2021年2月24日水曜日

『管子』西田 太一郎 訳(『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

管仲に仮託された政治・経済政策の思想。

管子(管仲)は、中国の春秋時代、斉の桓公を補佐して国を富ませた名宰相であった。それに続く戦国時代、斉では学者を優遇して、大夫(家老)の待遇を与えて専ら学問に専念させたが、それに応じて天下の俊英が斉に集ってきた。こうして斉には「稷下の学士」という学問集団が成立する。

そして彼らの著作が、古代の管子に仮託して編纂されたのが『管子』である。なので、『管子』といっても管子が書いたわけではなく、管子を名義上の編纂者にした論文集であるといえる(なお本書は抄訳)。

その内容は、少なくとも数人の手によるもので、しかも時代的にも長くかかって編纂されたものであるだけに、雑多であり首尾一貫しているわけではない。しかし基本的な方向性として言えるのは、「現実的な人間理解」である。

『管子』は儒教道徳を肯定する。しかし、君主の徳が人民を感化する、といった空想的なことは言わないし、君主は徳を備えているべきだとしながらも、それはあくまで統治上の必要性によって説明される。

まさに『管子』を特徴付けるのは「倉廩(そうりん)実(み)つれば則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄辱を知る」(倉庫が満ちてから礼節を知るようになり、衣食に事欠かなくなって栄誉と恥辱の違いを知るようになる)という言葉が象徴する現実主義である。

人々が君主を慕うのは、君主に徳があるからではなく、君主が善政を敷いて国が富み栄え、自らの生活が豊かになるからだ、というのが『管子』の人間理解である。そのため、諸子百家の中では特異なことに『管子』では経済政策が多く述べられる。例えば、特産物(塩や黄金)の専売制、物価の安定政策(騰貴した時に政府が買い上げて安く払い下げる)、流通を盛んにする方法といったものである。

そして、人々が国家のいうことを聞くのは、君主の徳によるのではなく、信賞必罰によるのだと『管子』は見る。良いことをした人間には褒美を与え、悪いことをした人間には厳罰を加える。しかも、それを君主の気まぐれで行うのではなく、全てを法令に基づいて公平に行うことが重要である。そうすることで、人々は定められた法令を遵守して、国家の秩序が守られるのである。

さらには、君主すらも法令には従う必要がある。というよりも、緻密に組み立てられた法令の体系さえあれば、君主の行うべきことはほとんど何もなくなる。よって『管子』の思想は、法家的な法令万能主義を基盤として、ついには道家的な無為自然に近づいていく。法令さえ備えれば、全ては滞りなく流れていき、君主は何もせずに天下が泰平となるのである。

このように、国を富み栄えさせるための経済政策、人々を教導し社会を運営するための法令、それを実行するための信賞必罰が『管子』の基本路線である。「無為自然」はともかくとしても、その人間理解に基づいた政策の提案は非常に現代的である。少なくともその問題意識と立論の仕方は現代でも十分に通用するであろう。

ところが『管子』には盲点ともいうべき空白がある。それは、『管子』は「法令」を重視しているのに、それがどうあるべきか一切述べていないことである。例えば、ソクラテスは「悪法もまた法なり」と言ったが、『管子』においては悪法がありうることが全く想定されていない。しかし現実の世界では、政策立案者の思惑と、法律がもたらした結果が齟齬していることはよくあることだ(古代においても)。しかし『管子』では、法令さえ厳重であれば社会は公正に運営されるだろうとウブに考えている節があり、法令そのものの良し悪しをどう判断するか全く思索されていない。

もっと言えば、法令はいかにして定めるべきか、どうやって布告すべきか、といった法令を定めるプロセスについても一切の検討はない。『管子』の著者たちはどうやれば「公正な法」が立案できると考えていたのだろうか。こうした点において『管子』はやや空想的な雰囲気があり、その現実的な人間理解とは裏腹に、法については非現実的なほど安易に考えていたようだ。

しかしながら、他の諸子百家の著作が強烈なバイタリティーと個性に彩られた(当時としては)過激な思想を表現しているのとは違い、論文集であるためもあって内容は穏当であり、その思想を全面的に承認しなくても、部分的に政策に生かしていけるという柔軟性を『管子』は持っている。古来、経済思想の基本として重んじられたのも当然であろう。

現実主義的な人間理解に基づく古典的政治経済学。

 

2021年2月23日火曜日

『古代の琉球弧と東アジア』山里 純一 著

7世紀から13世紀までの南西諸島について交易を中心に述べる。

「琉球弧」とは南西諸島を表す用語で、歴史的なまとまりでいうと、「大隅諸島」(種・屋久、トカラ列島など)、「沖縄諸島」(奄美・沖縄)、「八重山諸島」(石垣島、宮古島など)の3つの地域に分けて考えることができる。本書は、このうち「大隅諸島」「沖縄諸島」を中心に、史料および考古資料によって交易を中心とした国際関係を概括するものである(「八重山諸島」は、対象外ではないが歴史的に台湾・東南アジアとの共通性が大きいため記述の比重は小さい)。

