2023年10月30日月曜日

『神々の体系—深層文化の試掘』上山 春平 著

日本神話編集の背景を推測する本。

著者は、『古事記』と『日本書紀』の神話、特に『古事記』の神話に登場する神々が、整然とした体系を持っていることに気付いた。それは、

アメノミナカヌシ→
【高天の原】イザナギ→アマテラス→ニニギ
【根の国】イザナミ→スサノオ→オオクニヌシ
→イワレヒコ(神武天皇)

という、高天の原系と根の国系が対応し、イワレヒコで統合されるというものである。それは自然に成立したものというより、何らかのイデオロギーなり国家哲学があったのではないか、と著者は推測する。

では、その背景に何があったか。津田左右吉は大正時代に「記紀は天皇家の支配体制の正当化を神話によって表現したものだ」という説を唱え、それが無批判に受け入れられてきたが、著者の考えは、記紀の編纂は藤原不比等が中心になって行われたもので、記紀は藤原家支配の正当化のためになされた、というものだ。

周知のように藤原家は、大化改新で政権奪取の立役者となった中臣鎌足から政権の重臣となった新興家系である。その頃は「氏姓(うじかばね)制度」で、基本的に家格と役職が定められており、ある意味では江戸時代の身分制度に似ていた。だが藤原氏は新興家系であるため、氏姓制度での後ろ盾がない。そこで鎌足の子、藤原不比等は、平城京への遷都と律令制によって法治国家の体裁を整え、氏姓制度に風穴を開けたのだ……と著者は考える。

そして、記紀が完成したのが、どちらも不比等が権力の絶頂にあった頃であることを考えると、記紀の編集には不比等の意向が反映していたに違いないという。というのは、記紀は元明女帝の頃に完成しているが、元明を擁立したのは他ならぬ不比等である(と著者は考える)からだ。

元明は天智の子、天武の子(草壁)の妻であり、文武の母である。文武の妻(宮子)が不比等の子で、その子が聖武である。重要なことは、不比等にとって天皇家との縁戚関係開始がこの宮子と聖武にあったということだ。だから文武が僅か28歳で死去してしまった時、不比等としては是が非でも次期天皇は聖武(当時は首皇子。不比等の孫)に継がせたかった。そのためには中継ぎとして文武の母=元明を担ぎ出す必要があった。そして元明→聖武という祖母→孫へという権力継承を企図したのである。

これが、アマテラス→ニニギという祖母→孫継承の母型として表現されている、と著者は考える。また、神話の登場人物は当時の権力者になぞらえられているとされ、例えば不比等はタカミムスビに当たるという。さらに、皇統の父系相承の継承原理「不改常典(あらたむまじきつねののり)」は初めて元明の宣命によって出されており、聖武への継承を絶対のものにするために導入されたものだという。

では、これらの証拠はあるのだろうか。著者は2つの和歌を手がかりにする。第1が「ますらをの 鞆の音すなり もののふの(物部の) 大臣(おほまへつぎみ) 楯立つらしも」という元明天皇の歌。第2が著者が元明天皇の歌と比定する「飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ」という歌である。説明は省くが、これらは強引に即位させられ、平城京へ遷都させられた元明天皇のそこはかとない無力感が表現されているという。

しかしながら、著者は最初の神々の体系が、どう藤原氏独占体制に繋がっているのかをしっかりと説明していないように見受けられ、本書はアイデアの提示だけで終わっているような感じを受けた。実際、本書が発表されるや、多くの古代史家がこれに反応して批判した。

著者の専門は哲学で、日本古代史は専門ではなかったのだが、それまでの通説を違った角度から否定し、生き生きとした新説を提示したことで、本書はかなり大きなインパクトを与えることになった。この頃は学際的な雰囲気があって、梅原猛や梅棹忠夫らと共同して日本史や日本文化論を考察したことは、新たな「日本学」を作った。

