2023年5月20日土曜日

『島地黙雷—「政教分離をもたらした僧侶」』山口 輝臣 著

島地黙雷の簡潔な評伝。

島地黙雷は、明治時代に活躍した真宗本願寺派(西本願寺)の僧侶で、明治5〜10年ほどを「黙雷の時代」と呼ぶほど、目覚ましく活躍した。しかし彼は宗教者として傑出していたというより、それは政治的な活躍であった。そのハイライトが本書の副題となっている「政教分離」をもたらしたこと、言い換えれば、「明治というあらたな時代のなかに仏教を位置づけた(p.3)」ことである。本書はその点を中心に、黙雷の人生をコンパクトにまとめている。

黙雷は天保9年(1838)、長州藩=周防国(現山口県周南市垰)の本願寺派の専照寺に四男として生まれた。彼は20歳の頃、友人たちと出奔し九州に赴き、肥後山鹿の光照寺原口針水について学んだ。文久元年(1861)に帰郷。長州藩が戦時体制に突入していった頃である。長州の真宗僧侶は「金剛隊」を結成。大洲鉄然ら多くの僧侶も「諸隊」へ参加。西本願寺は勤王の立場を明確にしており、軍事行動へ積極的だった。黙雷はこうした動きに距離を置いていたが慶応元年(1865)に僧兵となった。そして徐々に政治的な活動に足を突っ込んでいく。

彼は鳥羽伏見の戦いを口実に上京し、本山へ建議を提出した。本山の改革が必要との内容である。その際、長髪に帯剣して睨みをきかしたという。なぜ長髪・帯剣なのか、非常に興味深い。そしてその建議は採用され、改革案の実行に携わることになった。

明治3年(1870)、法主大谷光沢(広如)により4か条の諮問があった。(1)宗門改の廃止、(2)葬儀の動揺、(3)寺院の廃合、(4)布教についてである。これに黙雷と鉄然が答申を取りまとめたが、(1)必要なし、(2)葬儀に固執する必要なし、(3)やむをえない、とし(4)の布教こそ寺院の存在意義として必要とした。神仏分離令をはじめとする仏教への逆風の中、仏教にとって必要なものは何かという鋭い問いが突き付けられ、仏教の本質、核とは何かが考究された。それに対する黙雷の答えは「教」だったのである。そしてこの8月、黙雷と鉄然は本山から東京出仕を命じられる。以後、黙雷は、本願寺を代表して活動することになる。

東京で彼らは寺院専任の官庁を設けるべく運動し、10月、民部省に寺院寮が設けられた。彼らの運動はいきなり国レベルの政策に影響を与えたのである。それには、彼らが長州閥の政治家とつながりがあったという事情がある。特に木戸孝允との関係が深かった。

この頃の宗教政策における最大の課題は、キリスト教対策である。キリスト教の解禁はやむなしと見られたため、それに対抗するための方策が必要だった。黙雷はキリスト教を「妖教」扱いし、神仏儒教を一元的に管轄する官庁を設けて、それぞれが「教」を説いて「妖教」に対抗すべしという建白を行った。彼は木戸孝允に働きかけ、新聞という新たなメディアも使って運動。これを受け、教部省が設立されることとなった。そして神仏儒が共同して大教院を中心に「三条の教則」という原則の下で国民教化運動に取り組むのである。

一方、黙雷は法主大谷光尊の海外視察を構想。木戸も法主の岩倉使節団への同行を慫慂した。光尊も同意したが、宗門の事情で梅上沢融を代理として派遣することとなり、黙雷も一向に加わった(梅上沢融、島地黙雷、赤松連城、堀川教阿、光田為然)。なお東本願寺では次期法主の大谷光瑩ら5人が欧州を巡回している。

黙雷は海外を視察し、「敵」であるキリスト教を深く知って「宗教」の概念を受け入れた。開化の頂点に位置する西洋では、「宗教」がグローバル・スタンダードだった。儒教とか神道は「宗教」ではなかった。日本で「宗教」であるのは仏教だけで、しかも真宗はその中でも最も一神教的な教えだったから、「宗教」の概念は黙雷の大きな武器になった。ところが、西洋を基準に考えるならキリスト教は邪教ではありえない。むしろ文明のためにはキリスト教を受容することが適当という理屈も成り立つ。

これに対し、黙雷は「宗教と文明は関係ない」というロジックで対抗。西洋の文明はあくまでも学術のおかげだというのだ。だがそれなら、宗教の重要性は高くないということになる。黙雷はそれでもよいと考え、むしろ国家とは離れた領域で自由に布教することの方を選んだ。また海外視察では、木戸との関係がさらに緊密化したことも成果であった。

黙雷は、早速、教部省=大教院体制に戦いを挑んだ。その要点は、(1)大教院は神仏分離に反する、(2)「三条の教則」があっては本来の教えが説けずキリスト教へ対抗できない、(3)そもそも大教院体制は、政治と宗教がごっちゃになっている、というようなものだ。さらに黙雷帰国後の明治6年(1873)、キリシタン禁制の高札が除去された。はっきりとキリスト教が公許されたわけではなかったが、明確な禁止でもなくなった。よってキリスト教に対抗するための、より実効的な枠組みが求められた。

黙雷は教部省批判の意見書を提出し、それは木戸にも理解された。また教部大輔の宍戸璣(たまき)はこれに応え、三島通庸ら薩摩系の勢力を排除していった。しかし教部省批判には真宗以外の仏教諸派が賛同せず、黙雷は真宗(東西本願寺)をまとめて、真宗を大教院から離脱させてもらえるよう教部省に上申した。大教院は布教の足かせになっているから離脱したいというものだった。ここでも黙雷は新聞に寄稿し、また自ら『報四叢談』という自前の雑誌も立ち上げて健筆をふるった。

その結果、真宗の離脱は認められる方向になったが、興正寺の華園摂信が本願寺から独立することを申し出る。自分たちは本願寺から独立して大教院に残ろうというのだ。これで議論がややこしくなってしまった。政府は宗門内の対立を仲裁しなければならないことに嫌気がさし、明治8年には大教院を解散させた。「大教院などさして役に立っていないのだから(p.69)」、なくしてしまえばよかったのだ。黙雷はここぞとばかり、「神仏混淆を禁じた維新の大義に反する(p.70)」として次に教部省廃止を訴えた。そして明治10年(1877)に教部省は廃止された。一応の「政教分離」の達成であった。黙雷が国につきつけた要望は、そのほとんどが実現した。

