2024年3月19日火曜日

『日本霊異記』原田 敏明・高橋 貢 訳

日本最古の仏教説話集。

『日本霊異記』は、正式な書名を「日本国現報善悪霊異記」といい、平安時代の初期に薬師寺の景戒(きょうかい)という僧によってまとめられた。その書名のとおり、テーマとなっているのは因果応報だ。善い行動にはよい報いが、悪い行動には悪い報いが現れた…という不思議な話が簡潔でテンポの良い文体で次々と述べられる。

原本は上中下の三巻に分かれ、説話がほぼ時代ごとに配列されており、 上巻は奈良時代以前から聖武天皇の時代、中巻は聖武天皇から淳仁天皇の時代、下巻が称徳天皇から嵯峨天皇の時代までである。

景戒がどのような人物だったのかわからないが、正式な僧であったことを考えると、本書に著された仏教思想は、この時代の公式的な仏教理解とさほど離れてはいなかったと思われる。本書は、当時の人が理解していた仏教の具体的姿を髣髴させるものとして大変興味深い。

まず、本書では「因果の道理」があたかも自然法則であるかのように記述されている。何か善いことや悪いことを行うと、それが結果に直結する。ほとんどの説話では、まるでリンゴが重力に引かれて落下するような説明で、善悪の報いが完成する。これがユダヤ教やキリスト教であったら、善悪の行動→それを神が認知→神が何らかの働きかけをして結果に繋がる、というような話の構造になると思われる。一方、「因果の道理」はなんの超越的存在も必要とせずに実現するのである。

ただし例外もあり、上巻5話では「善神の加護だと言ってよい(善神加護也)」、中巻1話では「仏法守護の神はこれを喜ばず、その怒りにふれた(護法嚬嘁。善神惡嫌)」、中巻36話では「仏法守護の神が罰を与えたのである(護法加罰)」、下巻19話では「仏法の守護神が空から降りて(神人自空降)」、下巻29話では「仏法の守護神がいないことはないことが本当に分かった(諒知、護法非無)」、下巻33話では「仏法守護の神が罰を与えたことを少しも疑ってはならない(更不可疑、護法加罰)」、とされている。こうして書き出してみると結構あるように思うが、これ以外の話ではなんのメカニズムの説明もなく善悪の報いが現れている。

また、「善神・護法(の神)」が因果応報を仲介する場合があるにしろ、この重要な役割を担う「善神・護法」の存在が曖昧で、固有の名称すら持っていないことは、教義の未完成さを示唆している。ただし、閻魔王はたびたび登場し、現世での善悪の行いを踏まえて量刑をしている。とはいえ、閻魔王は「因果の道理」そのものを司っているのではなく、あくまでも(主に地獄への)転生の番人として振る舞っている。

なお、現世で因果の報いが現れることを「現報」と言い、本書には現報の事例が数多く収録されている。よい現報は(1)盲人の目が見えるようになるなどの奇跡、(2)苦難からの救済、(3)長寿・子孫繁栄、が中心である。けっこう現世利益的な現報もあり、特に上巻31話で、仏道修行をした人物が「南無、銅銭一万貫、白米一万石、美女大勢召し給え」と祈願して手に入れた話は、我々の考える仏道修行とあまりにかけ離れた煩悩満載の願いで面白い。一方、悪い現報は、ほとんどの場合、悪死(悪い死に方)である。悪死という言葉は一般的ではないが、本書には頻出する。

来世で報いを受ける事例もある。それには、地獄に落ちる場合と動物に転生する場合がある。動物への転生では、特に牛に生まれ変わった事例が多い(上巻10話、20話、中巻9話、15話、32話)。牛は身近にいてしかもひどく働かねばならない動物だったからだろう。

いうまでもなく、仏教の教理では、生き物は六道を輪廻するとされている。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・人間・阿修羅・天の6つの世界で、これを生まれ変わりながら苦しみ続けるというわけである。ところが本書には、地獄へ行く話や動物(畜生)に生まれ変わる話はあるが、餓鬼・阿修羅・天に行く(生まれ変わる)話は全くない。これらの世界は具体的なイメージを伴っていなかったのかもしれない。