とはいえ、本書は著者自身も認めるように不完全なものであり、『続・神々の体系』でそれが補完されることになる。

藤原氏独占体制と日本神話との関係を探った重要な本。

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2023年10月16日月曜日

『女帝と道鏡—天平末葉の政治と文化』北山 茂夫 著

孝謙/称徳天皇と道鏡について、天平末期の政治状況から述べる本。

女帝・称徳天皇は病気を治してくれた道鏡を重用し、遂には道鏡を天皇として即位させようとした。しかし、宇佐八幡宮からの神託は「天皇は皇緒をつけよ」という道鏡の即位を否定するものだったため、その野望は果たせなかった。天皇の地位を皇子でないものが狙った、日本史において唯一の事件である。

本書は、天平末期の政治状況からこの事件を位置づけようとするものであるが、私はどうも内容に没入することができなかった。

というのは第1に、本書には一次史料に基づかずに筆を走らせている部分が非常に多い。最も重要な女帝と道鏡の関係については「情事」をたびたび述べているが、当然ながら一次史料には女帝と道鏡が情事を持ったことは書かれていない。よって「情事があったのではないかと考えられる」とすべきである。他の点でも、著者は通説を批判することなく用いている箇所が散見される。

第2に、出典が明記されず、史料批判が一切行われていない。道鏡関係については、『続日本紀』と『八幡宇佐宮御託宣集』(に収録されている史料)が、主な典拠史料になるかと思うが、本書にはいちいち出典が明記されていないので、どの史料に基づいて記述しているのかわからない。そして、『続日本紀』にしろ『御託宣集』にしろ、そしてその他の史料にしても、史料は何らかの意図を持って作られており、使用に当たってはその意図を吟味することが求められる。本書はそうした作業を経ずに書かれている。

第3に、後半はやや舌足らずな部分があるように見受けられる。本書では宇佐八幡宮神託事件における和気清麻呂の行動はかなり簡略化して述べているが、その後の考察では前に述べていない事実に基づいているなど、書き忘れたのではないか? という箇所がたびたびあった。新書版あとがきによれば、本書は一月ほどで書いたものだそうなので、足りない記載がいくつかあったのかもしれない。

このように、本書は一言でいって脇が甘く、現在の歴史学の水準から見ると緻密さに欠けるように思う。

ただし、女帝と道鏡を天平末期の政治状況に位置づけるという目的は、ほぼ達成されている。また、彼らの政治は仏教政治といわれるが、実際の政策には仏教はそれほど影響を与えておらず、むしろ唐風の統治機構を取り入れるなど、唐風政治の側面が大きい、という著者の主張には蒙を啓かれた。

そして、女帝と道鏡の歴史的意味については、その蹉跌によって国家仏教が終わった、という点が強調されている。これは通説の範囲であろうが、改めて言われてみるとその通りだと思った。

通説を無批判に用いているため迫力はないが、称徳天皇・道鏡の時代について見通しよく述べる平明な本。

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2023年10月13日金曜日

『暗殺の幕末維新史—桜田門外の変から大久保利通暗殺まで』一坂 太郎 著

幕末明治における暗殺を述べる本。

幕末には実に多くの暗殺や暗殺未遂事件が横行した。その数は百件を超す。また維新後も、数は減ったものの暗殺は続いた。本書は、そうした事件をほぼ時系列的に列挙して幕末維新の歴史を述べる「闇の維新史」である。

そのように暗殺が頻発したのは、日本史の中でも幕末しかない。それには天皇の存在が関わっていた。自らの考える「正義」が天皇に仮託され、「叡慮」を覆う奸臣、宸襟を悩ませる逆徒を誅することが「尊王」であると信じ、殺人をなんとも思わなくなってしまったのだ。

攘夷を叫ぶ人々が最初の標的にしたのは外国人だった。攘夷家たちは外国人によって神国が「汚される」と考えたのである。外国人暗殺事件の第一号は、安政6年(1859年)に、ロシア艦隊の水夫と海軍少尉が殺害されたものである。犯人は水戸の天狗党のひとりである。ハリスの秘書兼通訳のヘンリー・ヒュースケンも暗殺された。しかも犯人は捕らえられていない。イギリスが公館をおいた東禅寺は二度も襲撃を受けた。

開国に踏み切った井伊直弼が白昼堂々殺害された際にも、斬奸状には「実に神州古来の武威を穢し、国体を辱しめ」と非難されている。東禅寺襲撃犯の一人も「夷狄の為に穢れ候を傍観致し候に忍びず」云々という書を持っていた。外国人への反感が、「神国を穢す夷狄」という図式で正当化されていた。

