2019年3月30日土曜日

『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』塩野 七生 著

チェーザレ・ボルジアの生涯を描く本。

チェーザレ・ボルジアはルネサンス末期の1435年〜1507年のイタリアに生きた。彼は法王アレッサンドロ6世の庶子(正式な結婚によって生まれたのではない子ども=愛人の子)としてまずは枢機卿にのし上がる。

枢機卿と言えば、当時のイタリアでは社会の支配者の一員であり、十分な高給と社会的地位があった。しかし枢機卿の地位に満足していなかったチェーザレは突如として辞職し、一人の武将として生きる道を選ぶ。

公式にその野望が表明されたことはなかったが、彼はイタリアを統一し自らの王国を建設する夢があったようだ。僧職上がりのこの男は、それまで戦争の経験などなかったのに、いざ事を起こすと疾風迅雷、怖ろしいまでの怜悧な戦略で近場の小国を(実際にはほとんど戦うことなく)次々と平定、さらにフランス王と姻戚関係で結ばれその後援を得、巧みな外交によってほんの数年でイタリアにおける新時代の為政者として押しも押されぬ存在となる。その国土建設、都市計画の右腕となったのがレオナルド・ダ・ヴィンチであり、また対立していたフィレンツェからチェーザレ対策のため派遣されたのが若きニコロ・マキャベリであった(マキャベリは後年、チェーザレを素材として『君主論』を書く)。

しかしチェーザレはその権力の絶頂で運命に見放される。強力な後ろ盾だった法王アレッサンドロ6世が病気で急逝。さらに自らも罹病して死の淵をさまよった。なんとか恢復したものの病床にあるうちにチェーザレが征服した小国たちが次々に再独立。チェーザレは自分を後援してくれそうなジュリオ2世を法王に就かせるが、ジュリオ2世はチェーザレに恨みがあり、結果的にこの法王によってチェーザレは破滅させられる。

落ち延びたスペインでまた武将として活躍する機会が巡ってきたものの、かつての怜悧さが嘘のように彼は悲惨な最期を遂げたのであった。

本書は、いわゆる歴史書ではない。参考文献は掲げられているが本文と対応したものではないし、創作的部分も多い。概ね史実に沿っている(らしい)とはいえ、どこからどこまでが著者の創作かわからないので、分類としては歴史小説ということになる。

なお私としては当時のイタリアの社会に興味があって本書を手に取ったが、 この物語はチェーザレの行動、征服の有様を描写するのに忙しく、その背景となる社会の動態については語らない。この時期のイタリアはなぜチェーザレという稀代の小君主を生んだのか、そういう考察も欲しかったし、対外関係(特にスペインとイタリアの関係)や社会の仕組み(そもそも枢機卿の持っていた権力とはいかなるものか等)についての情報はチェーザレを理解する上でも不可欠と思われるのでもっと詳細に記述して欲しかった。

ちなみに本書は題名が大変魅力的であるが、チェーザレは冷酷ではあってもあまり優雅とは思えない。確かに彼は容姿に恵まれ、端正な顔立ちと品のよい衣装によって非常に高貴な雰囲気を持っていたようだ。ところがその人生は血みどろであり、文化や芸術の香りはなく、優雅というよりは果断、徹頭徹尾行動の人であり、今から見るとサイコパス的な部分がある。

蛇足ながら、本書は塩野七生の第2作で、彼女がようやく30歳の頃に書いた作品である。気軽な歴史読み物ではあるが、30歳の作者によって書かれた本としては水準は高い。

考察や背景の説明は不足気味だが、チェーザレ・ボルジアを知るためには手軽な本。

2019年3月25日月曜日

『かわらのロマン—古代からのメッセージ』森 郁夫 著

古代寺院の瓦について語る本。

著者の森 郁夫氏は古代寺院の研究者、特にその瓦の専門家であり、古代寺院の瓦を読み解く著書を何冊も書いている。本書はその嚆矢となるもので(本書のどこにも書いていないがたぶん一般向けとしては処女作)、毎日新聞奈良地方版に連載したものをまとめたものである。

その内容は、古代寺院とその瓦についてひたすら取り上げていくというかなり地味なものである。古代においても瓦の様式はだんだんと移り変わっていったのであるが、いかんせん瓦であるから大雑把に見れば大同小異である。しかも体系的に古代の瓦について述べるのではなくて、寺院を次々取り上げ、瓦のデザインの変遷を散発的に述べるので、いささか単調で内容を十分に理解できたとは言い難い。

しかし瓦の世界自体には非常に興味を持った。瓦は、仏教とほぼ同時(仏教伝来から約50年後)に、寺院建築として日本に入ってきた。当初瓦葺きの建物は寺院以外にはなく、それ以降も(近世に至るまで)とびきり高級な建物を別とすれば寺院以外にはほとんど使われなかった。

そして本書を読みながら気づいたことだが、瓦は神社建築には(正式には)採用されなかった。瓦は建材として非常に優秀であり、1400年前の飛鳥寺造営時の瓦は、奈良元興寺極楽坊の本堂と禅堂に今(本書執筆時)でも葺かれているのである。それほど耐久性があり優秀な建材であるにも関わらず、ついに神社が瓦を葺くことをしなかったのは、瓦と仏教の結びつきが非常に強かったためではないかと思われる。