琉球弧における文字史料は、1650年に琉球国の正史として編纂された『中山世鑑』以前には全く存在しない。よって自然と日本と中国の史料に頼る必要があり、特に本書では中国側の史料がたくさん参照されている。

とはいえ、琉球弧に関する情報は史料中にほんの少し登場するだけであり、まとまった史料が存在しないのが現状である。古代の琉球弧がどんなであったかはそうした限られた情報を元にして推測するしかない。それはすなわち確定的なことが言えないということを意味し、研究の進展に従って琉球弧像はかなり変わってきた。本書は、このように移り変わってきた近年の研究結果を広く参照して、現在の通説をまとめたものである。

7世紀の琉球弧では、南西諸島の各島が散発的に日本の歴史に登場する。ヤク(屋久島というよりは南西諸島の総称)、多禰(タネ)、トカラ(今のトカラ列島ではなく、タイのドヴァーラヴァティーを表すのが通説)、流求(琉球と読めるが、その範囲にはいろんな議論がある)などの人々と、日本の人々は散発的に交流があった。時々漂着したり、偶発的な交易が行われていたのがこの時代である。

8〜9世紀になると、日本は律令国家として南島(琉球弧の島々をこう呼んだ)を組織的に取り込もうとした。日本は自らを中華に擬し、北狄南蛮の従属を必要としたのである。そのため律令国家は南島に「覓国使(くにまぎのつかい、べっこくし)」を使わして朝貢を促した。それに応じて南島の人々は産物を持って来朝し、まとめて授位され、また返礼品を受け取った。ただし、この活動は南島人にとっては朝貢という意図はなく、交易として捉えられていたのではないかと著者はいう。

また覓国使が派遣された背景として、遣唐使の航路を確保する意図があったのではないかと著者は推測する。遣唐使は最初、北路と呼ばれる朝鮮半島経由の航路がとられていたが、新羅との関係が悪くなると、朝鮮半島を経由しないで直接中国に行くことが好ましくなった。このために南島を南下してから中国南部に向かうルート(南島路)を開いたのである。事実、南島の諸島には「南島牌」という標柱のようなものが設置された。これは遣唐使船が漂着したときに今自分がどの島にいるのか分かるようにするものだった。

ただし、南島は必ずしも日本に従属していくことはなかった。南島としては、わざわざ遠くまできて朝貢して実のない授位などされても無意味だったし、交易にはあまり利益がなく、律令国家に従属する価値はなかった。

一方で、日本の側としては、南島からの産物は非常に価値が高かった。例えば、赤木(高級木材)、檳榔(ビロウ)、ヤコウガイ(螺鈿の材料)といったものである。こうしたものは貴族にとって喉から手が出るような貴重品だったので、南島との交易は需要が大きかった。ところが南島の人々にとっては、日本からは武器などの他はあまり価値のある品を手に入れることができなかったようだ。

このあたりがすごく不思議なところで、南島は比較的遅れた社会だったにもかかわらず、日本からの品々を有り難がった形跡がない。本当に南島は遅れた社会だったのだろうか、ということから考えさせられる。

それに関して、本書ではさらに不思議なことが述べられる。それは、琉球弧では「開元通宝」がたくさん出土するということである。これは言うまでもなく中国の貨幣(銅貨)であるが、琉球弧で「開元通宝」が流通した形跡はない。とすると、これは威信財として使われたもので、もしかしたら本土からの交易者がその代金の支払い(の代わり)に宝石のような扱いで置いていったのかもしれない。一方、日本の銭貨が持ち込まれた形跡はないのがさらに不思議なことである。なぜ「開元通宝」が持ち込まれたのか通説はないのが現状だ。

10〜11世紀前半の琉球弧の様相は、それまでとは異なってくる。それを象徴するのが997年、奄美島の者が九州諸国に乱入し、諸国の人を300人も拉致した事件。その先年にも大隅国の人400にを拉致する事件が起きている。この頃、本土と琉球弧の間には交易のトラブルが起こり、こうした敵対的な関係となったのではないかという。

一方、沖縄諸島の喜界島には、大宰府の何らかの出先機関が置かれた形跡がある。おそらくその跡である喜界島城久(ぐすく)遺跡からは、多様なものが大量に出土した。城久遺跡から出土したのは、中国の青磁や白磁、高麗青磁、滑石製石鍋、本土産土器(須恵器・土師器)、徳之島のカムィヤキ(硬質の焼き物)など。9世紀から15世紀の長きにわたってその性格を変えながらも城久遺跡は存続したと見られる。しかし11世紀前半頃には大宰府の統制はきかなくなり、喜界島は独立していったようだ。

11世紀後半から12世紀には、琉球弧がひとつの文化圏として成立する。青磁や白磁、カムィヤキががこの時代の琉球弧全体から出土することによって裏付けられる。それはおそらくは城久遺跡の経営者たちによって諸島に運ばれたもので、12世紀に需要のピークを迎えるヤコウガイを手に入れるために使われたものと考えられる。中国では宋、朝鮮では高麗の時代であり、宋・高麗・日本を結んだスケールの大きな交易が行われていた。なお硫黄島から産する硫黄は日宋貿易の主要な輸出品であった。

