2021年6月20日日曜日

『破戒』島崎 藤村 著

被差別部落出身の青年の苦悩を描く小説。

本書は、日本近代文学の重要作品として名高いものであるが、読むのが暗鬱な本である。

主人公の瀬川丑松は、被差別部落出身(穢多)であることは絶対に隠せという父の言いつけを守り、小学校教員になって生徒からも慕われるが、校長などからは生一本な性格が疎まれて、やがて出生の秘密を探られるようになる。周囲の差別意識が徐々に露わになり、丑松は追い詰められる。その上、自分が穢多であることを隠しているという自意識が丑松自身を蝕み、丑松は鬱病のような状態へと陥る。

このプロセスは見ていて痛々しく、読み進めるのが苦痛なほどである。そこにどんな救済も用意されていないことを感じるからである。

一方、丑松が尊敬するのが猪子蓮太郎という人物で、彼はいわば「目覚めた人」として力強く描かれる。猪子は「我は穢多なり」と公言し、穢多も平等な一人の人間であることを訴える。その猪子が暴漢に襲われて死亡したことで、丑松は自らの人生の欺瞞に耐えかね、何もかも捨てる覚悟で穢多であることを公言。丑松は小学校の生徒たちの前で跪き、「今まで隠していて済まなかった」と謝り学校を去った。

その後、同じく穢多で社会から放逐された大日向という人物がテキサスに移住するという話に乗り、また以前より思いを寄せていた落ちぶれ士族の娘・お志保と両想いだとわかって、将来の結婚を臭わせて物語は終わる。

この終わり方は、「捨てる神あれば拾う神あり」という安易なラストであるが、私にとっては、最後の最後に少しでも丑松に救済が訪れてよかったと安堵できた。

しかしながら、丑松には本当の意味での救済は訪れていない。それは、丑松にとって穢多であることはあくまで恥ずべきことであり、自ら穢多を卑下してしまう差別意識を持ってしまっているからだ。その点が真に目覚めた人物である猪子とは違う。

そしてそれは、作者である島崎藤村自身にもおそらく言えることだ。藤村は、この優れた反差別小説を書きながら(そして猪子という反差別の旗手を登場させながら!)、やはり穢多を賤民視する「常識」から抜け出ることができず、言葉の端々で穢多を卑賤なものとして描いてしまったのである。

このことは『破戒』が部落解放同盟から問題視されたことからも明らかだ。藤村はそれに応じて(特に「穢多」を他の言葉に言い換えるなど)作品を訂正したが、それは本当の問題が何かを理解しない表面的な訂正で、しかも文学的に意味の通らないものとなり、むしろ改悪と呼べるものであった(本書はこの改悪が批判されて復活した初版本に基づくもの)。このことを見ても、藤村自身に拭いがたい差別意識があり、しかも差別意識の底にある本当の問題は何かということを閑却していたことの証左であるように思われる。

しかし、本書が藤村初の長編小説として自費出版されたのは明治39年で、これは差別問題がようやく社会の表面に出てきた頃である。このような早い時期に差別をテーマにしてこの重厚な作品を書いたということだけでも画期的なことであるし、今では暗鬱すぎて読むのが苦痛なほどであるが、当時は評判となって新潮社が出版権を2千円(破格)で買い取ったことから見ても、少なくとも同時代の読者に広く理解される描き方であったことは間違いない。

そして、丑松の態度は、非常にリアルなものだと私は思う。差別されてきた人間で、猪子のように突き抜けられるものはめったにいない。「差別されても強く生きなよ!」というのは、差別されないものの勝手な言い草で、実際には萎縮した生き方になってしまうのがやむを得ないのである。丑松が(まだ本当には問題が起こってもいないのに)徐々に自暴自棄になっていく姿、思いを寄せるお志保にまともに話すことができない意気地のなさ、穢多であるという自意識に押しつぶされていく様子など、等身大の若者の姿が描かれているような気がした。

そして丑松は言う。「何故、自分は学問して、正しいこと自由なことを慕うような、そんな思想(かんがえ)を持ったのだろう。同じ人間だということを知らなかったなら、甘んじて世の軽蔑を受けてもいられたろうものを」と。

本書のテーマは「目覚めたものの哀しみ」だといわれることがある。確かにそれはそうかもしれない。丑松は、学生時代には穢多を隠すことは何とも思っていなかった。しかし猪子の思想と出会ったことで、素性を隠しながら生きていることに後ろめたさを感じるようになるのである。それは、猪子が「穢多も人間だ。恥じることはない」と力強く主張することに共感しながら、実際には素性を隠して生きているという矛盾に耐えかねたためであった。

