2022年5月21日土曜日

『泉光院江戸旅日記——山伏が見た江戸期庶民のくらし』石川 英輔 著

日本を巡った山伏の旅日記。

佐土原藩の山伏、野田泉光院成亮(しげすけ)は、文化9年(1812)から6年2ヶ月にわたって托鉢しながら全国を旅し、その様子をマメに日記に記した。本書は、その日記『日本九峰修行日記』を読み解くものである。

彼は山伏としては大先達という非常に高い位を持ち、佐土原島津家から27石の禄を受ける家臣でもあった。僧侶であり同時に武士であったのは不思議だが、彼は元は薩摩国出水の野田庄の武家の流れだった。安宮寺という山伏寺を世襲しつつ、同時に武士の身分も受け継いでいったようだ。

ともかく泉光院は主君の命を受け、平四郎という合力(剛力=荷物持ち)を連れて、全国を巡る旅に出るのである。

私は本書を2つの興味から手に取った。第1に、当時の旅について知りたいということ、第2に、宗教者の回国がどのようなものであったか知りたいということである。

第1点からまず興味を引いたのが往来手形のことである。当時は、檀那寺や役所から往来手形というパスポートを発行してもらい旅をした。そして各地の関所で往来手形を確認した……ということになっている。ところが本書を読むと、まず関所・番所自体が少ない(泉光院は、番所の大規模なものが関所、というような用語の使い方をしている)。領国(藩)を超えるときも関所などないことがほとんどである。関所がないのだから、手形は見せようがない。また番所がある場合も、手形を見せなくても通過できるところが多い(何を確認していたのだろうか?)。これは幕府の番所でもである。逆に、通行の際に手形は改めずにお金を取る番所もあった。全体的に言って、往来手形の扱いや番所の通行はかなりいいかげんである。なお、泉光院が泊まる際も一度を除いて往来手形を見せて欲しいと言われることはなかった。ただし、唯一の例外が薩摩藩で、薩摩藩では非常に厳しい「出入国管理」をしていた。薩摩藩の特殊性はここでも際立っている。

そして、泉光院たちは旅の途中に大勢の旅人に出会う。当時、勝手気ままにふらふら旅している庶民がかなり多かったようだ。特に六部(六十六部廻国聖)とはよく出会う。六部というのは、ちゃんとした(専門の)修行の回国もあったが、自称の六部も多かったようだ。妻を尼といって連れ歩く夫婦の回国者もかなり見受けられる。ほとんど観光旅行のような感じである。なお泉光院は、「妻を尼といって連れ歩くとはけしからん」と思っているが、しかし泉光院自身も妻帯しており、宗教者として妻帯すること自体を非難しているわけではないと思う。

ではその旅人たちはどうやって旅を続けていたのかというと、托鉢しながら普通の民家に泊めてもらっていた。本書を読んで一番驚かされるのはここで、当時の日本には見ず知らずの人を喜んで泊める人たちが日本全国にいたのである。泉光院たちも、6年以上の旅でただの一度も野宿していない。宿に困った時もすんでのところで親切な人が現れて泊めてもらえるのである。

というのは、当時の農村の人々は情報に飢えていた。日本中を回っている旅人から話を聞くことは楽しい娯楽でもあったのだ。とはいえ、世の中がみんなそうだったわけではない。特に都市部では泊めてくれる家が少なく、泉光院たちも木賃宿や旅籠に泊まっている。また農村部でも一向宗と日蓮宗の村では苦労し、ことに日蓮宗の村は托鉢も出来ず回国者を一切泊めないためおおむね素通りしている。

また、村の申し合わせで旅人を泊めないことになっている土地もあった。ところがそういうところにも辻堂(数軒が集まって檀那寺以外に維持した無住の小さなお堂)があって、そこを使わせてもらうことができた。逆に回国者を泊めることを誇る土地もあり、そういう場所では家々が「今年はうちは何人を泊めた」と自慢しあっていたり、回国千人宿という回国者ばかりを泊める場所があった。回国者の扱いはこのように色々だが、日蓮宗以外の村ではたいてい親切な人が困った人を泊めていた。

そして、当時の回国には「年宿(としやど)」という風習があった。どうやら、年末年始というのは托鉢や移動をしないという了解があったらしい。よって回国者は12月25日頃から2週間〜1ヶ月くらい、一つの家に逗留して年末年始を過ごすのである。これが「年宿」である。見ず知らずの人を1ヶ月も泊める家を見つけるのはなかなか難しい、と感じるがさにあらず。泉光院は年末が近くなると「今年の年宿はもうお決まりですか」などと声を掛けられ、「決まっていなかったらうちへお越し下さい」などといって毎年あっさりと年宿の家が見つかるのである。驚くべき親切さである。

ちなみに、そのようにして泊まるのはタダだったか? 泉光院の日記には、「謝礼を断られた」という表現がしばしば出てくるので、泊めてもらった家には普通はそれなりの謝礼はしたらしい。しかし彼らが謝礼目当てに旅人を泊めたのではないことは明白であり、謝礼は少なくとも木賃宿などの宿泊料よりも安かったようである。

ともかく、当時の人たちが今から見れば度外れた親切心を持っている、ということには本書を読みながら何度も驚かされた。宿泊だけでなく、托鉢についてもそれは言える。六部などの回国者は、托鉢をしながら日々の糧を得て旅を続けたのであるが、托鉢について再考を促される事例が途中に出てきた。

ある時、合力の平四郎が、「札を配って托鉢をするのは、札を作る手間もあり効率が悪い。自分は札なしで、泉光院は札ありで托鉢をして、どちらが多く托鉢を集めるか競争しよう」と言い出したようなのである。その結果は、平四郎が米4合に対して、泉光院が米5合と銭百文で勝ち、結局それまで通り札を配りながら托鉢をすることになった模様である。

この事例で非常に驚くのは、平四郎は僧侶でもなんでもない町人である、ということだ。町人が托鉢をしても、高位の山伏の托鉢と同じくらい米や銭を集めることができたのである(少なくとも平四郎はそう考えていた)。他の箇所でも平四郎は泉光院とは別に托鉢をしてそれなりの実績を上げている。泉光院は、身をやつしていたとはいえ職業的宗教者であり、服装も山伏の恰好だったはずである。泉光院に喜捨する人々がいたのはわかる。しかし平四郎は全くの俗人だ。泉光院の弟子でもなんでもない。その平四郎が一人で托鉢してもそれなりに集まったということは、人は何に対して喜捨していたのだろうか。