13世紀の琉球弧については、琉球国の成立前の再編期として位置づけられる模様である。13世紀の史料・考古資料はあまり豊かでないのか、本書では14世紀以降の情報を元にして推測する形で描かれている。これまでの史料に見える「南蛮人」「キカイガシマ(大隅・奄美諸島の総称)」は、沖縄については含まれていないと見られ、リュウキュウは食人の習慣がある怖ろしい土地と考えられていた。それが14世紀には、琉球国が成立し、中国に明王朝が成立すると進貢貿易が行われるようになる。そして交易の中心が琉球国に移っていくのである。

14世紀までは沖永良部島までの範囲は千竈氏の私領として相続されていたが、徐々に琉球国が侵攻し、1466年に最後の砦であった喜界島が征服され、ここに奄美諸島全域が琉球国の版図となった。

本書は先行研究をテンポよく紹介する形で書かれており、とても読みやすく教科書的な本である。ただし、必ずしも通史的には描かれないので、前後関係は若干わかりにくい。最後に年表があればよかったと思う。それから木下尚子の「貝の道」(南西諸島と本土で古代以前から行われた貝の交易の経路)の諸研究が随所で参照されているが、まとまっては記述されない。これについては一節設けてもらった方がわかりやすかったと思う。

古代の南島交易を概括する教科書的な本。

 

【関連書籍の読書メモ】
『国際交易の古代列島』田中 史生 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/02/blog-post.html
古代日本の対外関係を交易を中心として述べる本。古代日本の交易関係がわかりやすく整理された良書。

『日宋貿易と「硫黄の道」』山内 晋次 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2013/03/blog-post_2.html
日宋貿易において日本からの重要な輸出品だった(と思われる)硫黄について、その貿易の実態を探る本。


2021年2月20日土曜日

『農村の生活—農地改革前後—』河合 悦三 著

農地改革によって農村がどのように変わったかを述べる。

戦後、GHQの指示によって日本は農地改革を行い、小作農に土地を分け与え、自作農化した。ではこの改革によってどのように農村の様相は変化したのか、それを述べるのが本書の目的である。

近代の日本では、小作料が非常に高く設定されていた。地域によってかなり異なるが、平均すれば収穫物の5割もの小作料が設定されていたのである。こうなると、豊かになった農民は自らの経営を広げていくよりも、土地を買って小作人に貸し出す方が得だ。だから近代の日本では企業的大経営の農業が発達せず、地主制が発達した。

また、本書には記載がないが、明治政府が地主を優遇する政策を行ったことで急速に地主制が広まったのである。ただし、著者が強調するのは、全体の傾向としてはそうでも、地方毎にその様相はかなり多様だったということだ。経営規模の大小、利益の大小、作柄の違い、そういう農村の多様性を認識することが重要だという。そのため本書では各種の統計によって農村の多様性を示している。

しかるにそれが農地改革によってどのように変わったか。また農地改革はどのように進行したか。

まず、農地改革以前(戦前)から、小作料の減額を求める戦い(=小作争議)は各地で広がっていた。この戦いははかばかしい成果を生まなかったが、戦争を遂行する必要から政府は地主の権利に制限を加えるようになる。また食料統制(配給制)によって政府は農産物の買い上げを行い、その価格を政府が自由に設定できるようになったこと、またインフレの進行などから、実は終戦前、既に金納小作料は1割程度に低下していたのである。

だがそれは意図的な政策ではなかった。戦後、GHQによって農地制度改革が指示されて、政府は地主制を解体しなくてはならなかったが、政府は出来る限り地主に有利な形に改革の内容を修正し、しかも法規的には農地の大規模所有(5町歩以上)は制限されたものの、実際には強制譲渡は行われず、改革は骨抜きにされてしまった(昭和20年、第一次農地改革)。

そこでGHQは「農民解放令」を出してさらなる制度改正を指示し、また英国とソ連は具体的な改革案を提出した。そこで政府は、英国案を参考として第二次農地改革を行った(昭和21年)。その内容は、要するに「国が地主から土地を強制買収し、これを小作農に売り渡す」というものだ。またこれを実行に移すため、市町村の農地委員会の構成が農民中心に見直された。

ところが、政府はこの改革をも骨抜きにしようとし、吉田茂首相は農地改革の打ち切りを声明した。それどころか、政府は小作料の値上げ、農地価格引き上げなど農地改革に逆行する政策を実行した。昭和25年の「ポツダム政令」では、固定資産税を増額するために小作料の最高額が従来の7倍にも引き上げられたのである。

この背景には地主たちの農地改革反対の運動もあった。政府自身がGHQに言われてイヤイヤながら農地改革をやっていたので、こうした地主の運動に呼応したのも当然である。そして地主たちは、小作人を作男としたり、小作料をヤミでとったり、小作人から土地を取り上げて自作地だと言い張ることで買収を逃れようとした。特に土地取り上げは深刻で、不法に取り上げられた土地は全国で100万件以上あるとみられる。

小作農たちはこれにどう対処したか。実は、既得権益を守ろうとする地主たちの運動に比べれば、小作農の動きは消極的であった。全体的には小作料が低減していたことなどから、彼らは従来の関係を荒立てることを好まず、積極的に自作農に転換しようとせずに、むしろ小作農でありつづけようとしたものも多い。ただし土地取り上げについては、死活問題であるだけに命がけで戦った。