しかし既に述べたように、最後まで丑松は本当の意味では目覚めることはない。目覚めるということはどういうことかを知り、また自分では目覚めたのだと思っていながら、実際には未だ古い社会通念に自分自身が囚われているのである。そしてそれが、私が非常にリアルだと感じた部分でもある。

例えば、小説の最後に丑松は「隠していて済まなかった」と惨めに土下座する。しかし丑松は何も悪いことをしていないのである。悪いのは、穢多を差別してきた社会の方なのだ。丑松は被害者である。にもかかわらず、丑松は「隠していて済まなかった」と謝ってしまう。それまで散々、「なぜ穢多は穢多であるというだけでこんな目にあわなければならないのか」と煩悶しながら、ついにそれが社会批判として昇華することはないのだ。それが、目覚めたつもりになっているのに、いまいち目覚めきれない丑松の限界である。そしてそういう丑松の心理は、現実の人間の非常に精確な写実であると感じた。

明治時代の反差別小説の傑作。

 

【関連書籍の読書メモ】
『夜明け前』島崎 藤村 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/08/12.html
幕末明治の社会を、ひとりの町人の一生を通して描いた大河的小説。明治維新を反省させる大作。

 

2021年6月16日水曜日

『ハプスブルク 記憶と場所——都市観相学の試み』トーマス・メディクス 著、三小田 祥久 訳

ハプスブルク帝国の残滓を見つめる旅。

本書は、副題に「都市観相学の試み」とつけられているが、このような学問があるわけではないらしい。それは、観相学——すなわち顔立ちから内面を窺う技術——を都市に応用し、都市の相貌からその内面を覗いてみようというもののようだ。しかし本書は学問的というよりは、エッセイや旅行記に近く、結論じみたものもない。

正直に言えば、私は本書の叙述の半分もピンと来なかった。なぜなら、私は本書に取り上げられる都市の一つも訪問したことがないからで、本書には写真もないため、著者のいうことが現実の場所とどう繋がるのかが全く分からなかったからである。なので以下は甚だ心もとない読書メモである。

本書では、ウィーン、プラハ、ヴェネツィア、ブダペスト、トリエステが取り上げられる。これらはヴェネツィアを除きハプスブルク帝国(ハンガリー=オーストリア二重帝国)の版図に含まれた都市である。著者はこれらの都市に残されたハプスブルク帝国の記憶をその相貌を頼りに辿っていく。

ハプスブルク帝国とは、失敗したもう一つの「ヨーロッパ」である。それは現在の「ヨーロッパ」、即ち「欧州連合」とは違った原理で他民族・多言語を統合しようとし、瓦解した。本書では、そういうことが批評家風に語られるわけではない。しかしなんとなく浮かび上がってくるのは、ハプスブルク帝国という経験が、ヨーロッパに何をもたらしたか、であるように思われる。

それは、ヨーロッパにとって18世紀が何であったのか、ということなのかもしれない。激動の19世紀を迎える前、比較的平穏だったヨーロッパが、その平穏さの中に、暗鬱な火種を宿していたことを、なんとなく都市の相貌からえぐり出しているような気がした。ハプスブルク、という豪華絢爛な言葉のイメージとは逆に、本書から滲み出てくるのはむしろ崩壊の響きである。

しかし実際、本書はそういうものではないのである。著者は都市を巡り、歴史に思いを致す。そのシンプルな営みの中で、都市が置いてきた前近代の記憶をそこはかとなく掘り起こしていくだけなのだ。


『時代と人間』堀田 善衛 著

「時代の観察者」を描く本。

本書は、「NHK人間大学 時代と人間」のテキストを単行本化したものである。その内容は、ある時代の中で活躍しつつも、それをどこか醒めた目で見つめた人々を紹介するというもので、鴨長明、藤原定家、法王ボニファティウス、モンテーニュ、ゴヤの6人が取り上げられている。

平安時代、世の中は飢饉、大火事、地震などが立て続けに起こり、人々の暮らしは惨憺たる有様になっていた。そうでありながら、同時に宮廷では、そういう悲惨な現実とはすっかり遊離した『新古今和歌集』のようなシュルレアリスム的でさえある文学が組み立てられつつあった。

