2012年12月18日火曜日

『孔子』 貝塚 茂樹 著

孔子の人生、そして彼が生きた時代について概観する本。

本書を手に取ったのは、孔子について知りたいというよりは、孔子について貝塚先生がどう料理しているのだろう? という興味からだった。

まず感想としては、中国古典時代の碩学らしい重厚な背景知識を感じさせながらも、冗長になることなく簡潔にまとめられているな、というところ。だが、少し物足りないところもある。著者本人が後書きで述べているように、前半生を描くことに力をかけすぎて、大勢の弟子を引き連れていた後半生についてはかなりあっさり目な記述になっている。

しかも、なぜか後半では前半の記述の繰り返し的なものが散見され、短い本なのに力尽きたのかなあと感じさせられた。

また一方で、史実に基づき理想化しない孔子を描きたいという気持ちがあるものの、やはり著者自身が孔子に尊崇の念を抱いているためか、思いがやや上滑りしているような記載も見受けられる。気になる程ではないが、全体がフラットに描かれているので、もう少し距離を置いた書き方でもいいのではないかと感じた。

とはいうものの、孔子という人間を生んだ時代についての解説としては、教科書的な本で安定感はある。すごく面白いというものではないし、何かが分かった気になるような本でもないが、基礎的な知識を仕入れる本としては申し分ない。

2012年10月27日土曜日

『生活の世界歴史(5) インドの顔』 辛島 昇、奈良 康明 著

インドというつかみ所のない国を、「多様と統一」「本音と建前」というキーワードを用いながらその横顔を紹介する本。

この本は「生活の世界歴史」のシリーズに入っているが、ほとんど歴史的なことは語られない。それに、インド民衆の生活の変遷(例えば、カースト制の変遷など)を知りたいという人にも役に立たない。インドの民衆がかつてどうであったか、ということは資料があまりにも限定されていて、実際のところよくわからないそうだ。

というのも、インドにおいては書記階級はずっとバラモンであったので、バラモンの目からだけの「建前」の世界が記述されてきた。しかし実際とは食い違いがあったようで、その実態は茫洋としている。カースト制度も、実は本音と建前が入り乱れていて、その運用は複雑怪奇なのである。

ただ、現在のインドの姿の紹介は非常に丁寧で、インドに在住していた著者達ならではの実感のこもった記述が溢れている。一般の日本人にとってあまりイメージがないインド民衆の衣食住について、このように整理・紹介してくれる本は稀有である。

また、インドというと「とにかく多様な国だ」、と語られがちなのであるが、本書では多様な民俗や言語を包容するインド亜大陸が、どのように「インド」として統一されているかを説明する。それを乱暴に要約すれば、ヒンドゥーとカースト制(この2つは不可分であるが)による社会の規定が、良くも悪くもインドを統一しているのだ、となる。それが妥当な見解なのか私にはよくわからないが、ナルホドと唸らされる説明ぶりである。

本書は、インドの文化論としては論旨が明快で説得力があり、バランスの取れたものであると思う。とはいえ、文化論を謳っているわけではないから、その記述は体系的でないし、あくまでインド文化の軽い紹介のレベルに留められている。それは少し残念だが、そのためもあってか語り口は平易で、読みやすい。

「生活の世界歴史」の本なのかというのが疑問ではあるが、良書だと思う。

2012年10月1日月曜日

『日本神話の源流』 吉田 敦彦 著

日本神話と類似の構造やストーリーを有する南洋、江南、印欧神話を紹介する本。

日本神話が大陸および南洋(ポリネシア等)から様々な影響を受けて成立したことはよく指摘されるとおりで、特に海幸彦・山幸彦の釣り針喪失譚などはポリネシアにも類似の神話が多数散見されるなど、神話の分布の様相は人類史的にも興味深いテーマである。

しかし、釣り針喪失譚についてはよく指摘されるもののそれを体系的に述べた本は実はあまりなく、本書においてもつまみ食い的に紹介されるに過ぎない。著者は印欧神話の比較神話学の大家ジョルジュ・デュメジルに師事しており、その専門は印欧神話、特にギリシア神話なのでこれはしょうがない面がある。

つまり、印欧神話との比較の部分以外は著者にとっても専門外であるため、少し物足りない部分もあるのは否めない。しかしながら、むしろ本書の面白さは、バリバリの日本神話の学者ではなく、印欧神話を中心にした比較神話学者が日本神話を見るとどう映るか、という点にある。

正直、その見解は「こうとも考えられる」「これはあれと似ていなくもない」のような憶測に頼った弱い面が散見され、説得力は強くない。私自身は、著者の見解にはかなり懐疑的だ。 とはいうものの、日本神話がこうして様々な地域の神話との比較を受けるという機会はあまりないので、その意味では貴重な本だと思うし、憶測が多いとは言っても著者は学術的スタンスを崩さないので安心して読める。

著者が一貫してその主張を支持した民俗学者の大林太良や松本信広の本も読んでみたいと思った。

2012年9月23日日曜日

『正義と嫉妬の経済学』 竹内 靖雄 著

「世間ではこう思われているけど、よく考えてみるとこうでないの?」ということを時事問題を中心にして述べる本。

本書は「経済倫理学」なるものを提唱した著者が、世相に対して経済学的視点から気の利いたことを言おうとした本であり、出版当時においては、実際に少し気の利いた本だったのだと思う。

しかし、本書の出版は1992年で現在から20年も前のため、取り上げる時事的な世相が既に過去のもので、それだけで本書の意義は半減している。さらに著者の見解は、当時は独創性があったのかもしれないが、今では常識化しているものばかりで、はっきり言えば陳腐である。しかもそれは、著者が時代を先んじていたわけでもない。本書には言及がないが、その見解の主要な部分はミルトン・フリードマンなどに負っていると思われ、正直、本書を読むよりも例えば『資本主義と自由』を読む方が、より体系的かつ理論的に著者の主張を摑めると思うし、普遍的価値がある。