そして、瓦はかなり重いものであるため、瓦葺きにするためには建物を最初から丈夫に作っておかなければならない。瓦葺き寺院は最初から立派な建物として存在した。質朴質素な寺院が徐々に華麗重厚になっていったのではなく、最初から壮麗な伽藍が輸入されたのである。瓦の技術者は「瓦博士」と呼ばれた。飛鳥時代、日本は仏教を中心とする外来文明をそのまま一式導入しようとしたが、その象徴が瓦建築であったといえないこともない。

本書は、先述したとおりいささか単調な本であるが、瓦を通して様々なことが考察され、当時の社会を具体的に想像させる事例が豊富に取り上げられている。ワクワクしながら読むような知的興奮はないとしても、古代瓦の世界への誘いにはなっている。同著者の『一瓦一説 瓦からみる日本古代史』なども繙いてみたいと思った。

古代の瓦への扉を開く本。

2019年3月21日木曜日

『明治六年政変』毛利 敏彦 著

いわゆる「征韓論」の虚構を暴き、その真相を究明する本。

明治6年、西郷隆盛は盟友・大久保利通と袂を分かち野に下った。幼少の頃より強い絆で結ばれてきた二人の間を引き裂いたのは「征韓論」。朝鮮との国交樹立のため使節として渡航しようとする西郷を大久保らは止めた。今朝鮮に渡れば朝鮮は西郷を暴殺し、戦争が起こるというのだ。二人の意見の相違は乗り越えられず、遂に西郷は政府を去った。

…と、我々は教えられてきた。西郷は征韓論争に負けて鹿児島に帰ってきたのだと。しかし本書によれば、これは政争の一面のみを見た誤解であり、真実の姿は全く別のものなのだという。

私自身も、昔から「朝鮮は使節を暴殺するに違いないというが、平和的にやってきた使節を殺害するはずだなんて、どんな政治状況だったんだろう」という疑問を持っていた。だが本書によれば、そもそもそのような緊迫した政治状況は、日朝の間には存在していなかったのである。緊迫していたのは、日本国内の権力闘争だった。

物語は、岩倉使節団の失敗から始まる。 岩倉使節団の目的は欧米諸国の視察であったが、そのためにしては岩倉具視、大久保利通、木戸孝允をはじめとして国家の中心人物を集めた過分な構成であり、その裏には隠れた目的が存在していた。この使節団は、木戸孝允を政府から引き離すために行われたものだったのである。薩長の軋轢や木戸の細かい性格に困っていた大久保は、木戸を政権の現場から遠ざけ、その間に改革を進めようとし、自らもその道連れに視察旅行に旅立った。

ところが最初に訪れた米国で思わぬ歓迎を受けて「この調子なら条約改正もできるのでは?」と思ってしまった一行は、条約改正の委任状もないまま条約改正交渉に入ろうとする。しかし案の定その不備を指摘され、大久保は委任状を取りに一時帰国までしたものの、不平等条約の是正に米国が応じるワケもなく、視察の日程は大幅にずれ無駄に数ヶ月が過ぎただけに終わり、使節団の士気も下がって内部は分裂。木戸と大久保は口もきかない状態にまで険悪化した。こうして貴重な外貨を厖大に費消しながら、岩倉使節団は惰性的に視察の旅を続けるしかなかった。

一方その間、留守政府は目覚ましい改革を行っていた。留守政府の筆頭に立ったのが西郷隆盛であり、中心となって実働したのが江藤新平であった。幕末の志士たちは政治的駆け引きには熱心だったが、政策立案や制度設計といった政権運営には不慣れで熱意もなかった。しかし江藤新平は緻密かつ論理的な頭脳の持ち主であり、維新政府の中で最も革新的・能動的な政治家として各種の改革を率いた。

留守政府が手がけた改革といえば、封建的身分制の廃止、徴兵制の実施、田畑の売買の自由化、地租改正、全国戸籍調査、学制の頒布、太陽暦の採用、国立銀行の創設など枚挙にいとまがない。これらの改革によって日本の封建的社会制度が短期間のうちに否定され、近代的社会へと生まれ変わっていった。「これほどの仕事をした政府は史上にも稀であった」。(p.41)

そして江藤新平は、行政権と司法権の分離にも取り組んだ。全国を網羅する裁判所体系を整備し、法治主義を徹底させようとした。当時の行政府にいた人々は、かつての封建領主になったかのように錯覚し人民に対し尊大に構える風があったが、江藤新平は弱者保護や法の下の平等の実現に邁進する。そして明治5年10月、人身売買を禁じる画期的な太政官布告に至るのである。これは「留守政府の開明性を示す栄光の記念碑」(p.57)となった。

また西郷隆盛も、通説のように封建士族のリーダーとして行動していたわけではなかった。西郷は士族の特権を解体することに熱心であり(例:秩禄処分)、世界の大勢に日本をキャッチアップさせるための改革に賛同していた。

しかしそうした華々しい改革の裏で、陸軍省で「山城屋和助事件」が起こる。これは、山県有朋との繋がりを利用して陸軍の御用商人となった山城屋が、投資のためと称して大量の金を陸軍から引き出し、しかも投資に失敗した上パリで遊興に使いこんだという事件。山城屋が陸軍から引き出したお金は64万9千円にも上り、これは国家予算の約1%、陸軍省予算の1割弱にもあたる。陸軍省の二代派閥である薩長は勢力争いで反目していたから、薩摩閥としてはこれを材料に長州閥を追い詰めようとしたのは当然である。そして江藤新平が率いる司法省も、これを重大な犯罪と見て捜査に乗り出した。窮地に立たされた山県は遂に山城屋をパリから呼び戻したが、山城屋は陸軍省の証拠書類を湮滅した上で、陸軍省の一室で切腹自殺した。

