2019年7月17日水曜日

『女と刀』中村きい子 著

自我を持った女の、反抗の物語。

権領司キヲは、薩摩藩の外城士の娘として生まれた。外城士とは、武士ではあるが城下士よりも一段下の存在で、キヲはその中では割合によい身分だった。

キヲの父は西南戦争で賊軍として負けたことを終生悔しがり、その恨みのエネルギーはキヲ達への教育へと向けられた。キヲは男同様の教育を施され、おのれの意向を全うさせるという強烈な原則を魂に刻み込まれた。女は男の従属物として考えられていた時代に、キヲは独立自尊の精神と強靱な自我を育んでいた。

ところが、まさにそのような教育を施した父親によって、キヲの精神は打ち砕かれる。キヲに望まない結婚を強いたのである。有無をも言わさぬ決定だった。いくら「おのれの意向を持て」などと言っていても、結局女は家長の命令に従うもの、というのが父親の本音だったのである。

しかし程なくしてキヲは出戻りとなった。嫁ぎ先の姑との折り合いが悪く、キヲは姑から「夜叉」と呼ばれた。父は、それを権領司家への侮辱ととった。そのような侮辱を受けた以上、キヲは取り戻されなければならなかった。ここでもキヲの意向は無視された。ただ家の名誉が傷つけられた、という事情のためにキヲは離縁しなければならなかったのである。

しばらくしてキヲは再婚するが、それも望まない結婚だった。ここでも優先されたのは家の事情である。そして求められて結婚したにもかかわらず、夫の兵衛門はキヲを愛することはなかった。兵衛門は、「出戻り」という「キズ」があれば自分よりも身分が上の女性と結婚できる、という打算によってキヲを求めたに過ぎなかった。愛のない結婚生活は、キヲの自我をさらに先鋭化させていった。

キヲは、自らの意向が蹂躙され、家の従属物として扱われるに過ぎないとしても、そこに情を通わせ、求め合う関係があるならばそこに没入してもよいと思っていた。だが実際には、兵衛門はキヲを無視するどころか愛人さえ作り、そのくせ家では横座(家長としての地位)にあぐらをかき、横柄に振る舞うことで自らの権威を演出するだけが取り柄の男であった。キヲはこのようなつまらない男に従って生きる、などということは我慢がならなかった。やがてキヲは自らの畑仕事と行商によって、兵衛門の収入をアテにせず生活できるようになった。そしてままならぬ中でも自らの意向を貫き通すという戦いをしていくのである。

しかしその一方で、愛のない結婚生活の中でも夜の営みは続けられた。そして虚しい気持ちの中で、キヲは8人の子どもをもうけるのである。女とは、家を維持していくための道具にすぎなかった。女は男にいいように使われ、子を産み育てるだけに価値が置かれていた。女は、「自分」を持つことが許されなかった。女は、「妻」であるか「母」であるか、どちらかでしかなかった。

だが男が自由きままに振る舞っていたのかというと、そうでもなかった。ことあるごとに血族会議が開かれ、「世間がどういうか」「家のメンツを潰す気か」「家の名誉に関わる」などといって、男たちはキヲの意向を踏みにじったが、そこでは常に「家」の世間体が最優先され、誰も自分の考えを持つものはいなかった。女は確かに男に従属していたが、男も「世間」に従属させられており、それに疑問を持つものはいなかった。「自分」よりも「世間」の方が行動を規定していた。

そんな中で、キヲは自我を持つほとんど唯一の人間だった。キヲは近代的な精神に目覚めていた。だからキヲが(現代の人間からみて)当たり前のことをしても、それは家からも社会からも異常な行動として映った。「自分」を独立した価値あるものと見なす考えは、それだけで狂気じみていた。

キヲの戦いは、同じように抑圧されていた女性たちからも理解されなかった。おのれの意向を貫こうと正面衝突を繰り返すキヲを、女性たちは冷ややかに見ていた。表面上は男を立てながら、小ずるく立ち回ってうまく家庭を回すのが賢いやり方で、キヲのようなやり方では事を荒立てるばかりで結局自分のやりたいようには出来なくなるというのだ。 しかしそれは、キヲの戦いを全く理解していないものの見方だった。キヲは目先の決定権を手に入れたいのではなかった。自分を一人の人間として尊重して欲しい、という根源的な要求を主張していたのだ。