また、農地改革には山林の解放は含まれていなかった。今でこそ山林は林業の場であるが、当時の山林は農業と密接な関係を持っていた。山林から肥料(刈草)や燃料を得ていたからだ。しかも山林は、少数の大山主(もちろん地主でもある)に寡占されていた。よって、山林を通じて地主は農民を支配することができたのである。これは、ただでさえ不十分だった農地改革において特に禍根を残した。 

このように、農地改革は農民的な動きを基盤とせず、GHQの指示で消極的に実施されたものではあったが、その結果としては、小作農の割合が44%から13%に減少し(昭和19年→25年)、自らは全く耕作しない「寄生地主」がほとんどいなくなるなど、一定の成果を収めたのである。

では肝心の農民の生活はよくなったか。そこが問題で、農地改革を経ても農民の生活はあまり楽にならなかったのである。

その理由は、第1にインフレが進行したことだ。農地改革が進行した2年間に、米の価格は3倍以上になった。これは、米を売る農民には一見有利な変化だったが、そうではなかった。なぜなら政府は、独占資本家が儲かるように鉄や石炭の価格を決め、それにつりあうように労働者の賃金を決め、その賃金で生活できるように農産物の価格を決めていた。だから、結局は相対的に安い価格で農産物は買い上げられていた。

第2に、税金がかなり上げられた。小作料が低減するのを埋め合わせるように、税金の方が上げられたのである。また自作農にはあまり税金がかかっていなかったのに、自作農にも重い税金が課されるようになった。しかも課税の仕方はデタラメで、貧農ほど重い負担が課されていたのである。

第3に、「供出」が負担となった。供出というのは、農民に生産量を予め割り当て、その割り当てを供出させる(政府が安い価格で買い上げる)ものである。この頃は食料統制を行っているので、自由販売は供出後に残ったものに限られる。ところが、その割り当ては過重なもので、しかも割り当て分を供出できなければ刑務所にぶち込まれるという、税金よりも酷いものだった。だから農民は割り当てが達成できない場合、ヤミで買ってそれを収めるということすらしなくてはならなかった。

第4に、農業恐慌が訪れた。日本はアメリカからたくさんの食料を輸入するようになり、農産物価格は(インフレの中でも)相対的に下がったのである。

このような理由から、農地改革後もむしろ農民の生活は悪化し、農業を続けられなくなるものが続出して耕作放棄地が激増した。 同じ時期、大会社が資本金の数倍以上の利益を上げ、5割もの配当をしているのに、農村は疲弊していった。

本書の中心となる農地改革前後の動きは以上の通りであるが、分量的にはこれで約半分。もう半分は、農地改革以外の点について農村の変化を記述している。

例えば、台所改善、娯楽、冠婚葬祭、部落(集落)の生活、などといったものだ。そこで面白かった指摘が、農村の人間は「容易に新しいものをうけいれようとしないがしかも簡単に新しいものにだまされ(p.152)」るというもの。厳しいながらも的を射た指摘である。また農地改革によって寄生地主はほとんどいなくなったが、依然として「ボス」が村を支配していて、ボスに連なる人々の不正が後を絶たないという。それは、ボスの不正を告発すれば村八分にあって村で暮らせなくなるからで、ボス連中は村の権力を掌握することによって旨い汁を吸い、それによって富を築いて大ボスに成長していくのだという。今にも通じるような話である。

さらに、著者は日農(日本農民組合全国連合会)中央常任委員の立場があるため、昭和20年から26年までの(つまり農地改革進行中の)全国の農民闘争、農民による政治運動などを列挙風にまとめている。この節はかなり政治色(政党色)が強く、学術的な性格が強い他の部分に比べると異色である。ここは読み物としても面白いものではないが、資料的な価値は高い。

本書は、昭和27年、農地改革後すぐに出版されたものであり、農地改革を時事問題として記録したものである。そのため、現代の読者には説明不足な点も多い。例えばいろんな部分で「読者もよく分かっていると思うので詳述しない」といった記述があるが、今となっては説明して欲しい事項ばかりだ。また、各所に統計データが出てくるが、その表が全て縦書きで漢数字なので非常に読みにくかった。

しかし同時代資料であるだけに、当時の人が何を問題だと思い、何に憤っていたのかをヴィヴィッドに知ることができる。著者によれば、農地改革は一定の成果があったけれども、それは小作地の所有権を小作人に買わせる「インチキ」だったという(p.229)。本書の結論を一言で言えばそれである。

同時代の目で見た農地改革の記録の書。


【関連書籍の読書メモ】
『明治のむら』大島 美津子 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/02/blog-post_14.html
明治時代の農村政策を描く。明治政府が、どのように村落を再構築していったのかを克明に語る出色の農村史。特に地主制が成立する過程は本書を参照。

 

2021年2月14日日曜日

『明治のむら』大島 美津子 著

明治時代の農村政策を描く。

農民たちは「御一新」に期待した。藩政時代の苛斂誅求が終わり、豊かな暮らしが送れるようになると。実際、戊辰戦争の頃には、人心を掴みたかった新政府は農民に”年貢半減”を約束した。 

