2020年8月30日日曜日

『大学・中庸・孟子』金谷 治・湯浅幸孫・日原利国・加地伸行 訳(世界文学全集 第18巻)

儒教の重要な古典。

儒教には四書五経といわれる古典があり、うち四書とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』を指す。もともと『大学』『中庸』は(五経の一つである)『礼記』の一部分であり、これを独立させて重視したのは南宋の朱熹(朱子)であった。

朱熹はこれを独立させたばかりでなく、より自らの思想が明確になるように編集しなおし、『大学章句』『中庸章句』として刊行した。特に『大学』への力の入れようは並々ではなく、完成まで10年間もかけた上、死の3日前まで改訂の筆を入れていたという。彼は章の順番を入れ替え、脱文があるとしてそれを補うなど甚だしい改変を行なっていたのである(本書には、朱熹による改変版(「章句版」という)と、原文の両方が収録されている)。

そしてもう一つの改変は、『大学』の作者を曽子だと決めつけ、孔子と関連づけたことだった。『大学』はもともと作者不明の一編であり、独立の作品として注意が払われていたわけではない。これを朱熹に先立って重視したのは韓愈であった。韓愈は儒教の伝統を、尭・舜 → 孔子 → 孔子の門人の曽子 → 孔子の孫の子思 → 孟子と考え、孟子から中絶したとした。

朱熹はこの考えを受け継いで、著作の上での系譜関係を完全にするべく、『大学』を曽子の著作としたのである。こうすれば、以前より子思の著作と考えられていた『中庸』を加えて、『孔子』→『大学』(曽子)→『中庸』(子思)→『孟子』と繋がり、儒教の伝統が連続するのである(しかも朱熹は孟子の門人から教えを受けたとしているから、自らを儒教の伝統の継承者と位置づけることもできた)。

今でこそ四書といえば儒教の聖典とみなされているが、『孔子』以外はさほど重視された著作ではなく、『孟子』ですら朝廷が尊信したのはようやく宋代になってからである。この四書を儒教の系譜を伝えるものとして強調したのは朱熹であり、特にそれを完全にするために必要だったのが『大学』だった。いわば『大学』は、孔子と孫の子思を繋ぐミッシング・リンクなのだ。

そして朱熹が『大学』を重視した理由はもう一つある。それは、有名な八条目「格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下」に代表される、個人の修養が国家の政治や繁栄と一致するという世界観であった。朱熹は若い頃仏教に心惹かれていたが、やがて仏教から離れて儒教の復興を志した。仏教では個人の内面を重視するが、儒教は政治哲学であるため個人の内面は閑却される傾向にあり、ややもすれば科挙のために知識偏重となって精神面は却って堕落していた。こうした堕落した儒学を新しい精神の学問として復興するために、朱熹は一身の修養が国家の安寧へと繋がる『大学』の思想を欲したのである。

しかし本書解説で述べられるように、個人の修養と国家のあり方は直接には繋がらない。むしろ、個人が勉強し、家を斉すことで、国家の不正義を糾弾するということもある。また、いくら個人が修養に努めても、他の国から武力によって滅ぼされることもある。八条目が実現するのは、世界の国々が善政を敷いているという、およそありえない前提の下でしかない。

ただしこれは、『大学』のみならず儒教に通底する世界観である。『中庸』においても、「人間の本性は天が人々に命じたものである」という考えの下、日常の平凡な徳を実践し、日常の平凡な言葉を慎重にすることで、やがて君子として身を立て世界が平安になる、といったことが説かれている。しかし現実の世界では、その場しのぎの姑息な人間が栄達する一方で、真面目で地道な人間が冷や飯を食わされるのがよくある話だ。『大学』にしても『中庸』にしても、個人の修養が具体的にどうやって天下の安寧に繋がっていくのか、全く述べるところがない。むしろこれらは、「世界はこうあるべきだ」という理想論なのである。

『孟子』においてもそうである。孟子は有力な儒家で、多数の弟子を引き連れて諸国を遊説したが、一時期を除いて国政に携わることはなかった。彼の主張は「善政を敷けば、民が富み、諸国から人々がやってきて国はますます強くなり、他国から尊敬されるであろう」ということで、要するに善政の勧めであった。彼は弱者保護や不正の排除といったことを主張している。特に印象深かったのは、孟子が「人民」を重視していることで、「国家の中で最も重要なのは人民」だとし、政治においては「人心の獲得」が必要であるという。これは今の民主主義とは違うにしても、人民の保護とその支持を最重要と考えたことは特筆に値する。

