中世の説経の代表的作品を収録した本。
説経とは、「説経節」「説経浄瑠璃」とも呼ばれる、中世後期から近世初期に盛んだった仏教的な口承文芸である。
説経は、安土桃山時代に単純な語りとして勃興し、江戸時代に入ると三味線の伴奏や人形の上演が加わった。それは「本地物」(神仏の本地(由来)を語る物語)の形式をとり、各地を旅する下級芸能者によって伝えられた。彼らはほとんど乞食同然で「簓乞食(ささらこじき)」とも呼ばれた。説経は本来ササラの伴奏を伴った語りであったからである。そして彼らは「蝉丸の宮」(大津市蝉丸神社)の祭礼に集まって神事に奉仕した。蝉丸の宮では、蝉丸伝説を述べた「御巻物抄」というものを作り、説経の人々に金と交換に下付した。それが彼らの身分証明書で、説経を語る免許のような役割を果たした。
江戸時代になると、説経は劇場で行われるようになり、最も盛んに演じられたが、劇場、三味線、人形などの要素は、人形浄瑠璃と同じであり、説経本来の意味合いが薄まった。また説経の担い手(だったはずの人々)は定住するようになり、口承文芸としての漂泊の性格も失われた。説教は後の芸能に大きな影響を与えたが、宮中などの権威と結びつかなかったためもあり、こうして説教はなくなった。
本書には代表的な6つの説経が収められている。それぞれの内容をまとめ、所感をメモする。
かるかや
信濃善光寺にある親子地蔵の由来を語る。筑前国の松浦党の総領、重氏は6か国を知行していたが、花見の際、未だ盛りにならぬ花が風で散ったのを見て遁世を決意する。長女はまだ3歳、妻は身ごもっていた。一門は止めたが重氏は出奔、比叡山の法然の下で出家した。こうして重氏は刈萱道心となった。その際、法然は親が来ても子が来ても決して会うなと固く誓わせた。
重氏は出奔にあたり、お腹の子が生まれ男児なら石童丸と名付けて出家させよと置手紙していた。果たして男児が生まれ、石童丸が13歳になった時、父に会いたいと母を口説き、姉を家に残して母と旅に出た。
二人は比叡山に赴いたが、刈萱は母と子が訪ねてくる夢を見て、女人禁制の高野山に逃げた後だった。二人も追って高野山に到着したものの、女人禁制の由来である弘法大師と母の物語を諄々と聞かされ母は入山を断念。石童丸は一人で高野山に入り、刈萱と偶然出会う。話を聞くうち、刈萱は石童丸が自分の子であることに気づくが、誓いのために自分が父であることを明かさず、「そなたの父はもう死んだ」と伝えた。
一方、高野山の麓で待っていた母は、なかなか戻らない石童丸を待ちかねて、心労がたたって亡くなってしまった。高野山から下りて来た石童丸は母が死去したことを知り「これは夢か現かや」と慟哭。再び高野山に登り、刈萱に菩提を弔うように依頼。刈萱も妻が死んだことを知り内心深く悲しんだが、やはり自分が重氏だとは明かさず妻を火葬にした。石童丸が一人で筑紫に戻ると、姉は母と石童丸を恋しい恋しいと思い詰めるあまりに死んでしまっていた。石童丸は「これは夢か現かや」と慟哭。もはや頼れるものをなくした石童丸は再び高野山に登り、刈萱の下で出家。二人はやがて別れたが、父が83歳、石童丸(改め道念)が63歳の時、同じ日同じ時刻に大往生を遂げた。この二人こそが善光寺に親子地蔵といわれて祀られているのである。
【所感】
「かるかや」は悲劇の連続である。その原因は父の出家にあるが、父の行動は一門からは非難されているものの、作中では立派な行いとして描かれている。すなわち往生至上主義的であり、現世の幸せは軽視されている。
石童丸が地蔵菩薩になったのは、「かやうにめでたきともがらをば、いざや仏になし申し、末世の衆生に拝ません(p.77)」と三世の諸仏が計らったからで、本地垂迹的(親子の本地が地蔵だったとか)ではない。いわば「人本仏迹」である。これは以下の物語でも共通している。
さんせう太夫
丹後の国の金焼(かなやき)地蔵の由来を語る。つし王丸とその姉安寿の父は、奥州54郡を治める判官だったが、咎を得て筑紫安楽寺に流罪となっていた。つし王丸は「安堵の御判」(赦免)を受けるため、姉・母・乳母を連れて朝廷へ旅立つ。だがその旅の途中、山岡の太夫は彼らをだまして船に乗せ、親子別々に売ってしまう。この時、母は姉には身代わりの地蔵菩薩を、弟には系図を渡していた。なお乳母は売られたことに悲観して船から身を投げ自害した。
