2019年7月11日木曜日

『日向国山東河南の攻防—室町時代の伊東氏と島津氏』新名 一仁 著

鎌倉から室町までの日向国山東河南の歴史について、島津氏と伊東氏の関係を軸に語る本。

日向国の「山東河南」とは、宮崎県平野部の大淀川南岸を指す。ここは島津氏、伊東氏の領国の境界に位置していたため、その勢力が激突する場所であった。

鎌倉時代の山東
鎌倉時代の初め、宮崎県の荘園は、島津荘(約45%)・宇佐八幡宮領(25%)・王領(皇室領)国富荘(約20%)の3つで9割を占めていた。

ところが建仁3年(1203年)「比企能員(ひき・よしかず)の乱」が起こると島津氏は縁座(親類として巻き添えになって罰せられること)により薩隅日三カ国の守護職および島津荘惣地頭職を解任させられた。島津氏は後日薩摩の守護職には復帰するものの、日向からは手を引くことになり、広大な島津荘は北条氏が管理するようになった。

宇佐八幡宮領については、実際には様々に分割され、宇佐八幡宮の支配を離れて各荘ごとに領主が存在する状態となっていた。元寇より後、ここに伊東氏の一門、庶子家が下向してくる。伊東氏は静岡の伊東を本拠地とする鎌倉御家人であったが、幕府の依頼を受けて庶子家を下向させたのである。それが、田島伊東氏(田島荘)、門川伊東氏(富田荘)、木脇伊東氏(諸県荘)の3家であった。

国富(くどみ)荘については、鎌倉時代を通じて王領として維持され、鎌倉時代の最後には地頭として北条泰家が支配していた。

戦乱の始まり
鎌倉時代末はこうした状況にあったが、鎌倉幕府が滅亡して建武の新政が敷かれると、こうした土地は後醍醐天皇によって没収され、功績があった家臣達に分配されることとなった。国富荘・島津荘日向方を与えられたのが足利尊氏である。

ところが建武の新政は2年ほどで瓦解、足利尊氏は後醍醐天皇により追討令が出される。こうして国富荘・島津荘はある意味「無主」の状態となって奪い合われるのである。

この混乱に乗じて山東に進出してきたのが、都城盆地の三俣院を本拠地とする肝付兼重(きもつき・かねしげ)と、木脇伊東氏の伊東祐広(すけひろ)であり、これに対立したのが尊氏方を貫いた在地勢力の土持宣栄(のぶひで)である。 一方尊氏は、薩摩・大隅の両国には守護・島津貞久を下向させ、日向国には畠山直顕(ただあき)を「大将」として派遣し、肝付兼重・伊東祐広の討伐を命じた(建武3年(1336年))。

日向に下向した畠山直顕は、穆佐(むかさ)院・国富荘を本拠地として日向国を平定し、追って畠山直顕は日向国守護職に昇格したが、観応元年(1350年)「観応の擾乱」が起こる。「観応の擾乱」では畠山直顕は足利直冬方となって(結果的に)尊氏方・南朝方と対立。そしてこの混乱期に、直冬方として伊東本宗家は日向に下向してくるのである。

伊東本宗家の山東進出
しかし伊東本宗家当主・伊東氏祐は、すんなりとは山東に入っていくことができなかった。畠山直顕の軍門に降ってからも支配権を保持していた伊東祐広の子・守永祐氏が阻んだのだ。そこで伊東氏祐は、守永祐氏の娘を妻とすることで和睦し、その権益を継承する形で都於郡(とのこおり)に入部した。

一方、鎌倉幕府滅亡に際し、後醍醐天皇の下で一時は大隅・日向国の守護職も回復した島津貞久だったが、尊氏配下になるのが遅れたためか日向国守護職は大友氏に奪われる。ところが征西将軍宮懐良(かねよし)親王が下向し九州での勢力が大きくなると、大友氏や島津氏を初めとした多くの武家方国人は宮方に寝返った。そして貞久の三男氏久は畠山直顕を撃破して日向国進出を確固たるものにしていった。

そんな中、武家方の挽回のために九州に派遣されたのが今川了俊である。今川了俊は九州を制圧する勢いだったものの、島津氏と友好関係にあった前筑前国守護の少弐冬資(しょうに・ふゆすけ)を謀殺したため島津氏とは対立。今川了俊は伊東氏、土持氏などを反島津でまとめて国人一揆を主導したがさしたる成果もなく瓦解。やがて今川了俊は京都へ召還された(応永2年(1395年))。

そういうゴタゴタの間に、伊東本宗家の伊東祐安(すけやす)(氏祐の子) は国富荘を実効支配していった。これは違法な占拠だったが、今川了俊は島津氏との対抗上これを黙認。一方で国富荘は幕府にとって重要な経済基盤だったため、幕府は島津氏に国富荘を奪還するよう命じた。こうして国富荘を巡って、島津氏と伊東氏が対立するようになった。

島津家の山東進出
今川了俊の召還後、島津氏は山東に侵攻し加江田城を攻略(応永6年(1399年)頃)。国富荘全域を手に入れることはできなかったが、山東河南の一部を実効支配することとなった。さらに、本来は国富荘を奪還するよう幕府から命じられたことが大義名分だったにもかかわらず、島津氏は強引なロジックによって実効支配を幕府に追認させ、島津元久(氏久の子)は大隅・日向国守護職に命じられ、島津家は薩隅日の三カ国の守護職を手に入れた。

山東が係争の地となったのは、山北にいた島津氏の庶子家(北郷家や樺山家)からの要請もあったが、それよりも大きかったのは山東河南、つまり大淀川周辺が海運の要衝だったからである。内陸の大荘園である島津荘は、収穫物や貢納の運搬のために港を必要とした。であるから、山東の海岸までの領有権を確立することが重要だったのである。

山東河南への進出を果たした島津元久は、その支配のために異母弟の島津久豊を派遣した。そこで思わぬことが起こる。久豊は元久に無断で、伊東祐安の娘を妻に迎えて勝手に伊東氏と和睦してしまったのである(応永8年(1401年))。元久はこれに激怒。また伊東庶子家や山東の在地勢力も本宗家の単独講和を認めなかった。そのため元久と山東国人が結託し、島津久豊・伊東祐安連合との間で紛争が勃発する。この紛争は戦闘にまでは到らず、結局久豊と祐安の娘の間に生まれた虎寿丸を元久の人質にすることで和睦が成立した。

