもちろん岩も存在しないが、牛は岩を避けて歩くであろう。存在しないはずの岩をわざわざ牛が避けるのはなぜか。またこの牛が視界から過ぎ去ったとする。もはや牛は認識されないので、存在しない。しかし、その先で別の人は存在していないはずの同じ牛を見ることになる。このように、明らかに牛も岩も存在しているように見える。どういうことか。

これに対し、『解深密教』ではアーラヤ識というものを考えた。アーラヤ識とは、「無限の過去世から、現象にかかわる心のはたらきの余習を蓄積しながら流れを形成している潜在意識(p.55)」である。つまり、誰かが牛を認識したことはアーラヤ識という識のアーカイブに記憶されているため、別の誰かもその牛を認識するのである。

ところで、単純な独我論では、世界で確実に存在しているのは自分(の心)であるとされる。デカルトが「我思う、ゆえに我あり」といったように、外界の対象が全く幻に過ぎないとしても、それを知覚している自分というものは存在すると考えるほかない。では唯識では自己及び他者をどう考えるか。

唯識では、自己は識の集合体であると規定される。つまり識(認識作用)がまとまったものが人間である。もちろん他者もそうである。認識作用のみがあるのである。西洋哲学の独我論では、自己は存在したとしても他者は幻かもしれないと考えるのだが、インド哲学の特徴なのか、唯識では自己と他者は峻別されずに考察されている。本書では詳らかでないが、おそらくは生物は全て識の集合体と考えられているようである(もしかしたら無生物もそうかもしれない)。

では、牛という実体は何もないのに、なぜ我々は牛を認識するか。言い換えれば、アーラヤ識はどのような原理で我々に牛を認識させるか。細かい議論は省くが、アーラヤ識にはあらゆる現象の種のようなものが内包されており、その種が現勢化することで牛が認識される。ところで唯識に先行するサーンキヤ学派では、現象のすべては因果律に支配されていると考え、その根源に第一原因を考えた(新プラトン学派と全く同じである)。ところが唯識になるとアーラヤ識が因果律の体系であるとはみなされず、識は瞬間ごとに生成・消滅するとされる。アーラヤ識に因果律が内包されているのではなく、それはあくまで種が現勢化することで識を変化させる。

つまり識は、素朴には認識作用ではあるのだが、認識というのは対象があって初めて成り立つ。対象がないのに何を認識するのかというと、アーラヤ識によって識自体が変化するのみなのだ。これを「識の変化<パリナーマ>」という。

このように考えると、煩悩や輪廻といったものも、アーラヤ識によってある(ように見える)ものであるのは明らかだ。すなわち解脱とは、アーラヤ識の流れを断ち、アーラヤ識から自由になることに他ならない。それが真如の境地なのである。

これはずいぶん思弁的な観念論に見える。ところが実はそうではないのである。唯識派は観念論を弄んだ学者だったのではなく、瑜伽(ヨーガ)を実践していた人たちだったのだ。

彼らは、ヨーガによって深い瞑想に到達し、そこに真理の世界を見た。その実践から得られたことを理論化したのが唯識だったと考えられる。例えば、瞑想していると、如来や菩薩が現れ、いろいろ教えてくれたりする。そうしたものは虚妄であろうか? さらに深い瞑想に入っていくと、全宇宙の真理が溶解した光の世界などに到達するとされるが、それはただの幻覚なのだろうか?

瑜伽行者たちは、現実の方がかえって虚妄であり、ヨーガの実践によって見られる世界の方に真如があると考えた。これが唯識の基本的な立場である。瞑想の時に見る世界は、何ら外界の対象が存在せず、瞑想が終わったら消えてしまう。しかし現実世界も似たようなものではないか、と彼らは考えた。むしろ、現実世界の流れ(アーラヤ識の作り出す流れ)を断ち切った世界にこそ、真実があると確信していた。

唯識は、一種の存在論・認識論であるが、観念的な哲学ではなく、むしろヨーガ理論であると考えた方がよいのである。実際、唯識の諸著作ではヨーガの実践によって得られる境地を10とか12に分けて細かく説明しているのである。

ただし、ディグナーガ=ダルマキールティの系統は、ヨーガの実践は遠のいて認識論・論理学の方向に進んでいる。

この世に実在するものは何もない、という思想は、世間的なものに執着しない態度を予想させる。例えば美女も美食も、実体は何もないのだから捉われるな、という態度である。しかし唯識ではそうは考えない。美女や美食を認識するという識(認識作用)こそが汚れであるとするのである。その識の働き(正確には、識を機能させているアーラヤ識)をヨーガの実践により断つことで煩悩をなくすのである。先述の通り自己も識の集合体であり、それを存立させているのもアーラヤ識である。ということは、アーラヤ識が断たれたら、自己も無になる。それが真如の境地なのである。

なお本書は、3部に分かれている。第1部が服部正明による唯識の概論、第2部が上山春平と服部の対談、第3部が上山による解説である。このシリーズは上山春平と梅原猛が仏教思想について繙くという構成をとっており、上山の専門は西洋哲学であるが、非専門家の立場から見た唯識が語られている。しかし意外と西洋哲学との対比や類比はなく、アビダルマからの思想的発展とヨーガとの関連を中心に述作されている。

ちなみに本書は唯識が日本にどう影響を与えたかはテーマの範囲外であるため述べられていないが、日本の法相宗が上述のような議論を盛んにしていたという話は聞かない。そもそも法相宗では唯識は「学問」であり、ヨーガの実践を伴っていなかった。ヨーガがなくては唯識の真の価値は発揮できなかっただろうと思う。

今でこそ唯識について述べた本はたくさん刊行されているが、本書の原著刊行の時点(昭和45年)では、本格的かつ平易に唯識を紹介した一般書としては貴重なものだったと思う。

唯識を思想的に平易に解説した良書。

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『天皇の祭祀』村上 重良 著

天皇制を支える祭祀について述べる本。

国家元首としての天皇、そして天皇を神と見なす観念などを含む「国家神道」は、戦後にGHQの指導の下で解体されたが、その祭祀については天皇の私的な行為(内廷行為)ということで存続を許され、今でも行われている。だが、皇室祭祀は「天皇の私的な行為」どころか、「天皇の祭祀王権の基盤(p.iii)」であり、天皇制の核であるともいえる。

しかし大嘗祭がニュースになるくらいで、一般にはあまり知られていないのが皇室祭祀である。

本書はこの皇室祭祀の全貌を述べるものである。

まず、「天皇の宗教的権威は、イネの祭り新嘗祭に淵源している(p.1)」という。新嘗祭は古代から行われた稲の収穫祭であり、神に稲をささげるという役目を負った(別の面からいえば、ささげる権利を持った)のが天皇である。

新嘗祭は、古代においては11月下卯日(月に3回卯日があるときは中卯日)であった。これは、稲の収穫からは遅い。本書では、神嘗祭の方が先にあり、遅れて新嘗祭ができて、さらに冬至祭と複合したのではないかとしている。

新嘗祭の前日夜には天皇の鎮魂祭が行われる。これは宮中の綾綺殿(りょうきでん)で行われる、天皇の魂を神にする(霊力を高める)参列者のいない秘儀で、鎮魂祭の間は天皇は真床(まどこ:神聖な席)で追衾(おぶすま:神聖な寝具)をかぶって物忌みする。これは天孫ニニギの降臨の故事に基づくとされるが、実際にはこれを反映してニニギの神話がつくられたものとみられる。

新嘗祭は神嘉殿で行われる天皇の親祭(みずから行う祭)であり、天皇は他と違い純白の絹の装束を着て行う。その中心は、神饌の供進と直会(なおらい)である。

天皇の一代一回の新嘗祭が大嘗祭であるが、これは大極殿(平安時代以降は紫宸殿)の前庭に大嘗宮(悠紀殿・主基殿)が特別に建てられて行う。大嘗祭は天武天皇の時代から行われるようになったらしい。

ちなみに、皇位のしるしである三種の神器は、その由来がはっきりしない。それを語る神話は後世の作為であると見られる。伊勢神宮がもともと鏡を神体としていて、それから鏡が三種の神器のひとつとなった…というような流れが自然だが、実態は不明である。しかも、9世紀初頭には「本来の宝鏡、宝剣は天皇もとにはなく、皇位のしるしである鏡、剣は、宝鏡、宝剣の模造品であるという不自然な説明が定着(p.25)」した。ともかく、宮中の鏡は(模造品であれ)伊勢神宮の鏡と一体であるとされ、別殿にまつることとし、これを温明殿(うんめいでん)と呼び、また賢所(かしこどころ)、内侍所(ないしどころ)とも称した。

大嘗祭では、鏡と剣が用いられていたが、賢所の成立によって(?)、剣と玉を使うようになり(本書には理由が書いていない)、剣と玉はあわせて剣璽とされ、剣璽動座(天皇が一日以上の旅行をする際に剣璽を侍従が奉持する)も平安時代に始まったとされる。

ちなみにこの剣は、源平の争乱の壇ノ浦に安徳天皇とともに沈んでおり、後に伊勢神宮の神庫にあったものを代わりとした。宝剣の本体は熱田神宮に祀られているが、何人も見ることができない建前なので実態は不明。玉も古代以来宮中に伝わっているとされるが、それを納めた箱は天皇と言えども見ることができず実態は全くの不明である。

神祇制度は平安時代に完成を迎えたが、南北朝の動乱によって天皇の宗教的政治的権威は失墜し、皇室祭祀の多くが廃絶した。ただし、この南北朝動乱期に「三種の神器」の意義が強調されるなど、天皇制の理論化が起こっていることは面白い。

また興味深いことに、平安期から天皇・皇室の密教化が進んでいた。平安期には大内裏の中和院の西に「真言院」が設けられ、天皇のための御修法(みしほ)がさかんに行われた。承久の乱後には泉涌寺(真言宗)が皇室の菩提寺となり、天皇家の葬送は仏教式で行われた。さらに室町時代には、後土御門天皇が勅願随一の精舎として伏見に般舟(ばんじゅう)三昧院(天台宗)を開創し、禁裏道場として栄えた。

宮中には「お黒戸」と呼ばれる独立の建物が作られ、仏像を安置して歴代の天皇、皇后の位牌をまつった。このように、中・近世を通じて皇室は真言宗の檀家であり、天皇は仏式で葬られていた。

江戸時代には天皇は形式的なものとなって、叙任・叙位、元号の制定、作暦の3つの権限を持つにすぎず、これらも名目のみにとどまった。幕府は皇室を「禁中並公家諸法度」で統制したが、一方で門跡寺院の権威を認めるなど、天皇を頂点とした権威の仕組みを利用した。なお門跡は寺格化し、皇室が衰微した時期には、その付与は国師号の宣下などとともに有力な収入源となった。

また幕府は、皇室祭祀の再興を後押しした。新嘗祭は東山天皇の1688年に225年ぶりに復活(この時は吉田家で行った!)。1740年には天皇(桜町天皇)の親祭による旧儀にほぼ復したものの、幕府の意向で神今式は省かれたままであった。ちなみに大嘗祭は新嘗祭復興の前年1687年。これも1738年、桜町天皇のときにはほぼ旧儀に復興した。

明治維新が起こると、政府は祭政一致国家を志向し神仏分離を行った。また天皇と神道を密接化させ、追って宮中の神仏分離を行い、「お黒戸」を泉涌寺へ移築した。また社寺の土地を取り上げる社寺上知令では、泉涌寺と般舟院の土地も取り上げられて(皇室の墓域まで官収された!)、両寺はたちまち衰微した。

一方、新たに設けられた神祇官に八神殿が設けられ、八神、天神地祇、歴代皇霊が祭られたが、神祇省への格下げに伴って歴代皇霊については賢所に移され、追って「神殿」が建築されることとなった。さらに神祇省の八神殿も廃止され、八神・天神地祇も「神殿」へ遷されることとなったが、1873年に皇居が炎上したため赤坂離宮の仮皇居に遷された。新神殿=賢所・皇霊殿・神殿という宮中三殿ができたのは明治22年(1889)である。

宮中三殿の後ろには綾綺殿、少し離れて横に神嘉殿があり、賢所を最高の中央神殿として体系づけられた。「皇居内に、このような整った形式の神殿を設けることは、古代天皇制以来の伝統にはない近代天皇制国家の創案であり、天皇の祭祀の拡充強化に見合う新機軸であった(p.67)」。

明治政府は祭祀にも新機軸をもたらした。天皇親祭の13の祭祀のうち、(1)新嘗祭のみは古代の皇室祭祀を受け継いでいたが、他は新たに制定された(あるいはアレンジされた)祭祀だった(以下、便宜のために番号を付ける)。

そのうち、新嘗祭以外で古くからあるのは(2)神嘗祭である。これは元来、皇室ではなく伊勢神宮の重儀であるが、伊勢神宮を重視する明治政府の政策によって、明治4年(1871)に宮中でも遥拝と賢所神嘗祭が行われることとなった。これは神宮と天皇が一体であることを国民に示すためであった(明治12年には、祭日を一か月ずらして10月17日に改めた)。

(3)元始祭:天孫降臨を祝う祭り。明治3年(1870)正月3日に八神殿で行われたものを定例化し、明治5年(1872)から元始祭の名称を用いた。賢所・皇霊殿・神殿で親祭が行われるのは皇室祭祀の中で元始祭のみであり、新嘗祭に次ぐ重要な祭典である。

(4)紀元節祭:神武天皇の即位を祝う祭り。明治6年の太陽暦採用にあたって神武天皇紀元が制定され、明治6年1月29日が旧暦元日だったことから紀元節祭が行われ、その後、2月11日に再設定されたが日程の根拠は詳らかでない。紀元節祭は皇霊殿で天皇が親祭するものであったが、昭和3年(1928)からは賢所・皇霊殿・神殿の親祭に改められた。

(5)神武天皇祭:現天皇が神武天皇に大孝をのべる祭りで、明治3年の祭日だった3月11日は神武天皇の命日とされる。その後2回日程が変わり明治7年(1874)からは4月3日となった。朝昼夕の3回、皇霊殿で天皇が親祭した。

(6)春季皇霊祭、(7)春季神殿祭、(8)秋季皇霊祭、(9)秋季神殿祭:当初、新政府は歴代天皇の祥月命日全てで祭典(正辰祭)を行ったが、天皇以下の式年祭と併せてあまりに数が多いので、明治11年(1876)にこれを廃止して春季・秋季の皇霊祭にまとめた(皇霊殿で行う)。これは国民に定着していた春秋の彼岸を皇室祭祀に直結する狙いがあったものとみられる。また、これに合わせて従来春分・秋分に行われていた天神地祇の祭りも神殿でとりおこなったため、同日に皇霊祭と神殿祭の2つの祭典が開催されることとなった。

(10)孝明天皇祭:先帝である孝明天皇の命日(太陽暦1月30日)の祭り。皇霊殿で天皇が親祭した。

(11)先帝以前三代の式年祭、(12)先后の式年祭、(13)皇妣たる皇后の式年祭(これら3つは皇霊殿で行う)

このほか、建前としては天皇が行うことになっているが賞典職が天皇に代わって奉仕し、天皇は拝礼のみを行うものとして、祈年祭・賢所御神楽・天長節祭・明治節祭・節折(よおり)・大祓がある。