しかし、孟子が生きた時代は生き馬の目を抜く戦国時代であった。孟子の説く善政は、国同士が激しく争う中ではあまりに悠長な考えに見えたことだろう。現実の世界は、孟子の考える理想状態とは程遠く、力ある国が弱い国を蹂躙する野蛮な世界だったのである。であるから、孟子は各国でそれなりに扱われているものの、その献策が受け入れられたようには見えない。彼の思想は厳しい現実世界においては、やや浮世離れしていたといえよう。

ちなみに、孟子の弟子にも、そういう穿った見方をしているものがいる。それが万章という弟子である。『孟子』の中でも、万章との問答が中心の「万章章句(上、下)」は最も興味深い。例えば、「天は尭・舜に天下を与えたというが、それはどうやって与えられたのか」と万章が聞く部分がある。孟子は「天は何も言わない。その人の行動と事蹟とによって、彼に与えることを示すにすぎない」と答えるが、さらに万章は「ではどんな方法で?」と聞き返す。これに対して孟子はいろいろ屁理屈を述べている。しかしあまり説得的ではない。孟子の世界観の中では、正しい君子には天命が下り、天下を手中にするのであるが、具体的にそれがどのような手続きで実現するのかというのは曖昧なのである。

中国では「天」への信仰は、西洋の「神」への信仰とは全く違った。諸子百家の時代、「天」を人格的な神として信仰しているのは墨子くらいのもので、多くは理念的な至高の存在として措定しているに過ぎない。であるから孟子が万章の問いに窮するのももっともなことだった。しかし孟子は個人の行いを正しくすれば天がそれを取り立ててくれる、という楽観的な世界観を基盤にしているわけだから、そこを曖昧のままに済ませたのは思想として徹底していなかったのは事実である。孟子の思想は、ミクロのレベルで悪を挫き善を行うことが天下の(マクロの)太平に繋がる、という途中をすっとばした思想なのである。

でも、だからといって孟子の考えが現実を無視した理想主義にすぎないかというと、そうでもない。善政の勧めだけに、不正や悪政への糾弾は当を得ており、現代の為政者にとっても耳の痛い言葉がたくさんある。事実、明の太祖は『孟子』を嫌い、劉昆孫に命じて『孟子節文』を作らせ、専制君主に都合の悪い箇所を削らせた。四書の一つにして、改竄の憂き目を受けなければならなかったところに『孟子』の価値が窺い知れる。政治が堕落して人民を省みなくなっている現在、『孟子』はもっと読まれるべき著作である。

なお、私が本書を手に取ったのは、桂庵玄樹から始まる薩南学派(戦国時代に南九州で起こった儒学の学派)が朱熹の『四書集註(しっちゅう)』(『四書』の解説)を重視し、桂庵玄樹が訓点をつけた『大学章句』を延徳4年(1492)全国に先駆けて刊行していることがあるからである。薩南学派は僧侶(臨済宗及び法華宗)によって担われていたが、朱熹の排仏的傾向を見るとこれは不思議なことである。『中庸章句』の序においても、朱熹は仏教および道教を非難している。どうして仏教の僧侶たちが露骨に排仏をいう朱熹に惹かれたのだろうか。

思えば、薩南学派に続いて江戸幕府の儒学の基礎を作った藤原惺窩も元は臨済宗の僧侶だったし、林羅山も元来は寺院で修行している。だが藤原惺窩は還俗し、林羅山は僧籍に入ることはなかった。日本の朱子学の受容には、朱熹の排仏的傾向と、僧侶の活躍が微妙に交錯しているのである。

日本においても、中国においても、思想史的な位置付けが興味深い独特な古典。


2020年8月25日火曜日

『日本宗教史 I, II』笠原 一男 編(その2)

前回からのつづき。第II巻について)

