2022年6月18日土曜日

『メンデルスゾーンの宗教音楽—バッハ復活からオラトリオ≪パウロ≫と≪エリヤ≫へ』星野 宏美 著

メンデルスゾーンの宗教音楽をオラトリオを中心に述べる本。

メンデルスゾーンといえば、バッハ≪マタイ受難曲≫の伝説的な復活上演で知られる。本書は、≪マタイ受難曲≫と、全曲演奏を果たせなかったバッハの≪ミサ曲 ロ短調≫について述べ、メンデルスゾーンがいかにバッハに傾倒し、その伝統を継承していこうとしたか示している。さらに自作オラトリオ≪パウロ≫と最後の大作となった≪エリヤ≫について詳細に検討し、メンデルスゾーンがこの2つのオラトリオに懸けた思いを考察している。

メンデルスゾーンはユダヤ系ドイツ人であったが、ユダヤ人の両親は子どもたちをキリスト教徒として育てる(具体的にはプロテスタントの洗礼を受けさせた)。その理由は、子どもたちには「キリスト教が教養ある人々の信仰のかたちだからである(p.227)」と述べているが、それは両親がユダヤ教徒として生きる不利を感じていたからに他ならない。

両親はユダヤ系の「メンデルスゾーン」という姓の代わりに「バルトルディ」というドイツ系の姓を名乗る許可を得、子どもたちには「バルトルディ」と名乗るよう命じた。しかしメンデルスゾーンはフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディとダブルネームを使った。

彼は、偉大な祖父モーゼス・メンデルスゾーンを誇りとしており、ユダヤ教徒としての出自を捨て去りたくはなかったのである。しかし自身のユダヤ性に向き合っていたからこそ、メンデルスゾーンは産まれながらのキリスト教徒以上にキリスト教徒らしい音楽を作り、そしてドイツ音楽の正統な継承者としてバッハの復活に熱意を注ぐのである。

今から見れば少し奇異な感じすらするが、当時の人はバッハの音楽を退屈で難解なものと感じ、それは単に忘れられていただけでなく、いわば「音楽性」の合わないものであった。よってメンデルスゾーンはなるだけ原典に基づきつつ、当時の聴衆に受け入れられる形でバッハの作品を復活させた。その成功例が≪マタイ受難曲≫であり、なかなかうまくいかなかったのが≪ミサ曲 ロ短調≫であった。メンデルスゾーンの熱意にもかかわらず、遂に≪ミサ曲 ロ短調≫の全曲演奏を果たせなかったのは(部分的には実現した)、彼自身の多忙のせいもあるが、この大曲が技術的に難しかったという点も大きいようだ。

本書はさらに≪パウロ≫と≪エリア≫の成立の事情、バッハの影響の検証、さらには一曲ごとの分析を加えている。これはかなり細かい話である。ところが、なぜか本書には一つも楽譜が掲載されていないので、楽曲の分析はやや分かりづらい。楽譜が掲載されていれば(楽譜を読める人には)もう少し分かりやすかったと思う。一方、歌詞については細かな点まで考察しており、信仰の内容の分析は重厚である。ただし、私はキリスト教には疎いのでこの部分はあまり頭に入らなかった。

私自身の興味としては、≪エリア≫とメンデルスゾーンの宗教性について知りたくて本書を取った。≪エリア≫はメンデルスゾーンの絶頂期に作曲され、初演では空前の成功を収めた。音楽的には≪パウロ≫の方が優れているという見方もあるが、最後の大作であることもあって、メンデルスゾーンの代表作であるのは間違いない。

新約聖書に基づく≪パウロ≫は、キリスト教徒としての強い自覚があったメンデルスゾーンにとってうってつけの素材であった。ユダヤ教からキリスト教に改宗したパウロに、自身をなぞらえていたのではないかというのだ。その当否はともかく、「パウロ」という素材がキリスト教的なものであり、メンデルスゾーンの宗教性と関わっていたことは事実であろう。ただし、この作品が教会ではなくコンサートホールで初演されたことは重要だ。当時はオラトリオが「脱宗教化」していく時代でもあった。

 一方、≪エリヤ≫は旧約聖書に基づく。ではこれはメンデルスゾーンが決別したはずのユダヤ性と改めて向き合って作ったものなのだろうか? 本書ではそのような見方をしていない。むしろユダヤ教とかキリスト教とか、 カトリックとかプロテスタントとかいう宗教の違いを超えた普遍的な真理を表現する素材としてエリヤを選んだのではないか? と著者は推測している。それはメンデルスゾーンの父の教えでもあった。どのような宗教を信仰していようとも、宗教の表面的な違いを超えた「唯一の真理」に到達できる、というのが父の考えだった。≪エリヤ≫の作曲には、その考えが影響しているのかもしれない。

しかし、メンデルスゾーンは厖大な手紙を書いているが、作品についての個人的な考えを語ることが極端に少なく、実際にどうであったかはわからない。とはいえ≪パウロ≫と≪エリヤ≫は、メンデルスゾーンという天才が、並大抵でない思いを抱いて作曲したことは確実であり、彼の音楽を理解する上でも重要な位置を占めているのである。