これに続いて、長州閥の面々はさらに不始末を起こす。それが「尾去沢銅山事件」「小野組転籍事件」である。

「尾去沢銅山事件」は、民営の尾去沢銅山に難癖をつけて強制的に政府が没収し、それを大蔵大輔の井上馨が取りはからって無利子・15年賦の好条件で長州出身の政商に払い下げた事件。「小野組転籍事件」は、三井と肩を並べた巨商・小野組が京都から東京へ転籍しようと申請したところ京都府庁があれこれ理由をつけてこれを受理しなかったばかりか、小野家の代表を白洲に引き据えて転籍を断念するよう脅した事件。京都府が転籍を拒んだのは、小野組から得られる行政側の利益が背景にあった。そして京都府の実権を握っていたのが、長州出身の槇村正直だった。

この2つの事件は、要するに行政府が権力を私物化して民間の当然の権利を踏みにじるものであったから、江藤新平率いる司法省が行政府を糾弾したのは当然である。「尾去沢銅山事件」では井上の勾留を太政官に提案し、「小野組転籍事件」では槇村正直の拘禁が上申された。

「山城屋和助事件」「尾去沢銅山事件」「小野組転籍事件」という3つの事件によって、山県有朋は近衛都督を、井上馨は大蔵大輔を辞任。こうして江藤新平と長州閥との対立の構図が鮮明になっていく。

一方で、明治5年末から6年始めにかけて当時の政府の重大問題となっていたのは、 「島津久光問題」「予算紛糾問題」「台湾問題」「朝鮮問題」の4つであった。維新の功臣であったはずの島津久光は明治政府と対立し、その隠然とした影響力は維新政府の最大の敵になっていた。また大蔵省では予算の編成が紛糾、各省が要求通りの予算が得られないことを理由に職務がストップ。「台湾問題」は、琉球人が台湾で殺害されたことの処分をどうしたらよいかという問題。そして最後の「朝鮮問題」は、朝鮮との正常な国交が未だ開けていないという問題であった。

こうした難問に直面し、政府のトップを預かる三条実美は大久保・木戸を使節団から召還した。政府の大黒柱西郷隆盛は、久光から鹿児島に呼び戻されていて不在であり、凡庸な三条としては一人の手に余ったのである。急場しのぎのため予算案へ強硬に反対していた江藤新平らを新たに参議に任命すると、江藤らは大臣の権限を削って参議の権力を強化、さらに太政官を構成する正院・左院・右院のうち左・右院を形無しにして正院に権力を集中。予算編成権も正院に移って調整が可能となり、江藤時代の到来が必至となった。ちなみに正院のメンバーは、三条実美太政大臣、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、大木喬任、江藤新平の7人である。

三条からの召還を受けた大久保利通は明治6年5月に帰国したが、正院への権限集中により予算紛糾問題は落ちついており、また久光問題や台湾問題も一段落していて出番を失った形になった。岩倉使節団の失敗に責任を感じ肩身が狭くなっていた大久保は目立った動きもできないまま、8月には休暇を取って関西旅行に出かけた。大久保は政治に対する意欲を失っていたのだ。

対照的に、帰国した木戸孝允は長州の子分達が起こした不始末の揉み消しに奔走しなければならず、やはり政治の表舞台には上ってこなかった。

こういう状況でにわかに持ち上がってきたのが、それほど重大と見なされていなかった「朝鮮問題」であった。発端は、朝鮮政府が対馬藩に使用させてきた草梁倭館(在外公館のようなもの)を日本政府が接収し「大日本公館」としたことだった。この一方的な措置に朝鮮の対日感情は悪化し、現地では一触即発の危機となった。

この危機に対して板垣退助などは開戦論を主張し、また正院でも開戦に傾きかけたがそれに待ったを掛けたのが西郷隆盛であった。西郷は、あくまでも対話によって筋を通すことを主張し、自ら使節として非武装で朝鮮へ渡ることを主張。即時開戦を求める板垣には「朝鮮が使節を暴殺すれば開戦の大義名分を得られる」と説得。巷間言われる「西郷は戦争を始めるため朝鮮に渡ろうとした」という「征韓論」は、このレトリックを真に受けて形作られていったもののようだ。

西郷の主張は正院で認められ使節派遣が内定したが、国家の重大事であるため岩倉らが戻ってからもう一度審議することと決定が留保された。こうして朝鮮問題もひとまず落ちついたところで、岩倉具視や伊藤博文ら岩倉使節団が帰国。

そして一大政争の幕が開ける。

政争の中心となったのは伊藤博文。政府首脳が岩倉使節団で留守にしている間に、政権はすっかり江藤新平とその賛同勢力である板垣退助・後藤象二郎を中心とする土佐閥が掌握していた。そして江藤新平の法治主義によって長州閥は弱体化させられていた。さらに薩摩閥の棟梁であるはずの西郷隆盛も江藤新平に与している。元来の政権樹立者であった岩倉具視、大久保利通、木戸孝允はバラバラとなり政権の中枢から遠ざかっていた。それを再組織化し、政権奪取を構想したのが伊藤博文という「稀代の策士」であった。

