2023年3月28日火曜日

『後水尾天皇』熊倉 功夫 著

後水尾天皇の評伝。

後水尾天皇は、江戸幕府初期の天皇である。戦国時代よりは持ち直したとはいえ時の朝廷の権威は未だ弱く、徳川の支配を受けなくてはならなかった。この難しい時代において、幕府に翻弄されつつも天皇・朝廷の復興に力を尽くしたのが後水尾天皇である。彼は幕府に従いながらも、江戸とは違う中心として朝廷を文化面で盛り上げた。本書はその事績を辿るものである。

戦国時代、朝廷の権威は地に落ちていた。しかし信長・秀吉の時代には急速に高められる。権力者にとって下剋上は望ましいことではなかったので、天皇の権威を借りて秩序を固定化しようとしたからである。すでに戦乱の時代が終わり、現実に下剋上を成し遂げることが不可能になったとき、成り上がりに乗り遅れたものたちは下剋上を風俗化し、「かぶき者」として異風異体で異様な名前を名乗り、封建道徳に従わず町で名を売った。身分の低い牢人たちだけでなく、そのような者が若公家にもいた。

その一人に猪熊教利(のりとし)がいた。慶長14年(1609)、彼は仲間とともに後陽成天皇の寵愛を受ける官女と密通。朝廷は検断権がなかったので、幕府に処分を依頼。彼らは処分されたが、面目丸つぶれとなった後陽成天皇は公家衆はもちろん母親や皇后とも逢わなくなり、ひたすら譲位を願うようになった。

その以前、慶長3年(1598)に、すでに後陽成天皇は譲位を望んでいた。しかし皇位を継ぐべき一宮・二宮(長男・次男)はなぜか門跡寺院へと送られた。そして官女密通事件を受け、後陽成天皇の譲位希望が改めて幕府に伝えられたのである。しかし家康(とそのブレーン金地院崇伝)は譲位に際していろいろと注文を付けた。天皇は反発したが、朝廷は財政的にも幕府に依存しており家康のいうとおりにする以外はない。天皇は「ただなきになき候」と涙に暮れながら承諾。結果、慶長16年(1611)、遂に三宮・後水尾天皇が即位。このゴタゴタによって後陽成院と後水尾天皇は不和となり、それは終生解けることはなかった。

慶長18年(1613)には、新内裏が完成した。幕府はその実力を示威し、また朝廷を掣肘する意図を持って、厖大な費用をかけ比類なき内裏を造営した。さらに幕府は公家衆法度・勅許紫衣法度を制定。寺院人事は幕府の許可を要するようになり、公家の自由が制限された。

元和元年(1615)、家康は朝廷対策の仕上げとして禁中並公家諸法度を制定。禁裏に対して法制を発布したのは、武家政権として前代未聞のことであった。ここでは公家衆法度が天皇にまで適用されるとともに、武家官位と公家官位を分離し、朝廷の任官に幕府が介入しうる余地を作った。ただし公家については、その「家業(家々之学問)」が公的に認定され、一面でその権利が保護されたことは見逃せない。

そして、禁中並公家諸法度では、天皇のつとめは「諸芸能之事」と規定された。天皇は文化面の権威であるとされたのである。後に述べるように、後水尾天皇はこれを体現した。

ところで家康は、元和6年(1620)、後水尾天皇に二代将軍秀忠の娘和子(まさこ)を入内させた。後水尾天皇には、すでに女官との間に皇子賀茂宮・皇女梅宮という二人の子どもが誕生していたためこの結婚には難色を示した。彼は譲位してこの結婚を避けようとしたが、藤堂高虎が恫喝して公家衆が従い、やむを得ず受け入れた。入内の道具は厖大であり、幕府の力はここでも朝廷に見せつけられた。和子入内は、朝幕の親和を示すというよりは、朝幕の軋轢を生んだ。

その軋轢もようやく和らいだ頃、家光が三代将軍に就任。秀忠と家光は将軍宣下のために参内。その派手な行列と物量に公家は驚いた。また禁裏御領として1万石が寄進された。後水尾天皇はこれに応え、また旧儀復興の意図から和子を中宮とした。南北朝以来廃絶していた中宮の復活である。またこの行幸を記念して年号が「寛永」に改まった。

そして秀忠は後水尾天皇を二条城に招き、寛永3年(1626)、5日間にわたる二条城行幸が行われた。将軍の私第(邸)への行幸は、これ以後江戸時代を通じて行われなかった。将軍の権威が確立し、天皇の権威を借りる必要がなくなったからである。なおこの時の行幸では、天皇の膳具は全て黄金であり、小堀遠州が調整した風呂釜など茶道具も全て黄金であったという。未だ「かぶき者」的な絢爛さを世の中は残していた。

こうして融和的になっていた朝幕間は、寛永4年(1627)、「紫衣事件」がおこって再びギクシャクした。勅許紫衣法度によって寺院人事・紫衣勅許は事前に幕府の許可を得ることになっていたが、朝廷が幕府の許可を経ずに行っていたことが明らかになり、金地院崇伝らが起草した「上方諸宗出世法度」でその間の出世入院を無効とし、綸旨を破棄させたのである。

これは当然に各宗に大混乱をもたらし、また寺院では強硬派と従順派に分かれて争いが起こった。特に強硬派だった大徳寺の沢庵や妙心寺の僧らには配流など厳罰が処された。そして自らの発行した綸旨が無効だとされた天皇は面皮を欠くことになり、女一宮に譲位したいと幕府に申し入れた。後水尾天皇はまだ30代であった。

なお後水尾天皇はこの頃腫れ物で苦しんでおり、灸治を受けるために譲位を希望したという説もある(天皇在位中は体を傷つける灸治は受けられない)。

譲位の希望を受けて、幕府は難色を示し譲位引き延ばしを試みた。そして家光の乳母江戸の局を上洛して拝謁を要求。朝義復興が念願だった天皇としては、この無位無官の女性の参内は不快であった。そして幕府の容認は得られないと悟った天皇は、公家衆にも知らせずゲリラ的に儀式を行い、勝手に譲位してしまった。

そこまでして譲位したのは、「中宮和子以外の女官に生まれた皇子が、殺されたり、流産せしめられていた(p.117)」ことが背景にあると考えられている。後水尾天皇には18人の皇子と19人の皇女がいたが、この時期には不自然に和子以外からは子どもが生まれていないのである。幕府はなんとしても和子の血統で次の天皇を出したかったから、他の子どもを暗殺したのはありそうなことだ。しかし肝心の和子の生んだ皇子は生まれてすぐに死亡し、皇女しか残らなかった。

秀忠は突然の譲位に激怒したが、朝廷には表立って処分は下らなかった(武家伝奏の中院通村が更迭された程度)。こうして和子の生んだ皇女が女帝・明正天皇として即位した。奈良時代以来、約860年ぶりの女帝であった。そして、院の住居である仙洞御所と、和子改め東福門院の女院御所が造営され、後水尾院の真価が発揮される寛永時代が始まった。