本書は全体的には仏教の因果応報を喧伝するが、一部は仏教とは全く関係のない不思議な話も収録されている。例えば、 上巻1話は雷を捉える話、上巻2話は狐を妻とした男の話である。

一方、一見仏教的であるが、その実、全く仏教教理に則っていないのが上巻12話と下巻27話。この2話は、肉身に殺された者の髑髏(の霊)が旅人の協力を得て復讐し、旅人に恩返しをする、という共通した構造を持つ。これは復讐や恩返しという因果応報の枠組みに則ってはいるが、髑髏の霊が、生まれ変わらずにずっと現世に留まっている、という点で仏教教理に則っていない。元来の仏教では、霊は中有の期間(いわゆる四十九日)を過ぎたら生まれ変わる(来世へ行く)とされているが、ここで髑髏の霊がいつまでも留まっているのはなぜなのか。後世に広まることとなる、非業の死を遂げたものの霊はいつまでも現世に留まり続けるという観念(→御霊信仰)は、すでに奈良時代にその観念が芽生えていたようだ。

なお、平安時代以降に関心の的となる極楽往生については、本書では上巻22話や下巻39話でちょっと触れられるだけで、至極あっさりしている。この頃は極楽往生よりも、現報がより重要だったようだ。

ところで、どうして景戒は本書を編んだのだろうか。もちろん仏法を広めるためではあろうが、どこに力点があったか。それは本書で酷い目にあっている人々がどんな人であるかで推し量れると思う。それは、しつこいほどに出てくる「因果の道理を信じない(不信因果)」の人である。ということは、仏教の教理の中でも、特に因果については当時の日本人はピンと来ていなかった、ということなのだろう。因果の道理、因果応報の原則が物理法則のように存在することを示すために編んだのが本書ということになると思う。

ちなみに本書の中心である奈良時代〜初期平安時代は、国家の側では仏教の教理が最も生真面目に受け止められた時代である。その時代においても、「因果の道理を疑うべきでない」とか「仏教を少しも疑うべきでない」とか「信心のおかげだ」といったことが喧伝されるのは、逆に言えば仏教に対する疑いを持つ人が多かったことの証左だ。

中世には、仏教は膨大な典籍を博引旁証することによって論証され、「インドや中国から来た経典に間違いがあるわけがない」というような理屈で仏教は正当化されたように感じるが、本書では経典がどうこう、インド中国云々といったことは全く説かれていない。あくまでも「こんな事がありました」という日本の具体的事例のみによって仏教(というより「因果の道理」)の正統性・妥当性を示しているというところが、本書の著しい特徴だと感じた。

なお、本書に収録された話は、『今昔物語集』などのこれに続く説話文学や昔話のネタ元になっており、説話文学の淵源を瞥見する意味でも興味深かった。

※括弧内の原文については、こちらのページを参照しました。
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/ryoiki/ryoiki.htm

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2024年3月17日日曜日

『方丈記私記』堀田 善衛 著

堀田善衛の読み解く鴨長明『方丈記』 。

本書の冒頭に、著者は「これは方丈記の読解ではなく、私の体験を述べるものだ」という趣旨のことを書いている。

それは、1945年3月の東京大空襲から始まる。著者はこの空襲の直接の罹災者ではなかったが、東京にいた。そしてこの空襲による大火災を遠望し、翌日、天皇がその様子を視察するのにも偶然遭遇した。筆舌に尽くしがたいほどの惨状の中、著者は『方丈記』が恐るべきリアリティを持って、当時の惨状を活写していたことを悟るのである。

『方丈記』には、養和の飢饉として知られる大飢饉や京都の大火が記録されている。この頃は、保元の乱や平治の乱、そして福原遷都など平氏政権の末期にあたっており、戦乱、災害、食糧危機といった人々を襲った惨状は、太平洋戦争中のそれと符合していた。そして上っ面だけ立派で人々を顧みない無責任な体制も、すでにこの当時において完成していたのだ。

19歳の藤原定家が、その日記「明月記」に「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ(=戦争なんて俺の知ったことか)」と、悲惨な時代を超越して芸術のための芸術に邁進していたことを著者は清々しく思っていたのであるが、いざ戦争の惨禍が目の前に迫ってくると、むしろ『方丈記』の迫力が著者に理解されてくるのである。そして「3月10日の東京大空襲から、同月24日の上海への出発までの短い期間を、私はほとんど集中的に方丈記を読んですごした(p.68)」。