伊藤の構想は、岩倉を仲立ちにして木戸と大久保の仲を修復し、西郷を大久保によって江藤新平から切り離して江藤を孤立させて叩くといったようなものだったようだ。長州閥にとって邪魔な江藤や板垣を政権から追放するため、薩長が手を結んで政権を奪取しようというのである。しかし政治に対する意欲を阻喪していた大久保は政権に返り咲くことに乗り気でなかった。参議への就任も再三固辞したが、大久保なくては伊藤の構想は実現しない。こうして「大久保参議問題」が政権の重大事となった。

そのような時、西郷は岩倉帰国後もいっこうに閣議が開かれない朝鮮使節問題について痺れを切らし、三条の怠慢を厳しく抗議した。小心者の三条はこれに動揺する。「使節暴殺」による朝鮮との開戦の危険性を伊藤が煽ったこともあって、 戦争を本気で心配し始めた三条は、この局面を打開するには大久保参議就任しかありえないと考え、岩倉と共に大久保を口説き落とした。

大久保もこれには根負けしたものの、参議就任にあたって2つの条件を出す。1つは三条・岩倉が使節派遣問題の処理方針を確定し、それを変更しないという約定書を出すこと、もう1つは副島種臣も参議に就任させることと、伊藤博文に閣議に列席する便宜を与えること、であった。大久保としては、「そこまでいうなら命に従って動いてやる」という受動的な心持ちであり、自らの考えで政策を実行していこうというよりは、三条・岩倉の「駒」になりきってやろうと覚悟したのである。

1つ目の条件に基づいて三条・岩倉は使節派遣反対を確約し、大久保は参議に就任、果たして朝鮮問題を審議する閣議が開かれたが、しかし大久保の使節反対論は三条の戦争心配論に基づいていたため、和平を求めるために使節を派遣するという西郷の主張と噛み合わなかったばかりか論理的に破綻しており、江藤新平にもその論理矛盾を指摘され説得力を持たなかった。結果、三条・岩倉の要請に従って大久保が孤軍奮闘し使節派遣に反対したにも関わらず、閣議は全会一致で西郷の使節派遣を決定し、残すは天皇の裁可のみになった。約定書まで出していた三条・岩倉は、閣議で大久保が孤立したと見るや大久保を見捨て賛成に転じたのである。はしごを外され、一人バカを見させられた格好になった大久保は激怒。辞表をたたきつけた。

この大久保の怒りを知った岩倉は、「もう三条にはついて行けない」として共に辞意を表明。三条と岩倉は、家格の違いや能力の違いから実際には険悪なライバル関係にあったが、大久保とは幕末の死線を乗り越えた同志である。岩倉は三条を見捨てて大久保と運命を共にすることにしたのである。これにまたしても衝撃を受けたのが三条。相棒岩倉が全ての責任と難局を三条に押しつけて遁走する気配を見せたのに動顚し、高熱を発して人事不省に陥り職務遂行は不可能になった。こうして政局は一夜のうちに激変したのである。

ここで大久保は、自分の辞表や怒りが政局を速やかに動かしたことで、「かれ本来の強固な権力意志が蘇ってきて」「何としても面目を回復したいと考え」「「挽回」への意欲が急速に復活してきたものと思われる」(p.197)。全体的に綿密な裏付けがなされている本書の中で、この大久保の心の動きだけは明示的根拠がない著者の推測であるが、事実この瞬間に大久保は変節したのである。

それまで、伊藤のたゆまぬ工作によってもいまいち長州閥との信頼関係がなかった大久保であったが、政権奪取のためには江藤新平を排除することが必要であり、「敵の敵は味方」理論によってここに大久保=(伊藤=)木戸ラインが確立された。また岩倉が三条を見捨て辞意を表明したことで岩倉=大久保ラインも復活。こうして岩倉=大久保=木戸が結ばれた。

三条が倒れたことで岩倉は太政大臣代理となり、天皇へ使節派遣問題についての閣議決定を天皇に奏上することとなったが、大久保と結ばれた岩倉は「三条と自分は別人だから自分の思いどおりにする、すなわち閣議決定に拘束されないといいはなった。」(p.199)

「太政官職制」を無視し、政権運営の形式論をかなぐり捨てて、岩倉は閣議決定とは異なる方向に天皇を誘導。結果閣議決定が天皇の裁可によって否定されるという異常事態となった。岩倉のこの露骨な違法・越権行為に西郷は、それでは「退き申すべし」と抗議辞職。違法な手続きによって決定を覆されるのであれば、閣議など意味がなくなる。さらに天皇が閣議決定を否定したということは、それは天皇による内閣不信任の表明でもある。「ここにおいて、天皇の信任を失ったかたちの全参議は、辞表を提出しなければならなかった。」(p.206)

そしてこれこそが、大久保と伊藤の秘策なのだった。大久保の入れ知恵に従って、人事権者の岩倉は、西郷・板垣・江藤・後藤・副島の5参議の辞表のみを受理し、木戸・大隈・大木・大久保の辞表は却下したのである! 露骨な反対派排除の選別処理であった。ここに大久保と伊藤によって構想されたクーデターは完成し、江藤新平と土佐閥が政権から排除され、薩長中心の「有司専制(=独裁)」体制が出現したのである。

この「明治六年政変」によって司法省は弱体化させられ、超法規的措置によって長州汚職派にかけられていた嫌疑は解消させられた。こうして長州閥は息を吹き返し、失脚は時間の問題だった山県有朋、井上馨、槇村正直などが政界に返り咲いていくのである。そして露骨な排除工作にあった江藤新平や土佐派、西郷と運命を共にした陸軍省の軍人たちは、政権に絶望して下野し、それぞれのやり方で反政府勢力として立っていくのだった。