第 III 部 近世の社会と宗教

江戸時代の仏教各派は、幕府からの保護とともに強い統制を受けた。この保護と統制について、本書は詳しく述べており参考になる。

保護の面は、全ての人民をどこかの寺に所属させ、その戸籍管理(冠婚葬祭の証明書発行、キリシタンでないことの証明)と旅行手形の発行を寺院が担うという寺請制度による。これは僧侶を半公務員化することであった。これは寛文12年(1635)頃に完成したと見られる。この頃に幕府に寺社奉行が置かれたからである。

一方、統制の方も強力だ。(1)本末制度によって寺院全てをヒエラルキーの下におき、本山を支配することによって全寺院を体制内に組み込んだ。(2)教学を固定化し、その教学の研究を振興することによって、寺院の思想を社会と遊離した象牙の塔的なものに変質させた。(3)僧侶の生活規則を幕府が定めた。(4)寺領を保護するという名目の下で検地を行い寺領を削減し、経済基盤を奪った。といったものである。これらの政策は、中世に寺院が持っていた特権を剥奪するとともに、抵抗の手段をも奪うという巧妙なものであった。

こうして経営が弱体化し、民衆の心と遊離した寺院は、存在としては保護されていたが収入は少なくなったため、葬儀を担う「葬式仏教」化することにより収入を確保するようになっていったのである。そして葬式仏教が制度として確立し、檀家と寺の関係が固定化されることで、個人の内面は置き去りにされ、信仰は形式化してしまった。こうして、もはや仏教は民衆の宗教心を託せるものではなくなっていた。

であるから、江戸時代の人々は、檀家寺にではなく、山伏や御師たち——季節ごとにやってきて、厄除け、病除、安産、子育てなどさまざまな効能のあるお札やお守りを配ったり、祈祷を行った——に信仰を寄せた。こうした人々は、固定的な菩提寺所属の僧侶からさげすまれた宗教者であり、儒者たちによって迷信・邪教などといって退けられていたが、実際には彼らの「祈祷仏教」が江戸時代の民衆宗教の中心となった。

江戸時代の神道についても、幕府から統制を受けている。寛文5年(1665)には、「諸宗寺院法度」とともに、「諸社禰宜神主法度」も出された。この法度では、神社の所有田地の売買禁止などが規定されているが、より重要なこととして、吉田家(唯一神道=吉田神道)を神道の家元的存在と認めたことがある。吉田家は幕府によりお墨付きを得たことで、神道の総元締めとして発展していく。

なお、享保期あたりから吉田家に対抗したのが古代以来の神道家だった白川家であるが、本書ではこれについてはあまり書かれていない。

本書では、さらに各宗派の動向が簡潔にまとめられている。

浄土宗:人倫徳目、忠孝といった封建論理を勧奨し、幕藩体制内における模範的人間を育成することが中心となった。新しいタイプの往生伝が生まれ、往生のためには忠孝のような時代が要請する倫理が必要だとされるようになる。しかしこうした体制派と反発した「道心(どうしん)」という非正規僧が活発に活動するようになり、民衆の支持を得た。

時宗:徳川幕府は寺領百石を時宗に与え、遊行上人には、前時代の慣例を踏襲して50匹の伝馬徴発権を与えた。教団の宗主に伝馬徴発権が与えられたのは時宗だけである。遊行上人には幕府が無視できないほど絶大な権威があり、大名並みに優遇されていた。

遊行にあたっての宿舎・食事も全て藩側の負担でまかなわれた。遊行上人が通行するとなれば、何ヶ月も前に通告され、遊行上人のための札引場、湯殿、雪隠、屋根の新設や修理、畳替え、障子の修理、道路普請、架橋、石垣作りまで藩がやっているのである。遊行上人通行予定地に伝馬の設置がない場合は、回国を機会に伝馬が設置されたところもあった。藩にとっては遊行上人の回国は迷惑以外の何者でもなかったが道路整備などに果たした遊行上人の役割は大きかった。こうしてやってきた遊行上人の配るお札には、大勢の人が殺到し、争って受けた。また時宗の教義は江戸時代には確立し、学寮制度とそれに対応した昇進のシステムが完備された。

禅宗:道者超元、隠元隆琦が来日。隠元は黄檗山万福寺(黄檗宗)を創建して寺領400石を与えられた。道者超元は在留8年で帰国したが、その門下には月舟宗胡や盤珪永琢がいる。