島津家の内訌と伊東祐立の侵攻
島津元久が没すると、島津本宗家の家督は元久の妹と伊集院頼久の間にうまれた犬千代丸に移ることになっていたが、これを阻止する形で久豊がクーデターを起こし家督を奪取した(応永18年(1411年))。伊集院家と島津家旧主流派(総州家)はこれに反発し、久豊方との抗争に突入する。その空隙を塗って、久豊の義兄弟にあたる伊東祐立(すけはる)(祐安の子)は山東河南に進出。北郷氏・樺山氏・佐多氏などを中心とする島津勢は「曽井・源籐合戦」で大敗、さらに久豊の居城だった穆佐城も焼き払われた。こうして伊東祐立は念願だった山東河南の制圧に成功した。

その背景には、かつて伊東本宗家よりも強い立場だった庶子家(田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏)を婚姻政策によって内部に取り込み、伊東家一門の結束を固めつつ本宗家の求心力を高めた地道な「血の結びつき」の構築があった。

さて、当然島津久豊としては奪われた山東河南の奪還を図る。伊東氏は講和を申し込んだが久豊はこれを拒否し侵攻。加江田城を陥落させ同城に居住した。1425年(応永32年)、久豊は病没し、山東制圧の宿願は穆佐城生まれの嫡男忠国に引き継がれた。また庄内国人(北郷氏や樺山氏)にとっても庄内の外港であった山東河南の奪回は宿願だったから、大規模な山東侵攻が行われるが島津勢は大敗を喫する。

しかもその隙を縫って、薩摩国では「国一揆」とよばれる反島津の反乱が起きた(永享4年(1432年))。中心人物は伊集院煕久や渋谷一族である。しかし忠国は山東侵攻を中止せず、伊東・土持連合軍と合戦。決着はつかなかったが伊東氏が領地を割譲することで和睦し、忠国は飯野や穆佐を回復したものの、「国一揆」への対応のまずさのためか失脚し、事実上のクーデターによって庄内末吉に隠居させられ、一躍リーダーとして擁立されたのが弟の持久(もちひさ)だった。こうして島津家は忠国派と持久派の泥沼の抗争に巻き込まれていく。

伊東氏中興の祖、伊東祐堯
そんな中で伊東本宗家の家督を相続した伊東祐堯(すけたか)は、島津氏が内訌で弱体化している間に国人支配(一揆の結成)と一族の結束を高め、山東全域の制圧に乗り出す。次々に山東を制圧すると、島津氏の拠点・加江田城、穆佐城も攻略し、遂に山東全土を統一した。後に「伊東四十八城」と呼ばれる広大な領域が伊東氏の支配下となっていったのである。

同じ時期、島津忠国・持久はようやく和睦し、また追って伊東氏とも和睦した。これにより島津氏は一時的に山東奪回を諦めることになる。 忠国の嫡男立久が忠国を加世田に追放する形で家督を相続すると、政治的には融和路線となり情勢は安定。さらに伊東祐堯とも改めて和睦し、立久は祐堯の娘を妻に迎えて血縁の上でも関係強化を図った。そして伊東氏の山東支配を認める代わりに、島津氏は庄内支配を強化していった。

島津氏が体制を立て直し、伊東氏とまた対決するようになるのは、16世紀に島津忠良・貴久親子が守護家を継承してからのことである。

さて、鎌倉時代から室町時代までの山東の歴史を見て感じることは、最終的に山東統一を成し遂げる伊東本宗家は決して最初から支配的な勢力ではなかったということだ。むしろ先行的に下向していた庶子家や土持氏のような在地勢力の方がずっと強かった。本宗家であるという権威も、ほとんどなかったように思われる。そんな伊東本宗家が結果的に山東の覇者になったのは、伊東祐安とその孫の祐堯の周到な婚姻政策が大きく影響していたのかもしれない。この頃、島津氏と伊東氏は対立しながらも関係を強化しており、久豊とその孫の立久は伊東氏から妻を迎えている。その微妙な距離感は興味がそそられるところである。

ところで正直に言うと、本書はほぼ2回読んだがなかなか歴史が頭に入ってこなかった。記述はわかりやすく簡にして要を得ているが、逆に言うとちょっと「分かっている人向け」の面もある。よりかみ砕いて説明し、人物像のイメージが湧くようなエピソードも添えてもらえると詳しくない人にも楽しめると思う。

やや専門的だが、マイナーな山東の戦乱の歴史がよくまとまった本。


2019年7月6日土曜日

『薩摩の女―兵児大将の祖母の記』大迫 亘 著

理想化された「薩摩の女」を描く小説。

著者の大迫亘は、加世田の没落士族・大迫家の次男として生まれた。父は医者だったが、母との結婚が認められなかったことや加世田の封建的な風土がイヤになり出奔。そのせいで母は気鬱症になり、亘は祖母に育てられた。亘の祖母・琴は一家の収入がほとんど絶たれた自給自足的な暮らしを農作業で支え、亘に対しては厳しい教育を行いながらも無限の愛情を注いだ。

こうして、亘は祖母を世界で一番尊敬するようになる。本書は、亘が(おそらくは多分に理想化された)祖母の思い出を小説化したものだ。前半は、祖母の少女時代から始まっているため、想像による部分も大きいと思われる。しかしそれは、亘にとっての理想の薩摩の女がどのようなものであるかを物語ってもいる。

本書に描かれる祖母・琴の人物像は次のようなものだ。
  • 西郷隆盛を崇拝し、その次に桐野利秋を敬慕している(祖母は桐野利秋と幼少期に繋がりがあった)。
  • 西郷や桐野の考えに影響され、農は国の根本との信念を持ち、自ら農作業に勤しみ、生産活動を第一に考える。
  • 強烈な負けじ魂を持ち、身分の高低にはこだわるものの、正しいと思うことを主張するのには一切の妥協がない。
  • 貧乏であっても自主独立の精神を持っているが、かなり頑固なところもある。
  • 一切の化粧をせず、着飾らず、美醜を超越している。

では、これらが当時の「薩摩の女」として理想的だったかというと、本書では結婚するまでの琴はかなり頑固者の変わり者として描かれているから、理想的だったとは言えない。やはり「従順な、可愛らしい娘さん」が薩摩でも理想の女だったのかもしれない。しかし結婚しやがて孫を持つようになると、近所でもひとかどの人物だと扱われているように見えるから、 周りの人からも立派だと思われていた模様である。

私が本書を読んだのは、男尊女卑が激しい薩摩の地で、理想的な「薩摩の女」の振る舞いがどのようなものであったかに興味があったからである。ところが本書に描かれる琴の行動は、男性と全く対等なのだ。失礼な言動を行った親戚の男性に、絶縁をちらつかせながら抗議する場面があるが、相手の男性も「女のくせに」みたいなことは言っていない。琴のセリフもいわゆる「女言葉(〜だわ)」はなく、男性と全く同じ言葉遣いで書かれている。琴の行動は男性以上に力強く、それが周囲にも受け入れられている。