しかし「文久2年(1862)以降は神国思想による狂信的なテロは少なくなり、政治的なパフォーマンスとしてのテロが主流になる(p.45)」。しかも確固たる理由があったのではなく、噂を真に受けて簡単に人を殺している場合が多い。国学者の鈴木重胤が暗殺されたのは廃帝の調査をしているという噂のためだった。暗殺者たちは、要路にある人物を殺害することで卑賤の身にすぎぬ者が政策決定に影響を与えるという誘惑に勝てなかったのである。

そういう殺害はやがて「天誅」と呼ばれるようになる。天誅第一号とみなせるのは、関白九条久忠の家士島田左近(文久2年)の殺害。犯人は薩摩藩の田中新兵衛であるが、裏には藤井良節らがいた。薩摩藩は過激な攘夷派を粛清した寺田屋によって評判を落としており、その人気を取り戻すためという側面もあったようだ。島田の首は青竹に突き刺されて鴨川の河原にさらされ、斬奸状には井伊直弼のブレーンだった長野主膳を批判しつつ、それと同調した島田を「天地に容れざるべき大奸賊也。これにより誅戮を加へ梟首せしむ者也」と述べてあった。グロテスクな見世物は大評判になり、人心を無視しえなかった彦根藩は長野主膳を斬罪に処している。天に代わって人を討つとは随分不遜な殺人があったものだ。

なお、田中新兵衛は後に土佐の武市半平太と意気投合。武市は「派手な暗殺で土佐の存在を京都じゅうにアピールしようとし(p.65)」ており、二人は京都に血の雨を降らせた。同じく土佐の岡田以蔵は、多くの大衆作品で描かれ人気があるが、彼は「殺人をゲーム感覚で楽しんでいた(p.71)」。桜田門外や坂下門外の浪士たちとは違い、岡田たちは「天誅」を大義に、「抵抗できない者をなぶり殺しにするサディスティックな快感に酔いしれながら、それを正義と信じていた(p.72)」。

治安を守るべき幕府の役人も標的になり、4人の首が処刑場にさらされた。これには薩長土と久留米藩の「志士」が関わっているという。町奉行所は報復を恐れて及び腰で、大抵の暗殺犯は捕らえられずに済んだ。治安が崩壊していたのである。

このように、文久2年は暗殺の年ともいうべき年であった。しかし高官を直撃するのはテロリストとしてもリスクが大きい。脅して黙らせるのが目的なら高官自身を狙う必要はなく、周囲の人物で十分だ。

文久3年(1863)、儒者の池内大学が殺され、その耳が三条実愛と中山忠能の屋敷に投げ込まれた。震え上がった二人は直ちに議奏を辞職した。岩倉具視や千種(ちぐさ)家も標的になった。先ほどの島田左近もそうだが、幕府側だけでなく朝廷側もかなり暗殺の被害を被っている。ちなみに公家自身が暗殺された最初は、攘夷公卿として知られた姉小路公知。過激な攘夷から態度を軟化させつつあった矢先の出来事であった。攘夷派は、国論が開国でまとまろうとするたびに暗殺でそれを妨害した。

こうした状況を受けて、会津藩主の松平容保(かたもり)は、暗殺が繰り返されるのは上下の事情が隔たり過ぎているからだとして、「言路洞開」が必要だとした。「言路洞開」はこの頃盛んに言われるようになっていた。容保はテロを取り締まるのではなく(というより町奉行所の取り締まりが期待できないので)、浪士たちを組織化して統率しようとし、その構想は後に「新撰組」として実現。奉行所と違って断固として治安維持を行ったので市民からの信頼を得た。

なお暗殺をしたのは浪士ばかりではない。例えば攘夷派の清河八郎は、新選組の母体の浪士組(芹沢鴨と近藤勇をそれぞれ中心とした2グループ)と朝廷を結び付けようとしたため、危険を感じた幕府によって暗殺された。また会津藩も、有栖川家に近づき宮家の警護を申し出た芹沢鴨を近藤グループに暗殺させている。