ところがこの期待は裏切られる。新政府が樹立されると、政府の改革的気運は消え失せ、財源の確保のため”年貢半減”の約束はすぐに撤回された。それどころか、明治政府は江戸時代以上の負担を強いるようになるのである。

「薩長は徳川に劣る」と民衆が考えたのも無理はない。こうして新政府反対の「世直し一揆」が頻発したが、政府は徹底的にこれを武力で弾圧した。

政府は農村を統制することの必要性を感じた。明治4年に戸籍法を定め、戸籍上の地域の区分け「大区」を設定すると、「大区」が行政区として実体を持つようになり、旧村役人を廃して「大区」に区長を、「小区」に副区長を置いた。これが「大区小区制」であり、明治政府による最も初期の農村の統制形態である。「小区」は数村に渡る範囲で、「大区」はそれをいくつか組み合わせた範囲であった。

また、これに伴って村方三役などの旧来の村の自治組織は否定された。それまでの村は、寄合による合議と全員一致を建前とする自治の仕組みがあったが、寄合(話し合い)自体が新政府によって否定され、区長は政府の役人として上意下達的な機能しか持たなかった。

旧村時代の総代は、支配者というよりは自身が農民であり、農民の利害を代弁していたのに、新たな区長は生活実態から乖離した広い範囲を収める国家の役人だった。それなのに、区長の給与は地元に負担させたところが「その後の日本の地方制度のあり方を象徴的に暗示している(p.41)」。

「大区小区制」の下で行われたのは、布達の徹底、戸籍整備、租税の徴収、小学校設置、徴兵調査など国家行政業務であったが、それらの費用も地元の町村民の負担であった。さらに、地方長官らは、各地方に根付いていた文化や風習を遅れたもの、古いものとして否定し軽蔑した。路傍の地蔵や石仏は移転され、村芝居や盆踊りが禁止された。新政府は民衆たちを愚民とみなし文明開化の名の下に抑圧した。

こうした、廃藩置県後の数年間の民意を無視した諸政策は反発を招き、士族反乱・農民騒擾がたびたび起こった。そんな中行われた地租改正は「農民が維新に期待した貢租軽減の願いを完全に打ちくだいた(p.60)」。地域の実情を無視して租税の負担が上から押し付けられ、また山村では、これまで共有林として管理されていた林野のほとんどが官有林とされた。これに反発し各地で地租改正一揆が起こり、特に三重・岐阜・愛知・堺に波及した「伊勢暴動」は政府に衝撃を与えた。また自由民権運動が発生し、農民たちの不満が組織的な戦いとなっていく機運が生まれた。これに危機感を抱いた政府は、これまでの強権的な農村支配を改めて、より巧妙な統治へ移行させていく。

それが明治11年の「新三法」の制定である。「新三法」とは、郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則の三法律で、明治政府による最初の統一的地方制度であった。これは、官僚的な大区小区制が反発を招いた反省に基づき、伝統的町村を認めてそれを国家体制に組み込むものである。

具体的には、大区小区を廃して町村を行政単位とし、その長に民選の戸長を置いた。戸長は一般的に薄給で、地主など資産家でないとなれない仕組みとなっていた。政府は共同体の解体が不可能であることを知って、戸長に選出される地域の名望家を通じて村を支配することにしたのである。またこの頃、教育費や町村土木費は激増したが、こうした負担も町村費に押しつけられ、逆に国税による補填(補助金)は減少した。

さらに、国家事業の性格が強い経費の賦課徴収を住民の責任に転化するため、国は区町村会の設置を認めた。その選挙権や被選挙権などは地方の自由に任されていたが、一般的に村の有力者層だけが議員になれる仕組みとなっていた。

そして村が国家の思惑を逸脱しないように監督したのが、郡である。郡長は純粋の官吏で強大な権限を持ち、区町村会に対して中止権、議決施行の拒否権も持っていた。国家は、村にある程度の自治を許す代わりに、その上に郡を置いて睨みをきかせたのである。

こうした中、松方デフレ財政による深刻な不況が農村を襲った。松方正義は国家財政を建て直すために、増税と紙幣の整理を行う。今まで国費負担分だった事業を府県・町村に振り分け、さらに新税(例えば「菓子税」まで!)を数々創設した。紙幣整理によるデフレで農産物の価格が下落したため、実質の増税率は50%にも上った。これにより没落する農民が続出。一方で農民が質入れする土地を集める地主も存在し、松方デフレは農村に地主制を拡大する一因ともなった。

農村の不況、農民の困窮によって、世論は反政府的な言論が形作られるようになり、自由民権運動が盛り上がった。体制側に取り込もうとした戸長すらも住民側に立ち、徴兵拒否の教唆をしていた。「福島事件」は、そういう中で起こった国家と村の対立の例である。福島県令に赴任した三島通庸(みちつね)は、強引な手法によって土木工事を進め、また議会の自由党を徹底的に弾圧して反対意見を封殺した。これに対し自由党と結んで蜂起した農民数千名が凶徒として根こそぎ逮捕されたのが「福島事件」である。明治17年頃には東日本の各地に農村蜂起が見られる。「国家権力が高利貸しの後盾にほかならない(p.98)」ことを感じた農民たちは平和的な嘆願が何の意味もないことを知って蜂起したのだ。だがこれらは全て武力で鎮圧された。