これまで「明治六年政変」は、西郷と大久保による「征韓論」の意見の対立だと考えられてきた。しかしこの政争の経過において、「征韓論」はその時たまたま廟堂の俎上にあっただけの問題に過ぎず、真の対立は別のところにあった。それは、長州閥と江藤新平の確執であった。「明治六年政変」の本当の標的であり敗者は江藤新平だったのである。そして西郷隆盛は、江藤新平を排除するための巻き添えになったのだった。もともと大久保としては、西郷を江藤から引き離して味方につける算段だったようだ。

そして「明治六年政変」の表面的な勝者はもちろん大久保利通であったが、本当の勝者はこの政争の裏で糸を引き、単なる工部大輔から政権の中枢へのし上がっていった伊藤博文であった。

後世、歴史書にまことしやかに描かれることになる「征韓論」は、彼らの念頭にほとんど存在していなかった。真面目に朝鮮との戦争を心配していたのは三条実美ただ一人だったように思う。

本書は、これまでの全ての征韓論の研究をひっくり返してしまう力を持っている。本書の主張はどれもこれも非常に堅牢であって、著者の推測に基づく部分は先の述べたようにほんの僅かしかない。その論証はスリリングですらあって、異常に引き込まれた。「征韓論」や西郷の下野について考える上には、まず読むべき本である。

明治六年の政界を実証的に解明した名著。

2019年3月17日日曜日

『月照』友松 円諦 著

幕末の勤王僧・月照の評伝。

月照といえば、西郷隆盛と共に錦江湾で入水自殺したことで有名であるが、逆にそれ以外のことはほとんど知られていない。私自身も月照について無知であった。そこで読んだのが本書である。

月照は、京都清水寺の本坊付の塔頭(たっちゅう)成就院の住職であった。これは、一山(清水寺全体)の経営を預かる立場だったようだ。月照は、決して政治活動に血道を上げるような人物ではなく、病弱ではあったが戒律を厳しく保ち、世間と距離を置いて宗教性の中に沈潜するような人物であった。

そんな月照がどうして勤王の活動で活躍するようになったか。本書によれば、それは月照自身の考えと言うよりも、様々な巡り合わせによるものなのである。

こうした大寺院では公卿の子が住持をしたり、住持を公卿の猶子(養子)にしたりする慣習があり、公家との関係が近かった。月照も園基茂の猶子となり、俗名「宗久」を「久丸」と改め、2ヶ月後に出家して公家風に「中将房」と字(あざな)している(なお法名は「忍鎧(にんかい)後に「忍向」、「月照」は晩年に用いた雅号)。こうして月照は公家の社会に近づいていくのである。

さらに、清水寺は元々近衛家との繋がりが深かった。清水寺が、近衛家の祈願寺であったからである。幕末に異国船がやってくると、神社では「攘夷祈願」なるものが盛んに行われたが、寺院でも法力によって夷狄を追い払うということで同様な祈願が行われ、成就院でも安政元年に「異船退治祈願」を行っている。堕落し形式化してしまっていた僧侶たちの中にあって、宗教的であった月照の法力がこうした祈願に恃まれたのに違いない。

また近衛忠煕(ただひろ)の八男(後の水谷川忠起(みやがわ・ただおき))は、嘉永5年に興福寺の一乗院の附弟(跡継ぎ)となっている(のち、門跡となる)。興福寺一乗院は清水寺の本山であるから、近衛家が一乗院を支配したということは、月照にとって近衛家はいわば経営者一族ということになる。

さらに月照は、歌道にものめり込んでいた。近衛家に積極的に近づこうという意味合いがあったのかどうか定かでないが、月照は安政元年に近衛家の歌道に入門している。こうして近衛家と成就院という祈檀関係から出発した関係が、次第に近衛忠煕と月照という個人の繋がりへと深化していった。

この関係の仲立ちをしたのが、原田才輔(才介)という近衛家の侍医(鍼灸師)であった謎の人物。 原田は薩摩藩出身で近衛家に入り、近衛家・月照・薩摩藩の間の周旋を行っている。原田の周旋によって月照は近衛家と親密に付き合うようになり、また薩摩藩とも繋がって国事に奔走することになったのである。

月照がこうした中で果たした役割は、一言で言えば近衛家と薩摩藩の連絡係ということになるだろう。というのは、当時幕府の公武離間政策によって、武家と公家は自由に交わることができなかった。近衛家と島津家は姻戚関係で結ばれていたのだから(近衛忠煕は島津興子を正室に迎えている)、ある程度自由に交通ができたのではないかと思われるが、一般的には執奏・伝奏などいった取次なくしては公武の勢力は接近できない仕組みとなっていた。幕府の規制では公武の交流が完全に禁じられていたわけではないものの、非常に手間がかかる仕組みとなっていたのである。

しかしこの仕組みには「祈祷寺院」という大穴が残されていた。祈祷寺院には、公武双方が病気平癒をはじめとして様々な祈願を行っていたから、ここを通じて公家と武家が直接連絡を図ることが可能となっていたのだ。そして国事が囂しくなる時期に、ちょうど清水寺という大祈祷寺院の住職をしていたのが月照その人なのであった。