かといって、当時の社会が男女平等だったかというとそうでもなさそうだ。「女は立派な人間を産み育てることが一番の幸せだ」といったセリフが出てくるし、結婚は親が決めた人だし、今からみれば女性がものの様に扱われている場面もある。

しかし全体を通してみれば、理想化された「薩摩の女」は、従順であるよりもむしろ独立自尊であり、守られたり愛玩されたりするのではなく、生産の現場で男性と対等に働く存在なのである。少なくとも著者、大迫亘にとっては、それが理想の女だったようである。

ちなみに本書はスピード感があって面白く、すらすらと読める。事実に即したものであるだけに奇想天外な大事件といったようなものはないが、意外と引き込まれる筆致だ。琴の人物像にもとても好感を持ったし、その生き方には心打たれた。

ただし本書は純粋な小説というよりも「思い出の記」であって、著者の前著『薩摩の兵児大将』を補完する形で書かれているため、独立した小説としてはやや舌足らずなところもある。前著とあわせて読むことをお薦めする。

薩摩における理想の女の力強さに心打たれる本。

【関連書籍】
『薩摩の兵児大将―ボッケモン先生青春放浪記』大迫 亘 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/08/blog-post_26.html
明治末期から昭和初期を舞台にした自伝的小説。

2019年7月2日火曜日

『中世島津氏研究の最前線』新名 一仁 編

中世島津氏研究に関する書き下ろし論文集。

本書は12本の書き下ろし論文によって構成されており、中世の島津氏について多角的に検討していくものである。

「第一部 島津氏の系譜と分国内の諸勢力」では、島津氏の発祥から織豊政権期までの政治的な動きが述べられる。島津氏は南九州において必ずしも軍事的には圧倒的ではなかったが、薩隅日の守護職をほぼ世襲化して「三州太守」は島津氏のアイデンティティとなり、同地を長く治めることとなった。これは、武力によるのと同じくらい、島津氏が政治的にうまく立ち回ったということに起因するのである。第一部では、島津氏を動かした政治力学についてトピック的に分析している。

「第二部 島津氏の外交政策」では、室町幕府や明との関係、琉球との交易について述べられる。島津氏はこうした外部との関係を自らの正統性を確立するためにも利用した。島津氏は近衛家を権威付けに使ったし、明に対しては独自に朝貢関係を持とうとした(成功はしなかったが草の根レベルで交易は行われた)。琉球に対しては、はじめ臣下として近づいたが両国内が安定すると強硬的な態度で臨むようになり、これは琉球出兵へと繋がっていく。

「第三部 島津氏権力の領国支配の特質」では、海上交通、宗教政策、城郭構造について述べられる。ここに紹介される浦役人の経歴は非常に動的であって、中世の港湾管理のイメージを一変させるものである。港湾管理の具体的な部分については立ち入った記述はないが、興味を抱いた。また、宗教政策については、島津氏と修験道との繋がりが要領よくまとめられており参考になる。

「第四部 近世大名島津氏への移行期」では、島津氏とって画期となった豊臣政権下での動向と、近世家譜編纂前の島津氏の歴史編纂が述べられる。島津氏には半独立の一族や家臣が多く存在し、それらを掌握しきれなかったのが課題であったが、それを島津氏一極集中の権力構造に収斂させたのは皮肉なことに島津氏にとっての危機でもあった豊臣政権であった。朝鮮出兵や太閤検地は島津氏の力を殺ぐことになった一方で、島津氏が豊臣秀吉から南九州の支配者として認められたことは、結果的に家臣団をまとめることに繋がったのである。

また本書中、簡単にしか書いていないが気になったことに次のようなことがある。
  • 島津忠良・貴久親子(相州家)が奥州家からクーデターによって簒奪した経緯のうち、「島津貴久は、奥州家菩提寺である福昌寺の所領を安堵し、同寺から”三州太守“と認定されている(p.45)」と述べられているが、これは福昌寺がクーデタを成功させる装置として機能したということなのだろうか。
  • 「珠全から珠玄・珠長と続く高城氏の家系は(中略)連歌に携わり、戦国期島津氏領国における文芸の展開に重要な役割を果たした(p.96)」という珠全法師とは何者か。また南九州において連歌、俳諧はどのように展開したか。
  • 島津氏久は派遣した遣明船に、志布志大慈寺から高僧十人を乗船させ、中国版大蔵経を2部獲得させた(p.104)のだが、なぜ大蔵経を手に入れようとしたのか。
  • 南九州には倭寇による被虜人(捉えられて連れてこられた人)がかなりいたようだが(p.107)、なぜ倭寇はわざわざ捕虜を捕まえて来たのか。こうした人はどのような待遇で過ごしていたのか。
  • 島津忠国が琉球を加封されたという「嘉吉附庸」説は史実ではない(p.120)とあったが、なぜこのような言説が生まれたのか。
  • 豊臣政権期、島津氏に畿内の情報をもたらしていたのが京都の「道正庵」であるということだが(p.209)、「道正庵」とは一体どのような存在なのだろうか。
その構成上、体系的に中世島津氏のことを理解できるわけではないが、様々な角度から島津氏の実態に切り込んでおり、関心の端緒がいろいろと出てくる楽しい本。


2019年6月29日土曜日

『知の職人たち・生涯を賭けた一冊(紀田順一郎著作集〈第6巻〉)』紀田順一郎 著

生涯最大の一冊の誕生のドラマ。

『知の職人たち』は明治から戦前までの大叢書・大辞書・大事典を生みだした天才たちのドラマであり、『生涯を賭けた一冊』は作家や学者ではなかった人を中心に、その生涯の総決算として作った一冊の本について述べるものである。

『知の職人たち』
コンピュータ誕生以前、辞書の編纂は壮絶な作業を必要とした。古今の文献から厖大な情報をカードをに抜き出し、整理し、意味を抽出し、体系化し、それを表現した。しかもその作業は、ある程度は分業ができたとはいえ、本質的には一人の頭の中で統合されるべきものだった。よって辞書の編纂は、知的な「英雄」によって初めて成し遂げられる大事業だったのである。

しかもそれは、一度本を読んだら二度と忘れない、というような驚異的な記憶力を持つ天才の力を以てしても、その全生命を費やさなくては貫徹できない仕事であった。

だから本書を読んで、胸が熱くなった。一冊の本を生みだすのに、ここまでのドラマがあったのかと感動に震えること間違いない。

本書に取り上げられているのは次の9冊。

塙保己一『群書類従』:塙保己一は盲人だったが、生来の学問好きからやがて学者となり、一大叢書製作プロジェクトを率い、数々の困難に遭いながらも635冊をまとめた。彼は門人に読んでもらった書物を記憶し、蓄積、整理して自らの頭の中に図書館をつくり上げ、それを『群書類従』として表現したのであった。