多くの人たちが、惨禍のさなかにあって右往左往するしかなかったのは、今も昔も同じである。しかし鴨長明は、惨禍を直視して、大局的かつ実証的に記述した。同じ時代に、千載和歌集を編纂していた藤原俊成(定家の父)とはなんという違いだろう。千載和歌集は、悲惨な時代にありながら「いったいどこに、兵乱、群盗、天変地異の影があるものであろうか(p.86)」。

長明はこの時代、失業者同然の暮らしをしていた。彼は鴨神社の禰宜の次男として生まれたが、早くに父をなくし「みなし児」になり、日々の生活に必死であったと思われる。父方から相続した家を手放して、10分の1の家に零落した。『方丈記』といえば無常感であるが、それは日々の暮らしに飽いた上級の人々の持つ「もののあはれ」などとは全く違うのである。むしろ「彼の無常感の実体は、あるいは前提は、実は異常なまでに熾烈な政治への関心と歴史の感覚(p.116)」に基づいていた。宮廷とその取り巻きたちによる虚構の世界を、世捨て人として糾弾した果てにあったのが無常感なのだ。

しかし長明は、現実の社会を透徹した目で見つめた傍観者ではない。彼が歌人として上向いてきたのは、それこそ千載和歌集に一首入れてもらったからで、彼はそれに素直に感激している。そして懸命に定家流の幽玄体の和歌を作り、地下人(非貴族)としてただ一人寄人になるのだ。だが後年、それを馬鹿馬鹿しく思ったのか、「今の体は習いがたくして、よく心得つれば、詠みやすし」と言っている。定家は300年前の言葉を使って歌を詠めと言っており、昔の秀歌や故事を残らず頭に入れておかなければ幽玄体の歌はできないのだから、それが「習いがたい」のは当然だろう。しかしそうして作り出された歌は、現実の世界とは何の関係もない歌のための歌、芸術のための芸術であった。そして言葉が現実から遊離して、現実を叙述することができなくなっていたことに、長明は気付いていた。その先に『方丈記』の散文があるのである。

彼は、生きるために懸命になりながら、この社会の馬鹿馬鹿しさにどこか倦んでいた。「世にしたがえば、身くるし。したがわねば、狂せるに似たり」。社会に従えば身が苦しい。かといって、従わず我が道を行けば狂人と一緒である。そして長明は、出家の道を選んだ。世の人からは「世を恨みて出家して(十訓抄第九)」と見えたらしい。長明50歳の時であった。

そして長明は、世を捨てて大原に隠棲し、理性を立て直した。そこで彼が棲んだのが、一丈四方の組み立て式住居「方丈」なのである。『方丈記』は、世界の古典文学では珍しい住居論なのだ。彼は住居の在り方から社会を考える。あまりにも有名な冒頭「ゆく河の流れは絶えずして…」も「世中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし」と、住居の話に繋がっていく。そしてその住居論は、当たり前のことながら、快適さや豪華さなどは全く眼中にない。

彼は、贅を尽くした貴族の邸宅が、大火で灰燼に帰すのを見ていたのだ。それよりも、人間が生きるために必要な住居は何か。大火や群盗に怯えずに、自分が自分でいられる住居とは何か。その答えが、山の中の掘っ立て小屋のような家だった。そこでの暮らしはどんなものだったか。長明に一度会ったことがある源家長が隠棲中の長明に再会したところ「それかとも見えぬ程に(=見違えるほどに)やせ衰えて」いた。現代文明の利器などない中での、自給自足の暮らしである。相当に厳しい生活だったと思われる。

にもかかわらず、『方丈記』には、山暮らしは大変だ、などとは一言も書いていない。それどころか「つねにありき(歩き)、つねに働くは養性なるべし」と言っている。一人の力で立っていることを楽しんでいたのだ。だが一方で、彼が透徹した心境にあった、ということもありそうにない。むしろ彼は、社会に「ざまあみろ」とツバを吐きかけていた。捨てられるものはみんな捨て、「言いたいことを言ってやるぞ、文句あっか!」と啖呵を切っていたのである。おそらく、長明は悟りきった隠者ではなく、相当な変わり者、偏屈な頑固者だった。「とてもかくても柔和な風流人などというものではありえなかった(p.203)」。周りの人からは狂人扱いされていたに違いない。「出家をしても、世を捨てても、六十になってもトゲののこる人であった(p.208)」。

