2020年9月24日木曜日

『中世の板碑文化』播磨 定男 著

板碑の世界を概観する本。

板碑は、沖縄を除く日本全国に5万2千基もある。本書はこの板碑の起源から終焉までをほぼ時系列で辿りながら、その全体像を把握しようとしたものである。各宗派・各地方に目配せをしながら記載しており板碑の世界が総合的に理解できる。

本書の問題意識の一つは、板碑の形式についてである。板碑といえば、細長く薄い岩の上部が山型に整形され、上部に横二条線が彫られたものが基本形と考えられている。一般に板碑と言われてイメージするのはこの形だろう。ところが、数量的には自然石板碑(細長い石を整形せずにそのまま使った板碑)もかなりたくさんあるのである。従来、整形板碑が先に生まれて、それが簡略化または応用された形で自然石板碑が生まれたと考えられていた。

ところが紀年銘がある板碑を調査していくと、必ずしも整形板碑が先行するとはいいきれなくなってきた。自然石板碑と整形板碑はほぼ同時に生まれ、はっきりと別系統をなしているわけではないが併存してきたのである。こうしたことから著者は、板碑の本質は形式にはないと考える。五輪塔や宝篋印塔がその形式に意味があるのと違い、板碑の場合はそこに主尊(の種子[梵字])や造営趣旨を刻むことに意味があって、いうなればその形は二次的な意味しか持たなかったというのである。

また従来、板碑は埼玉県で基本形が生まれて、それが御家人の分散にともなって全国に広まっていったと理解されがちであったが、埼玉が板碑の中心地とはみなせてもことはそう単純ではないということである。

最初期の板碑は、仏塔の一つとして主尊安置に意味があり、主に追善供養のために建立された。ところが逆修の考え方が広まってくると逆修供養として建立されるようになる。鎌倉時代から南北朝期が板碑の全盛期であり、地方によって若干の差はあるが南北朝期が造立のピークである。板碑は他の仏塔に比べて製作が容易であり、庶民にも手が届くものであったことが全国的に広まった理由であった。

板碑は、思想的には阿弥陀信仰を表現したものが多く、それに続いて大日如来信仰が多いようだ。形式に意味はなく刻む内容によって様々な思想に転用可能なのが板碑であり、題目(南無妙法蓮華経)を刻んだ板碑もある。しかし7割くらいは阿弥陀信仰といってよいようである。

南北朝期のピークを迎えると、板碑の造立は急速に衰退し、造形の面でも鋭さが失われ粗略なものとなっていく。戦乱の影響もあるが、念仏が広まった結果、「念仏だけで往生できるならばわざわざ板碑を作る必要はない」という考えになったためではないかと著者は言う。五輪塔や宝篋印塔に比べ板碑は庶民的なものであったため、より手軽な方に流れたわけだ。

そして五輪塔や宝篋印塔は江戸時代になっても作られ続けたが、板碑は16世紀には全く作られなくなった。中世とともに勃興し、中世と共に消えたのが板碑なのである。板碑が作られなくなった理由は、念仏信仰もあるが、それ以上に墓石(我々が普通一般に考えるあの墓石)に置き換わってしまったためと考えられる。先述の通り板碑は主尊を安置・供養することに目的があったが、やがて故人の墓標の意味合いを帯びるようになった。主尊よりも個人の戒名の方が大事になっていったのである。そして主尊供養が閑却された結果、板碑は戒名を刻む墓石へと変貌したのである。

なお本書では、若干板碑の話とは逸れる感じだが、板碑の銘文を分析し彼岸の期日について考察している。その結論は、「中世における彼岸(春彼岸・秋彼岸)は、春分・秋分の二日後に行われ、彼岸入りから明けまでの期間は7日間であった」とまとめられる。

板碑の世界を手軽に俯瞰できる良書。

【参考書籍のブログ記事】
『板碑と石塔の祈り』千々和 到 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/12/blog-post_29.html

板碑を中心として石塔の世界を紹介する本。板碑の世界の手軽な入門書。

2020年9月22日火曜日

『江藤新平—急進的改革者の悲劇』毛利 敏彦 著

江藤新平の驚くべき先見的業績を通観する本。

明治維新の開明性を担っていたのは江藤であった。維新の功臣たちは天皇中心の中央集権国家を建設するという意気込みは持っていたが、例えば基本的人権、法治主義、三権分立など、近代国家が備えるべき国家システムにはあまり興味がなかった。

こうした近代国家システムに異常なまでの嗅覚を有し、ほとんどたった一人でそれをつくり上げたのが江藤新平という男だった。「明治維新の現場に江藤が居合わせたのはひとつの奇蹟だったのかもしれない(p.iii)」と著者は言う。

江藤は佐賀藩の下級藩士の子として産まれた。佐賀藩は長崎の警護役を担当する関係から海外に目が開かれ、幕末にちょうど鍋島直正という名君が出たことで進取の気性があった。領内には反射炉が築かれ、西洋の文献に基づいて鉄製大砲を鋳造。さらに蒸気船の購入のみならずその建造にまで手を伸ばした。

また直正の学術奨励により、国学を尊重する枝吉神陽ら史学派、蘭学派など新しい思潮が擡頭した。江藤は神陽に傾倒。神陽が主催する楠公崇拝の一派「義祭同盟」に加わった。他のメンバーは、副島種臣(神陽の実弟)、中野方蔵、大木喬任らで、後に大隈重信が加わった。

黒船が来航し、攘夷論と開国論が対立するようになると、安政3年(1856)、江藤は「図海策」と題する長文の時事意見書を提出する。この意見書では「積極的開港・通商による富国強兵」が献策されているが、島津斉彬や橋本左内による同趣旨の意見が出たのは翌年であり、江藤の見識がいかに先んじていたかがわかる。