私はこれまで、回国者や山伏というのは決まった服装があり、その服装をしている者は宗教者と見なして人々は喜捨をしたのだ、と考えていた。しかし平四郎のことを考えるとそうではないらしい。宗教者であるか否かに関わらず、托鉢には人々は協力していたようなのだ。しかも、泉光院と平四郎が托鉢勝負をしたことを考えても、宗教者だからといってたくさん托鉢に応じる、というわけでもなかったのだ。もちろん、人々は喜捨が作善の行為であるという意識はあった。だが誰に施すかはそれほど重要ではなかったようなのである。困っている人を助けること自体が作善だと思っていたのかもしれない。

そしてもう一つ気付いたのは、托鉢では結構お米をもらっているということである。江戸時代の農村では、白い米を食べられるのは限られた日だけだった、というようなイメージがあるがそうではない。泉光院たちはよく白い米をもらっている。控えめに見積もっても、白い米が非常な贅沢品であったということはありえない。

ちなみに、托鉢には様々な人が応じたが、人が多いところで多くの米や銭が集まったかというとそうでもなく、むしろ農村の方が托鉢はしやすかった。日蓮宗以外で一番やりづらかったのは、商業都市だったようだ。商業が盛んになると親切心や真心が失われるということはあるらしい。とはいえ、托鉢に応じるかは貧富の問題というよりライフスタイルの問題なのかもしれない。泉光院自身、「田舎の方が面白い」といって田舎では悠々と楽しく過ごしている。

泉光院は当時としては非常な知識人である。田舎に彼がやってくると、その学識や全国を廻った経験、そして祈祷の能力といったものが買われて、田舎では引っ張りだこになるのである。 泉光院はしょっちゅう病気平癒の祈祷をやっている。そして滞在するうちに、うちにも祈祷してくれという依頼が舞い込んだかと思うと、四書の講義を頼まれたりする。四書(孔子、孟子、大学、中庸)など、田舎の人たちに何の関係があったのかと思うが、泉光院自身も「田舎の青年を教えるのは楽しい」といって熱心に講義する。すると近所の人が大勢集まってきて、老若男女が四書の講義を熱心に聞く、ということになる。どうも田舎の人は向学心がすごくあったようだ。

向学心というより、田舎の人にとって知識も娯楽の一つだったのかもしれない。そしてそういう滞在をする際には、ほとんど例外なくその地方の人と俳句、連句、短歌のやりとりがある。どんな農村にもこうした短文詩を嗜む人がいて、コミュニケーションに使われていた。現代ではすっかり失われてしまったが、このように文学的な素養が全国の寒村にまで行き渡っていたなんて夢のようである。

ところで、泉光院と平四郎の関係は面白い。平四郎は荷物持ちとして雇用されており、二人は主従ではあるが、その関係は我々が想像する「江戸時代の主従関係」とはほど遠い。例えば、平四郎はときどき泉光院に説教をしている。 平四郎は経済合理性を重視するタイプで、泉光院が効率を考えないのが気に食わないようなのだ。先ほどの托鉢勝負もそういう考えからもちかけられた。泉光院は身分の高い武士で、平四郎は泉光院に雇用された町人なのに、全くへいこらしていないのである! 平四郎はちょっと変わり者ではあったらしい。しかし、二人の関係はほとんど対等と言って差し支えなく、武士と町人に厳然とした上下関係はなかったと判断するほかない。

その他ビックリしたのが洗濯。泉光院は洗濯のために何日も一つの家に滞在することがある。どうして洗濯に何日もかかるのかと思っていたが、この頃は着物を解いてから洗って糊をつけ、仕立て直すのが正式の洗濯だったらしい。洗濯とは仕立て直しまで含んでいたのである。しかし、どうして洗うためにいちいち解いたり仕立て直ししたりする必要があったのだろう。

このように、泉光院の旅は、江戸時代の社会が垣間見えるものとなっており滅法面白い。宮本常一もその日記を当時の庶民の暮らしが記録されたものとして本に書いている(『野田泉光院』)。本書は庶民の暮らしというより、旅の足取りを追うことが主眼になっていて、泉光院が記録した地名を現代の地名と照らし合わせて、ほとんどの地名を同定している。こうして泉光院の足取りを辿れることは、地名がそれほどは変更されていないからで、著者は「地名が文化遺産」であるという。無定見な地名の変更は、土地の歴史を断絶させることでもあると感じた。

最後に、泉光院は何のために日本を巡る旅に出たのかというと、本書にははっきりと書いているわけではない(日記にもはっきり書いていないようだ)が、まとめると次の3つである。第1に、主君の佐土原島津家の代参として日本三大虚空蔵を巡ること。すなわち柳津(やないづ)=福満虚空藏菩薩圓藏寺、常陸那珂郡=村松山虚空蔵堂、安房郡天津小湊=千光山清澄寺にある虚空蔵菩薩である。第2に、日記のタイトルにもなっている霊山九峰に登攀することである。すなわち英彦山、羽黒山、湯殿山、富士山、金剛山、熊野山、大峰山、箕面山、石鎚山である。泉光院は常識外れの体力を持っており、その気になれば一日に平気で60キロくらい歩く。日記では登山もあっさりとしか記録されていないが、肉や魚を食べない人がこのような強靱な肉体を持っていたことにも驚かされる。そして第3に、西国三十三ヶ所、板東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所 合計百ヶ所の「百番札」を納めることであった。

本書は全体として、泉光院の日記を順を追って読み解いていくという地味なものであるのに、非常に面白く読んだ。親切な人々との温かい交流、びっくりするような当時の社会の有様、泉光院と平四郎の関係(途中、仲が悪くなったりする!)、そして旅そのものの行方まで、いろんな要素で読ませる本である。

江戸時代のイメージが一変する、読んで楽しい日記の解説。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の旅』今野 信雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/04/blog-post_24.html
江戸時代の旅がどんな風であったかを述べる本。江戸の旅の実態をわかりやすく知れる良書。


2022年5月15日日曜日

『江戸幕府の宗教統制(日本人の行動と思想 16)』圭室 文雄 著

江戸時代における仏教の在り方の一端を述べる本。

本書は「江戸幕府の宗教統制」というタイトルではあるが、実際には、幕府の宗教統制政策の論述は全体の半分程度で、その政策に応じて社会や仏教の在り方がどのように変わっていったのかがテーマとなっている。