ところで、メンデルスゾーンは日本ではなぜか人気がいまいちで、現在では一冊の伝記も(新刊では)販売されていない。日本人にとって、メンデルスゾーンの思想は勿論、生涯の基本的な事項すらも謎に包まれている。そういう状況の中で、限定的なテーマであるとはいえ、メンデルスゾーンをテーマにした本が出版されたことは喜ばしい。この調子で新しい伝記が出版されて欲しいと願うばかりである。

メンデルスゾーンのオラトリオを宗教性から読み解く堅実な本。


2022年6月16日木曜日

『文明国をめざして—幕末から明治時代前期(日本の歴史13)』牧原 憲夫 著

明治時代、どのようにして民衆が「文明化」されたかを述べる本。

本書は非常に刺激的である。明治時代の歴史というと、政権の中枢にいた人たちを主役に描かれることがほとんどだが、本書の主役はそれに翻弄されていた民衆の方なのだ。そのため本書では、新聞や雑誌、戯画や戯作の類まで動員して、民衆の心象を探っている。

明治を表象するコンセプトは「開化」と「復古」である。「開化」は言うまでもなく近代化=西洋化のことだ。それは政体の西洋化に留まらない。政府は「文明国」に相応しい人民となるよう風俗を矯正した。一方「復古」は明治維新の大義名分であり、「神武創業の始め」に戻ることが明治政府の正統性を保証した。この2つのコンセプトは一見相反するように見えたが、実は「江戸時代を否定する」という点で共通しており、相補的なものであった。

「第1章 幕末の激動と民衆」では、幕末の民衆意識が概観される。

幕末には大地震が頻発した。嘉永6年(1853)に小田原大地震、安政元年(1854)には伊賀上野大地震、東海大地震、南海大地震が立て続けに起こり、安政2年(1855)には江戸で安政大地震、安政4年、5年にも各地で地震が起こった。これにより職人は引っ張りだことなり賃金が上昇。財産をあまり持たない庶民は地震の被害が相対的に小さかったから、打ちひしがれるどころか「世直し」への期待が高まった。

一方、開国によって大量の小判が海外に輸出されたことに対応し(金銀の交換レートの内外差によって金が流出した)、幕府は金銀の交換レートを改訂。その結果、名目の貨幣総領が急に増えたためインフレが引き起こされた。特に慶応2年(1866)には一揆・打ちこわしが頻発し、江戸時代を通じて最大の件数に達した。しかし民衆は開国や攘夷といったことに関心はなく、ただ適正な米の価格を求めただけのことだった。

一転して慶応3年には豊作となり、それまで猖獗をきわめたコレラも落ち着き、長州戦争も終結した。この年はインフレが農民・商人の収入を増やす結果になり「庶民は悉く繁盛」した。この楽天的ムードが西日本を中心に「ええじゃないか」をもたらす。伊勢神宮のお札が降ったのをきっかけに、異様な身なりをして富裕者へ酒食を強要、秩序を無視して歌い踊ったのである。それは世直しを求めたものではなかったが薩長を歓迎するものではあった。朝廷が機能不全に陥っていることは庶民の目にも明らかだったからだ。

一方、関東では慶応4年に大規模な世直し一揆が起こった。生活に困った貧民が質屋や商人などの家屋を襲った。その要求は決して無茶・無法なものでなく無秩序な破壊ではなかった。権力は、そうした要求に対して「徳義」で応えるべきとの観念があった。

ところが新政権が発足すると、年貢半減令などは早々に撤回され、富商に献金を強要したり御用金を命じた。その結果大坂の両替商の多くが「分捕り」のために破綻。 また慶応4年の世直し一揆の頭取は処罰され、質物・質地などを質屋や地主に返すように命じた。「新政府は庶民の味方ではなかった(p.54)」。そして戊辰戦争では後の日本陸軍に見られるような「分捕り」や「リンチ」が行われ、遺体の埋葬が禁じられるなど凄惨な光景が繰り広げられた。

それまでも、「殺人・強奪・放火を大義名分で正当化した水戸の天狗党(p.59)」などの志士たちが暴力を公然と行使するムードをもたらしていたが、このようにして明治は「暴力の時代」になっていった。

「第2章 「御一新」の現実」では、明治維新の政権を巡る動向が改めて触れられる。

維新は徳川幕府の廃止とともに、朝廷の改革=西洋化を意味した。維新政府は天皇を「文明国」の君主として恥ずかしくないものにしつらえる必要を感じていたのである。東京に天皇を移したのも伝統や格式に囚われた旧勢力から引きはがす目的があった。

また、徳川慶喜征討の勅が出る1日前という緊迫した状況で、「皇族・公卿の涅歯(お歯黒)・点眉は<古制>でないからやめてよい」という一見瑣末な通達が出たのは注目される。「復古」を目的に「開化」を促し、公家らしい外見を捨てるよう進めたのだ。これは公家自体の否定を暗に含んでいたのだろう。 

そして摂政・関白といった旧来の朝廷の仕組みは撤廃され、「太政官」が復興された。「太政官」という名称は復古的だったものの、内容はアメリカの制度を参考にした三権分立の体裁を整えた機構だった。ここでも「復古」と「開化」は一体となっていた。そして、「公議所」が設けられ様々な近代化政策が議論された。政府首脳は議論を必ずしも歓迎したのではないが、未だ政権基盤が脆弱だった維新政府は「公論」を尊重せざるを得なかった。