さらに、書名となっている「正義と嫉妬の経済学」は、本書の内容とほとんど何の関係もない。著者の提唱する「経済倫理学」自体についての説明はほとんどないが、要は「倫理的問題と思われていることを経済的な領域に落とし込んで考える」ということのようで、それはそれで一つの立場だと思う。しかしそういう分析手法は本書にほとんど登場しないし、正義も嫉妬も何の関係もない話が多いのは残念だ。

しかも、本書で多少触れられる倫理学的な問題についても、ピーター・シンガーの動物倫理を「無理がある」の一言で片付けるような乱暴なところがあり、とても真面目に倫理問題を検証したことがあるような言とは思えない。経済倫理学などというならば、厚生経済学についても触れるのが当然と思うが、本書にはケネス・アローもアマルティア・センも登場しない。著者のいう経済倫理学は、せいぜい「正義感に基づいて管理しようとするより市場に任せる方がうまくいく」程度のものでしかないように思われる。

ついでに言えば、著者の専門であるはずの経済学についても、バブル経済的な浮かれ気分から冷静な分析ができておらず、バブル崩壊後にもかかわらず依然として「世界一好調なのは日本経済」というような根拠なき自信に溢れており、バブル崩壊によってもたらされる影響を過小評価している。それだけでも著者の主張は眉唾して見るべきだ。

本書は今で言えば経済評論家がブログで書くようなことが並んでいて、世相の分析についても解説ともいえないような通俗的なことが連ねられているし、なんら意味のある主張もなされず、「だから何?」というような内容である。出版当時は多少気が利いていたのかもしれないが、20年の間に完全に陳腐化した本。

2012年9月16日日曜日

『街道をゆく(19) 中国・江南のみち』司馬 遼太郎 著

ご存じのシリーズ。江南の地をゆく司馬遼太郎のエッセイ。

江南地方は日本文化に非常に大きな影響を与えているが、具体的にはよくわからない部分が大きい。華北的な儒教や律令といった政治の道具と違って、江南の地からもたらされたものは文化であるために、その有り様は茫洋としている。

元より「街道をゆく」は気軽なエッセイで、体系的な考察ではないし、ときに見聞の記録ですらない。しばしば、「ところで…」と脱線してしまうし、いろいろ準備しているとはいえ、数日間の強行日程で深い考察などできるはずもない。よって、その茫洋とした江南の文化を本書で知ることは不可能で、ただ少し垣間見ることができるだけに過ぎない。

「街道をゆく」はおそらく20冊以上読んでいるが、やはり中国については現地の事前知識が少ないためか本書にはおざなり感がある。読んでいて退屈な部分もある。いろいろとヒントや小ネタが満載なので、決して価値の低い本ではないけれども、紀行文として読むと少し物足りない。

日本国内の「街道をゆく」であれば、「もしかしたら〜は〜だったのかもしれない」というような、良くも悪くも自由な発想で「司馬史観」が展開されるわけだが、本書の場合は背景の解説のみに止まっている部分が多く、それが退屈なのかもしれない。悪い本ではないし、著者のファンならば全く問題なく楽しめると思うが、同シリーズの中においては凡庸な本。

2012年9月15日土曜日

『西欧古典農学の研究』 岩片 磯雄 著

18世紀初頭から19世紀中葉までのイギリス及びドイツの農学の流れについてまとめた本。

この本は、テーマが非常に限定されていて、また内容も学術的であり読者を選ぶ本ではあるが、類書もほとんどなく価値が大きい。

内容は、著者の農業経営に対する見方を示す序章の後、農学の流れの概要を解説、その後イギリスについてはジェスロ・タルとアーサー・ヤングの業績をまとめ、次にドイツについてはアルブレヒト・テーアとチューネンの業績をまとめる。

既出の論文等の改稿が多く、若干体系的でない部分があることと、学術的な記述ぶりのため英語及びドイツ語が頻出するものの、近代農学が成立する流れについてはある程度理解できる。とはいっても、各農学者の主張については、かなり取捨選択している感があり、例えばテーアにおいて簿記の導入が記載されないなど、粗密があるように見受けられた。特に休閑については、著者自身がこれを重要視しているにもかかわらず、些末な点に拘泥するあまり、休閑をどのように克服したのかということが最後までよくわからない部分があった。

それに最大の問題は、「西欧古典農学」を謳いながら、その対象をイギリスとドイツのみに絞っていることだ。 ヨーロッパの農学史は詳しくないが、フランスには農書の名著も少なくないと聞く。せめてフランスの農学についても概略を記載してもらいたかった。

と、いろいろと批判する点はあるものの、先述の通り類書もほとんどなく、書かれている事自体は様々な資料を縦横に駆使し、極めて堅実に書かれており、古い本なのでちょっと気になる部分もあるが全体的には明快で、この分野においては基本図書と言うべき重要な本である。

内容については別のブログにまとめたのでそちらもご参照されたい。

2012年9月8日土曜日

『アイガモがくれた奇跡 失敗を楽しむ農家・古野隆雄の挑戦』 古野 隆雄 著

アイガモ農法の第一人者である著者が、さまざまな苦労をしながらアイガモに出会い、やがてアイガモ農法を確立・普及させていくサクセス・ストーリーの本。

本書はアイガモ農法そのものの話ではなく、著者の人生の振り返りとも言うべきものである。ただし、話の流れ上アイガモ農法の利点も学べることができ、その雰囲気や、どのような背景で成立したのかといったことも知ることができる。