吉田東伍『大日本地名辞書』:吉田東伍も博覧強記の天才タイプだったが、三男だったこともあり満足に教育も受けられず、在野の学者として『日韓古史断』などを出版したものの学術界からは十分に評価を受けなかった。そこで日本中の地名を考証するという壮大な事業に集中することにし、他の全てを擲って執筆に邁進。13年かかって全11冊5800ページをまとめ上げた。この功績で吉田は中学しか出ていないにもかかわらず文学博士の学位を授けられた。今でも本書は地名考証辞典として価値を失っていない。

石井研堂『明治事物起原』:小学校卒でしかなかった石井は文筆を志し少年少女向けの雑誌の編集などを手がける。やがて明治文化研究会に所属し明治時代の研究をするうち、趣味的・好事家的興味から明治時代の様々な生活・文化・技術等の変化を調べるようになり、非常に正確な考証の上『明治事物起原』をまとめた。

斎藤秀三郎『斎藤和英大辞典』:語学の天才でエネルギッシュな人柄、一言で言えば「名物教授」的な人物であった斎藤秀三郎は、堅苦しい漢文的翻訳を廃したわかりやすい訳文によって明治時代の英語教育に新風をもたらした。彼は寸刻も違わぬ規則正しい日常生活・研究生活をたゆみなく続けることで、80年以上にもわたり再版を重ねた英和大辞典を書き上げた。本書の特徴は、熟語(イディオム)を中心として英語を理解しているところである。

日置昌一『話の大事典』:日置昌一は天才タイプでしかも伯父により英才教育を施されたが、大学等に行くことはできず、17年もの間(たった2日を除いて!)上野の帝国図書館に通い詰めた。そしてその成果として、詳細かつ近代までカバーした日本史の年表『国史大年表』全7巻を刊行。これは評判が良くベストセラーになったが、アカデミズムからは素人の仕事として好感を得なかった。そこで昌一は学問以外のところで博識を生かそうと、雑学大百科的なものを執筆し、その第1号が『話の大事典』で、さらにそこから『ものしり辞典』『ことばの事典』などを矢継ぎ早に刊行した。これらの本は戦後、知的に飢えていた人々に、すぐには役立たないが興味深い知識を提供した。彼は好奇心や向学心を持ちながらそれを体系化する機会がなく、身分的制約から昇進も望めなかった人々の中で一種のヒーローであった。

巌谷小波・栄二『大語園』:児童文学の作家であった巌谷小波(さざなみ)は、収集癖があったためか説話を大量に集める仕事をやるようになり、『日本昔噺』全24冊、『日本お伽噺』全24冊、『世界お伽噺』全100冊、『世界お伽文庫』全50冊などを編集。その集大成として東洋の古今の説話約8300を集めた『大語園』全7巻に至った。本書は小波の弟子の木村小舟が執筆を担当したが、荷が重すぎる仕事だったため中絶していたところ小波の息子の栄二がその編纂を継承して完成させた。特に出色の出来だったのが索引で、テーマからも固有名詞からも説話を検索できる当時としては全く例のないものだった。本書は経済的にはあまり成功しなかったが、手塚治虫がタネ本としていたことでも知られる。

牧野富太郎『牧野日本植物図鑑』:牧野富太郎は、採集した標本は40万点にも及び、牧野が命名した新種・変品種は1600に達し、名付けた学名は3000以上という超人的な仕事を成し遂げた。一方で彼は東大にいたけれども、そうした管理機構と馴染まない奔放な学者だった。そのため自ら貧乏くじを引いたようなところもあり、貧困と不自由に甘んじなければならず、晩年には東大を追放された。その翌年、牧野植物学の総決算として著したのが『牧野日本植物図鑑』であり、植物の図鑑であることを越えた普遍的古典である。

諸橋轍次『大漢和辞典』:中国留学時に辞書に苦労した諸橋轍次は自ら索引を作ったことが縁となり、大修館書店から辞書編纂の依頼を受ける。大修館書店は学習用参考書を作っていた出版社だったがその社長鈴木一平は「一生の仕事」として辞書編纂をしてみたいというのである。こうして諸橋と鈴木の苦闘の35年が始まった。途中諸橋は校正のため目を酷使し、失明同様になってしまったが執念で編纂を続けた。印刷にあたっては活字がない字がほとんどのため、最初は木版彫刻師木村直吉に作字を依頼し第1巻が完成。ところが昭和20年の大空襲で校了間近になっていた第2巻以降の組版が消失。再び活字を彫り直すことができないため、写真植字を活用することとなり「写研」の創立者石井茂吉に白羽の矢が立った。石井は晩年の8年間で、5万字の文字をつくり上げた。これは石井にとっても事業を離れたライフワークであった。35年の月日と、述べ25万8千人の労力、9億円(時価)の巨費をつぎ込んだ、未曾有の大漢和辞典はこうして完成した。

新村 出『広辞苑』:新村出はさほど気乗りしない仕事として辞書編纂に取り組み『辞苑』という辞書を完成させたがこれがヒット。この改訂版として百科事典的項目を充実させた『広辞苑』の企画が生まれた。成り行きで編集は大作業となったが、完成した『広辞苑』は世間の需要にマッチし戦後初の本格的大辞典として受け入れられた。やがて『広辞苑』は一人歩きを始め、日本語の規範とさえ考えられるようになった。新村出は「辞書の英雄時代」の最後を飾る存在だった。


『生涯を賭けた一冊』
 本書では、様々な境遇の人が、不思議な運命に導かれてライフワーク的な「生涯を賭けた一冊」を書き上げるドラマを追っている。ここで紀田は、単に伝記的な事実を整理するだけでなく、可能な限り子や孫など関係者に会いに行き、その不思議な導きを繙いていくのである。

特に心を打つのが、その生涯をたった一つのテーマを追うことだけに費やしたような場合で、内面からのやむにやまれぬ衝動が一冊の本に結実していく様子は非常に興味深い。ここに取り上げられている本は以下の通りである。

文倉平次郎『幕末軍艦咸臨丸』
岩本千綱『三国探検実記』
山本作兵衛『王国と闇』
田中菊雄『現代読書法』
玖村敏雄『吉田松陰』
松崎明治『釣技百科』
山下重民『新撰東京名所図会』