ところで、朝幕関係のキーパーソンになったのが京都所司代である。京都所司代板倉勝重は人柄がよく思慮深く、家康のみならず後陽成天皇にも信頼されていた。対朝廷の幕府政策は実質的には京都所司代によって決定されており、京都所司代は一官僚ではなく、西日本の最高司令官であった。これを継いだのが息子の板倉重宗で、彼は和子入内や後水尾天皇の譲位という難しい問題を処理し、朝幕融和の時代を作りあげた。

重宗は後水尾院と協力して町方の儒者松永尺五を応援したり、本阿弥光悦に領地を与えたりするなど、文化の後援者となった。彼は京都の町衆を幕府の手中に取り込み、特に上層町衆には代官職を与えて幕府の御用商人化するなど、町衆、文化人、職人などをある意味では籠絡した。しかしそれは政治的な思惑ばかりでなく、例えば安楽庵策伝の『醒睡笑』は重宗が面白がったことがきっかけで公刊されたものであるなど、「板倉所司代一個人の判断で文化人が庇護され新しい創作に成功(p.144)」するような、見識のある文化の庇護者であった。

板倉所司代とならぶ寛永文化のサロンだったのが、鹿苑寺。住持鳳林承章は後水尾院の近縁で、公家、僧侶、絵師や医者、町人ら多くの人が鹿苑寺に集い詩文・芸能を楽しんだ。茶の湯も盛んで、千宗旦(利休の孫)、小堀遠州も招かれ鳳林和尚と親しく付き合っている。絵師の山本友我もサロンメンバーで、その子で漢学者の山本泰順は23歳で『洛陽名所集』を完成させているが、この高度な仕事が20代の若者によって成し遂げられた背景にはサロンでの交遊があった。

後水尾院自身も禁裏(天皇在位中)や仙洞でサロンを主宰していた。その最大の成果は立花(花生け)である。花は単なる飾りを超え、自立した鑑賞の対象、文化となった。後水尾院は自らも花を生け、立花をコンクール形式にして多くの人に生けさせた。殊に伝説的なのは「宮中大立花」というイベントだ。後には禁中には人が自由に出入りすることはできなくなるが、後水尾院のサロンは近世的身分秩序に捕らわれておらず、「宮中大立花」には出家・町人のみならず立花に優れていれば誰でも選ばれて参加できた。なお立花の採点者は後水尾院と、池坊専好。専好は院の意を受けて法橋に叙せられている。

女帝明正天皇はいわばショート・リリーフで、幕府としては東福門院に皇子の誕生を期していたが、結局皇子が生まれなかったため、東福門院以外の女性が生んだ子が次の天皇となった。それが後光明天皇である(東福門院の養子。なお後西天皇、霊元天皇も東福門院の養子)。後光明天皇の即位の儀式は、幕府の意向で非公表で行われた。幕府は身分制を貫徹するため、禁中に誰でも入れることをよしとしなかった。鳳林和尚はこの措置に憤慨している。

後光明天皇は和歌はあまり詠まなかった代わりに朱子学に傾倒し、『藤原惺窩文集』に序文を贈ったり、町の儒者朝山意林庵を禁中に招いて儒書を講義させたりした。この頃までは、在野の学問と禁中の学問が交流していた。後水尾院は才気溢れる後光明天皇に期待し、禁中の有職(しきたり)を書き記した『当時年中行事』を後光明天皇に与えている。これは後醍醐天皇の『建武年中行事』を引き継ぎ、朝廷の儀礼を復興させるための書であった。しかし後光明天皇は22歳の若さで急死してしまう。

ところで、後水尾院は大量に著述した。著述の量でいえば天皇としては空前絶後だ。内容は有職研究、和歌・物語の注釈、歌集といったものが中心である。禁中並公家諸法度では天皇の務めは「諸芸能之事。第一御学問也」とされていたが、この学問に後水尾天皇は命をかけていた。数多くの年中行事をこなしながら、古書を見、自ら著述するだけでなく、早くも元和7年(1621)には勅版『皇朝類典』を編纂させている。 

また後水尾院は儒学にも明るく、社家出身の赤塚芸庵(うんあん)を出仕させていた。 彼は約55年間に渡って院に近侍した最も院に近い人物で、かなり反幕的であった。芸庵は朱子学的名分論から天皇が君で将軍は臣と考えていた。後水尾院の儒学の背景にはそういう思想があった。

後水尾院が異常なほど力を入れたのは和歌の道である。「和歌の道を王朝の盛時にもどすこと、それが後水尾院の最大の関心事であった(p.209)」。後水尾院は、天皇・上皇の地位にありながら幕府の頤使(いし)を甘んじて受けなければならない自らの無力さを歌に託し、あるいは求道の思いを込め、逆に幕府を賞讃するにも歌を以てした。院にとって歌は内面を表現する道具であるよりも、歌を通じ王朝の復興を実現しようとしたと言える。その表現は自由自在であり、クロスワードのような歌まで作っている(東照宮三十三回忌にあたってつくった「蜘蛛出」)。

やがて仏道に惹かれていった院は、慶安4年(1651)、何の前触れもなく突然落飾した。以前から入道の希望がありながら、家光の反対で実現しなかったという事情があり、その前月に家光が歿したことから行われたものと見られる。

後水尾院が仏道に惹かれる契機となったのは、禅僧一糸文守(いっし・ぶんしゅ)との出会いである。院は一糸から文通によって教えを受け傾倒。また一糸は院の娘梅宮と深い関係にあったから、一糸は梅宮(文智尼)を院を結ぶ紐帯でもあった。一糸は正保3年(1646)に39歳の若さで死んだが、その30年後には「仏頂国師」の号を贈っている。一糸没後も院の禅への傾倒は沢庵、龍渓性潜を通じ、黄檗宗へと進んだ。

後水尾院の晩年の大プロジェクトに修学院の造営がある。後光明天皇没後の後水尾院は、所司代に自由に御幸できるよう切々と訴えて認められ、洛北の地をたびたび訪れた。そこには山荘を造営したいという企図があった。文智女王の円照寺が修学院の地に創建されたのも、その伏線として位置づけられる。修学院の山荘は、当初は隣雲亭という茶屋一宇に過ぎなかったが、院は壮大な構想を持っており、それが順次実行に移された。そして鳳林和尚らの協力の下、長期間かかって遂に独創的かつ大規模な山荘、修学院離宮が完成。

修学院離宮は上中下、3つの茶屋が小径によって結ばれる類例を見ない構成で、上の茶屋は浴竜池という人口の大池を持っているが、この池は地盤から15メートル近く盛り土して造成されたものである。これだけでも修学院離宮がどれだけの労力を使って造営されたものか窺える。ちなみに、院にはここに門跡寺院を建立する計画があったが、それは実現しなかった。

修学院離宮は、決して後水尾院の秘密の山荘ではなかった。それどころか庶民の田畑とも交錯していたし、様々な人が離宮を訪れた。さながら今の団体見学のようなことまで行われていた。公家・町人社会が隔絶していない、寛永文化の名残があったのだ。そして修学院は新たな文化の揺籃地にもなった。離宮では茶の湯が盛んに行われ、「修学院焼」という焼き物が修学院で生みだされた。