「I 寺院法度」は、本書中で最も参考になった。江戸幕府は成立当初の慶長6年(1601)に高野山に法度を出したのを嚆矢とし、諸寺院に、追って諸宗に法度を出して行く。概ね、真言宗・天台宗両諸寺→臨済宗(五山十刹・大徳寺・妙心寺)→曹洞宗(永平寺・総持寺)→浄土宗の順である。「浄土宗西山派諸法度」が出たのが元和元年(1615)である。なお天台宗法度は崇徳院天海、臨済宗は金地院崇伝の意向が反映されている。

日蓮宗・浄土真宗・時宗については、この段階では法度が出ていない。本書では民衆的な信仰があり慎重に考えたためではないかとしているが、結局どのような法度が出されたのか、出されなかったのか曖昧である(おそらく出ていないのだろう)。

それらの法度については、別々に出してはいても内容は似ている。関東と関西ではやや異なるが、第1に学問の奨励(特に学問のある僧侶が住持となるべきこと)、第2に戒律の護持、第3に本山の規定、第4に服装や規律の規定が盛り込まれた。第1・第2点目は仏教の振興を図ったものだが、問題は第3点目。この点が関東と関西で異なった部分で、関西の諸寺院には本山という言葉さえなかった。しかし元和元年7月の「真言宗法度」で全国規模の本末関係を明確に打ち出し、江戸幕府の本格的仏教支配の体制が明らかになった。

江戸幕府はなぜ本末関係を樹立しようとしたのか。それは、本山を通じて仏教勢力を封建的体制に取り込むためであった。中世においては寺院は、幕府・公家(朝廷)と並ぶ第3の勢力であった。家康が腐心したのは、これを幕府の下に統括することであり、そのために本山に有利な法度を定めて末寺を掌握させたのである。

「II 寺請制度」では、幕府が寺院を行政機構にどう組み入れていったかが概説される。

幕府は寛永9〜10年(1632〜33)、各宗に「本末帳」を作らせた。末寺のリストである。現存するものは、浄土真宗が全く欠けていること、天台宗も一部であること、西国は極めて大雑把であることなどから、寛永の「本末帳」は不完全なものであったことが明白である。しかし、後々までこの「寛永本末帳」が本末関係の最も正統なものとされた。なお元禄5年(1692)には浄土真宗も本末帳を作成した。

ちなみに、これらに先立つ寛永8年(1631)に、幕府は新建寺院の建立を禁止している(これが全国なのか幕府直轄領のみなのか不明だが追って全国に出したと見られる)。幕府はこれ以前にあった寺を「古跡」、それ以降のものを「新地」とはっきり区別した。そして以後、原則的には古跡寺院しか存在を許さなくなったのである。これと「本末帳」とを併せて考えると、幕府は寛永期において寺院を固定化する明白な意図を持っていたと思われる。

寛永12年(1635)には、寺社奉行が設置された。その職務は寺社および寺社領に関する行政裁判を司ることであり、他に僧尼・神官・楽人・検校・連歌師・陰陽師・碁将棋所等を監督することも職務だった。楽人・連歌師・碁将棋所等の監督が入っているのが興味深い。

寛永14年(1637)には、島原の乱が起こる。これは農民一揆であったがキリスト教が反封建的理念として取り入れられたため、幕府は御用学者をしてこれを「純粋な宗教一揆と規定させ、それを阻止するという名目で、キリシタン禁制をし(p.60)」た。

また、日蓮宗不施不受派は権力の言いなりにはならなかったため、寛文5年(1665)、違法な信仰として弾圧した。ところが備前・美作・越後・佐渡については不施不受派の寺はその信仰を捨てず、非合法宗教として存続した。悲田宗(不施不受派の一派)も邪義として排斥された。

寺請制度は、全ての人間に檀那寺を定めさせ、檀那寺にその人間がキリシタンでないことを証明させるもので、寛永12年(1635)頃に全国一斉に実施されるようになった。寺ではこの頃に過去帳も作るようになる。そして、寛文初期(1660年代)には、全国の農村で「宗門人別帳」が作成されるようになり、寛文11年(1671)、幕府は「宗門改の儀に付御代官達」を出し、「宗門人別帳」は全国的に統一された同一形式のものとなった。

なお寺請証文は(おそらく寺ごとに)領主が集め、キリシタン改めをしたが、「宗門人別帳」は一村ごとに作成されている。ここに行政面での転換が窺われる。 「宗門人別帳」も当初はキリシタンや不施不受派・悲田宗の弾圧が念頭に置かれていたが徐々に行政的なもの、戸籍としての役割に変化していった。

そして寺院は、こうした行政事務の一端を担うことになった。幕府は諸法度によって本山を通じ寺院を統制した一方で、檀家寺の権益を保護して行政機構に組み入れたのである。庶民の側から見ると、生まれた時から決まっている檀那寺に法要や葬式のたびに収奪されることとなり、自然と信仰心は衰えていった。

「III 寺院整理」は、寛文期(1661〜72)に行われた保科正之の会津藩、池田光政の岡山藩、徳川光圀の水戸藩で行われた寺院整理が取り上げられる。

その前提として、幕府では寛文5年(1665)に「諸宗寺院法度」という、全ての宗派に適用される一括法が登場していた。この法度では、住持の資格・本末制度・檀家制度・徒党禁止・寺院修理の制限・寺領売買の禁止・僧侶の衣鉢服装・金銀をもって後住の契約をすることの禁止、女人の寺中宿泊の禁止等が定められている。これは元和までの法度に比べ総括的かつ寺院統制の強い姿勢が示されている。この法度が出た背景には、幕府のブレーンだった金地院崇伝(臨済宗)が寛永10年(1633)に死去し、林羅山(儒者)が登用されたことがあると考えられる。

元和までの法度は、「幕藩体制の宗教としての仏教の品位をいかに高めるか(p.92)」も考慮されていたが、寛文頃には「幕藩体制を強化するために仏教の理念とその経済力をいかに弱めるかに問題が移っていった(同)」。

そして、元和までの法度では本山を強化していたのに、今度は末寺・檀家の方を保護する政策へと変化した。また幕府は、寺請制度の弊害(檀家の存在が寺の既得権になったこと)を認め、農民保護へと舵を切った。

さらに、この法度とは別だが、同年、僧侶等が俗家に仏壇を設けること(つまり寺でないところを寺のようにしつらえること)、僧侶が寺以外で法談することや信者と集会することを厳しく禁じていることも注目される。