『知の職人たち』『生涯を賭けた一冊』共に、「本という形にまとめること」に取り憑かれた人々が生き生きと描かれていて引き込まれた。

名著誕生のドラマを追った胸が熱くなる本。


2019年6月26日水曜日

『紀州—木の国・根の国物語』中上健次 著

中上健次による、紀州の旅。

本書は、昭和57年の春から年末にかけて断続的に行った紀州の旅のルポルタージュである。言うまでもなく、中上健次は紀州(新宮)の被差別部落に生まれた小説家で、差別はその小説の大きな主題となっているが、ここでも旅のテーマは差別・被差別である。

中上の小説に出てくる被差別者は、決して虐げられてだけいる弱い人間ではない。むしろ彼の小説では、被差別者があたかも別の世界から来た強者であるかのように、異能力者であるかのように、いやむしろ一種のステータスであるかのように感じさせる部分がある。

例えば、一人の女が途方に暮れて、岬の崖に、父のいない乳飲み子を抱えて立っている。

このまま、いっそ死んでしまおうか、と崖の下の水しぶきを見つめる。だがしばらく身じろぎもしなかった後で、やはり死ぬのを辞めることにする。その瞬間、女は強くなるのである。居直らざるを得なくて居直った強さ、なりふり構わず生き抜かなければならない強さを身につける。

そして、その父のいない子は宿命を負う。自分たちを見捨てた社会を、父親を見返すという宿命である。宿命を負った人間は、強い。

しかしそれは、小説の中だけの話じゃないか、という部分もある。中上は被差別者からその強さを抽出して小説化したけれども、事実そのものを書いたわけではない。

だからこそだからと思うのだが、このルポルタージュでは、中上は「事実・事物」にこだわっている。司馬遼太郎の『街道をゆく』のように文人趣味の旅をするのではない。今ここに生きる人の事実・事物を知りたい。差別・被差別の本当のところを知りたい。そういう切実な旅である。

そういう思いが強すぎて、古座について書いたルポは掲載雑誌を見た古座の人から反論される。古座には、中上が書いたような差別はない、というのだ。

中上はもう一度、古座に取材に行く。関係者は怒っているわけではなかった。ただ事実誤認を正したいという。確かに中上の誤解があった。いろいろ聞いて結論づける。「差別はない」。でもやはり「差別はある」。そのどちらもが事実だ。

差別は解消されつつある、差別を解消する取組は続けられている。それはそうだ。でも被差別部落は、いつまでも貧しいままで、いつまでも生産の場から阻害されている。

被差別者を阻害する決まりがあるわけではない。あったとしてもそれは撤廃された。——だから差別はない。でも差別の構造は、何一つ変わっていない。「差別はない」のに!

本書は、読んで面白いものではない。中上は、行く先々で少し煙たがられる。出来ればそっとしておいてもらいたい差別・被差別の問題を、ほじくり返そうとするからだ。まるで、「差別はある」という言質を取ろうとするかのように。

だがこれは、出色のルポルタージュだ。そうまでしなくては、差別があること自体が語られなかったという証左なのだ。差別は常に隠され、ないことにされている。被差別者本人たちですら、差別があることが見えなくなってしまう。

例えば、(本書にそういう事例が挙げられているわけではないが)女性がいつまでも政治や企業経営など社会の表舞台にあまり出てきていない、ということについても同じことが言える。女性も男性と同様に被選挙権を持つ。女性が幹部社員になれない決まりはない。だから女性差別はない。男女平等なのだ。——本当だろうか?

女性たちですら、こうしたことがはっきりとした女性差別に依るものだとは思わないかもしれない。だがやはりその底流には、女性を差別する構造がある。その構造をはっきりと明示は出来なくても、女性を阻害する見えない何かが厳然として存在している。

本書において中上が紀州を巡り、見つめようとしたのはそういう何かである。その試みは、成功したとはいえないかもしれない。端正にまとめられた紀行文とはお世辞にも言えない。学術的に分析しようというのでもないから、差別の構造を解明したわけでもない。それに、差別の内実を暴く本なら、もっと赤裸々なものがわんさかある。

でも本書の価値は、はっきりとしない差別・被差別の事実を、ほとんど行き当たりばったりに、のたうち回って探ろうとしたことそのものにあると思う。

言葉にできないもの、されないものを、なんとか取り出そうと足掻いた旅の記録。

2019年6月14日金曜日

「話」を集めた民俗学者

南方熊楠の『十二支考』は驚異的な本である。

これは十二支に宛てられている動物たち(もっとも牛は除く)に関する蘊蓄を縦横無尽に語っている本なのだが、蘊蓄のレベルが超人的だ。古今東西の文献を博引旁証し、仏典のようなお堅い本から現代のゴシップのような話まで自由自在に飛び交っている。

これはある意味ではスクラップブック的な本であって、体系的に何かを論証・分析しようというよりは、興味の赴くままに面白話を乱打しまくるものだ。にも関わらず全体としては熊楠の世界観を提示する大曼荼羅という趣がある。

しかもその文体が、日本語として空前絶後とも言うべきものなのだ。

学術的なことを語ったかと思えばエロ話もあり、ところどころにダジャレや諧謔も差し挟まれ、そうかと思えば自分のことも剽軽に語りだす。さらには社会風刺や政府への批判、時事問題に対する警告(特に神社合祀問題)なども随所に登場し、天才・南方熊楠の人格がそのまま文章になったような天衣無縫、唯一無二の文体なのである。

私は若い頃本書を読んだとき、内容よりもその文体の自由さに惚れぼれして、こんな文章を書けるようになりたいと憧れたものである。もちろん内容の方もすさまじく、神話伝説、伝承、民俗を凄いスピードで駆け巡っており、ある時期、この本は私のタネ本にすらなっていた。

『十二支考』ですっかり熊楠の虜となった私は、東洋文庫の『南方熊楠文集(1)(2)』や中沢新一編集の『南方熊楠コレクション』(河出文庫、全5巻)などを買い集めたものである。十数カ国語を操り、博覧強記、熊野の田舎にいながら世界的研究を進めた(雑誌「ネイチャー」に掲載された論文数は、未だに日本人では最高という)熊楠は、私にとって知的ヒーローだった。

そんな南方熊楠を「日本民俗学最大の恩人」として尊敬していたのが日本民俗学の創始者・柳田國男である。

柳田は熊楠と知り合う前、既に『遠野物語』などを著して民俗学への歩みを進めていたが、熊楠との文通でその考えが具体化され、また熊楠から『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を貸してもらったことは日本民俗学の大系化に大きな影響を与えたと言われている。

しかし柳田は熊楠から教唆された舶来の「民俗学」を翻訳して日本民俗学を作ったわけではない。それは二人の書いたものを読んでみればすぐに分かることだ。

熊楠の場合、その研究は今で言えば「博物学」に分類され、良くも悪くも19世紀的な自由さと乱雑さに満ち、分析よりも事実のコレクションの方に重点が置かれている(もちろん分析も緻密であるが)。一方柳田の方は、伝承や昔話をコレクションするという採集者的な側面はありながらも、それをメタ的に解釈する、つまり「どうしてそういう伝説が生まれたのか」を考えることで民衆の思想を再構築しようとするのである。