ところが、政府は民衆の「公論」は全く尊重した気配はない。明治2年は天保以来の大凶作であり年貢の半減・全免を余儀なくされる藩が多かった。ところが政府直轄領では年貢を軽減するといった措置を全くとらなかった。それどころか年貢軽減の嘆願をしたものを牢に入れ次々に獄死させた。こうした高圧的な対応に憤慨して西日本各地で大一揆が起こる。これに対し大隈重信が「千人迄は殺すも咎めざるべし」といって鎮圧を命じたのは有名な話である。

また、明治政府は神仏分離を断行し、それに触発されて廃仏毀釈も引き起こされた。 人々が素朴に信仰していた神仏が否定され、信仰までも作りかえていったのである。人々は信仰世界の破壊を目の当たりにし、神道国教化政策は本来はキリスト教対策が眼目だったにも関わらず、「太政官は異人が牛耳っている」とか、「廃仏政策はキリシタンの仕業ではないか」と疑った。

 「占領軍のような態度で民衆を抑圧し、凶作でも年貢を軽減せず、そのうえ生きる拠所である信心世界まで破壊する——これが「御一新」の現実(中略)であり、ここに近代天皇制の特質を見てとる(p.97)」ことができる。

「第3章 自立と競争の時代」では、開化に伴って人々が「競争社会」に飲み込まれていく様子が述べられる。

廃藩置県が封建的な社会機構を一気に整理した後、留守政府は急進的な改革を進めた。その一つに身分制の解体がある。「四民平等」を謳った布告はないものの、様々な面で人々の同質化を進めたのである。

また、廃藩置県後の行政機構として「大区小区制」を敷いた。これは全国を「大区小区」として機械的に分割し、旧来の「村」を解消して行政を行うものだった。これはあまりにも無理があったので後に修正されるが、明治政府は「村」だけでなく、身分に伴う各種の中間団体を否定して人々をバラバラの個人に再編した。

また「開化」は人々の風俗を改変した。裸は文明的でないからと「裸体禁止」をし、「断髪」は当初は髪型の自由化を意味したが、次第に「開化度」を測る指標となって事実上強制されていった。そうした風俗の矯正を行ったのは封建的な圧制者ではなく、開化思想の地方指導者層だった。彼らは自らが「国民」であることを自覚し、進んで国風の改善に努めたのである。

さらに、そうした指導者層は祭礼を無駄として休止させたり、神仏分離政策にともなって仏教信仰を無駄として切り捨てた。人々の楽しみとなっていた各種の講が廃止され、重要な祭日だったお盆も禁止された。休んでばかりいないで働きなさい、というわけだ。また芸能者や宗教者への施しが禁止された。彼らが働かないのは自己責任なのだから慈悲を施すのは無用だというのだ。その上、障害者なども社会にとって無用な存在だから施しを与える必要はない、と切り捨てた。

初期明治政府の社会経済政策は「自由主義経済」だ。これは一見人々の自由を尊重するように見えて、結局は「強者の自由」を保障するものでしかなかった。社会的弱者は切り捨てられる弱肉強食の社会が到来した。

そして身分を否定し、建前として平等な世の中になったことで、「学歴社会」が出来した。当時の小学校は試験ずくめで、合格しなければ卒業できなかったため中退者が続出した。等しく教育を授けるよりも、刻苦勉励するものを選抜していこうとする思想が強かったのかもしれない。明治政府にとっての「開化」は、野蛮・不潔・無駄なものを切り捨て、勤勉・清潔・有用なもので置き換えることだった。政権の原理は、「徳」から「合理性」へ変容したのである。

「第4章 平等と差別の複合」では、徴兵制と賤民への差別が「開化」をキーに繙かれる。明治政府は徴兵制を敷いたが、これは全員が徴兵されるのではなくクジで当たった人が合計10年も兵役を課される仕組みだったので、庶民は徴兵逃れに奔走した。そういう庶民を横目で見て、武士たちは自分たちの出番だと意気込んだが、新政府は武士の志願制を認めれば実質的に士族復権となることがわかっていたので、民衆にも武士にも敵視された徴兵制を続けるしかなった。

また軍隊の生活は、時計に基づく生活をし、整列して行進するなど、それまでの武士の在り方とも全然異なっていた。軍隊こそが「文明的生活」を養成する場だったのだ。そして近代的な軍隊=国民軍を編成する上で、武士の復権はありえなかった。

実際、明治維新を成し遂げたのは武士であったが、「御一新」の勝者は農民であった。武士は特権を失い、家禄を失い、路頭に迷った。武士は江戸時代には土地と遊離していたから、地主になり損ねたのである。そして現実に耕作している農民に土地所有権が認められた。

しかしそれは、農民が引き続き納税者になるということでもあった。「地租改正」で土地の私有が認められ、その代わりに地価のに応じた納税が必要になったからである。これは土地に紐付いた税という意味では江戸時代の年貢と似ていたが実際には大きな違いがあった。それは地主制への道を開いた点である。