それを象徴するのが、強いて父から譲り受けた短刀だ。女が刀を持つ、ということは普通にはありえないことだ。しかしキヲは刀を持ちたがった。それが自らの意向を貫き通すための唯一の力、命のやりとりによって自らの存在を打ち立てるための力の象徴であった。「自分」を承認させることがキヲの戦いだった。

しかしその考えを、男も女も、誰も理解できなかったのだから、キヲの戦いは常に独り相撲に終わっていた。キヲはむしろ正面衝突を望んでいたが、衝突すべきものは空疎だった。「世間」のことばかり気にする小心翼々とした人間達を、キヲは冷笑した。そのような人間の相手をすることが、次第にバカバカしくなってきた。やがてキヲは、兵衛門との愛のない結婚生活、「世間」にしか向かない血族、「自分」のない人生に見切りをつけた。

そして齢七十にして、兵衛門に離婚を突きつけたのである。そのような老婆が、離婚を突きつけるなどということは前代未聞だった。「世間」も「血族」も、非難囂々だった。だがキヲは、それまでの無意味な人生に決別し、これから「自分」を大切にする人生を踏み出したのである。それがキヲが全人生をかけて到達した答えだった。

本書に描かれた権領司キヲは、社会や男に翻弄されるだけの女とはほど遠い。それらに常に戦いを挑み、挫かれても挫かれてもそのたびごとに「自分」を強くしていく反抗する人間である。 しかし同時に、キヲは外城士の娘として、「ザイ」(百姓)に強い差別意識を持っていた。彼女は自分を、誇り高い士族の娘であると考えていた。自らを蹂躙した「血」の論理を、彼女自身乗り越えていなかったのだ。彼女の桎梏となったのも「家」という「血」であったし、彼女がザイを差別したのも「血」であった。

キヲには、もっと徹底的に世間に反抗した叔母がいた。叔母は、「ザイ」の男と恋に落ち、身分も外聞も捨てて愛に生きた。世間からは村八分になっていたが、彼女は幸せだった。「血」の論理を、乗り越えていたからだ。キヲの悲劇は、自らを苦しめた「血」の論理を、自分自身、捨てきれなかったことだった。

著者中村きい子は、自らの母をモデルにこの小説を作ったという。この時代に比べると、今は女性の地位が随分向上した。結婚を無理強いされることは少ないし、あからさまに女を男の奴隷のように扱う態度は問題視される。しかし根本のところでは、本書に描かれる「世間」「家」「女性」の関係が、今とさほど変わっていないことに愕然とせざるを得ない。未だに日本では「世間」が幅をきかし、「家」を維持するために「女性」が道具として利用されている。キヲが苦しんだ構図で、今の日本の女性も苦しんでいないか。

キヲの戦いは、女性差別が激しかった戦前の思い出話ではないのである。女とか男とか、そういうことではない。それは、「世間」よりも「自分」を価値の根本に置くこと、誰であれ一人の人間を意志ある存在として尊重すること、それを社会に対して認めさせるために、未だに続けられなければならない戦いなのだと私は思う。

女性問題を越えて現代でも読み続けられるべき名著。

2019年7月11日木曜日

『日向国山東河南の攻防—室町時代の伊東氏と島津氏』新名 一仁 著

鎌倉から室町までの日向国山東河南の歴史について、島津氏と伊東氏の関係を軸に語る本。

日向国の「山東河南」とは、宮崎県平野部の大淀川南岸を指す。ここは島津氏、伊東氏の領国の境界に位置していたため、その勢力が激突する場所であった。

鎌倉時代の山東
鎌倉時代の初め、宮崎県の荘園は、島津荘(約45%)・宇佐八幡宮領(25%)・王領(皇室領)国富荘(約20%)の3つで9割を占めていた。

ところが建仁3年(1203年)「比企能員(ひき・よしかず)の乱」が起こると島津氏は縁座(親類として巻き添えになって罰せられること)により薩隅日三カ国の守護職および島津荘惣地頭職を解任させられた。島津氏は後日薩摩の守護職には復帰するものの、日向からは手を引くことになり、広大な島津荘は北条氏が管理するようになった。

宇佐八幡宮領については、実際には様々に分割され、宇佐八幡宮の支配を離れて各荘ごとに領主が存在する状態となっていた。元寇より後、ここに伊東氏の一門、庶子家が下向してくる。伊東氏は静岡の伊東を本拠地とする鎌倉御家人であったが、幕府の依頼を受けて庶子家を下向させたのである。それが、田島伊東氏(田島荘)、門川伊東氏(富田荘)、木脇伊東氏(諸県荘)の3家であった。