曹洞宗では、道元に返ろうという宗統復古運動が起こった。その先駆は万安英種(ばんなん・えいしゅ)で、その下に参じた月舟宗胡が発展させた。月舟は道元の『正法眼蔵』を研究し、その門下から多くの学僧を輩出した。その一人が卍山道白(まんざん・どうはく)であり、彼は一師印証(一人の師からだけ法を継ぐこと)を幕府に訴えて法制化し、嗣法の乱脈を糺してその門下は大いに栄えた。元禄の頃には、江戸駒込の栴檀林や芝の青松寺の獅子窟などには千人あまりの修行僧が集まって禅を学んだという。

このような主流教団とは別に、托鉢の旅を続けたり乞食僧として草庵に隠れ住んだ飄逸の僧が幾人もいた。例えば、穴風外(あなふうがい)、良寛といった僧侶である。こうした人々は、原始仏教そのままの托鉢苦行や道元の理想とした出家者の在り方に近かった。

臨済宗は、江戸時代にはかつての禅風が衰えていたが、沢庵(大徳寺派)、愚堂(妙心寺派)などが出て復興に向かい、愚堂の弟子、盤珪永琢が大いに民衆教化に取り組んだ。さらに古月禅材、白隠が出て臨済宗は近代的な民衆禅として復活した。白隠はわかりやすく禅の真理を説き、禅を近世社会に適合させようとした。白隠ほど大衆に親しまれた禅者はいない。

日蓮宗と不受不施:日蓮宗は信長と敵対したことで教勢を殺がれたが、秀吉は懐柔策をとった。ところが、秀吉の方広寺大仏の千僧供養への対応で日蓮宗は二つに割れる。日蓮宗は法華経唯一主義であったが、その原理を貫けば大仏への供養はできなかった。ここで大仏を供養した主流派(受派)と、しなかった不受不施派に分かれるのである。その後の日蓮宗の歴史は、主流派と不受不施派の抗争(というよりも、不受不施派の弾圧)の歴史である。こうして不受不施派は地下に潜伏することになった。近世の日蓮宗の内部はごたごたしていたが、在家の人々の宗教活動は盛んであり、日蓮宗は近代の新宗教の巨大な母体となる。

真宗:真宗は、納税の義務を怠るなとか、公儀の定めを守れといった封建権力への服従を門徒に強く訴えた。本願寺末寺の僧侶たちによってまとめられた『妙好人伝』は理想的念仏者像を集大成したものである。それによれば、お上に対する忠節、親に対する孝行、そして念仏が必要なのだという。このように本願寺が封建権力に従順だったのは、前時代の一向一揆の前歴から来る危険思想観をぬぐい去るための喧伝という側面もあった。さらに門徒には上納金の義務もあった。

このように封建的思想の喧伝機関となり精神的な拠り所としての意味を失った本山から背を向け、地下に潜った真宗の門徒たちが「隠れ念仏」となった(鹿児島の「隠れ念仏」とは全く別の集団)。隠れ念仏(御蔵法門・土蔵法門などとも言う)たちは、形骸化した本山の信仰を痛烈に批判し、法主を否定し、自らこそ真宗の正統であるとした。しかし隠れ念仏は本山からの厳しい摘発を受けたため、地下活動によって徐々に教義が秘儀化していき、真宗の精神から離れていった。

時代は遡るが、キリシタン関係の動向も詳しく記述される。大変興味深かったのが、殉教における殺害方法である。有名な、慶長2年(1597)の26人の殉教では、磔にされて槍で突かれたのをはじめとして、火炙り、斬首などで処刑されているが、斬首はともかくとして(これはやや温情的な殺し方だったように思われる)、磔や火炙りといった処刑法は当時一般的だったのだろうか? どうもキリシタン用の処刑法だったように感じる。ではなぜキリシタンは磔や火炙りにしたのか。より苛酷残忍な殺し方をしたのかもしれないが、その処刑方法が中世の魔女狩りにおけるそれと似ているのが気になった。

修験道については、17世紀に修験寺院が激増したという記述が気になった。本書では、それは修験道法度(慶長18年(1613)によって修験者が本山派・当山派のいずれかに所属することとなり、さらにそれが天台宗寺門派(本山派)、真言宗(当山派)に包摂される体制となって地域社会への定着が進んだことが理由とされている。要するに、幕府は山岳から修験者を追放し、寺院に所属させる政策を採ったのであるが、このせいで(このおかげで?)結果的に修験寺院が増加し、修験者自体も増加したようである。