この犀利な江藤が、思うままにならない藩に見切りをつけて脱藩したのは当然だろう。しかしすぐさま、京都政局を牛耳っていた尊攘派浪士連中の非現実的な空論と無能さや功名心に失望する。そこで滞在わずか3ヶ月あまりで江藤は帰藩した。

もちろん藩では江藤の処分が問題となった。死罪はやむを得ないと思われたが、直正は江藤に見所があるからとして死罪を認めず永蟄居に減刑した。江藤はこうして無禄になったので、山中の廃寺に引っ込んで寺子屋をはじめた。これが江藤の雌伏の時期だ(岩倉具視に少し似ている)。

慶応3年、幕府が大政奉還を行い、事態が急速に変転するようになると、脱藩上洛の前歴があり京都朝廷側に顔が利くとみられた江藤は佐賀藩にとって貴重な存在となり、江藤は5年ぶりに表舞台に復帰する。34歳であった。江藤は戊辰戦争に参加し、追って鎮将府会計局判事に任じられ民政・財政・税務を担当。江戸の現実とその実務に立脚した具体的政策論を説いた。ここで江藤は、合理的な方法による民衆の生活向上を訴えた。この民衆の立場にたった視点こそ、江藤が他の維新の志士たちと違っていた点だった。

その後江藤は会計官東京出張所判事に転ずるが、ここでは「政府急務十五条」を立案。江藤は、税負担の公平化、国家財政を公開して国民のチェックを受けるなど時代に先駆けた構想を献策している。「これは時代の水準をはるかに超えた破天荒な言論であった(p.46)。」

その後江藤は佐賀藩に帰藩し、権大参事として藩政改革に携わった。その内容は、武家階級の簡素化、戸籍法の改変による様々な自由化、門閥の私領地の廃止、寺社領の接収などであり、さらに江藤は、200戸程度を単位とした自治村を構想。そこでは執行機関(庄屋等)と議事・監督機関(寄合)を独立させるという議会制民主主義の手法を取り入れていた。この他、驚異的なことに、会社組織による商工業の督励、信用制度、郵便制度など、日本社会にほとんど存在しなかった先進的施策が江藤一人によって立案された。しかし江藤は権大参事就任3ヶ月にして早くも政府から東京へ呼び戻されたので、これらの構想は実現されなかった。

政府では江藤は「中弁」に任命された。これは太政官(内閣)に所属する高級事務官で、次官と同官等。今風に言えば内閣官房副長官補くらいであろう。江藤は岩倉具視のブレーンとして、この立場で国家のグランドデザインの設計に携わる(のち、江藤は「制度取調掛」として政府の全般的な制度設計を検討)。そこで江藤が提出した国政の基本方針では、君主独裁(中央集権)、三権分立、郡県制を挙げ、広範にわたる具体的な国家制度を提案した。ちょっと面白いのはその中で「一切の音楽の改造」までも述べられている点だ(改造の内容は不明)。

さらに江藤は、「職員令」官制に不満を抱き、これを改革する「政体案」を作製した。この中では、上議院と(民選の)下議院の政府からの独立、(太政官の上に置かれた)神祇官優位の否定、司法台とその管轄下の各級裁判所の設置及びその行政からの独立などが挙げられた。江藤は三権分立を実現し、特に近代的司法制度を全国規模で一気に実現させる雄大な構想を固めていた。

江藤はこの構想を実現化するため「国法会議」の開催を働きかけ実現させた。さらに江藤は並行して民法典の編纂に邁進。この民法典は、「法の前の平等で自由な個人」を前提とした(即ち江戸時代の身分差別の否定!)、その私人相互間の権利義務関係を規定した近代国家の一般法である。江藤はフランス民法をお手本として精力的に編纂を進め、明治4年に「民法決議」、その続編の「続民法決議」、それらを増補した「御国(みくに)民法」(草案)が作られた。

なお廃藩置県についても、江藤は具体的方策を考えていて、それは実際の政策にかなりの影響を及ぼしたと見られる。しかし廃藩置県の実施自体には江藤はいわば蚊帳の外におかれた格好である。どうも江藤は、政府の重要なブレーンではあっても、首脳部とは若干の距離を感じるところがある。

廃藩置県後、江藤は文部省に転じる。それまでの「大学」が廃されて文部省が設置されたことに伴う人事だった。江藤は文部大輔。文部卿は欠員であったので同省の最高責任者であった。「大学」時代は、文教行政と教育機関が未分化で、国学派と漢学派の対立によって混乱していたから事態を収拾するための江藤の起用だった。江藤はすぐさま人事を一新し、国学・漢学をほぼ廃して洋学者を起用。さらに国家が全国民の教育に責任を負う方針を明示した。これは明治5年の「学制」の発布へと繋がる。江藤が文部省に在職したのはわずか17日間だったが、「たちまち職務の大綱と主要人事を決め、新生文部省の骨格を一気に作りあげ(p.118)」た。

明治4年の太政官制の改革で、江藤は左院一等議員、ついで副議長に就任し、左院の民法会議を指導した。だが江藤の民法案は、江藤が翌年司法卿に転じたことや(後述)、政治的な状況、またあまりにも時代に先んじすぎていたことなどで遂に実施に移されなかった。なお日本で民法が公布されたのは明治23年。しかもこれはフランス法系への反対論があってついに施行されず、明治29年により保守的なドイツ法系の民法が制定され、明治31年になってようやく施行された。