しかしながら、「政教分離」が達成された後の黙雷には、困難が待ち受けていた。黙雷の著作『念仏往生義』などが「黙雷は自力を説いている」として批判され、異安心(いあんじん=異端)の疑いをもたれた。異安心ではないと審判は出たものの、その審判は法主ではなく大洲鉄然や赤松連城が担当したため、光尊は不満を抱いて黙雷の役職を解任、東京での布教活動を中止させた。さらに光尊は北畠道龍を起用して本山改革を行い(長州系僧侶は排除された)、これによって本願寺は東京と京都に分裂。内紛は泥沼になった。最終的には右大臣岩倉具視が「華族の体面を汚さぬように」と光尊を説得して分裂は収束した。

結果、喧嘩両成敗として、黙雷を含む本願寺における長州閥僧侶は弱体化した。しかし明治中頃には黙雷は要職へ復帰し、明治26年(1893)に執行長、翌年は勧学へのぼった。本願寺の学階の最高位である。なお明治23年(1890)には、仏教各宗協会で、『仏教各宗綱要』の編集長を務めている。

こうした経歴のため黙雷は自坊を持っていなかったが、「白蓮会」という会員組織を育てた(明治8年設立)。この会を母体に女子文芸学舎(→現在の千代田女学園)も開校している。また明治12年(1879)には大内青巒らと共同で護法にあたる「和敬会」を、明治16年(1883)にはキリスト教に対抗するための結社「令知会」も設立。黙雷はキリスト教への敵愾心を失ってはいなかったが、キリスト教は政策担当者たちが懸念したように爆発的に広がることはなく、「キリスト教への対抗」との存在理由は希薄化していった。

この他、監獄教誨や免囚保護にも取り組み、仏前結婚式を考案し実施してもいる。また従軍布教にも積極的で、「喜び勇んで栄えある行為に邁進するよう勧め」た。彼は政教分離を進めたが、意外なことに、同時に国家主義者でもあった。

こうした黙雷をめげさせたのが、息子雷夢(らいむ)がキリスト教に受洗したことだった。雷夢は黙雷の秘蔵っ子、跡継ぎとして育てられたが、宗教上の疑問に苦しみ、パブテストの教会で洗礼を受けたのだ。黙雷は「一緒に刺し違える」とまで告げたが息子は自らの道を進み、36歳で早死にした。また黙雷の生家専照寺を継がせる予定だった黙爾は、大谷探検隊に参加し、明治36年(1903)、ベナレスで客死した。

息子達の死は黙雷を意気消沈させたが、黙雷は盛岡の願教寺に入り、東北布教に取り組んだ(奥羽教総監)。これは僻地に引っ込んだのではなく、盛岡を拠点として引き続き活発に活動し、満州にまで渡ったが、明治44年(1911)、74歳で亡くなった。葬儀には僧俗5000余人が参加したという。

黙雷は、生涯キリスト教を敵とし、国家からは独立して自由に布教に邁進することが仏教の核だと主張した。ところが政教分離が実現し、自由に布教する体制ができても、それほどの成果はあがらなかった。キリスト教は思ったほど脅威ではなく、政教分離は社会における宗教の存在感の低下をもたらしたからだ。そして、彼が宗教ではないとした神道が、後に宗教以上の力で日本人の思考を支配するようになるとは皮肉だった。

彼は、教義と科学が矛盾する時は科学を信頼すればよい、という「物わかりのよい」僧侶であった。いわば合理的だったのだ。だからこそ、その建白は政策担当者たちに受け入れられたのだろう。しかし、その合理性が黙雷の弱点だったともいえる。「仏教は役に立つ」というロジックを掲げ続けたことが、彼の限界を定めたのかもしれない。

明治時代に傑出した働きを見せた島地黙雷を小著ながら多面的に描いた良書。

【関連書籍の読書メモ】
『明治国家と宗教』山口 輝臣 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/01/blog-post_29.html
明治時代の宗教と国家の関係について2つの側面から述べる本。世俗的になっていた国家が、どうして宗教的に揺り戻されていったのか。本書はそれを水面下の動きから解明した労作。

★Amazonページ
https://amzn.to/49a7g3c

2023年5月18日木曜日

『江戸の科学者—西洋に挑んだ異才列伝』新戸 雅章 著

江戸時代の科学者11人を紹介する本。

日本の科学技術は、明治時代の文明開化で急に発展したのではなく、江戸時代から西洋の知識が流入しており、高いレベルに達していた科学者も多かった。それは明治以降の科学の発展の土台となったのである。

とはいえそれは、江戸時代の知識人の本道ではなく、西洋の科学に取り組んだものはたいてい変わり者で、反骨精神があった。本書は、そうしたかぶきものならぬ「かがくもの」を描くものである。

私は本書を2つの関心から手に取った。第1に、江戸時代の科学者たちがどのようにして「西洋」に出会ったのか、ということ、第2に、彼らはどのような身分であり、またその科学知識は彼らの身分を上昇させたのかどうか、ということである。以下、その点を踏まえてメモする。なお、本書には4つの章が設けられているが、以下のメモでは章別けは無視した。

高橋至時:高橋至時(よしとき)は、幕府天文方を務め、伊能忠敬の年下の師匠としても有名。シーボルト事件で処罰された高橋景保の父でもある。明和元年(1764)生まれ、父は大坂定番同心で、父を継いだ後に趣味で数学や暦学を学び、麻田剛立に弟子入りした。麻田は天文の研究のため脱藩して大阪で町医者になっていた人物。至時は、同門の間重富が桑名藩主松平忠和(ただとも)から入手した中国の天文書『暦象考成 後編』に出会い、一門をあげて研究。この本には天動説とケプラーの楕円運動論による天文・暦学が論じられており、この研究で至時は頭角を現し、寛政7年(1795)、幕府の命を受けて暦の改正に取り組んだ。時に徳川吉宗は、蘭学書物の輸入規制を緩和しており、西洋の文物や知識がどんどん流入する時代になっていた。天文観測に長けた重富と理論に長けた至時は協力して新暦「寛政暦」を完成させた。