明治政府は、復古を建前としていたから、祭祀のみならず諸儀式についても一応は復興を企図してはいたが、古制を廃止して新たな方式としたものが散見される。例えば即位式は陰陽道に基づく大旌(だいせい:いろいろな幢(とう)と旛(ばん))を廃して真榊にするとか、中国風の礼服袞冕(こんべん)を廃止するといったものである(特に礼服は天皇以下全て新たに定めた)。

天皇の祭祀のうちで最も重要な大嘗祭も、明治4年(1871)には初めて東京で行い、その際に「簡素を旨として、名目だけの古制は廃する(p.115)」こととした。この大嘗祭は、古式に擬した新儀であった。

新政府は、追って様々なことを天皇中心に作り替えた。一代一元制の採用、また元号を天皇の諡号にするということは、天皇が時を支配する観念を植え付けた。民衆の間では、年は干支で数える風習があったが、これを太陽暦の採用とともに廃止し、元号のみに一本化した。

また、休日(祝祭日)についても、伝統的な五節句と八朔(8月1日)を廃止し、皇室祭祀や行事に基づくものに変更した。「祝祭日の体系的設定は、天皇の祭祀を原基とする現人神天皇の存在を、国民の生活のすみずみにまで浸透させる役割を果たした(p.127)」。日の丸や「君が代」の制定も、外交上の必要性があったとはいえ、国家意識を国民に植え付ける一助となった。

さらに本書では、神社の再編成(近代社格制度の制定)、神社祭式の統一的制定(明治8年の「神社祭式」、明治40年の「神社祭式行事作法」、大正3年の「官国幣社以下神社祭祀令」)、勅使の派遣と奉幣の制度などに触れ、皇室神道と神社神道を直結させたことを述べている。

それに続き、皇室典範と大日本帝国憲法により、皇室の位置づけが法的にも強固になり、また天皇が軍を統帥するという、歴史的に異例の役目が与えられた。これに著者は「軍人天皇」という用語を与えている。「明治維新以前の天皇の属性であった祭司王という基本的性格にかわって、現人神がその属性となった(p.151)」。こうして天皇は、政治大権、軍事大権、祭祀大権の3つを備えることとなった。このような超越的な天皇の存在を国民に植え付けるため、教育勅語、御真影が大きな役割を果たしたことはいうまでもない。

一方、祭祀大権については皇室典範にも憲法にも規定はなかった。これが制定されたのは明治40年(1908)の「皇室祭祀令」で、先の13の親祭がここに規定された。続いて「登極令」、「摂政令」、「立儲令」、「皇室成年式令」などが次々と定められて皇室の儀礼制度は体系的に整えられた。

これらは、日本の敗戦によって全面的に改められ、天皇は政治大権、軍事大権も失った。当然、祭祀大権も否定されたが、天皇の私事として祭祀は続けられた。法的には天皇の祭祀は国民とは無関係となったのだが、今でも天皇が「国家の祭祀」を担っているとの観念は国民の間に根強い。その上、日本政府も祭祀を国家的なものにすることに力を入れた。

例えば昭和34年(1959)、明仁皇太子(現上皇陛下)の立太子にあたって神道儀礼である「賢所大前の儀」は国事として行われた。また翌年には、内閣総理大臣池田勇人は、八咫鏡について「皇祖が皇孫にお授けになった」など、神話的由来を国家として認める答弁書を出している。皇室祭祀についても、前述の13の親祭のうち、廃止されたのは紀元節祭のみであり、他はほぼ旧「皇室祭祀令」等の規定通りに行われている。

また、新嘗祭等には総理大臣以下が「私人として」参列し、「神社、寺院への勅使の差遣や、大師号、国師号等の宣下も、天皇の私事という名目で、戦前と同様に行われている(p.217)」。これら「私人」や「天皇の私事」は建前に過ぎず、天皇は今でも祭司王であり、それを国家として承認していることは「いささかも疑う余地がない(同)」。天皇の祭祀王の性格は、今でも生きているのである。

本書は全体として、象徴天皇制の下での祭祀を問題にしているが、私自身の興味は、純粋に天皇の祭祀の全貌をつかむことにあった。特に下線を付けたように、その祭祀がどこで行われるのかに着目してみたところ、皇霊殿と賢所に中心があることは明らかである。これは天皇の祭祀がはっきりと祖先崇拝に組み替えられたことを意味する。天皇の祭祀は、本来は天照大神と八神(神話の最初に出てくる主要な8柱の神)、天神地祇を祀るものであった。それらの祭祀をとりおこなったのが神嘉殿だったのだが、維新後の神嘉殿は脇役的なものになってしまった。

また、古代の祭祀と近代のそれとの大きな違いは、天皇が親祭する祭祀が著しく増大したということである。古代祭祀において天皇が親祭したのは、新嘗祭と年に2回の神今食(じんこんしき、かみいまけ)の3つしかなく、国家は各地の大社に幣帛を班つという間接的な祭祀を中心としていた。古代の班幣の祭りは、月次祭、祈年祭、三枝祭、鎮花祭など数多く、特に月次祭は重要なものであった。

明治維新は復古を旗印にはしていたが、祭祀に限ってみても古代への回帰の要素は少なく、新たな祭祀体系の創始を志向していたことは明らかである。そしてその変更点は、第1に天皇親祭、第2に皇祖信仰、第3に仏教的要素の除去、という3点に集約できるだろう。

天皇の祭祀を詳しく紹介した良書。

【関連書籍の読書メモ】
『国家神道』村上 重良 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/07/blog-post.html
国家神道の本質を描く。国家神道を考える上での基本図書。

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2024年10月13日日曜日

『「戦後」を読み直す—同時代史の試み』有馬 学 著

本の再読によって戦後を歴史化しようと試みた本。

著者は「同時代を歴史として語る形式を見つけたいと考えてきた」という。

自分が過ごしてきた時代は、「歴史」ではなく「経験」であり、それをいくら客観的な「歴史」として語ろうと思っても、なかなか難しい。そこで著者は「後世の研究者に、その時代の日本社会を描くならこれがいい史料になると教えたくなるような本(p.6)」を「読み直すことを通して、「戦後」を再考(同)」しようとした。

これには少し説明を要するだろう。そこで本書にこういう説明があるわけではないが、私が括弧付きで使う「歴史」についてちょっと補足したい(本書では歴史を括弧付きで使っていない)。

最近の若者言葉に「黒歴史」という言葉がある。自分の恥ずかしい過去や、振り返って考えると恥ずかしくなる自分の作品などを表すネットスラングである。例えば若い頃に書いた詩や小説がそれに当たる。この言葉に「歴史」が入っているのは、なかなか鋭い言語感覚だ。詩やマンガを書いたのは自分でも、それをある程度の距離から離れて見ると、ダメすぎて目も当てられない…ということは、自らの「経験」を客体化、すなわち「歴史」化しているからだ。このように、「歴史」は、現象を「ある程度の距離から離れて見る」という作業が必要なのだ。

つまり、「経験」をそのまま語るだけでは決して「歴史」にならない。仮に源頼朝が鎌倉幕府を開いた時の自叙伝を書いていたとしても、それは第一級の史料ではあるが、そのものは歴史書ではない、というのと同じである。

そして「ある程度の距離から離れて見る」ということは、「歴史」は必然的にナマの「経験」からは変質したものとなる。それはあたかも、モザイク画は近くから見ると幾枚かのピースが無造作に並んだものであるが、遠くから見れば一枚の絵になるのと似ている。

であれば、自らの「経験」を「歴史」として語るにはどうしたらいいのか。著者は若い頃に読んだ、時代を象徴する本を再読するという手法を考案した。再読してみれば、かつてとは違った印象が得られる。なぜ違った印象になるのか、それは、「ある程度の距離から離れて見る」からに他ならない。すなわち、「経験」は、時間をかけて自らの中で変質しており、わずかに「歴史」化しているのである。

このように、いくつかの本について再読した時の印象の差異を細かく考察することで、自分の中にある「歴史」を抽出しようと試みたのが本書なのである。

なお、以下のメモで「著者」と書くときは、(取り上げられた本の著者ではなく)常に有馬学を指す。

第1章では、その本として小学校5、6年の国語の教科書が取り上げられる。「ぼくらの村」や「T・V・Aの話」といった題材が取り上げられるが、その要点は「綴方(つづりかた)教育」にある。綴方教育とは、「日常生活のありのままを書く」という一種の作文指導法である。「ぼくらの村」などは、まさにその綴方教育運動の中心を担っていた人たちによるものだった。しかしこれらを今見直してみると、国土計画と身近な改革によって社会が進歩していくという「ありのままイデオロギー(p.41)」に過ぎないように見える。

「日常生活のありのままを書く」指導を受けた(はずの)個別的な「経験」が、振り返ってみればありのままを書くという要素は極めて希薄で、それどころか国語の授業なのにイデオロギーを吹聴するものに過ぎなかったことが明らかになる。このようにして著者は「歴史」を語るのである。

それにしても、著者の記憶力は異常である。小学5、6年の国語で何を習い、何を思ったか、そんなことは漠然として覚えていないのが普通だ。私の世代で言うと、かなり印象的な宮沢賢治の“クラムボン”ですら、元のタイトル「やまなし」を覚えている人は僅かだし、カニたちがどうなったか記憶している人はほとんどいない(私もそうだ)。なのに著者は国語の教科書がどんな文章であったかを相当の精度で記憶している。本の再読という手法は、この記憶力の良さがものを言っている(=普通の人には不可能)。

第2章で取り上げるのは、むのたけじ『たいまつ十六年』と山口瞳『江分利満(えふりまん)氏の優雅な生活』である。

著者は若い頃『たいまつ十六年』を読んで魂をゆさぶられる体験をしたが、再読してみれば「イライラすることも少なくなかった(p.52)」。「黒歴史」と一緒である。なぜイライラするのか、それを細かく検証していくことが、「経験」がどう「歴史」に変質したかを探る作業となる。

『たいまつ十六年』は、反骨のジャーナリストむのたけしの自叙伝である。彼は農村のリアルを描き、社会矛盾を糾弾した。そしてその現実を変えるために日本共産党に入党し、政治家にもなった。いわば彼は「正義漢」なのだ。しかし著者が『たいまつ十六年』を読み直すと、「民族」よ団結し「独立」を勝ち取れ、のような主張には、当時から共感はしていなかったものの強い違和感があった。その主張は、(そうとは本書には書いていないが、)戦中のスローガンを変奏したものに過ぎなかったからではないか。

『江分利満氏の優雅な生活』は、サラリーマンという存在を活写した本である。戦前生まれの江分利満氏は、昭和30年代の社会をサラリーマンとして生きる。「優雅な生活」は反語であるが、それでも、どんどん豊かになっていった時代であり、サラリーマンを悲哀に満ちた存在などとは全然書いていない。だがその背景には、「個人の努力で豊かになったのではなくて、それは時代の趨勢に過ぎなかった」として、個人の人生に対する悪戦苦闘が無効化される風潮に対するそこはかとない反発があったように思える。「だって時代がよかったんでしょ?」そう言われれば終わり……なのか?

ここで著者は、「高度経済成長」という大文字の「歴史」に、個人的な「経験」から微妙な修正を迫ろうとする。それは、「サラリーマン」が高度経済成長という波に乗った存在として「歴史」的に位置づけられることへの異議申し立てであるような気がする。

第3章では、『暮しの手帖』、特にその中の「ほくさんバスオール」という移動型簡易シャワー付お風呂と、アラジンの「ブルーフレーム」(ストーブ)の検証記事が取り上げられる。高度経済成長の中で、たくさんの商品が粗製濫造された。それらを評価し、買うべきもの・買わないべきものを見極める指針となったのが『暮しの手帖』である。

これを読み直すことで見えるのは、『暮しの手帖』は一見冷徹に商品を評価するようでありながら、「その商品で満足せざるを得ない層」への配慮が働いていた、ということだ。今見れば明らかなその配慮が、逆に昭和30〜40年代の「歴史」を物語っていた。

ところで、『暮しの手帖』の花森安治は、戦中にはプロパガンダ広告を手がけていた(大政翼賛会宣伝部)のは有名で、それはほとんど『暮しの手帖』のスタイルを予言している。それは「ぜいたくは敵だ」のような言い切りの短いスローガン型ではなく、読者に語りかけ、考えさせるコピーである。

本書の主張とは少し違うが、著者の語る『暮しの手帖』から、私は「消費社会」に向けた方向性を感じた。昭和30〜40年代に『暮しの手帖』を読んでいた家庭は、「賢い買い物」をしようとしていた。『暮しの手帖』は「賢い消費者」になるための雑誌だった。賢い消費者は粗悪品を買わず、無駄遣いをせず、暮らしを美しく整える。しかし「消費者」であることそのものに欲望(つまり無駄遣い)が内包されていたのではないか。

著者は「ブルーフレーム」を皆が欲しがったのは、暖房器具が欲しいという実利的な理由より、「青い炎が美しい」という情動の方が先立っていたのではないかという。いかに「賢い消費者」であっても、それは「消費者」であることから免れない。消費者は製品を「評価」する。そこに、生産と消費を分離する現代社会の溝がある。消費者は、商品を評価する側に立っていながら、あくまで受け手にすぎないのである。そして『暮しの手帖』が「消費者」を創り出したことは、皮肉なことに「高度経済成長」の先の「大量消費社会」を準備したように思われる。

第4章では、萩元晴彦ほか『お前はただの現在にすぎない—— テレビになにが可能か』と小林信彦『テレビの黄金時代』を取り上げ、テレビについて考察している。

ここで著者は、ラジオをどう聞いていたかとか、自分の家にテレビが来た日、のような回想をやや丁寧に述べている。もちろん本書は同時代史を語る試みなので、本章以外にも回想は多い。ところが本章では、「こんなことを並べていてもきりがない? その通りだろう(p.131)」とか、「どうでもいい話をくり返しているように思われるかもしれないが、私はこういった些末な事情も、いやそれこそが、メディア体験を構成する要素だと思っている(p.138)」と言い訳(?)しているのが面白い。

というのは、著者はそれらを個人的な「経験」にすぎないと思っているのだが、我々から見るとそれこそが「歴史」なのだ。つまり著者が「こんなこと」とか「どうでもいい話」と思っていることは、この場合には「源頼朝の自叙伝」みたいな一級史料なのである(と私には見える)。にもかかわらずなぜ著者は読者がそう見なさないと思っているのか。それは逆説的だが、著者にとってその時代がまさに「経験」であって、未だ「ある程度の距離から離れて見る」ことができていないからに思われる。こういう些末なエピソードこそ、「ある程度の距離から離れて見」なくては、「歴史」としての重要性がわからないのではないか。

『お前はただの現在にすぎない』は、テレビ放送が開始してからわずか10年ほどで、業界人がテレビの本質に迫りつつあったことを示し、また『テレビの黄金時代』は、その頃からたった10年でテレビの黄金時代が終焉したことを述べる。テレビの黄金時代は1961年〜71年(あまく見て73年)だという。

黄金時代が終わったとはどういうことなのか、本書からは詳らかでないが、要はテレビの前に釘付けになる時代が終わったということなのだろう。高度経済成長のお陰で、人々はテレビという虚構の世界に夢を見るだけでは飽き足らなくなり、現実の楽しみ(私は「レクリエーション」という言葉を使いたい)に興じるようになっていた。テレビは「夢」ではなく、「日常」を描く装置になっていく。