そして急増した末寺を統括するため、本山派・当山派では管理機構を整え、教義が整えられるとともに、峰入回数等に基づいて位階を与えるシステムなど教団秩序が形成された。戦国時代までの修験者は山林を跋渉して得た法力によって祈祷を担う存在であったが、それが次第に定着しシステム化された位階と教義によって本山からお墨付きを得て活動するようになっていくのである。

これはもちろん、修験道に変質をもたらした。山林での修行よりも道場内での観法(観念的訓練)が重視されるようになったし、自然そのままが仏身であるという考え方が薄れて、お経を重視するようになってきた。また峰入も儀式化・形式化し、集団峰入をはじめとして峰入が昇進のために行われるようにすらなって、中世の捨身修行的を旨とした峰入はほとんど見られなくなった。

内容は中世とは変質したが、修験道の持つ呪術性は庶民の心を摑み、修験者は様々な願いに応じて祈祷をおこなった。例えば、虫除け、雨乞い、安産祈願、卜占、調伏や憑きもの落とし、病気平癒、営利栄達、家屋の新築など、ありとあらゆる庶民の希求に応えた。これらは、現在神社が担っている祈祷と似たような部分がある。また近世期になると、修験者に触発された在俗の人が山岳修行を行うようになった。この動きが近世の山岳系の新宗教(冨士講、御嶽講)に繋がっていく。

第 III 部 近世の社会と宗教

近世の宗教については、類書に比べてあっさりした記述だと思った。教派神道についても、しっかり取り上げられるのは天理教と金光教のみである。このどちらも、江戸時代の宗教——煩瑣な教義や庶民の生活と遊離した観念的な教え——を否定し、人間中心主義にたって、庶民の素朴な願いを受け止める存在であった。こうした宗教が幕末に出現したこと自体が、江戸時代の人々の満たされない宗教心を象徴しているかのようである。

そういう満たされない宗教心に応えようとしたもう一つの宗教が、キリスト教であった。幕末にはキリスト教はまだ禁教であったが、西欧列国が江戸幕府のキリスト教弾圧政策を問題視したこともあり、布教活動が進んでいった。

その際、カトリック教団に非常に特徴的だったことは、病める人や貧しい人、差別されている人を救う社会活動を実践していたということである。結局、この動きは大きな影響力を持つことはなかったが、高く評価できる。

一方、プロテスタント教団(というよりもその宣教師たち)は、英語教育や殖産工業政策への協力を通じ、中産知識人へ大きな知的影響力を持つことになった。日本にやってきた宣教師たちは人格や学識の面で優れた人が多かったから、彼らを英語教師として接していた人たちも感化される形で洗礼を受けるものが出てきた。キリスト教の受容は救いを求めるというよりは、「啓蒙」を求めて行われたという側面が大きい。それはあくまでも知的理解に留まるものであったという評価もできるが、日本の文化や倫理の面においては、獲得した信徒の数以上の影響力を及ぼしたという面もあった。

国家神道についての記述は、基本的に村上重良『国家神道』に則っているようだ。この分野は私はちょっと詳しいので、なるほどという記述はなかったが、改めて注目させられたのが神社合祀についてである。神社合祀は、神社を公的機関と位置づけたことの結果として生じた。公的機関であることから幣帛料の供進を行うこととなったが、あまりに神社の数が多いため予算が足りない。そこで内務省は、一村に一社ずつ幣帛料供進社を定めて、他をその社に合祀することを推進したのだった。

内務省は合併跡地の無償譲渡を可能とする勅令などによって神社整理を進めたが、驚くべきことに内務省は、神社整理を直接に指令した法律も省令も出していない。神社整理は、法律的に強制したのではなく、地方長官のさじ加減に任せつつ、地方の人々が自主的に行った(ことにされた)ものなのだ。このやり方が、今から見ても極めて「日本の行政」っぽい。