3藩の寺院整理については、著者の『神仏分離』でも触れられるものなのでメモは割愛するが、ごく簡単に紹介されている会津藩の事例が興味深かった。会津藩では幕府の宗教統制の枠からはみ出さず、新寺建設の禁止(新築寺院の破却)、住持の長く絶えた寺の再興の禁止、悪行の僧侶の追放など、いわば消極的な手法によって順調に寺院整理を行った。かなり強引に寺院整理をした岡山藩・水戸藩とは大きく違っている。

「IV 排仏論」では、1660年代から展開された仏教・寺院・僧侶への批判が紹介される。それらは主に、輪廻や須弥山、地獄極楽のような仏教理論を否定することと、寺院や僧侶が堕落していること、そして仏教が庶民を経済的に収奪していることの批判である。

藤原惺窩、林羅山、中江藤樹の排仏論が簡単に触れられ、本書では熊沢了介(蕃山)を最初の実践的排仏論者としてその主張を詳しく紹介している。「実践的」というのは、彼は岡山藩池田光政に仕えており、その理論が岡山藩の寺院整理に具体化したからである。

熊沢蕃山の主張は、(1)寺請制度・檀家制度の廃止、(2) 寺院建築の抑制、(3)寺領の縮小、(4)寄進の制限、(5)新建の禁止、などである。

これに対し、仏教側では一応反論を試みたものの、「儒者とわたり合って仏教防衛の論陣をはる僧侶は、ほとんど見出すことができなかった(p.151)」。そんな中で精力的な抗争を続けたのが道海潮音である。彼は聖徳太子の書として『旧事本紀大成経』(全72巻)を偽作した。この本の中で、潮音は仏教に都合のいいように歴史を書き換え、神仏儒の宥和を説くとともに、葬祭については仏教が行うのが当然と主張した。

しかし、この本が偽作であることは儒者たちに見抜かれ、版木は破棄されて潮音らは処罰された。ただし潮音の処罰は50日間の謹慎であり、それほど重くない。「依然仏教勢力が力をもちつづけていることが明白(p.176)」である。

「V 葬祭から祈祷へ」では、これまでの仏教を巡る幕政や言説に対応し、寺院側がどう対応・変化していったのかが述べられる。

まず、本末制度は幕府からもたらされたものであったため、最初から全ての寺院が上下関係で結ばれていたものではなかった。そこで、寺院間での上下争いが起こった。その事例として江の島の岩本院らの場合が紹介される。

岩本院は肉食妻帯で歴代の住職は血縁関係、上之坊は山の上にあって肉食妻帯せず、下之坊は漁師町にあって肉食妻帯。これら三か寺の本末関係が確立していなかったので、寛永・寛文・延宝・宝永期に争論が起こった。その内容は省くが、岩本院が江の島の支配権を確立し、上之坊・下之坊を末寺に編成したのである。この争いには、たくさんの参詣者がある江の島の弁財天信仰に伴う利権争いがあった。お札やお守りの利潤や旅宿業・御師の活動など、経済的な争いの側面が大きかったである。

ところでこの争論は、その都度寺社奉行で裁断されたのであるが、力関係による慣行の固定化や由緒書、朱印状といったものが重視されて岩本院が勝利した。その際、岩本院が肉食妻帯で、上之坊が戒律護持していたことは何ら争論に影響を与えていないように見える(上之坊はこの点を突いていたにもかかわらず)。それどころか血縁相続であったことは岩本院の発展に寄与したようにも見受けられる。幕府のいう戒律護持はどの程度本気だったのか疑問である。

次に檀家制度については、相模国足利郡千津嶋村の事例が紹介される。相模国全体では曹洞宗・古義真言宗・臨済宗の寺が数の上では圧倒的であり(計99か寺)、一向宗は僅か三か寺しかなく、この村には一向宗の寺は存在していなかった。ところが宗門人別帳を調べてみると、この村の一向宗の割合は過半数を超えていた。これは何を意味しているか。

第1に、幕府の宗教統制によって新寺の建立が禁止されたため、新興の一向宗は寺院数が実態より低く抑えられていたこと。第2に、檀家制度は葬祭を行う寺を定めるものであったため、祈祷中心の密教よりも一向宗にとって有利であり、一向宗躍進の要因となったのではないかと考えられることである。この2点については本書にははっきり述べていないが私はそう読み取った。

また檀家制度の詳細を見るため、千津嶋村の宗門人別帳の経年的な変化が記述されている。寛文・延宝期には一戸単位であったが必ずしも家族全員が同宗派ではなく、それが次第に戸主の宗派に統一されていく。天明期には五人組単位で記載され、また宗派も五人組の構成員全てが等しくなっている。なお「この五人組同宗派という政策によって、日蓮宗はすべて整理される結果(p.213)」となった。この村では日蓮宗は個人の信仰によって担われていたからである。

このようにして、個人の信仰から家の信仰へ、そして五人組によるものへと整理され、檀家制度が形式化していったのである。また宗門人別帳も初期には詳細なものだったが、やがて大雑把なものとなっていった。

こうして檀家関係が冷え切ったものとなると、庶民の素朴な願いを受け止められる存在ではなくなってくる。そういう願いを聞き入れたのが、小規模な庵を構えて庶民のささやかな現世利益を祈った「祈祷寺」である。先述のように、幕府は寛永8年以降には新寺を建立することを禁じていたのであるが、こうした小規模な「祈祷寺」は事実上寛永8年以降にも作られた。しかし実態としては庶民の信仰を集めながら、非合法的な存在であったためかそれらはほとんど葬祭檀家を持っておらず、祈祷檀家しかなかった。またそれらは寛文・延宝期には、村落における小規模な神社と積極的に結びついて別当寺となっていくのである。この点は頗る興味深い。

しかし幕府は仏教をあくまでも葬祭の宗教とし、遅くとも享保15年(1730)までには祈祷を否定した。その理由の一つとして鎮守の祈祷権を吉田神道に委ねる意図があったとしているが、これにどのような意図があったのかは詳らかでない。

ともかく幕府の思惑とは裏腹に、民衆の宗教は祈祷中心へと傾いていったのである。こうして「幕末から明治期にでてくる新興宗教あるいは国家神道は、いずれもこの祈祷を出発点とし、基盤として、祈祷信仰をもつ民衆をいかに組織していくか(p.243)」が眼目となった。