こうした情勢を受け、政府は明治17年に諸法律を改正する。その主眼は、行政区としての村をなくし、数か村を合わせた単位に官選の戸長を置いたことである(=村は再び行政区としての地位を失った)。その他、町村税の強制取り立て権の確立など、より強権的に行政が運営できるようにした。

そして政府は、国会開設を前にしてより強固な地方体制をつくるため、明治21年、「市制町村制」を定める。政府はこれに先立つ明治20年、概ね旧来の5、6か町村を合併させる町村大合併を強行していた。このため僅かな間に、町村数は7万435から1万3347へ激減。このような合併を行ったのは、政府が町村に要請する委任事務に耐える財政能力・事務能力のある自治体をつくり出すためだった。

「市制町村制」では、教育、道路整備、衛生など国家から町村に支出を義務づけられた経費は多額にのぼり、町村役場の仕事はほとんどが国からの委任事務であった。にもかかわらず、「町村は基本財産の運用によってその費用をまかなうべし」との考えの下、国は国税を確保する観点から地租とのバッティングをおそれ、驚くべきことに町村に特別な財源を与えなかったのである。

もちろん、そのような運営が可能だったのは全国でもほんの僅かな村だけだったので、実際には家屋割り、戸数割りといった方法によって住民に町村税が賦課された。しかし、1戸あたりで町村税を取れば、どうしても逆進的になる。それでなくても、「市制町村制」では町村議会の選挙権を国税納入の金額を基準とするなど(しかも不在地主にまで選挙権があった!)、あからさまに有力者優先の制度となっていた。国家は地主を優遇して村の有力者をとりこみ、負担は貧農に押しつけたのである。しかも、国税の財源も商工部門への課税や消費税の創設は最小限にとどめられ、反対に農民への重課を意味する地租を中核とした租税体系となっていた。

小作人たちは、土地を持っていなかったから地租を納めていなかったと考える向きもあるがそうではない。本書には詳らかでないが、彼らは地主に高額の(概ね収穫の半分もの)小作料を納めていた。地主はそこから(自分では耕作していないその土地の)地租を払っていたので、結局は地租とは小作人への課税だったのである。しかも町村税の戸数割りなどで、農民には逆進的な負担がのしかかっていた。明治国家の財政を支えたのは、選挙権すら持っていない農民たちだった。

「市制町村制」は、町村役場を自治体とは名ばかりの国家の下請け機関として、しかもその費用は住民に押しつける強権的な体制であったが、そこに一つのほころびがあった。それは、住民が共同体意識を持たない広域の町村を構成した結果、部落(集落)の結びつきが強まり、村が分解する傾向にあったことである。そしてもう一つは、地主優遇の政策によってさらに富が偏在し、地主が不在地主化していったことで、住民と地主・有力者との心理的紐帯が弱まり、農民が階級的に分裂していったことであった。

明治30年代後半になると、日露戦争の遂行などのために税負担が2倍以上に増加する。しかもそれを、地租ではなく、地方税の偏重、すなわち戸数割り町村税の増徴をもって宛てた。「逆進的な戸数割の増徴を通じて、その負担を広く一般住民へ拡散しようとする非常に意図的な政策(p.191)」が行われた。

町村税は増税されたものの、村役場の事務はほとんどが国家の委任事務であり、地域政策のための予算はむしろ減少したため、この時期には町村の財政において「寄附金」の割合が著しく膨張した。今も、道路拡張記念碑や校舎建設記念碑で寄附を感謝するこの時期の石碑を見ることができるが、その背景にはこのような財政事情があったのである。そして町村財政が寄附に頼るようになると、寄附金を出すことができる少数の有力者の力がなおさら強くなっていくことは自然のいきおいであった。

そして、「国家出先機関としての町村役場の行政機能強化が、地方制度上、集大成した形であらわれた(p.200)」のが、明治44年の町村制改正であった。この改正では町村長の権限が強化されるとともに国政事務の遂行が義務づけられ、また町村の基本財産の整備が行われた。その原資とされたのが旧来の部落有林である。国は戦時であることを利用して、部落の財産を強制的に町村に編入させ、部落的セクショナリズムを打破しようとしたのである。またこれと並行して部落氏神の町村合祀政策も進められた。

そして、町村の人心統合のため、「地方改良運動」が強力に推進された。農村の動揺を勤倹や上下一致思想の鼓吹によって切り抜けようとするもので、村が一丸となって労働と貯蓄に邁進することを二宮尊徳の「報徳精神」を援用し思想的に喧伝した。またこの時期には、在郷軍人会、愛国婦人会、納税組合、貯蓄組合、農会といったおびただしい行政補助組織が作られた。さらに婦女会、矯風会、青年会、夜学会、戸主会などの町村内の強化組織の設置も奨励され、こうした中間団体を利用することで個人生活の細かい面まで規制を行うとともに、社会矛盾を長老主義的な温情感で粉飾し、さらには「従順な服従によって日常生活が貫かれる社会(p.207)」を理想としたのである。