例えば『山の人生』では、かつて日本には里に暮らす人々とは一風変わった山に暮らす民族がいたという考えの下、残された伝承や民俗からそうした山人たちの実態を推測しているが(なおこれ自体は現代の科学からは全面的には承認されていない)、「たった一つの小さな昔話でもだんだんに源を尋ねていくと信仰の変化が窺われる」として普通の人々の山に対する態度や考えの変化を示しており、柳田國男の想像した「山人」がここに描かれたものではなかったとしても『山の人生』は興味深い論考なのである。

ところで柳田國男を読んでいて感じるのは、様々な伝説や昔話が動員されてはいるものの、いわばそれが「不思議なこと」「ごく稀にしかない変わった出来事」などが中心となっているということである。これは考えてみればこれは当たり前のことで、平凡な毎日は伝説として残されるわけはないのだから、彼の研究の中心が妖怪や怪異が出発点となったのは必然だった。そして柳田の手法の要諦は、そうした奇異な出来事を語る語り口の変化から、人々の平素の思想の移り変わりを読み取る部分にあったように思う。

これは柳田の論考を読む上での最大の醍醐味でもあって、何気ない昔話や怪談から、その背後に隠れた意外な事実をスルスルと引き出して見せるところはまさに快感である。また柳田の文章は文学としても大変に優れているもので、熊楠の文章が唯一無二のものでしかありえないのとは違い、日本語としての普遍的なプロポーションを備えている。民俗学に興味のない人でも、「文学」として読めるのが柳田國男だと思う。

一方、初めて読んだ時に「挫折」したのが宮本常一の『忘れられた日本人』だった。

当時、私は別段民俗学に思い入れがあったわけでもなく、単に「名著だから」というような理由で本書を手に取った。

しかしどうも内容が頭に入ってこない。熊楠はもちろん柳田と比べても、随分内容が地味なのだ。当時私は東京にいて、いわゆる「コンクリートジャングル」で仕事をしていたのだから、この静かな本に耳を傾けることが出来なかったのも当然かも知れない。それで、面白くない本を無理して読むようなタイプではないので、途中まで読んだ『忘れられた日本人』は書架に戻されたのだった。

ところが、鹿児島のド田舎に移住してから本書を読んでみると、こんなに面白い本もなかったのである!

田舎に暮らす人々の、ありのままの暮らしがワーっと目の前に立ち上がってくるようで、しかも普通の人(これを宮本は「常民」と呼ぶ)のありさまが記述されているだけでなく、その暮らしや行動の底流にある「論理」がゆっくりと紐解かれていくのである。

同じフィールドワークをするのでも、柳田國男の場合、かなり意図的に「価値ある話」を選別して記録している感じがするのに比べ、宮本常一の場合は「そこらへんにいる普通の人の身の上話」をある意味で見境なく記録して、そこから社会の古層に入っていこうとする。

だから宮本常一のフィールドワークはすさまじく、日本全国を隈無くと言ってよいほど歩いており、歩いた距離では民族学者中で圧倒的だという。ちなみに宮本常一は、私が今住む南さつま市大浦町にも来たことがある。

しかしそれにしても、こんなに面白い宮本常一を、東京にいた頃は全く面白く思わなかったのだから不思議というか、本と自分との関係性は固定的なものではないということを改めて思い知った。

ところで私は娘たちに毎日読み聞かせをしていて、その基本図書が『日本の昔話 全5巻』(福音館書店)である。

これは昔話の第一人者である小澤俊夫が「おざわとしお」名義で出したもので、「子どもに読み聞かせられるちゃんとした昔話が少ない」という問題意識の下、福音館書店の総力を挙げて編集したものである。

「ちゃんとした昔話」って何? と思うかも知れないが、これは「昔話本来の形を残し、余計な脚色や文学的な表現をせず、耳で聞いて理解しやすいクリアな語り口で、しかも標準語で書かれた昔話」のことである。

というのは、よく売られている昔話絵本は、「残酷だから」という理由で結末が改編されるといったことは論外としても、かなりの程度脚色や補筆、現代化、幼児化(内容が単純化される)がなされており、我々の先祖が営々と伝えてきた昔話が破壊されてしまっているのである。これに対し、昔話のそのままの形を残しつつ、わかりやすく現代語に置き換える語り方を「再話」といい、小澤俊夫はこの強力な推進者なのだ。

また小澤は、「昔話大学」という昔話の保存、記録、読み聞かせ技法の習得などを行う学習会のようなものを全国各地で主催し、昔話の豊穣な世界を次の世代に伝えていくために精力的に活動した。

さて、長々とこういう話をしたのは、実は小澤俊夫が柳田國男から連なる民俗学の系譜に位置づけられる人だからで、柳田國男の弟子の関敬吾、のそのまた弟子が小澤俊夫にあたり、いわば彼は柳田の孫弟子なのである。

実は柳田國男自身も昔話の収集を行っており、それは『日本の昔話』『日本の伝説』にまとめられている。柳田は官僚であったため、全国の市町村に照会して昔話を収集するという、公権力を民俗学の研究に使うような、ちょっと今では考えられない手法で昔話を収集した。しかしそのおかげで全国津々浦々に残る昔話をかなり整理し、『日本の昔話』ではエッセンス的に表現した。

弟子の関敬吾も昔話の収集を行っていて、関の場合はただ収集するだけでなく、ヨーロッパの民俗学の知見を取り入れて昔話の類型分けを行った。ちなみに昔話の類型分けは世界的なプロジェクトであって、現在ではアールネ=トンプソン=ウター分類(Aarne–Thompson–Uther type index、ATU分類)というのが標準になっている。

この類型分けの最新版をまとめたのが分類の名前にも掲げられているドイツのハンス=イェルク・ウター。小澤俊夫は関敬吾に師事した後、ドイツに留学してウターにも学んでいる。小澤俊夫は、柳田から続く昔話収集の学統を継いだエキスパートで、さらにそれをこども向けの書籍へと普及させた人と言える。

