2022年8月28日日曜日

『琉日戦争一六〇九:島津氏の琉球侵攻』上里 隆史 著

島津氏の琉球侵攻について述べる本。

江戸幕府の開創間もない1609年、島津氏は琉球に攻め込み、琉球を実質的に属国化した。本書は、その際に琉球が抵抗らしい抵抗もせずに服属したという通説を覆し、それなりの武力を持ち戦ったということを示すことを目的の一つとして執筆されたものである。

著者は、島津氏の琉球侵攻を「琉日戦争」と位置付ける。それは琉球は独立国であったのであり、また島津氏の侵攻は江戸幕府の許可の下に行われたものであったので、これは日本と琉球国の戦争であった、と見なすからである。そしてそれが一方的な侵攻ではなかった(琉球は抵抗し、島津氏側にも損害があった)ことを含意して「戦争」という言葉が使われている。

私が本書を手に取ったのは、「そもそもなぜ島津氏は琉球に侵攻したのだろうか」という疑問からである。それはしばしば「琉球との貿易の利益を独占するため」と説明されるが、そもそも琉球侵攻以前から島津氏は(大名としては)琉球交易の利益を独占していたし、琉球侵攻が明にバレると大きな国際問題に発展する可能性があった。後述するように明との国際関係が微妙だったこの時期に、あえてリスクを冒して琉球を属国化する理由がよくわからなかったのである。本書を読み終えた今でも、その理由には不明確な点が残っているが、私なりに理解したことをメモしておこうと思う。

「第1章 独立国家、琉球王国」では、琉球王国の成立とその繁栄・衰退が述べられる。琉球国はもともと3つの国(三山)からなり、それが尚氏により統一されて琉球王国となった。特筆すべきことに、統一前から琉球三山は明から貿易を優遇され、閔人三十六姓の派遣、無制限の朝貢回数許可などを得ていた。1458年に鋳造された「万国津梁の鐘」はその繁栄を物語っている。琉球は「万国の架け橋」として中継貿易で栄えた。

しかしその繁栄は、あくまで明からの優遇措置に基づいていた。明から供与された大型船とそれを動かす人材がなくては琉球は東南アジアまでの長距離航海をすることができなかった。よって中国沿岸の倭寇問題が沈静化していく15世紀中頃、明が優遇をやめ琉球との貿易を制限すると琉球の優位は失われた。「朝貢貿易の全盛期は三山時代から琉球王国が成立した頃まで(p.23)」であった。

こうした状況で1470年、琉球ではクーデターが起こり第二尚氏王朝が成立。奄美大島から与那国島までが琉球王国の版図となった。この版図拡大の背景には、貿易の衰退を埋め合わせる必要があったことが考えられる。またこの頃、東アジアの交易世界は「銀」をめぐっての新たな局面を迎える。日本では石見銀山の開発と新たな精錬法によって世界の3分の1ともいわれる莫大な銀が算出。逆に中国では銀が貨幣として用いられるようになり大きな需要が生まれた。よって民間の商人が銀を運んだのである。明は海禁政策を実施し、民間貿易を禁止していたから、これは違法な交易だった。すなわち16世紀からの新たな倭寇=違法海商の登場である(倭寇といえども中国人が多かった)。特に暴徒化した倭寇が沿岸を荒らしまわった「嘉靖の大倭寇」は、琉球の那覇まで押し入っていた。

こうした倭寇被害が大きくなったのは厳格すぎる海禁政策の帰結だったとし、明は約200年続いた海禁政策を一部緩和。これによって倭寇出現の根本原因が取り除かれた。日本と琉球は引き続き渡航禁止の対象であったものの、民間交易が認められた漳州の月港は空前の活況を呈する。これは、琉球が中継貿易で担っていた役割が漳州の月港に移ったことを意味した。この頃、(倭寇でない)日本人も東南アジアへ貿易に乗り出し、各地に日本人町が作られた。琉球自体が、日本人町の一つのような存在になっていた。

「第2章 九州の覇者・島津氏と琉球」では、島津氏が琉球とのいびつな関係を築いていく道程が語られる。島津氏・薩摩が琉球といつごろから交易をしていたのかは不明だが、15世紀後半、管領細川氏は日本国として琉球との通商を求め、その取次役として島津氏が活躍するようになった。その背景には細川氏のライバルである大内氏(山口)の交易活動もあったが、島津氏はこちらの取次も行っていた。16世紀前半には細川氏が衰微し、大内氏が琉球交易の中心となった(なお日明貿易は1547年の大内氏の遣明船を最後に途絶した)。

一方島津氏は、同じく16世紀前半頃から南九州から琉球へ向かう商船を印判制度を用いて統制しようとした。1508年、奥州家島津忠治は琉球王に「印判状を持っていない商船の積み荷は没収してかまわない」という島津奥州家が琉球交易を独占できる制度を提案している(『旧記雑録』)。このような提案がされたのは、私貿易の商船が少なからず琉球へ渡海していたからに他ならない。同時期、南九州と朝鮮との交易は途絶し、対琉球交易の比重が高まっていた。しかし琉球にとっては島津氏へ貿易を一本化する理由はなにもなく、この提案は受け入れられることはなかった。