その後至時はフランスの天文学者ラランデの天文書(のオランダ語訳)の翻訳を若年寄堀田摂津守正敦(まさあつ)から言い渡された。そこには地動説に基づいた天体運動が論じられており、寝食を忘れて翻訳に没頭。わずか半年で『ラランデ暦書管見』11冊を完成させた。この翻訳によって日本でも西洋の天文学を直接学ぶ道筋が付けられた。

志筑忠雄: 江戸時代で最高の翻訳家。彼は長崎の資産家に生まれ、志筑家の養子になり稽古通詞になったが、生来病弱なため早くに退職。生家の中野家に復帰し、学究の道に入った。大木良永から蘭学の手ほどきを受け、イギリスの自然哲学者ジョン・ケイルの著作に出会ってニュートン力学に目覚める。彼はケイルの著作の翻訳を生涯の仕事と定め、『求力法論』『暦象新書』などを翻訳した。これらの著作で、引力や重力、真空、分子といった訳語を定めたほか、「ー、+、÷、√」といった数学記号を日本にはじめて紹介した。また「鎖国」という言葉は、忠雄がケンペルの『鎖国論』を翻訳したことで生まれたものである。「人と交わるのが苦手な忠雄は生涯長崎を一歩も出ず、家にこもり、(中略)蘭学の研究に没頭した(p.49)」。他の蘭学者ともほとんど交流を持たなかった。

橋本宗吉:「日本電気学の祖」橋本宗吉は、宝暦13年(1763)、大坂の傘の紋描き職人の家に生まれた。貧しい職人として働いたが、非凡な記憶力や知能が間重富に注目され、重富は蘭方医の小石元俊と費用を負担して、宗吉にオランダ語を学ばせるために江戸へ留学させた。江戸では蘭方医の大槻玄沢の門に入り、帰坂後、宗吉は蘭方医として修行しながら、元俊と重富のために蘭書の翻訳に精を出した。さらに寛政9年(1798)、自身も医院と蘭学塾を兼ねる「絲漢堂」を開いた。そして翻訳だけでなく自ら実験もし、特に『エレキテル訳説』の翻訳では自身で電気学の実験を行った。さらに自らの実験をまとめ、日本初の実験電気学の書『阿蘭陀始制エレキテル究理』をまとめた。ただしこれはなぜか幕府の許可が下りなかったため生前は出版されなかった。晩年はシーボルト事件の影響で絲漢堂を閉じざるを得ず、おそらくは公議を憚ったために死後も墓は作られなかった。しかし彼の学統は、孫弟子の緒方洪庵によって継承、発展した。「大坂蘭学の祖」とも言われる。

関孝和:関孝和は幕臣内山永明の次男として出生。長じて甲府藩勘定役を務める関五郎左衛門の養子となった。吉田光由の『塵劫記』を読んで数学に目覚めたとされる。しかし特定の師にはつかず、書物を通じた独学で数学を学び、朱世傑『算学啓蒙』によって天元術に触れた。これは算木や算盤を使う中国の代数学である。孝和は算木ではなく記号によって代数学の大系を作り、延宝2年(1674)、『発微算法』にまとめた。これは生前刊行された唯一の著書である。他の和算家が数学を解法として見ていたのに対し、孝和はその背景にある一般理論に興味を持った。そしてライプニッツに約10年先駆けて行列式を考案。ベルヌーイとほぼ同時に「ベルヌーイ数」も示している。孝和の業績は「関流」和算として発展させられ、建部賢弘はその跡を継いだ。賢弘は『発微算法』の一般向け注解書『発微算法演段諺解(げんかい)』を上梓している。こうして江戸和算の全盛期が築かれた。「算額」を奉納する風習はその象徴である。「江戸期には庶民のための数学入門書がベストセラーになり、全国に数学塾が開かれ、西洋とほぼ同等の記号による数学が隆盛をきわめた(p.88)」。なお、孝和は主君が六代将軍として江戸城に入ったので江戸詰となり、勘定方吟味役にまで昇進している(数学との関連は不明)。

平賀源内:平賀源内は、「博物学者であり、鉱山技師であり、電気学者、化学者、起業家、イベントプランナー、技術コンサルタントであり、日本最初の西洋画家であり、ベストセラー小説『風流志道軒伝』や人気戯作『神霊矢口渡』の作者であり、「本日丑の日」で知られる日本最初のコピーライター(p.91)」である。彼は高松藩の下級武士の子として生まれ、生来利発で13歳から藩内の儒者の下で学んだ。21歳で家督を継ぎ、御米蔵番として出仕。同じ頃に藩の薬園の御薬坊主の下役に登用された(ダブルワークなのだろうか?)。本草学者としてのスタートである。さらに長崎に遊学し、帰藩後、藩に退役を願って許可され、妹に婿養子をとらせて平賀家を継がせ、自分は自由な身分で江戸に移った。27歳の時である。すぐに頭角を現した源内は、再び高松藩主(松平頼恭(よりたか))に召し抱えられるものの、藩の枠内に留まる不利が勝り再び辞職を願い出た。許可されたが「仕官御構」(=今後他藩に仕えてはいけない)の条件が付けられた。

源内は学究肌というよりは事業家肌で、様々なことに取り組み、しかもその事業は時代に先駆けていた。ただ、失敗も多く、殖産興業の努力はあまり実を結ばなかった。最後は殺人事件を起こし、獄中死した。彼は科学者としては一流ではなかったが、「科学と国益を結びつけて考えたこと、さらに進んで科学・技術と産業を結びつけようとした点(p.116)」に真骨頂がある。