年貢は村請制であり、納税責任を負うのは「村」だった。ところが地租の場合は納税責任はあくまで個人にある。さらに土地の共同所持を否定し、土地は個人の所有物とした。村請制では原理上、他村の土地を大量に持つのは難しい。ところが村単位の仕組みがなくなり、「徳義」ではなく「合理性」が幅をきかせるようになると、少数の強者が土地を集積していくのは自然のなりゆきだった。

明治6年(1873)には地租改正、断髪反対などを主眼とする騒動が西日本各地で起こった。民衆は開化政策を拒否したのだ。そこでは被差別民の焼き討ちなど、「穢多」の解放に反対する主張があったのが注目される。これは直接には開化政策の一つである明治4年の賤民制廃止令に基づくものだったが、人々の意識の中でも「開化」と「差別」の問題は繋がっていた。

江戸時代の賤民(穢多=かわた)は、被差別階級を為していたとはいえ、清めの役割や皮革の取り扱いといった経済的特権も付与されており、決して貧困に喘いでいたわけではない。それどころか百姓よりも裕福なかわたは多く、関東のかわたの頭である弾左衞門は3000石の旗本並みの存在だった。しかし維新政府は賤民制を廃止した一方で、彼らの清めの役割や特権も剥奪して形の上で「平等」にした。

結果的には、彼らは百姓並みになるどころか自由競争の社会に投げ出されて経済的に没落し、彼らの「「穢れ」は「不潔」に置き換えられ(p.166)」、文明社会に対応できなかったものとして新たな「差別」の対象となっていった。「「地域と生まれ」が固定された「部落」の差別が、ほんとうに苛酷になるのは文明開化期以降(同)」なのだ。そうしてこうした差別意識は、アイヌ、琉球、朝鮮、中国の人々へも広がっていく。日本は「文明化」を成し遂げた一等国であり、こうした地域は未だに遅れた野蛮な場所だから差別してもよい、というのである。

「第5章 近代天皇制への助走」では、結果的に近代天皇制を準備することになった変節が述べられる。

明治天皇は当初、むしろ親しみやすい君主として登場する。江戸時代の将軍に対するように平身低頭する必要はないと政府は民衆に伝えた。天皇自身が文明開化の象徴であり、西洋の君主のように人々と親密な関係を結ぶ必要があった。皇后も西洋の王妃と同じように外交の場に出てきた。

明治政府は朝廷を西洋化したが、それは「開化」であるとともに「復古」でもあった。西洋近代は日本古代と通ずるとされたのである。

人々の生活を劇的に変えてしまった「開化」が、太陰暦から太陽暦への「改暦」だった。民衆はすぐにこれに順応したのではないが、祝日が全て天皇関係(新嘗祭、天長節、元始祭など)に置き換えられたり、五節句が廃止されたりといったことで太陽暦は国民生活に浸透していった。そして旧来の行事は廃止され、または太陽暦の日程では季節感が合わなくなったため低調になった。ちなみに定時法(一日24時間)はあまり抵抗なく受け入れられた。

一方、政府は一度は神道を国教化したものの、仏教界と妥協し、神仏合同の「国民教化運動」を進めた。ところが、先述の明治6年の西日本各地の一揆を受けてこれも修正を余儀なくされる。「三条の教則」と呼ばれる原則に対する「兼題」(具体的な行動の模範を示すもの)の変化にそれが窺われる。「西欧化との対決を目的とした教導政策が、一転して開化政策を民衆に浸透させるものになった(p.191)」のである。

もちろん神道派はあくまでも「復古」を主張し、例えば古式に則って「火葬禁止令」を出したが、これは埋葬箇所が足りないといった現実的問題からすぐに撤回された。何が古制であるか、何が仏教的(神道的でない)かは、恣意的であり、どうにでも解釈できた。それが神道派の弱さでもあったが、神道派のリーダーたちは神道は宗教ではなく国家の「政典憲章」であるとし、この見解は神道の国教化を防ぎたい島地黙雷や大内青巒などの仏教家と奇妙に一致していた。結果、神道は宗教ではないこととされ、宗教を超越した「国家神道」への道を歩むこととなった。

「第6章 「帝国」に向かって」では、明治政府の対外政策が述べられる。

これ以降の章は、庶民の心情よりも政府の動向が中心だ。明治初年には早くも朝鮮との外交に問題が起き、征韓論が萌芽した。神功皇后の朝鮮征伐を事実と見なし、朝鮮は日本の属国であるとする「復古」の論理もその背景にあった。明治6年には「明治六年政変」(征韓論争)が起きて薩摩出身者が大量に政府を去った。

台湾出兵も大義名分なき侵略だった。明治政府は万国公法的へりくつによって東アジアの伝統的秩序を無視して台湾に兵を送る。台湾は「無主の地」だからこれを分捕るのは自由だという論理だった。これに対しイギリスやアメリカが抗議。思わぬ批判に驚いた政府は矛を収めようとしたが、すでに出動していた軍隊は勝手に行動し、それを政府も追認した。後の戦争でお決まりのパターンになるやり方だった。