16世紀前半、南九州は島津氏の本家争いである「三国大乱」が起こり、16世紀中頃にそれに勝利し南九州を統一したのが島津忠良である。その子貴久に琉球は「あや船」という正式な通交船を送り、倭寇対策として島津氏の印判制度が適用されることになった。琉球では尚元王の冊封が直前に迫っており、(交易品を売りさばく必要があるため)外来の商船や治安維持を必要としていたから、一時的な措置として印判制度を認めたものと思われる。ところが、当然のことながら、島津氏ではこれを恒常的制度として確立しようとした。ただし、島津氏直轄領と服属した国人領主の港では発給が確認されているが、どの範囲で印判制度が機能したのかはわからないそうだ。島津氏は印判(朱印状)を持たずに渡航する商船の取り締まりを琉球へ求めるようになる。

島津氏は琉球が思うように違反商船を取り締まらないことを咎め、円覚寺を通じての外交ルートも使い、圧力をかけた(この頃の琉球では禅僧たちが派遣され外交を担っていた)。これに応じる意味もあったのか、1575年、琉球はあや船を島津義久の家督相続を祝賀するために派遣。すると島津氏は印判のない船の入港をはじめ、数々の琉球の「非礼」を問いただした。これは「琉球側にしてみれば理不尽な話(p.83)」であったが、琉球の国力が低下していたことから、これらには琉球側が大きく譲歩して決着した。

またその10年後、琉球から天王寺の祖庭和尚が鹿児島へ派遣されたが、その際も使者の派遣が途絶えていることや進上物が軽微なことなどを非難された。この頃から島津氏は明らかに琉球を意図的に一段低いものとして扱うようになっている。かつてとは違い、島津氏は九州の大部分を手中に収め、強大な戦国大名となっていた。その軍事力・政治力を背景に印判制度は領国外にまで機能した。1852年に堺から琉球に渡海した商人川崎利兵衛はわざわざ鹿児島に立ち寄って家老の「添状」を取得している。おそらく「添状」のみならず印判状も発給されたのだろう。境の民間人にまで印判制度が浸透していることがわかる。

「第3章 豊臣秀吉の東アジア征服戦争」では、豊臣政権下における琉日関係の変化が述べられる。島津氏は九州統一の一歩手前まで行きながら、豊臣秀吉の圧倒的な力の前に全面的な戦争を経ることなく降伏。当主の島津義久は剃髪して龍伯と名乗った。ここに琉球への外交権は秀吉に移り、島津氏はその取次役となった。秀吉は琉球を日本の属国であるとみなしており、琉球の入貢が行われなければ島津氏を亡ぼすとまで恫喝した。しかし島津氏の家臣は秀吉へ反発しており、義久は秀吉に面従腹背の態度をとった。それでも義久は、1588年、秀吉へ服属するようハッタリを交えて勧める使節を送った。

折悪しくその頃、琉球では尚永王が30歳の若さで死去。世継ぎがいなかったため、傍系の浦添尚家より26歳の尚寧王が即位した。こうして1589年、尚寧王の使節は京都を訪れ秀吉に謁見した。琉球が日本の中央政権と接触するのは約100年ぶりのことであった。琉球は、秀吉の恫喝に屈した面もあるが、それ以外の事情もあった。尚寧王の即位は、明に冊封のための入貢を行う必要があることを意味していた(明に王として認めてもらうため)。そのために多額の費用が必要で、それに日本の銀を当て込んでいたのだ。明への冊封を見据えて、明に敵対的だった秀吉に従属したのは皮肉というほかない。

このあたりから秀吉・島津氏・琉球・明の外交は怒涛の勢いで進んでいく。秀吉は明を征服することを表明。島津氏にも軍役の負担を求めた。島津氏は琉球を属国扱いとしてその軍役の一部(兵糧)を琉球に割り振った。著者は、この割り振りの背景に亀井茲矩(これのり)の存在を推測している。というのは、秀吉は茲矩に琉球国を褒美として与えており、茲矩は「琉球守」(!)を名乗っていたのである。つまり名目上は琉球は改易され茲矩に与えられるのが筋であった。島津氏としてはそれは困る。そこで軍役の一部を琉球に負担させ、実質的に琉球が島津氏に従属していることを示し、琉球の改易を阻止しようとしたのではないかという。これは功を奏し、1592年、秀吉より琉球が島津氏の「与力(従属国)」であると公式に認められた。ちなみに茲矩には、まだ征服してもいない明の台州(浙江省)が代わりに与えられ「亀井台州守」を名乗った。