姉弟はあちこちに転売され、結果的に丹後の国のさんせう太夫に買われ、奴隷として苦しい下働きする。 さんせう太夫には5人の息子がいたが、ことに三郎はひどく虐待した。二人はその虐待に耐え兼ね自害しようとしたが、同じく奴隷の境遇にあった「伊勢の小萩」に励まされ思いとどまる。
姉はさんせう太夫から逃亡しようと弟を誘うが、つし王は消極的。その話を盗み聞いた三郎は、罰として姉の額に十文字の焼き金を押した。さらに三郎は二人を浜の湯船の下に監禁して飢え死にさせようとした。だが三郎の兄、二郎が二人を憐れんで食事をひそかに持って行ってやったので二人は生きながらえた。そして姉は、地蔵が身代わりになってくれたおかげで自分に焼き金の跡がないことを知ると、弟に地蔵を預けて脱走させた。つし王が逃げたことを知った太夫は姉を拷問。だが姉はその行方を頑として言わずに絶命した。
つし王は追っ手から逃げ、姉から言われたとおりに寺に逃げこむ。ここの和尚が頼もしい人物で、追っ手の捜索を阻み、寺につし王はいないことを仰々しい起請文を宣べて誓う。太夫と太郎はその起請文に納得したが、三郎だけは怪しむ。ところがそれも金焼地蔵のおかげで事なきを得る。このあたりはスリリングである。
つし王は身分を明かし、和尚はそれを憐れんで、つし王を皮籠に入れて背負って都へ向かう。都に到着はしたが、和尚は出家の身では安堵の御判はもらえないからと別れを惜しみつつ丹後に帰った。残されたつし王は狭い籠に入れられていたからか腰が立たなくなっており、土車(土を運ぶ車=いざり車)に乗って宿送りで四天王寺に到着。四天王寺の石の鳥居で「えいやつ」と立ち上がると、俄かに若侍となり、四天王寺の高僧に奉公する。
一方、みかどの臣下に梅津の院という子のない大臣がいた。養子を求めて仏を拝むと四天王寺にゆけというお告げがあった。そこで四天王寺にゆき、百人の稚児若衆を見るがふさわしいものがいない。そして茶の給仕をしていたつし王に目が留まる。彼は額に米の相(?)があって瞳が4つあった(!?)のである。つし王を養子にし、風呂に入らせ装束を着せると並ぶものなき立派な若者になった。そして朝廷に上ったつし王は、ここぞと系図を取り出して、奥州54郡と日向の国、そしてつし王の望みで丹後5郡の安堵を受けるのである。
権力を手に入れたつし王は、まず命の恩人の和尚にお礼する。そして和尚から姉が殺されたことを知らされた。そこでつし王は、さも褒美を与えるような風でさんせう太夫を呼び出し、太夫を三郎に竹ののこぎりを引かせて首を切り処刑。続いて三郎も同様に処刑した。一方、太郎と二郎はつし王に情けをかけたことがあるため赦免し、また伊勢の小萩を姉にして迎えた。
さらに、つし王は蝦夷に売られていた母を見つけ出した。母は泣きつぶして盲目になっていたため、つし王が地蔵をその目に当てると、潰れていた両目がぱっちりと開いた。その後、山岡太夫も処刑。つし王の父も戻って一族は陸奥の所領に向かうのだった。
【所感】
姉安寿は脱走を企てたり、拷問を受けても口を割らなかったり終始行動的で意志の強い人物である一方、つし王の方はずっとされるがままであり、弱い人物として描かれる。さんせう太夫の下でのつらい下働きも、姉はなんとかこなそうと努力するが、つし王は境遇を嘆くのみで、主体的に動くことはない。つし王が唯一生き生きと主体性を発揮するのは、権力を手に入れてから復讐することだけである。
この話は、金焼地蔵の由来を語るものであるが、妙なことにつし王に地蔵への信仰は全くないように見える。例えば近世のこういう話の場合は、地蔵への信心が強調されるであろう。ところがつし王は地蔵を都合のよい時に使うばかりで、全く信心はないのだ(姉もそうだ)。にもかかわらず、地蔵は常に姉弟を助ける。これは地蔵に守られる運命だったとしか言いようがない。
しんとく丸
信吉長者というたいへんな長者がいた。彼は子がなかったので、妻と清水寺に参って祈願すると、果たして本尊が夢枕に立った。本尊が語るには、長者の前世は山人(やまうど)、妻の前世は大蛇で、それぞれ生き物の命を奪った科で子がないのだという。夢からさめた長者は、供え物をたくさん準備し、本尊を「それでも子を授けなかったらこんなことをするぞ」と脅すような祈願をする。本尊は再び現れ、「その子が7歳になったら父か母に命にかかわる大事があるが望みをかなえよう」と述べ、玉のような男児しんとく丸(俊徳/新徳/身毒など)が誕生した。