本書に描かれる明治政府の農村政策を概観すれば、3つの特徴を挙げることができる。第1には、地主中心の新たな身分秩序を再構成したことである。それまでの農村にも、もちろん豪農と貧農はいた。しかしそれらは農民としてひとまとまりに出来るものであった。ところが明治期には、逆進的な租税体系と、戸長・議員・官吏などに有力者のみが就任できる仕組みにより、地主階級が確立し「寄生地主体制」ができていったのである。

第2に、伝統的な村落自治の仕組みを破壊して、町村役場を国家の出先機関にすぎない上意下達の官僚機関としたことである。農民がこれを不服として武力蜂起しても国はそれを容赦なく弾圧した。江戸時代の農村は、かなりの自治を行い、武士にも言論で対抗できる力を持っている村も少なくなかったが、明治期の町村は完全に国家に従属することとなった。こうして体制に従順な「物言わぬ農民」が出来上がっていった。

第3に、江戸時代以来の村については、行政区画としての地位を剥奪して度重なる合併を行った一方で、部落(集落)については比較的温存させたことである。これは意図せざる政策だったようであるが、結果的には部落における日常的相互強制力、部落間の対抗意識などを利用して徴税を確保したり、地方改良運動における思想教導が婦人会や青年団といった部落組織を通じて行われるなど、部落は政策的に利用された。そして部落が温存されたことは、村議の立候補なども部落推薦候補などで占められるといった風潮となり、次の時代の課題として引き継がれていくのである。

こうした特徴を見れば、現代の農村に残る様々な悪しき特徴が、江戸時代以来のものであるよりは、むしろ明治政府によって人為的に作られたものであることがわかるだろう。本書は「明治のむら」がどうして成立したかを丁寧に解き明かしたものであるが、それは農村政策史であるだけでなく、現在の農村の姿をも照射するものだ。

明治政府が、どのように村落を再構築していったのかを克明に語る出色の農村史。

【関連書籍の読書メモ】
『百姓たちの幕末維新』渡辺尚志 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2015/07/blog-post.html
幕末維新期における百姓の実態を探る本。幕末の百姓が武士と対等に「言論」で戦っている様子が分かる。


2021年2月5日金曜日

『国際交易の古代列島』田中 史生 著

古代日本の対外関係を交易を中心として述べる。

東アジアの古代社会の国際関係は、当然ながら中国を軸にしていた。卑弥呼が魏から「漢委奴国王」として冊封を受けたように、中国から認められることが国際社会においても国内政治においても重要な意味を持った。

であるから、中国としても周辺国の統治は重要な政策課題であり、前漢は朝鮮半島に「楽浪郡」を設置して東アジア経営にあたり、楽浪郡(追って南側は「帯方郡」に分割)を中心として、中国へ朝貢する体制が出来上がった。

ところで「朝貢」というと、一方的に貢ぎ物を持っていくようなイメージがあるがそうではない。確かに朝貢国は数年(または数十年)おきにいろいろなもの(主に特産品)を貢納する義務があった。しかし中国は朝貢の見返りとして、そうした地場産品の価値を遙かに超える豪華な品を下賜したのである。圧倒的な文明の差を見せつける品を与えることが朝貢体制における上下関係を形成し、またそれは実質的に官営貿易の意味があった。そして、並みの豪族が決して手に入れられないそうした奢侈品は、日本や朝鮮の王権の権威を演出するアイテムとして重要だったのである。

一方、朝鮮と日本の間にも古代から国交があり、交易が行われていた。ところが、文明的には朝鮮の方が進んでいたにもかかわらず、倭韓の間には上下関係はなく、対等な形で交易が行われていたらしいのが中国の場合との最大の違いである。例えば、日本から百済に贈られたのは、兵の他に船、武器・武具、馬、穀物、糸・錦・布などの繊維製品といったもので、百済からは鉄、仏像、経綸、絹織物などがもたらされた。特に鉄と綿は恒常的に交換されていたと見られる。倭韓の間では、こうした取引が値段交渉さながらのやりとりの末に行われていた。

また、この頃の交易では、各地の首長たちがそれぞれ交易を行っていたことが特徴である。日本はまだ統一国家とは呼べなかったし、大王の方にも国際交易を規制しようという意図も手段もなかったものと思われる。

隋・唐の時代になると、日本は律令国家としてこれに対峙していく。日本は遣隋使・遣唐使を派遣して前代に引き続き朝貢を行った。しかしいくつかの点でかつての交易体制とは違った。第1に、日本は中国に朝貢は行ったが冊封を受けること(=臣下となること)はむしろ拒否した(その理由は本書には詳らかでない)。第2に、首長たちの自由な交易(海外渡航)を禁じ、海外交易は王権が統制した。例えば、王権は交易使節が持ってきた品物を優先的に買い上げ(官司先買制)、また貴族たちの購入に介入した。そしてこうした統制のため大宰府が交易の中心になった。