左院における江藤は、人民の権利を保護し、国家が暴走しないようにチェックする体制を作りあげた。「人民の権利」を重視したことはこの時代においては特筆すべきことである。左院は江藤の構想した下議院とは違い官選議員によるものだったが、江藤はこれを来るべき民権拡大の布石とした。江藤の活動で左院は強力な機関となっていったが、明治5年4月、江藤は司法卿に転じる。

司法省は江藤の働きかけによって設置されたもので、法治主義の中心を担う存在であった。それまで司法卿は欠員だったので江藤が初代の司法卿である。江藤は「司法機関は人民の立場にたつべし」と明快に宣言した。これは今の時代でもまだ実現していないことだ。国家の行き過ぎを制約するものとして人民の目があり、人民の力を担保するのが法であった。犯罪の摘発は民衆のために行うもので、国家のためではなかった(!)。即ち、江藤は弱者保護のための司法制度を作ろうとしたのである。

このため、これまで行政(府県庁)と一体化していた裁判権を国家のものとし、全国に各級の裁判所を設置した。また地方官の専横や怠慢によって人民の権利が侵害された時は裁判所に出訴することができる制度を創出(今で言えば行政訴訟)。当時の地方官は大名になったかのように振る舞う成り上がり者が多く、裁判といっても白洲に引き立てて譴責するようなものだったからこれは画期的な制度だった。

なお司法卿在任中に、マリア・ルズ号事件が起こる。この事件の過程で日本における人身売買(遊女)の実態が世界に暴露されたから、政府にとっては都合が悪く、自然と人身売買の禁止へと動いた。こうして人身売買を厳禁した(そして隷属的な身分の者を自動的に解放する)画期的な太政官布告が発せられた。この布告にあたり、江藤はそれに付随する様々な問題点を一刀両断する処置を行っている。なお本書では何も述べられていないが、人身売買の禁止が、人権の観点ではなく「皇国人民ノ大恥コレニ過ギズ(井上馨)」という対外的な体裁の問題で行われたことは日本の行く末を暗示するものである。

それはともかく、江藤は司法卿として精力的に働き、人民の権利保護に邁進した。ところが「明治六年政変」が起こって、政府から追放されてしまうのである。このくだりは、著者が『明治六年政変』で描いたことの要約であるから割愛する。

【参考(読書メモ)】
『明治六年政変』毛利 敏彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/03/blog-post_21.html

江藤が人民の権利を保護しようとしたことが、権力を私物化していた長州閥との対立を招き、また江藤が頭脳明晰な理論派であったことが、大久保利通の権力掌握の邪魔になった。江藤はそれまで、驚異的なスピードで政策を立案し、因習にとらわれない合理的な発想によって国家の大綱を次々と立案した。それはまさに疾風迅雷と形容すべきものである。ところがこの有能さは、政権が確立し、その政権に安住しようとする者にとってはむしろ邪魔になっていったのだろう。彼は使われるだけ使われて捨てられたブレーンであった。「明治六年政変」は、まさに江藤を排除するために仕組まれたものである。

江藤と共に下野した(させられた)のが、副島種臣や後藤象二郎、板垣退助らであった。彼らは民間の立場から国家の改造を考え、日本最初の政党「愛国公党」を作った。そして「民撰議院設立建白書」を作製し、自由民権運動の火ぶたを切ったのである。

ところがそんな折、郷里の佐賀で不穏な動きが起こる。不平士族の反乱「佐賀戦争(佐賀の乱)」であった。江藤は板垣が止めるのを振り切ってこれの鎮撫へと旅立ってしまう。しかし頭に血が上った士族たちに話が通じるはずもなく、また政府から新権令(岩村高俊)が兵を伴って赴任することを知り、なりゆきから郷土防衛のために反乱軍と合流したのである。しかし佐賀鎮圧の全権を帯びた大久保により反乱はあっさりと鎮圧され、江藤は逃走。鹿児島に行き西郷隆盛に助けを求めたが拒絶され、阿波で逮捕された。

江藤は設置されたばかりの佐賀裁判所で裁判を受けた。しかし裁判は形式に過ぎず江藤の有罪は最初から決まっていた。しかも佐賀裁判所の権限では死刑を言い渡すことはできなかったにも関わらず、極刑=死刑(梟首)が言い渡され、即日処刑された。「大久保内務卿の「私刑」といわざるをえない(p.209)。」江藤が人民の権利を保護するためにつくった司法制度は早速換骨奪胎され、権力者の都合のいいように弱者を断罪する装置になってしまった。江藤は従容として死についたという。41歳の短い生涯だった。

本書は、江藤新平の維新官僚としての業績を通観するものであり、明治維新に関する前提知識をあまり必要とせず読めるコンパクトなものである。一方、考察のようなものはあまりなく、例えばなぜ江藤が人民の権利を重視したか、なぜ弱者保護に熱心であったのかというようなことは述べられていない。私は江藤のこの姿勢は5年間の永蟄居の時期の経験に基づくものであったのではないかと思うが特に書いていなかった。本書は江藤の内面を覗くものではない。

それ以外にも、例えば人柄であったり、私生活のようなものはほとんど全く描かれない。あくまでも官僚としての業績にフォーカスが当てられており、著者は人物伝・評伝としては書かなかった模様である。

なお、私自身は江藤がたった2ヶ月(明治5年3月14日〜5月24日)ほど在任した「教部省御用掛」の間の仕事について興味があったが、本書は教部省における江藤の業績としては宗教の自由化の推進(女人禁制の解除、僧侶の肉食・妻帯・畜髪の自由化)のみが挙げられ詳しく書いていない。しかしこの時期の教部省は「三条の教則」が定められ、大教院体制が敷かれるという重要な改革時期である。特に大教院体制は、全国をシステマティックに担当する大教院・中教院・小教院を置くことになるが、これは江藤が裁判所や学校の設置で行った手法に極めて近く、江藤の創案ではないかと思われる。このあたりはもう少し詳しく書いて欲しかった。