しんとく丸は9歳になると寺に預けられ、学問にはげみ寺一番の学者となった。信吉は13歳になったしんとく丸を呼び戻し、天王寺で行われた宴でしんとく丸に舞を舞わせた。しんとく丸はそこで和泉の国の陰山長者の娘乙姫に一目ぼれ。そこで恋文をしたため、家来の仲光に託した。仲光は商人に変装して陰山長者の屋敷にゆき、恋文を女房たちに渡した。その恋文に書かれていることは女房たちにはさっぱり理解できなかったのでどっと笑ったところ、何事かと思った乙姫が出てきて、見事その謎かけのような恋文を解読し、返事を書いた。
信吉長者の家では乙姫からの手紙を歓迎し、幸せな気分になった母はつい「清水寺の本尊は命に関わる大事があるといったが何事も起こらなかった。本尊も嘘をつかれるのだ」と口走り、これが命取りの一言になった。本尊はちゃんと聞いていたのだ。すぐさま母に仏罰が下って死去した。そこで後妻が迎えられ、次郎が誕生。後妻は次郎を総領にするため、清水の本尊に祈願して「しんとく丸の命をとってください。でなければ人の嫌う病気にしてください」と呪詛し立木に釘を136本打った。
これによりしんとく丸は「人の嫌う病気」=癩病となり、両目は潰れた。そこで後妻は信吉長者に「一族に病者がいると噂になっているのでしんとく丸を捨ててください」とお願い。仲光がしんとく丸に「天王寺での説法を聴きに参詣しましょう」と誘い出し、天王寺の念仏堂にそのまま置き去りにした。こうして盲目で投げ出されたしんとく丸を清水の本尊は不憫に思い、夢枕に立って「熊野の湯に入れば治るぞ」とお告げした。しんとく丸は熊野目指して乞食しつつ旅したが、ある家に物乞いに入ると、なんとそこは乙姫の家であった。しんとく丸は恥をかいたことを悔やみ、恥をさらして生きながらえるよりもと死を望む。
一方、しんとく丸が来たことを後で知った乙姫は、「継母の呪いで病者となったしんとく丸が家に来たのは自らを訪ねてきたに違いない。にもかかわらず女房達がそれを笑って追い返したとは残念だ」としんとく丸を追って旅に出るようとする。もちろん父母は強く反対したが、乙姫は恋しさが募って床に伏し、死んでしんとく丸に会おうというので、さすがに父母も了承し、乙姫は順礼に身をやつして旅に出た。
乙姫はほうぼうを訪ね歩き、死のうと思いながら死ねずにいたしんとく丸と再会する。そして「夫婦」して清水寺へ行き祈願すると、ふたたび本尊が現れ「しんとく丸の病気は継母の呪いのせいであるから自分を恨むな。明日鳥箒でなでれば病は平癒する」と述べた。果たしてそのようにすると135本(ママ)の釘は全て抜けて元のしんとく丸に戻った
一方、信吉長者の屋敷では、呪いの報いが継母でなく父の信吉に現れ、その両目は潰れていた。そして身内も逃げて貧しくなり、丹波の国に流浪していた。
他方、陰山長者はしんとく丸が元通りになったという噂を聞き、しんとく丸と乙姫を迎え入れた。そしてしんとく丸は、「自分が目が見えなかった時に親切にしてくれたたくさんの人のおかげで今の自分がある」と多くの宝を7日間施行した。この施行のことを耳にした盲目の信吉は、息子のしんとく丸がやっているとは知らず、その施行を受けようと訪れる。こうしてしんとく丸と信吉は再会。しんとく丸は父を鳥箒でなでて、父も元通りとなった。しんとく丸は従者に命じて継母と次郎(弟)の首を斬らせ処分し、その後は父とともに母の供養をして幸せに暮らした。
【所感】
ここでも主体性を発揮するのは女性だ。乙姫は、しんとく丸が癩病の乞食になっているにもかかわらず、しんとく丸を愛し抜く。継子いじめと貴種流離譚を基調とし、乙姫の愛の力でしんとく丸が元に戻るのは、形式的には清水の本尊の霊験が舞台装置となってはいるが、人間主体のストーリーだ。本尊には主体性が希薄で、継母の呪いによってしんとく丸に消極的に不幸をもたらしている(それどころか私のせいではないとまで述べている)。「かるかや」や「さんせう太夫」のような、霊験や宿命を基調とした物語とは明らかに違う。本編は本地物でもない。
をぐり
美濃国墨俣(すみまた)の正八幡の由来を語る。大納言の二条兼家には子がなかった。そこで鞍馬寺の毘沙門天に祈願すると、果たして男児有若(ありわか)が誕生。有若が7歳になると寺で学問をさせ、有若は学問にはげみ寺一番の学者となった。有若が18歳になると呼び戻され、名を小栗と改めた。母は小栗に妻を娶らせたが、小栗はなんのかんのと難癖をつけて多くの女性を拒否。72人もの妻を離縁した。