もちろん、月照自身にも国事に奔走する気質がなかったとはいえない。月照は外国人がキリスト教を広めることで仏教の危機になるのではないかと心配していたし、月照は政治状況を的確に判断して、各種の周旋を俊敏にこなしもしているのである。「清水寺の月照に頼めばうまくやってくれるだろう」というような評価が定まったことで、いろいろな案件が月照に持ち込まれることになったのだろう。

ところで既に述べたように、月照は清水寺の経営に携わっていたのであるが、この頃の清水寺は今の立派な様子とは違い、「破れ寺」になり山内はもめ事が絶えなかったらしい。収入も少なく借金経営であり、山内の不和は覆うべくもなかった。そうした俗事に嫌気が差したのか、月照は隠居願い(住職を退職する)を出したが許可されない。しかし山内不和のため許可も得ずに黙って清水寺を去り寺務を放り出してしまった。その非により月照は「境外隠居」(境外というが清水寺を追放されたわけではなく立ち入りはできる身分)の処分を受ける。

こうして月照は、清水寺から去って不安定な立場となったものの、逆に言えば自由に動ける遊軍的な存在となり、この隠居の身になってからさらに近衛家との親密度を増して(歌道入門したのがこの時期=嘉永7年)、その身軽さを利用して国事周旋に奔走するのである。

そうして、月照は幕府によって危険人物とみなされるようになる。井伊直弼による安政の大獄で捕縛の危険を感じた月照は薩摩藩の導きによって大阪に一時避難。この時近衛家から月照の警護を任されたのが西郷隆盛であった。しかしそこにも危険が迫ったため、薩摩にまで落ち延びてはきたものの、島津斉彬の急死によって一変した藩論をどうすることもできず、西郷にはあまつさえ月照追放(実質的には斬り捨て)の指示すら出る。こうして西郷は、月照警護が果たせなかったことを死を以て償うため、月照と共に冬の錦江湾に飛び込んだのであった。西郷は助け出されて蘇生したが、月照は享年46歳であった。

西郷と月照は、史料上で見る限りそれほど長い付き合いではなく、両者の激しい交渉が始まったのは、著者は安政5年7月以降と見ている。つまり親密に付き合うようになったのは死の僅か半年前に過ぎない。さらに近衛忠煕をはじめとして原田才輔など月照の勤王運動との関わりが深い人はいずれも『成就院日記』にたびたび登場し詳しく記録されているにも関わらず、そうした記録には西郷のことは一度も登場しないのだという(ただし安政5年の『成就院日記』は欠けている)。

西郷との入水は、確かに月照の人生のハイライトであった。しかしそれは彼の人生の中にあって、かなり例外的な展開を見せた事件であった。月照は幕末の志士にありがちな梗概家タイプとは違った。自ら国事に進んでいったというよりは、清水寺という寺院の機能が彼にそれを求め、巻き込まれていったのであった。

月照の名は、西郷との入水という事件によって幕末史に永く留まることだろう。しかし、社会を変えようなどと大それたことは思っていなかったに違いない地味な僧侶が、なぜ担ぎ出されなければならなかったのか、ということも同時に記録に留めるべきだ。月照は時代に翻弄されただけの存在ではなかったが、結果的には近衛家や薩摩藩にいいように利用され切り捨てられたのであった。それを真摯に受け止め責任を感じ命を投げ出したのが、月照より15歳年下だった、31歳の西郷隆盛だったのである。

コンパクトにまとまった月照伝であり、勤王僧という存在の意味を考える上でも参考になる好著。

2019年3月13日水曜日

『支配者とその影(ドキュメント日本人4)』谷川健一、鶴見俊介、村上一郎 編集

社会の上層部に生きた人々の陰影を描く。

「ドキュメント日本人」は、明治から昭和に至るまでの様々な人々を(脈絡なく)取り上げ、日本にとっての近代化・現代の意味を浮かび上がらせるシリーズ。本書はその第4巻。

取り上げられている人は、姉崎嘲風、本田庸一、広瀬武夫、石原莞爾、山県有朋、明治天皇、渋沢栄一、甘粕正彦、大谷光瑞、佐藤紅緑の10人。

取り上げられ方は様々で、評伝(本田庸一)もあるし対談(石原莞爾)、自伝(渋沢栄一)もある。変わり種としては、慰霊祭の祭文(広瀬武夫)も掲載されている。本書は書き下ろしもあるが、それよりも様々な機会に発表されたもののアンソロジーという性格が強く、その脈絡のなさが一種の魅力となっている。

特に面白かったのは、山県有朋について伊藤痴遊が書いた「山県有朋と山城屋事件」。「山城屋事件」とは、山県との繋がりを利用して陸軍の御用商人となった山城屋が、投資のためと称して大量の金を陸軍から引き出し、しかも投資に失敗した上遊興に使いこんだという事件。この事件は証拠書類の湮滅と山城屋の自殺によってうやむやになったが、追って明治六年政変の伏線にもなる重要な事件である。

佐藤愛子(佐藤紅緑の娘)による「わが父・佐藤紅緑」も、ごく簡単なスケッチに過ぎないが忘れがたい一篇。佐藤紅緑は少年小説作家で、反権力でありながら国家主義者でもあり、矛盾に満ちた人物。社会主義者に金をめぐむかと思えば忠君愛国を鼓吹し、本人は軍人が大嫌いであったが軍国主義にも迎合せざるを得なかった。