第5章では、関川夏央『ソウルの練習問題—— 異文化への透視ノート』と『別冊宝島39 朝鮮・韓国を知る本』を取り上げる。

まず告白すると、私は韓国について全く無知である。だから、本章については正直なところよく分からなかった。『ソウルの練習問題』は、関川夏央がイデオロギー抜きに、韓国の普通の街と普通の人と出会った記録である。この「イデオロギー抜き」というところが重要で、それまでは韓国を語る時に何らかのイデオロギーが必ず混入するものだったのである(←このことすら私は知らなかった)。

関川はそれを意識的に排除して、いわば「体当たりで」異文化に接する。こういう態度は当時として画期的だったという。人は、何らかの枠組みを持って社会を見ている。では「韓国を見る枠組み」を取っ払ったら何が見えるか。それが「練習問題」なのである。そして『朝鮮・韓国を知る本』も、『練習問題』と同時期に出された本で、似た態度で書かれている。

しかしその内容より、私には気になったことがある。それは例えば「この本のPART 1は「同世代の韓国人たち」である。しかし「同世代の(北)朝鮮人たち」という章はないのだ(「朝鮮・韓国を知る本」だよ!)(p.165)」とか、「私ははじめて目にしたとき、『練習問題』と並んで『知る本』を画期的な本だと思い、その出現に感動した。がっかりさせて申し訳ないが、事実だから仕方がない。そう、当時はこのくらいで感動できたのですよ(p.166)」といった書きぶりだ。

前者の「「朝鮮・韓国を知る本」だよ!」というツッコミや、「当時はこのくらいで感動できたのですよ」という言葉が示すのは何か? 著者はなぜ「今から見ればレベルが低くても、そんな時代だったんです」という時代の弁明をしているのか? 世代がずっと下の私なら「当時としては画期的だった」の一言で済ますようなことを、いちいち著者は「そんな時代だったんです」と付け加える。それはまさに、著者がその時代を生きた人で、その時代から「ある程度の距離から離れて見る」ことができず、いちいち弁明したくなってしまうからだと私は思う。面白いことに、本書は後半になるにつれ、この種のことが多くなる。著者は「経験」を「歴史」として語ろうとしながら、その時代を完全には客体化できないということなのか。

その意味するところはともかく、これは読んでいる方としては面白い。このようなことを付け加えたくなるのは、著者が紛れもなく同時代人であることを物語っているからだ。

第6章では、辻豊・土崎一『ロンドンー東京5万キロ—— 国産車ドライブ記』と徳大寺有恒『間違いだらけのクルマ選び』を取り上げる。

『間違いだらけのクルマ選び』は他の本とちょっと違う。それは単発の本ではなく、1976年からほぼ毎年刊行されたのだ。これでクルマを巡る価値観がどう変わったかを検証できる。その要点は、当初はオリジナリティも実用性もない(のに無駄な装飾は多い)と酷評されていた国産車だが、その刊行の終点あたり(80年代後半)には、オリジナリティはなくとも、安く完成度が高いものならばよい、と肯定的に変化したということである。そして徳大寺は「普通グルマ」という「車のことなど忘れていられる」というありふれた財としての車が理想のものだという評価へ落ちつくのである。

私には、その価値観は大きく変わったようには思わないが(というのは、実用性を第一に考えるという点で徳大寺は一貫している)、同時代を生きた著者はそこに微妙な差異を読み取る。それは、「昔の国産車は、ユーザーの要望に応じて無駄な装飾を付けていたわけで、そこにはユーザー側の責任も大きかった。今の車は、ユーザーの要望に応じて実用一点張りになっている。ユーザーの要望に応えるという意味では同じだが、今のユーザーの要望は健全になっている」というような、(製品ではなく)ユーザーへの評価の変化が伴っているとみるからだ。

要するに、資本主義・大量消費社会ではユーザーとメーカーには一種の共謀関係が成立するが、 それが成熟してくると悪くないところへ落ちつく、ということなのだろう。『間違いだらけのクルマ選び』は、ユーザーとメーカーとの共謀関係が、どう変化し落ちついていったかを、その共謀関係からは一歩引いたところにいた徳大寺が克明に記録した本だと言えるのである。

ところでここでも、著者の「時代の弁明」が私には面白い(←意地悪な読者である)。『ロンドンー東京5万キロ』は、朝日新聞の企画で国産車(トヨペット・クラウン)でロンドンから東京まで走破するドキュメントであるが、「連載の開始にあたって掲載された社告のような記事(一面だぜ!)(p.212)」は、「「辺地」だの「めずらしい風物」だの、営業部の筆になるとしてももう少し洗練された表現を望みたいというのは、こんにちの目である(同)」と著者は述べる。

前半、括弧内で「一面だぜ!」というのは、おどけてツッコミを入れているようであるが、反面では「こんな企画でも一面で取り上げられる時代だったんですよ」という照れ隠しだと見えなくもない。さらには「…のは、こんにちの目である」というが、 わざわざそんなことを言わなくても普通の乗用車でロンドンから東京まで走破する(しかも当時は今と比べものにならない悪路続きなのだ)というのは今から見ても十分にすごいし、表現に時代を感じるというのは当たり前ではなかろうか。

このように、同時代を生きた著者だからこそ、言葉の端々に「当時のことは割り引いて見なければならない」という(しばしば過剰な?)抑制を働かせている痕跡がある。これはやはり、その時代から「ある程度の距離から離れて見る」ことができていないことを示唆している。章が進むにつれ(すなわち時代が進むにつれ)、「歴史」を語ろうと努めていた著者は、いつのまにか「時代の弁明人」になっていくのである。このスタンスの微妙な変化は、私にとって極めて興味深い。

終章では、山田風太郎『戦中派不戦日記』・『滅失への青春——戦中派虫けら日記』を取り上げる。 

これらは、山田風太郎が戦後に刊行した、自身の戦中(および戦後直後)の日記である。本書(『「戦後」を読み直す』)は、「かつて私が読んだ本をかなりの時間を距てて再読することで、その間の時間的距離の測定を試み、それを通して私自身が生きた時代を歴史としてとらえ直すという、かなり面倒でひねくれたもの(p.231)」であるが、これらの本は、再読しても印象が変わらなかったという。

本書の方法論からは、再読した時の印象の差異によって「時代的距離の測定」を行うのであるが、本書の場合は「なぜ今になっても読後感が変わらないのか」ということを考えることで「歴史」を述べようとする。その答えがはっきり書いているわけではないが、それは山田風太郎が「等身大の日記」を残しているからではないだろうか。

「不戦日記」と銘打ってはいるが、山田風太郎は反戦派ではなかったし(かといって戦争翼賛でもない)、当時の若者が書く妙に立派な文章とも違って、だらしなくダメなのだ。数学の試験が空襲警報によって中止された時には「大東亜戦争は余のこの日のために勃発したるにあらずやと感涙にむせぶ(p.251)」とまで書いている。これぞ青春の身勝手さである(笑)。

こんな「等身大」さは、きっと時代を超越している。イデオロギーや消費の在り方や、メディアとの付き合い方や外国への向き合い方といったものは、時代につれて変わっていく。だが「等身大」の若者は、どんな時代でも似たようなものなのだ。著者はこういう風に『戦中派不戦日記』を読むわけではない。だが私にはそんな風に理解する方がしっくりくる。

ところで本章のキーワードの一つは「自註」である。中井英夫の戦中日記『彼方より』が、戦後に中井自身の註記を付して刊行されていることに触れ、「戦後の註記こそは、(中略)私たちがそれだけの時間を経て読むことに自覚的であるべきことを促すものである(p.255)」という。

中井はどんな註記を施しているかというと、例えば少年航空兵を軽蔑して「要は彼らにただ黙って死なせることだ」、などと嘯いている戦中の日記に対し、「このいい方は、いま書き写しながらも不愉快である。(中略)その彼をも職業軍人として見ていたのかと思うと、心の狭さが情けないが、ともかくもこのとき、私は軍人を憎むことにけんめいだったのである(p.254)」と自註した。中井にとって、この日記は「黒歴史」だったのかもしれない。それに自註を付して刊行したことは、中井の強靱な精神を窺わせる。中井は自らの「経験」を、自註を付すことで「歴史」にしたのだ。

本書は全体として、たいへん緻密である。著者は「経験」を掘り起こすとともに、取り上げる本が歴史的にどう位置づけられるか考究する。一方、私は、著者のその考察が、私の感覚とどう乖離しているかを見ることで著者の「戦後」を感じた。著者にとっては「戦後」は、自らの「経験」と相即不離にあるが、1982年生まれの私にとって「戦後」は最初から「歴史」なのだ。だから著者が語ろうとする「戦後」と私の中での「戦後」の差異を微細に測定すれば、「経験」が「歴史」に変わろうとする力学を感じ取ることができるはずだ。少なくとも理論的には。

その作業の一部が、著者の「時代の弁明」に注目することであった。もちろんこれは本書への向き合い方としてはひねくれている。

だが著者が自分で「かなり面倒でひねくれたもの」だと言うとおり、本書も一筋縄ではいかない本だ。正直にいって、著者が「再読」という方法論で描いた「歴史」とはなんなのか、私には読解できなかった。というのは、私には本書を読解するために必要な戦後史の知識が欠如しているのだ。

とはいえ大雑把にまとめれば、戦後の「歴史」とは、「高度経済成長に続いて大量消費社会が確立し、その背後に平和憲法と国際協調主義があった」というものだろう。一方で、個人の「経験」には、高度経済成長も大量消費社会もなく、平和憲法も国際協調主義もなかった、というのが本書の言いたいことの一つ(のごく一部)だ。しかし、それが「高度経済成長」や「大量消費社会」という「歴史」のキーワードを修正するものであるかというとそうではない。

モザイクのピース一つひとつには「高度経済成長」などはないのだが、モザイクを離れて見てみればやっぱり「高度経済成長」が見えるからだ。では本書は「戦後」を読み直して、何を見たのか。著者はそこに大上段の結論を持ち出さない。それはむしろ(本書の主張とは真逆だが)、自分が生きた時代を「歴史」にされること(歴史家としては「「歴史」にしなくてはならないこと」)への弁明であるのではないだろうか。

弁明という言葉が言い過ぎなら、それを著者に倣って「自註」と呼ぼう。著者は後半になるにつれて「時代の弁明人」になると書いたが、それは時代から「ある程度の距離から離れて見る」ことができないというよりも、「経験」に自註を付けることによってそれを「歴史」化しようとする、著者の苦闘の跡だったのかもしれない。中井英夫がそうだったように。

著者も「私たちは中井の自註に代わるものを自分で創るしかないのである(p.256)」という。 

本書は、戦後史の見方に大きな変更を迫るものではないが、同時代を生きたものとして、それにせめて自分なりの註を付けさせてくれという静かな要求をしている本なのかもしれない。その弁明・自註にこそ、私は「経験」のリアル、「歴史」のリアルを感じるのである。  

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2024年10月11日金曜日

『往生要集(上下)』源信 著、石田 瑞麿 訳注

往生のための理論書。

『往生要集』は、往生のためにはどうすればよいかを、仏典を縦横無尽に引用して論証した本である。この本を一読して感じることは、その圧倒的な学知である。仏典の引用は恐ろしいほど広範囲で、平安時代の仏教学のレベルの高さには驚愕するほかない。源信が圧倒的な学匠だったのは確かだとしても、これが理解されうる仏教界であったということだ。本書は石田瑞麿による詳細な訳注があるから私のようなものでもなんとか読むことができるが、もしなかったら意味をつかむことすら難しい。仏典についての該博な知識を前提にしなくては読むことすら困難なのが『往生要集』だ(例えば冒頭の「等活地獄とは、この閻浮提の下、一千由旬にあり(上p.12)」=閻浮提とか由旬とかを知っていることは前提だ)。

しかも、本書は源信の師、良源の死の前後5か月という短い時間に集中的に執筆されている。もちろん、それには周到な準備期間があったに違いないが、それにしても引用を書き写すだけでも大変な手間がかかったはずだ。とても5か月で書けるような本ではないのである。このような本がたった5が月で執筆されたことは、人類史的に稀有なことだ。

また、本書は10という数字にこだわって編集しており、全体を10章に分け、またその中でも随所で10の小項目に分けるなどしている。10という数字に意味があるのかどうかはともかくとして、綿密な構成の上に論証を書いているという雰囲気が強いのである。

以下、全10章について(とても内容を簡約することなど不可能なので)感じたことを中心にメモする。なお本来は「大文第一 厭離穢土」などと表記されるが、ここでは簡単に章番号を使う(『往生要集』は元来上中下の三巻であるが、以下のメモで(上p.117)などとするのは、岩波文庫の上下である)。

1.厭離穢土

『往生要集』といえば、この巻頭に置かれた地獄の描写が著名である。源信は多くの仏典から地獄の情報をまとめ、体系的に地獄の様子を明らかにした。それはダンテの『神曲』に比されることもあるが、『神曲』が政治的なムードがあるのに比べ、こちらは非政治的であり(具体的に誰が地獄に堕ちたとかは言わない)、また庶民的でもある。例えば「鹿を殺し鳥を殺せる者(上p.14)」が落ちる地獄とか(等活地獄の一部分)。そして妙に具体的な区分の地獄は、なんだか笑ってしまう。例えば「昔、羊の口・鼻を掩(ふさ)ぎ、二の(かわら)の中に亀を置きて押し殺せる者(上p.16)」が落ちる地獄(同じく等活地獄の一部分)などは、「そんなやついるの?」と誰でも感じるだろう。

こういう、妙に細かい区分の地獄もあれば、殺生・偸盗・邪淫(寺院では男色は女犯に比べ許容されていたが、男色も罪であり地獄に落ちる)などといった普通の区分ももちろんある。

そして、先ほどは殺生だったので地獄行きは納得できるが、「酒を売るに、水を加へて益せる者(上p.26)」とか「酒を以て人に与へ、酔はしめ已(おわ)りて、調(あざけ)り戯れ、これを弄び、かれをして羞恥せしめし者(同)」が落ちる地獄なんかは、「そこまで悪いの?」という気がする。割と微罪でも地獄に堕ちて長期間の刑罰を受けなくてはならないらしい。ともかく、いろいろなことで地獄行きになってしまうとなれば、これをなんとか避けなければならないと思うのが人情である。しかもこれは源信の独断ではなく、数々の仏典に縷々記述されていることなのである。

次に餓鬼道が説明される。地獄よりちょっとマシな世界だ。例えば「美食を独り占めしたもの(意訳)」がここに堕ちる。「陰涼しき樹を伐り、及び衆僧の園林を伐りし者(上p.50)」なども餓鬼道だ。地獄に落ちるほどではないが、自分本位なものがこちらへゆく。

畜生道、阿修羅道の説明は地獄に比べるとはるかに簡略である。源信はこの二つにあまり興味がなかったのか、それとも仏典にそもそもあまり書いていないのかは不明である(畜生道は皆がよく知っているから省略したのかもしれない。『日本霊異記』では畜生道に堕ちる人が多い)。人間道の説明はそれよりも丁寧だが、地獄よりはずっと短い。その要諦は、人間は不浄だ、ということに尽きる。

では天道はどうか。天道は人間道に比べればずっと寿命も長く、安楽な世界である。しかしそれでも、永遠の命ではない。結局死はやってくるのである。「この苦は地獄よりも甚だし(上p.70)」いと源信はいう。天道においても身は不浄であり、無常であり、苦は避けがたいのである。

しかしながら、当時の日本人が不老長寿や清浄性に憧れていたのかどうかは、本書からは窺えない。普通の人間にとっては天道は十分にパラダイスだと感じるところ、源信は「いやいや、天道じゃあまだ物足りないんですよ」という調子で説得しているような気配がある。