しかし明治の初めまでは、庶民は外国人を敵視する態度は持っていなかった。だが次第に日本人は自らを「文明化」されたと信じ、清国人や黒人を野蛮なものとして蔑視し、優越感を抱くようになった。これは西洋人のそういう態度を受け継いだのかもしれないし、文明化の副作用でもあっただろう。「むろん、それをあおったのは新聞(p.227)」だった。

この蔑視の目は琉球や北海道にも向けられる。明治12年、政府は琉球に沖縄県を置いた。それまで琉球は薩摩藩の属国であったが対外的には独立の体であり、清国にも独立国として朝貢していた。それを勝手に日本に組み入れたのである。当然清国も抗議し、琉球人も反発。イギリスからも批判を受けたがなし崩し的に占領を続け、人々の心情を無視して同化政策を行った。「琉球問題の最終解決は日清戦争まで持ち越された(p.231)」。

樺太、千島、北海道に至っては、最初から「無主の地」であると決めつけて分捕った。アイヌが生活していることは知っていたが、それは「土人」であるからものの数には入らない、というのだ。北海道の場合、アイヌの存在を無視して政府や藩で開墾地を割り当て、アイヌに対しては和人化政策を行った。彼らの文化は否定されたのだ。

しかし「琉球の民衆やアイヌが受けた同化政策、「姓・名」の確定、断髪、小学校、日本語(標準語)等々の強制は、「生蕃並み」といわれた本土の民衆がこうむったものと基本的に変わらない。(中略)文明開化とは何よりもまず日本自体の「自己植民地化」(p.241)」だったのである。

明治10年、鹿児島では西南戦争が起こった。鹿児島の士族は文明開化を否定し、士族の特権の解体を認めなかった。これは激闘の末政府に鎮圧されたが、結果的に尊攘派志士を潰滅させることとなった。明治維新は尊攘派志士が成し遂げたものであったが、「開化」に否定的だった彼らが潰滅したことで、明治政府は「開化」を完遂することができるようになったのである。

「第7章 国民・民権・民衆」では、国会開設に向けた様々な動向が語られる。

明治の世論を語る上で見逃せないのが新聞である。明治6年頃から新聞は盛んに創刊された。新聞は建白を掲載し、これまで国政に参与したことのなかった平民までが国民の一員として「国恩に報いる」ことを考えて建白し、時には政府への献金まで呼びかけ実現させた。

しかし政府は介入を嫌い、献金も受け取らなかった。政府と民衆の間には、見た目以上に断絶があったのだ。それを痛感した人々は「民撰議院」の設立を指向しはじめる。国家と自分たちを同一視し、一蓮托生の存在と考えたからだ。「民権論と愛国心は不可分(p.261)」なのである。なおこの時期に、政府と国民を一体視せず、「客分」的な論理で「政府の借金は官債であり自分たちの借金ではない」とラディカルに考えた窪田次郎の例は興味深い。

明治13年には町村議会ができる。しかしここでは、江戸時代の村の寄合では当然参加出来た女戸主や貧民は排除された。国家にとって議会は火種も抱えていたが、代議員制は権力者の都合のいいように代表を設定することができたから御しやすくもあった。

一方、板垣退助らは明治10年に「民撰議院設立建白書」を提出したが、議会開設を求める運動を政府は弾圧した。明治15年には「官吏侮辱罪」が成立し、官吏に反抗すると些細なことでも逮捕できるようになった。しかし自由民権運動が政府への抵抗運動だったわけではない。それどころか自由民権運動は政府へ「国民の権利」を求めると同時に、民衆にも「国民の自覚」を喚起する「愛国的運動」だった。そしてここでも、天皇が持ち出された。「「天皇は国民の味方だ」という観念を浸透させる上で一定の役割を果たしたのは、政府よりも民権運動の側だった(p.274)」 。

「明治十四年政変」では、それまで憲法について調査し、民権派の意見を容れて案を作ってきた大隈重信が政権から排除され、政権は薩長が独占するに至った。翌日明治23年の国会開設を約束する勅諭が出され、政権は国会開設に向けて動き始める。

一方、民権運動は昏迷する。民衆は穏当・理性的な議論よりも、過激・感情的な煽動の方によく反応した。民権家たちも民衆の支持がなければ活動が成り立たなかったので、そうした民衆の心情を汲まないわけにはいかなかった。また明治16年頃には民権運動自体が不況のために低調化した。そしてそれは、主義よりも公共事業の配分を巡る争いになっていく。

明治17年、朝鮮における日本派がクーデターを起こし失敗した「甲申政変」が起き、日本の朝鮮政策は頓挫する。この政変では日本の公使館員・居留民らが40名殺されたことで、福澤諭吉が『脱亜論』で朝鮮や清国を切り捨てた他、民衆も激しく反応し、ナショナリズムが高まっていった。

「第8章 帝国憲法体制の成立」では国会開設に至るまでの政府の動きを述べている。

明治10年頃には、政府が生活習慣にまで口を出す啓蒙的専制の時代は終わり、むしろ自由放任的なムードになってきた。農村も豊作に恵まれて好景気になったが、明治13年には好況が終わり15年にはデフレに陥っていく。そして経済が地主・大企業中心になり「経済的・文明的強者が自己の利益を追求する——そういう時代の始まり(p.303)」だった。