国家神道の時代に、仏教はどのように対応したかについては、類書で読んだことがない内容で新鮮だった。明治維新後の廃仏毀釈、そして国家神道体制に入り、仏教者は否応なく自らの立ち位置を見直さなくてはならなくなった。そういう時、「必ずといっていいほど仏教存亡の危機や末法観とともに戒律論争に熱気をおびる仏教者の姿がみられる」として、国家に迎合していった仏教教団の趨勢と離れて、仏教本来の在り方に立ち返ろうとした人々がいた。

例えば福田行誡(ぎょうかい)は、宗派仏教を弊害が多いものとして通仏教(仏教はひとつ)の立場をとり、持戒持律を重視して、小乗仏教をみなおそうとした。この他、釈雲照、原担山(たんざん)が紹介されている。

また、曹洞宗から還俗した大内青巒(せいらん)は、慈雲飲光(じうん・おんこう)の「十善戒」に傾倒し、原担山に啓発されて在俗の立場から言論活動を行った。「十善戒」は明治の新仏教運動に大きな影響を与えた教理で、仏教倫理を十の徳目(禁止事項)として整理したものである。また慈雲の『十善法語』も明治の仏教者に大きく取り上げられたが、慈雲がこのように大きな影響力を持っていたことに驚かされる。

これらの他、国家的視野に立って日蓮主義運動を進めた田中智学、国粋主義と仏教を結合させた井上円了などが明治の仏教運動の担い手であった。またこの時期は、仏教を歴史上の事実として捉え、実証的な仏教史を構築していった時代でもあった。その成果は人々の仏教観に新鮮な息吹をもたらした。

本書は、最後に「新宗教の誕生と発展」「現代の既成宗教」の2章が置かれている。この章は歴史というより現在を扱うものである。敗戦による宗教の自由化で、数々の新宗教が生まれた。その口火を切ったのが「璽宇教事件」である。これは、狂信的な信者を集めていた璽宇(じう)教に警察が調査にはいり、それを信者だった大相撲の双葉山が乱闘して妨害した事件である。

新宗教は、人々の宗教心の飢えに応じて生まれたものでもあったが、泡沫的で奇抜な宗教が次々生まれたり(笑ったのは映磁尊(エジソン)を祀る「雷神教」)、また様々な事件を起こしてそれがジャーナリズムにセンセーショナルに取り上げられたりしたことによって、淫祠邪教であるとの見方がされるようになっていった。

一方、既成宗教(仏教)も各宗で強い危機感から刷新運動が行われた。その危機感は、都市にはもはや菩提寺意識を持たず、自らを無宗教と見なす人々が多くなり、また農村では人口減少によって寺院が維持できなくなるケースが出てきたことなどによる。江戸時代の宗教政策によって「家の宗教」となっていた仏教は、「個人の信仰」として現代的に生まれ変わろうとしているが、未だその道筋は不透明である。

全体を通じて、本書はかなりよくまとまっている。多数の執筆者がいるにもかかわらず、その調子が一定であり、内容の粗密があまりない。また読みやすく、索引や年表も充実している。参考文献リストはやや素っ気ないが、概論(大学の学部生レベル)としては一般的な水準である。

ただ、図像史、建築史、宗教的な文化史(墓塔の造営などの歴史)、民間信仰についてはあまり触れられていない。特に道教をほとんど全く取り上げていないのはちょっと残念である。

また、本書は「日本人は宗教に何を託してきたのか、日本民族と宗教の関係はいかなるものか」を視点としてまとめたというが、これについてのまとまった考察がなかったのも少し残念だった。本書は現代の宗教について述べて終わっているが、終章では日本宗教史を俯瞰した時に見えてくるものについて語っていたらよかったと思う。

ただ、本書はあくまで事実を淡々と述べており、そういう大上段の文化史的な考察をしていないのはいいところでもある。例えば末木 文美士『日本宗教史』が「古層の形成・発見」というテーマを設定して日本宗教史を述べているのと比べると、この淡々さは安心できる部分だ。

つまり、本書は「地味ではあるが堅実にまとめている」のが特色である。鋭い考察などはないが、基本的事実をしっかり押さえるのにはよい本。


【関連書籍の読書メモ】
『国家神道』村上 重良 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/07/blog-post.html
国家神道の本質を描く。国家神道を考える上での基本図書。

『日本宗教史』末木 文美士 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_14.html
古代から現代に到る日本宗教史を概観する本。
「<古層>の形成・発見」はピンと来ないが、日本宗教史の詩論として価値ある本。