なお、この部分の論考の本筋ではないが「たとひ仏教に遇ふとも、信心を生ずることまた難し(上p.74)」という一文を指摘したい。私の『往生要集』を読む上での関心の一つは、この「信心」の扱いにある。「往生には信心が必須なのかどうか」を源信がどう考えていたのかを知りたいのだ。

2.欣求浄土

本章では一転して極楽浄土のすばらしさが喧伝される。それは、無限に心地よく、全てが思うままになる清浄な世界である。これもかなり具体的な描写で、「誰が見て来たんだ?」と思うような記載が多いが、当然ながら地獄の描写に比べて迫力は劣る。正直、やや退屈である。

ここでまた注目すべき記載がある。「もし[文殊の]名を受持し読誦することあらん者は、たとひ重障ありとも(中略)常に他方の清浄の仏土に生まる(上p.115)」としたり、「一念も[弥勒菩薩の]名を称する者は、千二百劫の生死の罪を除却し(同)」とある一方で、観世音菩薩は「わが名号に於て心を至して称念することあらん(上p.117)」 とある。前二者ではただ念じたり、名を称えるだけで効果があるのに、後者では「心を至して」という心の在り方が問題になっている。客観的な行動だけでなく、内面の在り方が問題になっているのである。

ともかく、これから論考していくのは、このすばらしい浄土にどうやって往くことができるか、ということである。

3.極楽の証拠

これまでの記述も、実は問答が基本になっていたのだが、本章は最初から問答である。その疑問はまず「十方に浄土があるのに、なぜ極楽(阿弥陀の浄土)だけを求めるのか」である。本書は、この種の問答が多いが、それらの問は鋭いものが多く(得てして答えよりも気が効いている!)、それが論考の都合上の源信の自問自答ではなく、切実な疑問であったことが窺える。

次の疑問は「弥勒の兜率天の方が阿弥陀の浄土よりいいのでは?」というものだ。当時は弥勒の兜率天の人気が高かったらしい。これらの問いは、私にとってはあまり興味の湧くものではないのでつぶさに読解していないが、その答えの要点は「阿弥陀の浄土は念仏によって行くことができるのだから、より行きやすい」ということに尽きるようだ。いかに素晴らしい浄土が他にあったとしても、行くことが非常に難しければ絵に描いた餅である。

4.正修念仏

本章では念仏のやり方について説明する。 当時、念仏は数をこなさなくてはならないという考えがあった。日常生活全てを犠牲にしなくては達成不可能なほど何万回も称えることが必要だというのだ。それを源信はきっぱり否定する。「多少を論ぜざるも、ただ誠心(じょうしん)を用てせよ(上p.153)」という。数の多い少ないではなく、がこもっているかどうかだという。

そして念仏のやり方というのは、作法というよりも心の在り方、もっと言えば世界認識の仕方に傾いている。念仏は身口意(しん・く・い)で行うが、意業(いごう)、すなわち心が大事だという。無量寿経の「要(かなら)ず発菩提心を須(もち)ふることを源となす(上p.159)」を引いて、「菩提心はこれ浄土の菩提の綱要(上p.160)」と述べる。

さらに荘厳菩提心経を引いて「菩提は即ちこれ心なり。心は即ちこれ衆生なり(上p.163)」だと、唯心論的な世界認識を述べる(正確に言えば「唯識」である)。さらに大智度論からは「心、清浄なることを得るは菩薩の教なり(上p.166)」として、心の清浄性が重要視されている。これらは、如来蔵思想(すべての衆生には如来としての性質が内在しているという思想)に基づいている。

ここで問があり「煩悩・菩提、もし一体ならば、ただ応に意(こころ)に任せて感業を起こすべきや(上p.168)」という。如来像思想では、煩悩にまみれた衆生の実相が、即ち菩提であるという認識論的な観念があるが、だとすれば、ことさらに菩提を求める必要はなく、煩悩にまみれたまま、ほしいままに振る舞えばいいではないか、という当然の疑問だ。これに対し源信は、「煩悩と菩提は一体だが、水と氷、種と果実のように別の次元にあるのだから、同一視してはダメだ」といったことを述べている。

そして、凡夫は難しい修行・儀礼などを勤修することは難しいから浄土など願っても無駄ではないか、という問に対しては、「昇沈の差別はにありて、行にあらざること[なし](上p.171)」という。何をするかではなく、心が大事だというのだ。私などには、客観的に判定できる「行」の方が、捉えどころのない「心」よりもずっと簡単に感じるが、源信は心を用いることなら凡夫でもできるという。

しからば「いかにして心を用ふるや(上p.172)」というと、これも源信はいろいろ述べているが、結局は「無理にでも念仏をすることで心は変わっていく」ということのようである。しかし「凡夫は常途(じょうず=常日頃)に心を用ふるに堪へず(上p.175)」と問は言う。これは鋭い問いである。それに対し、源信ははぐらかしているような答えである。

そもそも、煩悩をなくすことができないから凡夫なのだ。どうやって心を用いるのか。長々とした議論があるが、その中で面白い理屈が表明されている。華厳経を引いて「菩提心も一切衆生のもろもろの煩悩の病を滅す(上p.186)」という。普通、煩悩を滅して菩提心に至る、と考えるのであるが、これは菩提心を起こしたら煩悩がなくなる、という逆転の論理なのだ。煩悩をなくすのは無理でも、一念の(常途ではなく!)菩提心を起こすだけならできる、という理屈だ。「もし智慧ある人、一念、道心を発(おこ)さば、必ず無上尊と成る(上p.188)」。ここで「智慧ある人」に限定されているのは気になるが、「一念」だけでよいなら、これは凡夫にも不可能ではなさそうである。

さらには、出生菩提心経を引き「寺を造ること(中略)またもろもろの塔を造ること須弥の如くせんも、道心の十六分に及ばず(上p.190)」という。

では、「願」(心)だけがあって、「行」がない場合はどうなるのか。これは仏典(浄土十疑論・大乗阿毘達磨雑集論)では「別時」(未来)に叶うとしている。これに対して源信は、ここでは仏典を一切引かずに「菩提心は無量の罪を滅するのだから、心で浄土を求めさえすればすぐに浄土へ行ける(意訳)」(上p.195)という。異常に仏典を引用する本書の中で、全く引用せずに考えを述べているのは注目される。

しかしこの答えへの反問が面白い。「大菩提心にもしこの力あらば、一切の菩薩は初発心より決定(けつじょう)して、応に悪趣に堕する者なかるべし(同)」というのだ。まさにその通りである。一念の菩提心を起こすだけで往生できるなら、「1.厭離穢土」で描かれたような地獄にいく者は誰もいない。この問に対し、源信は仏典を引くことができず「且(しばら)く愚管を述べたり」として自説を述べる。その要諦は、「ただ極楽を願うのは、自分の安楽を求めているだけだから自利の行であって菩提心ではない」ということである。これは大乗仏教の基本的考え(大乗とは、自らだけでなく広く人々を救うことを目的とする)ではあるが、苦し紛れの説明のようにも思う。問の方が答より鋭い。さらに例えば「一心に念仏すれば往生するならば、なぜ経典や論書では菩提の願を勧めているのか」といった問には真正面から答えていない。

このあたりは、念仏が内包する矛盾を鋭く突いた問答であって、明らかに源信側に論理的な弱さがある。それでも、自説の弱点をわざわざ突くような問を掲載し、論理的に弱くてもなんとか説明しようとする態度は、宗教者としてあっぱれとしかいいようがない。私は本書を読みながら源信のことが大好きになってしまった。

こうして心の問題を議論してから、次に念仏の具体的なやり方に話が進む。今では念仏といえば「南無阿弥陀仏」を称えることと決まっているが、この時代の念仏は、文字通り「仏を念じる」というイメージトレーニング的なもの(観想)がメインである(ただし称名念仏もある)。そこで何をイメージするかというと、初学者はまず色相(仏の外面的な姿)からである。よってここでは、阿弥陀仏がどういう姿であるかを非常に細かく説明している。

次に、少し抽象的なイメージに移る。これは天文学的(?)な世界観であったり、超越的なイメージである。仏の体がどうこうというならまだイメージができるが、仏の眉間にある白毫が「七百五倶胝六百万の光明あり。十方面に赫奕(かくやく)たること、億千の日月の如し(上p.236)」と言われても、なかなかイメージできないと思う。源信の勧めるイメージトレーニングは、かなり難しいというのが実感である。

少し救われるのは、こういう観想を「麁心にして(=心が集中していなくて)像を観ずるも(上p.242)」効果はあるとしていることだ。だがもちろん、源信は「念(おもい)を繋けて、仏の眉間の白毫相の光を観ずる(同)」ことを勧める。「心がこもっていなくても効果があるのだから、心を込めてすればもっと効果がある」という理屈だ。

なお、当時は浄土のありさまを観ずる修行が多かったが、源信はそれは進んだ段階の修行だとして、仏の姿を観ずることを勧めている。この「4.正修念仏」が『往生要集』の中心である。

5.助念の方法

前章で説明された念仏(観想念仏)は、なかなかに難しいものであった。この実施を助けるための種々の方策が本章に述べられる。例えば、花、暗室(気を散らさないため)、念珠、体の姿勢など、いろいろ整えることが大事だという。しかしそれらを全部整えて、さらに精神を集中して念仏を称えるとなると、普通の人にはかえって難しい。そこで「在家の人は念仏の行に堪へ難からん(上p.257)」という疑問になる。易行(やさしい行い)であるはずの念仏が、実は難しいのである。

これに対し源信は「もし世俗の人、縁務を捨て難くは、ただ常に念(おもい)を西方に繋けて、誠心(じょうしん)に応にかの仏を念ずる(同)」ことが大事だという。また「誠心」が出てきて、どうも議論が循環的になっているようだ。だったら、これまでの観想念仏の煩瑣な方法は必要ないのではないか。心なのか、行なのか、はっきりしない。

こう読者が思い始めた頃、源信は涅槃経を引いて「阿耨(あのく)菩提は信心を因となす(上p.260)」として「道を修するには信を以て首(はじめ)となす(同)」と述べる。やはり重要なのは心であり、しかも信じることだという。これは「4.正修念仏」でさんざん論議した心の問題と、似てはいるが少し違う。心の清浄さとかではなく、信じること、疑わないことが大事だというのは、精神集中などとは一線を画す認識ではないだろうか。初期仏教の頃から、煩悩をなくすとか菩提心といった、内面の陶冶が重視されてきたことは疑いないが、信じることによって救済が与えられるとする観念はそれと別種のものである。「心」と「信」のどちらを重視するかは、似ているようで違いは大きい。私には、源信は半ば意図的に「心」を「信」にすり替えていっているように思える

さらに源信は、なかなか実践が難しい念仏を継続して行うため、阿弥陀仏の功徳を説明する。仏がどんなに素晴らしいものかを理解すれば、念仏を継続したくなるだろうという配慮(!?)である。 ここでは当然に仏の救済力が強調されているが、その他にも自由に空を飛べる(上p.277)とか、万能の力がある(上p.279)とか、どんな障害があっても見通す千里眼がある(上p.283)とか、人の心が読める(上p.285)といった特徴があり、これらはほとんどキリスト教の神の全知全能に近い。特に人の心が読めるのは大事で、であればこそ「阿弥陀如来は必ずわが意業を知りたまふ(同)」のである。心で念仏しても阿弥陀仏にはお見通しなのだ。

そして全知であるから、「衆生は[仏を]見たてまつらずといえども、実に諸仏の前にあり(上p.295)」。仏は我々の行動や心をいつでも見ているのである。 この仏の能力は、心を重視する源信の論議の土台となっている。

次いで、念仏についての補助的な議論に移る。その中で華厳経を引いて「如来の自在力は、無量劫にも遇ふこと難し、もし一念の信を生ずれば、速かに無上道を証す(上p.307)」とあるのは気にかかる。 仏に遇うのは難しいが、一念の信だけで無上道に至れるというのは、どことなく詭弁的だ。また「4.正修念仏」では「一念、道心を発(おこ)さば(上p.188)」だったのが、ここでは「一念の」になっている。ここでも「心」から「信」の転換がある。

さらに議論は「戒」に移る。これは当時から大問題になっていたことである。念仏のみで往生できるならば、持戒は必要ない。だから念仏者は悪いことを平気でする、というのが反念仏(例えば興福寺)の主張だった。「興福寺奏状」(念仏者を批判するもの)は源信よりもっと後の時代だが、おそらくそうした批判を念頭に置かれて書かれているため、源信は持戒を必要なものと述べており、戒を破るものは地獄に落ちるとしている。

ここでクリティカルな問「仏を念ずれば罪を滅す。なんぞ必ずしも堅く戒を持(たも)たんや(上p.321)」が放たれる。念仏で往生できるなら、なんで持戒の必要があるのか? これへの返答は大変苦しい。要するに「念仏は確かに罪を滅するが、念仏がいつでもできるとは限らないじゃないか」というものだ。先ほど述べたように、源信の念仏は簡単なものではないからだ。念仏は易しいのか、難しいのか、源信の言説は揺れ動いているように見える。

続く議論も興味深い。煩悩への対処法について述べた後、「煩悩と菩提は一体であるという真理に思い致せ」(上p.327)としつつ、それでも煩悩によって生じた罪は懺悔(さんげ)によって消滅させるべきと言う。これに対する問がいい。「ただ仏を観念するに、既に能く罪を滅す。何が故ぞ、更に理の懺悔を修するや(上p.332)」。仏を観念すれば滅罪するのに、なぜわざわざ懺悔などしなければならないのか。こういう素直な、だが難しい疑問をしっかり掲載するのが源信の良心である。ちなみに、予想されるようにこの問への答えもずいぶん苦しい。正直に言うと私にはその回答の意味が摑みづらいのだが、どうも「いちいち懺悔せよとは言っていない。真実の道を歩みたかったら、悪いことをしたら懺悔したくなるじゃありませんか」ということらしい。

このあたりも鋭い質問ばかりで一問一答でここにメモしたいくらいである。源信の答えよりも、むしろ質問の鋭さの方に惹かれる(もちろん、質問を作っているのも源信なのだが!)。 例えば「懺悔をして罪がなくなるなら、なぜ経典には戒を犯したら懺悔しても三悪道の罪は免れないなどとあるのか」と経典との矛盾を突く部分(上p.326)など、源信自身の苦悩を表しているのかもしれない。これには「方便なのではないか」とやはり苦しい回答をしている。

次に、心を乱すものとしての魔について述べる。仏教では、悟りの道を邪魔するものとして悪魔(マーラ)が考えられたが、源信は魔を実体としてではなく心の在り方として捉えている。「閲叉(えっしゃ)・鬼神」といったものも議論には登場するが、結局は「魔界も仏界も及び自他の界も、同じく空・無相なり(上p.344)」なのだ。

そしてこれまでの議論をまとめた結論部分が来る。結局、往生の要はなにか? 源信は「大菩提(仏の悟りを得たいと願う心)」と「三業を護る(身体・口・心の行為を正しくする)」と「深く信じ、誠を至して、常に仏を念ずる」の3つだという(上p.347)。つまり源信の段階では、未だ念仏だけに頼るという考えではないのだ。しかしながら、「往生の業は念仏を本となす」(後に、法然が『選択本願念仏集』の劈頭に冠した言葉)。一番大切なのは念仏であり、念仏をする「心」には、「深く信ずる」と「誠を至す」と「常に念ずる」の3つが付随するべきだ、というのである。 