修学院を訪れる後水尾院は、必ずと言っていいほど東福門院を伴った。二人は政略結婚であったが、晩年は円満だった。東福門院は幕府から後援されていたからお金があり、大量の衣装を派手に注文していた。それは武家風として反発されたが、羨望されもした。そしてその財力は衣装だけでなく、寺社に対する数多くの寄進、寺院の創建などにも使われたから、東福門院は寺社の庇護者として重要な役割を果たした。そして37人にものぼる後水尾院の子どもたちのよき母親であり、彼ら彼女らを自らの養子として経済的にバックアップした。梅宮こと文智女王もその篤い後援を受けた一人である。

こうして延宝8年(1680)、後水尾院は85歳で天寿を全うし、静かに亡くなった。

なお、後水尾院の十男に天台座主の「獅子吼院」こと妙法院堯恕法親王がいる。この人は俊敏熾烈なところのある人であったが、画才があった。今に残る後水尾院の肖像画の顔は、堯恕法親王が描いたものである(体は狩野探幽)。

全体として本書が強調するのは、「寛永文化」である。著者の強調以前には、寛永期の文化は過渡期的なものと扱われて、例えば「元禄文化」のような独立した価値を与えられていなかった。しかし著者は寛永文化を、朝幕の融和を基調とし、京都所司代を軸として公家・武士・町民が近世的身分秩序に囚われず交流して生みだした文化と表徴した。そしてその文化の後援者であったのが後水尾院であった。

後水尾院は、天皇時代は朝幕の軋轢に苦しめられた。しかし譲位後は比較的自由になり、自身も和歌や著述を中心に創造性を発揮し、また修学院離宮という寛永文化の到達点を作りあげた。本書はそうした後水尾院の生涯を描き、その価値を浮かび上がらせている。

しかし、やや不足に感じたのは、東福門院についてである。後水尾院は昭和天皇・平成天皇(存命中の上皇陛下)に次ぐ長寿であったが、東福門院も延宝6年(1678)まで生きており、人生を共にしている。東福門院の活動は後水尾院の活動と補足的な関係になっているように見受けられ、そこをもう少し知りたいと思った。本書に描かれる東福門院は概略的である。

後水尾天皇と寛永文化の価値を詳述した名著。

 

【関連書籍の読書メモ】
『徳川家の夫人たち(人物日本の女性史 8)』円地 文子 監修
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/01/blog-post_6.html
徳川家の女性たちを描く本。水江漣子による東福門院和子の評伝がある。

『信仰と愛と死と(人物日本の女性史 7)』円地 文子 監修
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/01/blog-post_2.html
信仰に生きた女性を江戸時代中心に述べる本。安田富美子による文智尼の評伝がある。 


2023年3月25日土曜日

『将軍の生活』石井 良助 著

江戸時代の将軍と法令、行政などについての読み物。

著者の石井良助は法制史の泰斗。本シリーズは「時の法令」に連載したものを「江戸時代漫筆」「続江戸時代漫筆」などとして刊行されたものの復刊で、その最終刊にあたる(連載時期は昭和38〜40年)。

主な内容は、江戸時代の朝廷、朝幕の関係、将軍の生活、大奥と御台所、幕府の財政の変遷、天保の改革、公事方御定書、人別帳、村のこと、などとなっている。分量としては公事方御定書と人別帳が多い。

本書は一つのテーマでまとめられたものでなく、エッセイ風にいろいろな話題が出てくるので、以下気になったもののみメモする。

【江戸時代の宮廷】

  • 朝廷の石高はおよそ10万石だったが、天皇の日常費である3万21石6斗を差し引き、1万3000石を上野の輪王寺宮で取り、残りを宮家、五摂家、その他の朝臣に分配した。輪王寺宮の存在が意外である。
  • 摂家の中で一番家領が多いのが近衛家で2860余石。それでも生活に不足するので、子女を寺院に入れた。摂家の子女が入寺すると(摂家門跡)、年に50石なり100石なり摂家に相応の御手伝い(上納金)があった。 
  • 公家にはいろいろな家職があった。例えば久我家は盲人に官位を与えた。小森家は日本国中の医師の取り締まりで多額の収入があった。
  • 医師は「法体では御門を入れないので、付髷をして、冠を頂き、法橋なら六位の袍、法眼なら五位の袍をつけて天脈拝診に上が(p.28)」った。法体では御門を入れないという規制が不思議である。例えば正月には、7日間の「御修法(みしほ)」として、紫宸殿を仏壇として真言宗の僧侶によって玉体安穏の法事が行われたのだが、これはどうやっていたのか。
  • 五摂家から天皇にはいろいろなものを献上するが、献上したものはそっくりそのまま朝廷から返された。

 【将軍の生活】

  • 将軍が死去した際、御三家や譜代大名、諸番頭らは21日間、 外様大名は14日間、月代を剃ることが禁止された(喪に服すため)。意外である。
  • 幕府は殉死を禁止し、寛文年間に行われた宇都宮藩家臣の殉死では遺族に厳罰を処した。以後、殉死に変わって「薙髪」(頭髪の結び目から切ること)が行われるようになった。
  • 高級幕臣人事の発表は将軍自身の口から発表され、将軍は書付を見ずに申し渡した。
  • 毎月17日に行われた東照宮遺訓拝聴という儀式では、将軍は(家臣が読み上げる)遺訓を恭しく拝聴した。これを読む役人は尻込みしたという。
  • 林羅山の孫、林鳳岡は元禄4年(1691)に将軍綱吉の命によって束髪にした。それまで儒者は法体だったのが、このときから俗体になった
  • 将軍吉宗が紀州から連れてきたものの子孫が務めた「御庭番」は、スパイ活動をして民情を探った。

 【幕政】

  • 幕府は全般的に予算制度を設けたことはなかった。財政の計算をしていなかったのではないが、そのお金の使い方は今の会計学から見るととてもわかりにくいものだった。
  • 吉宗は、参勤交代による大名の江戸在府がそれまで1年であったのを半年にする代わり、高1万石につき百石ずつの米を幕府に収めさせる制度にしたことがある(享保7〜16年のみ)。