国富(くどみ)荘については、鎌倉時代を通じて王領として維持され、鎌倉時代の最後には地頭として北条泰家が支配していた。

戦乱の始まり
鎌倉時代末はこうした状況にあったが、鎌倉幕府が滅亡して建武の新政が敷かれると、こうした土地は後醍醐天皇によって没収され、功績があった家臣達に分配されることとなった。国富荘・島津荘日向方を与えられたのが足利尊氏である。

ところが建武の新政は2年ほどで瓦解、足利尊氏は後醍醐天皇により追討令が出される。こうして国富荘・島津荘はある意味「無主」の状態となって奪い合われるのである。

この混乱に乗じて山東に進出してきたのが、都城盆地の三俣院を本拠地とする肝付兼重(きもつき・かねしげ)と、木脇伊東氏の伊東祐広(すけひろ)であり、これに対立したのが尊氏方を貫いた在地勢力の土持宣栄(のぶひで)である。 一方尊氏は、薩摩・大隅の両国には守護・島津貞久を下向させ、日向国には畠山直顕(ただあき)を「大将」として派遣し、肝付兼重・伊東祐広の討伐を命じた(建武3年(1336年))。

日向に下向した畠山直顕は、穆佐(むかさ)院・国富荘を本拠地として日向国を平定し、追って畠山直顕は日向国守護職に昇格したが、観応元年(1350年)「観応の擾乱」が起こる。「観応の擾乱」では畠山直顕は足利直冬方となって(結果的に)尊氏方・南朝方と対立。そしてこの混乱期に、直冬方として伊東本宗家は日向に下向してくるのである。

伊東本宗家の山東進出
しかし伊東本宗家当主・伊東氏祐は、すんなりとは山東に入っていくことができなかった。畠山直顕の軍門に降ってからも支配権を保持していた伊東祐広の子・守永祐氏が阻んだのだ。そこで伊東氏祐は、守永祐氏の娘を妻とすることで和睦し、その権益を継承する形で都於郡(とのこおり)に入部した。

一方、鎌倉幕府滅亡に際し、後醍醐天皇の下で一時は大隅・日向国の守護職も回復した島津貞久だったが、尊氏配下になるのが遅れたためか日向国守護職は大友氏に奪われる。ところが征西将軍宮懐良(かねよし)親王が下向し九州での勢力が大きくなると、大友氏や島津氏を初めとした多くの武家方国人は宮方に寝返った。そして貞久の三男氏久は畠山直顕を撃破して日向国進出を確固たるものにしていった。

そんな中、武家方の挽回のために九州に派遣されたのが今川了俊である。今川了俊は九州を制圧する勢いだったものの、島津氏と友好関係にあった前筑前国守護の少弐冬資(しょうに・ふゆすけ)を謀殺したため島津氏とは対立。今川了俊は伊東氏、土持氏などを反島津でまとめて国人一揆を主導したがさしたる成果もなく瓦解。やがて今川了俊は京都へ召還された(応永2年(1395年))。

そういうゴタゴタの間に、伊東本宗家の伊東祐安(すけやす)(氏祐の子) は国富荘を実効支配していった。これは違法な占拠だったが、今川了俊は島津氏との対抗上これを黙認。一方で国富荘は幕府にとって重要な経済基盤だったため、幕府は島津氏に国富荘を奪還するよう命じた。こうして国富荘を巡って、島津氏と伊東氏が対立するようになった。

島津家の山東進出
今川了俊の召還後、島津氏は山東に侵攻し加江田城を攻略(応永6年(1399年)頃)。国富荘全域を手に入れることはできなかったが、山東河南の一部を実効支配することとなった。さらに、本来は国富荘を奪還するよう幕府から命じられたことが大義名分だったにもかかわらず、島津氏は強引なロジックによって実効支配を幕府に追認させ、島津元久(氏久の子)は大隅・日向国守護職に命じられ、島津家は薩隅日の三カ国の守護職を手に入れた。

山東が係争の地となったのは、山北にいた島津氏の庶子家(北郷家や樺山家)からの要請もあったが、それよりも大きかったのは山東河南、つまり大淀川周辺が海運の要衝だったからである。内陸の大荘園である島津荘は、収穫物や貢納の運搬のために港を必要とした。であるから、山東の海岸までの領有権を確立することが重要だったのである。