鴨長明は、自身でもそうした文学をつくりながら、批評家としてはその限界を認識し、遂には世を捨てて小さな移動式の家で無所有の暮らしをした。そこで彼は、「一人の孤独な、少し大仰なことばを使えば全人間というものに長明はなったのだろう(p.60)」と著者はいう。時代に背を向けるのではなく、むしろ時代をとことんまで見極めた人=「時代の観察者」、それが本書のテーマである。

一方、『新古今和歌集』の中心にいたのが藤原定家である。定家は日記『明月記』を書き続け、時代の様相を記録した。著者は定家が「紅旗征戎我ガ事ニ非ズ(戦争なんて俺の知ったことか)」と書いたのに衝撃を受けて『明月記』にのめり込んでいく。戦時中の日本で、仮にそんなことを書けば非国民と誹られたにもかかわらず、日記とはいえ平安時代に、自由で個人主義的な言論があったのである。

とはいえ『明月記』は変則的な漢文で書かれていて読むのに大変骨が折れる。そこで著者は自分の年齢の分の日記を読む、というやり方で20年以上も『明月記』に付き合い、その時代を見る目を追体験していった。それは平安時代が終わり、武家の時代が始まっていくことのヴィヴィッドな記録であった。

ところ変わって、フランスのモンテーニュ(著者は「ミシェルさん」と呼ぶ)も稀代の「時代の観察者」であった。ミシェルはボルドーの廻船問屋のお坊ちゃんで、当時最高の教育を受け、学校に入る前にラテン語がペラペラだった。長じてはボルドー高等法院の裁判官になったが、13年間務めながら一度も昇進しなかった。ミシェルは、法の公正性に疑問を感じ、裁判が欺瞞に満ちたものであることを見抜いていたからである。そこで39歳の時に公職を辞し、モンテーニュ領のシャトー(城館)へ引っ込んでしまうのである。

そして彼は、シャトーの塔の3階に引きこもって思索に耽った。透徹した目で時代を見つめながら、宗教戦争で荒れ狂う社会とは距離を置き、何者にも囚われない自由な発想で人間とは何か、国家とは何か、権力とは、理性とは…と考え抜いた。このような思索が『エセ—』として残されているということは、人類にとって僥倖であると言わねばならない。

それとは全く違うタイプの「時代の観察者」がゴヤである。彼は宮廷画家であったが、貴族にこびへつらうような宮廷人とは全く違った。それは貴族の時代が終わりを迎えていたからでもあって、絢爛豪華な宮廷文化が内側から腐っていき、新しい時代がわき出すのを皮肉っぽい目で観察していた。そしてナポレオン軍がスペインにやってきてゴヤは悲惨な戦争を目撃する。正視に耐えないような蛮行——それを彼はある程度時間が経ってから銅板に刻みつけた。その連作銅板が『戦争の惨禍』である。

彼は「この絶望を超えてなお生きていくことができるためには、人間がかかるものであることを身を徹して見聞きし、かつ表現しなければならない(p.184)」と言っている。人間の非常に醜いところ、下劣なところをも直視し、なおも進んでいこうとしたところにゴヤのすごみがある。人間なんてこんなものさ、と突き放すのではなく、人間の醜さを引き受けようとしたのがゴヤだった。

ちなみに著者はゴヤに惹かれ、晩年になってスペインに10年間住んでいる。著者は『明月記』を読み解いた『定家明月記抄』を上梓しているが、これもスペインで書かれたものだ。堀田善衛自身が、社会から距離を置いて、歴史から今の時代を見つめた「時代の観察者」であった。

また、鴨長明、モンテーニュ、ゴヤについても著者はそれぞれ名著と呼ばれる本を書いており、私はその全てを読みたいと思った。本書は、それらの本のエッセンスで構成されているとも言える。

「時代の観察者」を通じて、人間について深く考えさせる優れた本。



2021年6月4日金曜日

『「黄泉の国」の考古学』辰巳 和弘 著

古墳時代のあの世観を推測する本。

古代、海沿いの崖にある自然の洞窟(海蝕洞窟)は、しばしば葬送の場所になった。そこでは海に向けて置かれた船形の木棺で葬られた場合が散見される。また、古墳に船形木棺が安置されることもたびたびあった。それは「舟葬(しゅうそう)」と呼ばれる葬送方法で、神話学者の松本信広はこれを東南アジアの海洋文化に淵源するものと見た。

