2019年8月17日土曜日

『神仏習合』逵 日出典 著

神仏習合の概略的な説明。

本書は、いかにして神仏習合が起こり、それが発展していったかを述べるものである。その起源となる奈良時代の動向については詳述されており、なかなか参考になる。

著者は、最初期の神仏習合にあたっては山岳の修行者が大きな役割を果たしたのではないかと推測している。というのは、修行のために山岳に入っていく場合、山の神といった土地神への崇敬を蔑ろにするわけにはいかなかったからである。本書ではそれが論証されるでもなくアイデアとして書かれているが、その後の修験道の発展を考えるとありそうなことである。

また、著者は神宮寺の設立がまず地方から始まっていることを指摘し、神仏習合が地方的な動きであったと述べている。そのケーススタディとして宇佐八幡についてはやや詳述されており参考になった。神宮寺の設立に関しては「神が宿業によって苦悩しているために、それを仏法によって救う」というロジックであったという。神のために仏教を導入するというロジックが興味深い。

こうした神仏習合の動きはやがて中央にも波及し、聖武天皇は大仏鋳造成就のため八幡神に祈願している。そして次第に、神と仏はいろいろなやり方で交錯するようになっていく。

そして10世紀、宇佐八幡宮を中心として「本地垂迹説」が広まり、神の本体は仏であるとさえ考えられるようになる。そのため神社のご神体として本地仏が安置されることも多くなった。神道は教義や宗教理論がなかったため、仏教側がそれを提供するかたちで習合思想が整備されていった。

さらに時代が進み「伊勢神道」や「両部神道」「垂加神道」など、中世の神道理論が様々に案出されていくと、反本地垂迹説(神の方が本体で仏が仮の姿だ、という説)までが生まれた。ただしこのあたりは、本書では理論的なものが書かれるに過ぎず具体例によっては論証されていない。鎌倉時代以降の神仏習合の動向に関してはかなり簡略である。

ところで本書の終わりの方で、著者は「習合は日本の心」として「わが国にあっては、固有の神と伝来の仏がみごとに習合していった。まさに特異な現象といわねばなるまい」と称揚するのであるが、これは残念ながら誤解であろう。

例えば高取正男は『神道の成立』において堀一郎の見解を紹介し、日本の神仏習合においては「シンクレティズムとよべるほどの体系化は、ほとんど進行しなかった」と述べている。「シンクレティズム」とは複数の宗教が接触することで生じる融合現象である。そもそも世界中の宗教を見回してみても、先行する在来宗教を取り込んだり、対立する宗教の要素をアレンジして取り込んだりすることでその内容を豊かにしていくということは散見される。

仏教もヒンドゥー教の諸神をその中に取り込んで、四天王とか弁財天といったような存在を認めていったのだし、そもそも大乗仏教は在来宗教を飲み込んでできた仏教だといえる。中国においても仏教は在来の神仙思想と接近し「老子化胡説」が伝来当初から案出された。これは老子がインドに渡って仏教を唱えた、つまり、ブッダと老子は同一人物だったという一種の習合説である。さらに道観(道教のお寺)では仏像も礼拝されており、観音は最上位の神仙と考えられていたのである。このように、異なる宗教が互いに影響し合い、共存することは、何も「日本の心」ではなくて世界的によくあることだ。

むしろ日本の神仏習合で特徴的だったのは、本地垂迹説など理論面では神仏同体の思想が発展し、仏像を神として拝んだり、逆に神像を僧形に表現したりなど形式的な面でかなり神仏は接近したのに、遂に神道と仏教は教義面でも実体上でも融合しなかったということである。私は、神仏習合を考える上での第一の疑問はこれであるべきだと思う。つまり「なぜ仏教と神道は、互いにさほど大きな影響を及ぼさずに併存したのか。むしろ併存せざるをえなかったのはなぜか?」ということだ。つまり、なぜ神仏は「習合」しなかったのか、ということこそ出発点にすべきだ。