長州藩では、旗本の幕府からの親書を持ってきた中根市之丞が暗殺された。奇兵隊は中根が乗ってきた重陽丸を奪った上、藩がその返還を命じたのに返さず、ついには暗殺したのである。長州藩自身が奇兵隊に振り回されていた。この幕使暗殺という暴挙は、後に長州征討の理由にもなった。

孝明天皇が開国を勅許すると、「叡慮は攘夷にあり」と息巻いていた暗殺者たちは大義名分を失う。暗殺者たちは天皇の意を体しているつもりでいたが、孝明天皇は暗殺のような手段を憎んでおり、暗殺の横行は意に沿わぬものであったことは言うまでもない。

しかしその後も暗殺は続き、佐久間象山(開国を説いた)、中山忠光(攘夷公卿で長州藩に逃れたが、長州藩にとってはやっかいな存在)、イギリス陸軍の少佐と中尉、真木和泉の四男菊四郎、原市之進(徳川慶喜側近)、赤松小三郎(洋学者、薩摩藩に門人が多かった)、坂本龍馬、中岡慎太郎、伊藤甲子太郎(元新選組幹部、新選組に殺された)など、いろいろな立場の人物が次々と凶刃に斃れている。

幕末後期にあっては、暗殺はもはや異常なものではなくなり、各陣営にとっていともたやすく実行されるものになっていたといえる。攘夷・開国・幕府・藩・浪士など、主義主張や立場を異にする者たちが暗殺を使っていた。だが意外なのは、この時の最高権力者(天皇・将軍)が暗殺を用いた形跡がないことだ。下々の者は暗殺に狂っていたが、最高権力者の方は冷静だったのだろうか。

明治維新が起きると、明治元年(1868)1月に早速政府は暗殺を禁止した(暗殺禁止令)。そして暗殺が横行したのは「言路洞開」のルールがなかったからだとして、形の上では公然と意見を言えるようにした。それでも暗殺事件は絶えなかった。ここで本書では、明治11年までの代表的な暗殺事件について述べてその背景を探っている。

それを大雑把に述べれば、明治の暗殺者たちは「維新に乗り遅れたものたち」で、開国にかじを切った新政府を憎んで開化政策に反対していた。彼らは「維新」に裏切られたと思っていた。しかし幕末と違ったのは、そうした事件を起こした者たちが政府によってちゃんと裁かれたということだ。結局は、幕末に暗殺が横行したのは幕府の治安維持体制の弛緩による部分が大きい。

本書は最後に、暗殺されたもの・暗殺したものに対する顕彰運動について述べている。例えば明治40年、旧彦根藩の旧臣たちは井伊直弼の顕彰(銅像の建設)に乗り出した。ところが政府の元老たちは「井伊直弼は志士を弾圧した本人。顕彰などけしからぬ」と横槍を入れ、彼らに対抗して井伊を暗殺した浪士たちを「烈士」として礼讃。「桜田烈士五十年祭」を靖国神社で挙行した(主催はやまと新聞)。誰を顕彰し、誰を顕彰しないか、それは社会や政府の様々な思惑が働いていた。反幕側では、暗殺者は靖国神社に祀られ、官位の追贈を受けたものが多い。しかし全くそういう顕彰がなされなかったものもいる(例えば岡田以蔵)。

本書は、暗殺というテロ行為を主役にして幕末維新史を述べるものであるが、一言でいって、幕末の志士たち、少なくともその一部は狂っていた。天下国家を論じる大言壮語に気焔を上げながら、同時に人を殺すことをなんとも思っていなかった。それどころか、暗殺によって名を上げるために殺害に適当な人物がいないか探していた。武市半平太の門人の田中光顕は、京に上がって「さて誰を殺そう」と考えたというが、これなどはテロリストであるよりも、むしろ単なる殺人者であった。彼らは、芸者を侍らせ、一廉の人物として怖れられることを望んでいただけのならず者であった。

伊藤博文も噂話で人の命を簡単に奪い、しかもそれを終生反省していなかったらしい。正義が自分の側にあると信じて疑わなかったからだろうか。それとも、維新の過程は一種の「戦争」だったからだろうか。最近はあまり言われないが、明治維新は「無血革命」であったとされることがある。しかし多くの血が流されたことは間違いない。