また、古墳には内部に様々な絵が描かれたものがあるが(装飾古墳)、そこにもゴンドラ型の船のモチーフがしばしば登場する。その他、霊魂を運ぶ(ように見える)馬も描かれることが多い。こうしたことは何を意味しているのだろうか。

著者によれば、そういった考察はこれまでの考古学ではあまりされてこなかったのだという。そうした空白を埋めるべく、古代人が考えた死後の世界を考古学的遺物を通じて推測したのが本書である。

しかしがら、そうした推測が妥当なものだと言えるのか、私には全く判断が付かなかった。悪く言えば著者の妄想のような推測もある。描かれたもの、残されたものは多様に解釈可能であるから、著者の解釈はたくさんある可能性の中の一つに過ぎず、「そういう考え方もできる」以上の受け止めは難しいと感じた。

とはいえ、船や馬といった移動手段を葬送に関係させたということは、「古代人は死後の世界を、船や馬を使って行く遠いところにある場所」と認識していたのではないか、という考えは説得的だと思った。

しかし例えば、記紀では死んだイザナミは「黄泉比良坂(よもつひらさか)」を過ぎたところにいるわけで、さほど遠い所にいる印象ではない。少なくとも現世と地続きにあの世が存在している感じである。この違いはどう考えればいいのだろうか。黄泉の国神話は日本に元々あったものではなく、外来のものなのかもしれないと思わされる。

というわけで、本書を読み終えても、古代人のあの世観はよくわからない…というのが率直なところだ。

舟葬に関する議論は興味深いが、著者の推測がどの程度妥当なのか不明なためなんともいえない本。


2021年6月2日水曜日

『新編 大蔵経—成立と変遷』京都仏教各宗学校連合会編

大蔵経の歴史を描く本。

大蔵経とは、仏教の経典や律・論書等、すなわち仏教のテキストの集成である。それはただテキストを集めたものではなく、大蔵経に編入(入蔵)するかどうかは、中国においては皇帝の勅許を必要としたほど権威ある集成であり、大蔵経は仏教テキストの正統にして最大のデータベースであった。

大蔵経は、成立の当初からかなり大部であった。劈頭に置かれることが多かった『大般若経』だけでも600巻あって、その全体は時代ごとの変遷はあるが大体5000巻余りを要したのである。であるから、これを出版するという事業はとても個人の力のなし得るところではなく、国家またはそれに並ぶような権力・財力によってようやく可能となるようなものだった。

即ち、大蔵経の歴史を繙くことは単にテキストの行方を追うだけでなく、国家と仏教の関係を概観するようなことでもあるのだ。

インド

仏教テキストが最初にまとめられたのはインドであり、幾たびか「仏典結集」が行われてテキストが整理されていった。しかし小乗仏教においては、論や律はテキスト化されたが、経典は基本的に口誦するものであり写本は作られなかったようである。経典が写本化していくのは大乗仏教以降であり、現在発見されている最古の写本はガンダーラから発見されたカローシュティー文字のもので紀元1世紀のものである。

中国

一方、中国においては仏典は翻訳によって普及した(最初からテキストで流布した)。そして翻訳の混乱を避けるため、翻訳された仏典の目録を作ることが次第に大蔵経に繋がっていく。特に五胡十六国時代には仏教が非常に盛んになってテキストの整備が進んだ。しかし中国では廃仏運動もたびたび起こり、特に隋代の前には徹底的な廃仏があった。隋代には、逆に仏教の復興運動が起こって、初めて組織的に大蔵経を整備する体制が作られた。隋代には写本の一切経(大蔵経の先蹤)もたくさん作られたようである。

唐代には『開元録』全20巻が著される。これは大蔵経編成史上、最善の総合目録である。これにより1076部、5048巻の大蔵経の構成が明示され、その後の大蔵経は『開元録』の構成を長く踏襲した。またこの頃より入蔵には勅許が必要とされるようになった。

なお、こうした大蔵経編纂の動きとは別に、石刻経典が制作された歴史もある。末法思想などを受け、仏典の永続性を願い、経典を石に刻んだのである。特に隋代の静琬(じょうえん)は、全経典の全文を石板に刻んで洞窟内に封蔵し、法滅の到来に備えるという異次元の事業を企画した。この事業は300年かけて完成され、さらに補刻追雕は明末まで約一千年に及ぶ一大護法事業であった。これは今でも1万4620石が保存されている。