それにしても、江藤新平の改革が頓挫させられたことは、その後の日本を暗示しているかのようだと思った。江藤がいくら人民の権利を声高に叫んでも、当時はついてくる人民もいなかったであろう。「民権」などというものはあるのか? という議論があったくらいなのだ。国家にとって人民は都合良く支配できる方が良く、「人民による国家の監視」という江藤のアイデアは国賊的ですらあったのである。いや、2020年の今の日本でも、「国民による国家の監視」は、十分に過激な思想なのではないか。一介の人間が「お上に逆らう」のは非常識なこととされてはいないか。今でも、「江藤新平」を継承する人間を日本は必要としていると思う。

時代を先んじた江藤新平の悲劇によって、維新後の日本が向かう暗闇さえ幽かに感じさせる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『西郷札 傑作短編集(三)』松本 清張
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_10.html

松本清張の短編時代小説集。江藤新平の末路を実録風に描いた「梟示抄」が収録されている。

2020年9月10日木曜日

『差別戒名とは』松根 鷹 著

差別戒名の現在を述べる本。

差別戒名とは、主に被差別階級の人々に対し、差別的意図をもってつけられた戒名である。例えば、「畜男(女)」(家畜のような人間)、「似男(女)」(男に似ているが男ではないという意味)といった直接的な表現もあるし、部落民以外は4字の戒名なのに部落民だけ2字であるとか(相対的差別)、敢えて字画の一部を省略したり、逆に余計な点をつけたり、特定の略字や、読めない(判読不能の)文字を使ったりといった様々なやり方がある。この世では不遇だった人々が、死後にも差別を受けなければならないという、およそ宗教にあるまじき恥部が差別戒名なのだ。

本書は、この差別戒名を巡る情勢を人権問題の立場からまとめたものである。

差別戒名が問題視されてきたのは決して古いことではなく、部落解放運動が進む中で徐々に明らかになってきたもので、現在でもその全貌は不明である。しかも、各宗派の本山は差別戒名の存在をなかなか認めようとしてこなかったために、差別戒名自体が隠蔽されてきた。明らかに差別的な戒名が暮石として残っているのに、本山は「それは旅の僧侶がつけたものだろう」「転宗してきた人が、前の宗派でつけてもらった戒名だ」などという理屈でのらりくらりと躱してきたのである。

そもそも、なぜ差別戒名などというものがつけられたのだろうか。中世には差別戒名はほとんど全くつけられなかった模様である(確認されている最古の差別戒名は1605年のもの)。しかし江戸幕府によって固定的な身分制度が敷かれると、その階級差別の論理を仏教各派も追蹤し、高位の人々に仰々しく立派な戒名が与えられるその一方で、被差別民に対しては差別戒名がつけられるようになったのである。宗教統制が厳しくなるにつれ差別戒名も普及し、特に享保年間以降に急激に増加した。寺院は、戸籍管理の意味合いがあった寺請制度との関係上、被差別階級を区別していたという事情もあるのだろう。

そして差別戒名のつけ方は、『貞観政要格式目』という本が巨大な影響を及ぼした。これは『貞観政要』とは関係の無い、ほとんど偽書といってよい信頼性の低い本なのであるが、宗派に関係なくこれが利用され、差別戒名のつけ方の指針となった。

ただ、現在調査がされている限りでは、差別戒名の存在数は地域の偏りがあって(長野県に多い)、また宗派によってかなり異なる。差別戒名は浄土宗及び曹洞宗に多く(この2宗は差別戒名墓石の改正などに積極的なため多く報告されているだけかもしれない)、浄土真宗にはほとんど存在しない。

しかし差別戒名は存在しないとしていた浄土真宗大谷派でも、1945年12月に鹿児島別院でつけられた明らかな差別戒名「釈尼栴陀」(栴陀=栴陀羅(センダラ)=インドの被差別階級シュードラのこと)の位牌が発見され、大きな衝撃を与えた。差別戒名は、江戸時代の話ではなく、敗戦後にも続いていたのである。なお、その後大谷派は差別戒名の調査を行なっているが、それほど多くが報告されているわけではない。

ではなぜ浄土真宗には差別戒名が少ないのか。歴史的に、浄土真宗には被差別階級の門徒が非常に多く、穢多・非人の8割が真宗だったという。にも関わらず差別戒名が少ないことは何を意味しているのか。実は、真宗には数多くの穢寺(または穢多寺)があった。これは、寺格系列の最下位として寺格外に置かれたいわば被差別寺院である。被差別階級はこの穢寺の檀家となっていた。穢寺自体が本山から差別を受けていたが、このような所属関係にあったため、被差別階級であることを戒名でことさら区別する必要がなかったのかもしれない(本書にははっきりとは書いていない)。

ところで、近世以前の社会では公然と身分差別があったのは周知のことである。仏教各宗派では世俗の差別意識を無批判に受け入れ、結果として差別戒名が後世に残されたから今になって問題になっているが、差別をしていたという点でいえば、社会全体を批判しなくてはならない。だから、差別戒名の存在自体は、仏教各派の恥部ではあるかもしれないが、むしろ社会全体の過ちとしなければならない。