山東河南への進出を果たした島津元久は、その支配のために異母弟の島津久豊を派遣した。そこで思わぬことが起こる。久豊は元久に無断で、伊東祐安の娘を妻に迎えて勝手に伊東氏と和睦してしまったのである(応永8年(1401年))。元久はこれに激怒。また伊東庶子家や山東の在地勢力も本宗家の単独講和を認めなかった。そのため元久と山東国人が結託し、島津久豊・伊東祐安連合との間で紛争が勃発する。この紛争は戦闘にまでは到らず、結局久豊と祐安の娘の間に生まれた虎寿丸を元久の人質にすることで和睦が成立した。

島津家の内訌と伊東祐立の侵攻
島津元久が没すると、島津本宗家の家督は元久の妹と伊集院頼久の間にうまれた犬千代丸に移ることになっていたが、これを阻止する形で久豊がクーデターを起こし家督を奪取した(応永18年(1411年))。伊集院家と島津家旧主流派(総州家)はこれに反発し、久豊方との抗争に突入する。その空隙を塗って、久豊の義兄弟にあたる伊東祐立(すけはる)(祐安の子)は山東河南に進出。北郷氏・樺山氏・佐多氏などを中心とする島津勢は「曽井・源籐合戦」で大敗、さらに久豊の居城だった穆佐城も焼き払われた。こうして伊東祐立は念願だった山東河南の制圧に成功した。

その背景には、かつて伊東本宗家よりも強い立場だった庶子家(田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏)を婚姻政策によって内部に取り込み、伊東家一門の結束を固めつつ本宗家の求心力を高めた地道な「血の結びつき」の構築があった。

さて、当然島津久豊としては奪われた山東河南の奪還を図る。伊東氏は講和を申し込んだが久豊はこれを拒否し侵攻。加江田城を陥落させ同城に居住した。1425年(応永32年)、久豊は病没し、山東制圧の宿願は穆佐城生まれの嫡男忠国に引き継がれた。また庄内国人(北郷氏や樺山氏)にとっても庄内の外港であった山東河南の奪回は宿願だったから、大規模な山東侵攻が行われるが島津勢は大敗を喫する。

しかもその隙を縫って、薩摩国では「国一揆」とよばれる反島津の反乱が起きた(永享4年(1432年))。中心人物は伊集院煕久や渋谷一族である。しかし忠国は山東侵攻を中止せず、伊東・土持連合軍と合戦。決着はつかなかったが伊東氏が領地を割譲することで和睦し、忠国は飯野や穆佐を回復したものの、「国一揆」への対応のまずさのためか失脚し、事実上のクーデターによって庄内末吉に隠居させられ、一躍リーダーとして擁立されたのが弟の持久(もちひさ)だった。こうして島津家は忠国派と持久派の泥沼の抗争に巻き込まれていく。

伊東氏中興の祖、伊東祐堯
そんな中で伊東本宗家の家督を相続した伊東祐堯(すけたか)は、島津氏が内訌で弱体化している間に国人支配(一揆の結成)と一族の結束を高め、山東全域の制圧に乗り出す。次々に山東を制圧すると、島津氏の拠点・加江田城、穆佐城も攻略し、遂に山東全土を統一した。後に「伊東四十八城」と呼ばれる広大な領域が伊東氏の支配下となっていったのである。

同じ時期、島津忠国・持久はようやく和睦し、また追って伊東氏とも和睦した。これにより島津氏は一時的に山東奪回を諦めることになる。 忠国の嫡男立久が忠国を加世田に追放する形で家督を相続すると、政治的には融和路線となり情勢は安定。さらに伊東祐堯とも改めて和睦し、立久は祐堯の娘を妻に迎えて血縁の上でも関係強化を図った。そして伊東氏の山東支配を認める代わりに、島津氏は庄内支配を強化していった。