一農家にすぎなかった著者が、完全有機栽培を始めアイガモに出会い、苦労をしながらもアイガモ農法によって成功し、各国で講演をしたり、本を出版したり、スイスのシュワブ財団より2001年「傑出した社会起業家」の一人に選出されたりするというのは、話として面白い。

また、これは純粋な著書ではなくて聞き書き(取材したことを編集者が書いて、それを著者が校正する)だし、元は新聞連載なので大変読みやすい。ワクワクドキドキというような展開はないが、ひどく退屈な部分もない。

人生を通して何かを言う、のような偉ぶったところもなく、教訓めいた話もない。同時に、深い洞察や哲理も述べられないが、そこはあっさりとしていて逆によい。

とはいうものの、これはアイガモ農法を確立した著者の人生に関心がある人だけが読む意味がある本である。これを読んで勉強になる! などということは、農業をしていない人にはないと思う。でも農業従事者であれば、著者の生き方には何か感じるところがあるかもしれない。

2012年9月7日金曜日

『生活の世界歴史(4) 素顔のローマ人』 弓削 達 著


頽廃するローマの社会を、そこに生きた人々の叙述を通して描き出す本。

本書はローマの社会を学ぶ本ではなく、むしろ頽廃した社会の中で人がどのように生きたかを学ぶ本であり、極めて現代的な側面がある。

よく知られているように、帝政ローマでは拝金主義、奢侈、堕落、不信、嫉妬、残酷、度を超えた美食といった悪徳がはびこり、性の頽廃とそれによる家庭崩壊によって価値観が崩壊し、さらに度重なる戦争も相まって社会が乱れに乱れていた。

もちろん現代から見ても先進的な制度や、誇るべき言論もあったが、全体として社会は卑俗なものとなっていた。だがそこで生きる人の中にも、悪徳を告発し、高貴な精神を保ちたいと願った人はいて、それが本書の主人公だ。

具体的には、哲学者としても名高いセネカ、『博物誌』を書いた大プリニウスの甥の小プリニウスが中心になる。彼らは社会の悪徳を嫌悪しつつも、その社会の中で勝ち上がった現実的な人間であった。そして、そうした勝ち組も冷ややかに見つめるのが、詩人のマールティアーリスであり、彼の毒舌が本書のアクセントとなっている。

この中で最も魅力的なのがセネカで、「自らもまた罪と悪に染まったところの、この社会における加害者の一人たることを嫌悪をもって実感しつつも、加害者たることをやめ切れず、罪と悪から逃れえない心の弱さと矛盾に悩む奈落の底から、救いを求める求道者がセネカであった」(p.92)という説明に要約されるように、複雑な内省を抱えた憎めない人間像に惹かれる。

本書の難点としては、資料の引用が非常に多く、時に冗長であることだ。当時のローマ人の手紙の長ったらしさは異常で、それを抜粋とは言えかなりの分量引用するので読むのが疲れる。もう少し簡潔に叙述できたのではないかという気もするが、当時の雰囲気をよく理解することができるという利点もある。社会が乱れつつある今、帝政ローマで何が起こったかを知ることは有益だろう。

2012年9月6日木曜日

『インターネットの中の神々―21世紀の宗教空間』 生駒 孝彰 著

インターネット勃興期の20世紀末において、アメリカの宗教団体がどのようにインターネットを活用しているかをまとめた本。

出版が1999年なので、今の宗教界におけるインターネットの利用とは既に隔世の感があり、現状を知りたいという人には無用な本だが、当時を知りたいという人には貴重かもしれない。

本書の基本的構造は、「検索したらこんなのでてきました」というのがずらずら続くだけで、特段深い洞察があるわけでもなく、著者がいろいろな宗教、宗派にわたって検索した結果がまとめられているだけである。そういう意味では非常におざなりな本なのだが、そもそも本書の目的がそういうことをまとめることにあるわけで、これはこれでよいと思う。

なかなか面白いと思ったのは、アメリカの宗教団体のインターネット利用の基本的姿勢が、Eメールによる信者との交流にあるという点だ。様々な問題が宗教の観点から議論されるアメリカでは、家庭や社会の問題について宗教者に相談するというのが一つの常道となっており、そのためEメールでの相談が積極的にされているのだという。日本でも、社会問題に対して宗教団体がだんだん積極的に発言するようになってきたが(例:脱原発)、そういう使い方がされているのは少ないと思う。

アメリカの有象無象の宗教について興味のある(少数の)人には面白い本。

2012年9月5日水曜日

『有機栽培の基礎知識』 西尾 道徳 著

有機栽培を中心にしながら、農業一般に必要となる理論的基礎が学べる本。

有機栽培、有機農法というと「有機栽培の野菜で病気がなおった!」とか「人柄まで明るくなった!」といった迷信的な喧伝がなされることが多く、有機農法を勧める本においても慣行農法の悪口ばかり書いてあり、有機農法がなぜよいのか? という根本がまったく書かれていない本が多い。

本書はこうした凡百の有機栽培本とは一線を画し、まず有機栽培とは何かを明確化した上で、その利点、欠点を冷静に評価する。著者は土壌学、微生物学の専門家であるため施肥の話が多く、特に後半は施肥の応用的知識が多くなってくる。それは「基礎知識」から逸脱している部分もあるが、全体的なバランスはよい。ただ、病害虫についてはほとんど触れずに「有機栽培では少なくとも病害は少ないといえるかもしれない(p.204)」だけで済ますのはやや安直すぎる感がある。病害虫の防除は基本的に輪作や混作で対処すべきといったことは書かれるが、「基礎知識」を銘打つ以上は体系的に述べるべきだ。