開板(印刷)の大蔵経のはじめは、宋の太祖による開宝蔵(蜀版大蔵経)である。太祖は四川の人心収攬政策の一環としてこれを企画したと見られる。開宝蔵は日本僧奝念(ちょうねん)によって日本にももたらされ、藤原道長に献上された。その後、金版大蔵経、契丹版大蔵経、などが開版された。

さらに11世紀後半からは、国家ではなく寺院による大蔵経開板が行われる。蜀版大蔵経以来の伝統がある福建では福州東禅等覚院、それに続き福州開元禅寺が開板。江南では思渓円覚禅院、蹟砂延聖禅院、白雲宗教団の普寧寺などが大蔵経を開版した。これらは、地域の富豪や名家からの協力や浄財を募って実施されるプロジェクトであった。ただし、蹟砂延聖禅院の場合は、なんと僧了懃(りょうごん)によるたった一人の個人的運営でスタートした。しかしそれにしても大檀越(支援者)が現れてようやく事業が進捗していったのである。

なお白雲宗は仏教系の新宗教であったが、元のクビライに教団の公認と大蔵経開板の許可を取り付け、14年という短期間で完成した。普寧寺蔵は中国のみならず日本にも多くもたらされた。(なお元は勅版大蔵経もつくっている。)

明代になると、南・北両京で勅版大蔵経が開板した。南蔵は、洪武南蔵と永楽南蔵の2種が作られた。北蔵は、永楽帝によって永楽南蔵と時を隔てずして企画され、非常に精確であったが宮中に秘蔵され、「特賜」や「奏請」以外に入手が不可能だった。そのため明末にはその普及版とも言うべき嘉興蔵が寺院・民間の力によって開板された。嘉興蔵の大きな特徴は、それまでの折り本に変わって袋とじ製本を採用したことである。南蔵・北蔵は日本へは舶載されなかったが嘉興蔵は50蔵以上輸入されたと見られる。

清代では、雍正帝が大蔵経開板を企画して乾隆帝の時に完成した。これが龍蔵である。中国では、古代から近世までずっと大蔵経が作られ続けていたといえる。その事業の目的は必ずしも弘法だけでなく、政治的な意図も多分に含まれていたのであるが、大蔵経が国家・民間のそれぞれで継承・発展せしめ続けられてきたのは確かである。

朝鮮

朝鮮では高麗時代に2度の大蔵経開板が行われた。1度目は、契丹の侵攻を受けて、仏力による契丹退散を祈願して大蔵経が開板された。この版木はモンゴルの侵攻によって焼失してしまったため、モンゴル軍の退散を祈願して2度目の大蔵経が開板された。

日本

日本では、奈良時代に(「大蔵経」ではなく)「一切経」の書写が盛んになった。「一切経」は当時の用語で、大蔵経よりも意味が広く、たくさんのお経の集成といった意味合いで使われていた。最古の確実な一切経書写は「聖武天皇発願一切経」。国家的な写経機構もあり、7〜8世紀には頻繁に一切経の書写がなされた。

平安時代前期には一切経書写は一時低調になるが、9世紀には律令国家が諸国に一切経の書写を命じ、実際に(全国でないにしても)実行に移された。また平安時代後期になると、各地の寺社で勧進(寄附集め)による一切経書写が広く行われるようになった。また奝念によって開宝蔵が日本にもたらされると(前述)、筆写ではなく印刷の大蔵経が正統な一切経であるという意識が生まれ、強い憧れが生じた。

11世紀になると、末法思想の影響を受けて一切経を供養する「一切経会」が行われるようになる。これは、衆僧を請じ、転読あるいは真読して供養し、またそれに付随して管弦舞楽を行う貴族の遊楽の行事である。

中世に入ると、栄西、重源らは宋版の大蔵経を持ち帰り、次第に大蔵経が宗教的・政治的に重要な役割を果たすようになっていく。それには、二度の元寇の脅威も影響していた。大蔵経に国土安全や攘災の役割が期待されたのである。例えば、弘安2年(1280)、西大寺の叡尊は亀山天皇からの勅命を受けて、多くの僧侶を率いて伊勢神宮(内宮・外宮)に参詣し、亀山天皇から託された大蔵経を内・外宮に献納した。神社に大蔵経を献納するというのが今から見ると面白い。また禅僧で宗像社一宮座主だった色定法師は一人で一切経を書写した(色定法師一切経)。一切経会も賀茂社など神社で催されるのが恒例だったが、神社でも一切経は重んじられたようである。