明治19年(1886)の帝国学校令・師範学校令・中学校令・小学校令では、学校と社会的地位が明確にリンクするようになり、明治20年には試験で官吏を選抜するようになった。小学校の学費が無料化され卒業試験がなくなるなど、国民が広く学校に通うようになる。また運動会が兵式体操の一環で始まるなど、軍隊式集団主義が小学校に導入されていった。 

女子教育については、「良妻賢母」を育成するための教育だった。つまり女性のための教育ではなく、その子どもや夫のための教育なのだ。また明治31年の民法では戸主(男性)の権限が強化され女性は「二級市民」とならざるをえなかった。

また、皇室財産が設定されて皇室の基盤が確立するとともに、ご真影・日の丸・君が代・万歳という国民統治の「四点セット」が勢揃いした。皇室への讃仰を通じて国家の一員となる政策がどんどん進んでいく。

同時に、日本文化や歴史の見直しがなされるようになり、「日本国民」としての自覚が促されたのもこの時期だ。しかしいくら「日本国民」としての自覚があっても、現実には多くの人には参政権はなく、国政に関与していくことはできなかった。帝国憲法体制では「我々人民はもはや前日の無権力・無責任なる国民ではない(朝野新聞)(p.334)」と言われたが、現実には「直接国税15円以上を納める25歳以上の男性」しか衆議院議員選挙権は持っていなかった。圧倒的多数の人民が「非−国民」の立場におかれたのだ。だから結局、議会は人民の議会ではなかった。しかしそれでも、天皇は人民の天皇だった。だから政府は、民主制ではなく、天皇を通じて人民を国家に統合したのである。人々が「天皇の赤子(せきし)」=「臣民」と呼ばれるようになったのは、それを象徴していた。

そして「帝国憲法は、天皇主権と立憲主義の複合体(p.337)」であり自縄自縛の状態に陥った。伊藤博文や陸奥宗光は、その不具合を清国との戦争によって脱しようとしていくのである。

本書は全体として、庶民の側から見た「文明開化」を検証するものとなっている。それは、我々が通常の「通史」で見る明治維新とは随分違っている。もちろん一般的な通史においても、文明開化が強制的なものであり歓迎しない庶民は多かった、ということは語られる。しかし本書では当時の多くの「生の声」を拾い集め、それを使って明治初期の歴史をヴィヴィッドに浮かび上がらせている。特に第5章までの記述は非常にオリジナリティがあり、必読書のレベルに達している。

文明開化を庶民から見るスリリングな論考。

【関連書籍の読書メモ】
『明治のむら』大島 美津子 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/02/blog-post_14.html
明治時代の農村政策を描く。明治政府が、どのように村落を再構築していったのかを克明に語る出色の農村史。

 

2022年6月11日土曜日

『維新史再考—公議・王政から集権・脱身分化へ』三谷 博 著

幕末の政局を見通しよく描く本。

本書は、幕末の政局が直面した課題を主役にして維新史を編んだものである。つまり、志士たちの活躍とか激動する事件とかは主役ではなく、時の政権が直面した構造的な課題を読み解き、それをどう解消していったのかという視点で明治維新に至る歴史を語っている。

本書前半(第1章〜第4章)は、近世の社会が置かれていた状況がグローバルな視野から再検討される。著者は近世日本の政治体制を「幕藩体制」ではなく「双頭・連邦国家」と呼ぶ。禁裏(天皇・朝廷)と公儀(徳川幕府)という双頭の下に、大名の領国が半独立に存在していたからである。

その下で日本には極端に「忠」を肥大させた国家主義が発達したが、実際の政策決定はボトムアップ式であり、幾多の上申を経て老中が決裁する仕組みだった。また家格と決定権が分離しており、むしろ大大名であればこそ政権の意志決定からは排除されていた。彼らが外様大名であったという事情もあるが、外様の場合も小大名からは老中が輩出されていた。島津のような外様の大大名は、政権から排除されていることを不満とし、政権への参画を様々な形で図っていくのである。

また当初は厳格であった身分も、学問や武芸といった面では徐々に混ざり合い、また「塾」などを介して全国規模のネットワークが育っていった。そして人々は一方的に統治されるのではなく、「国民」として「御国(おくに)」のことを考える土壌が育っていた。

一方、幕末にかけて西洋諸国は東アジアに関心を寄せるようになり、特にロシアとの関係が緊張した。このような中、「日本知識人の世界像は、中国を主軸に構成するものから西洋を中心に構成するものへと、はっきりと転換した(p.97)」。そして西洋に対抗するため、日本を「より統合性の高い軍事強国として再建する(p.98)」ことが考えられるようになった(会沢正志斎『新論』)。

本書中盤(第5章〜第11章)は幕末から王政復古までの政局の変転を丁寧に描いている。 天保期からペリー来訪までの政策課題は「鎖国」「避戦」「海防」であり、幕府(公儀)は大きく鎖国・海防へと傾いたが、ペリー来航によって開国へと政策転換した。公儀主導の挙国一致への動きが、「大名や武士の間に広く参加願望を生みだし(p.133)」、特に大大名たちは「公儀の決定権を、譜代の小大名からなる老中から、家門・外様の大大名の連合体に移そうと考え始めた(p.134)」。橋本左内はさらに土地や身分を問わず有能な人物を政権に登用することも構想した。当初の左内の構想に天皇中心といったアイデアはなかったのだが、安政5年に左内は政体変革構想に「朝廷」を組み込むことを思いつき、後に「王政」の下の「公儀」という政体へと行き着くことになった。