本書は最後に幕府の宗教政策によって寺院や僧侶が堕落した様子を描いているが、これは少し一面的な記述だと思った。どんな世界も堕落した部分があり、特に大組織のトップは堕落しやすいのは世の常である。そうした事例を少数引いてみたところで、仏教界全体が堕落していたかどうかは分からない。

このことも含め、本書は全体として辻善之助『日本仏教史 近世編』の影響が大きく、同書の枠組みを使って、事例を補足し、分かりやすく述べたものという感じがする。よって仏教の堕落史観などはやや古びており、幕府の宗教統制の全体像を述べるものでもなく、かなり恣意的に法度を選択して取り上げているように見受けられた。

とはいえ、幕府の宗教統制についてこのようにまとめてもらったことは有り難く、特に巻末にある「近世宗教史略年表」は非常に参考になった。というより、年表には本文に書かれていない様々な幕府の統制が掲載されており、特に江戸後期については年表頼みである。

江戸時代の仏教を幕府の政策から概観する良書。

【関連書籍の読書メモ】
『神仏分離』圭室 文雄 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/04/blog-post_27.html
神仏分離の背景と経緯を丁寧に描く本。各地の神仏分離・廃仏毀釈運動の推移から明治政府の神仏分離政策の核心を窺う良書。

 

2022年5月8日日曜日

『日本の近世7 身分と格式』朝尾直弘 編

江戸時代の身分について考察する論文集。

江戸時代は身分社会だった。これは「階級社会」とはちょっと違う。もちろん身分には上下関係もあった。しかし社会がヒエラルキー的に構成されていたとイメージしてはいけない。そうではなく、社会が「身分」によってモザイク状に切り分けられていたと考えた方がいい。武士は威張ってはいたが、武士の領域から踏み出すことはできなかった。穢多や非人は虐げられてだけいたのではなく、自らの権利が侵された場合には堂々と奉行所に申し出たのである。

しかし江戸時代の身分が何だったのか、実はまだよく分かっていない。それどころか、ほとんど分かっていないと言ってもよい。本書には、様々な事例から「江戸時代の身分とは何か?」を考察した論文が収録されている。

1 近世の身分とその変容(朝尾直弘):身分とその表象としての格式の概説。士農工商というが、農工商の順での序列はなかった。身分制度は政治権力が設定したことで創出された、というような単純なものではない。「中世の身分が尊卑の観念を基軸にしていたのと異なり、近世のこの身分は社会的な機能分担(p.28)」の観念に基づいている。

中世の支配は主従制を基軸とする人の支配であったが、近世の支配は領域支配的であった。そしてその社会の構成員は、自らメンバーを選んだ。町人として町人に認められたものが町人であり、百姓として百姓に認められたものが百姓であった。18世紀以降、そのような認知の関係を金銭を媒介として制度化したのが「株」である。近世社会のいたるところに「株」があった。こうして「株」の売買によって身分が変わる現象が生じ、「身分が物権化した(p.40)」。

2 近世的身分制度の成立(横田冬彦):元々、私はこの論文を読みたくて本書を手に取った。「「戸籍制度」こそ、中世の身分制が持たなかったものであり、近世の身分制を近世的制度たらしめている第一の特質(p.42)」として、近世の「戸籍制度」が概説される。それは(1)慶長期の夫役(ぶやく)動員のための戸口調査(「人掃令」)、(2)慶長〜寛永末年のキリシタン禁圧のための宗旨人別改め、(3)寛永〜寛文期の夫役動員と宗旨人別改めが融合したもの、である。

(1) 人掃令では、村単位で1冊、家一軒ごとの記載で家族構成も調べられた。しかし未成年や女性については名前が載っていない。あくまで夫役動員が目的であったので、その対象外に関心がなかったのだ。人々は出家とか病気・負傷だとかにして夫役を逃れようとしたが、これはその村がどれだけの夫役を負担できるかを調査することが目的であり、そのものは徴発の台帳ではなかった。

(2) 幕府は当初はキリシタン名簿を作り、さらに転宗者名簿を作ったが、寛永期にキリシタン改めを大きく転換し、全ての民衆に町・村単位でキリシタンではないという起請文を出させることにした。特に寛永12年(1635)の改めは全国的なもので、キリシタンへ立ち返らないことを「デウス」に誓う「南蛮起請」も登場した。寛永14年が島原の乱。寛永末年までには改めの毎年実施が命じられるようになり、全住民の毎年登録という宗旨改め制度が成立した。この特徴は、信仰という個人の思想の調査であったため女子や子どもまで対象としたこと、思想は変わりうるものであるから毎年実施したこと、身分に関わらない全住民の悉皆調査であること、一方で住民を地域に緊縛するものではなく移動を許容する制度であったことである。

(3)寛永末年頃は、幕府の農政の転換期でもあった。寛永の飢饉などによる農村の疲弊を受け夫役徴発の軽減化が図られ、百姓を動かす現夫役ではなく石高に応じた米や銀による代納に変わった。またこうしたことを背景に、幕府は寛永21年(1644)に「家数人数万改帳」を作成し、夫役の負担にどのくらい耐えられるかを調査した。しかしその調査項目は宗旨人別改めと重なっていたため、それ自身は家屋・家畜調査なども含めた社会調査の性格を強く持つようになった。享保6年(1721)の全国人口調査令はその延長線上に位置づけられる。

また、幕府は大名に「大名宗旨証文」を毎年提出させ、それに併せて「切支丹宗門改人数目録」を提出させた。そこでは領地の全人口が家中・百姓・城下町人・えた・非人などに分類して示された。ここで、百姓は村の帳に登録された者であり、町人は町の帳に登録された者であったが、賤民は別帳とされたのも注目される。この「戸籍制度」による身分制度は、<武士ー平人ー賤民>というものだった。

本編は非常に参考になるものだが、僧侶という身分についてほとんど言及がないのが少し物足りなかった。<武士ー平人ー賤民>において僧侶はどう位置づけられるのか。そもそも僧侶は宗旨人別帳に記載されていたのか。より詳しく知りたい。

3 職人と職人集団(笹本正治):職人とは古くは特別な技能を持つ人一般を指したが、近世には技術者の意味合いに変化した。本編では、大工と鋳物師(いもじ)について取り上げ、技術者たちがどう自らを組織化し、職人の身分(権益)を確立しようとしたかが述べられる。近世当初では職人は身分であったが、例えば百姓が実際には大工で生計を立てるなど次第に身分と職業は乖離していった。であればこそ、本業の職人は自らの営業権を確立するためにも、広い範囲で職人を組織化し、領主や公家などの権威を借りて、正規の職人としての権益を守ろうとしたのだった。「近世に天皇制を支えていた一つの力として職人組織があったことは疑いない(p.122)」。