南北朝・室町期で注目されるのは、足利尊氏発願の一切経である。尊氏は南北朝動乱で命を失った敵味方一切の亡魂供養のために一切経書写を発願した。この一切経は、亡魂供養のみならず政治的混乱を収拾し、社会の安定を図る意図が込められていた。後年、足利義満によって万部経会が始められ、歴代将軍が参詣する北野社で行われる重要行事となった。このため、北野社ではこの法会を管掌した覚蔵坊増範が主導して一切経が書写された(北野社一切経)。

室町期、特に応永年間には多くの大蔵経が海外(特に高麗)に求められた。しかも足利義持は高麗に大蔵経の版木を譲ってもらえるように交渉した(当然断られた)。この時期は「応永の平和」と呼ばれる安定期である。かつては元寇によって大蔵経の価値が高まった一方で、平和になっても大蔵経が求められたのが不思議といえば不思議である。しかしさらに不思議なことに、大蔵経の需要は大きかったのにもかかわらず、日本で大蔵経が開板されることはなく、海外に依存していた。一切経の書写は多く行われていたにもかかわらず印刷はされなかったのはなぜか。技術的な問題だけでなく思想的なものが関わっていそうである(筆写の方が有り難いという認識があったのかもしれない)。

江戸期に入ると、遂に日本でも大蔵経が出版される。しかも宗存版、天海版、鉄眼版と、立て続けに3回も開板された。

宗存版の著しい特徴は、それまでの大蔵経が木版による整版だったのに対し、古活字版だったことである。宗存版は残念ながら未完に終わったが、世界初の活字版大蔵経であった。なお印刷は北野社の経王堂(万部経会を開催するための広大な建物)で行われた。

天海版は、徳川家光の支援を受け、日本初の活字版大蔵経として完成した。印刷部数は30部程度と少ないが、出版文化史に残る業績である。

鉄眼版は、いわば普及版の大蔵経である。黄檗僧の鉄眼道光は何の資金的裏付けも持たない一介の僧侶であったが、全国に行脚して浄財を集め、非常なる情熱で全6930巻を完成させた。これは全国に予約販売のような形で販売され、当時405蔵が納入されたという。昭和までに2000蔵以上が納品されたヒット商品であった。鉄眼版大蔵経によって全国共通の大蔵経の底本ができたことは、日本の仏教を大きく転換させるほどのインパクトがあった。これをきっかけに、以後の各宗派では盛んに校訂が作られ、近代仏教学の成立に繋がっていった。

明治になると、日本初の金属活字を利用した「大日本校訂大蔵経(縮刷大蔵経)」(明治14年)が出版された。これは廃仏毀釈で痛手を受けた仏教界の再興を願って、島田蕃根(みつね)、福田行誡(ぎょうかい)が企画したものである。これは明治の仏教学研究に大きな影響を与え、海外でも評価された。

有名な「大正新脩大蔵経」(昭和9年完成)は、それまでの大蔵経とは違い研究のためにまとめられたもので、大蔵経の集大成でもあり、仏教研究の基礎的文献として世界各地で今でも使われている(DB化されてインターネットで利用出来る)。

本書では大蔵経の歴史を書くにあたり、それぞれ判型(一行何字・何行といった)や千字文函号(いろはに…と同じような千字文の字によるナンバリング)の有無をまとめており、そうした形式面の変遷をたどるだけでも面白い。

本書を読みながら驚きを禁じ得なかったのは、冒頭に書いたように大蔵経の出版は「とても個人の力のなし得るところではない」のにもかかわらず、それに果敢に挑戦した無謀な人物が歴史にはたびたび登場することだ。

では、彼らは何故人生を賭けてまで大蔵経を出版しようとしたのだろうか? 本書にはそれは詳らかに書いていないし、そもそも発願の趣旨は史料に残っていることは少なく、よくわからない。弘法のためということは言えても、弘法の手段としてなぜ一切経の出版を選んだのか、そこは非常に興味を引かれるところである。

その点に関して一つ言えることは、中国と日本・朝鮮では大蔵経の持つ意味が少し異なっていたということだ。中国では、大蔵経はテキストとして意味があったが、日本・朝鮮ではテキストの内容よりも大蔵経の存在自体に象徴的意味を見出していたように見受けられる。元寇に際して高麗が大蔵経を開板して攘災を願い、また叡尊が伊勢神宮に大蔵経を献納して敵国降伏を願ったように、大蔵経は不思議な力を持っているとさえ見られていた。大蔵経は、テキストの集成以上のものだったのである。

大蔵経とは何かを学ぶための最良の本。