このような緊迫した状況で、同年、琉球はようやく正式な国交船「あや船」を関東平定を祝賀するという名目で秀吉に送った。しかし進上物は粗略で、割り当てられた兵糧についても無回答の状態であった。結局、秀吉に会うこともないまま「あや船」は帰され、義久のメンツはつぶされた。「与力」の失態は主である義久の責任だからである。それでなくても島津氏は失点続きだった。朝鮮出兵には割り当てられた人数を供出せずしかも出兵が遅れた(義久が後ろ向きだった)。その上、反秀吉の性格がある梅北国兼の乱が起こって義久の弟の歳久は自刃させられていた。

一方、琉球は明に秀吉の計画を裏で通報していた。しかもその背後には、義久の周辺にいた明人の存在もあった。琉球も薩摩も、表向きには秀吉に従いながら、背後では反秀吉の動きが蠢動していたのである。しかしながら表立って秀吉に歯向かえば滅ぼされる。そこで琉球は、薩摩藩に指定された兵糧は求められた半額であるが供出した。薩摩藩でも、義久は一貫して秀吉に面従腹背だったものの、朝鮮に渡海した島津義弘(義久の弟)は奮戦し、泗川の戦いでは少ない手兵で獅子奮迅の働きをした。しかしその裏で、薩摩在住明人や禅僧のネットワークによって、明と琉球・薩摩の間で停戦(反秀吉)工作が続けられたようである。そんな中、秀吉が死去。秀吉以外、誰も日明間の戦争は望んでいなかったので戦争は即刻終結したが、問題はその戦後処理であった。

「第4章 徳川政権の成立と対明交渉」では、琉球が対明戦後処理に巻き込まれていく次第が語られる。家康は、明との講和交渉を島津氏に命じた。泗川の戦いで島津氏が捕虜にしていた茅国科を明に送還し、それにあわせて交渉しろというのだ。しかし家康が提示した条件は、秀吉のそれを引き継いで高圧的なものだったので交渉は決裂。一方、琉球はそれまで「国方多事」を理由に明に尚寧王の冊封を求めていなかったが、戦争が終結してようやく明に冊封の要望を行った。明は治安の懸念などを理由にこれまで通りの冊封には難色を示したものの、琉球の必死の説得によって尚寧王の冊封が決まった(実際の冊封は後述)。もちろんこれには、これまでの反秀吉の蠢動が効いていた。琉球は、徳川政権とは距離を取ろうとしていた。

ところで、この時期の琉球の交易船には難破や漂着などの事故が多かった。先述の通り、明からの技術支援(閔人三十六姓、大型船の供与)なしでは、琉球の造船・操舵の技術は未熟であったためである。1602年、琉球船が東北伊達領へ漂着。家康はこれを手厚く送還した。薩摩藩は琉球にその返礼を送るように諭したが琉球はそれを無視。1604年には琉球の進貢船が平戸に漂着。続いて甑島(鹿児島)にも琉球船が漂着した。これが琉球を窮地に追い込んでいく。

薩摩藩からすれば、従属国である琉球の船が他藩領に漂着した場合、それを監督する責任は薩摩藩にあると解釈される。よって平戸に漂着した琉球船の交易品を回収した。が、琉球船は薩摩藩の監督なく勝手に帰国してしまう。島津側はこれに対する報復として甑島の漂着船とその船員を抑留。義久は琉球の非礼を難詰した。他方、徳川幕府としては漂着物の管理は公儀の権利として平戸の琉球船の積み荷を回収しようと試みた。島津氏としてはこの介入は無視できない。またこの頃、琉球は室町時代に島津氏に与えられたものだとする「嘉吉附傭説」を義久は主張し、琉球に従属を求めた。しかしいつまでも琉球は家康に聘礼を行わず、無回答状態を続けていた。

この間、島津氏の当主は島津忠恒(義弘の息子、義久の甥)に移り、忠恒は奄美大島への侵攻を計画した。これは唐突な感じが否めない。本書ではその理由を、(1)忠恒の家督相続を祝賀する使節を琉球が送らなかった、(2)家康に聘礼しない、(3)平戸漂着問題、(4)朝鮮軍役や亀井茲矩の件の無視、としているがここはよくわからない。徳川政権・島津氏と距離を取ろうとしている琉球を力によって属国の地位に留めるための出兵ということなのだろうか。なお義久としては大島侵攻は反対で、その協議をボイコットしている。また、この大島侵攻には財政上の理由もあったという。江戸城普請のために島津氏には石材運搬船300隻の建造が命じられ、また義弘養女の結婚など出費が重なっていた。1606年、島津忠恒は経済的な問題を後年に持ち越さないためには大島出兵の断行が必要だと表明している。要するに、侵攻を理由に領内に軍役(人・物・金)を負担させ、これから京都伏見藩邸の費用などを捻出しようというのである。