誰を妻とも定められない小栗は、ある日なぐさみに横笛を吹いていると、それを聴いていたのが深泥池(みぞろがいけ)の大蛇。美しい音色に魅了された大蛇は、若く美しい女性に変化して小栗のもとに現れた。小栗もこの大蛇の女性が気に入って夜な夜な逢瀬を重ねた。ところが小栗と大蛇が通じているという噂がたち、兼家は小栗を勘当して、妻の所領常陸に流してしまう。
常陸では、小栗は多くの侍に見込まれて暮らしていたが、ある日諸国を回ったという商人後藤左衛門が訪れる。小栗はこの見聞の広い商人に「自分に相応しい女性がいるか」と聞いたところ、武蔵・相模両国の郡代、横山殿の照手(てるで)の姫は、日光山の申し子でたいへん美しくよかろうという。まだ見ぬ照手に恋してしまった小栗は後藤左衛門に恋文を託した。彼は早速横山殿の屋敷へ行き、拾ったものとして恋文を女房に渡す。その恋文に書かれていることは女房たちにはさっぱり理解できなかったのでどっと笑ったところ、何事かと思った照手が出てくると見事その謎かけのような恋文を解読し、返事を書いた。[※しんとく丸と全く同じ。よほど人気のあったエピソードなのだろう]
その返事には「一家一門は知らず、照手は領掌(了承)」とあった。一門が了承しなければ婿入り(嫁取り)はできないが、小栗は屈強な従者10人を引き連れて、たくさんの贈り物とともに屋敷へ向かい、強引に娶って照手を常陸へ連れて行った。横山殿とその5人の息子(照手の兄)は、小栗から照手を取り返す相談をし、三郎が謀略を考える。宴を催して、その余興と称して小栗を鬼鹿毛(おにかげ)という馬に乗せようというのだ。
鬼鹿毛は人間を食ってしまう恐ろしい馬だった。 さすがの小栗も尻込みしたが、鬼鹿毛に「乗せてくれるならお前の死後に黄金御堂を建てて馬頭観音として供養しよう」と説得。馬は小栗の額に米の字が3つ、瞳が4つあるのを見てただの人ではないと感じ、小栗を乗せた。小栗は鬼鹿毛を馬具なしで見事に乗りこなし、高度な曲馬さえ演じた。
そこで横山殿と三郎は、今度は小栗を毒殺しようとする。再び宴を催して小栗を呼んだ。照手は小栗が殺される夢を見たので小栗に忠告したが、小栗は「いかないわけにはいかない」と宴に参加。ただし、いくら勧められても酒は飲まなかった。ところが所領(武蔵・相模)を取らせようと酒を勧められたため、「所領を添えて勧められた以上は飲まないわけにはいかない」と酒を飲み、従者10人とともに毒殺された。
陰陽師の教唆によって、従者10人は火葬されたが小栗は土葬された。さらに横手殿は世間体を考えて照手も殺そうと兄たちを差し向けた。照手は小栗の死に悲嘆して死を受け入れ、自ら牢輿(ろうごし)に入って海(ゆきとせ浦)に沈もうとしたが、漁師たちによって助けられ、漁父(むらきみ)の太夫に養子として迎え入れられる。しかし姥(太夫の妻)はこれが気に入らないので、照手を勝手に売ってしまった。太夫はこの悪行を恥じて出家した。
照手は、様々な人に転売されて流浪し、 美濃国のよろづ屋という妓楼の主人に買われて「常陸小萩」と名付けられた。しかしあくまで夫に貞節たろうとする照手は身を売ること(売春)を絶対に承知しない。16人分の下仕事をすることを引き換えになんとか免除される。本来は16人分の仕事をすることは不可能だが、照手は念仏を支えに、千手観音の助けを得て、3年間仕事をこなした(照手は月日(日光山)の申し子である)。
一方、冥土に赴いた小栗と10人の従者は、閻魔大王に裁きを受ける。裁決は、小栗は大悪人であるから悪修羅道へ、10人の従者は巻き添えを食っただけなので娑婆へ戻そうというものだ。しかし従者は「我らと引き換えに小栗を娑婆へ戻してほしい」と閻魔に訴える。その忠義に感じ入った閻魔は11人を娑婆に戻すことにしたが、あいにく従者は火葬されており小栗だけが甦った。3年の月日が経っており、小栗は墓から這い出たものの、すっかり体は餓鬼のように弱っていた。ちょうどそこへ通りかかった藤沢(時宗、清浄光寺)の上人は、小栗の存在を横山一門に知られては一大事と、小栗の髪を剃り、「餓鬼阿弥陀仏」と名付けた。小栗の胸札を見ると、「この者を藤沢のめいとう上人の弟子にする。熊野本宮湯の峰に入らせよ」と閻魔大王自筆の御判がある。そこで上人は「この者を一引いたは千僧供養、二引いたは万僧供養」と書き添えた。