また、日本は中国から見れば東夷であるが、自身を小中華として位置づけようとした。そのため蝦夷や南島(南西諸島)と盛んに交易を行い、彼らを夷としてそれを服属させていることを中国に誇ったようである。もちろん、北方や南方から手に入る特殊な産物が貴族たちの垂涎の品であったこともその背景にあった。

8世紀半ば、唐は衰微して「安史の乱」が起こる。それにより陸域の東西交流が低調となり、替わって海を通じた交易が盛んになった。また、新羅では飢饉や疫病の流行で、多くの人が唐や日本に亡命した。例えば、815年からの8年間だけで中央への新羅からの帰化人は400人を越えた。かなり多くの新羅人が日本に入ってきたのは間違いない。ところが日本と新羅との関係はギクシャクしていたので、国家間の交易は低調となる一方で、自然と新羅人の民間海商を通じた交易が北部九州で行われるようになるのである。なおその交易は、当時の国際通貨である銀を決済手段としたものだった。

そんな唐−新羅−日本を結ぶ交易をリードする存在だったのが、新羅商人の張宝高(ちょう・ほうこう)である。彼は823年頃に新羅から清海鎮の大使として任命され、公的な立場で新羅商人たちを監督し貿易を推進した。今で言えば貿易商社の社長が在外大使に任命されたようなものだろうか。

新羅商人を通じた民間交易を日本は公的には禁じていたが、831年(天長8年)に積極姿勢に転じる。官司先買制を導入した上で、大宰府の監視のもと公定価格で民間が交易することを許したのである。張宝高らは、取引価格が抑えられるというデメリットがあったにもかかわらず、基本的にこの管理交易を歓迎した。滞在中の安全が保障されるだけでなく、天皇や朝廷との取引が約束されたからである。なおこの交易の決済には真綿が使われたようだ。

新羅海商のネットワークを朝廷も重視し、また利用した。例えば、最後の遣唐使船の往還は新羅系交易者たちの協力によって果たされたし、僧や官人の派遣においても、遣唐使船ではなく新羅系交易者のネットワークを頼るようになった。

しかしこのネットワークのトップだった張宝高は、841年頃、新羅の政争・政変に巻き込まれて暗殺される。そこで明るみに出たのが、前の筑前国守の文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)が宝高と密貿易をしようとしていたことだった。この頃、「唐物(からもの)」の価値が大変高くなっており、密貿易をしてでも手に入れる価値があったのである。それは、大陸との交易が盛んになり多くの唐物が流入したことで貴族の手が届く品となり、より多くの貴重な唐物を所持することが貴族としてのステータスになったからだった。つまり唐物は威信財として自らの立場を有利にするアイテムになっていた。

あまりにも唐物熱が高まったことで朝廷は貿易管理を強化し、朝廷は新羅人の帰化を禁じるなどするとともに、貿易管理業務を大宰府に任せるのではなく、朝廷(蔵人所)から派遣する唐物使(からもののつかい)に担わせることとした。貿易管理を朝廷直轄の業務としたのである。また新羅海賊の横行もあり、新羅との貿易は徐々に低調になっていった。

これを補う形で、日本では江南海商との繋がりが深くなっていく。それには、本国の混乱や唐における「会昌の廃仏」(840年〜)によって江南地域に移住していった新羅系商人たちが多くいたことも関係していた。また江南地域の海商たちは、「会昌の廃仏」で排斥される寺院を裏から支援していたが、そういう海商の代表が徐兄弟(兄・公直、弟・公祐)である。徐兄弟は江南の特産品はもちろん、南海の産物や北方のものも取り扱って日本と交易した。こうして江南地域が貿易のハブになっていった。

なお、海商たちが寺院を保護したのは、仏教文化が東アジアの共通文化となり、国境を越えた結びつきをもたらしたからでもあり、また仏教僧による航海の安全祈願に需要があったためでもある。

ところで9世紀後半、大宰府が集める真綿の質が低下し、これを交易代価とすることが難しくなった。そこで10世紀には貿易の決済は陸奥国からの金が用いられるようになったが、10世紀末に陸奥国の金が停滞するようになると、大宰府の官物(米)による決済に移っていった。

一方、10世紀初め、唐は滅亡して中国は五代十国の時代を迎えて混乱していた。これに応じて朝鮮半島情勢も複雑化する。日本では、こうした混乱期の国々とは国交を持たなかったが民間の海商を通じた交易はむしろ盛んであり、朝廷としてはこれを制限する形で管理する。

やがて宋が成立すると日宋貿易の時代となって、宋海商たちが日本人を妻にするなど婚姻関係も利用して日中双方に拠点を形成した交易ネットワークを広げて行くのである(日宋貿易は中世にかかってくるため本書では軽く触れる程度)。

古代日本の交易関係がわかりやすく整理された良書。

【関連書籍の読書メモ】
『倭寇―海の歴史』田中 健夫 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/12/blog-post_22.html

倭寇を軸に、14〜16世紀の東シナ海の歴史を描く。
倭寇の動きを追うことで、東シナ海の激動の歴史を垣間見られるエキサイティングな本。

『大宰府(教育社歴史新書<日本史25>)』倉住 靖彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/01/25.html

大宰府の概略的な歴史。