【公事方御定書】

  • 江戸時代前半には体系的な法典はなく、裁判は判例主義で行われた。そのため先例が重要となり、労帳の記録を分類編集した「御仕置裁許帳」が綱吉の頃に作られた。その一部を条文の形にしたのが「元禄御法式」。
  • 吉宗は法律好きで、評定所一座に犯罪と刑罰の分類を作成させた。これが「享保度法律類寄」であるが、これは当時行われている法を記したものであった。こうして法典編纂の機運が高まった。
  • 吉宗は評定所一座に「公事方御定書」の編纂を命じ、寛保2年(1741)に81通の法令を収めた上巻、刑罰を定めた下巻が完成。しかしこれは秘密法典だった。その下巻は三奉行(寺社・町・勘定奉行)以外には見ることを禁じていたからだ。犯罪と刑罰の組み合わせを秘密にしたのは、刑罰の威嚇的効果を狙ったと考えられている。
  • 御定書は秘密法典といっても、徐々にその内容を筆写するものが現れ、実際上秘密でなくなっていった。誤りの多い写本が流布して不都合があったので、天保12年(1841)に公刊されたのが『棠蔭秘鑑』である。
  • 「公事方御定書」は完成直後から改訂作業が行われた。それを担当したのが大岡越前守である。
  • 御定書編纂における立法者の意図を知るための資料集(コンメンタール)である『科条類典』は明和4年(1767)に完成。ただしこれも奉行だけが見られる秘密資料であった。『科条類典』の各条に、類例、裁許例、比例を加えたものが『徳川禁令考後集』である。

 【人別帳】

  • 天和3年(1683)に、人別帳によって町内の住人を改めて毎年町年寄方へ届け出すべしとされており、その目的は町内に「徒(いたずら)者」を置かないためだった。しかし江戸時代前半における人別帳の詳細は不明である。
  • 「徒者」とは、例えば借家人が家主に断らないで同居人を置き、人別帳には「出居衆(商売をするために江戸に出てきたもの)」としながら、商売もせずにフラフラしているような者である。
  • 人別帳は次のように作成する。(1)家主(家守)が、自分の差配する一筆ごとにそこの住民を書き上げ、各人に実印を押させ、毎年4月25日までに名主に提出する。なお女は通常実印を持っていないので印は押さない。(2)転入・転出は毎月調べて書き出し、翌月1日に名主に差し出す。これを4月〜翌3月分までまとめたのが「出人別帳」「入人別帳」。
  • 天保14年(1843)に、天保の改革の一環として人別改令が出された。これは農民の江戸への流入を規制するもの。その要点は次の通り。
    • 【町方】 (1)在方から新たに江戸の人別に加わることを厳重に禁止、(2)特別に必要のある者や職人、奉公の場合は、手続きに従って免許状などを取得すること(ビザ制度)、(3)町方の者が出家したり、神道家や陰陽師などになる場合は町役人から町奉行所へ申し出ること、(4)人別帳の作成手順の定め、その他転居や一時滞在の手続きなど。
    • 【在方】基本的には【町方】と同様だが、百姓が廻国修業や六十六部巡礼などに出る場合は、これまでは村役人または菩提寺から往来手形をもらえばよかったのが、村役人から代官、領主、地頭に願い出て、出稼者の振合で許状を受けるようにした。
    • 【大名・旗本】上記に対応したもの。出家を願い出たものは十分に吟味して許可を出すようにとしている。 
  • 本書には、このようにして決まった「人別帳」「仮人別帳」(一時滞在者用)の様式が掲載されている。

【江戸時代の村】

  • 年貢は村を単位に課税された。個人や一筆ごとの土地に課税されたのではないが、課税される土地は決まっており、検地によって「高」(玄米に換算された標準生産高)を付せられた土地を持っている者が「高持百姓」。村役人になるのは彼らの特権だった。
  • 田畑屋敷への課税を本途物成という。山・原野・池沼などにも若干の租税が課せられることがあり、それを小物成という。
  • 江戸時代前期には中地主が主体で小作人は少なかったが、後期になると少数の大地主と小作人とで形成されるようになった。 
  • 村には自治の機関である村役人(名主、組頭、百姓代)=村方三役があり、村寄合という総村民の集会があった。なお村は村民と独立した法人ではなく、村の財産は村民の財産であり、村の訴訟は村民の訴訟であった。村は村民の集合体と考えられていた。なお、明治以降になると村は法人となっていった。
  • 町方でも公役を負担したり、後にそれが銀納になったり、営業税にあたる冥加・運上などの租税負担があった。

本書は全体として、近世の行政システムを様々な面から述べるものとなっている。その構成は体系的なものではないので、本書を読めばこれがわかるというものではないが、専門的なテーマにしては語り口が柔らかく読みやすい。

個人的な興味としては人別帳と宗教関係のこと(例えば人別帳の作成に菩提寺はどう関与したか)を知りたかったが、意外と宗教関係についてはあっさりとした記述でよくわからなかった。

江戸時代の行政システムに関する専門的なのに気軽な読み物。

 

2023年3月21日火曜日

『葬式と檀家』圭室 文雄 著

檀家制度がいかにして生まれ、それが何をもたらしたか述べる本。

日本人の多くが仏教的葬儀を行うようになったのは300〜350年前くらいからにすぎない。では何をきっかけに仏教的葬儀が行われるようになったのか。

その大きな契機となったのがキリシタン対策であった。慶長18年(1613)、幕府は伴天連追放令を出し、キリシタンを厳重に調査・改宗させるよう全国に迫った。本書ではこれに対する事例として小倉藩の動きが紹介されている。小倉藩の細川忠興・忠利親子はかつてはキリシタン布教に極めて好意的であったが、伴天連追放令以降は弾圧に乗り出した。小倉藩では慶長19年に「宗門改め(切支丹改め)」を行い、キリシタンが発覚した場合は改宗させ、改宗した証拠に「転び証文(転切支丹改請文(ころびきりしたんあらためうけぶみ))」を出させた。これは本人だけでなく、村民(保証人)、村役人、檀那寺にも責任を持たせた文書で、これが寺請証文の原点である。

寺請証文は、キリスト教徒の摘発と、それを改宗させた証拠として作成される文書であったが、これが10〜20年後の寛永年間(1623〜43)になると日本人全員に作成されるものとなる。これは全国一斉につくられるようになったのではなく地域差があり、本書では早い時期に作成が進んだ京都の例が紹介される。京都では、キリシタン以外の庶民に対して寺請証文が作成された初見は寛永12年(1635)である(幕府が天領で寺請証文の提出を命じたのも寛永12年)。なぜキリシタン以外の住民にも寺請証文をつくらせたのかというと、キリシタンの根絶が目的であった。

なお寺請証文の作成にあたり、勧進など遍歴する宗教者を警戒するよう領主が命じているのが気になった。例えば熊本藩では、諸勧進僧・虚無僧・簓摺・乞食・病者等が村の外から入ってきた場合は「念を入れてあい改め書類を作成すべし」、としている。

寛永14年(1637)には、島原の乱が起こる。これは領主の苛烈な農民支配への反抗が理由であったが、その首謀者はキリシタンが中心となっており、各地で代官だけでなく僧侶を殺し寺院を焼き払うなど、既存宗教への攻撃が行われた。島原の乱の戦後処理では幕府は乱に参加したものだけでなく、領主にも非常に厳しい処罰を行った。

そして島原の乱を契機として、「寺請制度をいちだんと強化するとともに、人心の完全な把握のため、宗門人別帳(戸籍)の村ごとの作成、さらには五人組組織の形成にともなう五人組帳の作成など、村落内部においてきめ細かく民衆の把握につとめることを目指した(p.60)」。これにあわせて高額な報奨金をともなうキリシタン密告の制度も設けている(後述)。