だが、差別戒名の存在を認めず、過去の過ちをなかったことにしようとする教団には、厳しい批判が向けられてしかるべきである。我々は良いところも悪いところも先人から引き継いで今の自分たちが存在しているのだから、自らが犯した過ちでなくても、先人の間違っていたことを謝罪し、訂正し、関係者が納得する形へ昇華させて次の世代へ引き継いでいく責任がある。差別戒名は、まだその一部しか対応がなされていない。全宗派での前向きな調査・解決を期待したい。

なお本書は90ページほどで、差別戒名の現状についてコンパクトにまとまっており、簡単に読める本である。ただし、あまり考察はなく、例えば各宗派はなぜ差別戒名をつけたのか、というような本質的なところは全く触れられていない。本書の関心は、差別戒名の歴史よりも、現在の部落解放運動の中で差別戒名がどのように扱われ、解決へ向けて努力されてきたのか、ということにある。

差別戒名、ひいては宗教における差別の構造を考えさせる実直な本。

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『廃藩置県―近代統一国家への苦悶』松尾 正人 著

廃藩置県の経緯を描く。

明治政府は当初、諸藩の連合政権であった。木戸孝允や大久保利通といった維新のリーダー達も、藩からの出向のような形で政権に参与していた。土地も人も、藩が所有しているものとされたのである。ところがそれでは中央集権の近代国家にはなることができない。そのため、封建機構(独立地域)としての藩を廃して、国家による地方行政機関である県を置くという改革が必要になってくるのである。

しかしこれは、維新政府が基盤とした藩を自ら解体するということだから、明治維新そのものと同じくらい大きな改革であった。本書はこの大改革はいかにして実行されたのかを述べるものである。

廃藩置県の基盤となった思想は、「王土王民論」である。全ての土地や人民は元来から王(=天皇)の所有物であるという考えだ。この思想への反対自体は少なかった。しかしそれを実行するとなれば、これまでの社会の仕組みを一気に変えなくてはならず、難しい問題が山積していた。

なお、維新直後から県や府が置かれていた地域がある。戊辰戦争で政府が獲得した土地や、政府の直轄地(京都府)などだ。明治元年の日本には、府、藩、県という3つの異なる行政単位があり、しかも藩は約270もあってその統治は多種多様だったから、全国一律の政策を行うのは困難だった。

そこでまず政府は「藩治職制」を定めてばらばらな各藩の統治機構を均一化させた(明治元年10月)。次に、雄藩四藩(薩長土肥)からの建白に応える形で版籍奉還を実施(明治2年6月)。これは、土地と人民を天皇に奉還するというものであったが、その持ち主を形式的に天皇にするというだけで再交付(つまり「所領安堵」)され、諸侯(藩主)は改めて政府より知藩事として任命された。しかし重要なことは、藩主と家臣との主従関係が否定されたことだ。これ以降、藩士を政府が登用する場合も藩に問い合わせることはなくなった。版籍奉還が封建制度解体の一歩となった。

なお、これに先立ち、政府は戊辰戦争の功労者に対する大規模な賞典を行っている。これにより版籍奉還へはさほど批判が起こらなかったという。

一方、版籍奉還後の政府は極度の財政難に陥っていた。そこで財政に明るい大隈重信が民部省・大蔵省を牛耳って、過酷な徴税や統制を行った。折しも明治2年は大変な凶作となったが、大隈は府県への徴税には一切の妥協をせず、その結果農民一揆が頻発。それでも大隈は「一千人迄殺しても差し支えない決心で事に当たるべき」と言い放った。なお藩には課税はしていないが、例えば藩の外国貿易を禁じ、紙幣の製造を禁止するなど統制を強めた。

こうした大隈のやり方は地方官の不満も招き、政府内も混乱した。その結果民部省と大蔵省が分離させられ、大隈ら急進派官僚は民部省から排除された。これにより急進的かつ強権的な中央集権化政策は休止させられる格好となった。

しかし藩の方では、極度の財政難から自ら廃藩を願い出るものが出てきた(例:盛岡藩)。幕末の時点ですでに財政的に厳しかったのに加え、戊辰戦争によって財政がさらに悪化したためであった。各藩では、家禄を上士から下士まで平均化する、帰農・帰商を促すといったかなりの荒療治を行なっていたが、すでに限界を迎えていたのだ。こうした動きを受けて政府は「藩制」を定めた。これは藩の財政を統制し、士族の階級を簡素化させ、また陸海軍費を藩から拠出させるものであった。限界を迎えていた藩は「藩制」を概ね支持した。このほか、この時期の政府は中央集権国家の建設のための改革に着手していた。

これに最も反発したのが鹿児島藩である。 鹿児島でも西郷隆盛が参政となって藩政改革を行なっていたが、それは冗費を削るというよりは、武士を「常備隊」に組織するなど統治機構を軍政に組み替えるものだった。同藩では大量の兵隊を抱えておりその扶助が大きな課題となっていたのである。しかし政府の「藩制」に従えば兵隊を数分の一に減らす必要があったから「藩制」は受け入れ難かった。また藩政の実権を握っていた島津久光も政府の急進的改革に不満で反政府的態度を露わにしていたから、政府としても鹿児島藩対応が最大の懸案となってきた。

一方、長州(山口藩)でも、兵制改革に反対した脱隊騒動とよばれる事件が起きた。しかしこれを鎮圧したことでかえって藩論が一致し、また毛利敬親や藩主元徳は政府の改革を支持していたため、反政府的になることはなく、むしろ反鹿児島となっていった。鹿児島と山口の半目はふたたび国内に動乱をもたらす可能性があった。