4 近世の障害者と身分制度(加藤康昭):本稿は本書中の白眉である。近世において障害者はどのような身分だったか? 領主は、農業経営をなしえない者を排除するため、人畜改めで障害者を把捉した。そのために障害者の記録が今に残されることになった。近世社会で障害者の多くがどういった扱いを受けていたのかは謎が多いが、盲人については史料がたくさん残っている。盲人は盲僧となる道があった。盲僧は、盲僧寺に所属し、頭の下で組織され、定期的に檀家を回って琵琶を断じてお経を読む、呪術的宗教者である。ただし都市部では呪術性を払拭して芸能者となり法師体を残しつつ「座頭」と呼ばれるようになった。

なお、本筋とは逸れるが座頭に関して非常に興味深い事例が紹介されている。元禄9年(1696)、岡山藩で座頭の慶作が暴行される事件が起こり、奉行へ訴え出た。慶作の身元を吟味してみると、藩には無届けで座頭に弟子入りしており、人別帳ではまだ仁三郎となっていることが判明し、この手続きが問題視された。座頭側では、頭を剃り名を改め、施物も受けているので座頭であると申し立てたが、藩側では出家や座頭など百姓を抜けるには郡奉行に願い出て藩の許可を受ける必要があるとし、結局慶作は追放になった。この事件で興味深いのは2点。(1)座頭になるには改名を要したが、その名前は僧名ではなく俗名であること、(2)出家・座頭になるには藩の許可を要したこと、である。特に(2)は、おそらく藩の方では本当に目が見えないのか吟味したのであろう。なお人別帳では、「座頭・瞽女は一般村民とは別に、出家・社人・山伏、その他諸芸人・被差別民などとともに最後に書き出されるのが普通(p.150)」だった。

琵琶法師たちは僧侶というよりは芸能民として自らを組織化し、座ができあがった。そして幕府によって「当道式目」が定められ、それに対応する形で惣検校を頂点とする全国組織ができあがった。この組織は73もの階級があり、官位は実態としては金で買われた。俗に「検校千両」と言われ、最高位の検校になるためには合計で約千両必要だった。しかし高位の盲官を得れば、役職に伴う収入もまた大きかったし、惣検校ともなれば将軍のお目見えが許されるなど身分的には高位の武士に相当した。しかし次第に官位の魅力は低下し、座頭金というサラ金のような高利貸しが座頭の間で流行るようになった。官位を買うための蓄財を原資に座頭が金貸しを始めたのだ。一方社会の方でも盲人に施しを与える余裕がなくなっていった。

明治政府は、障害者についても配当・勧進を禁止し、全国民統一戸籍を編成する過程で「盲人仲間を含む近世の諸仲間・諸身分の撤廃を行った(p.177)」。さらに明治4年11月には盲人の官職が廃止された。盲官廃止令によって解散した盲僧仲間は明治9年に天台宗の宗派として再組織されたが徐々に分散し、明治30年代に鍼・按摩を軸とした全国組織へと再結集していった。

5 武士の身分と格式(笠谷和比古):大名の間の身分・格式、大名の家臣の身分・格式の概説。本編はなんとなく分かっているつもりの親藩・譜代・外様の違い、国持大名、城持大名とは何か、朝廷官位と武士の身分、江戸城殿席といったことがまとまった非常に参考になる内容。特に徳川幕府の年始の賀式が身分をはっきりと表象する場だったということが興味深かった。またそれらは非常に複雑であり、「当時の社会の人々の間でも知悉しえないものであった(p.208)」が、身分・格式は完全に固定されていたわけではなかったので、大名や武士たちはそれが少しでも上昇するよう腐心していた。家格の維持のためには幕府にたてつくことも厭わなかった南部家の事例は、武士にとって格式とは何かを象徴しており印象的だった。

6 下層民の世界(塚田 洋):えただからと言って一方的に差別され、収奪されるというわけではない。えたも己の権益が侵された場合は、堂々と奉行所へ訴え出た。えたという「身分」は下には置かれていたが、その権益は保護されるべきものだと見なされていたのである。同様に様々な下層民が利害集団としてあった。その一例として「目明かし」が取り上げられている。これは身分というよりは職業だが、その他下層民の職も利害集団化しており「木戸番」の交替事例は興味深い。「権助」という木戸番が、45両でその職と道具(=つまり株)を後任に譲った例では、同時に権助という名前まで譲っているのが面白い。名前までが役職化するのである。また家守(マンション管理人+町の運営を委託された存在)の事例で、元来はそれが家持(不動産の持ち主)が任命するものであったのが、任免権が弱体化したためか、家守の役が物権化していく様子は、近世の「役の体系」の一端を垣間見るものである。

7 意識のなかの身分制(間瀬久美子):職人や下層民は自らの権益を確保するため、「由緒書」を偽造した。そうしなければ寛永以降は諸役免許が得られなかったのである。特に被差別下層民はその由緒を天皇や朝廷と関連づけていた。また木地師が白川家を、鋳物師が下級公家の真継(まつぎ)家を戴いたように、公家の権威を借りることは、財源を欲していた公家の思惑とも合致していたため盛んになった。既に戦国期に「職人受領」(職人に「加賀守」のような名前を与えること)があったが、近世では私称が多くなったため幕府は近衛家の求めに応じてこれを取り締まった。しかし勅許受領は少ないままで、公家からの私的な許しを得た半ば違法の職人受領が多かった。受領名を許す公家の方に金銭的メリットがあったからに他ならない。本編では、さらに雛人形を飾る風習の大衆化を述べ、公家文化が幅広い層に浸透したことが述べられる。松平定信が朝廷を模した「古今雛」(原題の雛人形の原型となったもの)を弾圧したのが興味深かった。