寛文15年(1638)、幕府はまず天領に案文を明示し、日本人全員がそれにならって寺請証文を作成するよう命じた。これはキリシタンであるという疑いがかけられた場合、菩提寺(葬式をする寺)の住職が申し開きをしなくてはならないということを意味する。しかしその時点で、日本人全員に菩提寺が定まっていたわけでもなく、また日本人全員を受け入れられる寺があったわけでもなかった。このため僧侶を定住させたり、季節的に使っていた堂宇を寺に昇格させるなど、寺を急いでつくる動きが見られた。

また寺側としても、戸籍調査が住職の手に委ねられたことによって、「幕府の権威を背景に檀家制度を形成させていく絶好の機会(p.65)」が訪れた。

ところでそれから時代を少し遡った元和元年(1615)、幕府は「寺院法度」を出して仏教教団の統制を行っている。これには各宗を本山を頂点とする組織化の原理が組み込まれており、各宗本山は末寺の把握に努めた。さらに寛永8年(1631)には新寺建立禁止令を出している。そして寛永9〜10年に「寺院本末帳」を提出させ、教団の固定化を図った。この帳面に登載されていることが寺請寺院になるための条件であった。

大本山の大僧正は将軍が任命、将軍の推薦により紫衣と勅賜号が贈られるなど幕府は本山の権威を認めるとともに、江戸等に本山直轄の「触頭寺院」を置かせて幕府との窓口寺院を定め教団を幕府の支配機構に組み込んだ。すなわち、仏教教団は幕府の統治機構の一翼を担う代わりに統制も受けた。そして、この仕組みに最も適合的で、教線を拡大させたのが一向宗である。

その理由として、一向宗では妻帯が許されて血縁によって財産が相続されていったことが挙げられているが、 葬祭に特化した教義にもその一因を見ることができよう(臨済宗妙心寺派・曹洞宗も葬祭を軸としていたので発展した)。その理由はともかく、一向宗が慶長6年〜元禄13年(1601〜1700)の50年間に教団を急拡大させたのは事実である。

では、そういった情勢の中で地方寺院はどのような状態に置かれていたか。本書では熊本城下の一向宗(西本願寺系)寺院の様子が描かれている。地方寺院は、本山に「寺」として認められ(紙寺号:末寺名を付けてもらう)、「木仏」を下付され、また「親鸞絵像」や「蓮如絵像」などを本山から下付される必要があった。もちろんこうしたものは無料でもらったのではなく、かなり高額の謝礼をともなっていた。しかし寺請寺として認められなければ寺の存立意味が薄まるため、檀家から金を集めて本山に上納したのである。これを本山から見れば、寺請制度を背景にして、金を集めるビジネスをしていたということになる。

事実「江戸時代を通じて東・西本願寺には多くの絵師・書家・彫刻家が寄生していた(p.90)」が、その背景には「絵伝・木仏・歴代上人絵像などを注文生産していた(同)」ことがある。末寺からの注文に応じて製造する仕組みができあがっていたのだ。

なお東本願寺では西本願寺よりもさらに収奪が甚だしかった。東本願寺では多くのアイテム(モノだけでなく、寺格や僧侶の継ぎ目(相続)にともなうものも含む)を用意し、それを末寺に競わせるような形で集めさせた。寺院経営が檀家の信仰心を置き去りにしたものであったことは明らかである。

一方、幕府の「寺院法度」などの仏教統制策を受け、寛文年間に廃仏毀釈を行った大名が3人いた。岡山藩主池田光政、会津藩主保科正之、水戸藩主徳川光圀である。本書ではこのうち最も徹底した政策を実施した岡山藩について紹介している。そこで注目されるのが、池田光政は藩内の半数以上の寺院を整理するとともに、寺請ではなく「神道請」を強力に推進したことである(領民の98%が神道請になった)。しかし葬式が神道式になったのではなく、儒葬祭だったのも同様に注目したい。彼は神社の合祀を進めるなど神社整理も強行した。

では、池田光政が廃仏政策を行ったのはなぜか。それは、大飢饉で領民が苦しんでいる中でも僧侶たちが華美な生活を続け、農民を苦しめ、藩政に協力しなかったからであった。光政は強引に仏教から神道へ改宗させたのでもない。むしろ彼の政策は合理主義に基づくもので、葬式の簡素化を認めるなど、いわば「無駄を省く」理念によって行われた。光政は、僧侶は堕落し、寺院は領民からの支持を失っていたという。光政によれば「出家は役に立たず、地獄・極楽などわけもないことをいう」のだ。

そして光政のもう一つのターゲットが、日蓮宗不施不受派への弾圧であった。備前国周辺は不施不受派の一大拠点だったのである。

しかしもちろんこの動きに仏教各派は反発し、特に天台宗寺院が寛永寺に上訴して輪王寺宮を動かしたことを光政は窮地に陥れた。光政の廃仏政策は挫折し、貞享4年(1687)には寺請制度に戻った。

では、岡山藩では肝心のキリシタン対策はどうであったか。幕府は寛永17年(1640)に宗門改役を置き、キリシタン弾圧の総司令部的な役割を果たしたが、この指導の下で岡山藩でもキリシタン弾圧が行われた。特にその手段となったのが密告制度である。一度密告されると、キリシタンから改宗したといっても、キリスト教を信仰した証拠がなくても拷問され、摘発された人は牢死するか、長い間獄舎に閉じ込められた。寺の住職が身分保障しなければ、人はいつでもそういう境遇に落ちたのである。

しかしそうした厳しい弾圧によっても、信仰を捨てない人がいた。そこで幕府は貞享4年、キリシタン本人のみならず、親類・縁者を「類族」として戸籍(切支丹類族戸籍)を別に作成するという政策を打ち出した。類族は継続的な監視の対象となり、しかも死んでも一般の墓に葬られることはなく、墓石を作り戒名が彫り込まれること自体が無かったようである。そして類族は文字通りネズミ算式に増えるので、かなり大量の人が類族扱いされて差別を受けた。

そしてこの「切支丹類族戸籍」は、元禄元年(1688)に全国の大名が提出してから、キリシタンとして摘発される人がいなくなった後も、明治4年の壬申戸籍によって廃止されるまで基本台帳として活用された。

他方、普通の戸籍である「宗門人別帳」の方はどうであったかというと、こちらは「切支丹類族戸籍」より50年前の寛永15年(1638)に寺請証文が日本人全員に義務づけられた時に、これを村・町単位でまとめて台帳にしたことで始まった。全国的に帳面が仕立てられたのが万治3年(1660)〜寛文9年(1669)、幕府がその書式を統一したのが寛文11年(1671)であった。なお、この間の寛文4年(1664)に全国の大名に対して「宗門改役(宗門奉行・寺社奉行などとも)」の設置を命じている。 