そこで政府は、鹿児島・山口・高知の軍隊を政府に組み入れる代わりに協力を取り付けるこことし、特に鹿児島からは西郷隆盛を政府内に取り込んだ。三藩からの約8000人の兵隊は親兵となった代わりに藩臣でなくなった(明治4年4月)。西郷は、兵隊の給養と引き換えに藩体制の解体に同意させられることとなったのである。また、政府では三藩の協力をえた新体制となっため内閣改造を実施したが、人事は難航し制度改革の方向性も定まらず、むしろ政府は混迷を深めていった。

そんな中、廃藩置県の発端は意外なところから起こった。山口藩出身の中堅官僚だった野村靖と鳥尾小弥太が、山県有朋の屋敷で議論しているうちに「封建を廃し、郡県の治を布かねばならぬ」という話が盛り上がったのである。山県としても廃藩を見据えていたから反論はない。ただ西郷の意向が問題となった。そこで山県が西郷の屋敷を訪れ相談すると、西郷の答えは「それは宜しい」という一言で、あまりにもあっさりしたものだった。西郷は封建制の限界を悟っていたのではないかという。

政府の実力者であり、また鹿児島藩の実質的なリーダーである西郷が即座に同意したことで、ことは急転直下に動き出した。しかしそれは、鹿児島・山口藩の実力者を中心とする「密謀」によって進められた。これは大改革であるにも関わらず、政府内でも秘密裡に計画され、高知と佐賀が薩長両藩を翼賛するものとして参画した程度で、岩倉具視に伝えられたのも直前のことだった。藩主たちは急に呼び出しを受け、事前の通告もなく天皇から「廃藩」を知らされた。明治4年7月14日のことだった。これは維新官僚たちの旧藩主に対するクーデターであった(ただし山口藩だけは事前に知らされていた)。

当然、この密かに実行された大改革は、政府内に議論を巻き起こした。廃藩の翌日、大臣、納言、参議、各省の卿・大輔などが集まった会議で議論が百出したのである。そこへ遅れてきた西郷隆盛は、「しばらく周囲の意見を聞いたのち、「此の上、若し各藩にて異議起り候はば、兵を以って撃潰しますの外ありません」と大声をはりあげた(p.167)」。西郷のこの一声で議論はたちまちやんでしまった。著者は「まさに西郷は、千両役者である」と評しているが、これは逆の評価も可能であろう。西郷は、武力をチラつかせて議論を封殺したとも言えるからだ。しかしそれが廃藩置県の本質であり、西郷はそれをはっきりと述べたに過ぎなかった。

ところが、クーデターの当事者たちにとっても意外なほど、各藩では廃藩への反対が起こらなかった。藩札(藩の借金)を政府が引き受けるなど財政面の手当てがあったのに加えて、時勢のしからしむるところだという諦観があったからだろう。 廃藩に強烈に反対したのは、鹿児島の島津久光くらいのものだった。

廃藩直後には太政官職制が定められ、政府の人事が一新された。廃藩の首謀者、鹿児島・山口・高知・佐賀の出身者が政権の中核に据えられ、逆に三条実美と岩倉具視を除く全ての華族が要職から除かれた。これが、廃藩置県のもう一つの側面だった。宮廷改革である。政府の大義名分を保つために任用されていた無能な華族たちが政府から追放された。また鹿児島藩出身の吉井友実(ともざね)が宮内大丞に任命されて宮廷の人事が一新された。かくして天皇を取り囲んでいた女官は全て罷免され、代わって維新官僚たちが天皇を直接輔弼した。廃藩置県に伴う改革は、天皇を華族や女官から引き離し、維新官僚たちと直結させることとなった。

廃藩は直接には士族の解体を行うものではなかったが、追って華族や士族の特権は剥奪されていった。彼らが恒常的に得ていた家禄は数分の一に削減されて外債や公債証書などに置き換えられた(秩禄処分)。また士族の散髪・脱刀が許可され、華・士族が農工商の仕事につくことも許可された。要するに彼らに一時金を与えて、自分で仕事を見つけろということだった。こうした改革が廃藩後のたった数年で行われた。

廃藩と、その後の士族の解体を促したのはほとんどが財政問題であった。経済的に行き詰っていた藩と、その藩から家禄(給料)を得ていた士族は、新たな財源が見つからない以上、遅かれ早かれ解体する運命にあったのである。明治政府の課題は、これをいかにソフトランディングさせるかにあったといえる。

「藩治職制」「版籍奉還」「藩制」は藩の独立性を奪い、士族と藩主の結びつきを否定し、藩の財政を徐々に国家に組み入れる方策だった。ところが廃藩置県は、その藩を一気になくしてしまうというコロンブスの卵的な荒療治であった。ソフトランディングどころではないのである。この荒療治のキーマンとなったのは、最も廃藩への反対派と思われた西郷隆盛であった。西郷は、廃藩がやむを得ないと悟るやそれをさっさと実行してしまった。制度改革や議論は、その後から付いてきたという感じがする。

しかし本書は、西郷の内面についてはあまり考証していない。著者は維新の功臣たちの中では木戸孝允に共感しているようである。だが木戸が廃藩にどのような役割を果たしたのかは十分には書かれていないように思う。彼は廃藩がすぐには可能ではないと判断し、積極的には動かなかった。彼は事態が動き出してから、関係者の調整にあたったのみのように見える。木戸の働きについてはもう少し詳しく知りたかったところである。