晩年はただ烈々たる忠君愛国の精神のカタマリとなり、天皇を思い国の前途を憂う日記を書くことだけが唯一の生きがいとなる。ある日、長男八郎(後のサトウハチロー)から差し出された恩賜の煙草に「蓋し佐藤家万代の栄誉にして余が一身及び父母の一大光栄なり」と感動。日記はその日が最後となり、2ヶ月後に死んだ。矛盾を抱えながら生きた男の最期は忘れがたい。


2019年3月6日水曜日

『明治維新』遠山 茂樹 著

唯物史観から見た明治維新の分析。

本書は、奇形的な本である。というのは、注の方が本文よりも多く、本文と注を行ったり来たりしながら読むのにかなり苦労するからだ。このような構造なのは、本書が東京大学で行われた講義を元にしているためで、講義本体の概略的な明治維新の分析と、その背景となっている大量の資料や関連の研究への言及が、本文と注にそれぞれ分かたれて書かれているのである。

よって本書を読み解くには、まず明治維新の歴史を予め把握している必要がある。概略的な本文の記載にはいちいち何があったとは書いていないし、注の方では微に入り細に入った資料が次々と提示されるばかりで出来事の説明というのを丁寧にはしてくれない。本書は大学の講義と同じように、ある程度予習をしてから向かうべきものである。

実は私は、数年前予習無しで本書を読んだ。明治維新に興味が出始めたくらいの時に本書を手に取ったのである。その時は一応読んだものの、その奇形的構造と、明治維新の歴史が頭に入っていなかったことから歯が立たず、あまり理解できなかったというのが正直なところだ。

しかしある程度明治維新に詳しくなってから再読してみると、こんな面白い本もないのである。

本書は、明治維新を理解するにあたり、それが外圧(黒船)への対応として行われたという立場を取っていない。明治維新は、天保の頃から顕在化していた社会の矛盾を解消するために行われたと考え、下は百姓一揆のような民衆的レベル、上は幕府と朝廷、志士と公家といった権力闘争のレベルのそれぞれの層においてどのような構造的な変動があったのかを分析している。

それにあたり、著者はマルクスの唯物史観、すなわち階級闘争史観を採用していて(と本書に書いているわけではないが自明)、本書は階級闘争史観から見る明治維新史の趣がある。そしてそこから予想される通り、著者の明治維新の評価は極めて厳しい。というのは、幕末には百姓一揆の多発など下からの社会変革の兆しがありながらも、それが一つの力として糾合されていくことがなく常に場当たり的な生活改善要求に終始し、さらにはそれすらも幕府や続く明治政府によって弾圧されてしまい、結局民衆のレベルでの社会矛盾は解消されるどころか明治政府というより強大な権力によって抑圧される結果となったからである。

明治維新は確かに封建社会の崩壊をもたらし、人々はある種の自由を上から与えられて謳歌はしたが、そこからさらに自由や権利の思想を発達させることはなく、むしろ天皇を中心とする絶対主義体制を生みだし、封建時代以上に強権的な原理主義体制へとなだれ込んだ。「明治維新は、社会変革としての底のきわめて浅い、政権移動として実現されたのであって、薩州・土州・宇和島・長州・芸州などの雄藩大名と、それを背後から動かす少数の指導的藩士、および将軍・幕閣、さらにそれらと結び合う公卿、これらの人々の、政権取引をめぐる複雑怪奇な個人的策謀に矮小化され、卑俗化された」(p.146)のである。

こうした見方は、英傑達が活躍した明治維新をイメージしている人には受け入れがたいに違いない。 しかしながら本書には非常な説得力があり、著者の述べる個々の主張を覆すにはかなりの考究が必要である。本書は、戦後の明治維新研究の古典となったのであるが、その見方に賛同するにせよ反対するにせよ、いわば乗り越えなければならない峰のような本であったようだ。

そして、それは今でも変わっていないと思う。執筆から60年以上が経過し、やや時代遅れの点は見受けられるが、著者の主張は概ね覆っていない。だが、明治維新が単なる支配者の交替に過ぎないとしても、経済発展の端緒を開いたことは事実だし、日本の独立を守り、大規模な内戦や混乱に陥ることなく、速やかな政権交代を成し遂げたことは評価しなければならない、と人は言うだろう。

しかし本書は、終戦間もない頃に書かれている。本書にはっきりとは書いていないが、太平洋戦争まで突き進まざるを得なかった、その見えない不気味な力を、明治維新の頃にまで遡って反省したのが本書だと考えることもできる。明治維新にはある程度功績があるとしても、明治維新の生んだ絶対主義——近代天皇制——に破滅への道が内在していたのだとしたら、その功罪を比較考量してみないことには明治維新の評価は出来ないのである。

明治維新について考える際には必ず手に取るべき古典。


※私は岩波現代文庫版で読んだが、現在は岩波文庫になっている。

2019年3月3日日曜日

『薩摩蔭絵巻—儒者泊如竹の生涯』家坂 洋子 著

薩摩藩出身の儒者泊如竹(とまり・じょちく)の生涯を描く小説。

泊如竹は、戦国期末から江戸初期を生きた儒者である。元亀元年(1570年)、屋久島の安房村で船大工の子として生まれた泊市兵衛は、どういうわけか幼少の頃出家し日章となり、やがて本能寺、法興寺で仏道の修行をする(日蓮宗)。時の住職は同じ屋久島出身の日逕であった。しかし30代になっても日章は平僧のままで、寺院内で出世した気配はない。