同じ頃、忠恒は家康より「家」の偏諱をもらい「家久」と改名(本稿では以下も忠恒で統一)。また徳川家康は島津氏の琉球侵攻を許可したという。そして1606年秋、島津氏は大島出兵を計画していたが中止する。明からの冊封使・夏子陽が来琉したからである。これによりようやく尚寧王は正式に王となった。この際、夏子陽は、茅国科を送還した海商(坊津の鳥原宗安)の接見を求めた。このため、琉球は薩摩に「あや船」を送り忠恒の家督相続を祝賀し、あわせて夏子陽の要求を伝えた。島津氏はこの機会をとらえ、夏子陽への外交文書と琉球王への外交文書の2通を琉球に渡した。夏子陽宛は、明の商船の薩摩へ毎年来航するよう求めるもの、琉球王宛ては、家康への聘礼を求めるとともに、明との交易の仲介を求めるものであった。これには家康の意向があった。家康は明との国交正常化が難しいことを踏まえ、琉球を通じて日明貿易を行う考えだったのである。これもよくわからない点である。琉球を通じた日明貿易をするならば、島津氏の琉球侵攻はむしろ止めた方がよいと思われる(実際、家康は琉球侵攻には積極的ではなかったという)。

ともかく、この時点で琉球の命脈は日明貿易の仲介を担えるかどうかにかかっていた。それができれば家康の目的は達せられるため、島津氏の琉球侵攻には大義名分がなくなるからである。琉球は明に国書を送り、漳州月港の民間商船が琉球に来航できる制度(文引制度)を設けることや、閔人三十六姓再下賜などを求めた。琉球は貿易体制の再構築を図ったのである。ところがこの要求は受け入れられなかった。明は、「琉球に民間商船を往来させることは、実態は陰で倭と交易すること(p.220)」であるから、密貿易勢力を増長させるとして痛切に批判した。

「第5章 島津氏、琉球へ侵攻」では、琉球侵攻の具体的な経過が述べられる。1607年には具体的な動きはあまりないが、島津氏は琉球侵攻を準備していたようだ。しかし1608年には、幕府は琉球出兵を中止するよう島津氏に連絡した。対明の講和交渉に支障をきたすおそれを考えてのことと著者は推測している。これを受け、島津氏としても外交交渉による解決を目指してはいた。

しかし1609年2月、義弘から尚寧王へ最後通牒的な書状が届けられた。それは「亀井茲矩の件、朝鮮軍役の不履行、聘礼使者派遣の遅滞、日明講和の仲介に同意しながらそれを守らなかったことを糾問(p.225)」し、家康からの琉球誅罰の朱印状が出されているとするものであったが(真偽不明)、あわせて、日明交易を仲介するならば侵攻しない、という趣旨のことを述べている。しかし先述の通り、琉球の交易の要求は明に拒絶されており、これは土台無理な話であった。こうして島津氏は琉球への侵攻を開始したのである。

以下、本書では侵攻の具体的な経過が描かれており、琉球側が無抵抗ではなかったということを立証しているが、詳細は割愛する。一つだけ述べれば、薩摩側には200名程度の戦死者が出ていることから琉球もある程度反撃したのは確かとのことである。

しかしながら全体としてみれば、琉球国はかなり一方的に負けている。といっても島津氏の軍が圧倒的に強かったとはいえない。また、彼らは軍規が徹底されていなかった。本当は琉球側に講和の意思があれば即時講和することを命じられていたのに、軍功を優先してどんどん進撃したり、軍の内部で対立を抱えていたことは、島津軍が軍隊としては未熟だったことを示している。それでも琉球側は海側の防御のみに気を取られ、陸からの進撃を想定していなかったことも仇となって敗北した。

「第6章 国破れて」では、侵攻後の琉球国がどうなったかが述べられる。島津軍は首里城を接収し、その宝物を運び出した。勝手に持ち出すものがないよう、慎重を期して点検・運搬し全部で10日間もかかったという。家康は琉球を打ち取ったことを「比類なき働き」と喜び、忠恒に琉球の仕置(支配)を仰せつけた。

一方、琉球は日本が攻め入ったことをすでに明に密書を送っていた。琉球が明に引き続き朝貢することを望んでいた島津氏は、これをもみ消すため「島津氏が攻め込んできたが彼らは慈悲深く信頼に足る国である」とする明への報告を琉球に行わせるとともに、問題の密書のありかを突き止め公銀100両で民間人より買収した(実際に買収したのは琉球の朝貢使節)。

また琉球はついに家康に聘礼を行った。尚寧王は明朝の装束で家康に対面。「家康は尚寧を捕虜としてではなく、一国の王として丁重に待遇(p.307)」した。

その後、琉球国には石高制が導入され、また奄美地域が分離されて後に島津氏による直轄地となった。また王家(尚家)は島津家の家臣となり、名実共に島津氏に従属する存在へと変わっていったのである。その一方で、明には引き続き独立国であるという体裁をとり続けることになった。というのは、家康や島津氏にとっての琉球の価値は、明との交易ができるという点が大きかったし、家康としても琉球を通じての明との講和交渉を期待していた。

そこで忠恒の圧力の下、琉球は明に対し使節を送り、日明貿易をできるようにするよう求めた。しかし明は異例の使節派遣を問題視するとともに、使節の中に「畜髪の倭人(=禅僧ではない)」がいたことなどから、交渉の背景に日本がいることを見抜き、逆に琉球の朝貢間隔を10年に1回へと減じた(元々は2年に1回)。事実上の朝貢停止である。