「宗門人別帳」は幕府で全て集めるのではなく、幕府へは村単位の一紙手形(総数を記したもの)だけが提出された。これは戸籍であるから調査は一軒単位であり、形式的には毎年作成された(朱書きで修正するなどもあった)。またこれは寺院が作ったのではなくて村役人が作った。寺院は「宗門人別帳」に対応する寺請証文を作成し、その寺請証文をまとめて村役人に提出した。よって寺院によって檀家として認められなければ戸籍に掲載されなかったというわけである。

この体制の中では、寺の方に問題があって離壇しようとしても、ほとんど不可能であった。本書には、住職の不義密通を理由に檀家が離壇しようとした件や、熊本藩の宗門奉行が曹洞宗から日蓮宗へ転宗しようとした件が紹介されているが、どちらのケースでも離壇は認められなかった(後者では認められなかっただけでなく、役儀を取り上げられ蟄居も命ぜられた)。幕法では離壇が禁止されていたのではないが、菩提寺の反発によって離壇が不可能だったのである。それだけ菩提寺が力を持っていたということだ。

ちなみに寺請制度を鞏固なものにするために寺院側で偽作されたのが「宗門檀那請合之掟」である(『徳川禁令考』にも所収された巧妙な偽法)。そこでは、檀那寺の言うことを聞かない檀家の身分は寺の一存で落とす(宗門人別改帳に載せない)ことができるとされている。「檀家は寺の要求する檀那役をよろこんで負担し、仏恩の報謝のため僧侶には多額の不施をし、死去したときはすべて僧侶の言分通りに事を運ぶ(p.188)」のが義務だった。寺は強大な宗判権を背景に檀家から収奪したのである。

一方で、金次第で院号や道号、立派な戒名を付けてもらえるようになると、生前の身分を超えて高い位階の戒名が濫発されるようになった。幕府はこれを問題視し、天保2年(1831)には、百姓・町人に院号・居士号を禁止し、墓塔も台石を含めて4尺までに規制している。宗教が金次第になったことは一面では堕落であるが、それによって既存の秩序をはみ出す庶民が生まれていることは興味深い。

本書は全体として、いわゆる「近世仏教堕落史観」に立って記述され、現今の「寺離れ」もやむなしとする論調である。しかしながら、本書に提出された事例は限られたもので、やや一斑を見て全豹を卜すきらいがないとはいえない。例えば離壇はほぼ不可能だったされているが、結構簡単に転宗している藩もある。また「宗門人別改帳」も、全国統一書式は一応示されていたが、帳面自体を提出したのではないからその作成作業における檀那寺の関与も諸藩で違ったらしい。封建体制はよくも悪くも分権の体制であるから実態は複雑であり、本書は少し単純化しているように感じた。

また、江戸時代は庶民がお墓を建てられるようになった時代である。「墓を建てさせられる」「葬儀をやらされる」という(現代と似た)面もあったかもしれないが、墓については葬祭と違って義務づけられたものではなく、本人や遺族の希望によって建立されていたと見られる。にも関わらず江戸時代には前時代と比べて圧倒的に多くの墓が残されている。これは、庶民が仏教式に葬られ、供養されることを望んでいた証拠と見なさざるを得ない。檀那寺は一方的に檀家を収奪していたのではなく、やはり庶民の側も仏教を欲していたのである。

そうした部分、つまり民衆が檀家制度の中でどのような宗教生活を送ったのかは、本書では例外的な事例(離壇しようとしたなど)を除いて述べられていない。圧倒的多数の普通の人々が、寺請制度の中でどのように信仰していたか、そこが本書ではよくわからない点である。

ただし、そうした不足は、現在の檀家制度の淵源を要領よく記述した本書の価値を減じるものではない。本書はあくまで制度史の枠組みで記述されたものだということだ。

近世の檀家制度成立をわかりやすくまとめた良書。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸幕府の宗教統制(日本人の行動と思想 16)』圭室 文雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/05/16.html
江戸時代の仏教への統制についてはこちらがよりまとまっていて、詳細でもある。内容は重なっている点も多いが、キリシタン対策については『葬式と檀家』が詳しい。



2023年3月16日木曜日

『武家の女性』山川 菊栄 著

幕末の水戸藩で、女性たちがどのように生活していたかを述べた本。

著者山川菊栄の母は、水戸藩の儒学者・青山延寿の娘千世であり、本書に述べられる話は菊栄が千世から聞いた思い出話である(他に、叔母や祖母(きく)の話も出てくる)。

きくの少女時代が烈公(徳川斉昭)が藩政を執っていた頃で、千世の時代が、幕末の動乱(水戸藩は天狗党の乱)に当たっている。しかし本書に描かれる女性たちの生活には、そうした政治的な事柄はほとんど影響を及ぼしていない。水戸藩は大変な混乱と対立の中にあったが、平生の生活は驚くほど平穏であった。

女性たちは、男たちが血で血を洗う凄惨な政争を繰り広げている間にも、食事を作り、服を繕い、年中行事をこなし、家を整えるという仕事を辛抱強く続けていた。いや、それは言われるまでもなく当たり前のことだ、と人はいうかもしれない。人間に衣食住は不可欠なのだから。でもその当たり前のことは、なかなか記録に残らず語られもしない。本書の価値は、そういう当たり前のことを実直に述べているところである。

それに、その話の内容は決して当たり前ではない。例えば、頭が禿げて髷ができなくなった武士は、つけ髷をしていた、とか。当時の武士の屋敷には普通雨戸はなかった、とか。こういうことはいわゆる「歴史」には出てこない話なのだ。

ただし本書にはちょっとだけ注意も必要である。それは、本書が母の思い出話を聞いて書いたものであることだ。自分が体験したものであればかなり信用できるが、母の少女時代の話であるから少し割り引いて考える必要があると思う。本書に不正確な部分があるとか、誇張や脚色があるとは思わないが、母と著者という二重のフィルターがかかっているということは留意すべきである。

ところで、著者の山川菊栄は、日本の婦人運動の先駆者であり、社会主義者として有名な山川均の妻である。 本書が刊行されたのは昭和18年という、太平洋戦争が差し迫ってきている時代であり、特に山川家は、夫均が人民戦線事件(共産党への弾圧であったが、社会主義者にまで対象が拡大された)で検挙され、一審で有罪判決、裁判が続いていた頃である。そういう緊迫した中で、母の思い出話という、一見悠長な題材で本を書いたのはなぜか。

もちろん、言論が弾圧される中で、婦人運動の理論的著作など著せる状態ではなく、その代わりに時局とは距離を置いたテーマで本を書いたという面はあるのだろう。だがこの非政治的な著作が、そこはかとなく「非暴力の抵抗」という相貌を帯びているような気がするのは私だけだろうか。

歴史に埋もれた平凡な「生活」を描いた出色の社会史。

 

2023年3月14日火曜日

『吉田神道の四百年—神と葵の近世史』井上 智勝 著

神道で有名な吉田家の近世史。

足利義満、豊臣秀吉、徳川家光といった天下人といえども、神祇に関することは直接手を下せず吉田家に依頼する必要があった。また徳川家康のブレーンの一人だった金地院崇伝は「神ならば吉田存ずべき儀」「吉田は神つかひにて」と述べ吉田家を重用した。武家政権は自ら宗教行為を行う部局を置かなかったから、民間の宗教一家である吉田家に頼ったのだ。