ところでアメリカへの条約勅許を朝廷に申請したことで「朝廷の拒否権」が明確化され、これが次なる政策課題となった。特にハリスが予定より1年早く来航したため、大老井伊直弼が勅許を待たず即日調印したことが大問題となる。一橋慶喜を将軍に待望する一派はこの不備を突いて江戸城に登城したがかえって弾圧され、「安政の大獄」が始まった。こうして幕閣専制が復活したかに見えたものの、桜田門外の変で井伊直弼が白昼堂々暗殺されると幕府の威光はガタ落ちとなった。しかし幕府は海軍を大規模に編成して近代的軍制へと舵を切った。

そして条約勅許問題によって朝廷と幕府の間がギクシャクすると、これを周旋することに政治的価値が生まれた。特に長州藩が朝廷と近づいた。諸藩の周旋の結果、将軍が上洛して天皇に謁見して幕府は攘夷を公約させられることとなり、朝幕の地位は完全に逆転した。このあたり(文久年間)から「王政復古」が公家(三条実美)や長州過激派などにより視野に入ってくるようになる。ちなみに早くも安政5年(1858)には久留米の神官真木和泉が王政復古を構想し『大夢記』というシナリオまで書いている。

しかし文久3年(1863)、薩摩・会津が中心になって起こしたクーデター「八月十八日の政変」により攘夷派公家と長州藩が京都から排除され、天皇と将軍が和解して「公武合体体制」が作られた(一会桑政権)。この体制では大名が朝義に参与し、幕議にも参画していくことが構想されたが、幕府はこれを拒否。島津久光は「公武合体体制」による「公議」によって幕政に参加していくことを考えていたのであるが、それどころか幕府は大大名の朝義への関与権まで否定し京都から追い出した。こうして薩摩は幕府に強い不信を抱くようになるのである。

一方、クーデターからの再起を図り「禁門の変」を起こして京都を奪還しようとした長州はあえなく鎮圧され「朝敵」となった。こうして長州の処分をどうするかが朝幕で問題となる。その際の一つの焦点が、「公武合体体制」において大大名たちをどう取り込み長州問題に結論を出すかであったが、結果的には大大名の招集は棚上げになった。他方、長州は下関戦争で外国に屈すると攘夷をあっさりと捨て、軍事機構を大胆に西洋風に組み替え、幕府との戦争に備えた。そして土佐の中岡慎太郎の仲介で薩長が接近し、裏で「薩長盟約」が成立。王政復古の実現のための協力が謳われるのである。

長州は幕府による処分案を拒否し、慶応2年(1866)年に長州戦争が起こった。しかし幕府は苦戦し、戦争中に将軍家茂が病死。こうして政局が不安定になったことを逆手に取り、一橋慶喜は将軍に就任するとともに政敵(山階宮や正親町三条)を排除した。さらに同年、孝明天皇も天然痘で亡くなる。慶喜は意欲的に幕政改革に取り組むととに、西洋への華々しい外交を展開した。

これに対し、島津久光(薩摩)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(宇和島)、松平春嶽(越前)の四侯は政体の一新のために協調し、慶喜に対し「反正」を求める議論をふっかけたが、慶喜の方が一枚上手であり、徹夜の会議は慶喜の粘り勝ちとなった。徳川慶喜は、歴代将軍の中でも特に有能で雄弁、自負心があり実際に全ての問題を自ら裁量していた。将軍という立場も考えれば、誰も慶喜に言論で対抗できるものはいなかったのである。

であればこそ、慶応3年(1867)、薩摩は「政治交渉を断念し、基本方針を武力動員による政体一新に転換した(p.257)」。ここからは、「個々の争点は後景に退き、政体転換をめぐる赤裸々な権力闘争が主題となった(p.258)」。 大まかに言えば、大政奉還による政権の一元化と、大藩の連合による「公議」の実現については多くの陣営で共通した目標だった。違うのは、その来るべき政体において引き続き徳川家(徳川慶喜)が中心になるのか、それとも徳川家を排除するのか(薩長)、という点である。朝敵とされていた長州は政局の蚊帳の外におり、薩摩にも来たるべき政体へのヴィジョンはなかったが、土佐の後藤象二郎らが政策転換して「制度一新、政権朝に帰し、諸侯会議・人民共和」の体制を創出するという構想を固めて、これに薩摩が乗って方向性が定まった(薩土盟約)。

ただし、島津久光は武力行使に消極的で、土佐の山内容堂の参加によって平和裏に政権移行が可能だと期待していた。ところが後藤象二郎の京都到着が遅れたため機会を逸し、盟約は事実上棚上げされて互いの妨害をしないというところまで後退した。そして薩摩は単独挙兵の道を探ったがリスクが大きすぎ、また国元でも挙兵反対論があって一枚岩ではなかった。このため朝廷の裏工作によって「討幕の密勅」を下してもらったものの、慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜は自ら政権返上を申し出て事態が大きく動く。