「あの当時にあって、かくまでのウラミツラミ、居直り、ひらきなおり、ふてくされ、厭味を、これまた大っピラに書いた人というものは、長明の他にはまったくいなかったのではないだろうか(p.210)」と著者は言う。そして住居を考えることから始まった人間論は、

「夫(それ)、三界は只心ひとつなり」

という堂々たる宣言に帰着する。どんなに豪華な宮殿に住もうとも、心が安らかでなければ意味がない。だがこの「方丈」にいるときは、自分が自分でいられ、「他の俗塵に馳する事をあはれむ(他人が俗塵にまみれあくせくしていることを憐れむ)」。このセリフを、乞食に成り果てた長明がいうのが面白い。

それは痩せ我慢なのだろうか。いや、そうではないだろう。

それは社会が惨状にあるのに、連日の遊宴に浮かれていた宮廷社会に対する痛罵であり、その狂った社会の中で一人正気を保つための「われわれの唯一の逃げ口(p.237)」としての思想なのだ。

【関連書籍の読書メモ】
『定家明月記私抄』堀田 善衛 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/01/blog-post.html
藤原定家の「明月記」を蘇生させた、優れた読解の文学。

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2024年3月16日土曜日

『荘園—墾田永年私財法から応仁の乱まで』伊藤 俊一 著

荘園の通史。

荘園とは私有の農園(とそれに付属する土地)である。中世の歴史の下部構造をなしたものの一つが、荘園であった。墾田永年私財法から約750年、平安時代から戦国時代までの長い期間、荘園は姿を変えながら存続し、日本社会の基調をつくった。本書は、荘園の在り方の変遷を全方位的に述べたものである。

荘園は律令制の改革から生まれた。律令制では公地公民であり、人々に口分田を与えて耕作させた。中国の律令制では自ら開墾した農地の私有を認める「永業田」の制度があるが、日本の令にはこの規定はなく、農地の私有は認められなかった。

土地の私有を認めなければ、当然開墾もなされず、口分田は不足した。政府は百万町歩の開墾計画を立てたがうまくいかず、三世一身法を制定。これは社会に大きなインパクトを与えた。追って天然痘が流行して当時の人口のかなりの割合が死亡し、その鎮圧と復興のために聖武天皇は大仏を建立。743年の墾田永年私財法もその流れに位置づけられる。

墾田永年私財法は、所有できる墾田の面積に位階による制限を設けて開墾を申請制としたものである(位階による制限は772年に撤廃)。孝謙天皇は寺院墾田許可令を出し、寺院による墾田の所有も許可された。こうして土地は公田と墾田(私有地)の2本立てとなった。この墾田が初期荘園である。ただし墾田も公田と同じく租は課された。

東大寺は4000町もの墾田所有枠を与えられ、買収などによって立荘していった。造東大寺司などの官人と僧侶がともに荘園実務を担当している。

9世紀後半からの摂関期には、地震が頻発。10世紀に入ると水害と旱魃が繰り返される異常気象となり、古代村落は崩壊した。班田収授や租庸調といった人頭税は安定した古代村落を前提としていたのでこれが機能不全となり、かわって富豪層と呼ばれる有力農民が出現した。不景気で農民が二極化していったのである。こうして富豪層と貴族や官庁によって荘園の設立が急増した。

延喜2年(902)に藤原時平はこうした荘園を整理する荘園整理令を発し、また長く行われていなかった班田を実施した。しかしこれは結果的に最後の班田となり、班田制は終焉した。

摂関期には、税の徴収が困難となったため、税制の改革が行われた。人頭税(租庸調)から地税へ、そして国司の権限拡大、田堵(たと)による請負制の採用などである。

国司の権限拡大については、地方行政機関の国衙の在り方の改革ということになる。国司は決められた税さえ納めれば統治のやり方は自由になり、守(かみ)の権限が特に拡大されてそれは受領(ずりょう)と呼ばれた。摂関期には郡司の任免権も受領国司に与えられた。こうして受領国司になることは蓄財や昇進の重要な足掛かりになった。国司は課税額を決める権限もあったから、様々な意図で私領に対する税の減免を行った。その免田が集まったのが摂関期の荘園で免田型荘園という。