8 「かわた」身分とは何か(畑中敏之):「かわた」とは穢多身分のことであるが、河内国の「かわた村」には、百姓を遙かに凌ぐ富豪がおり、しかもその数は少なくなかった。さらに18世紀後半から19世紀、百姓村では飢饉等で人口停滞・減少が続いていたのに、かわた村では自然増によって大幅に人口増加した。それには、村の経済が雪踏製造という土地に依存しないものを基軸としていたことが背景にあった。かわた村は大坂の問屋(平人)と全く対等に価格交渉しており、しかも「この交渉のために(中略)大坂市中にて長期間逗留している(p.320)」。ということはそれを可能にする経済力のみならず、彼らを平人とともに逗留させる宿があったことを示す。さらに、平人からかわた村の住人に(「人別送り証文」で)移籍したものもいる。貧困の中で差別に逼塞していたというイメージとは違うのである。しかし彼ら自身、「自分たちは穢多ではない。百姓だ」と主張していたが、やはり「かわた」として認識されていた。しかも、もはや実際に被差別・貧困といった実態がなくなっていても、「なおそのような”実態”をもつ「かわた」身分として認識されていた(p.344)」のである。被差別階級の身分観を覆す論考。

9 移動する身分(高埜利彦):富士山の登攀口にある須走(すばしり)村の御師と百姓の対立を描く。須走村は富士山噴火のため農業が潰滅し、富士山信仰の参詣客の収入をあてにするようになった。そして多くの百姓が実際には御師(参詣客を導く役目)と変わらない実態を持ちながら、御師14名が連名により誓約を交わし、御師身分を固定することにした。これは百姓を御師の仕事から閉め出すことを意味していたので、百姓と対立した。18世紀中頃には、吉田家から木綿手繦(ゆうだすき)を掛ける許状をもらい、神職身分としての性格を強めていった。吉田家では全国の神社を統括する立場を確立したい思惑から、身分的に不安定だった御師を積極的に取り込んだのである。本編では、「身分」というものが創出される一例が示されている。

本書は、全体として江戸時代の身分とはいかなるものであったかがボンヤリと浮かび上がってくるものとなっている。江戸時代の身分は、<武士ー平人ー賤民>という大きなヒエラルキーの他は上下関係としては捉えられていなかった、というのは確かのようだ。しかも武士は支配階級として上にはあったが、それにしても絶対に服従しなくてはならないというようなものではない。職人や下層民は利害団体を組織し、それを「座」とか「株」のような形で表現した。そしてそれが金銭によってやりとりされるようになり、身分が物権化して一種の流動性を獲得するのである。またそれに一役買っていたのが朝廷権威であったというのが興味深い。

ところが近代の身分は、こうした在り方とは異質なものである。近代の身分は、「四民平等」を掲げながら、江戸時代よりも身分を「上下関係」として表象したもののように思えて仕方がない。ではどうして身分の在り方は近世と近代で変わってしまったのだろうか? 本書にはもちろんその答えは書かれていないが、非常に大きな問題提起を投げかけられた気がする。

近世の身分について多角的に検討した充実した好著。

 

2022年5月4日水曜日

天皇はなぜ現人神になったのか

 天皇はなぜ現人神になったのか。

簡単なようでいて難問である。多くの日本人は漠然と、戦時中の軍部がその無茶な戦いを遂行するために天皇を神にしつらえ、絶対主義体制を作り上げたのだ、と思っている。

しかし生身の人間を神にしつらえるなんて荒唐無稽なことが、軍部の強制だけによってできるはずもない。そこには思想的な地固めとでもいうべきものが、江戸時代以来、長い時間かけて準備されていたのである。

江戸時代の思想的変転の全体像がクリアに概観できるのが渡辺 浩の『日本政治思想史』である。

【読書メモ】
『日本政治思想史[十七〜十九世紀]』渡辺 浩 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/05/blog-post_11.html
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/05/blog-post_14.html

中世になって政権が武家に移ると、天皇の権威は形式的なものになり、江戸時代には名目上のものだけになっていた。江戸時代には天皇は実質的な権力を持っていなかったのである。

これが、幕末にかけてどんどん天皇の権威が高まっていく。しかも不思議なことに、朝廷が何かやって権威が高まったのではない。むしろ朝廷は一貫して何もしていなかったのに、勝手に天皇の権威が高まっていったのだった。そしてそれを演出したのは、皮肉なことに幕府の御用学問たる儒学(朱子学)だったのである。

朱子学は、現実の社会よりも理念的・観念的な——というより、建前的・官僚的な——理屈を推し進め、実際には徳川は武力で政権を握ったのに、「天皇から大政を委任されたから」政権を担っているのだ、と理論化した。そうであるならば、天皇からの信任を失ったら幕府は政権を返上しなくてはならないことになる。ここに「倒幕の思想」が静かに胚胎していた。

朱子学は、元来は統治の学であったのだが、その形式論を推し進めた先に思わぬ変容を遂げたのだ。朱子学は忠君を叫びながら、実際には革命を準備することとなった。

その変容を、儒者たちの文章を丹念に読み込むことで明らかにしたのが山本七平の『現人神の創作者たち』である。

【読書メモ】
『現人神の創作者たち』山本 七平 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/03/blog-post.html

儒者たちは、何も最初から革命を考えていたわけではない。それどころか、彼らは民はあくまでも「お上」に忠実でなくてはならないと考え、仮に「お上」が滅ぼうとも忠を貫かなければならないと見なしていた。

その極端な「殉忠の思想」を喧伝したのが、山崎闇斎の弟子浅見絅斎である。浅見絅斎はその著『靖献遺言(せいけんいげん)』で、 政権の存在とは無関係に忠を貫いた人々を描いた。特に、「忠」や「孝」といった個人倫理を貫き通すことに絶対の価値を置いて死を選んだ謝枋得(しゃ・ほうとく)について長大に語り、後に幕末の志士たちが大いに鼓舞されることとなった。浅見絅斎は、統治の学、組織論だったはずの朱子学を個人倫理として再編集したのである。

これこそが、幕末の志士たちが何の役職にも就いていないうちに天下国家を論じる土台でもあった。今であれば、「日本を変えたかったら政治家にでもなれば?」と言われるところを、あくまでも個人倫理としての「忠」や「義」から国政を論じ、行動することを可能にしたのである。

そしてその「忠」の向かうところが、天皇であった。彼らは天皇を絶対化することで徳川幕府を相対化した。自らを天皇の「臣」であると規定することで、幕藩体制から飛び出したのだ。いや、相対化されたのは徳川幕府のみではない。あらゆる階層の人が相対化されていったのだ。

橋川文三は、『ナショナリズム——その神話と論理』で、その相対化によって「国民」が創出される様子を描いた。

【読書メモ】
『ナショナリズム──その神話と論理』橋川 文三 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/blog-post.html

吉田松陰が水戸学と出会い、歴史を「発見」して、その中心に「忠誠心」を据えたことは、後の日本の行く末を暗示しているようで興味深い。そして「忠誠心」の向かうただ一つの先である天皇に対する「億兆」として、天皇以外の人々が相対化されることになったのである。