島津氏が体制を立て直し、伊東氏とまた対決するようになるのは、16世紀に島津忠良・貴久親子が守護家を継承してからのことである。

さて、鎌倉時代から室町時代までの山東の歴史を見て感じることは、最終的に山東統一を成し遂げる伊東本宗家は決して最初から支配的な勢力ではなかったということだ。むしろ先行的に下向していた庶子家や土持氏のような在地勢力の方がずっと強かった。本宗家であるという権威も、ほとんどなかったように思われる。そんな伊東本宗家が結果的に山東の覇者になったのは、伊東祐安とその孫の祐堯の周到な婚姻政策が大きく影響していたのかもしれない。この頃、島津氏と伊東氏は対立しながらも関係を強化しており、久豊とその孫の立久は伊東氏から妻を迎えている。その微妙な距離感は興味がそそられるところである。

ところで正直に言うと、本書はほぼ2回読んだがなかなか歴史が頭に入ってこなかった。記述はわかりやすく簡にして要を得ているが、逆に言うとちょっと「分かっている人向け」の面もある。よりかみ砕いて説明し、人物像のイメージが湧くようなエピソードも添えてもらえると詳しくない人にも楽しめると思う。

やや専門的だが、マイナーな山東の戦乱の歴史がよくまとまった本。


2019年7月6日土曜日

『薩摩の女―兵児大将の祖母の記』大迫 亘 著

理想化された「薩摩の女」を描く小説。

著者の大迫亘は、加世田の没落士族・大迫家の次男として生まれた。父は医者だったが、母との結婚が認められなかったことや加世田の封建的な風土がイヤになり出奔。そのせいで母は気鬱症になり、亘は祖母に育てられた。亘の祖母・琴は一家の収入がほとんど絶たれた自給自足的な暮らしを農作業で支え、亘に対しては厳しい教育を行いながらも無限の愛情を注いだ。

こうして、亘は祖母を世界で一番尊敬するようになる。本書は、亘が(おそらくは多分に理想化された)祖母の思い出を小説化したものだ。前半は、祖母の少女時代から始まっているため、想像による部分も大きいと思われる。しかしそれは、亘にとっての理想の薩摩の女がどのようなものであるかを物語ってもいる。

本書に描かれる祖母・琴の人物像は次のようなものだ。
  • 西郷隆盛を崇拝し、その次に桐野利秋を敬慕している(祖母は桐野利秋と幼少期に繋がりがあった)。
  • 西郷や桐野の考えに影響され、農は国の根本との信念を持ち、自ら農作業に勤しみ、生産活動を第一に考える。
  • 強烈な負けじ魂を持ち、身分の高低にはこだわるものの、正しいと思うことを主張するのには一切の妥協がない。
  • 貧乏であっても自主独立の精神を持っているが、かなり頑固なところもある。
  • 一切の化粧をせず、着飾らず、美醜を超越している。

では、これらが当時の「薩摩の女」として理想的だったかというと、本書では結婚するまでの琴はかなり頑固者の変わり者として描かれているから、理想的だったとは言えない。やはり「従順な、可愛らしい娘さん」が薩摩でも理想の女だったのかもしれない。しかし結婚しやがて孫を持つようになると、近所でもひとかどの人物だと扱われているように見えるから、 周りの人からも立派だと思われていた模様である。

私が本書を読んだのは、男尊女卑が激しい薩摩の地で、理想的な「薩摩の女」の振る舞いがどのようなものであったかに興味があったからである。ところが本書に描かれる琴の行動は、男性と全く対等なのだ。失礼な言動を行った親戚の男性に、絶縁をちらつかせながら抗議する場面があるが、相手の男性も「女のくせに」みたいなことは言っていない。琴のセリフもいわゆる「女言葉(〜だわ)」はなく、男性と全く同じ言葉遣いで書かれている。琴の行動は男性以上に力強く、それが周囲にも受け入れられている。

かといって、当時の社会が男女平等だったかというとそうでもなさそうだ。「女は立派な人間を産み育てることが一番の幸せだ」といったセリフが出てくるし、結婚は親が決めた人だし、今からみれば女性がものの様に扱われている場面もある。

しかし全体を通してみれば、理想化された「薩摩の女」は、従順であるよりもむしろ独立自尊であり、守られたり愛玩されたりするのではなく、生産の現場で男性と対等に働く存在なのである。少なくとも著者、大迫亘にとっては、それが理想の女だったようである。

ちなみに本書はスピード感があって面白く、すらすらと読める。事実に即したものであるだけに奇想天外な大事件といったようなものはないが、意外と引き込まれる筆致だ。琴の人物像にもとても好感を持ったし、その生き方には心打たれた。