受領国司は国内の農地を(みょう)という単位に分けて、名の耕作と納税を負名(ふみょう)と呼ばれた農民に年単位で請け負わせた。負名の中の有力農民を田堵という。農民には名の所有権も、継続的な耕作権もなく、実績が伴わなかったら解雇されたが、逆にいえばやり手の農民にとってはのしあがるチャンスにもなった。田堵は多くの耕作者を従えて条件のよい耕作地(荘園を含む)渡り歩く企業的な「プロ農民」だった。

だがこの時期の荘園は国司の裁量で生まれた存在だったので、国司の交替によって廃止されることも多かった。新任国司は税収を上げたいために免田をなかなか認めなかった。ところが任期の終わりになると、貴族・寺社に納めるべきものの未納分を帳消しにするためや賄賂によって免田を認定した。免田の認定とその廃止が繰り返される構造があったのである。

なお国司ではなく国家によって税の減免が認められる荘園があり、これは官省符荘という。

摂関期は、古代的徴税システムが機能不全をきたしていたため、貴族や寺社への配分が滞った。国家や国司は、納税されるはずのものを、ある場所を指定して直接貴族や寺社の取り分とすることでこの問題を解決した。大局的に言えばそれが荘園の成立につながったのである。

11世紀半ばからは気候が安定して農業も安定し、平野部の開発の機運が生じた。この時期には地方行政に大きな改革も行われた。国司の課税裁量権を制限し、税の物品を米・絹・油に単純化した公田官物率法、国免荘の整理を行う荘園整理令、別名制の導入などだ。別名制とは、公領を再開発したものに郡郷を通さずに国衙に直接納税する(つまり徴税権を与える)許可「別符」を与えるものである。それまでの私領・荘園と違い、別名の領主には安定した権利が与えられたから、長期的な支配が可能になった。だが別名は荘園ではなく、あくまで国衙領(公領)であり対象は田畠だけである。

なお他に同類の制度として「保」、郡の中の徴税単位を独立させた「院」がある。

別名は在庁官人(官衙を担った土着勢力)に活用され数多く設けられた。結果として、国—郡—里という古代の地方支配体制から、公領については郡・郷・別名・保・院などが国衙に直属する体制になった。この変化を郡郷制の改編という。

そしてこの時期、「(しき)」というものが形成される。職とは、世襲される役職のことである。在庁官人は職や別名制の活用によって成長し、在地領主という地方豪族に成長していった。彼らは、国家の機能を一部分与されることによって形成されたものと理解できる。

院政期の直前、後三条天皇が延久の荘園整理令を発して荘園整理を実行した。内裏と中央官庁を再建するための財源を捻出するためだった。これはそれまでの荘園整理とは違い、国司ではなく中央政府が直接整理の実務を行い、貴族や寺社などからの干渉を排して実施が徹底された。その実務を行ったのが記録荘園券契所で、ここでは荘園の権利文書をよりどころに半ば機械的に荘園の存廃を決めた。しかしこの仕分けも、天皇・上皇や摂政・関白の後ろ盾があれば回避できた。そのため「皮肉なことに延久の荘園整理令は、当初の政策意図とは逆に、太政官を超越した上皇や摂関から特権を与えられた領域型荘園の設立へと歴史の歯車を回すことになった(p.79)」。

領域型荘園とは、田畠を中核として山野も含めた四至の領域が一括して荘園として指定されるもので、経営が在地領主に任された。摂関期には豪壮な御願寺(天皇・上皇・その妃などが願主になって設立した寺院)の建設が相次いだが、その財源として領域型荘園が活用されたこともその乱立を促した。上皇らの権力によって、それらの荘園には最初から不輸・不入が認められた。摂関期の荘園には地方分権的な色彩があるが、院政期の荘園はむしろ国家の中枢の方が荘園を利用しているようだ。