とはいえ、書かれている事項は有機栽培のみならず、作物生産を深く理解するためには重要なことばかりで、何度もナルホドと唸らされた。安易なハウツーではなく「基礎知識」を提供することを主眼においているので、これを読んで有機栽培ができるようになるという本ではないが、理論的基礎を学ぶためには格好の書である。

また、有機栽培に取り組みたいという人でなくても、第1章「持続可能な有機農業とは」は読む価値がある。有機農業とは一体何なのか、それが明確に説明されることは意外に少ないので、ここだけでも本書の価値は高いといえる。

2012年9月4日火曜日

『生活の世界歴史(3) ポリスの市民生活』 太田 秀通 著

古代ギリシアの民主制とそれを支える奴隷制の内実を描く本。

古代ギリシアというと、素晴らしい彫刻、建築、文学、哲学といった文化的精華に目を奪われて、ついついそれが(現代的に見て)素晴らしい時代だったかのように思いがちだけれども、その内実は意外に暗鬱な部分がある。

本書では、彫刻や建築といった文化面はほとんど取り上げず、ポリスの市民生活がどうだったかということに焦点を当てて記述する。特にアテネの民主制の実態は興味深い。

アテネの民主制は徹底しており、政治のみならず司法(裁判)も市民の手で運営されていたので、市民はとても忙しかった。しかしそれは所詮素人の仕事であり、話術の巧みな者に唱導されてしまい、衆愚的な方向に陥りやすい。それでなくても、忙しい民主制を維持するためには労働を肩代わりする奴隷制が必須であり、新規奴隷を獲得するため自然と侵略戦争を必要とする。民主制のアテネが地中海の覇権を争う帝国主義国家になったのは、まさしくそれが民主国家であったためということが大きい。

古代アテネの民主制を知ることは、民主主義への幻想を打ち砕く一助となる。確かに素晴らしい部分もあったが、民主制は手間がかかり、国庫の負担も大きく、しかも賢明な選択をなしづらい制度であった。著者は、アテネ民主制の黄金時代は57年間だったと述べる(p.116)が、後代賞賛された民主制とは、ほんの一時期だけ、幸運に恵まれて実現した泡沫の夢であったと言えよう。

しかし意外だったのは、当時の奴隷観だ。私は激しい身分差別が存在していたのだろうという先入観があったが、実際はそうでもないようだ。例えば、身分の別にかかわらず同一労働同一賃金が保障されていたり、奴隷と共に労働することが何ら恥ではなかったりといったことが挙げられる。これは、人権意識があったということではなくて、アテネの経済構造を支える奴隷の利益を保護し、生産を滞りなく進めるためだったらしい。

奴隷とアテネ市民の間には懸隔があったのは確かだが、「弱者が強者に支配されているだけのもので、いわば運命によってそうなっているだけにすぎず、王子も王妃も王女さえも、弱者なるが故に他人の奴隷となることがある、と考えられていた(p.232)」のである。

2012年9月3日月曜日

『日本文化の形成』 宮本 常一 著

独自の視点から、日本文化の形成に大きな役割を果たした先住民(縄文人)や海洋民、焼畑耕作、秦人などについて語る本。

本書は宮本常一の遺稿であって、著者自身がまとめたものではなく、未完成なものだ。本書で提示されたアイデアは、さらに深められ、体系的な文化論としてまとめられるはずだった。その意味では、本書はその壮大な構想の一端だけで終わってしまっている感があり、物足りない部分がある。

しかし、日本中を歩いた著者の確かな目は、記紀や万葉集といった文献に対しても冴え渡っており、そのアイデアには興奮させられる。政治史ではなく、技術・生産・生活の歴史に注目してきた著者ならではの着眼点が素晴らしい。

特に興味深かったのは、海洋民が高床の住居をもたらしたとする説や、焼畑耕作の実際である。海洋民については、近年研究が盛んになってきているが、焼畑耕作についてはこのような視点での研究は未だに多くない。本書においても、山間に住む人々の重要な生産手段だったのではないか、と示唆するだけで、だから何? という部分もなくはない。しかし、東アジアの中の日本という視座で考えるならば、海洋民とともに焼畑耕作の伝播と発展は極めて重要であり、今後のさらなる研究が待たれる。

ともかく、この研究がまとまらないうちに著者が鬼籍に入ったことは残念でならない。本来なら著者のライフワークの集大成となるはずの本だったが、本書は基本的アイデアの(一部の)提示に止まる。それにも関わらず、本書は日本文化の形成ということを考える上での必読書であろう。


2012年9月2日日曜日

『古代オリエントの宗教』 青木 健 著

2〜12世紀のオリエントの諸宗教が、聖書のストーリーに影響を受けて変容していった歴史について語る本。

これは主題がかなりマニアックで、取り上げられている「諸宗教」もマンダ教、マーニー教、ゾロアスター教ズルヴァーン主義、ミトラ信仰とアルメニア正統使徒教会、イスラム教イスマイール派などと、相当にディープな世界である。

これらの諸宗教が、当時支配的な影響力を持っていた聖書(旧約、新約、クルアーン)に自らの神話を位置づけるかたちでその内容を変化させていった、ということが学術的な正確さを保ちつつ、簡潔かつ系統的に記述される。

なにぶん主題がマニアックなので、読者を選ぶ本だと思うが、その中身は充実していて完成度は高い。ややこしい関係が図などを用いてわかりやすく説明されているし、このような主題の下にまとめられた書籍はかつてなかったと思うので、こういう分野について興味のある人にとっては必読書だと思う。

しかし、聖書ストーリーから受けた影響だけに焦点をあてて記述されているため、やや現実が単純化されているような部分もある。宗教が社会から独立して存在していたわけではなく、信者がいて、その信者が依って立つ経済構造があったわけで、それらに全く触れずに宗教の変遷を語るというのは少し無理がある。