こんなわけなので、おざわとしお再話の『日本の昔話 全5巻』は読み聞かせに最適なだけでなく学問的にもしっかりとしており、万人にオススメできる昔話読み物である。


2019年6月9日日曜日

『中世薩摩の雄 渋谷氏(新薩摩学シリーズ8)』小島 摩文 編

中世の渋谷氏に関する論文集。

渋谷氏とは、通称「渋谷一族」などと呼ばれる5つの氏族によって構成され、鎌倉時代から戦国時代にかけて北薩を中心に活躍した一族である。

島津氏とは五族がそれぞれ対立と融和を繰り返し、またこの頃は島津氏の内部でも争いがあったため非常に複雑な敵味方関係が入り乱れた。その経緯はかなりわかりづらいが、最終的に近世まで生き残ったのは五族のうち入来院氏のみであった。そして入来院氏は、600年間入来の統治を続けたことからその伝来文書群は「入来文書」として武家文書中の白眉とされており、エール大学の朝河貫一が"The Document of Iriki"として発表したことで世界的にも有名になった。

「第1章 史料と史跡からみた渋谷一族」(三木 靖)では渋谷氏の系譜が概略的に描かれる。渋谷氏の祖渋谷基家は武蔵国の東側沿岸地を開発し、本拠地として相模国渋谷庄(神奈川県綾瀬市、藤沢市、海老名市等にまたがる地域)を領有した。その孫となる重国は源頼朝の御家人となり、1247年の宝治合戦で薩摩半島北部を領有していた千葉常胤が討たれた結果、その領地(薩摩川内市を中心とする地域)が重国の子光重に与えられた。

光重は薩摩国の所領を次男以下の五男に分割(東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城)。当初は相模にいながらの支配だったが、やがてその子孫達は所領地に移住した。その移動は、一族はもちろん家臣を引き連れてのものであり、一家につき50家500人程度の規模が推測され、最小でも全体で2500人規模の移住が行われたと考えられる。こうして関東からやってきた渋谷一族が、北薩に一大勢力を持つことになったのである。

「第2章 南北朝・室町期における渋谷一族と島津氏」(新名 一仁)では、 渋谷一族の動向が島津氏との関係を軸に語られる(この章の内容については備忘メモとして後述する)。

「第3章 八幡新田宮の入来院・祁答院支配に関する一考察」(日隅 正守)では、新田宮がどのように入来院氏や祁答院氏に宗教的支配を及ぼしていたかをケーススタディ的に述べている。

「第4章 中世城館から見る渋谷氏の動向」(吉本 明弘)では、渋谷一族の主な拠点—鶴ヶ岡城(東郷氏)、虎居城(祁答院氏)、鶴田城(鶴田氏)、清色城(入来院氏)、妹背城(高城氏)—の城館跡が紹介され、その特徴を述べた後、歴史的事件や戦乱(を記録した史料)においてそうした城がどのように登場しているかを分析している。

「第5章 薩摩川内市湯田町の中世に関する検討」(上床 真)では、渋谷一族の争乱の舞台となったと推測される湯田町について、考古学的・歴史学的・地理学的に述べるもので、渋谷一族の話は直接にはあまり出てこないが、彼らが活躍した土地について深く知ってみようという内容である。

「第6章 近世・近代に描かれた中世渋谷氏」(岩川 拓夫)では、入来院三兄弟(有重、致重、重尚)の武勲顕彰の意味を持つ神社建立(江戸時代)、大正時代の正五位の追贈、皇紀二千六百年事業での純忠碑の建立といったことが取り上げられる。実際の入来院氏は南朝方、北朝方を転々としていたにも関わらず、南朝の忠臣として顕彰された。本章では、入来院氏が近世・近代にどのように受容され、「利用」されたのかがテーマである。

本書には、これらの論考の他、渋谷氏関連年表、系図、文書(歴史的文書)目録、文献(論文等)目録が付随しており(本書の1/3ほどを占める)、渋谷氏研究の便覧的に利用出来るようになっている。

全体を通して、あまり体系的ではなく研究ノート的な部分があることは否めないが、渋谷氏研究にあたって座右に置くべき本である。


**備忘メモ**(第2章の覚書)

「建武の新政」開始時、渋谷一族は足利方であったようだが、祁答院氏、鶴田氏、追って入来院氏が南朝に与するようになる。こうした事態を憂慮した幕府は守護島津貞久を下向させたが、これに応じて南朝方として激戦を繰り広げたばかりの入来院氏は一転して武家方に復帰。しかし入来院氏は島津氏に帰順したわけではなく、足利尊氏の直属の家臣として島津氏と同列で戦った。一方、後醍醐天皇の命により九州に下向した征西将軍宮懐良(かねよし)親王が薩摩に上陸し、南朝方国人の結束も高まり武家方と南朝方の抗争が展開した。

貞和5年(1349年)「観応の擾乱」が起こると、全国は足利尊氏・足利直義(尊氏弟)・南朝方の鼎立状態になる。この際、直義の養子の足利直冬(ただふゆ)は九州に逃れ、正統な将軍権力の代行者であるかのように振る舞って九州の国人(在地権力者)を統率。入来院氏はこれに応じて直冬方となり、尊氏方の島津氏とは再び対立。足利直義が南朝に帰順すると入来院氏も自然と南朝に与したが、直冬が没落して九州を去ると、入来院氏は再び武家方(尊氏方)に復帰して島津氏と協力態勢に入った。と思ったのもつかの間、薩摩国で南朝方が優勢となると孤立無援に陥っていた島津氏は南朝方に転じ、入来院氏と対立。かと思えば、入来院氏も南朝方に寝返った。さらに延文5年(1360年)には島津氏と入来院氏は再度武家方に復帰。ところが正平23〜25年(1368〜70年)に北薩・大隅・日向にまたがる地域で大規模な国人の騒乱「第一次南九州国人一揆」が起こると、渋谷一族はこれに参加し島津氏の攻略に参加。対立と和平がめまぐるしく繰り返され、誰が誰の敵なのかもよくわからない状況だった。

応安4年(1371年)、幕府が今川了俊を九州探題に抜擢して九州へ派遣すると、これが次なる台風の目になる。今川了俊はまたたく間に征西将軍府勢力を圧倒し太宰府を陥落して宮方勢力を駆逐。了俊は九州の有力守護、少弐冬資、大友親世、島津氏久を召集したが、あろうことか了俊は冬資を謀殺。これに反発した島津氏は宮方に帰順して今川了俊と対立した。

そこで了俊は幕府に要求して、薩摩・大隅国の守護を島津氏から了俊への改替を獲得。さらに子息今川満範を島津氏追討の対象として九州に派遣した。そして今川満範の主導のもと、「第一次南九州国人一揆」の構成員を中心に肥薩隅国境付近の反島津の国人領主が結集し、「第二次南九州国人一揆」が結成された。「第一次」は宮方が旗印になったが、「第二次」では反島津の立場が一致した幕府(武家方)のもとに騒乱が起こったのである。入来院氏は当初はこの一揆には参加していなかったがやがて参戦、だが渋谷一族全体としては島津方に与するものもいた。