こうして土車での餓鬼阿弥陀仏の旅が始まった。上人はもちろん、多くの人が「えいさらえい」と土車を引き、餓鬼阿弥は旅をする。横山一門の人々も、それが小栗とは知らず照手の供養のために引いている。こうして餓鬼阿弥は照手の働くよろづ屋の前につく。それまではまるで人が引いているとは思われなく軽く動いたのに、なぜかよろづ屋の前では3日動かなかった。そして餓鬼阿弥を見た照手は激しく心を動かされる。小栗の供養のためになんとしてでも引きたくなった照手は、主人に3日の暇を乞う。主人は断ったが、照手は「主人夫妻の身の上に大事がある時は身代わりになるから」となんとか説得し、餓鬼阿弥の車を引く。餓鬼阿弥は半死半生で目も見えず耳も聞こえない。照手が引いたとは分からなかった。別れに際し、照手は「美濃国よろづ屋の常陸小萩が車を引いた。病から復したら一夜の宿を取らせます云々」と胸札に書き添えた。
さらに餓鬼阿弥の旅は続く。熊野に着くと、これからは車では進めない。大峰の山伏たちはかごを編んで、餓鬼阿弥を入れて背負って熊野本宮の湯の峰に到着。444日が経っていた。餓鬼阿弥が熊野の湯に浸かると徐々によくなり、49日目に元の小栗殿に戻った。熊野の権現は小栗を見て、山人(やまうど)に変化して二本の金剛杖(つえ)を与えた(小栗は山伏に変装した)。小栗は、父兼家の屋敷に乞食(こつじき)に訪れたが門前払いを喰らう。そこで名を明かすが父は小栗は死んだといい信用しない。父は「小栗ならば座敷から放った3本の矢を、一本は右手、一本は左手、もう一本は歯で受け止められるだろう」と言って前庭にいる山伏に矢を放つと、果たして小栗はその通りに矢を受け止めた。親子は再会を喜び、みかどの前へ参る。
みかどは「小栗ほどの大剛の者には所領を取らせよう」といいって五畿内5ヶ国の御判を取らせ、さらに小栗の希望で美濃国も取らせた。小栗は所領を分けると言って三千余騎の侍を集め、三千余騎とともに所知入りした。よろづ屋の主人は百人の遊女を集めて小栗をもてなそうとしたが小栗は興味を持たない。小栗は胸札で知った恩人、常陸小萩はいるかと尋ね、主人は小萩を出そうとしたが、小萩は客の前には出ないと断った。そこで主人は「かつて大事がある時は身代わりになる」との誓いを持ち出し、小萩もそれは道理だと承知。
小栗は小萩の身の上を訪ねるが、小萩はあくまでも素っ気ない。しょうがないので小栗は自分の身の上を話す。この話を聞き、小萩は涙を流して自分が照手の姫であることを明かす。小栗は、照手を使役したよろづ屋の主人を処刑しようとしたが、照手はかつて餓鬼阿弥の車を引くため3日の暇を許可した慈悲に免じて許されよと懇願。小栗はそれならばと逆に所領すら与えた。
さらに小栗は常陸の国へ7千騎で所知入りし、横山攻めと相成った。これを横山も迎え撃つ。ところが照手は、もし父母に攻め入るならば自分を殺してからにせよとこれも押し止めた。照手は父に手紙を書き、父は「七珍万宝の数の宝より、我が子に増したる宝はない」と感激して、黄金や鬼鹿毛を添えて降伏した。小栗は黄金は辞退して横山を宥免したが、三郎だけは処刑した。
その後、ゆきとせ浦で照手を売った姥を竹ののこぎりで首を斬って処刑し、太夫には領地を与えた。その後小栗殿は83歳まで長生きして大往生を遂げた。小栗は神として拝まれ正八幡になり、照手は「契り結ぶの神」(岐阜県墨俣町の町屋の結大明神)として祀られている。
【所感】
「をぐり」は、本書中で最もおもしろく、最も感動的である。また、そこには中世的でない新しい人間観がある。小栗は大蛇を妻にする異常な人間で、一門の了承を得ないで妻照手を迎える。妻も一門の意志とは関係なく、小栗を一途に愛する。ここには夫婦の結びつきを、男女間の愛情と捉える感覚がある。
照手の小栗への愛情、貞節を貫こうとする意志は異常と言えるほど強力である。また、餓鬼阿弥に心を動かされ、別れがたく感じる所は、小栗との宿命を示すご都合主義に過ぎないとしても、美醜を越えて人間を見る照手の人間性を示している。しかも彼女は父や遊女屋の主人を許す慈悲深い女性である。もしかしたら照手は、理想の妻として表象されているのかもしれない。だが、それは後の貞淑で従順な妻とは全然違う。照手は夫に従属しているのではない、強い意志を持った女性なのだ。「をぐり」を読んだものは、この理想の女性照手を誰しも好きになってしまうだろう。