中国でも、儒教と仏教が習合し、その結果「盂蘭盆経」が生まれている。元来の仏教には祖先崇拝の要素が希薄だが、孝(親や祖先への礼)を重んじる中国では、仏教もそれを取り入れることが必要だった。また真に中国化した仏教といえる「禅」は、老荘思想的な面を多く持っている。日本の場合、古来の神祇信仰と仏教が「修験道」において融合したという例外はあるものの、中国に見られるような大規模な習合現象は生じていない。「本地垂迹説」などは、仏教と神道を融合させることなく並立させるため、名目上のつじつまを合わせているという感じが強いのである。

さて、神仏分離以前の神社には、神宮寺や別当寺というものが存在していた。これは、神社の中に設けられた神社で、神社の運営の主体となるものである。例えば宇佐八幡宮には弥勒寺という神宮寺があり、荘園経営においても弥勒寺は宇佐八幡そのものと遜色ない規模を誇っていた。散発的・個別的だった神官たちと比べ、仏教勢力は早くから全国的に本末制度が確立し、教義的にも体系化しやすかったこともあって、僧侶達はずっと組織的に動く術を心得ていた。よって神宮寺は神社本体よりもずっと組織的に行動することができ、やがて神社そのものを凌ぐほどの力を持つようになるのである。

だが、宇佐八幡宮においても、遂に弥勒寺が宇佐八幡から「独立」することはなかった。やはり弥勒寺は、宇佐八幡が社会的に担っているものを自らに取り込むことはできなかったのである。それがなんだったのか、今となってはよくわからない。それは神託機能だったのだろうか。でも仏教でも託宣や夢のお告げはあるのだ。弥勒寺は、どうして宇佐八幡を乗っ取ってしまうことができなかったのだろう。あるいは乗っ取るメリットがなかったのだろうか? そのあたりのことがどうもよくわからないのだ。

仏教は、神道よりもずっと体系的で理論的で、組織的でしかもおそらくは財力もあった。にも関わらず、ある面では神道の力を借りなければならなかった。神道の持つその力を自らに取り込み、より高い立場から統合するというような、スケールの大きな思想的な成長は、遂になされなかったのである。天台本覚思想——山川草木は悉く仏性を持つという思想——はその例外かもしれない。日本の神道的アミニズムが仏教に取り込まれて生まれたのが天台本覚思想であろう。しかし中国人が禅を生みだしたようには、日本人は独自の仏教を創り出さなかった。

ところで備忘として書いておくが、神宮寺・別当寺の宗派と神社の宗派の関係がどうなっているのか気になるので、いつか調べてみたいと思う。例えば八幡社系は真言宗とか、そういう対応関係はあるのだろうか?

奈良時代までの習合現象の説明はそれなりにあるが、それ以降は簡略すぎ、神仏習合を日本独自の優れたものとする誤解が残念な本。

【関連書籍】
『神道の成立』高取 正男 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.html
平安時代の神仏分離について述べられている。
神道成立前夜の動向を、細かい事実を積み重ねて究明した労作。

『道教史』 窪 徳忠 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2013/05/blog-post.html
道教と仏教の交流・習合について詳しい。
古代から現代に至る中国における道教の歴史を追った本。

2019年8月13日火曜日

『父の詫び状』向田 邦子 著

幼少期から青年期までの家族との思い出を中心にしたエッセイ。

本書では、戦前戦後の昭和の中流家庭のありさまがユーモアを交えて描かれている。著者向田邦子のみずみずしい感性によって捉えられているからか、戦前戦後といっても今読んでも古びた感じはしない。著者の初めてのエッセイであるため多少荒削りな点はあるが、話題があっちへ行きこっちへ行きしながらも最後にはそれらが不思議に結びつけられ端正なエッセイに仕上がっている。