慶喜は政権を投げ出したのではなく、「天皇の直下に大大名の連合政権を組織し、自らその首班となって日本を強国とする(p.275)」ために政権返上を申し出た。これにより、天皇に対して恭順の意を示し、自身への批判をかわす意図もあった。そして朝廷には自ら政権を担っていこうとする意志も能力もなかったから、結局は武家が政権の実務を担うことは既定路線であった。よって慶喜は再び政局を手中に収めるため猛烈に運動を開始した。

しかし薩摩は岩倉具視と結んで武力クーデターを計画し、土佐にも事前に知らせた。土佐→越前を通じクーデター計画は慶喜にまで漏れたが、慶喜は京都での戦乱を回避することとし、全面対決しなかった。こうして薩・土・尾・越・芸の5藩は朝廷を封鎖し、その状態で朝議が行われて慶喜の排除が決定された。さらに12月14日には王政復古が布告され、復古に基づく「公議」が謳われた。ところが尾・越はこれまでの徳川家との関係から慶喜の政権参加を周旋した。これでは何のためのクーデターか分からない。クーデターに参加した5藩のうち、徳川の打倒に執心したのは薩摩のみだったのだ。そこで薩摩は長く朝敵とされていた長州と手を結び、徳川方と薩摩・長州の間で鳥羽伏見の戦いが勃発し幕軍は敗退した。これは小規模な戦闘だったが、日和見を決め込んでいた諸大名はなだれをうって薩長に合流し、なし崩し的に新政府が発足した。

本書後半(第12章〜終章)は、それまでの緻密な記述とは違い、いきなり駆け足で歴史をなぞっていく。まるで講義の時間が足りなくなってしまったような感じである。著者自身が「学生時代以来、久しぶりの勉強となった(あとがき)」と述べており、通説の要約以上の内容がないため、ない方が全体的なまとまりはよかったように思う。

とはいえ、この部分で本書の重要なテーマである「脱身分化」が述べられる。新政府は、無位無官の武士たちが参画していたためもあり、身分や家格に囚われない運営が当初から指向された。「人材登用」の結果、無能な公家が排除されるとともに、幕末のギリギリの政局をくぐり抜けてきた大名家臣(徴士)たちが政権の中心に躍り出ていった。そして政権では「公議」「公論」が強調された。明治政府の当初には、上意下達的ではない、ボトムアップ式の議会主義が胚胎していたのである。

そしてもう一つ、武士身分の解体に与ったのは皮肉なことに戊辰戦争だった。従来の武士の戦いが使いものにならないことが明らかになり、近代的な銃隊が編成されたからである。さらには戊辰戦争への動員は各藩の財政を急激に悪化させ、上級武士の俸禄が相対的に大きく削られたことで武士身分内の平準化が思わぬ形で進むことになった。

戊辰戦争後は、軍事的発動が困難な情勢になっていったため、「公議」すなわち言論によって中央集権国家に再編成するしかなかったが、大藩においてこれは簡単には受け入れがたい変革であった。ところが西郷隆盛は最終的には武力をちらつかせてあっさりと廃藩置県を成し遂げた。藩がなくなったことで武士は失業。「廃藩の直後、政府は世襲身分を解体する様々の措置を一気に展開した(p.344)」。散発脱刀、婚姻の自由化、穢多・非人の称の廃止などである。これらは大蔵省の渋沢栄一が中心になって進められたが、それは彼の出自が百姓(豪農商)であったことが関係しているのではないかという。しかし結果的には、身分を平等化したことは徴税を平等化することにつながり、このせいで負担増になった階層も多かった。

さらに教育、徴兵、人口と国土の把握、交通・インフラ整備などを進め、地租改正を行って土地の売買を自由化するとともに、家禄処分を行った。このあたりの記述は極めて概略的である。さらに留守政府、征韓論争、西南内乱(西南戦争)と続くが、やや旧い学説のまま書かれているような印象を受けた(参考文献に毛利敏彦氏の著作がない。これは意図的に避けているのだろうか)。ただし島津久光の動向を詳しく追っているのは興味を引いた。終章では、明治維新が改めてグローバルな立場から位置づけられ、「公議」が「自由民権」へと受け継がれていったと述べる。

本書は全体として、政局の変転を緻密に追うもので、少なくとも王政復古までは最近の学説が援用されてかなりよくまとまっている。しかし政局の変転がメインであるために、個人の履歴や思想はほとんど顧みられることがなく、「その状況で、なぜそのような選択がなされたのか」という考察はほとんどない。さらには民衆の動向は完全に閑却されている。例えば幕末の「ええじゃないか」運動などは政局にも影響を与えたのは確実であるが全く触れられない。つまり本書は「政局中心史観」とでも言うべきもので記述されており、幕末明治の歴史を多角的に捉えたものとはいえない。

しかしながら、王政復古までの記述については非常に説得力が高くかつ平易である。古典的な価値を有する力作といえると思う。

「政局中心史観」で書かれた明治維新の新しい教科書。

【関連書籍の読書メモ】
『明治維新』遠山 茂樹 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/03/blog-post_6.html
唯物史観から見た明治維新の分析。明治維新について考える際には必ず手に取るべき古典。