さらに知行国制も荘園の設立に影響した。知行国制とは、貴族や寺社に特定の国からあがる税収を報酬として与える制度で、国司の任免権も知行国主が持った。この制度もむしろ国家側に恩恵をもたらし、白河上皇は24か国も知行国を持った。知行国ではかなり自由ができたので、上級権力に都合の良い荘園が設立された。そして在地領主にとっても荘園を任されることにはメリットが大きかった。

こうして、数百に上る荘園を領有する本家(上皇・天皇・摂関家など)—複数の荘園を支配する領家(女房・家司)—その下で荘園現地を管理する荘官(在地領主)という3層の支配体制が成立した。これを「職の体系」という。

続く鳥羽上皇の時代には、荘園の設立はよりシステム化されて展開し、日本の国土の半分ほどが荘園になってしまった。特に御願寺とその中の院・堂の設立を名目として荘園が設立された。例えば鳥羽上皇は京都に安楽寿院を設立、そこに無量寿院や不動堂といったものが附属させられ、それぞれが大荘園領主となった。鳥羽上皇は出家するにあたり、安楽寿院領を暲子という皇女に相続させた。彼女は母の美福門院から歓喜光院・弘誓院領も相続した。彼女は出家すると八条院の称号を受け、相続した膨大な荘園群は八条院領と呼ばれる。このほか、後白河上皇によって集積された長講堂領も有名な巨大荘園群である。大寺院も同様に荘園を増やし、また門跡領もこの時代に形成された。

土地支配と税という国家の基幹システムが、国家の中枢自身によって蚕食され、私物化されたのがこの時代の荘園であったといえる。かつては「在地領主が開発した所領を貴族に寄進して荘園が成立し、その貴族も権益の安定のため、より上位の貴族・皇族の庇護を仰(p.105)」ぐことで大荘園が形成されたと理解されてきたが、領域型荘園はむしろ上からの力で成立したと考えられるようになっている(川端新「立荘論」)。

武家政権の時代、荘園は歴史を動かす次の力になった。上皇や貴族たちが荘園を設立するには、領家職・下司職も必要になるため、平家はこうした権益を一族郎党に分配することで一大勢力を形作ったのである。しかしながら、それらは上皇や摂関家との属人的なつながりによって任命されたもので強固なものではなかった。

1181年から翌年にかけて養和の飢饉が起こる。この惨状は鴨長明の『方丈記』に描写されている。そのような中で源平の争乱が始まった。戦いに勝った源頼朝は、「日本の歴史を大きく変える行為をした。それは軍功に報いる恩賞に所職を用い、敵方に加わった武士の所職を没収して味方に分け与えた(p.117)」ことである。

これは「当時としてはとんでもない脱法行為(同)」であったが、頼朝は朝廷に対する反乱軍だったから武力を頼みに上位権力の任免権を無効化した。ところが頼朝は後白河上皇と対立する意思はないと表明し、これに安堵した朝廷は「寿永二年十月宣旨」を出した(1183年)。頼朝らの脱法行為を不問にし、これまで通り年貢を出すように求めるとともに(=年貢を出しさえすれば所職のいかんを問わず)、この命に服さないものがあれば頼朝に処置させるというもので、この宣旨は鎌倉幕府の出発点となった。

また上皇は平家没官領(没収した土地)を全て頼朝に与えた。頼朝は没官領などの所職を戦功があった武士に地頭職という名称で給与した。それ(荘郷地頭)までの郡司職・郷司職ではなく、恩賞を地頭職の名称に統一することで頼朝の任免権を明確化した。

また、頼朝は義経討伐の中で後白河上皇の責任を追及し、「国地頭」の設置を認めさせた。これは国単位の支配権を与えるもので、国地頭は国中の武士を動員することができ、また兵粮米を徴収することができた。これは西国の武士を頼朝の御家人にする布石となった。国地頭は後に守護職になる。

頼朝は御家人を編成していったが、その中心となったのが在地領主としての所職である。御家人になるには、国衙の在庁官人や、郡郷司、荘園の荘官であることが必要だったのである。このあたりの記述は、「土地の支配権を認めてもらう(所領安堵)ことで御家人になった」という石井進らによる従来の説明とだいぶ毛色が違う。御家人の編成においては、むしろ上からの組織化のために土地が道具として使われた観がある。