ところが、私はこのエッセイ集を読みながら、ちょっとその「端正さ」からはみ出たところに目が行ってしまった。それはタイトルにもなっている「父」のことである。

向田邦子の父は、暴君であった。些細なことで怒鳴り、撲った。毎日の食卓は、家族の団欒というような温かい雰囲気ではなく、父の雷がいつ落ちないかとビクビクしながら囲むものだった。そして父はなんでも自分だけ特別扱いを求め、家長としてふんぞり返っていた。家族に対しては「ありがとう」も「ごめんなさい」も、決して言わなかった人間、それが父であった。

著者は幼い時、そういう父を畏怖し、また嫌った。しかし長ずるにつれ、その横暴さの裏に潜む、社会人としての哀しさを感じるようになる。というのは、父は高等小学校卒でありながら、保険会社で異例の出世をし、支店長にもなっていた。その裏には、卑屈なまでに会社に平身低頭し、交際費を大盤振る舞いするという社内政治があったのである。父は、そういう会社でのままならなさを、家庭で暴君として振る舞うことで埋め合わせていたのだ。父の家庭での絶対性は、社会の中での弱い立場の裏返しだった。

であっても、子どもや妻に押しつける不条理や子どもっぽい怒りが、免罪されるわけではない。当時は、こんな「雷親父」はどこにでもいたのだ、ということは言えるかもしれないが、実際その暴力や暴言を受けている子どもや妻にしてみれば、それはたいした慰めにはならないのだ。

このエッセイで、向田邦子は、そこはかとない努力を傾けて、そういう父の思い出も「今になってみれば懐かしい」と昇華させたがっているように見える。しかしそのたびに、「とはいっても、父のこういうところは嫌いだった」と注釈をつけざるをえないような、割り切れなさを抱えるのだ。それが、全体的には端正なこのエッセイにおいて、なんだか切れ味が鈍っているような、そんな印象を与えている。

だがそのために、このエッセイがつまらないものになっているのではない。むしろ話は逆で、テレビ界出身ならではの、毒気なく素材を調理する感じ、手際よく話題を変えていく調子の中にあって、「父」の事になるとなんとなく筆が鈍る感じが、著者の内面を覗かせる窓のような役割になっている。

いや事実、エッセイに描かれる向田邦子は、まさか「向田邦子」本人であるわけがない。ちょっとおっちょこちょいで、人のやらないような失敗をし、いつまでも嫁き遅れていることを自虐し、仕事のできなさをネタにする、というこの向田邦子は、本人の特徴をデフォルメしてエッセイ用にしつらえたキャラクターだろう。しかし父のことになると割り切れない思いを抱える「向田邦子」は、間違いなく本人の心情が吐露されていると感じるのである。

表題作「父の詫び状」は、生涯でたった一度、父が娘に寄せた詫びの手紙が描かれているが、それにしても「此の度は格別の御働き」という一行があり、そこだけ朱筆で傍線が引かれているに過ぎなかった。結局、いつまでも父は娘に詫びることができなかったのである。

仮の話をするのは気が引けるが、仮に、父が生涯でたった一度でも、「お前にはいろいろいろ迷惑を掛けたなあ」とか「好き勝手振る舞って悪かったなあ」といったように本当に詫びたとしたら、本書はだいぶ違った印象のものになったのではないかという気がする。父にまつわるイヤな思い出も昇華して、「今になってみれば懐かしい」と記憶の棚卸しができたのだと思う。本書の表題が『父の詫び状』なのは、偶然以上の意味があると思う。きっと、向田邦子が欲しかったもの、それがちゃんとした「父の詫び状」だったのではないだろうか。

ただひとつ言い添えなくてはならないのは、こういう読み方は、邪道だということである。というのは、これまで述べてきた著者と父との関係性の襞は、本書で著者が表現しようとしたことでも、伝えたかったことでもないのは明らかだからだ。本書はもっと気楽に読むべきものだろうし、この雷親父も、ありがちな父親像として受け取れば十分なのだ。だが私は表題作であり冒頭作である「父の詫び状」に素の「向田邦子」を感じて、以降それを感じることが本書を読む楽しみと思ってしまったのである。