宇田川榕菴:宇田川榕菴は、大垣藩医で蘭学者の江沢養樹の長男として生まれ、13歳で津山藩医宇田川玄真の養子となった。玄真は『西説内科撰要』18巻を書いた大学者で、幕府の蕃書和解御用にも任用された蘭学者の泰斗であった。榕菴は最高の環境で勉学に励み、オランダ語を学んだ。とりわけ興味を抱いたのが植物分類学。『菩多尼訶(ボタニカ)経』というお経仕立てのリンネ植物学の本が最初の著書である。江戸を訪れたシーボルトとも親交を結び、シーボルトは顕微鏡とドイツ語の植物学入門書を榕菴に与えた。28歳で宇田川家を継ぎ、幕府から蕃書和解御用にも任じられた。同時期に大槻玄沢も同ポストにいた。ここで榕菴は、ショメールの百科事典を翻訳し、全70巻+続編32冊におよぶ大著『厚生新編』を完成させた。翻訳には30年以上かかった。シーボルト事件ではかろうじて難を逃れ、その後も訳業と著述に励んだ。『遠西医方名物考補遺』では元素、酸素、水素など「〜素」の訳語を始めて使用した養父の著書の補遺で、本書では、親和、物質、流体、凝固、気化、酸化、還元、酸、塩などの用語が始めて使用された。またリンネ植物学を体系的に述べた『植学啓原』では花粉、葉柄、気孔、柱頭、葯といった植物用語を定着させた。さらに畢生の大著『舎密開宗』では、ラボアジエの化学理論を始めて体系的に紹介した。これらの本は、単に洋書を翻訳するだけでなく、自身も実験や分析を行っていた。榕菴は多才で、コーヒーや西洋音楽の研究にまで手をつけている。「蛮社の獄」では榕菴には政治的発言がなかったので処分されなかったが、病のため48歳で死去した。

司馬江漢:司馬江漢の生まれはよくわかっていない。町絵師江漢は、なぜか蘭学に心惹かれ、平賀源内と交流した。そして彼の影響で日本で始めて銅版画を制作。また油絵にも取り組んだ。写実的な洋風画を描きたいという欲求は、世界の真実を知りたいという欲求と重なり、長崎に遊学。やがて天文地理に興味を持ち、日本で初めての銅版画による世界地図「輿地全図」、その説明書『輿地略説』を刊行、また『和蘭天説』でコペルニクスの地動説を論じた。その後も地動説の普及のためにいくつかの書物を刊行した。またカラクリの才もあった。一言でいえば彼は奇人で、人に馴染まなかった彼は歳を取って孤独になり寂しく死んだ。彼は多芸多才ではあったが、どの道でも第一人者とは呼べなかった。しかし「終生、権威や権力におもねることなく、一芸術家、一好学者(p.157)」であった。

国友一貫斎:当時としては世界的な性能の反射望遠鏡を作ったのが一貫斎こと国友藤兵衛重恭(しげゆき)である。国友鉄砲鍛冶の中で、ひときわ才能があった一貫斎は、いわゆる「彦根事建」で諸大名から鉄砲の受注ができるようになり、そのおかげで西洋の文物に触れる機会を得た。また事件の詮議のために江戸に出て解決後も含め5年滞在し、技術を学んだ。そして松平定信から命を受け、鉄砲の製作マニュアル『大小御鉄炮張立製作』を献上、刊行した。松平定信が鉄砲製作法を公開するという異例の対応をとったのは、ロシア船出現などを受けた国防の強化にあったと見られる。なお一貫斎は江戸で平田篤胤と交流している。一貫斎は尾張犬山藩の江戸屋敷でオランダ製グレゴリー式反射望遠鏡を見、そのとりことなった。一貫斎は10年の準備期間を経て製作を開始、約1年で完成させた。彼でなければ完成は不可能だったと言われている。その望遠鏡を使い、一貫斎は種々の天体観測を行った。特に、太陽黒点の観測は約1年間にわたって克明に記録したもので世界水準である。その外にも様々な発明品・製作品がある。彼はひたむきな努力の人で、独学で物理学、化学、天文学、博物学、軍学などを修め、またその人間性で多くの支援者を得た。

緒方洪庵:緒方洪庵は、文化7年(1810)、備中足守藩の下級藩士の三男に生まれた。元服後、父に従って大坂に出、蘭学者中天游(橋本宗吉の弟子)の私塾「思々斎塾」に入門、医学と蘭学を学んだ。家督は継げないから医術で身を立てようと思ったのだ。さらに江戸へも遊学し、坪井信道に入門、学頭に抜擢されるとともに、宇田川玄真に薬学も学んだ。そして長崎へも遊学し、医者を開業しながら博学のオランダ人商館長ヨハネス・ニーマンから西洋医学や自然科学も学んだ。大坂に帰って医者を開業し、さらに蘭学塾「適々斎塾」を開いた。最高の教育を受け、たぐいまれな見識と技術があった洪庵には入塾希望者が殺到。福沢諭吉、橋本左内、大鳥圭介、大村益次郎、佐野常民などが学んだ。医師としては種痘(牛痘)の普及活動に力を入れ、大坂に除痘館という幕府公認の種痘所を設立した。またコレラの治療にも最善を尽くした。こうした評判は幕府に聞こえ、幕府から奥医師へ招聘され、あわせて西洋医学所の頭取も兼務した。町医者から医学界の最高位まで上り詰めたのである。なお当時の奥医師は総勢19名、すでに3分の1が蘭方医であった。洪庵は医師としても一流で、また日本最初の画期的な病理学書『病学通論』を著すなど学者としても一流、さらに教育者としては超一流であった。適塾の血気盛んな生徒たちが、みな洪庵に心酔し、それぞれが新しい時代を開く人材になった。

田中久重:田中儀右衛門久重は、久留米藩のべっこう細工店を営む田中弥右衛門の長男に生まれた。久重は幼いころから工作に才があり、『機巧図彙(からくりずい)』を参考書に独学でからくりを作り始めた。15歳の時に絣の織機を製作し評判となる。久重はさまざまなからくり人形を作り、「茶酌娘」はその代表作である。祭の見世物でのからくり興行が大評判になり、ついたあだ名が「からくり儀右衛門」。創意工夫もさることながら、歯車やぜんまいなどの加工技術がものをいっていた。

彼はからくりに魅せられ、家を弟に継がすと、妻子を置いて修行の旅に出た。修行の成果として、「弓曳童子」というからくりが最高傑作として残されている。旅を終え大坂に落ちつき、妻子を呼び寄せ時計師の店を出し「無尽灯」(ランプ)を開発。京都に移って「雲竜水」(消防ポンプ)も開発した。そして京の嵯峨御所から「大掾」の称号を与えられた。芸能の最高位である。さらに久重が持てる技術の全てを注いだのが和時計。この際、彼は天文の基礎から学び、京で蘭学塾「時習堂」を開く広瀬元恭に入門して西洋の物理・化学の原理も学んだ。こうして万年時計が完成。世界にも類のない時計だった。使用された歯車やぜんまいは、すべて久重の手作り(工作機械を使わない)で、一度巻けば225日も動いたという。その後、54歳の久重は佐賀藩から招請を受け、佐賀藩の近代化事業に従事。「精錬方」に配属され、蒸気船「凌風丸」を完成させた。久留米藩からも招聘を受けて郷里に帰ったが明治維新となり、明治6年には、70代になっていたにも関わらず電信機製造のために招聘されて東京に移住、見事成し遂げて、彼の工場は「東芝」につながっていく。