ではその吉田家とは何者であったか。本書は吉田家が生きてきた時代を振り返り、それを平易に述べたものである。なお本書は同著者の専門書『近世の神社と朝廷権威』が元になっているが、内容はかなり組み替えられている模様である。

まず前提として、吉田家は伝統的に高位の神道家だったのではない。吉田家は吉田神社の神職を世襲しており、歴史はあったが一神職の家系に過ぎなかった。その吉田家を「神つかい」にしたのが吉田兼俱(かねとも)である。彼は応仁の乱で被害をうけた吉田神社の復興を目論見、自邸内にあった「日本最上神祇斎場」こと「斎場所」を文明16年(1484)、吉田山に移設する。これは日本の全ての神を祀る神社の総本社だという。

これは名称からしてハッタリ的だが、兼俱は後土御門天皇からここが「神国第一之霊場」であるとのお墨付きを得た。さらに兼俱は、この全ての神を祀る「神様の百貨店(p.28)」に伊勢神宮の神が飛んできた(飛神明)と主張。伊勢神宮までも包摂した。伊勢側はこれに猛抗議し、兼俱を「神敵」と呼んだ。

古代律令制では、神祇行政と祭祀を行う「神祇官」という官庁があった。神祇官の長官(神祇伯)を世襲したのは白川家であったが、吉田家は「神祇管領長上」という「神祇伯と対等な席を占める(p.32)」役職を務めていた。応仁の乱で神祇官は焼失していたものの、兼俱は引き続き「神祇管領長上」を名乗り、あたかも神祇官の正式な長官のようにみせかけていた。

理論面でも、兼俱は「元本宗源神道」を喧伝した。「元本宗源神道」は神仏習合理論を否定した神道の純粋理論(唯一神道)である。それまでの神祇理論では神が仏教の従属的立場にあったが、それを否定したのは「日本思想史上のコペルニクス的転回(p.36)」であった。

こうして兼俱が吉田神社(と吉田山に設けられた斎場所)という装置と、元本宗源神道の理論をつくり、さらに「神祇管領長上」の権威を復活させたことで吉田家は日本一の神道ビジネス宗家となっていく。

神道ビジネスの商材となったのが「鎮札」や「宗源宣旨」、「神道裁許状」といったアイテムである。

このうち「鎮札」とは一種のお札で、例えば神木の伐採とか神社の土地の開発などによって、予想される神の怒り(祟り)を鎮めるもの。戦国時代以降、神への畏れが弱まり、かといって祟りも心配だった人々は、吉田の「鎮札」を求めた。社会の世俗化が却って吉田家を必要とした。

「宗源宣旨」とは、吉田家が与える神階の許状である。「正一位稲荷大明神」の「正一位」が神階にあたる。 神階の授与は本来は天皇により、「宣旨」とは天皇の発給する文書であるが、吉田家は「宗源宣旨」として神階の授与を行った。これは朝廷から正式な許可を得て行っていたのではないが、少なくとも霊元天皇はその効力を認めていた。

「神道裁許状」とは、装束の許可を中心として、祭礼日の変更、鳥獣の食用許可など、神職が必要とする様々な許可を与える書状である。これは兼俱没後に現れた。

この 「鎮札」「宗源宣旨」「神道裁許状」が揃ったのが兼俱の孫の兼右の頃で、これを使って兼右は神道の宗家としての吉田家を大成させた。

さらに兼右を継いだ兼見は、鋭敏な政治感覚で吉田家をさらに発展させる。彼は織田信長に取り入って吉田家を堂上公家に格上げさせた。さらに豊臣政権にも接近。天正18年(1590)、吉田家は神祇官「八神殿」を吉田山斎場所内に再興することを後陽成天皇から承認される。「八神殿」とは本来神祇官の中にあった天皇を守護する八柱の神霊を祀るものであったが、これが一神社の施設に過ぎない「斎場所」に再建された。こうして「斎場所」は「神祇官代」となって神祇官の代替施設と見なされていった。

また兼見は、死去した秀吉を「豊国大明神」にし、それを祭る「豊国社」を建立するという一連の過程をプロデュースした。兼見の孫の兼従(かねより)に豊国社の専属社家「萩原家」を興させ、さらに同社神宮寺の別当になったのが、兼見の実弟神竜院梵舜である。

この豊国社は、次に権力を握った家康によって縮小移転され、荒廃させられる。萩原兼従も失職。しかし家康は吉田家を必要とした。秀吉と同じように、死後、神となりたいという希望があったからだ。家康の死後に行われた家康を神として祭るための会議には、家康のブレーン金地院崇伝、天海(天台宗)に加え神竜院梵舜が参加した。

ところが会議では、天海の意見が通り、天台宗の山王一実神道の理論によって家康は「東照大権現」として祭られることとなった。吉田家の敗北だった。

ところで、萩原兼従には吉川惟足(これたり)という弟子がいた。彼は江戸の商人だったが商売よりも学問に励み、めきめきと頭角を現した。ちょうどその時、兼従は吉田家の人々と対立しており、年頃の奥義継承者がおらず困っていた。吉田家の奥義は一子相伝で伝えられていたから、高齢になっていた兼従が奥義を伝えずに死ねば吉田神道が断絶する。そこでひとまず惟足に吉田神道最高奥義「神籬磐境伝」が伝授された。吉田家と血縁のない、一民間人に最高奥義が伝授されたのは歴史の悪戯であろう。

吉田家の一門は当然にこの伝授に反発したが、惟足は各地に身分の高い弟子があり政治力が高く一門の人々も彼を排除できなかった。家康の十男徳川頼宣(和歌山藩主)や家光の異母弟の保科正之(会津藩主)は彼について神道を学んだ。こうした門人がいると、惟足がさらに重んじられるのも無理はない。彼は吉田家の継承者・兼連(かねつら)をもり立て、豊国社の復興にも力を尽くした。そして寛文12年、兼連に一応の奥義の伝授も行った。こうして吉田家は吉川惟足のおかげで厳しい時代を乗り切ることができた。

そしてもう一つ、惟足は保科正之を通じ、吉田家を飛躍的に発展させる働きをしていた。それが寛文5年(1665)、江戸幕府が制定した「諸社禰宜神主法度(神社御条目)」にあった一文である。そこでは、社人の装束について「吉田の許状をもってこれを着すべし」とされていた。吉田家の「神道裁許状」が、幕府によって公認されたのだ。

保科正之は、諸社禰宜神主法度によって吉田家を中核とした神道界の秩序化を企図したと考えられる。吉田家はもちろんこれを最大限に活用した。この法令の後には、「神道裁許状」の発給数が文字通り桁違いに増えた。