こうして荘園制は鎌倉幕府によって大きく改変された。職が恩賞化されたことで本家や領家の任免権がなくなり、本家-領家-荘官の3層構造のうち荘官の地位が上昇したのである。これを本書では「いわば在地領主層による強力な労働組合ができたようなものだ(p.124)」と形容されている。

結果として、新たに荘園が設けられることはなくなり、荘園と公領の比率が固定化した。それは全国平均で概ね6対4であったと考えられている。ただし下司職・公文職などの荘園の所職と、郡郷司職や別名などの公領の所職は区別されることなく地頭職として給与されており、荘園と公領の違いは事実上ほとんどなかった。

こうして鎌倉時代には荘園の安定期を迎えた。それらはいわば独立した小世界であり、不入権は検断権(警察権)や債権回収権にまで及んだ。新たに開墾した土地は領家に年貢を出す必要がなかったことで新田開発が促され、農地は4~6割増大したとみられる。幕府は裏作の麦に年貢をかけるのを禁止したので、二毛作も普及した。ただし、鎌倉期には現代までの1200年間で最低気温を記録し、日本史上最悪とも考えられる寛喜の飢饉(1230~32)、その後に起こった正嘉の飢饉を経験している。

百姓の側では、中世では名の保有権が名主職(みょうしゅしき)となって明確化し、相続も可能な財産となったことが古代との大きな違いである。中世では、土地の利用権は安定していた。名は耕作と徴税の単位だったが、それと別に村や郷といったまとまりがあり、これは制度上の位置づけが与えられることは少なかったが、人々は鎮守などを中心に互助を行い、徐々に荘園や名よりも村の結合の方が重要になっていく。

こうしたことを踏まえて中世荘園の在り方を考えると、今の役場にあたるものが荘園であったとみなせると思う。荘園には下司を最上位とし、事務官の公文、測量・地図係の図師などの役職があり、領家から派遣された預所(あずかりどころ)などの役人もいた。ちなみに年貢は田地1反あたり2~7斗ほど。ただし米以外で納めた荘園も多く、運搬の便宜から絹布・麻布が年貢として用いられた。これ以外に雑税としての公事があり、様々な労務や物品を提供した。この中には朝廷の任務も含まれたが、六条御所の門番は各地の荘園から交替で務めていた。「一つの門で延べ1000人前後、合計で延べ5265人が動員され(p.155)」た。こういう動員の連絡はどうしていたのだろうか。かなり社会が安定し、文書行政がいきわたっていたことが推測される。

13世紀後半からの鎌倉時代後期には、荘園制がふたたび変質する。本家・領家と地頭が紛争するようになり、その紛争解決の手段として、荘園を本家・領家が直接支配する部分と地頭が支配する部分に二分する下地中分(したじちゅうぶん)が多用されたのである。地頭が支配する部分にも本家・領家への年貢納入の義務はあったが、なにしろ本家・領家の支配領域ではないので年貢の納入は期待できなかった。そして本家・領家自身が荘園業務の実務を行わなくては支配権が確立できないなら、そもそも本家・領家の存在意義もなく、本家と領家は支配権をめぐって争い、どちらかが実質支配するようになった。こうして支配の3層構造がなくなり、一つの荘園を一つの領主が支配するようになった。この領主を本所といい、一つの領主によって支配される荘園の領域を一円領という。なお貴族や寺社が支配する領域は寺社本所一円領と呼ばれ、軍役を負担しなくてもよかったから、荘園か公領かの区別よりも重要になった。

13世紀後半には、もう一つの大きな変化があった。貨幣経済の進展である。大陸から輸入された宋銭は広く流通し、やがて年貢も貨幣による納入に置き換わっていった。そのため米を換金する時期や市場を選ぶことで差益を生むことができ、荘官・金融業・手工業を一人で兼ねて富を生み出すビジネスモデルが生じた。荘園の支配や年貢収納はこれまでとは違った利益となり、これを代行する代官が増えた。代官には世襲権がなく契約制だったが、そこから利益を求めて既存の枠組みにとらわれない「悪党」が生まれていく。