この異常な男女をヒーロー・ヒロインにしたところに、新しい感覚が表れている。
「をぐり」は、3つの信仰が雑多に結びつけられている。日光山、時宗、熊野の3つである(最初に毘沙門もあるが話の筋に関係しない)。
あいごの若
権勢並ぶものなき二条蔵人の清平は、みかどの前で行われた宝比べで家宝「やいばの太刀・唐鞍(からくら)」で勝利する。その際、宝の貧弱さを侮辱された六条殿は怒って清平に討ち入りしようとするが、家来にいさめられて留まり、代わりに子比べを催すようみかどに進言する。ところが二条殿には子がないから負けが確定。5人も子がある六条殿は留飲を下げる。
さらに六条殿は、二条殿が讒言したと言って二条殿の屋敷に攻め込む。二条殿もそれを迎え撃つ格好を見せるが、仲裁するものが表れて事なきを得る。(この部分は説経にふさわしくない戦闘がメインで、後の挿入と見られるという。)
二条殿は妻と子がないことを嘆き、泊瀬山の観音に祈願すると、一度は断られたがさらに祈願を続け「その子が3歳になると夫婦のどちらかの命を取るがそれでもよいか」との観音の夢告があり、それを了承して男児愛護の若が誕生した。愛護の若は無事13歳まで成長する。そこで母が「神や仏も嘘をいうのだ」と漏らし、これが命取りになった。泊瀬山の観音はこれを聞いており、仏罰であえなく母は死去した。[※しんとく丸と全く同じ]
二条殿は後妻を迎えたが、この後妻が愛護の若を一目見ると恋してしまった。そこで謎かけのような恋文をしたため、侍女の月小夜(つきさよ)に託した。月小夜が若に手紙を渡すと、見事若は謎を解いたが[※しんとく丸やをぐりと同じ]、継母の恋慕に嫌悪する。
継母は懲りずに7通の恋文を書くが、若は月小夜に「この手紙を父に見せて継母を懲らしめよ」と伝える。もし父にこのことが露見すれば継母の命はない。一転して継母は若への復讐を決意。月小夜の夫は「やいばの太刀・唐鞍」を持ち出し商人に変装して二条殿に売りに行く。我が家の家宝が売られていることを不審に思った二条殿が商人を問いただすと、暮らしに困った愛護の若が家宝を勝手に売ってしまったこと(もちろん嘘)がわかった。
父は激怒し愛護をさんざんに打ちのめし、桜の古木に縛って釣り上げた。もはや若を慕うのは白手の猿(山王の使い)しかない。一方、冥途に赴いた母は、閻魔大王に裁きを受けていた。母は愛護が死に瀕しているのを何とか救おうと、閻魔に懇願。それを憐れんだ閻魔は、今ちょうど死んだものの体を借りて一時的によみがえらせることにする。しかし折よく死んだものがなく、いたちがちょうど死んだところだった。母はそれでもよいとお願いし、よみがえった。いたちになった母は、愛護の若を吊るした綱を噛み切り、猿と協力して若を助けた。
いたちの母は、「比叡山西塔の北谷の阿闍梨が自分の兄、若の伯父にあたる人だから訪ねよ」と言って消える。そこで若は屋敷を抜け出し、比叡山に上ろうとするが道もわからず途方に暮れる。そこで出会った細工(細工の工人)は若を憐れみ、比叡山に連れて行ってあげる。ところがその入り口に女人禁制、三病者禁制(癩病等)、細工禁制とあった。やむなくここで細工とは別れ、一人で阿闍梨を訪ねるが、阿闍梨の家来は怪しみ、阿闍梨自身も「二条殿の若が従者も連れず来るはずがない」と信用せず、若をさんざん打ちのめし門前払いする。若は山を下りるが、道に迷い、衣は引き破れ、3日間さまよう。
そこで出会った田畑の介の兄弟は若を憐れんで食べ物を恵んだ。ところが次に会った穴太(あなふ)の里の姥は、若が桃を盗んだとか麻を乱したとか言って若を打ちのめした。若はきりうが滝(飛龍滝)につくと、散る桜を見て世をはかなみ、小袖を脱いで恨み言をさまざまと書き留めてから身投げした。
辺りの法師たちが不審に思い、残された小袖を持って阿闍梨のところへ行くと、それが二条清平の若のものであるとわかった。そこで阿闍梨は二条殿へその小袖を持ってゆくと、二条殿は息子が滝へ身投げしたことを知って悲しんだ。[※清平は息子を殺そうとしていたのに筋が通らない]
さらに小袖の下褄(したつま)を見ると恨みの一筆があり、これまでの経緯が書いてある。そこでまず田畑の介兄弟に褒美を取らせた。また継母と月小夜を処刑。次にきりうが滝に行き、阿闍梨に祈らせると、滝つぼの水が天に昇って16丈の大蛇が現れた。大蛇は若の死骸を護っていたのである。清平は我が子の死骸に抱きつき、「我も共にゆかん」と池に飛び込んだ。阿闍梨、その弟子たちも池に飛び込み、ついで桃惜しみの穴太の姥、田畑の介の兄弟、手白の猿、細工夫婦までもが後を追って池に飛び込んだ。その数は108人だという。