本書は廃藩置県に向かっていく維新官僚の動き、また彼らを巡る情勢についても詳しく、わかりやすい。廃藩置県を学ぶ基本図書。


2020年9月4日金曜日

『太陽と月—古代人の宇宙観と死生観(日本民族文化体系 2)』谷川 健一 編

天体と世界観の民俗学。

本書は太陽と月を中心として、現代に残った民俗や史料、神話・伝説から古代人の宇宙観や死生観を考察する論文集である。収録されているのは、次の諸編。

序章 古代人の宇宙創造:谷川健一
第1章 太陽と火:大林太良
第2章 月と水:松前 健
第3章 星と風:窪 徳忠・谷川健一
第4章 古代人のカミ観念:谷川健一
第5章 葬りの源流:土井卓治
第6章 他界観—東方浄土から西方浄土へ:田中久夫
第7章 日本人の再生観—稲作農耕民と畑作農耕民の再生原理:坪井洋文

狩猟採集社会における原始的な信仰では、アニミズム(全てのものに精霊や神が宿るとする考え)やトーテミズム(動物を神と考え、特定の動物を人間の祖先と見なして崇拝する)が中心だ。太陽や月の信仰は、農耕を大規模に行うより進んだ社会に生まれるものである(レオ・フロベニウスの説)。また太陽信仰は王権と結びつく。天体の信仰は農耕と王権によって生まれるもののようだ。

しかるに日本の場合どうだったか。例えば、日本神話の太陽神であるアマテラスは、天皇の祖先神と位置づけられて崇敬された。国産みのイザナミ・イザナギ(おそらくこちらの方が古い神なのだろう)ではなく、また天孫降臨のニニギでもなく、アマテラスが最重要の祖先神であったことに、太陽信仰の影響が窺えるのである。

とはいえ、民衆の間にも太陽信仰は自然発生的に生まれており、本書はそういう事例について散発的に紹介している(特に沖縄の例が多い)。またそれに火の信仰が関連づけられ、「消えずの火」が各地にあったことや、潔斎を行う場合に特別な火を使うことなどから、火の持つ意味が推測されている。

月については、月と不死の結びつきがやや詳しく紹介される。月の満ち欠けが再生を思わせるからであろう。特に若水(一年の最初に汲む水)を浴びる風習と月の関係について考察している。しかし月については、月待ちの習俗などは扱われず、やや簡素に感じた。

星について扱った「星と風」は、ほとんどが中国思想の紹介である。日本の星信仰はほとんどすべて中国にその源流が求められるということだ。中でも「緯書」(陰陽・五行説などを使い、経書の文書を解釈して予言するもの)の説明が面白かった。「緯書」の予言は占星術が使われていたため、それが日本に伝来して星の信仰を形作っていったという。星の信仰とは関わりは薄いものの、庚申講についても述べられている。中国における元々の守庚申では一人静かに徹夜するものだったが、仏教的守庚申では賑やかに過ごすものになった。これが伝わった日本でも平安時代の庚申講は賑やかに過ごすもので、15世紀あたりから(再度)仏教と結びついて、精進潔斎をするようになっていくというのは逆の現象で興味深い。なお、彗星は日本では中国以上に嫌われて、全ての不祥事の原因が彗星に帰せられたという。簡単にしか書いていないが、面白い現象である。

この他の諸編は、カミの観念、死生観、墓の造営に対する観念、他界観などの観念的なものを扱う。これらは、事例紹介というよりもこれまでの民俗学研究史の整理という側面が強い。 全体として興味深い話がちりばめられてはいるが、体系的な考察ではないのでやや散漫である。その中で面白かったのが、阿弥陀信仰が、「死の国」のイメージを変えたという説。「死の国」は、それまでは汚穢(おえ)に満ちた恐るべき場所と思われていたが、阿弥陀信仰によってそれが明るい世界へと変化したという。

最後の「日本人の再生観」は、ハレとケを巡る民俗学であり、前半は柳田国男と折口信夫の説(ハレ・ケの考察)を批判検証していく内容である。 中心的な論点は、ハレと米の関係である。後半は、稲作儀礼や穀霊信仰について考察されているが、そこで面白い指摘がある。近代以前の田んぼには金肥(厩肥や油粕などの高窒素肥料)は入れず、刈敷(かりしき)と呼ばれる肥料を入れていた。これは、山から刈ってきた草や、小枝といったものである。刈敷は大量に投入したため、山から取ってきて田んぼに入れるのは、田植えと並ぶ重労働だったという。著者は「日本の刈敷の研究は稲作技術のひとつとしてしまうには、あまりに大きな問題を含んでいることを指摘しておきたい」と述べている。

著者の考えは、刈敷の投入目的は大地の再生であり、山の神が春になって田の神として下りてくる信仰とも深い関係があるが、それが後に肥効を期待する技術の次元へと変化したのではないかというものだ。しかし著者は「刈敷には肥効がほとんどない」と考えているようだが、これは現代の農学では「高炭素資材の多投入」という技術であり(炭素循環農法とも言う)、ちゃんとやれば肥効は期待できる。むしろ確立した技術がいつしか形骸化されて、信仰によって支えられるようになったと考える方が合理的である。この部分は、本書全体の論旨からは蛇足的な部分であるが面白かった。

論文集としての視座は首尾一貫していないが、いろいろと面白い話が出てくる本。

【関連書籍の読書メモ】
『神と仏—民俗宗教の諸相—(日本民俗文化体系4)』宮田 登 編 https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/09/4.html
神と仏をめぐる民俗文化の考察。神と仏をより広い視野から捉えた名著。

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2020年9月2日水曜日

『葬式仏教の誕生—中世の仏教革命』松尾 剛次 著

仏教が葬式を担うようになった変化を描く。

日本に伝来した当初の仏教は、葬式には関与していなかった。仏教の活動の中心が葬儀を執り行うこととなったのは、中世からである。本書は、その変化がどのようにして起こったかを述べるものである。