この強硬な措置に驚いた琉球は、以後さまざまに交渉して明との関係改善に努め、1623年に5年に1度へと緩和されている。

一方島津氏は琉球征服以降、渡航許可証による本格的な統制を試みている。征服後にも、民間の商船は盛んに琉球に渡海していた。島津氏の統制を受けない民間商人たちは琉球との交易を行っていたのである。島津氏の統制がどこまで有効に機能したかは不明だそうだ。

対して、幕府の方は貿易から手を引いていく。1611年には大名による朱印船派遣を停止。「島津氏は琉球を利用してルソン貿易を行おうと、琉球国王に対する朱印状を幕府に申請し、認められた(p.324)」。「琉球がフィリピンとの交易を行うのは約20年ぶりであった(同)」。しかしこれは最後の仇花というべきものだったかもしれない。1616年に家康が死ぬと、徳川秀忠は日明関係の回復を諦め、徐々に海外への門戸を閉ざしていくからである。

「第7章 「黄金の箍」を次代へ」では、さらにその後日譚が語られ、羽地按司朝秀(はねじあじちょうしゅう)の改革によって筆が擱かれている。これは最後に少し語られるに過ぎないが、「我々が「伝統」と考える沖縄のさまざまな仕組みや文化・風習は「古琉球」の次代から連綿と伝わったのではなく、その多くが羽地の改革路線のうえに誕生・成立したものなのである(p.339)」と書かれており興味深い。

全体として、本書は書きぶりは平易で読みやすいが、編年的に書かれておらず、年代が行ったり来たりするので経過の理解は困難だった。このメモを書くことでようやく見えてきた感じである。そして当初の疑問だった「そもそもなぜ島津氏は琉球に侵攻したのだろうか」については、はっきりとした解答が得られなかった。

「貿易の利益を独占するため」とはいえ、侵攻後も民間商船は往来しているし、朝貢を通じた交易については10年に1回という大打撃を被り、侵攻前に比べて却って不利になっている。侵攻後に島津氏はどのような点で得をしているのだろうか。長い目で見れば、琉球国は薩摩藩の「植民地」として徐々に搾取されていくのであるが、短期的には損失の方が大きかったように読めた(本書の記述でははっきりしない)。

ただし、名目的な面では侵攻は理解できる。属国扱いしてきた琉球が、秀吉の死後、急に距離を取り始めたので、このまま独立国の顔をされては「外聞」が悪いと島津氏が考えたとしても無理はない。また軍功なく初代藩主となった島津忠恒にとって、琉球征伐が自らの求心力を高める軍事イベントとして捉えられたであろう。こうした政治的な面の方が、貿易云々の実利面よりも琉球侵攻の真因であったのかもしれない。

ともかく、独立国であった琉球が日本の版図に組み込まれ、やがては沖縄県となっていく契機が島津氏の琉球侵攻であり、これは近代日本の成立にも大きく影響してくる事件であった。にもかかわらず、琉球侵攻はこれまであまり語られてこなかった。近年、多くの研究が進展し、それを踏まえてまとめたのが本書だということだが、未だ不鮮明なところが多く残されている。

琉球侵攻に関する現時点での研究を総合的にまとめた本。

【関連書籍の読書メモ】
『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/12/blog-post_20.html
島津義久・義弘を中心とした歴史書。琉球侵攻に至る薩摩側の動向については本書が参考になる。

 

2022年8月8日月曜日

『日本女性史』脇田 晴子、林 玲子、永原 和子 編

女性によって書かれた日本女性史。

本書は、女性研究者のみによって「日本女性史」を書いたものである。既に日本女性史総合研究会によって『日本女性史』全5巻という重厚な本がまとまっている中で、編者たちがどういった点を不足と見なし本書を手がけたのかは明らかでない。しかしおそらくは、日本女性史総合研究会編『日本女性史』が論文集的で一般向けには少し高度なものであるため、通史として読める平易な女性史を試みたものだと思う。

実際、本書は多くの研究者が分担して執筆しているが、記載の粗密があまりなく、たいへんよくまとまっており読みやすい。日本において女性という存在がどのような歴史を歩んだかということを理解するには、必要にして十分な内容を持っていると思う(本書編纂の時点では)。

「原始の女性」では、農耕以前の社会において女性が大きな役割を果たしていたとしつつ、日本は母系制であったか双系制であったかは議論があるとする。さらに卑弥呼の存在に注意するが、倭の五王がすべて男性であることを考えると、徐々に行政が男性によって独占される傾向にあったことを述べる。しかし6世紀以降でも、しばしば国造に女性が任命されたこと、推古以来8世紀後半までに女帝が集中的に出現することを踏まえ、ヒメ・ヒコ制(男女二重王権)が生きていたと指摘している。村の女性の生活については、衣類を織る仕事が女性の仕事として確立していたことが興味深い。