また(これは著者の責任ではないが)、初版の帯の売り文句が「異教の魔神たちが織りなすもうひとつの精神史」なのだが、これは本書の内容と全く関係がない。それから書名も簡潔すぎ、せめて「聖書が及ぼした影響」などと副題をつけるべきだろう。本書では、古代オリエントの宗教に関する基礎的な事項は、読者にとって既知である前提がある気がする。マニアックながら端正にまとめられた良書ではあるが、編集者のセンスを疑う。

2012年9月1日土曜日

『かたち誕生―図像のコスモロジー (万物照応劇場)』杉浦 康平 著

グラフィックデザイナーの杉浦康平氏が、古今東西のさまざまな「かたち」について縦横無尽に語る本。

この本を楽しめるかどうかは、著者の「かたち」への見方に共感できるか、さらに言えば著者と「かたち」の世界観を共有できるかどうかにかかっていて、杉浦康平ファンにとっては垂涎の品だろうが、そうでない人にとっては「はあ?」という本だと思う。そして私は残念ながら後者である。

客観的に見てナルホドと思う部分もなくはないが、「かたち」の考察の大部分は著者の思い込みと推測で構成されていて、著者と世界観を共有しない者にとってはかなり違和感がある。私は、本書を図像発展の歴史の本だと思っていたので、このような自由な考察の書だということが、かなり期待はずれだった。

とはいえ、かたちというとすぐに西欧中心のイコノロジーの話になってしまいがちなのであるが、本書ではそういう安易さは微塵もなく、普通あまり取り上げられないアジアの図像をふんだんに参照して独自の解釈を加えている。その解釈に賛同するか否かはともかくとして、その価値は大きい。

また、本のつくりが非常に凝っていて、大量の図がちりばめられていたり、余白にちょっとした何かが描いてあったりと、杉浦康平ブックデザインが好きな人にとっては本としての魅力も高い。カバーを取ると非常にかっこいいので、その点は唸らされた。

『チョコレートを滅ぼしたカビ・キノコの話 植物病理学入門』ニコラス・マネー 著、小川 真 訳

菌類が樹木や作物に与えている甚大な被害と、それに翻弄されたり研究したりした人の逸話をまとめた本。

私は植物病理学に関心があって、本書の副題に惹かれて読んだのだが、これは副題が悪く、植物病理学への入門的な側面は微塵もない。そもそも原題は『The Triumph of the FUNGI: A Rotten History(菌類の勝利:腐れた話)』で植物病理学入門などという大それたことは謳っていなかったみたいで、これは編集者の責任。

とにかく、「菌の被害は凄いです」という事例がどんどん出てくるが、その被害が例えば害虫の被害に比べてどのくらいひどいのかという比較もないし、 研究エピソードなども専門の人には面白いのかも知れないが「で?」で終わるようなものも多く、全体的に無駄話がだらだら続く調子。

せっかく菌学者が執筆しているのだから、病理学の体系的な説明があればよいのにそういうこともなく、個別の細菌の枝葉末節的な説明に終始するだけ。雑学としてはいいが、物足りなさが残る。

本書のメッセージの一つは、「大規模な単一植物栽培が菌類による被害を拡大させている」ということなのだが、それは害虫でも同じことだし、当たり前のこと過ぎて今さらメインメッセージにするほどのことでもないのではないか。枝葉末節の四方山話ばかりで表面的な本。

『生活の世界歴史 (2) 黄土を拓いた人びと』 三田村 泰助 著

明代を中心に、中国大陸の文明論をたくさんの小ネタを用いていろいろな角度から展開する本。

「黄土を拓いた人々」の副題は紛らわしい。実際には、開墾を進めた農民の話は多くないし、むしろ歴代中国王朝の税収の約半分は塩の専売による収入であった、などという話や、穀物生産の中心が地味が豊かな江南であったことなどが記述されており、どちらかというと河北的なものである「黄土」を副題に持ってきた意図が不明である。

明代を中心に、とはいいながらも実際に取り上げられる時代は古代から近代にも及び、よく言えば縦横に、悪く言えば散漫に文明論が語られる。テーマも、南北の対照的な性格、支配者の原理、反乱と革命、都市と農村、東洋的「婦道」など多岐にわたる。体系的な論考というより、様々なテーマのもとに中国文明の特質を考えるという調子で、読書中はなんだか「いつ本題に入るの?」と隔靴掻痒な感じがしたが、それぞれのテーマは面白く、これはこれでよかったと思う。

そういう意味では要約が難しい本で、とにかく小ネタをたくさん披瀝している。例えば、「極楽往生をねがう阿弥陀浄土が、柔弱な南人に支持されるに対し、現世の幸福をかちとる弥勒浄土が、北人の気質に合った(p205)」という記載など、簡単に書いてあるが、阿弥陀と弥勒という類似しつつ差異のある神格が平行して信仰される理由を明快に説明しており、ナルホドと唸らされた。

他にも、皇帝の朝はやたら早かったという話や、中国の経験した4度のファッション革命、中国法の集大成としての大明律の成立、漢代の古典儒教は北人的だが、近代合理主義の上に立つ新儒教主義は南人的であるなど、面白い話題が多い。

2012年8月31日金曜日

『生活の世界歴史 (1) 古代オリエントの生活』 三笠宮 崇仁 編

メソポタミア、アッシリア、エジプトの古代社会の構造や技術、経済についての論文集。

本シリーズは、その趣旨や目的がシリーズ中のどこにも説明されていないが、その内容から忖度するに、「世界史といってもこれまで書かれた“世界史”の実態は政治史に過ぎないのではないか。それだけでは見えてこない社会の変遷があるのでは? そこに注目してみよう」ということだと思われる。