「誠を至す」と「常に念ずる」はいいとして、やはり「深く信ずる」が私には気になる。先ほどの議論では単に「信」だったのが、いつのまにか「深く信ずる」になっているのも、初めは圧倒的な学知による学術的な議論だったはずが、だんだん源信の「信仰」へと傾斜していっている感じがするのである。

「宗教」なんだから信仰は当たり前じゃないか、と人はいうかもしれない。だが当時の人は仏教を文明・科学として捉えていた(と思う)。それは重力の法則や化学反応のような、人の心とは関係なく存在する真理であった。重力の法則を信じていない人は、高い所から落ちません、というわけにはいかないのである。信じようが信じまいが、確乎として存在していたのが仏教の真理であった。

「往生」も、今では観念的なものであるが、当時の人は実証的に捉えていた。 死の際にかぐわしい香りが漂ったとか、天上から音楽が聞こえてきたとかいうことがあって初めて往生したとみなされた。「往生」のために必要なことも、心の在り方などではなく、例えば阿弥陀像から五色の糸を自分の手に結びつけるとか、西方に向かって端座するとか、臨終の際に大勢の僧侶を呼んで読経するといったような、様々なプロセスを踏むことが浄土への行きかたであると説かれていた(源信自身、次の「6.別時念仏」でこの方法については詳述している)。

それは、ちょっと変な例だが、洞爺湖への行き方、というようなものと似ている。まず飛行場へ行き、○○行きの飛行機に乗って、北海道についたら電車で…というように段階を踏めば、誰でも洞爺湖に着くことができるのである。洞爺湖への行き方を信じていなければ洞爺湖に行けない、ということであれば、真っ当な道案内とは言えないだろう。

ところが源信の主張は、意地悪に言えばそういうことだ。それは、洞爺湖への交通費は高額だから普通の人には行けない、だから違う行き方を考えよう、ということだったのかもしれない。彼は費用のかかる法事ではなく、心の在り方、「信じる力」によって往生する方法を編み出した(もちろん彼一人の独創ではなく、正確に言えば源信はそれを学究的に論証し体系づけた)。それは、交通費を出して交通機関を使い洞爺湖に行くことが当然(それ以外ない)と思っていた人々にとっては、眉唾物の手法であったに違いない。「本当にそんなことで往生できるとは思えない」というわけだ。

この疑いがあったからこそ、源信は「信」を強調するようになったのだろうと私は感じる。念仏による往生へ疑いを向ける人々に対して、源信は「信じなくてはこの方法は無効になるのですぞ」と諭しているのである。 しかし仏教が科学のような客観的真理であれば、信じる信じないは問題にならないはずだ。実際、時代は下るが念仏を突き詰めた一遍は「信不信を選ばず」(信じていようが信じていまいが念仏の力は同じ)と喝破している。

6.別時念仏

ここでは通常の念仏と、臨終の際の念仏をどのように行うかそれぞれ述べる。そこで源信は善導の書を引用して「阿弥陀経を誦すること十万遍を満たし、日別に仏を念ずること一万遍せよ(下p.15)」という。一日一万回念仏が必要だというのだ。これは「4.正修念仏」での主張と違う。やはり念仏は回数なのか? だが議論はまた「心」へ傾斜していく。

そして臨終の際については、先述の通り、往生に必要となるプロセスを事細かに説明している。もちろん、儀式的なところも多いが、それ以上に心の在り方もかなり詳細を極める。阿弥陀仏が来迎することを具体的にイメージしなさいということを中心に、10項目の具体的な心の持ち方・イメージを臨終の際に護持しなければならない。これらは死にかけた人にはとてもできそうもない。だが「臨終の一念は百年の業に勝る(下p.45)」として、まさに臨終の際の心が大事だと源信はいう。臨終の一瞬より、それまでの人生をどう生きたかの方が大事だと思うのは私だけだろうか。

ちなみに議論の本筋ではないが、臨終の場所に「酒・肉・五辛(ニラなどの香味野菜)を食せる人をあらしめるなかれ。(中略)(もしそういう人がいたら)即ち正念を失ひ、鬼神交乱し、病人狂死して、三悪道に堕せん(下p.32)」というのはずいぶん理不尽に感じた。こういうのを超克するのが念仏であるというのではなかったか。

7.念仏の利益(りやく)

ここでは念仏の7つの利益を説明する。これまでの議論でも念仏の利益は説明されているので繰り返しのような内容も多い。

7つの利益の筆頭が「滅罪生善」であるが、念仏をすると「九十六億那由他恒河沙微塵数劫(※非常に多いこと)の罪を除却せん(下p.55)」というのは気にかかる。念仏だけでこんなにも罪が消えるなら、念仏者が「いくら罪を犯しても大丈夫だ」と思うのもしょうがない。後の興福寺の言うとおりである。

その他の6つはいちいち挙げないが、途中「名号念仏」の利益の話が出てくるのが興味深い。先述の通り源信の念仏は難しいイメージトレーニングだが、「衆生は障(さわり)多ければ、観(※観想念仏)成就し難し。(中略)ただ専ら名字を称せよと勧めたまふ(下p.65)」。本当は観想念仏をすべきだが、それは普通の人には難しいので名号念仏でも十分効果があるという。

そしてまた心の問題が出てくるのだが、観仏経を引き「もし心を至して、(中略)仏の色身を観ぜば、当に知るべし、この人の心は仏の心の如くにして、仏と異ることなけん(下p.70)」という。観想念仏によってその人の心は仏と同じようになるというのは、面白い主張である。さらに法華経の偈を引いて「もし人、散乱の心もて、塔廟の中に入るも、一たび南無仏と称へんには、皆已に仏道を成ず(下p.73)」というのは、心の在り方がどうであれ、南無仏と称えるだけでいいというのだから、これまでの主張とずれる。次いで「いまだ菩提心を発(おこ)さざらんも、一たび仏の名を聞くことを得ば、決定して菩提を成ぜん(同)」というのも、どうも前半の議論と齟齬していると思う。

一方、観無量寿経を引き「心に仏を想ふ時は、(中略)この心、作仏す。この心、これ仏なり(下p.75)」と、心=仏と言う。さらに往生論の註を引き「心の外に仏なきなり(同)」、大集日蔵分を引き「諸仏如来も即ちこれわが心なり(下p.76)」と述べる。このあたりは唯心論的(唯識的)で、さっきの「散乱の心でもよい」という態度とはかなり異なる。源信の心に対する考えは揺れ動いているように見える。

ただし、心を込めて念仏するほうがいいというのは当然で、先述の「心を至し」は随所に出てくる。本書は多くの経典を引用するので、統一されないそれぞれの「心」の捉え方が本書にはたびたび表明される。だからこれは源信の考えが揺れ動いているのではなく、単に多様な考えが盛り込まれているだけなのかもしれない。

8.念仏の証拠

本章では、善行ではなく念仏を勧めるのはなぜかを説明する。それは、善行を勧めないというのではないが、少しの善行よりは一日でも念仏をする方が利益が大きいというものである。なお本章は他章に比べ極端に短い。

9.往生の所行

源信は、念仏さえすれば往生できると確信はしていない。よって本章では、読経、誦経など念仏以外に往生に役立つことを述べている。本章も他章に比べ極端に短い。

10.問答料簡

本章は全部が問答形式である。いわば「よくある質問」のようなQ&A集だ。この問答は、予定調和的なものではなく、実際に源信が直面していたものなのだろう。例えば経典間の矛盾を突く質問などは、その質問を掲載していること自体が面白い。

仏典は歴史的にいろんな人が形成に与ってきた。ということは、当然矛盾も多い。仏教ではそうした矛盾を「方便だ」としてあまり深刻に受け取らなかったのだが(どちらの方が正しいのか、というような議論はされなかった)、一歩離れて見てみると「二経、何が故に同じからざるや(下p.144)」という態度の方が自然である。

また、すでに別の箇所でも同様の問答があったことを述べたが、「一たび[仏の]名を聞くすらなほ成仏することを得といふ。いわんや暫くも称念する、なんぞ唐捐ならんや(下p.159)」、つまり「仏の名を聞くだけでも成仏できるなら、称名念仏は無駄では?」というような疑問はごもっともである。こういう問答は読んでいて楽しい。「生まれてこのかた悪事ばかりして一切善行を行わなかったものが、臨終の時にわずかに念仏しただけで罪が滅して浄土にいくなんておかしくないか?(意訳)」(下p.177)という疑問なども至極当然のものだろう。

これに対する源信の回答は、いろいろな事例を引いて説明しているが、論理的な反論には感じられない。最後に「念仏の功力も、これ[諸法の不可思議さ]に准じて疑ふことなかれ(下p.184)」 というのは、ちょっと逃げている感じがする。ただし、この時代には念仏によってあらゆる罪障が無効化されて往生できるとまでは考えられていない。

そして、ここでもまた心の問題は蒸し返される。「粗雑な心で念仏しても効果はあるのか(意訳)」(下p.197)ということに対しては、「例えば芽が出るなと願いながら種を播いても、芽が出るのと同じ(=大悲経の引用)(意訳)」(下p.198)という問答があったかと思うと、「この経の意の如くは、敬信を以ての故に、遂に涅槃を得るなり(下p.200)」と「やっぱり心が大事なんじゃないの?」と問うているのは面白い。それに対し源信は「諸法の因縁は不可思議なり。(中略)ただ応に信仰すべし。疑念すべからず(下p.201)」とやや逃げ腰である。

では、このように念仏を信じることで往生できるのであれば、むしろなぜ「信ずると信ぜざるとありや(下p.215)」というのが疑問になる。これに対する源信の答えはやや我田引水だ。それは「疑ひて信ぜざる者は、皆悪道の中より来たり(下p.216)」。要するに「信じない者は悪人」なのである。それは言い過ぎではないだろうか。

さらに「(阿弥陀の名号を)不信の者はいかなる罪報をか得るや(下p.218)」。これに対し、源信は称揚諸仏功徳経を引用し「五劫の中、当に地獄に堕ちて、具さにもろもろの苦を受くべし(同)」という。信じないだけで地獄行きとはちょっと腑に落ちない。それに、これは「1.厭離穢土」と矛盾する。そこにはあらゆる罪を犯したものの細かい地獄の描写があったが、「信じない者が堕ちる地獄」というものはなかったからだ。

そう言いながらも源信は、「もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修する者は、また往生することを得(下p.219)」という。疑いがあっても往生のためのプロセスを踏めば大丈夫だという。信じるのが大事なのか、そうではないのか、最後まで源信は揺れ動き、どっちともつかない。両論併記だ。

それは、「信」が源信にとって「学問」ではなく「信仰」だったからだと私は思う。源信にとって「信」は理屈ではないのだ。この長大な学究の塊『往生要集』をもってもしても、「信」は理論化できなかった。そういえばその名も源「信」だ。理論化はできなかったが、「信」は源信にとって心情的に外せないものであったことは確かだ。

このように本書は全体に重複・矛盾・一貫性のなさが見られる。ではその価値が低いかというともちろんそうではなく、経典から要点を抽出して念仏を理論化したことには歴史的な価値がある。そのうえ、本書の矛盾や一貫性のなさは、批判の対象というよりも、その後の議論の土台として機能した。ある意味では、本書はその不完全さが魅力なのかもしれない。それに百科全書的というか、取捨選択をせずに論考をまとめているため、いろんな角度から読むことができるのも本書の面白さである。私は「心」や「信」の問題に注目して読んだが、それは本当に限られた観点でしかなく、実際に読まなければ何が書かれているかわからない本だと言っても過言ではない。

ちなみに、これまでの私の書き方は、源信に対してずいぶん批判的に感じるだろう。だが先ほども述べたように、私は源信の書きぶりに非常に好感を持つ。『往生要集』から感じるのは、度外れた素直さだ。それはしばしば宗教の教祖が持つ強力な確信とか、信仰を喧伝するものが持つ狂信とは全く違う。『往生要集』という高峰がありながら、そこから独立した宗派が形成されなかったのも当然だと感じる。『往生要集』には、源信の迷いや苦悩がはっきりと残されている。いわば源信は等身大なのだ。等身大の人間が、このような巨大な論考を、素直な気持ちで書き記したことは奇蹟的だ。

念仏理論の始まりとなった歴史的名著。

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2024年10月5日土曜日

『説経集(新潮日本古典集成)』室木 弥太郎 校注

中世の説経の代表的作品を収録した本。

説経とは、「説経節」「説経浄瑠璃」とも呼ばれる、中世後期から近世初期に盛んだった仏教的な口承文芸である。

説経は、安土桃山時代に単純な語りとして勃興し、江戸時代に入ると三味線の伴奏や人形の上演が加わった。それは「本地物」(神仏の本地(由来)を語る物語)の形式をとり、各地を旅する下級芸能者によって伝えられた。彼らはほとんど乞食同然で「簓乞食(ささらこじき)」とも呼ばれた。説経は本来ササラの伴奏を伴った語りであったからである。そして彼らは「蝉丸の宮」(大津市蝉丸神社)の祭礼に集まって神事に奉仕した。蝉丸の宮では、蝉丸伝説を述べた「御巻物抄」というものを作り、説経の人々に金と交換に下付した。それが彼らの身分証明書で、説経を語る免許のような役割を果たした。

江戸時代になると、説経は劇場で行われるようになり、最も盛んに演じられたが、劇場、三味線、人形などの要素は、人形浄瑠璃と同じであり、説経本来の意味合いが薄まった。また説経の担い手(だったはずの人々)は定住するようになり、口承文芸としての漂泊の性格も失われた。説教は後の芸能に大きな影響を与えたが、宮中などの権威と結びつかなかったためもあり、こうして説教はなくなった。

本書には代表的な6つの説経が収められている。それぞれの内容をまとめ、所感をメモする。

かるかや

信濃善光寺にある親子地蔵の由来を語る。筑前国の松浦党の総領、重氏は6か国を知行していたが、花見の際、未だ盛りにならぬ花が風で散ったのを見て遁世を決意する。長女はまだ3歳、妻は身ごもっていた。一門は止めたが重氏は出奔、比叡山の法然の下で出家した。こうして重氏は刈萱道心となった。その際、法然は親が来ても子が来ても決して会うなと固く誓わせた。

重氏は出奔にあたり、お腹の子が生まれ男児なら石童丸と名付けて出家させよと置手紙していた。果たして男児が生まれ、石童丸が13歳になった時、父に会いたいと母を口説き、姉を家に残して母と旅に出た。

二人は比叡山に赴いたが、刈萱は母と子が訪ねてくる夢を見て、女人禁制の高野山に逃げた後だった。二人も追って高野山に到着したものの、女人禁制の由来である弘法大師と母の物語を諄々と聞かされ母は入山を断念。石童丸は一人で高野山に入り、刈萱と偶然出会う。話を聞くうち、刈萱は石童丸が自分の子であることに気づくが、誓いのために自分が父であることを明かさず、「そなたの父はもう死んだ」と伝えた。

一方、高野山の麓で待っていた母は、なかなか戻らない石童丸を待ちかねて、心労がたたって亡くなってしまった。高野山から下りて来た石童丸は母が死去したことを知り「これは夢か現かや」と慟哭。再び高野山に登り、刈萱に菩提を弔うように依頼。刈萱も妻が死んだことを知り内心深く悲しんだが、やはり自分が重氏だとは明かさず妻を火葬にした。石童丸が一人で筑紫に戻ると、姉は母と石童丸を恋しい恋しいと思い詰めるあまりに死んでしまっていた。石童丸は「これは夢か現かや」と慟哭。もはや頼れるものをなくした石童丸は再び高野山に登り、刈萱の下で出家。二人はやがて別れたが、父が83歳、石童丸(改め道念)が63歳の時、同じ日同じ時刻に大往生を遂げた。この二人こそが善光寺に親子地蔵といわれて祀られているのである。