日章は日蓮宗を去り、これまたどういうわけか還俗して泊如竹と名乗り、鹿児島正興寺(国分)の南甫文之(なんぽ・ぶんし)和尚の下で儒学を学ぶ。正興寺は禅宗(臨済宗)であるが、如竹は転宗したのか、それとも俗人のままで正興寺に属したのか明らかでない。ただ法名を名乗っていないところを見るとおそらくは俗人として文之に私淑したのであろう(このあたりは本書には詳らかでない)。

当時文之は薩摩藩の外交顧問のような立場にあり、琉球や明との外交文書の作成を一手に引き受けていたという俊英であった。この文之の下で儒学を修めた如竹は、慶長18年(1623年)、屋久島の本仏寺(法華宗)に住職として帰山し、母の死を看取ってから、藤堂髙虎に侍読として仕えた(1614年)。

本書では、藤堂髙虎に士官している間、髙虎の領地(伊勢)の祭礼や文教政策に携わったことになっている。この間、如竹は桂庵玄樹『四法倭点』、文之『四書新註文之点』、『周易伝義』、『南甫文集』を寛永元年〜6年(1624年〜1629年)にかけて京都の版元から刊行。如竹は自らは一冊の本も書かず、残したのはこれらの本だけだった。

藤堂家を去った後、いっとき本仏寺へ戻り、今度は琉球の尚豊王の寺読となる(寛永9年(1632年)。当時の琉球は薩摩藩の事実上の植民地であるが、表向きは独立国であるということに仕立て、明の属国(明の冊封)となっていたから、薩摩藩はこれを通じて明と貿易していた。如竹はこうした外交活動にも関わっていたのだろうか。

寛永12年(1635年)、琉球を去ると、またいっとき本仏寺へ戻った後、伊勢貞昌の薦めにより島津光久の師となり、藩の顧問のような立場になった模様である。その後屋久島へ帰島(正保元年(1643年))。屋久島では、安房村に水を引く工事を行う(如竹堀)など社会事業にも取り組み、村人は如竹を「屋久聖人」と呼んだ。

如竹は、ことさらに顕職を歴任した人物ではなく、著作を残さず学問的にも全国的に名高かったとは言えない。しかし歴史の端々に顔を見せる、不思議な人物である。一体どうして如竹は強力な後ろ盾もなく、権力者に魅入られたのだろうか。著者は、こうした疑問から如竹の生涯を小説にしたという。

本書を手に取る人は、面白い小説を求めるというより如竹に興味を抱いた人がほとんどであろう。実際、本書はかなり脚色も多いとはいえ、余計な創作(例えば秘められた恋、とか)はなく、如竹の人生を実直になぞるものであり好感が持てる。しかも、大事件が起こるわけでもなく地味な話ではあるが、歴史小説としても割合面白く、儒者の生涯という小難しいテーマにもかかわらず平易で読みやすい。

あまり知られていない地味な儒者、泊如竹の人生を小説で辿れる好著。

2019年3月2日土曜日

『バッハ(大作曲家 人と作品(1))』角倉 一朗 著

実証的なバッハ像を提示するバッハの伝記。

バッハの伝記は、これまでに数多く書かれている。しかしそれらには、バッハを理想化したり、さらには神格化したりするような面があった。また作品の作曲年代についても、思い込みやいい加減な措定がまかり通っていた。

ところが戦後、バッハ研究は実証的に進展した。例えば作品の作曲年代については、筆跡の鑑定や自筆譜の透かし模様の研究が行われ、かつての作曲年代を大幅に変更しなくてはならなくなった。バッハとはこういう人物だから、この曲はこの時期に書いたに違いない、というような思い込みから離れ、作品を並べることでバッハの人生を再構成していくと、今までのバッハ像を修正する必要が生じた。

そうして書かれたのが本書である。本書が書かれた時点(1963年)で、「新しいバッハ研究の成果をとり入れた評伝は、これが世界で最初のものである」と著者は自負している。

本書が提示する新たなバッハ像で最も強調されているのは、「バッハは教会音楽を最上の目的としていなかった」ということである。バッハが若い頃に書いた手紙に「自分は整った教会音楽を作る事を目標にする」といったことが書かれており、従来のバッハ評伝では、バッハは教会音楽こそ自分の使命と考え人生の選択を行ってきたと解釈されてきた。

しかし実際には、バッハが最も幸福な作曲生活を過ごしたのは、教会においてではなくケーテンの宮廷楽長として働いた期間であったようだ。後半生に長く務めたのはライプツィヒの教会であったが、そこでは教会とも大学(バッハは大学の音楽や教育にも関わった)とも、そして行政とも軋轢を抱え、やがて作曲の意欲をなくしカンタータはほぼ作曲されなくなってしまう。バッハにとって、教会音楽は重要なフィールドではあっても、それは人生の目的といえるようなものではなかった。従来のバッハ像は「宗教的先入観に基づく誤解」だったと著者は言う。

また本書で描かれるバッハ像は、喧嘩っ早いトラブルメーカーで、些細なことでも自分の権利を主張するには妥協がない、ラーメン屋のオヤジのような職人肌の人物だ。神に捧げるための崇高な音楽を創り出す人物とは、ちょっと似つかわしくないのである。しかしそちらの方が、ずっと人間味があってリアリティもあり、私は納得した。バッハの超越的な音楽を前にすると、それを作曲した人間もまた世俗を超越した人間であってほしいと思うのは人情だが、それは幻想というものだろう。

等身大のバッハを実証的な研究によって描き出した、バッハ伝の好著。