「生活の世界歴史」という表題から予想されるような庶民の生活のありさまなどはあまり描かれず、どちらかというと社会構造というか、社会の雰囲気の説明に重点が置かれているようだ。

本書では、三笠宮崇仁(プロローグ)、糸賀昌明(メソポタミア)佐藤 進(アッシリア)、屋形禎亮(エジプト)、立川昭二(鉄)の論文が収められているが、シリーズの趣旨や目的が明確でないだけに、筆致は各著者でバラツキがあり、必ずしも統一的な視点で叙述されていない。しかし、生活という茫漠として複雑多岐に亘るものを書こうとすると、こういうやり方しかないのかもしれないとは思う。

一般的な通史ではわからない、経済構造、食料供給構造、技術史、社会構造などがおぼろげながらに見えるということで、古い本ではあるが一読の価値はある。一番驚いたのは、エジプトの話で、社会構成は意外に流動的であったということ。現代社会にも通じる部分があるといえよう。
奴隷を除いては、たとえ貴族であろうと農民であろうと、たてまえとしてはみなファラオの臣下として制限された「自由」しか認められなかったということ、その意味で社会層が固定しておらず、その構成員の変動の余波がファラオの手によって確保されていたということ、これがファラオ文明を二〇〇〇年以上にわたって存続繁栄させた社会的要因であるということができる。(本書p219)


『五輪塔の起原―五輪塔の早期形式に関する研究論文集』 藪田 嘉一郎 編著

日本全国にありふれているのに、基本的な研究がほとんど進んでいない五輪塔についてまとめられた稀有な本。

五輪塔は平安時代末期以降に非常に流行した墓石形態であるが、その形態や信仰についてのまとまった書籍は少ない。本書は論文集ではあるが、分量的にはほとんど編著者の論考が占め、他の著者の論文は前菜として掲げられている程度である。

前菜部分の論文は、一般向けというより研究者が限られた範囲の専門的事項について語っているという感じであるが、あまり難しいものではなく、さらりと読める。後半の編著者の論考も、研究者向きに語っているのだが、割合に総論的な内容であるために一般にも十分に理解できるだろう。

ただし、論考が進むにつれ、「~かもしれない」式の憶測が多くなる印象があり、悪く言えば編著者の空想の要素が強くなっている感を受けた。

どうして五輪塔が非常に流行したのかという疑問に対しては、要は製作が容易だったからだという見解が表明されており、これには膝を打つ思いがした。単純なことであるが、このような基本的なことを指摘しているだけでも本書の価値はある。

なお、積石信仰のような民間信仰との繋がりも考究してもらいたかったが、本書ではインドからの文化伝播の視点で五輪塔の起源が考えられており、その点は物足りない。また、起源を考えるなら早期五輪塔の地域分布を分析するといったことも必要な気がするが、そういったこともなされていない。

論文集であり、出版年も古く、広く読まれる本ではないが、五輪塔について考える際には座右に置くべき本。

2012年8月30日木曜日

『石の宗教』 五来 重 著

日本人にはもともと自然石を敬ったり、石を積むことで死者を弔ったりといった、石による信仰があったことを様々な事例を引いて主張する本。

著者の主張にはナルホドと思わせる部分が多く、旧来の仏教・神道・民間信仰などという縦割りの研究では見えにくかった日本人の素朴な信仰が透けて見える思いがする。

庚申塔や道祖神が境界や道標となっていることはよく指摘されるが、地蔵も境界を示すものであり、またこれらは男根像でもあったというのは新鮮だった。 この他にも、これまで見過ごされがちであった石塔や石像のもつ民間信仰的な意味合いが説明されており、「石の宗教」という視点は非常に重要だと感じた。

特に前半部分は石の宗教についての概論・体系的なまとめの色彩が強く、説得性がある。しかし、後半になってくると、体系的な説明というより、著者の個人的な経験であったり、「これもある、あれもある」式の叙述が多くなってくる。こういうのも大事だと思う、のような単に重要性を示唆するだけのテーマも散見され、生煮え感は否めない。書き下ろしではなく、『石塔工芸』という雑誌に連載していたものだから、後半はネタ切れというか準備不足があったのかもしれない。

とはいうものの、「石の宗教」という視点の重要性は強調するに足るものだ。今後の研究の進展を期待したい。

2012年8月29日水曜日

『害虫の誕生―虫からみた日本史』 瀬戸口 明久 著

明治以前の日本では害虫対策はほとんどなかったが、警察の指導や戦争の影響で殺虫剤等の対策が普及した、という本。

江戸期の日本人にとって虫害はどうしようもないものであり、「虫が出るのは祟り」などとする観念があったという。明治政府は西欧から応用昆虫学を導入し、これを駆除すべく農民を指導したが、農民は害虫=除去すべき/できるものという考えを持っていなかったためにうまく駆除が進まない。

そこで政府は警察権力により強制的に害虫駆除を進め、害虫を駆除しないものを(年数千人規模で)検挙するといった対策をとる。また平行して子供に害虫を教え、害虫を一匹いくらで買い取るなど、「害虫=駆除すべきもの」という「常識」を植え付けていく。

害虫対策がさらに浸透するのは戦争で、マラリアなど南方の伝染病を防ぐために化学薬品を使った害虫駆除の技術が進歩し、これがやがて農業にも応用されていく。

日本の近代において害虫の観念・対策が変化していくのは、地味な変化ではあるが農業生産に与えた影響は大きく、このような本でまとめられるのは意味がある。

だが、「虫からみた日本史」の副題は風呂敷を広げすぎで、取り扱われているのは明治以降であり、享保の大飢饉すら出てこないわけで、看板に偽りがある。また「虫からみた」というのもちょっと誤解を生む表現で、「近代における害虫像の変遷」というくらいが適切だろう。これは面白味のない副題だろうが、多くの人にとって害虫像の変遷などは面白くないものであり、名は体を表す意味ではこれくらいがせいぜいだ。