ただし本書は純粋な小説というよりも「思い出の記」であって、著者の前著『薩摩の兵児大将』を補完する形で書かれているため、独立した小説としてはやや舌足らずなところもある。前著とあわせて読むことをお薦めする。

薩摩における理想の女の力強さに心打たれる本。

【関連書籍】
『薩摩の兵児大将―ボッケモン先生青春放浪記』大迫 亘 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/08/blog-post_26.html
明治末期から昭和初期を舞台にした自伝的小説。

2019年7月2日火曜日

『中世島津氏研究の最前線』新名 一仁 編

中世島津氏研究に関する書き下ろし論文集。

本書は12本の書き下ろし論文によって構成されており、中世の島津氏について多角的に検討していくものである。

「第一部 島津氏の系譜と分国内の諸勢力」では、島津氏の発祥から織豊政権期までの政治的な動きが述べられる。島津氏は南九州において必ずしも軍事的には圧倒的ではなかったが、薩隅日の守護職をほぼ世襲化して「三州太守」は島津氏のアイデンティティとなり、同地を長く治めることとなった。これは、武力によるのと同じくらい、島津氏が政治的にうまく立ち回ったということに起因するのである。第一部では、島津氏を動かした政治力学についてトピック的に分析している。

「第二部 島津氏の外交政策」では、室町幕府や明との関係、琉球との交易について述べられる。島津氏はこうした外部との関係を自らの正統性を確立するためにも利用した。島津氏は近衛家を権威付けに使ったし、明に対しては独自に朝貢関係を持とうとした(成功はしなかったが草の根レベルで交易は行われた)。琉球に対しては、はじめ臣下として近づいたが両国内が安定すると強硬的な態度で臨むようになり、これは琉球出兵へと繋がっていく。

「第三部 島津氏権力の領国支配の特質」では、海上交通、宗教政策、城郭構造について述べられる。ここに紹介される浦役人の経歴は非常に動的であって、中世の港湾管理のイメージを一変させるものである。港湾管理の具体的な部分については立ち入った記述はないが、興味を抱いた。また、宗教政策については、島津氏と修験道との繋がりが要領よくまとめられており参考になる。

「第四部 近世大名島津氏への移行期」では、島津氏とって画期となった豊臣政権下での動向と、近世家譜編纂前の島津氏の歴史編纂が述べられる。島津氏には半独立の一族や家臣が多く存在し、それらを掌握しきれなかったのが課題であったが、それを島津氏一極集中の権力構造に収斂させたのは皮肉なことに島津氏にとっての危機でもあった豊臣政権であった。朝鮮出兵や太閤検地は島津氏の力を殺ぐことになった一方で、島津氏が豊臣秀吉から南九州の支配者として認められたことは、結果的に家臣団をまとめることに繋がったのである。

また本書中、簡単にしか書いていないが気になったことに次のようなことがある。
  • 島津忠良・貴久親子(相州家)が奥州家からクーデターによって簒奪した経緯のうち、「島津貴久は、奥州家菩提寺である福昌寺の所領を安堵し、同寺から”三州太守“と認定されている(p.45)」と述べられているが、これは福昌寺がクーデタを成功させる装置として機能したということなのだろうか。
  • 「珠全から珠玄・珠長と続く高城氏の家系は(中略)連歌に携わり、戦国期島津氏領国における文芸の展開に重要な役割を果たした(p.96)」という珠全法師とは何者か。また南九州において連歌、俳諧はどのように展開したか。
  • 島津氏久は派遣した遣明船に、志布志大慈寺から高僧十人を乗船させ、中国版大蔵経を2部獲得させた(p.104)のだが、なぜ大蔵経を手に入れようとしたのか。
  • 南九州には倭寇による被虜人(捉えられて連れてこられた人)がかなりいたようだが(p.107)、なぜ倭寇はわざわざ捕虜を捕まえて来たのか。こうした人はどのような待遇で過ごしていたのか。
  • 島津忠国が琉球を加封されたという「嘉吉附庸」説は史実ではない(p.120)とあったが、なぜこのような言説が生まれたのか。
  • 豊臣政権期、島津氏に畿内の情報をもたらしていたのが京都の「道正庵」であるということだが(p.209)、「道正庵」とは一体どのような存在なのだろうか。
その構成上、体系的に中世島津氏のことを理解できるわけではないが、様々な角度から島津氏の実態に切り込んでおり、関心の端緒がいろいろと出てくる楽しい本。