【所感】

「かるかや」は悲劇の連続である。その原因は父の出家にあるが、父の行動は一門からは非難されているものの、作中では立派な行いとして描かれている。すなわち往生至上主義的であり、現世の幸せは軽視されている。

石童丸が地蔵菩薩になったのは、「かやうにめでたきともがらをば、いざや仏になし申し、末世の衆生に拝ません(p.77)」と三世の諸仏が計らったからで、本地垂迹的(親子の本地が地蔵だったとか)ではない。いわば「人本仏迹」である。これは以下の物語でも共通している。

さんせう太夫

丹後の国の金焼(かなやき)地蔵の由来を語る。つし王丸とその姉安寿の父は、奥州54郡を治める判官だったが、咎を得て筑紫安楽寺に流罪となっていた。つし王丸は「安堵の御判」(赦免)を受けるため、姉・母・乳母を連れて朝廷へ旅立つ。だがその旅の途中、山岡の太夫は彼らをだまして船に乗せ、親子別々に売ってしまう。この時、母は姉には身代わりの地蔵菩薩を、弟には系図を渡していた。なお乳母は売られたことに悲観して船から身を投げ自害した。

姉弟はあちこちに転売され、結果的に丹後の国のさんせう太夫に買われ、奴隷として苦しい下働きする。 さんせう太夫には5人の息子がいたが、ことに三郎はひどく虐待した。二人はその虐待に耐え兼ね自害しようとしたが、同じく奴隷の境遇にあった「伊勢の小萩」に励まされ思いとどまる。

姉はさんせう太夫から逃亡しようと弟を誘うが、つし王は消極的。その話を盗み聞いた三郎は、罰として姉の額に十文字の焼き金を押した。さらに三郎は二人を浜の湯船の下に監禁して飢え死にさせようとした。だが三郎の兄、二郎が二人を憐れんで食事をひそかに持って行ってやったので二人は生きながらえた。そして姉は、地蔵が身代わりになってくれたおかげで自分に焼き金の跡がないことを知ると、弟に地蔵を預けて脱走させた。つし王が逃げたことを知った太夫は姉を拷問。だが姉はその行方を頑として言わずに絶命した。

つし王は追っ手から逃げ、姉から言われたとおりに寺に逃げこむ。ここの和尚が頼もしい人物で、追っ手の捜索を阻み、寺につし王はいないことを仰々しい起請文を宣べて誓う。太夫と太郎はその起請文に納得したが、三郎だけは怪しむ。ところがそれも金焼地蔵のおかげで事なきを得る。このあたりはスリリングである。

つし王は身分を明かし、和尚はそれを憐れんで、つし王を皮籠に入れて背負って都へ向かう。都に到着はしたが、和尚は出家の身では安堵の御判はもらえないからと別れを惜しみつつ丹後に帰った。残されたつし王は狭い籠に入れられていたからか腰が立たなくなっており、土車(土を運ぶ車=いざり車)に乗って宿送りで四天王寺に到着。四天王寺の石の鳥居で「えいやつ」と立ち上がると、俄かに若侍となり、四天王寺の高僧に奉公する。

一方、みかどの臣下に梅津の院という子のない大臣がいた。養子を求めて仏を拝むと四天王寺にゆけというお告げがあった。そこで四天王寺にゆき、百人の稚児若衆を見るがふさわしいものがいない。そして茶の給仕をしていたつし王に目が留まる。彼は額に米の相(?)があって瞳が4つあった(!?)のである。つし王を養子にし、風呂に入らせ装束を着せると並ぶものなき立派な若者になった。そして朝廷に上ったつし王は、ここぞと系図を取り出して、奥州54郡と日向の国、そしてつし王の望みで丹後5郡の安堵を受けるのである。

権力を手に入れたつし王は、まず命の恩人の和尚にお礼する。そして和尚から姉が殺されたことを知らされた。そこでつし王は、さも褒美を与えるような風でさんせう太夫を呼び出し、太夫を三郎に竹ののこぎりを引かせて首を切り処刑。続いて三郎も同様に処刑した。一方、太郎と二郎はつし王に情けをかけたことがあるため赦免し、また伊勢の小萩を姉にして迎えた。

さらに、つし王は蝦夷に売られていた母を見つけ出した。母は泣きつぶして盲目になっていたため、つし王が地蔵をその目に当てると、潰れていた両目がぱっちりと開いた。その後、山岡太夫も処刑。つし王の父も戻って一族は陸奥の所領に向かうのだった。

【所感】

姉安寿は脱走を企てたり、拷問を受けても口を割らなかったり終始行動的で意志の強い人物である一方、つし王の方はずっとされるがままであり、弱い人物として描かれる。さんせう太夫の下でのつらい下働きも、姉はなんとかこなそうと努力するが、つし王は境遇を嘆くのみで、主体的に動くことはない。つし王が唯一生き生きと主体性を発揮するのは、権力を手に入れてから復讐することだけである。

この話は、金焼地蔵の由来を語るものであるが、妙なことにつし王に地蔵への信仰は全くないように見える。例えば近世のこういう話の場合は、地蔵への信心が強調されるであろう。ところがつし王は地蔵を都合のよい時に使うばかりで、全く信心はないのだ(姉もそうだ)。にもかかわらず、地蔵は常に姉弟を助ける。これは地蔵に守られる運命だったとしか言いようがない。

しんとく丸

信吉長者というたいへんな長者がいた。彼は子がなかったので、妻と清水寺に参って祈願すると、果たして本尊が夢枕に立った。本尊が語るには、長者の前世は山人(やまうど)、妻の前世は大蛇で、それぞれ生き物の命を奪った科で子がないのだという。夢からさめた長者は、供え物をたくさん準備し、本尊を「それでも子を授けなかったらこんなことをするぞ」と脅すような祈願をする。本尊は再び現れ、「その子が7歳になったら父か母に命にかかわる大事があるが望みをかなえよう」と述べ、玉のような男児しんとく丸(俊徳/新徳/身毒など)が誕生した。

しんとく丸は9歳になると寺に預けられ、学問にはげみ寺一番の学者となった。信吉は13歳になったしんとく丸を呼び戻し、天王寺で行われた宴でしんとく丸に舞を舞わせた。しんとく丸はそこで和泉の国の陰山長者の娘乙姫に一目ぼれ。そこで恋文をしたため、家来の仲光に託した。仲光は商人に変装して陰山長者の屋敷にゆき、恋文を女房たちに渡した。その恋文に書かれていることは女房たちにはさっぱり理解できなかったのでどっと笑ったところ、何事かと思った乙姫が出てきて、見事その謎かけのような恋文を解読し、返事を書いた。

信吉長者の家では乙姫からの手紙を歓迎し、幸せな気分になった母はつい「清水寺の本尊は命に関わる大事があるといったが何事も起こらなかった。本尊も嘘をつかれるのだ」と口走り、これが命取りの一言になった。本尊はちゃんと聞いていたのだ。すぐさま母に仏罰が下って死去した。そこで後妻が迎えられ、次郎が誕生。後妻は次郎を総領にするため、清水の本尊に祈願して「しんとく丸の命をとってください。でなければ人の嫌う病気にしてください」と呪詛し立木に釘を136本打った。

これによりしんとく丸は「人の嫌う病気」=癩病となり、両目は潰れた。そこで後妻は信吉長者に「一族に病者がいると噂になっているのでしんとく丸を捨ててください」とお願い。仲光がしんとく丸に「天王寺での説法を聴きに参詣しましょう」と誘い出し、天王寺の念仏堂にそのまま置き去りにした。こうして盲目で投げ出されたしんとく丸を清水の本尊は不憫に思い、夢枕に立って「熊野の湯に入れば治るぞ」とお告げした。しんとく丸は熊野目指して乞食しつつ旅したが、ある家に物乞いに入ると、なんとそこは乙姫の家であった。しんとく丸は恥をかいたことを悔やみ、恥をさらして生きながらえるよりもと死を望む。

一方、しんとく丸が来たことを後で知った乙姫は、「継母の呪いで病者となったしんとく丸が家に来たのは自らを訪ねてきたに違いない。にもかかわらず女房達がそれを笑って追い返したとは残念だ」としんとく丸を追って旅に出るようとする。もちろん父母は強く反対したが、乙姫は恋しさが募って床に伏し、死んでしんとく丸に会おうというので、さすがに父母も了承し、乙姫は順礼に身をやつして旅に出た。

乙姫はほうぼうを訪ね歩き、死のうと思いながら死ねずにいたしんとく丸と再会する。そして「夫婦」して清水寺へ行き祈願すると、ふたたび本尊が現れ「しんとく丸の病気は継母の呪いのせいであるから自分を恨むな。明日鳥箒でなでれば病は平癒する」と述べた。果たしてそのようにすると135本(ママ)の釘は全て抜けて元のしんとく丸に戻った

一方、信吉長者の屋敷では、呪いの報いが継母でなく父の信吉に現れ、その両目は潰れていた。そして身内も逃げて貧しくなり、丹波の国に流浪していた。

他方、陰山長者はしんとく丸が元通りになったという噂を聞き、しんとく丸と乙姫を迎え入れた。そしてしんとく丸は、「自分が目が見えなかった時に親切にしてくれたたくさんの人のおかげで今の自分がある」と多くの宝を7日間施行した。この施行のことを耳にした盲目の信吉は、息子のしんとく丸がやっているとは知らず、その施行を受けようと訪れる。こうしてしんとく丸と信吉は再会。しんとく丸は父を鳥箒でなでて、父も元通りとなった。しんとく丸は従者に命じて継母と次郎(弟)の首を斬らせ処分し、その後は父とともに母の供養をして幸せに暮らした。

【所感】

ここでも主体性を発揮するのは女性だ。乙姫は、しんとく丸が癩病の乞食になっているにもかかわらず、しんとく丸を愛し抜く。継子いじめと貴種流離譚を基調とし、乙姫の愛の力でしんとく丸が元に戻るのは、形式的には清水の本尊の霊験が舞台装置となってはいるが、人間主体のストーリーだ。本尊には主体性が希薄で、継母の呪いによってしんとく丸に消極的に不幸をもたらしている(それどころか私のせいではないとまで述べている)。「かるかや」や「さんせう太夫」のような、霊験や宿命を基調とした物語とは明らかに違う。本編は本地物でもない。

をぐり

美濃国墨俣(すみまた)の正八幡の由来を語る。大納言の二条兼家には子がなかった。そこで鞍馬寺の毘沙門天に祈願すると、果たして男児有若(ありわか)が誕生。有若が7歳になると寺で学問をさせ、有若は学問にはげみ寺一番の学者となった。有若が18歳になると呼び戻され、名を小栗と改めた。母は小栗に妻を娶らせたが、小栗はなんのかんのと難癖をつけて多くの女性を拒否。72人もの妻を離縁した。

誰を妻とも定められない小栗は、ある日なぐさみに横笛を吹いていると、それを聴いていたのが深泥池(みぞろがいけ)の大蛇。美しい音色に魅了された大蛇は、若く美しい女性に変化して小栗のもとに現れた。小栗もこの大蛇の女性が気に入って夜な夜な逢瀬を重ねた。ところが小栗と大蛇が通じているという噂がたち、兼家は小栗を勘当して、妻の所領常陸に流してしまう。

常陸では、小栗は多くの侍に見込まれて暮らしていたが、ある日諸国を回ったという商人後藤左衛門が訪れる。小栗はこの見聞の広い商人に「自分に相応しい女性がいるか」と聞いたところ、武蔵・相模両国の郡代、横山殿の照手(てるで)の姫は、日光山の申し子でたいへん美しくよかろうという。まだ見ぬ照手に恋してしまった小栗は後藤左衛門に恋文を託した。彼は早速横山殿の屋敷へ行き、拾ったものとして恋文を女房に渡す。その恋文に書かれていることは女房たちにはさっぱり理解できなかったのでどっと笑ったところ、何事かと思った照手が出てくると見事その謎かけのような恋文を解読し、返事を書いた。[※しんとく丸と全く同じ。よほど人気のあったエピソードなのだろう]

その返事には「一家一門は知らず、照手は領掌(了承)」とあった。一門が了承しなければ婿入り(嫁取り)はできないが、小栗は屈強な従者10人を引き連れて、たくさんの贈り物とともに屋敷へ向かい、強引に娶って照手を常陸へ連れて行った。横山殿とその5人の息子(照手の兄)は、小栗から照手を取り返す相談をし、三郎が謀略を考える。宴を催して、その余興と称して小栗を鬼鹿毛(おにかげ)という馬に乗せようというのだ。

鬼鹿毛は人間を食ってしまう恐ろしい馬だった。 さすがの小栗も尻込みしたが、鬼鹿毛に「乗せてくれるならお前の死後に黄金御堂を建てて馬頭観音として供養しよう」と説得。馬は小栗の額に米の字が3つ、瞳が4つあるのを見てただの人ではないと感じ、小栗を乗せた。小栗は鬼鹿毛を馬具なしで見事に乗りこなし、高度な曲馬さえ演じた。

そこで横山殿と三郎は、今度は小栗を毒殺しようとする。再び宴を催して小栗を呼んだ。照手は小栗が殺される夢を見たので小栗に忠告したが、小栗は「いかないわけにはいかない」と宴に参加。ただし、いくら勧められても酒は飲まなかった。ところが所領(武蔵・相模)を取らせようと酒を勧められたため、「所領を添えて勧められた以上は飲まないわけにはいかない」と酒を飲み、従者10人とともに毒殺された。

陰陽師の教唆によって、従者10人は火葬されたが小栗は土葬された。さらに横手殿は世間体を考えて照手も殺そうと兄たちを差し向けた。照手は小栗の死に悲嘆して死を受け入れ、自ら牢輿(ろうごし)に入って海(ゆきとせ浦)に沈もうとしたが、漁師たちによって助けられ、漁父(むらきみ)の太夫に養子として迎え入れられる。しかし姥(太夫の妻)はこれが気に入らないので、照手を勝手に売ってしまった。太夫はこの悪行を恥じて出家した。

照手は、様々な人に転売されて流浪し、 美濃国のよろづ屋という妓楼の主人に買われて「常陸小萩」と名付けられた。しかしあくまで夫に貞節たろうとする照手は身を売ること(売春)を絶対に承知しない。16人分の下仕事をすることを引き換えになんとか免除される。本来は16人分の仕事をすることは不可能だが、照手は念仏を支えに、千手観音の助けを得て、3年間仕事をこなした(照手は月日(日光山)の申し子である)。

一方、冥土に赴いた小栗と10人の従者は、閻魔大王に裁きを受ける。裁決は、小栗は大悪人であるから悪修羅道へ、10人の従者は巻き添えを食っただけなので娑婆へ戻そうというものだ。しかし従者は「我らと引き換えに小栗を娑婆へ戻してほしい」と閻魔に訴える。その忠義に感じ入った閻魔は11人を娑婆に戻すことにしたが、あいにく従者は火葬されており小栗だけが甦った。3年の月日が経っており、小栗は墓から這い出たものの、すっかり体は餓鬼のように弱っていた。ちょうどそこへ通りかかった藤沢(時宗、清浄光寺)の上人は、小栗の存在を横山一門に知られては一大事と、小栗の髪を剃り、「餓鬼阿弥陀仏」と名付けた。小栗の胸札を見ると、「この者を藤沢のめいとう上人の弟子にする。熊野本宮湯の峰に入らせよ」と閻魔大王自筆の御判がある。そこで上人は「この者を一引いたは千僧供養、二引いたは万僧供養」と書き添えた。