ところが島津氏への総攻撃の直前、島津氏は今川了俊に帰順し所領安堵を得た。これに納得がいかないのが一揆を構成した国人たち。再び一揆契状を作成して反乱軍がまとまり、渋谷一族からは祁答院氏と東郷氏が参加。これを受けて今川了俊は再び島津氏追討を一揆側に命じる。こうして都城合戦、簑原合戦が起こり、双方に多くの死傷者が出たが結局島津氏の勝利に終わった。こうして一揆は崩壊したが、最後まで今川方に留まった入来院氏は独自の立場を強めていった。一方今川了俊は反島津の抵抗を続けたものの島津氏の支配領域は揺るがず、応永2年(1395年)京都へ召還された。

室町期に入ると、島津氏は今川方として行動してきた渋谷一族の掃討に着手する。これにより入来院氏の本拠清色城は落城。しかし同時に薩摩国山北では反島津の国人勢力が再び結集しようとしていた。相良氏、牛屎氏などが反島津の立場を鮮明にしていく。またこの時期、奥州家と総州家に別れた島津両家の確執が表面化。この対立において、鶴田氏を除く渋谷一族、相良氏、牛屎氏、和泉氏、菱刈氏が総州家方についた。こうした勢力を味方につけた総州家は鶴田において一度は奥州家に勝利。この戦いにおいて鶴田氏は本拠地を追われ、以後渋谷一族は鶴田氏を除く四氏となる。

一方入来院氏は、総州家から奥州家に寝返り、両島津家の対立を利用して本領に復帰、逆に両家の境界領域にある立地を活かしてキャスティングボートを握るようになっていく。入来院氏や伊作氏を味方につけた奥州家は総州家を圧倒するようになり、応永16年(1409年)、奥州家島津元久は薩隅日三か国の守護職を統一した。

ところが、またしても渋谷一族四氏は総州家に寝返り、奥州家に反旗を翻した。このため元久は出陣するが陣没。そこで家督相続争いが起こって奥州家は混乱。これによって総州家が勢力を挽回し、再び薩摩国の大部分が総州家方となり、奥州家との抗争の時代に入る。この抗争の鍵を握ったのは伊集院頼久であったが、激戦の末に谷山で伊集院氏は討たれ、この抗争は奥州家島津久豊の勝利に終わる。

この勝利を受けてか、渋谷一族四氏は一転して奥州家側につき、総州家への総攻撃に転じる。こうして総州家は急激に衰え、奥州家島津久豊は政権を確立したのであった。このことを示すのが「福昌寺仏殿造営奉加帳」(応永30年前後)であり、島津一族や国衆89名が名を連ね、薩摩国山北全域が久豊政権を承認していたことが窺える。

応永32年(1425年)に久豊が没し嫡子貴久(のち忠国)が家督を継承すると再び戦乱の時代となる。貴久が日向国山東の奪回に失敗した間隙を縫って、薩摩国全域で反島津氏国人が蜂起して長期にわたる未曾有の内乱が勃発したのである。いわゆる「国一揆」である。

内乱の中心となったのは、薩摩半島においては伊集院煕久、北薩においては渋谷一族をはじめとする山北国人であった。島津貴久は内乱を収めることができなかっただけでなく島津家内部の対立でも弱い立場となり弟好久(のち持久・用久)に指揮権を委譲。好久は「国一揆」の鎮圧に成功し、一時は家督相続一歩手前となったが、貴久は幕府から命じられた足利義昭追討の功によって立場を強め一転して有利に事を進め、文安5年(1448年)忠国・持久兄弟は和睦。これによって「国一揆」の戦乱は完全に終熄した。

この長期にわたる戦乱は、島津氏にとって大きな画期となった。例えば(1)南薩最大の勢力を誇った伊集院総領家の滅亡、(2)島津持久を祖とする島津薩州家の誕生(和泉庄、山門院(やまといん)、莫祢院(あくねいん)を中心とする政権)、(3)山北国人に対する支配の強化、といったことが挙げられる。

(3)については、渋谷一族にも「算田」が施されている。これは、所領に対して銭を賦課する、つまり課税措置のための検地である。「国一揆」で敵対した山北国人全てに対して算田が実施されたと見られる。忠国の「国一揆」の戦後処置は苛烈を極め、伊集院氏だけでなく、牛屎氏、和泉氏、野辺氏、平山氏といった平安・鎌倉以来の有力国人の没落を見た。

しかし忠国が没して嫡子立久が後を継ぐと、敵対関係にあった有力国人との和解政策が進められる。例えば入来院氏は知行宛行と引き換えに島津氏を認め、また島津氏は伊東氏とも婚姻を結んで和睦を成立させた。 こうして島津立久は室町期においてもっとも安定した政権を築いた。

立久が没して嫡男忠昌が継ぐと、今度は島津氏の同族争い(奥州家(守護家)vs薩州家vs豊州家)が有力国人を巻き込み、再び戦乱が起こる。 祁答院氏、北原氏、入来院氏、東郷氏、吉田氏、菱刈氏は結託して守護家に反旗を翻して争乱は三か国全土に及んだ。ここで台風の目になったのが豊州家で、豊州家は山北国人らから反守護家の旗印とみなされ、やむを得ず守護家との戦闘に突入。さらにこれに薩州家が加わり事態は複雑化。ちなみに渋谷一族では、祁答院氏が守護方に、入来院氏と東郷氏が豊州方についており一族が分裂して争った。

この争乱は島津家同士の和睦により収まったが、結果的に反乱の首謀者となった豊州家(島津忠廉)は排除され、 薩州家の影響力が強まる一方、島津本宗家(守護家)の求心力が低下して島津氏領国は本格的な戦国争乱に突入していくのである。

しかしそれにしても、鎌倉から戦国時代初めに至るまで、渋谷氏の節操のなさというか、敵味方をめまぐるしく転々とした行動には呆れざるを得ない。それはよく言えば争乱のキャスティングボートを握ったとも言えるし、悪く言えば日和見主義的であった。南北朝の動乱期においては、渋谷氏のみならず多くの在地領主が「昨日の敵は今日の友」式の合従連衡を繰り返したのであるが、渋谷氏のように節操なく敵味方を渡り歩いたのは数少ないだろう。

そして、渋谷氏のように簡単に寝返ってしまう人は、一度味方に引き入れたとしても簡単には信用してもらえないと思うし、むしろ味方にするには危険な存在であったように思うのだが、実際には渋谷一族は時に国人衆たちと、時に島津氏と協力関係になり、決して孤立してはいなかった。それが私にとっては疑問なのだ。簡単に味方を裏切ってしまうのに、なぜ渋谷氏はそれなりに重んじられていたのだろうか。不思議である。