その背景には、各地の神社を管理する人々からの需要もあった。各地で神社の代表をめぐる争いがあり、人々は自分の地位を確保してくれる権威を欲しがったからだ。吉田家が神社にとっての、寺院の本山のような立場(本所と呼ばれた)になり、吉田家は「地域を越えた絶対的・超越的な中心(p.144)」として機能した。そして、吉田家に祭祀権を認めてもらったのは、必ずしも名家に限らない。むしろ「既存の権威や秩序を打ち破り、あるいは新しい歩みを踏み出そうとする新時代の担い手たちに、吉田家のような新たな権威が渇仰され(p.149)」た。

なお1600年代の中頃から寛文年代までには、各地で神社の正統の確立を目指す運動が起こっている。

例えば、家康の九男徳川義直(名古屋藩主、保科正之の叔父にあたる)は、神社の正統(式内社と有名神社、その祭神)をまとめた『神祇宝典』を編纂。保科正之は、会津藩で正統でない神社を取り壊し、正統な神社(式内社など)を再建する整理を寺院整理とともに行った。水戸光圀も神社から仏教的なものを排除し、(神仏習合的である)八幡宮を破却する廃仏政策を行った。讃岐藩主・松平頼重(光圀の兄)は領内の神社整理を行い、由緒の調査を行った。岡山藩主・池田光政も神社の統廃合を進めた。こうした動きの背景には、神社の由緒や歴史に注目し、それを「あるべき姿」に戻そうとする趨勢が感じられる。そしてそれらの動きを顧問的な立場で支えたのが吉田家であった。

なお保科正之は、死後(寛文12年(1672))、自らの希望で「神」として祭られた。「土津(はにつ)」という霊社号は惟足が与えたものだった。その葬送は一切仏僧が関与しない、唯一神道の方式で挙行された。

こうして吉田家は、「諸社禰宜神主法度」と高い身分の弟子、各地の神道政策への後援などで盤石の地位を占めた。そしてその神道ビジネスは吉田家に莫大な収入をもたらした。しかしこうなると他の公家は面白くない。よって鷹司房輔は神道ビジネスが吉田家の独占になっている状態に風穴を開けるべく、法度の解釈に疑義を呈した。「諸社禰宜神主法度」では官位の執奏が吉田家に限るとは明確に書いていなかったことに目を付け、官位の執奏は他の公家も可能であると訴え、京都所司代に認めさせた。吉田家の独占は、他の公家には何のメリットもなかったのだから、他の公家もこれに同調した。

また吉田家の独占が崩れたことは、各地の神職にとってもチャンスだった。吉田家と結んで権威を手に入れた者がいたということは、そのために追い落とされた者もいたからである。そういう別の権威を欲したものの駆け込み寺になったのが白川家であった。白川家は18世紀の初めに、神学者臼井雅胤による改革があり、神道説や行法を整備して「伯家神道」とよばれる大系を整備した。この臼井雅胤の兄接伝は吉田家に破門されて冷や飯を食わされた側だった。

そして吉田家に強烈な異議申し立てが行われる。名古屋東照宮の神主吉見幸和は、綿密な考証によって吉田家の聖典『神道五部書』が偽書であることを暴いた。さらに吉田家に恨みを抱いていた伊勢神宮の権禰宜の子、出口延経は『弁卜抄』を著す。『弁卜抄』では、(1)吉田家の系図は捏造されたもの、(2)吉田家は神祇官の長官ではなく下級技術吏員、(3)神祇管領長上の職は吉田家の創作、(4)吉田家の綸旨・院宣はニセモノ、(5)斎場所の由緒は嘘、(6)宗源宣旨は神に位を授ける正規の文書ではない、ということが信頼できる文献に基づいて論証されていた。『弁卜抄』は公刊はされなかったが吉田家の正統性に大きな打撃を与えた。また吉見幸和は『弁卜抄』に心酔し、それを漢字仮名交じりのわかりやすい文にした『増益弁卜抄俗解』を著した。

なおその背景には、徳川義直の『神祇宝典』以来の、「尾張名古屋の古代学」と呼ばれる実証的な学風が名古屋にあったことがあるという。

また朝廷の側からも吉田家の専横は都合が悪くなってきた。朝廷復古を目指すためには、吉田家が神道の唯一の権威であっては困る。反吉田家活動の中心は一条兼香・道香親子であった。道香は吉田山を「神祇官代」としては認めず、かつて八神殿にまつられていたというご神体を白川家に渡し、その邸内に八神殿を再興させた。

復古派の桜町天皇は元文3年(1738)、官位制度改革を行い官位の乱発を抑制。また寛延3年(1750)には一条兼香は桜町天皇の遺志として神職の任官を全て停止した。これはあまりに急進的であると幕府が反対して立ち消えになったが、兼香は吉田家による神職官位の乱発的な奏請を批判し、その根拠の提出を求めた。当然にそのような根拠はなかったため、神位宗源宣旨は元文5年(1740)以降連続してゼロになった。寛保3年(1743)には神位の獲得には必ず天皇の裁可が必要とされ、ここに吉田家の宗源宣旨はその存在意義を喪失した。

こうして吉田家の宗源宣旨が衰退した結果、新しい神階ビジネスが登場。例えば伏見稲荷社の「正一位稲荷大明神」ビジネス。これは諸国に祭神の分霊を勧請することで成り立った。また白川家も吉田家に代わって地位向上を目指していった。専業神職でない神社を管理する一般人(宮座・下級宗教者)を通信教育のような仕組みで門人にすることで支配下に取り込んでいった。当初は専門神職のみを相手にしていた吉田家も、これに対抗して一般人を取り込むようになり、吉田家と白川家の門人獲得競争が行われていった。

こうして、神職や神社に関わる一般人が吉田家や白川家を通じて朝廷と直接結びついていった。それは神社が朝廷・天皇の権威と直結し、天皇を中心とする神話の大系に組み込まれていったことを意味した。近世を通じ、元来は地域性豊かだった神社の祭神や由緒が中央の神話に基づくものに変更されるなど、神社の画一化が行われたのである。

本書は全体として、語り口が柔らかく平易であり、かなり専門的な話である吉田家の歴史を一般にもわかりやすく述べている。資料の引用が全て意訳によっていて、特に関西弁(京都弁?)の口語調なのは面白い。しかし話としての面白さを優先しているために、記述が編年的でなく時代が行ったり来たりしているのは少しややこしい。 

また吉田神道の教義内容の説明はほとんどなく、『神道五部書』なども説明されないのは物足りなかった。とはいえ、吉田兼俱からの吉田家の発展、江戸時代後期の白川家との競争など、時代ごとに焦点をしぼってクリアに吉田家の歴史を描いているのは有り難い。

ただし、本書はあくまで近世史であるために、吉田家が明治維新でどうなったのかは簡略的な説明しかない。私自身としてはここが一番興味があるところである。幕末には吉田家は平田国学と接近し、矢野玄道をその学頭に招くなど平田国学を取り込むような動きをみせるのだが、それについても本書には何も記載がなかった。このあたりのことは別途調べてみたいと思う。

平易かつ面白く吉田家の歴史的意義を理解できる良書。