さらに、記述が通俗的で研究者の書いたものとは思われない箇所もある。ただ、これは博士論文を加除修正して作った著者の処女作のようなので、その点はいたしかたないかもしれない。害虫に興味がある人にとってはもちろん、そうでなくても明治期の人々の価値観の変化が自然なものではなく、権力によって無理矢理起こされたものである一例を知るだけでも意味のある本。

2012年8月27日月曜日

『米・百姓・天皇 日本史の虚像のゆくえ』 網野 善彦、石井 進 著

日本史の水田中心主義に対して意義を唱えながらも、それに代わる見方も未熟で生煮えな本。

本書は日本史学者二人の対談であり、正直なところ、日本の歴史学界への単なる愚痴にすぎないところが多い。その意味で、極めて内輪的な本である。さらに、対談の中で体系的・理論的な主張がなされるわけではなく、床屋談義的に雑談が進むだけであって、内容も学術文庫にふさわしいレベルではない。

特に最大の問題は、従来の常識に対して意義を唱えながらも、それに代わる見方でどのようなことがわかるのかが全く見えないことで、「〜も重要だ」「〜にももっと注目すべきだ」などと言いながら、それに着目することによるメリットが全く説明されない。

本書のポイントは、
江戸時代は農本主義であったと考えられがちだが、これは百姓=農民ではないのに、いろいろな生業を全て農業にくくってしまうイメージ操作による部分がある。実際には農民の割合は40%程度であったと考えられ、百姓は様々な職業で生計を立てていたわけで、米だけに注目すると、漁業、林業、養蚕、果樹栽培などの重要な生業を見落とすことになる。米だけが注目されてきた理由は、律令国家の成立において租税体系の基礎に水田を措いたことの影響であろう。
と要約できると思う。

まあ、この主張自体はよい。だが、漁業、林業、養蚕、果樹栽培などに注目すると、何がわかるのだろうか? この本にはその説明は全くない。これらの分野は研究が進んでいないからよくわからない、というだけである。『甘藷の歴史』において鮮やかにその影響を描いた宮本常一とは何という違いだろうか。

その他にも、農業という用語の定義について何ページにも渡って議論したり、「日本」と「倭国」の使い分けについて議論したり、(学者にとっては意味があるのかもしれないが一般読者にとっては)非生産的で退屈な部分も散見される。興味深い部分もあるにはあるが、内容に重複が多く編集も雑な感じがするし、全体的に粗雑で生煮えな本と評価せざるを得ない。はっきり言って、タイトルが大げさすぎである。

2012年8月25日土曜日

『甘藷の歴史』 宮本 常一 著

甘藷(サツマイモ)の歴史についてまとめられた貴重な本。

茶や米といった作物なら、その故事来歴を語る本はたくさんあるが、サツマイモのようにありふれた日常的なものは、なかなか注目を浴びにくい。だが、痩せた土地でもよく育ち、手間もかからないというサツマイモは、確実に庶民の生活を変えており、さらにいえば農村の社会構造にすら大きな影響を与えた。

著者は、単にサツマイモの歴史を辿るだけでなく、サツマイモが社会にどういう影響を与えたのかという深い洞察を加える。その文章は陰影が深く、余韻が豊かであり要約は無粋だが、あえて一言で言えば「サツマイモは多収な上に租税の対象にもならなかったので、農村の食糧を支え、単調ささえ我慢すれば食うには困らないという気楽な零細農をたくさん生み出す一因ともなった」というところだろうか。

なお、現在ではサツマイモという用語が定着しているが、鹿児島から日本に広がったわけではなく、一つのアイコンとして鹿児島があるに過ぎない。伝来の経路はアメリカ→ヨーロッパ(16世紀初頭)→中国(16世紀末)→琉球(17世紀初頭)とひとたび琉球まで伝えられる。それから経路は2つに別れ、一つは長崎の平戸で、もう一つは琉球→種子島→鹿児島(18世紀初頭?)と伝えられた。平戸と鹿児島がどちらが先なのかはわからないらしい。

このような経緯から、サツマイモは長くリウキウイモ(琉球芋)とも呼ばれており、サツマイモの呼称が定着するのはずっとあとの話だ。今でも京都あたりではリウキウイモということもあるらしい。だが、リウキウイモとサツマイモは品種が違っていたのではないかとか、正確にはわからないことも多く、甘藷の歴史はまだ茫洋としている。日本全体へ伝播していった歴史はさらにわからないことだらけで、顕著な貢献をした人以外にも、名もない多くの人々の努力によって広まったのだろうと著者は推測している。

ありふれた、でも重要な作物であるサツマイモがいかにして日本に根を下ろしたか、こんな問いは単なる暇つぶしの知的好奇心のようにも思えるが、実はそこから日本のいろいろなものが見えてくる思いがする。

2012年8月24日金曜日

『茶の湯の歴史』 神津 朝夫 著

茶の湯の歴史を極めて実証的に書いた本。

茶の湯のような「高尚な」芸事の歴史というと、とかく精神性・芸術性・神秘性が強調され、行き着くところは単なる権威主義であったり、創始者への絶対的な崇敬だったりするわけだが、この本には、全くそういうところがない。