川本幸民:川本幸民は、文化7年(1810)、摂津三田藩の藩医を務める家の末子(三男)として生まれ、早くに父を亡くし長兄に育てられた。藩校では抜群の成績で「三田藩始まって以来の秀才」と言われ、医学の勉強に早くから取り組んだ。長兄が参勤交代で藩主に従って江戸詰めになるのに同行を許され、費用は全額藩が負担して留学した。全く異例の措置である。藩主九鬼隆国の格別の温情によるものだった。江戸では高名な蘭方医足立長雋の門に入り、たった1年で師に認められ、さらに坪井信道の門へ移った。しかし酒席の諍いから藩の上役を傷つけ、蟄居・謹慎を命じられる。なおこの期間中に「蛮社の獄」が起こっている。

浦賀奉行の池田将監頼方のおかげで謹慎が解けると、医学のみならず物理学や化学を研究。日本近代科学史上の記念碑的著作『気海観瀾広義』を上梓し、蒸気船など最新科学技術を解説した『遠西奇器述』も公刊。薩摩藩は彼に講義させており、昇平丸の建造には『遠西奇器述』が参照されている。さらに化学分野での翻訳書も公刊し、万延元年(1860)には代表作『化学新書』を出版。これは元素・化学反応・化学式といった最新知識を詳述し、日本近代化学の礎となった。こうした業績を受け、安政3年(1856)に蕃書調所の教授手伝(→のち教授)に任命され、幕府の直参に出世した。さらに幸民は三田藩から薩摩藩に籍を移し、島津斉彬の下で洋化事業に従事した。ただし幕府の蕃書調所の仕事もあったので、薩摩藩には弟子の松木弘安を派遣。電信機の製作に成功した。斉彬死去後は蕃書調所に戻ったが「安政の大獄」で調所も縮小された。大政奉還後には江戸を離れて郷里の三田で塾を開き、後に新政府から出仕を求められたが61歳で死去した。

最後に、冒頭で述べた2つの関心事項をまとめておく。第1に、江戸の科学者たちはどうやって「西洋」に出会ったか。 洋学は「江戸時代の知識人の本道」ではないと述べたが、洋学は藩主や幕府といった権威が導入していたことも多かった。また吉宗の蘭学書物の輸入規制緩和のおかげで、洋書の翻訳が盛んに行われ、本を通じて洋学に出会った人も多い。つまり非合法な方法によって洋学を知ったのではないということは重要だ。

第2に、彼等の身分について。本書に取り上げられている人の生まれは3パターンで、(1)下級武士、(2)技術者(職人)、(3)商人である。

(1)下級武士の場合は、普通の武士(つまり役人)の場合と、医師の家の場合がある。また、医師以外の場合には職務と科学には関連性はなく、家が世襲してきた役とは別に科学に関連する職種(蕃書、天文方、奥医師等)へと登用されていることが多い。概ね科学により身分が上昇している。

(2)技術者(職人)の場合は、幕府や藩に登用された場合(田中久重)と、一好事家のままだった場合(橋本宗吉、司馬江漢)がある。なお(1)にも事例が多いが、医師を開業している場合(橋本宗吉)は、出仕とは違った意味での身分上昇と考えられる。

(3)商人の場合は、本書には志筑忠雄の場合しかないが(とはいえ彼は通詞の家に養子に行っているので、商人と呼べないかもしれない)、家のお金をつかって好きに生きているイメージである。これはヨーロッパの貴族が学問をするケースに近い。

なお西洋の場合は、近代以前の科学者は多くが貴族である。あまり働かなくてよいので余暇を使って天体観測をしたり、実験に取り組んだり、数学を研究した人というのが多いのである。一方、近世の日本では西洋とは階級のあり方が違ったので単純な比較はできないが、有閑階級(例えば上級武士・大地主)の研究というケースは少なく、余暇を使って研究しつつも、それが職業や身分上昇に繋がるケースが多いと考えられる。それは、社会から科学技術が役に立つ「実学」と見なされたためであろう。これは、蘭学がまず「蘭方医」によって実用化し、奥医師に蘭方医が多く進出したことが象徴していよう。

要するに、近世社会において科学技術は、異端的というよりは、先端的であったのだ。彼等は総じて変わり者ではあったが、時代のトレンドを先取りしていたのである。

気軽に読める江戸時代の科学人物誌。

★Amazonページ
https://amzn.to/3vNFmf8

2023年5月11日木曜日

『幕末維新史への招待』町田 明広 編

幕末維新研究のガイド本。

私は、結構幕末維新に関する本を読んできた方だが、この本はもっと早く読みたかった。本書は、司馬遼太郎の小説などで広まった間違った過去の通説を批判しつつ、最新の実証研究に準拠した参考書を手際よく紹介してくれている。本書を幕末維新研究の入り口として、紹介されている10冊くらいを読めば、研究の最前線を理解することができると思う。

一方、本書は小説や教科書を通じてある程度幕末維新史を知っている人を対象にしているので、「幕末維新ってあまりよく知らないな」という人が読んだら、さっぱりわからない部分がある。なにしろ維新史の通史は全く述べられていない。そういう意味では、「幕末維新史研究への招待」という標題にした方が適切だったかもしれない。

本書では論点ごとに21の章(序章・19章・終章)が設けられているが、その簡単な紹介は以下の通り(章題は割愛した)。

(1)「尊王攘夷」vs「公武合体」の構図は当を得ていない。坂本龍馬は実際より過大評価されている。薩摩藩研究は平成以降、はるかに深化した。(町田明広)

(2)幕末は、かつては階級闘争史観で国内的な事情から捉えられたこともあったが、現在はペリー来航など対外的・国際的要因の方が重視されてその起点が設定されることが多い。(森田朋子)