そして天皇を超越的な支配者とし、それによって全ての階級を相対化する一種の平等思想が生まれていく。日本における「平等」の概念は、まずは「天皇の前における平等」として構築されたのである。極端に言えば、日本では国民があって、それを統べる者として天皇があったのではない。逆に、天皇がまずあって、それに従うものとして国民が生まれたのである。

とはいっても、明治維新の政策担当者たちが最初から天皇を神として描いていたかというと、そんなことはなかった。

坂本是丸は、『明治維新と国学者』で微に入り細に入り、明治政府における宗教政策を検証している。

『明治維新と国学者』阪本 是丸 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/02/blog-post_11.html
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/02/blog-post_13.html

明治政府の宗教政策を担ったのは国学者たちであったが、彼らが目指したのは古代の「天皇親祭にして天皇親政」の体制であった。つまり、天皇自身が神を祀り、同時に政務を執る、という体制だ。彼らにとって天皇は祭祀王であり同時に宰相でもあったということになる。

彼らは、天皇自身が政権を担っていた古代律令制の再現を目指していた。そして彼らの構想は、一時的には実現した。明治2年、太政官の上に「神祇官」が置かれ、「大教宣布の詔」によって神道が国教の地位に据えられた時、彼らが目指した祭政教一致の国家が実現したのである。

しかし国学者たちはそれ以上の構想を持っておらず、時代の変化に合わせて自らの思想を展開させていくことが出来なかった。結局彼らは政権の中枢から体よく遠ざけられ、彼らの理想であった古代律令制は雲散霧消してしまった。

こうして国学者たちの理想は潰えた。表面的には、日本を神の国と見なす狂信的なナショナリズムは修正を余儀なくされ、日本は暫く「万国公法」に従って西洋化に邁進することになる。

ところが国学者たちが政権から遠ざけられてなお、「国学的な態度」はそこに居座り続けていた。本居宣長以来、国学者たちが涵養していた態度だった。

小林秀雄は大著『本居宣長』で、宣長の学問の核心を執拗に追求している。

【読書メモ】
『本居宣長(上・下)』小林 秀雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/04/blog-post.html

その核心とは、「古代人になりきって古典を読む」ことだ。それは古典に対する正確な読解を行うことを可能にし、『古事記伝』という不朽の業績を成し遂げたが、副作用として、古典に対する一切の批判精神を放棄することをも意味していた。

そしてそれこそが、私には「国学的な態度」の始まりだったと感じられる。『古事記』や 『日本書紀』にどんな荒唐無稽なことが書かれていても、それはそのまま真実であると受け止めなければならないのだ。

このことは、江戸時代の国学者たちにとってすら難しかった。なぜなら、記紀の全てが事実であるはずなどないのだから。実際、本居宣長と上田秋成の間で、神話が事実であるかどうかを巡って「日の神論争」と呼ばれることとなる論争が起こっている。

当時の議論を鑑みると、宣長は非合理なことを主張しており、どう見ても分が悪かった。ところがこの態度が平田篤胤に引き継がれると、神話の世界はこの世とは別のレイヤーに存在しているのだ、という風に変わってくる。篤胤はその世界を「幽冥界」と呼んで実在するものとして扱い、熱意を込めて大量に論述した。

神話を事実として扱う態度は、篤胤によって確立されたと考えて間違いない。

しかしその篤胤ですらも、天皇を神であるとは見なしていない。それどころか篤胤は、天皇も死ねば幽冥界に赴き、幽冥界の主宰神であるオオクニヌシの審判を受けるものと考えた。篤胤の天皇観と現人神とはかなりの距離があった。

実際、明治の政策担当者たちも、誰一人として天皇を神にしつらえるプランは持っていなかった。それなのに、天皇はどんどん神に近づいていった。天皇が神になったのは、誰かの意図した結果ではなかったというのは確実である。

ただ、今の私には天皇が現人神になっていくその過程を説明する力がない。

一つ言えることは、明治後期から大正・昭和初期にかけて現人神という観念が確立してゆくが、それが「国体」の観念と並行して構築されていった、ということである。

そしてそれは、思想的あるいは宗教的に構築されたものではなく、行政的に、もっとあけすけに言えば「内務省的」に出来ていった。

そういう過程は、向坂逸郎編『嵐のなかの百年』に窺うことが出来る。

【読書メモ】
『嵐のなかの百年—学問弾圧小史』向坂 逸郎 編著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/06/blog-post_23.html

本書は明治から昭和初期にかけての学問・言論への弾圧がどのように行われたかを述べたもので、その中には、重野安繹、久米邦武、喜田貞吉、津田左右吉のケースが取り上げられている。こうした学者たちの、学問的に穏当で至極妥当な書物がひとたび右翼主義者の注目するところとなるや盛んに攻撃が加えられ、「国体を毀損する」「国体の明徴に疑義を生ぜしめる」などといって学説が危険なものであると喧伝された。

そして神聖不可侵な「国体」と、その中心にいる神としての天皇=現人神が出現したのである。それは内務官僚と右翼主義者、国粋主義者たちの、なりゆきまかせの共同作業であった。

であるから、戦後、GHQは国家神道を解体し、また天皇の人間宣言はなされたが、誰一人として東京裁判では「天皇を神にしつらえた罪」には問われていない。もちろん、誰か一人をその罪で裁くことは不可能だったし、おそらく連合国にはその意図も無かったのだろう。

しかし、明治以降の日本が、世界征服までも考えて狂信的な軍事国家となっていったその背景には、確実に「神の国」観念があったし、その国を統べる現人神の存在があったのである。

21世紀に、再び天皇が現人神になることは、おそらくないだろう。それでも、なぜ天皇を現人神にしてしまったのか、その反省をちゃんとしないことには、同じような間違いが起こらないとも限らない、と思うのである。

 

【最後に宣伝】

明治政府が神話を現実化していく過程を、薩摩藩の動向を中心として描いた拙著が2022年6月に刊行されます。上述のような議論も(ただし幕末のみですが)詳しく論述しています。ぜひよろしくお願いします。

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明治政府は、いかにして神話を現実化したのか? その背景には薩摩藩の動向が大きく関わっていた。宮内庁が公認する「神」の墓=神代三陵を巡る幕末明治の宗教行政史を読み解き、神話が歴史へと変換されていった様相を描く。