当時の社会情勢を踏まえながら、特に点前・作法については丁寧に変遷を辿り、フラットに茶の湯の実態を説明する。そこから導かれるのは、従前言われてきた茶道史への批判である。結局のところ、それが立脚してきたのは、茶書への安易な盲信、茶の湯はかくあるべしという思い込み、偉人伝のエピソード、茶の湯のもつ精神性への期待であった。それは、著者の言葉を借りれば「文化史的幻想」であった。

そういうわけで、従前の茶道史とは一線を画す本だということだが、私自身びっくりしたことを2点ほどメモしておきたい。
  • 茶の湯と禅との強い繋がりが喧伝されるが、本来茶の湯と禅はほとんど関係がなく、むしろ茶の湯は法華宗的なものである。
  • 千利休は武野紹鴎の弟子、といわれてきたが、それは間違いで実際の師は辻玄哉北向道陳らしい。ちなみに両氏とも法華宗徒だ。
これだけでもかなり衝撃だったのだが、本書には「そうだったのお!?」とのけぞるような事がたくさん書かれている。従来の茶の湯の歴史書というのには詳しくないが、今後この分野の基礎となるような本だと思う。

2012年8月23日木曜日

『道教百話』 窪 徳忠 著

日本は中国から様々なものを学んだが、取り入れなかったものが2つだけある。宦官と道教だ——ということがよく言われるが、そんなことはない。

確かに為政者が不老長寿の仙薬を飲むことはなかったけれども、閻魔さま、お中元、おフダなど、道教から取り入れたものはたくさんあるし、民間信仰の柱の一つとして、道教は確固たる位置を占めている。

しかし、民間信仰なだけに、体系的でも教義的でもなく、信仰というよりは迷信・俗信と切り捨てられるようなものが多く、改めて道教とは何か? と聞かれてもよくわからない状態だ。

本書は、道教を身近に感じられる軽い話をまとめたもので、一応「道教とはなにか」「道教の変遷」というお勉強のセクションもあるが、基本的には雑多な話の寄せ集めであり、体系的な道教の紹介ではない。

正直、雑多な話の部分はどちらかといえば退屈で、単なる伝説の紹介が蜿蜒と続く。私は、てっきり著者の道教に関する考察が百話あるのかと思っていたので、この部分は当てが外れたが、その伝説に1〜2行加えられた著者のコメントは秀逸で、簡潔ながらもナルホドと思わせる。

全体を通じて強く感じたのは、日本人の他界観は「この世とは別の原理で動くところ」というイメージがあるのに対し、道教においては仙界も人間界と連続しており、その基本構造は現世とあまり変わらないということだ。何しろ、仙界にも役人がいたり、役人になる試験があったりするというのは、日本人の他界観ではありえないことだろう。そういう意味では、道教は非常に現世的な宗教だと感じた。

それから、改めて研究してみたいが、道教と修験道との類似について数カ所記述があり、興味を引かれた。道教と修験道に系統関係があるのか、平行進化的な存在なのかよくわからないが、少なくとも修験道は道教からなんらかの影響を受けているのは確実らしく、これは修験道研究に当たっては重要な要素ではないかと思う。

前述のとおり、少し物足りない本だったが、道教に関するちゃんとした紹介はなかなかないので、とっかかりとしては価値があるだろう。

2012年8月22日水曜日

『文明が衰亡するとき』 高坂 正尭 著

文明の衰亡に関する体系的な論考ではなく、エッセイのような本。しかし、慧眼に溢れていて、非常に濃密

本書では、ローマ帝国、ヴェネツィア、アメリカという3つの国家の勃興と衰微が説明され、その背景が考察される。もちろん、高坂氏はこれらの国家専門の研究者ではないし、歴史家でもないのだから、基本的には文献による研究であり、そこに何か新事実が含まれているわけではない。

だが、その考察に安易さはなく、また専門家にありがちな枝葉末節の長大な説明などもなく、非常によいバランスを保ちながら書かれている。

本書において著者自身が述べている通り、文明論というものは、その所属する文明が凋落の兆しを見せているからこそ興味を引かれるものである。だからこそ、本書がバブル期の1981年に書かれているということにも著者の洞察が感じられる。世間は80年代的な軽佻浮薄さに溢れていただろうに。この本は、今こそ日本の読者に真剣に受け取られるのではないだろうか。

ちなみに「あとがき」において著者は、「要するにこの書物は、昔から書きたいと思ってきた本である」と書いている。読んでも楽しい本だが、この本は書くのも楽しかっただろうと思う。

2012年8月21日火曜日

『知的な痴的な教養講座』開高 健 著

多少知的で、そして痴的でもあるが、教養講座と銘打つほどのものではない。

元々は『週刊プレイボーイ』で連載されていた軽いエッセイだから、格段に知的ということはあり得ないが、現代的視点から見ると、80年代的なお気楽さと軽薄さが滲み出ていて、内容以前にその雰囲気に違和感を持ってしまう。

開高さんお得意の、女、釣り、酒の話題は冴えていないことはない。話題も豊富だし、ところどころにはタメになることも書いてある。しかし、安易な文明批評とか、 面白い話題の組み合わせだけで話をまとめたり、内容に深みがない。

「へー、面白いですね。で?」で終わってしまう。こういう本は暇つぶしには最適だが、まあ、特に暇でなければ読む必要はないだろう。

だが、「肥後ずいき」という江戸時代以来の面白い性具を知ったことには感謝したい。ちょっと検索してみて、こんな風雅な性具が今でも売られていることにびっくりした。

2012年7月1日日曜日

お断り

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気にする必要はないかもしれませんが、無断転用のようで気持ちが悪いことから、Amazonへの誘導ウィジェットをつけることといたしました。(対応したのは2015年6月26日ですが、遡って全ての記事につけています。)

>>2024年1月19日追記
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