「古代の女性」では、律令国家における女性の地位の変化が述べられる。日本が範とした中国の律令制では女性は班田給付の対象から除外され賦課(課税)の対象にもなっていなかったが、日本の律令制では男子の3分の2の班田が給付された。しかも租・庸・雑徭が課されたのは男性のみで女性には免除されていたから、女性が有利な立場となった。

また結婚については、中国では未婚と既婚は峻別されて社会的地位に反映したのに比べ、日本の戸令・戸婚律は中国のやり方を形式的に引き継ぎながらも、実際には慣習が尊重されていたので未婚・既婚は曖昧であった。一方、官僚制においては、女性は中国と同じく官僚から除外されていた。ところが中国の場合は父系制が貫徹していたので皇帝も父系の血筋のみが重要で母の出自は問われなかったものの、日本では母方の系譜も重視されたため、一般女官と天皇の配偶者になる女官とは区別され、それがかえって一般女官の独立性を高め、実務家として発達していったとの指摘は面白い。

さらに話は6世紀末から8世紀後葉にかけての女帝が集中する時期の分析へ進む。この時期は極端な父系近親婚が行われた時期でもあり、編者らは女帝はその副産物であったと見ているようだ。則ち「血統の純化(p.38)」のために女帝が必要であり、天皇家の血統が確立した時には女帝はもはや「中つぎ」でしか登場しなくなっていた。

この頃の王朝文学では女性が中心的な役割を果たしていたが、女性の地位は低下の傾向を見せていた。妻問い婚など、女性は男性に従属しない社会的立場がまだ存在したものの、女官たちも性(後宮)と母性(乳母)の役割にのみ変質していく。また妻問い婚も、男性が来なくなると没落する女性が現れるなど、女性が男性に経済的に依存するようになる。女房たちの文学が栄えたのも、素養の高い娘を入内させ権門を拡大しようとした貴族の思惑があったからこそであり、外戚政治の終焉とともに女房文学も衰退した。

この他、芸能(傀儡子・白拍子・遊女)、物語に見る女性の立場、女性の農業などが語られる。中でも興味深かったのが、衣服についてで、3世紀から8世紀までは男女同形態の「貫頭」衣系の衣服が着用されており、次第に(特に公的な場で)袴が着用されるようになったのも男女同じであったという。もちろん衣服には差も大きかったが、その共通性に着目した記述が面白かった。

「中世の女性」では、まず中世には「嫁入婚」に移行したことが述べられる。婚姻は武士団のつながりを作る手段でもあったのが、一方で母親の権利は絶大であり、女性は男性に従属していたのではなく、独自の所領を持ち軍役すら課されたこともある。また乳母も一族の結合に重要な役割を果たした。

ところで頼朝には四人の乳母がいたが、それが全員尼だった(=寒川尼、山内尼、摩々尼、比企尼)のを改めて不思議に思った。乳母になる条件に出家があったのだろうか? 出家したのに子どもを産んでいたのも奇妙である(乳母は出産して、自分の子供とともに養育する子に乳をあげる)。

村の女性では、幕府の農民支配においては、家父長制原理によって女性は土地台帳から除外された。しかし実際には土地を所有していた女性は多くいた。また村落の神事などでは女性は排除されていない。つまり名目的な部分では女性は排除されていたが、実態としてはそれほど女性が社会から疎外されていたわけではなかった。

古代社会では、僧尼は基本的に対等に扱われたが、中世においては尼寺が僧寺に従属する存在とみなされるようになった(←しかしこの主張には具体的な根拠が挙げられない)。また女人禁制の習慣が広まり、「五障」「女身垢穢(にょしんくえ)」「三従」などの考えによって女性を罪深いもの・不浄なものと捉える価値観が浸透した。

衣服の変化についていえば、中世では男性は袴の着用が一般化する一方、女性は褶(しびら)か小袖一枚になり、ワンピース形式でスカート式の衣服になっていった。さらに褶もなくなり小袖の着流しになると、帯が必要になった。帯は最初衣服を留めるための実用的なものであったが、これが江戸時代になると装飾的なものとなり、また体を締め上げるコルセット的なものとなっていく。

室町・戦国期の記述では、活躍する後家尼の例がたくさん挙げられている。後家尼は主人亡き後の「家」を統括し、時には戦の指揮までも行った。ここでも「尼」の存在感は不思議である。尼という以上は出家していたのだろうが、俗縁を断ち切るどころか家を統括するとはどういうことなのだろうか。この時代、男も「入道」となって、法体でありながら戦をやっている人はたくさんいるのでそれと同じなのかもしれない。

朝廷では女房が天皇の取次役となって地位が上昇し、特に「勾当内侍(こうとうないし)」は内侍の最長老として宮廷の権限を一手に掌握した。綸旨ではなく(内々の勅旨を伝える)「女房奉書」で天皇の指令が出されるなど、「室町・戦国期の衰微の極にたっした天皇家では、諸事、勾当内侍のやりくりの才覚で、何とか家政や体裁がまかなえていたという感さえある(p.93)」。