(3)幕末の日本は「鎖国」しておらず「鎖国令」も存在しない。また4つの口(対馬口、薩摩口、長崎口、松前口)による貿易・国際交流が行われていた(荒野泰典)。よって「海禁」と呼ぶべきである。(大島明秀)

(4)「尊王」と「佐幕」は対立軸ではなく、幕府も尊王だった。また、尊王に幕府を否定する意味は皆無であった。尊皇は攘夷とセットになって政治的主張としての効力を有するようになった。(奈良勝司)

(5)幕末の社会は、コレラの流行、頻発する大地震、ハイパーインフレと打ち壊しなどの世直し騒動など、政治的変動とは別の面で庶民の世界も動揺していた。(須田 努)

(6)朝廷は財政的には幕府に依存し、幕府も朝廷にはなるだけ予算を割いていた。文久3年、幕府は朝廷との関係強化のため、朝廷の財政の枠組みを大きく拡張させて増額させた。(佐藤雄介)

(7)幕末期に外藩とされた国持大名は、他の大名とは違い、幕府とは距離があった。しかし幕末には譜代大名だけでは国政が動かなくなり、挙国一致体制の中で幕府は彼らに依存するようになった。(藤田英昭)

(8)一橋慶喜・会津藩・桑名藩が結合し、幕府と孝明天皇とが協調して政権が運営された様態が「一会桑」である。一会桑を「政権」と見なすか「権力」「勢力」と見なすかはまだ定説はなく、今後の研究の進展が期待される。(篠﨑佑太)

(9)幕末、薩摩藩では財政改革が行われた。500万両もの莫大な借金を一方的に250年払いに変更し、砂糖の専売や貿易の振興、偽金づくりによって財政は好転。薩摩藩の雄飛の基盤となった。(福元啓介)

(10)幕末の長州藩では、近代的海軍の萌芽のような軍事体制を構築し、対外的な脅威を背景に富国強兵策も構想された。これらは周布政之助を首班とする藩制改革派が主導した。(山田裕輝)

(11)列強によって日本が植民地化される危険は少なかったとする見解もあるが、イギリスは自由貿易体制を維持するためには軍事力の行使を想定しており、危険がなかったわけではない。(田口由香)

(12)日米修好通商条約の締結にあたって幕府は朝廷からの勅許を求めたが、それは全国的な合意形成の手法が確立していなかったために天皇の権威に頼ったという面がある。勅許問題は列強諸国が朝廷を政権のキーと見なすきっかけにもなった。(後藤敦史)

(13)平野国臣が討幕を唱えたのと同じ頃、将軍の側近の大久保忠寛(一翁)は、徳川家も一諸侯に下るべきだという大政奉還論を唱えた。土佐の後藤象二郎は、坂本龍馬からこの大政奉還論を聞き、それが土佐の藩論となった。(友田昌宏)

(14)長州藩の奇兵隊は、旧来の身分秩序にとらわれないものだったが、それはあくまで「奇」だった。大村益次郎は長州の軍隊を近代化し、装備の標準化や士官教育のカリキュラム確立、西洋式武備の充実などに取り組んだ。だが、「国民」が創出されていない中での軍制の近代化には限界があった。(竹本知行)

(15)江戸幕府が創設した海軍は、士官任用が家格ではなく能力が基準になるなど能力本位の人事制度、一元的な指揮系統の確立、近代海軍教育制度の開始など画期的なものだった。また幕府は蒸気船を何隻も座礁などで沈めた経験を踏まえた軍艦運用ノウハウもあった。明治政府の海軍は幕府海軍の「居抜き」でスタートすることができ、比較的短期間で確立できた。(金澤裕之)

(16)いわゆる「薩長同盟」とされている盟約は、長州藩がことを起こした場合に薩摩藩が中立を表明したもので軍事同盟とは言えず、「小松・木戸覚書」と呼称するのが適切。坂本龍馬はこれを周旋しておらず、会議後に証人となったにすぎない。盟約をきっかけにして薩長の関係が緊密化した。(町田明広)

(17)徳川慶喜の大政奉還は、幕藩体制の限界を認め、来るべき朝廷を中心とする公議政体で自らが中心的な地位を占めるために行われたものと考えられる。(久住真也)

(18)戊辰戦争を民衆が支持したかどうかの二分論は過去のものとなり、「それぞれの戊辰戦争」を解明することが研究の潮流となっている。(宮間純一)

(19)公家も幕末の動乱に参加し、維新政府では当初要職を占めたが次第に遠ざけられ、廃藩置県を経て中枢から排除された。その後、宮内省が公家の活躍の場となった。

(20)明治政府といえば藩閥・有司専制というイメージがあるが、当初の政府は「公議」を重視して公議機関を設け、明治2年には官吏公選を行い、旧幕臣も登用するなど、必ずしも藩閥だけでない政権運営が行われていたことが薩長の強さだった。(久保田哲)

(21)明治維新は、マルクス主義史観からの評価、無血革命としての評価(司馬史観)、などイデオロギー的に評価されてきたが、実証研究の進展、ローカルとグローバル双方の研究の積み重ねによって近年ではより多角的に捉えられるようになった。(清水唯一朗)

全体として、図が割と多いこと、主要参考文献+関連書籍が章ごとに紹介されること、著者の考察は極力少なくして研究の全体像を示そうとしていることなど、大学の講義に雰囲気が近く、筑摩新書の「○○史講義」のシリーズに似ていると思った。

特に興味深かったのは、(13)の大久保一翁の大政奉還論、(15)の幕府海軍についてである。

幕末維新史研究の最前線へ誘う良書。

★Amazonページ
https://amzn.to/42g7un7

2023年5月4日木曜日

『真木和泉』山口 宗之 著

真木和泉の評伝。

維新史において、真木和泉は「最も早く王政復古を主張したものの一人」として必ず出てくる。しかし彼が何を考えて王政復古を着想したのか、どんな人物だったのか、といったことはよく知らなかった。そこで手に取ったのが本書である。

真木和泉は、文化10年(1813)、久留米藩の水天宮の神官の子として生まれた。父は中小姓格に列し、年60俵扶持であった。神官であるとともに、下級武士としての待遇を与えられていたということだ(「格」なので武士そのものなのか疑問があるが)。