南谷の大僧正は「このようなことは前代未聞だ」と愛護の若を山王権現とお祭りになった。こうして4月の申の日に山王祭が行われるようになったのである。(なお、本編は浄瑠璃風に六段になっている。)
【所感】
なんといっても、最後に108人もの人々が入水するラストが異常である(しかもともに入水する理屈は見出しがたい)。ストーリーに一貫性がなく、いろいろな話がコラージュ的に組み合わされている感じがする。継母が継子をいじめる話は多いが、恋慕することが契機となっているのも何か不自然だ。また山王権現は古くから祭られているものなのに、愛護の若が山王権現というのもよくわからない。
細工や田畑の介という身分の低いものが人間的で愛護の若を助ける一方、阿闍梨が何の助けにもならないなど、身分の高いものへの不信がそこはかとなく本編の底流にある。なお、後述するが道行(みちゆき)はこの時代極めて容易に描かれるのに、愛護の若では道に迷うなど移動に苦労するのが際立っている。
まつら長者
竹生島の弁財天の由来を語る。大和の国の壺坂に松浦(まつら)長者という並ぶもののない長者がいた。しかし子がないので泊瀬山に詣で、たくさんの財宝を供えて祈願をすると観音が夢枕に立ち子を与えようという。果たして玉を広げたように美しいさよ姫が誕生した。しかし長者は病を得て、法華経一部を形見にして、若くして死んでしまった。そのため急に家は零落し、家来たちも散り散りになり、母と娘だけが貧しく取り残された。二人は窮乏の中なんとか暮らしたが、父の十三年忌のためのお金がない。そこでさよ姫は自らを売って菩提を弔おうとし、春日明神に買い手が付くように祈願する。
その頃陸奥の国の安達の郡に、大きな池があって大蛇が住んでいた。その村の人たちは一年に一人ずつ見目よい姫を大蛇に生贄としてささげており、今年はごんがの太夫の番にあたっていた。そこでごんが太夫は生贄の娘を買おうと都に上ってきた。
太夫は高札を立てて女性を募り、それを見たさよ姫は心を動かされる。いつまでも応募がないので太夫は困っていたが、春日明神が老僧の姿で現れ、松浦長者の家にいる姫がちょうどよいと言って掻き消えた。そこで太夫が松浦長者の家に行くとさよ姫が出てきて、5日後に身売りすることが決まって代金を支払った。
母は当然にそのようなことを望まず、泣いてさよ姫をとどめようとしたが、すでにお金をもらっておりさよ姫も決心していた。そして5日後に太夫が現れ、無理やりにさよ姫を連れて行った。あまりの悲しみに母は狂い、両目を泣きつぶして奈良の都を迷い出た。一方、さよ姫はごんが太夫と陸奥への旅に出た。この道行は他の説経とはちょっと違う。さよ姫は慣れない旅路に疲れ、また道々の伝説を聞いて悲しみを新たにする。途中、疲れてどうしようもなくなったさよ姫は太夫に二、三日の逗留を乞い、最初は太夫は断って杖でさんざんに打ち付けたが、さよ姫が哀れになって結果的には逗留した。[※こういうエピソードは説経としては異例]
ごんが太夫の屋敷につくと、奥方には意外にも親切にもてなされたが、大蛇に供えられることが説明されさよ姫は愕然と泣き崩れる。やがて人身御供に供えられる日が来て、姫は大事に輿に入れられ池の大蛇にささげられ、村人は退散した。俄かに空が掻き曇り、16丈の大蛇が現れて姫を一口に飲もうとしたところ、さよ姫は少しも騒がずにしばらく待てといい、父の形見の法華経を取り出して高らかに読誦、さらに法華経を大蛇の頭に投げると12の角がはらりと落ちた。さらに法華経で体をなでるとうろこが次々に落ち、大蛇は貴婦人に姿を変えた。
貴婦人が語るには、私はこの池に住んで999年、これまで999人の人身御供を食べて来た。こうして法華経の力で成仏得脱できたことはありがたい。そもそも私もかつて継母に売られ、橋を架ける人身御供として奉げられたものなのだ。その時の恨みでこれまで人身御供を食ってきたが、その報いでうろこの下に9万9千の虫が棲み苦しかった。このように尊い姫に出会えたことは仏の引き合わせである、お礼に病気を治す如意宝珠を与えよう、と。また姫に望みを聞いたところ、大和の母に会いたいというので、大蛇は姫を頭に載せると[※貴婦人に変わったはずなのに不自然]池に飛び込み、刹那の間に大和へ移った。この大蛇は壺阪の観音として祀られている。