この時代には商売が盛んになるが、品物の行商は女性によって始められた。多くの商売が女性によって営まれており、座の最高責任者、座頭職を所持していた女性もいた。女性は男性の補助ではなかった。他にも、酒作りが女性の仕事であったなど製造業でも女性は活躍していた。しかし近世に入ると、「女が酒蔵に入ると酒が腐る」といわれるなど、女性を不浄視する思想の浸透とともに商業や製造業から女性が閉め出されていくことになった。

本章の最後には、少し「熊野比丘尼」の話が出てくる。1563年(永禄6年)、129年ぶりに伊勢神宮造替(豊受大神宮の造替)を行い、本願上人として遷宮を果たした慶光院主清順上人は紀州入鹿村出身の熊野比丘尼であった。勧進に活躍した高野聖のことはよく知られているが、芸能(あるき巫女、声聞師)しつつ勧進を担った女性たち、熊野比丘尼、伊勢上人といった人たちがいたことを初めて知った。

近世の女性」では、幕藩体制の成立とともに、長男子単独相続が強固なものとなっていったことがまず語られる。女性は相続から完全に排除されていたのではないが、女性が家督を相続するのは他に男性相続人がいない臨時的なものに限られ、しかも代理人を立てなければならないなど、公的な場面での女性の排除が進んだ。

続いて、女流人(るにん)について述べるのが独特で興味深い。死刑に次ぐ思い刑罰だった流罪は、どのような女性が受けたか。一番多かったのが火付けの罪人であったというのが意外だった。遊女や下女などの最も弱い立場にいる女性が追い詰められて火付けをした。夫の罪の身代わりとなって流された女もいる。不義や密通で流された女も多い。江戸時代では妻のみが貞操を守ることを強制されていた。一方、男性の流人で一番多かったのは博奕の罪だというから男女の差は際立っている。

農村の女性の働きについては、江戸時代を初・中・後期に分けて詳細に述べる。大まかにまとめれば、権力者たちは「農家の嫁」に対して農業の補助を求めたが、小農経営の展開にともなって17世紀後半には女性の役割は拡大し、男女共通の作業が行われるようになった。さらに18世紀末以降には、女子労働の地位は上昇し、賃金差も縮小した。また商業の発展により、賃金をもらって働く仕事も多くなり、女性の家の外への社会進出が進んだ。

女子教育については、この時期に寺子屋の女性経営者が現れているということが注目される。やはり彼女らは女子教育を重視していた。しかもその教育内容は男子向けのものと変わらなかったようだ。ただし女子向きに琴や三味線などの習い事も教えていた。儒教道徳に基づいて(!)女学校を建てるべきだと主張する奥村喜三郎のような人も現れた。

町家女性については、三井家の事例が述べられる。初代の三井高利の母・珠法(稼業に身を入れない夫に代わり経営の中心となった)、妻・寿讃(高利を支え三井家の繁栄に貢献した)の例は興味深い。というのは、ここでもやはり女性は尼となっているからだ。

女性は仏教においても不浄観・罪障観で見られ、宗教的行為が制限されていた(女人禁制や寺社参詣禁止など)。一方、この時期に女性教祖が出現する。如来教のきの、天理教のみきなどだ。彼女らは家の枠にとらわれない、一人の独立した人間としての女性の救済を説いた。

儒教を批判した女性も現れる。幕藩体制社会批判の書『独考(ひとりかんがえ)』を表した只野真葛(まくず)は、「無学む法なる女心より、聖の法を押すいくさ心也」と述べて「女の闘争」を宣言した。彼女は儒教倫理への怒りを、国学と蘭学の素養から表現した。

逆に儒教道徳を貫徹することで自らの生き方を切り拓いた女性もいた。女性で漢詩人だった原采蘋(さいひん)である。彼女は「孝」を掲げて一生独身を貫き、誰かの妻ではなく「漢詩人」として生きた。この頃、女性であることを桎梏であると考え、そこから逃れようとする戦いを挑んだものが見られるようになる。

幕末の動乱については、野村望東尼(もとに)の例が紹介される。望東尼は「かりがねの帰りし空を眺めつゝ 立てるそほづ(=かかし)は我身なりけり」と詠み、自分を社会から疎外され傍観しかできないかかしだと嘆いたが、固い決意で和歌の修業に取り組み、夫の死後剃髪してからは主体的に行動していく。平野国臣など尊皇攘夷派の志士たちと付き合うようになったのだ。高杉晋作を自分の山荘にかくまったこともある。彼女は筑前藩によって弾圧されたが(流罪)、それに堂々と反駁したことが注目される。古典の学習を通じて女性の政治参加への正統性を論理的に主張する力がついていたのである。