和泉は体格に恵まれ、力士に間違われるほどであったが、学問に励み、漢学や国学を学んだ。わかっている彼の蔵書を分析すると、水戸学や国学を中心とした志向が窺える。

和泉は、父の死によって11歳で神官を継ぐ(文政6年(1823))。たった11歳の和泉が、父の葬儀を仏式でなくあえて神式で行ったことは注目される。また10年後の天保4年(1833)には、先祖の仏式の法号を全て廃して霊神号に改めている。彼には廃仏傾向があった。

19歳の時に、9歳年上の女性(睦子)と結婚、5子をもうけ3人が成人することになる。20歳で吉田家より大宮司の許状を得、従五位の下に叙せられ和泉守に任じられた(それ以前も通称として和泉を使用)。

32歳の時に水戸に遊学し、会沢正志斎に親しく教えを受けた。時を同じくして、久留米藩では有馬頼永(よりとお)が襲封する。彼は23歳の英邁な藩主で、楠木正成を敬慕する尊王家であった。頼永は倹約によって財政を改善するとともに、長崎からの情報を摂取して実学を盛んにした。これによって起こった実学派を「天保学連」という。和泉もこの一員だった。弘化3年(1846)、和泉は改革意見を頼永に提出。そこでは「国土は全て朝廷の所有するもの」と早くも主張している。ところが同年7月、頼永は25歳で死去してしまった。

同年8月、和泉は孝明天皇の即位式に公卿の野宮定功の随身として参加。激しい感動を受けた。一方、藩内は頼永亡き後、改革を担ってきた天保学連が外同志(和泉はこちらに属する)と、内同志の2派に分かれ、抗争し、不祥事を起こした。嘉永4年(1851)、藩主を継いでいた頼咸(よりしげ)が入部すると、外同志は「内同志たちが頼咸廃立の陰謀を図っている」と頼咸に直訴。それをきっかけに取調が行われたがその事実が立証されなかったため、逆に外同志たちに重い処分が下った。こうして和泉は水天宮神官の職を取り上げられ、弟の大鳥居理兵衛が留守別当職を勤める水田天満宮で、10年以上もの幽閉(三里構い)の日々が始まるのである。

しかし、これは幽閉とはいえ、あまり厳重なものではなかった。「三里構い」の意味は本書に詳らかでないが、三里以上離れてはいけない、ということなのだろうか(和泉はたびたび外出している)。和泉は敷地内に小舎を建てて「山梔窩(くちなしのや)」と名付けて読書生活をし、和泉を慕ってここに多くの青年が集うようになった。 彼らの多くは武士ではなくせいぜい村役人クラスの百姓であった。

また和泉の弟外記と嗣子主馬は、彼の耳となり手となって情報収集を行い、和泉は山梔窩にいながらにして内外の諸情勢を把握していた。彼は幽閉中にもかかわらず、『魁殿物語』『急務三箇条』などを草し、『急務三箇条』は三条実万に提出している。そこでは神武創業の精神にかえり討幕・王政復古を仄めかしている。また野宮定功に『経緯愚説』を上程し、簡潔ではあるが討幕・王政復古への具体策を述べた。さらに『大夢記』では、天皇が親征して幕府を滅ぼし、親王を安東大将軍として江戸城を治めるという討幕のシナリオまで書いている。吉田松陰ですら討幕を考えていなかった時期に、驚くべきエネルギーである。

そういう48歳の和泉の下へ密かに訪れたのが平野次郎国臣で、二人は意気投合。平野から桜田門外の変や和宮降嫁問題などの切迫した状況を聞かされ、もはや幽囚している時ではないと和泉は決心。久留米藩を動かす術はなかったので、薩摩藩に頼ってことを起こすこととし、門人3人(うち一人は次男菊四郎)と共に脱藩して薩摩藩へ向かった。和泉50歳であった。彼らは、白昼堂々と久留米藩を脱出。あまりの迫力に捕吏たちは手出しができなかったのだという。

薩摩藩では大久保利通や小松帯刀ら要人に会い、連日非常な持てなしを受けた。何の後ろ盾もない和泉らが歓待されたのは不思議だ。11年も幽閉されていたのに、和泉の名が知られていたことは間違いない。しかしながら、公武合体を志向する薩摩藩では、和泉の即時討幕の意見は受け入れられることはなく、薩摩藩からは退去することを求められた。

薩摩を離れ上京した和泉は、薩摩藩士の過激派である有馬新七らと合流。彼らは討幕の挙を実行せんとして寺田屋に集結したが、久光は鎮撫使を派遣し、彼らは斬殺された。寺田屋事件である。しかし和泉は寺田屋の別室にいたので助かり、久留米藩に預けられた。薩摩藩は穏便にことを済まそうとし和泉を処分しなかった。和泉は久留米藩の定宿に70日ほど勾留された。

さらに和泉は久留米藩に護送され、拘禁された。しかし久留米尊攘派を中心に和泉赦免の運動が起こり、公卿への働きかけの結果、正親町三条実愛から頼咸へ解囚の命が下り、和泉は自由の身となった。一転、和泉は頼咸へ召されて重用された。彼は薩築連合を説き、今度は藩命を帯びて薩摩に下ったが、やはり久光には相手にされず帰還した。それでも和泉は、あくまで朝廷を中心とし、天皇が政務・軍事の指揮権を握る体制を夢見ていた。

一方で、頼咸には確たる政治信念が無く、重臣の意見に振り回される面があった。和泉らは一度は寵を得たものの反対派の巻き返しにあい、和泉らの一党はふたたび捕縛された。これを「和泉捕り」という。またもや赦免運動が展開され、公卿等も藩主に穏便な取り扱いを求め、また前藩主頼永の実弟亀井茲監(津和野藩主)も藩士を久留米藩に派遣し解囚を切言した。一方和泉は、自分がこれ以上久留米藩にいると藩内の不調和が続くとして『退国願』を提出。自主的に久留米を去り、朝廷の直臣になろうというのだ。

これは藩内に動揺をもたらし、却下されるところだったが、ちょうどその時、中川忠能の次男忠光が久留米藩に来た際、その対応を誤ったこと、解囚を勧める関白鷹司輔煕の内旨書があったこと、長州藩が和泉の解囚を勧めたことなどから許可された。和泉の処遇を重要人物たちが気にしていることからも、彼の存在感がわかる。