こうして土車での餓鬼阿弥陀仏の旅が始まった。上人はもちろん、多くの人が「えいさらえい」と土車を引き、餓鬼阿弥は旅をする。横山一門の人々も、それが小栗とは知らず照手の供養のために引いている。こうして餓鬼阿弥は照手の働くよろづ屋の前につく。それまではまるで人が引いているとは思われなく軽く動いたのに、なぜかよろづ屋の前では3日動かなかった。そして餓鬼阿弥を見た照手は激しく心を動かされる。小栗の供養のためになんとしてでも引きたくなった照手は、主人に3日の暇を乞う。主人は断ったが、照手は「主人夫妻の身の上に大事がある時は身代わりになるから」となんとか説得し、餓鬼阿弥の車を引く。餓鬼阿弥は半死半生で目も見えず耳も聞こえない。照手が引いたとは分からなかった。別れに際し、照手は「美濃国よろづ屋の常陸小萩が車を引いた。病から復したら一夜の宿を取らせます云々」と胸札に書き添えた。

さらに餓鬼阿弥の旅は続く。熊野に着くと、これからは車では進めない。大峰の山伏たちはかごを編んで、餓鬼阿弥を入れて背負って熊野本宮の湯の峰に到着。444日が経っていた。餓鬼阿弥が熊野の湯に浸かると徐々によくなり、49日目に元の小栗殿に戻った。熊野の権現は小栗を見て、山人(やまうど)に変化して二本の金剛杖(つえ)を与えた(小栗は山伏に変装した)。小栗は、父兼家の屋敷に乞食(こつじき)に訪れたが門前払いを喰らう。そこで名を明かすが父は小栗は死んだといい信用しない。父は「小栗ならば座敷から放った3本の矢を、一本は右手、一本は左手、もう一本は歯で受け止められるだろう」と言って前庭にいる山伏に矢を放つと、果たして小栗はその通りに矢を受け止めた。親子は再会を喜び、みかどの前へ参る。

みかどは「小栗ほどの大剛の者には所領を取らせよう」といいって五畿内5ヶ国の御判を取らせ、さらに小栗の希望で美濃国も取らせた。小栗は所領を分けると言って三千余騎の侍を集め、三千余騎とともに所知入りした。よろづ屋の主人は百人の遊女を集めて小栗をもてなそうとしたが小栗は興味を持たない。小栗は胸札で知った恩人、常陸小萩はいるかと尋ね、主人は小萩を出そうとしたが、小萩は客の前には出ないと断った。そこで主人は「かつて大事がある時は身代わりになる」との誓いを持ち出し、小萩もそれは道理だと承知。

小栗は小萩の身の上を訪ねるが、小萩はあくまでも素っ気ない。しょうがないので小栗は自分の身の上を話す。この話を聞き、小萩は涙を流して自分が照手の姫であることを明かす。小栗は、照手を使役したよろづ屋の主人を処刑しようとしたが、照手はかつて餓鬼阿弥の車を引くため3日の暇を許可した慈悲に免じて許されよと懇願。小栗はそれならばと逆に所領すら与えた。

さらに小栗は常陸の国へ7千騎で所知入りし、横山攻めと相成った。これを横山も迎え撃つ。ところが照手は、もし父母に攻め入るならば自分を殺してからにせよとこれも押し止めた。照手は父に手紙を書き、父は「七珍万宝の数の宝より、我が子に増したる宝はない」と感激して、黄金や鬼鹿毛を添えて降伏した。小栗は黄金は辞退して横山を宥免したが、三郎だけは処刑した。

その後、ゆきとせ浦で照手を売った姥を竹ののこぎりで首を斬って処刑し、太夫には領地を与えた。その後小栗殿は83歳まで長生きして大往生を遂げた。小栗は神として拝まれ正八幡になり、照手は「契り結ぶの神」(岐阜県墨俣町の町屋の結大明神)として祀られている。

【所感】

「をぐり」は、本書中で最もおもしろく、最も感動的である。また、そこには中世的でない新しい人間観がある。小栗は大蛇を妻にする異常な人間で、一門の了承を得ないで妻照手を迎える。妻も一門の意志とは関係なく、小栗を一途に愛する。ここには夫婦の結びつきを、男女間の愛情と捉える感覚がある。

照手の小栗への愛情、貞節を貫こうとする意志は異常と言えるほど強力である。また、餓鬼阿弥に心を動かされ、別れがたく感じる所は、小栗との宿命を示すご都合主義に過ぎないとしても、美醜を越えて人間を見る照手の人間性を示している。しかも彼女は父や遊女屋の主人を許す慈悲深い女性である。もしかしたら照手は、理想の妻として表象されているのかもしれない。だが、それは後の貞淑で従順な妻とは全然違う。照手は夫に従属しているのではない、強い意志を持った女性なのだ。「をぐり」を読んだものは、この理想の女性照手を誰しも好きになってしまうだろう。

この異常な男女をヒーロー・ヒロインにしたところに、新しい感覚が表れている。

「をぐり」は、3つの信仰が雑多に結びつけられている。日光山、時宗、熊野の3つである(最初に毘沙門もあるが話の筋に関係しない)。

あいごの若

権勢並ぶものなき二条蔵人の清平は、みかどの前で行われた宝比べで家宝「やいばの太刀・唐鞍(からくら)」で勝利する。その際、宝の貧弱さを侮辱された六条殿は怒って清平に討ち入りしようとするが、家来にいさめられて留まり、代わりに子比べを催すようみかどに進言する。ところが二条殿には子がないから負けが確定。5人も子がある六条殿は留飲を下げる。

さらに六条殿は、二条殿が讒言したと言って二条殿の屋敷に攻め込む。二条殿もそれを迎え撃つ格好を見せるが、仲裁するものが表れて事なきを得る。(この部分は説経にふさわしくない戦闘がメインで、後の挿入と見られるという。)

二条殿は妻と子がないことを嘆き、泊瀬山の観音に祈願すると、一度は断られたがさらに祈願を続け「その子が3歳になると夫婦のどちらかの命を取るがそれでもよいか」との観音の夢告があり、それを了承して男児愛護の若が誕生した。愛護の若は無事13歳まで成長する。そこで母が「神や仏も嘘をいうのだ」と漏らし、これが命取りになった。泊瀬山の観音はこれを聞いており、仏罰であえなく母は死去した。[※しんとく丸と全く同じ]

二条殿は後妻を迎えたが、この後妻が愛護の若を一目見ると恋してしまった。そこで謎かけのような恋文をしたため、侍女の月小夜(つきさよ)に託した。月小夜が若に手紙を渡すと、見事若は謎を解いたが[※しんとく丸やをぐりと同じ]、継母の恋慕に嫌悪する。

継母は懲りずに7通の恋文を書くが、若は月小夜に「この手紙を父に見せて継母を懲らしめよ」と伝える。もし父にこのことが露見すれば継母の命はない。一転して継母は若への復讐を決意。月小夜の夫は「やいばの太刀・唐鞍」を持ち出し商人に変装して二条殿に売りに行く。我が家の家宝が売られていることを不審に思った二条殿が商人を問いただすと、暮らしに困った愛護の若が家宝を勝手に売ってしまったこと(もちろん嘘)がわかった。

父は激怒し愛護をさんざんに打ちのめし、桜の古木に縛って釣り上げた。もはや若を慕うのは白手の猿(山王の使い)しかない。一方、冥途に赴いた母は、閻魔大王に裁きを受けていた。母は愛護が死に瀕しているのを何とか救おうと、閻魔に懇願。それを憐れんだ閻魔は、今ちょうど死んだものの体を借りて一時的によみがえらせることにする。しかし折よく死んだものがなく、いたちがちょうど死んだところだった。母はそれでもよいとお願いし、よみがえった。いたちになった母は、愛護の若を吊るした綱を噛み切り、猿と協力して若を助けた。

いたちの母は、「比叡山西塔の北谷の阿闍梨が自分の兄、若の伯父にあたる人だから訪ねよ」と言って消える。そこで若は屋敷を抜け出し、比叡山に上ろうとするが道もわからず途方に暮れる。そこで出会った細工(細工の工人)は若を憐れみ、比叡山に連れて行ってあげる。ところがその入り口に女人禁制、三病者禁制(癩病等)、細工禁制とあった。やむなくここで細工とは別れ、一人で阿闍梨を訪ねるが、阿闍梨の家来は怪しみ、阿闍梨自身も「二条殿の若が従者も連れず来るはずがない」と信用せず、若をさんざん打ちのめし門前払いする。若は山を下りるが、道に迷い、衣は引き破れ、3日間さまよう。

そこで出会った田畑の介の兄弟は若を憐れんで食べ物を恵んだ。ところが次に会った穴太(あなふ)の里の姥は、若が桃を盗んだとか麻を乱したとか言って若を打ちのめした。若はきりうが滝(飛龍滝)につくと、散る桜を見て世をはかなみ、小袖を脱いで恨み言をさまざまと書き留めてから身投げした。

辺りの法師たちが不審に思い、残された小袖を持って阿闍梨のところへ行くと、それが二条清平の若のものであるとわかった。そこで阿闍梨は二条殿へその小袖を持ってゆくと、二条殿は息子が滝へ身投げしたことを知って悲しんだ。[※清平は息子を殺そうとしていたのに筋が通らない]

さらに小袖の下褄(したつま)を見ると恨みの一筆があり、これまでの経緯が書いてある。そこでまず田畑の介兄弟に褒美を取らせた。また継母と月小夜を処刑。次にきりうが滝に行き、阿闍梨に祈らせると、滝つぼの水が天に昇って16丈の大蛇が現れた。大蛇は若の死骸を護っていたのである。清平は我が子の死骸に抱きつき、「我も共にゆかん」と池に飛び込んだ。阿闍梨、その弟子たちも池に飛び込み、ついで桃惜しみの穴太の姥、田畑の介の兄弟、手白の猿、細工夫婦までもが後を追って池に飛び込んだ。その数は108人だという。

南谷の大僧正は「このようなことは前代未聞だ」と愛護の若を山王権現とお祭りになった。こうして4月の申の日に山王祭が行われるようになったのである。(なお、本編は浄瑠璃風に六段になっている。)

【所感】

なんといっても、最後に108人もの人々が入水するラストが異常である(しかもともに入水する理屈は見出しがたい)。ストーリーに一貫性がなく、いろいろな話がコラージュ的に組み合わされている感じがする。継母が継子をいじめる話は多いが、恋慕することが契機となっているのも何か不自然だ。また山王権現は古くから祭られているものなのに、愛護の若が山王権現というのもよくわからない。

細工や田畑の介という身分の低いものが人間的で愛護の若を助ける一方、阿闍梨が何の助けにもならないなど、身分の高いものへの不信がそこはかとなく本編の底流にある。なお、後述するが道行(みちゆき)はこの時代極めて容易に描かれるのに、愛護の若では道に迷うなど移動に苦労するのが際立っている。

まつら長者

竹生島の弁財天の由来を語る。大和の国の壺坂に松浦(まつら)長者という並ぶもののない長者がいた。しかし子がないので泊瀬山に詣で、たくさんの財宝を供えて祈願をすると観音が夢枕に立ち子を与えようという。果たして玉を広げたように美しいさよ姫が誕生した。しかし長者は病を得て、法華経一部を形見にして、若くして死んでしまった。そのため急に家は零落し、家来たちも散り散りになり、母と娘だけが貧しく取り残された。二人は窮乏の中なんとか暮らしたが、父の十三年忌のためのお金がない。そこでさよ姫は自らを売って菩提を弔おうとし、春日明神に買い手が付くように祈願する。

その頃陸奥の国の安達の郡に、大きな池があって大蛇が住んでいた。その村の人たちは一年に一人ずつ見目よい姫を大蛇に生贄としてささげており、今年はごんがの太夫の番にあたっていた。そこでごんが太夫は生贄の娘を買おうと都に上ってきた。

太夫は高札を立てて女性を募り、それを見たさよ姫は心を動かされる。いつまでも応募がないので太夫は困っていたが、春日明神が老僧の姿で現れ、松浦長者の家にいる姫がちょうどよいと言って掻き消えた。そこで太夫が松浦長者の家に行くとさよ姫が出てきて、5日後に身売りすることが決まって代金を支払った。

母は当然にそのようなことを望まず、泣いてさよ姫をとどめようとしたが、すでにお金をもらっておりさよ姫も決心していた。そして5日後に太夫が現れ、無理やりにさよ姫を連れて行った。あまりの悲しみに母は狂い、両目を泣きつぶして奈良の都を迷い出た。一方、さよ姫はごんが太夫と陸奥への旅に出た。この道行は他の説経とはちょっと違う。さよ姫は慣れない旅路に疲れ、また道々の伝説を聞いて悲しみを新たにする。途中、疲れてどうしようもなくなったさよ姫は太夫に二、三日の逗留を乞い、最初は太夫は断って杖でさんざんに打ち付けたが、さよ姫が哀れになって結果的には逗留した。[※こういうエピソードは説経としては異例]

ごんが太夫の屋敷につくと、奥方には意外にも親切にもてなされたが、大蛇に供えられることが説明されさよ姫は愕然と泣き崩れる。やがて人身御供に供えられる日が来て、姫は大事に輿に入れられ池の大蛇にささげられ、村人は退散した。俄かに空が掻き曇り、16丈の大蛇が現れて姫を一口に飲もうとしたところ、さよ姫は少しも騒がずにしばらく待てといい、父の形見の法華経を取り出して高らかに読誦、さらに法華経を大蛇の頭に投げると12の角がはらりと落ちた。さらに法華経で体をなでるとうろこが次々に落ち、大蛇は貴婦人に姿を変えた。

貴婦人が語るには、私はこの池に住んで999年、これまで999人の人身御供を食べて来た。こうして法華経の力で成仏得脱できたことはありがたい。そもそも私もかつて継母に売られ、橋を架ける人身御供として奉げられたものなのだ。その時の恨みでこれまで人身御供を食ってきたが、その報いでうろこの下に9万9千の虫が棲み苦しかった。このように尊い姫に出会えたことは仏の引き合わせである、お礼に病気を治す如意宝珠を与えよう、と。また姫に望みを聞いたところ、大和の母に会いたいというので、大蛇は姫を頭に載せると[※貴婦人に変わったはずなのに不自然]池に飛び込み、刹那の間に大和へ移った。この大蛇は壺阪の観音として祀られている。

元の屋敷に戻ったさよ姫は、盲目となってさまよっていた母を探し出し、如意宝珠の力で両目を元通りとした。元のように奉公しようという人が次々現れ、ごんが太夫夫妻を呼び寄せて家臣として重用した。こうして松浦長者の家を復興させたさよ姫は85歳で大往生を遂げ、今は近江の国竹生島の弁財天として祀られている。

【所感】

さよ姫は不思議な人物である。父の菩提を弔うために自分を身売りするという強靭な意思を持ちながら、物語のほとんどで泣いてばかりいる。しかし大蛇を前にして人が変わったように凛々しくなり、法華経の力で大蛇を救済するのである。(なお、本編は浄瑠璃風に六段になっている。)