近現代の女性」は、 本書中、最も分量が多い。文明開化政策の内実は女性を差別するものであったから、明六社の人々などは男女同権論を主張したり畜妾の風習を批判した。しかし衆議院議員選挙はおろか、町村制でも女性の参政権は認めないなど、女性は江戸時代以上に公的な場から排除された。新たにできた法や制度は逆に男女差別を確立した。明治政府は、家制度を元々そうであった以上に家父長制を貫徹したものに再構成し、女性を戸主の下に隷属化した。

こんな中でキリスト者たちは、女性教育や女性の権利を守る運動(廃娼運動)を行った。特に女性の高等教育はミッション系が先駆けた。それに対し一般的には女子の高等教育は導入されず、「良妻賢母」を育成するための教育が行われていた。それは、女性の側からの男女平等要求を押しとどめるために”賢い女性”を作ろうとするものであった。特に菊池大麓は「良妻賢母」の徹底につとめた。女性は必ず結婚しなければならず、妻にも母にもならない生き方は異端とされた。

一方、工場では女性は安い労働力として活用された。「日本の資本主義の中枢にあった紡績産業が若年の女性の低賃金と長時間労働、特に深夜業によって支えられ発展してきたこと(p.214)」は『女工哀史』に克明に記されている。彼女らはほとんど身売り同然で(父兄が契約して)工場に送られ、男性のほぼ半分の賃金で24時間体制で働かされた。そのような働き方をさせられた女性たちは「人間性までも損ない、いやしがたい傷を負わされた(p.218)」。

日露戦争が起こると、それまで婦徳の修養などを目指していた婦人会が軍事組織として活用された。女性は政治から排除させられていたのに、政治には強制的に協力させられたのである。

こうした動きに反発し、平塚らいてうらは『青鞜』で新しい女の自己主張をした。また女性が様々な職種で働いて(働かされて)いたことから、次第に母性保護運動や婦人参政権運動が起こってくる。女性は様々な義務だけ負わされていて、権利がないのはおかしい、という矛盾を突いたのだ。婦人参政権運動(婦選運動)は非常な盛り上がりを見せたが、貴族院では大差で否決され、遂に戦前では実現しなかった。

また廃娼運動も明治以来命がけの抵抗によって続けられてきたが、戦争が始まると公娼が戦時体制下にとって必要な制度とされ、「遊客数は1935年の約2700万人が37(昭和12年)には3000万人にものぼる異常な激増(p.261)」を見せ、「この底知れぬほどの性退廃は単に国内にとどまらず、アジアの侵略地にまでも広げられた(同)」。

国家総動員体制においては、女性たちは「軍国の母」として、「婦人の務め」を果たし、子を戦地に送ることが美徳となり、大日本連合婦人会、国防婦人会(→大日本国防婦人会)、大坂国防婦人会がその推進母体となった。1941年(昭和16)には、この三婦人団体を統合して「大日本婦人会(日婦)」が結成された。これは「20歳未満の未婚者を除くすべての女性を組織する」というとんでもない団体であった。女性労働力も根こそぎ動員されたが、これは徴用ではなくあくまで「自発的な勤労動員」であった。男性の多くが戦地へと行ったため、あらゆる職種で女性が働き手の中心となった。

戦後も旧政権の勢力は天皇制を温存し、「一億総懺悔」として全ての矛盾を国民に押しつける姿勢を見せたが、マッカーサーは「日本婦人の解放」を五大改革指令の第一に掲げ、男女平等への道が開いた。以後、参政権の付与と政治家への女性の進出、差別的労働条件の改善などが徐々にではあるが実現した。しかし例えば日本はILOから「国連婦人の10年」の間に格差が開く唯一の国ときびしく指摘されるなど、男女平等の取り組みは未だ道半ばである。

最後に、1985年(昭和60)、日本が女子差別撤廃条約に批准し、世界で72番目の締約国となったことで本書は擱筆されている。

本書は全体として、日本における女性の歴史を概観するのに優れている。それを改めて確認すれば、歴史以前〜古代においては女性の地位は相当に高く、中世においても女性は男性と対等の立場や相続の権利を持ち、「女人入眼の日本国(慈円)」と言われたように国の中枢に女性がいた。ところが既に中世の頃に女性の権利は凋落を始めており、近世に至ると仏教的にも女性の不浄観・罪障観が定着し、女性であることを桎梏と捉える態度も出てきた。明治維新後は、国家は家父長制を貫徹させ、女性を奴隷的に扱って国の駒として利用した。どうして女性の地位が「開化政策によって」低下しなければならなかったのかは本書には詳らかではない。さらに戦争中はその傾向が加速し、特に公娼・慰安婦によって女性は公然と性の道具とされた。戦後はそうした政策は修正されたが、未だに男女同権は実現していない。

こうした歴史の中で、非常に気になったのが、社会的に独立して活躍した女性に「尼」が多いということである。もちろん「尼」は専門的な宗教者として尊重されていたわけではないが(むしろ夫の死後に習慣的に剃髪する人が多い印象)、「尼」であるということも社会的地位に影響したのではないかと思われる。 尼であることの意味がなんなのか、本書に考察はなかったがより考究したい点である。

日本における女性の立場の変遷を平易に学べる良書。