元の屋敷に戻ったさよ姫は、盲目となってさまよっていた母を探し出し、如意宝珠の力で両目を元通りとした。元のように奉公しようという人が次々現れ、ごんが太夫夫妻を呼び寄せて家臣として重用した。こうして松浦長者の家を復興させたさよ姫は85歳で大往生を遂げ、今は近江の国竹生島の弁財天として祀られている。
【所感】
さよ姫は不思議な人物である。父の菩提を弔うために自分を身売りするという強靭な意思を持ちながら、物語のほとんどで泣いてばかりいる。しかし大蛇を前にして人が変わったように凛々しくなり、法華経の力で大蛇を救済するのである。(なお、本編は浄瑠璃風に六段になっている。)
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6編の説経を読んで一番心に残ったのは、なんといっても道行である。この6編には例外なく道行の場面がある。しかも複数あるものも多い。おそらく説経の原型には道行があるのだろう。道行とは、簡単に言えば旅の描写である。どこどこへ行って、次にどこどこへ行って、という地名の羅列である。そこに短い説明や伝説や、故事や言葉遊びなどがさしはさまれる。特徴的なのは、かなり長い旅路がいともたやすい様子で述べられることだ。中世末以降の人々は、いともたやすく旅をしていたことになる。(ただし、道行は古代からの伝統に則ったものだ。「まつら長者」での道行が妙に具体的で苦労エピソードが挟まれているのは、こちらの方が写実だという可能性もある。)
しかもその旅は、零落した乞食の境遇にあるものが行うのだ。今の旅行とは全然違う。それどころか、「さんせう太夫」と「をぐり」では、主人公は動けなくなっているのに、無一文でいざり車に乗って旅をするのである。沿道の善意によってである。当時、そのような境遇にある者へ慈悲を施すことが意味があることとして捉えられていたに違いない(それが厄介払いの要素を伴っていたとしてもである)。
このように説経でこともなげに旅ができているのは、説経師たちが旅から旅への生活をしていたことを反映しているのだろう。そして説経の基本的な筋が、富貴からの零落、継子いじめ、乞食の旅、盲目や病者、人身売買など、この世の辛酸を舐めるものばかりなのも、説経師たちが最下層の悲惨な暮らしを余儀なくされていたからなのだろう。
そして説経の最後は、自分を虐げたものへの復讐が多いことは、説経師ばかりでなく、それを聞く庶民の方でも世の中の不平等に対するうっぷんが溜まっていたことを示唆する。ただ、説経には、貧しいものが富貴の者を倒すという下剋上の要素は全くない。それどころか主人公はいつも富貴の家に生まれ、神仏の申し子として将来を約束されていたりする。その辛苦の物語は、いわばシンデレラ的なものだ。
また、説経には女性が積極的な役割を果たす物語が多い。宿命に抗おうとするのは女性であり、男性は受動的である。それは、説経師たちに女性が多かったということを示しているのかもしれない(だが絵巻物などでは男性が語っている)。
それから、大変興味深かったのは、御判とか赦免を求める際、説経では必ず都の朝廷・みかどへと向かうことだ。逆に将軍は全く出てこない。これは中世後期の、朝廷が有名無実化していた時代につくられた話であるにもかかわらず、将軍ではなく朝廷・みかどが実権を保持しているのだ。これは何を意味するのか。古い時代の記憶が呼び覚まされているのだろうか? それとも説経師たちにとって、朝廷・みかどの方が幕府よりも身近に感じられる理由があったのだろうか。
ちなみに、上述のあらすじを読めばわかる通り、説経は口承文芸としては結構長い。早口で演じても一編2時間くらいかかりそうだ。これを覚えて効果音(ササラ)を交えて演じるのは、相当な技量を要する。説教師は最下層の芸能民であったが、その技術をどこでどう身につけたのか。それとも中世の人々は、こういう長い話をすぐ覚えてしまうくらい記憶力がよかったのだろうか。
なお、歴史的な関心がなくても説経は話としてとても面白い。「小栗判官」や「山椒大夫」が日本人の共通知識となったのも納得だ。
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