古代の僧侶たちが葬式に関与しなかったのは、死穢を避けたからであった。僧侶は律令国家により規制を受けていた(僧尼令)。彼らは官僧であって、国家の法要に従事する必要があった。ところが人の死(や死体)に遭遇すると死穢に冒されると考えられ、30日間も謹慎しなくてはならなかったのである。こうなると官僧としての職務を果たすことができない。よって僧侶たちは死を避けていた。教団の中で死亡したものも十分に弔われることもなく、遺棄に近い形で葬られた。

もちろん、死に瀕した人々は、看取られることもなく、自分の遺体がぞんざいに扱われることを快く思ってはいなかっただろう。しかし当時の日本では風葬や遺棄葬は一般的なものだったし、古代の日本のあの世観では、誰でも死ぬと別の世界にゆくというくらいの観念しかなく、いわゆる「後生を願う」というようなこともなかったので、死に際して殊更の宗教的儀式を必要としていなかったようだ。

ところが、古代末期(平安時代)からそうした日本人のあの世観に変化が起こってくる。末法思想と、それに伴う弥勒信仰・阿弥陀信仰によってである。弥勒信仰では、この世で仏法に逢えないのなら、遙かな未来に現れる弥勒仏に教え導いて欲しいという、遙かな未来への期待が醸成された。56億7千万年後の弥勒下生(げしょう)=現世への降臨に立ち会えるよう生まれ変わりたい(弥勒下生信仰)、あるいは直ちに弥勒の兜率天へ生まれたい(弥勒上生信仰)と願ったのである。 阿弥陀信仰では、末法の世でも人々を救ってくれる阿弥陀仏にすがるため、念仏や往生法といった具体的な方法が種々考案され、それを実践するものが多くなった。

そんな中、源信は「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」という念仏結社を作った。これは看取り・葬送を互助するという、いわば葬送共同体であった。この頃の阿弥陀信仰では、往生するためには念仏の他いくつかのプロセスを死の間際に必要とした。よって、それを互いに提供しようというのである。この結社が仏式の葬送を生む上で画期的な意義を有した。二十五三昧会を走りとして鎌倉時代には様々な葬送共同体が結ばれるようになり、僧侶が葬儀に関与する仕組みができていった。

しかしやはり官僧は死穢を職務上避けなくてはならなかったので、葬儀に携わったのは「遁世僧」と呼ばれた僧侶たちだ。遁世僧とは、要するに官僧であることを辞めて、既存の教団から飛び出した僧侶のことである。彼らが鎌倉新仏教を担う旗手たちになった。また著者は、律宗の叡尊や華厳宗の明恵といった旧仏教の改革派も遁世僧であることに注目し、「鎌倉新仏教」よりも「遁世僧教団」が社会的に大きな影響を与えたとしている。

遁世僧たちは徐々に仏式の葬式の手続き(法事)を整備し、また墓所の造営法などを考案していった。そうしたことで14世紀初めを画期として、天皇の葬送も遁世僧が担うようになっていくのである。

著者の松尾剛次(けんじ)は律宗の研究者であるため、こうした動きに果たした律僧の役割については詳しい。律僧とは、叡尊を中心として戒律護持を勤めた教団で、13〜14世紀には10万を超える信者を有する教団であった。特に文永元年(1264)から始まった「光明真言会」は信者の獲得に役立ち、またこの法会で加持した土砂を死者や墓に撒けば後世で菩提が得られるということで葬送活動においても重要だった。

律僧たちは、墓塔として2メートルを超える大型の五輪塔を全国に建てており、五輪塔の普及に大きく貢献した。これは、花崗岩や安山岩など硬い石で出来ていて、遙かな未来の弥勒下生までちゃんと残るように丈夫に作られた。また五輪塔が巨大だったのは、個人の墓塔というよりは共同墓であったためだ。一結衆とか六道講衆、光明真言宗一結衆といった、葬送共同体・宗教互助組合のようなものの惣墓・共同墓として巨大五輪塔は造営されたのである。

また叡尊教団は、戒律を厳しく護持することで、死穢を避けられるという論理を生みだし、死穢を気にせず葬送活動に従事することを可能にした。

ちなみに、念仏僧たちは「念仏を唱えて死んだ人は往生できる。往生人に死穢はない」と考え、やはり死穢を気にせず葬送活動を行った。

なお禅僧たちも死穢を気にせず葬送に携わっていたが、どうして気にしなくてよかったのか理屈はよくわからないそうだ。禅宗については、中国における葬儀システムを日本に導入したことで、葬送儀礼の確立に重要な役割を果たした。『禅苑清規(ぜんえんしんぎ)』という禅宗教団の生活規範のテキストに、教団の人間が死んだ際の手続きが記されており、例えばこれにより死後戒名をつけるシステムが始まった。

このようにして生まれた仏教による葬儀は、江戸時代には寺請制度と一体となって完全に普及したのである。

本書の前半部は、勝田 至『死者たちの中世』の議論がベースとなっており、同書ではあまり触れていなかった死生観の変化を付け加えたものだと言える。また、後半部の律宗の巨大五輪塔については、著者の『中世叡尊教団の全国的展開』などの研究書の成果をコンパクトにまとめたもののようだ。

葬式仏教の成立についての社会状況、死生観、各教団の動きなどが簡潔にまとまっておりわかりやすく、律宗についての情報に価値がある。しかし念仏僧の活動については若干物足りなく思った。特に葬送に大きく携わったらしい時衆についてほとんど触れられていないのは残念だった

葬式仏教の成立を広い視野でコンパクトにまとめた良書。

【関連書籍の読書メモ】
『死者たちの中世』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。
思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。