こうして久留米藩と縁を切った和泉は長州藩に赴いた。長州藩では藩主毛利敬親から信任を受けて重んじられた。そして藩命により再び上京するのである。京都でも一貫して討幕・朝廷中心の政体樹立を主張(『五事建策』)。彼は公卿にも大きな影響力を持った。和泉は学習院御用掛に任命され、「このころ和泉は「先生」「大人」「王人」と仰がれ「今楠公」と称せられて志士たちの尊敬するところとなっていた(p.164)」。鷹司関白はいつ参上しても必ず会ってくれた。和泉の生涯で最も得意な時だった。長州藩が朝廷を手中に収めた時でもあった。

そして和泉の建言に基づき、いよいよ天皇の大和行幸・攘夷親征の詔勅が発せられた。ところが、ここで「八月十八日の政変」が起こる。薩摩・会津藩が朝廷から長州藩勢力を駆逐した政変である。天皇としても、朝廷が長州に牛耳られていることは不本意で、その間の勅は真のものではないと言い切った。こうして長州勢は京都から退却し、攘夷派の公卿7名も長州へ落ち延びた(七卿落ち)。

和泉は再起を期し、敬親に建白書を上呈して挙兵上京を説いた。敬親親子はひたすら恭順の姿勢で赦免を請う方針だったので和泉の意見は容れられなかったが、 彼はめげることなく、薩摩と連合しようとするなど(不発)、討幕に向けた策動を続けた。そんな中で、京都では長州を討伐するというムードになり、長州の進退が窮まった。こうして敬親親子まで含めた5隊が編成され長州に進発した。一応、藩主親子の冤罪を哀訴、浪士鎮撫などの名目だった。浪士隊(清側義軍)の第一隊では、和泉と久坂玄瑞が総管であった。

しかし、戦うことが目的でなくても、京都に大軍を差し向ければ、京都守護職の松平容保としては迎撃せざるを得ない。徳川慶喜も長州藩征討を決意。長州藩としてももはや引くに引けず、「君側の奸」松平容保を除くため進撃を決めた。こうして「禁門の変」が起こった。しかしあえなく鎮圧。天王山に逃げた和泉は、禁門に対して刃を向け、藩主親子に罪を重ねさせた責任をとり自刃した。

なお和泉とともに17名が自刃しているが、実はこの中に長州藩の人間は一人もおらず、久留米藩4人、福岡藩1人、熊本藩6人、高知藩4人、宇都宮藩2人となっている。禁門の変は、単純な長州と会津の戦いではなかったことに注意が必要だ。

真木和泉は、ほぼ40歳から50歳までを幽囚の日々で過ごし、身分も高くなかったのに、かなりの影響力を持った。それは人柄と思想の力のなさしむるところだった。

人柄については、一族が和泉に協力を惜しまなかったことでも知れる。和泉には人を虜にする魅力があったのだろう。

思想については、水戸学をさらに突き詰めたと評価できる。水戸学では現実の封建体制(江戸幕府)を否定するどころか、会沢正志斎も将軍への恭順を主張していた。水戸学からは直接は討幕は導かれないのである。しかし和泉は、正式な武士身分でもなく、幽囚の身でもあり、藩の機構に組み入れられることも、その後援を受けることも叶わなかったために、かえって藩意識から自由であり、早い段階で「天皇の直臣」としての意識を持ったことが特筆できる。「恋闕の人」和泉は、情熱的に天皇を追い求め、たとえ国土・民族滅亡することがあろうとも、天皇にひたすら従い「国体」を守ることが日本人としての務めだと考えた。であるから当然に天皇中心の時代に復古することが彼の目的となった。

しかしながら、彼の思想には3つの弱点があった。第1に、彼は西洋のことをよく知らず興味もあまりなかった。よってその思想は日本の近代化を見通したものではなく、時代錯誤な復古主義にならざるを得なかった。第2に、彼は一貫して反幕府的であったが、封建的体制への絶対的肯定があり、いわば将軍の位置に天皇を据えることのみが彼の統治論であった。よって民衆へのまなざしは皆無で、自ら建白の随所に「言路洞開」を求め、どのような身分でも勤王に身を尽くすべきとしながらも、身分制の解体に向かうどころかそれを強化しようとさえした。第3に、彼は他の志士のように藩という組織の中で現実の行政に携わった経験がなかっため、その論策が現実性に乏しく、名分をただすというような理念的なものにとどまった。しかしながら、彼の思想は論理的・現実的であるより、感情的・夢想的であることに魅力があったのも確かである。

そして最後に、和泉は他の志士より年代が一回り上だったことも、その影響力の一因だった。西郷隆盛より14歳、木戸孝允より23歳も年上なのだ。横井小楠と佐久間象山と同世代で、志士の中ではかなりの年配に属した。若く血気にはやる志士たちの中で、和泉が頼りにされリーダー格になったのは年齢も大きかったのだろう。

本書を読みながら、私は真木和泉と吉田松陰との対比を考えた。松陰も若くして家督を継ぎ、罪を得て幽囚の時を過ごした。そして幽囚の中で読書生活をし、自らの思想を先鋭化させた。そういう点で和泉と松陰には共通点が多い。水戸学と国学に大きな影響を受けたのも共通している。しかし松陰の場合は、西洋を知り、現実の外交関係を考慮したことが和泉とは決定的に違う。そして高弟に恵まれたのも和泉と好対照をなした。和泉は、多くの人に影響を与えながらも、それを受け継ぐ人が育つことはなかった。

それは、和泉の思想が理論的なものではなく、彼の人格と絡み合った情念によるものだったことを示唆する。そして「恋闕の人」でありながら、結果的に禁門の変で禁裏に対して戦い、賊臣として死んだことも、その論理を徹底させられなかった悲劇であるとみなせる。それは二・二六事件の青年将校たちを彷彿とさせる。

皮肉なことに、彼は「天皇」の名において「国家」に反逆する最初の典型となったのである。

【関連書籍の読書メモ】
『吉田松陰—「日本」を発見した思想家』桐原 健真 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/11/blog-post_13.html
吉田松陰における「日本」の自己像に関する思想の変転を振り返る本。松陰の思想について概観するための良書。

★Amazonページ
https://amzn.to/3TPBEtG