御家人制が廃止された建武の親政を経て、南北朝の動乱期に至ると、荘園制は再び変質した。源平の合戦に比べはるかに大規模かつ長期間化した南北朝の動乱では、前線に立つ守護の権限が強化されたからだ。知行国主は公領の領主としてだけの意味になり、守護が領域的支配権を有すようになって(守護が寺社本所領の年貢の半分を徴収できる半済令(はんぜいれい)はその象徴)、荘園の所有にも守護の承認が必要となった。また遠方の所領を経営することは不可能になった。

戦乱が収束に向かうと、強大化した守護の力を抑えるため、守護在京制が導入され、半済の撤回や規制を行う応仁の半済令が発せられた。「職の体系」とは別の形で、京都に集住する諸領主層が地方の所領を支配する体制が再建されたのである。

本書にはこの時代の丹後国の領主別構成割合が円グラフになっておりこれが興味深い(p.213)。それによれば寺社32%、幕府関係者等28%、守護領・守護被官16%、国人15%、不明7%となっているが、京都公家は2%しかない。つまり鎌倉室町を経て、没落したのは京都の公家、権門を維持したのが寺社、そして勃興したのが守護ということになる。

南北朝・室町期には村落結合が成長し、また貨幣経済がさらに進展。信用送金のシステム割符(さいふ)もできた。信用送金が発達したのは、宋銭での年貢納入は10円硬貨で何百万円もお金を払うようなもので不便だったからだ。

荘園の支配には、管理委託を請け負う代官が多用されたが、代官には大まかに(1)領主の組織内の人員(直務代官)、(2)僧侶や商人、(3)武家代官の三種があった。ここで面白いのはもちろん(2)で、山僧(→おそらく山門派=延暦寺の僧を指している)や禅僧は財力もあり、幕府や守護との結びつきもあって様々な問題への対処能力も高かった。巨大な荘園領主となった五山派では、教学に携わる西班衆(さいばんしゅう)と、寺の経理や管財を担当する東班衆に分かれており、東班衆は荘園経営・経理の専門集団であった。それらの僧の一部は荘園の代官に任じられて「荘主(そうず)」と呼ばれた。なおその人事権は室町幕府にあった。

この時代、荘園経営に代官が活躍し、年貢の徴収権が「あたかも利権を生む証券のようにやり取り(p.230)」された。この代官請負制が「中世荘園制の最終段階に現れた支配形態(同)」である。もはや領主権は有名無実化していたといえる。

南北朝・室町期は、気温・降水量がともに激しく変動した。応永27年(1420)には応永の飢饉に、1430年頃には異常な高温に見舞われ、徳政や年貢の免除を求める土一揆(つちいっき)が頻発した。室町幕府は将軍権力が弱体化していたからこれに応えざるを得なかったが、荘園は独立した小世界だったため有効に対処できなかった。さらに1450年代には気温が急降下し、1459~61年に寛喜の飢饉と並ぶ中世の二大飢饉である寛正の飢饉が発生した。

こうした中で応仁の乱が起こり、荘園制の核だった京都が破壊されたことで守護在京制も崩壊。京都と地方を結ぶ物流や商人のネットワークも致命的な打撃をこうむった。こうして荘園制は終焉した。ところが荘園は何百年も続いた制度だったので急にはなくならず、徐々に「惣(そう)」という自治村落に再編されていった。荘園が否定されたというより、かつて荘官が行っていた業務の大半が村落によって担われるようになったと理解できる。そして土地支配権は、荘園領主から任命される名主ではなく、土豪や地侍という自然発生的な小領主によって保持された。

本書は全体として、荘園の歴史を教科書的にまとめており、非常に勉強になった。また、気候変動が端々に触れられているのも興味深かった。農業の消長を考える上で基盤となる気候のことが従来よくわかっていなかったのであるが、最近の研究によってこれがかなり正確に明らかになり、史実と照応できるようになったことは大変な進展であると感じた。

そして荘園制の最終形態を迎えていた室町期については、その豊かさが気候に恵まれたためではなかったというのが意外だった。荘園制によって究極の地方分権となり、各地で利益を最大化する取り組みが行われると同時に、国の中心である京都との強固なつながりがあったことが豊かさをつくったのである。

なお、本書を読んでもわかったようでわからなかったのが別名制である。今に残る「別府」の地名はこの名残と考えられるが、多くの荘園の名前は失われたのに、別府が残ったのはなぜなのだろうか。

荘園を学ぶ上での基本図書。

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