****

6編の説経を読んで一番心に残ったのは、なんといっても道行である。この6編には例外なく道行の場面がある。しかも複数あるものも多い。おそらく説経の原型には道行があるのだろう。道行とは、簡単に言えば旅の描写である。どこどこへ行って、次にどこどこへ行って、という地名の羅列である。そこに短い説明や伝説や、故事や言葉遊びなどがさしはさまれる。特徴的なのは、かなり長い旅路がいともたやすい様子で述べられることだ。中世末以降の人々は、いともたやすく旅をしていたことになる。(ただし、道行は古代からの伝統に則ったものだ。「まつら長者」での道行が妙に具体的で苦労エピソードが挟まれているのは、こちらの方が写実だという可能性もある。)

しかもその旅は、零落した乞食の境遇にあるものが行うのだ。今の旅行とは全然違う。それどころか、「さんせう太夫」と「をぐり」では、主人公は動けなくなっているのに、無一文でいざり車に乗って旅をするのである。沿道の善意によってである。当時、そのような境遇にある者へ慈悲を施すことが意味があることとして捉えられていたに違いない(それが厄介払いの要素を伴っていたとしてもである)。

このように説経でこともなげに旅ができているのは、説経師たちが旅から旅への生活をしていたことを反映しているのだろう。そして説経の基本的な筋が、富貴からの零落、継子いじめ、乞食の旅、盲目や病者、人身売買など、この世の辛酸を舐めるものばかりなのも、説経師たちが最下層の悲惨な暮らしを余儀なくされていたからなのだろう。

そして説経の最後は、自分を虐げたものへの復讐が多いことは、説経師ばかりでなく、それを聞く庶民の方でも世の中の不平等に対するうっぷんが溜まっていたことを示唆する。ただ、説経には、貧しいものが富貴の者を倒すという下剋上の要素は全くない。それどころか主人公はいつも富貴の家に生まれ、神仏の申し子として将来を約束されていたりする。その辛苦の物語は、いわばシンデレラ的なものだ。

また、説経には女性が積極的な役割を果たす物語が多い。宿命に抗おうとするのは女性であり、男性は受動的である。それは、説経師たちに女性が多かったということを示しているのかもしれない(だが絵巻物などでは男性が語っている)。

それから、大変興味深かったのは、御判とか赦免を求める際、説経では必ず都の朝廷・みかどへと向かうことだ。逆に将軍は全く出てこない。これは中世後期の、朝廷が有名無実化していた時代につくられた話であるにもかかわらず、将軍ではなく朝廷・みかどが実権を保持しているのだ。これは何を意味するのか。古い時代の記憶が呼び覚まされているのだろうか? それとも説経師たちにとって、朝廷・みかどの方が幕府よりも身近に感じられる理由があったのだろうか。

ちなみに、上述のあらすじを読めばわかる通り、説経は口承文芸としては結構長い。早口で演じても一編2時間くらいかかりそうだ。これを覚えて効果音(ササラ)を交えて演じるのは、相当な技量を要する。説教師は最下層の芸能民であったが、その技術をどこでどう身につけたのか。それとも中世の人々は、こういう長い話をすぐ覚えてしまうくらい記憶力がよかったのだろうか。

なお、歴史的な関心がなくても説経は話としてとても面白い。「小栗判官」や「山椒大夫」が日本人の共通知識となったのも納得だ。

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2024年10月2日水曜日

『不干斎ハビアンー神も仏も棄てた宗教者』釈 徹宗 著

不干斎ハビアンの評伝。

戦国時代後期、日本にキリスト教の宣教師たちがやってきた。そして日本では短期間に多くの(少なくとも十万人以上の)人たちがキリシタンになった。その一人に不干斎ハビアンがいた。彼は日本人キリシタンの知的リーダーであった。

彼は、神仏儒教とキリスト教を比較して、キリスト教こそ真実であると論証した『妙貞問答』を著した。ところがそれを書いてほどなく、彼は棄教し、今度はキリスト教は真実ではないとする『破提宇子(はだいうす)』という本を書いたのである。

本書は、この『妙貞問答』と『破提宇子』を読み解き、不干斎ハビアンの思想を「比較思想」として位置付けるものである。

ハビアンは、『破提宇子』こそ知られてはいたが謎の人物であった(明治政府はキリスト教対策のために同書を刊行した!)。ハビアンにいち早く注目したのは『広辞苑』で有名な新村出。新村が注目して後、大正6年に神宮文庫(元・林崎文庫)から『妙貞問答』の中下巻が発見され、さらに1972年には、吉田家旧蔵本に『妙貞問答』上巻が存在することを西田長男が発見した。またドイツ人キリシタン研究者フーベルト・チーリスクがハビアンの母が北政所(ねね)の侍女であったことを論証。こうした研究によって、比較的最近になってからハビアンがどういう人物であったのかがわかったのである。

それによれば、ハビアンは1565年頃、北陸のあたりで生まれた。彼は禅僧であったが1583年(天正11年)にキリシタンに入信し、大坂・高槻のセミナリオ(神学校)に入学した。翌年には「同宿」と呼ばれる教会の補佐役、1586年には正式にイエズス会のイルマン(平修道士)になり、大分の臼杵にあった修練院(ノビシアド)に移った。その年にイエズス会への入会を許され、1590年には長崎・加津佐のコレジオの学生となった。

ハビアンはイエズス会で頭角を現し、『キリシタン版平家物語』や『伊曾保物語』、『Buppo(仏法)』の制作・編纂に参加した。1603年(慶長8年)には京都の下京教会へ移り、教団のリーダー格として活動。1605年、ハビアンは『妙貞問答』を執筆。これは女子修道院のベアタス(女性の修道誓願者)たちのために書かれた教理書で、かなり話題になったらしい。翌年、ハビアンは林羅山と対面し論争している。

ところが1608年、ハビアンは44歳にしてひとりのベアタスとイエズス会を脱会し行方知らずとなった。その後、長崎奉行長谷川権六に協力してキリシタンの取り締まりに協力した。1619年、将軍秀忠と面談。反キリシタン政策を諮問するために呼ばれたのである。1620年、『破提宇子』を執筆。これは、長谷川権六(と末次平蔵)の求めに応じて幕閣もしくは秀忠に献上するために書かれたものらしい(ドミニコ会の史料による)。その翌年、ハビアンは長崎で死去した。

それでは、『妙貞問答』はいかなる本かというと、これは妙秀と幽貞という二人の尼僧が問答し(妙秀が問い、幽貞が答える)、宗教・宗派を比較してキリスト教を選び取るというもの。

まず上巻では仏教が批判される。その批判は「無や空に帰着するので救いがない(死ねば無になる)」「絶対者の概念がない。釈迦も諸仏も人間で造物主ではない」「全ての存在は自分の心が生み出したもの(なので真実がどこにもない)」に集約できる。

だが幽貞は、一方的に仏教を批判するのではなくて、いちいち諸派の教理を要約し、それに対して科学的・合理的観点から批判している。ここで倶舎宗や成実宗までが取り上げられているのは面白い。これらは庶民には縁が遠かったはずだが、どうやらハビアンは百科全書派的なところがあったらしい。

ちなみに浄土宗・浄土真宗への批判はちょっと強引だ。それらの宗派は後生に重点を置いているはずなのに、「死ねば無なのだから、後生はないのだ。結局は現世的だ」と変換している。これは批判のために教義を曲解したと考えられる。

中巻では儒教と神道がやり玉に挙げられる。ここでハビアンが儒教・神道について真摯に批判していることはそれだけで重要だ。神道は宣教師からは論ずるまでもないと思われていたからだ。神道については吉田兼倶の『唯一神道名法集』に基づいて、当たり前のことをありがたく見せているだけだという、身も蓋もないが核心を突いた批判をしている。

そして下巻ではついにキリシタンが取り上げられる。その要諦は、「絶対者」の観念にある。これは神道や仏教では存在しないものだ(儒教には絶対的な観念として、一応「天」があると思うが、ハビアンは「天」=天道を太極と見なし、太極は人の心の動きに他ならないと唯心論的に理解している。これは少し偏った見方のように見える)。

ここで幽貞が、まず世界観の説明からしているのが面白い。彼女は、存在は(1)セル(存在)、(2)アニマベゼタチイハ(精魂)、(3)アニマセンチシハ(覚魂)、(4)アニマラシヨナル(理知を持つ存在=人間の魂)の4つに分けられるという。珍奇な用語を用いて科学的な世界観を説明しているのは、若干けむに巻いている感がなくもない。そして太陽や月は単なる存在(セル)であって神ではないとか、輪廻転生はないといった、合理的精神からの批判を行う。キリシタンは、ハビアンにとって科学的世界観と一体となった教えであった。もちろん宣教師の側でも、科学的知見を伝道に活用していたのである。

このように、幽貞の語るキリシタンは、神仏のような相対主義ではなくデウスという絶対者がおり、デウスへの信仰のみによって後生が保証される、つまり来世の救済はキリシタンしかありえないというものであった。ただし、仏教への批判は理路整然としているが、キリシタンの護教についてはやや一面的にも感じる。例えば、デウスが確かに存在するかどうか、といったことは全く疑われていない(ちなみに、神仏の存在も否定されているわけではない)。

このように、『妙貞問答』は護教書であるとはいえ、神仏儒教の教理を深く取り上げ、比較した上でキリシタンを選び取るという比較思想論であるともいえる。ハビアンは、キリシタンに触れることで日本の宗教を相対化し、俯瞰して見ることができたのだろう。そういう意味で、『妙貞問答』は良くも悪くも現代人的な視点で書かれたもののように思った。

ハビアンは、当時の第一級の知識人であった松永貞徳(日蓮宗布施不受派の信者でもあった)により林羅山と引き合わされた。羅山は家康に重用された儒者、一方のハビアンはイエズス会日本人修道士ではリーダー格ではあったがいわば新興宗教の広報担当者である。だから羅山は頭からハビアンをなめてかかっていたようである。二人の問答はここでも科学的世界観から始まり、羅山は地球が球体であるとは理にかなわないと自信満々に述べている。著者は「我々にとって、この世界が球体かどうか、といったことは単なる知識の相違なので、この際どちらでもいい(p.148)」と述べているが、新知識を受け入れる素地があったかどうかは重要であろう。

二人はそれなりに理知的な問答を交わしたが、羅山の言い分によれば理と体に関しては「ハビアンはこちらのいうことを理解できなかった」としている。理と体についての説明は割愛するが、羅山は儒教の用語で、ハビアンは仏教の用語でテクニカルタームを使って論争するので、話がかみ合わなかったようである。というより、羅山は初めから「論破」を目的としていた。そして論争後に一方的に勝利宣言したのである。

なお、著者によれば羅山はキリスト教が科学的知識を武器に布教されることにある種の胡散臭さを感じていたのではないかという。確かにキリシタンには、先述のように「アニマベゼタチイハ」のような用語でけむに巻くような部分がある。それに(羅山は科学的知識も認めなかったが)、科学的知識が正しかったとしても教義を裏付けるものとはならない。

羅山との論争の2年後、ハビアンは先述のとおり女性と駆け落ち。駆け落ちと同時に棄教したかどうかは定かではないが、著者はおそらく同時だろうという。ハビアン棄教の理由は様々に考察されているが本人が何も述べていないので不明というほかない。ただ、日本人を軽蔑し高慢な態度だった外国人宣教師たちにハビアンが反発していたのは確かである。

そしてハビアンは『破提宇子』を書く。これはいわば『妙貞問答』の裏返しである。その主張を私なりにまとめると、(1)キリシタンは仏教の無や空の本質を理解していない。(2)仏教にも絶対の概念はあるし、キリストは人間にすぎなかった、(3)創造神話は神道や道教にもある、(4)人間の霊魂だけが特別だとする根拠はない、(5)デウスが全知全能なら、なぜわざわざアダムとエバに過ちを冒させたのか説明がつかない、(6)キリシタンは日本の風俗や文化を破壊する、といったところである。なお、『妙貞問答』は戯曲的形式で、二人の女性の会話として面白く読めるように工夫されているのに比べ、『破提宇子』は議論のみであり、話としての面白さはないがスピード感がある。

なお、ハビアン以外の反キリシタン論では、キリシタンでは先祖供養ができない(キリシタンに帰依しないで死んだ先祖は地獄に落ちるしかない)ということが問題になっていたが、ハビアンは個人の魂の救済を中心にキリシタンを見ており、先祖供養は眼中にない。

ともかく、ハビアンはキリシタンを通じて神仏儒を相対化するという手法を、キリシタンへと転用し、キリシタンすらも相対化したのだ。なおキリシタンの科学的知識は否定はしていない。そしてハビアンはキリシタンを捨てても、神仏儒に帰依するようになったというわけでもない。はっきりとは分からないが、ハビアンは現代の知識人と同じような無宗教的な状態になっていたように思われる。ただ、著者はハビアンが無宗教者になったとは考えない。彼は間違いなく宗教的な人物であった。ハビアンは権威に従うのではなく、思索によって自らの生きる道を選び取ろうとしていたのだろうという。

ところで面白いのは、ハビアンは『破提宇子』を「ハビアン(好菴)」名義で書いているということだ。棄教後もハビアンという洗礼名を使い続けるのはどうしてか。また神仏儒を否定し、キリスト教を持ち上げた『妙貞問答』は、ハビアンにとって消し去りたい歴史だったはずである。なのにハビアン名義で書いては、「あのキリスト教を持ち上げた男が、今度はキリスト教を否定しているのか。転向したのか」と思われるに違いない。だが論理的に考えれば、ハビアンはむしろ転向を誇示するためにハビアン名義を使ったのではないかと思われる。

つまり、あの『妙貞問答』を書いたハビアンが、今ではそれすらも超えて書いたのが『破提宇子』なのだ、と明示したかったということになる。こうした考察は本書ではなされていないが、もしそうだとすれば、ハビアンはかなり強靭な精神を持っていた人物だ。

なお、私は渡辺京二『バテレンの世紀』で、『破提宇子』について「立場はかなり単純な合理論にすぎなかった」としていたことに疑問を持って本書を手に取った。確かにハビアンの論理は現代人がキリスト教(や宗教全般)を批判するときのロジックとそれほど違いはないといえる。つまり、宗教である以上、合理的に突き詰めれば論理が破綻するのは当然なので(無矛盾な宗教体系はない!)、特別するどい指摘がなくても、「単純な合理論」で押し通しさえすれば批判ができるのだ。

だから渡辺ならずとも『破提宇子』を高く評価する者は多くないらしく、比較宗教論として価値がある『妙貞問答』に比べて『破提宇子』は一段下に扱われてきた。「単純な合理論」かどうかはともかく、『妙貞問答』が百科全書的な知識を下に科学的世界観の宣揚をしているのとは違い、新しい世界観の提示がなくキリシタンへの論難に終始しているのは思想書として迫力がない。だが釈徹宗は『破提宇子』は『妙貞問答』とセットにすることで稀有な比較思想書として評価できると主張する。先述の通り、ハビアンがあえて『妙貞問答』の著者であることを明示して世に問うたのが『破提宇子』だとすれば、それだけで凄みのある著作だろう。

ハビアンの生涯とその著作を実直に読み解いた本。

【関連書籍の読書メモ】
『バテレンの世紀』渡辺 京二 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/08/blog-post_18.html
異国船来訪の一世紀を描く本。少し読みにくいが大量の情報が盛り込まれた、教科書風のキリシタン史。

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