明治維新の血塗られた側面を平易に語る良書。

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2023年10月7日土曜日

『江戸の幽明―東京境界めぐり』荒俣 宏 著

荒俣宏が語る江戸の田舎めぐりの本。

本書は、「朱引のうちそと」を荒俣宏が歩き、江戸時代そこはどういうところだったか、どのような変遷があったか、見どころはどこかなどを自分史に絡めて語る本である。

では「朱引のうちそと」とは何か。江戸時代には、江戸は府内と郡部(郊外)が分かれていた。その境界は時代により変わって一定しておらず、しかも明快さを欠いていたが、江戸時代後期になってようやく境界が定められた。その地図を「朱引図」といい、府内が朱線で囲まれていた。だいたい四里四方の範囲であり、これは旗本が外出届不要で江戸郊外へ外出できる範囲でもあった。この範囲内がいわゆる「江戸」であり、大江戸八百八町などという「町」はこの内側にある。最も多い時で1700もの町があり、人口100万人を超える当時世界最大の都市であった。

では府内と郡部は何が違うか。要は、郡部は各地の代官が支配していた、ということが一番大きな違いのようだ。では府内は全て町奉行の管轄だったかというとそうでもなく、寺社奉行の管轄する場所(寺社地)や勘定奉行の管轄する場所もあった。そして町奉行が独占的に支配している地域が朱引の中にあり、これは黒線で表したため「墨引」の名がある。

ところが朱引の外に墨引がはみ出した地域がある。これは、江戸府内ではないが町奉行が管轄した地域で、具体的には目黒にあたる。目黒は森と山ばかりの地域であったが目黒不動周辺は門前町として栄え(他にも名刹が10以上あった)、そこに不法滞在する人が多かったので町奉行の管理を要したためと考えられる。

つまり江戸は、都市計画的に作られた境界のある都市ではなかった。徐々に町が拡大し、郊外との間に「朱引のうちそと」がまじりあう領域を持った膨張する都市だったのである。本書は、そうした境界部をめぐることで、江戸の周辺的話題を盛り込んだ本なのである。

しかしながら、江戸に都市計画がなかったわけではもちろんない。特に上水と水路(運河)については入念に整備されており、中心から放射状に延びる陸路と、環状または同心円状に造られた水路という二重構造が江戸をダイナミックに発展させた。

本書は約500ページあり、本書に描かれた江戸=東京は多様であるが、心に残った項目だけをメモしておく。郊外都市を人工的に生み出した田園調布、明治神宮のS字型に曲げられた参道、井上円了がつくった中野の「哲学堂」、明治の末まで「文化果てる地」だった田端文士村(芥川龍之介の居宅があった)、深川の八幡祭りの巨大かつ豪華な神輿(重量4.5トン、佐川急便の社主佐川清の奉納。鳳凰の胸には7カラットのダイヤモンド! 大きすぎて使えない)、馬込文士村(尾崎士郎、川端康成など)、銀座大火をきっかけにして築地から銀座へと繁華街は移ったこと、など。

ちなみに、著者が「本書は、私が刊行した書物のうちで、もっとも私的な要素を盛り込んだ本になったのではないだろうか(p.503 )」という通り、個人的な回想や私的な関連事項の記載が多く、これはこれで面白い。特に著者が力を入れて書いているのは著者の文学上の師匠である平井呈一についてで、平井が永井荷風から絶縁されて後のことなど、本書の主題からは逸れるのだが興味深く読んだ。

また、上述の田端文士村や馬込文士村だけでなく、文学とのかかわりがたくさん書かれているのも本書の特徴である。それで感じたのは、近代文学は文士たちの「お隣さん意識」に支えられて勃興したということだ。彼らはバラバラな個人だったのではなく、しばしば近所に住み、文学的な議論はもちろんのこと、奥さん同士が助け合ったり、困ったときに金を貸しあったりしながら作品を書いていた。新しい芸術を生み出すには、そういう「密度」が必要だとつくづく思った。

江戸の残照を感じつつ、いろんな話題を気軽に読める肩の凝らない本。

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