2014年12月18日木曜日

『生活の世界歴史(8) 王権と貴族の宴』金澤 誠 著

16世紀から18世紀、フランス革命に向かって進む時代に生きた人びとを描く本。

本書も他の「生活の世界歴史」シリーズの本がそうであるように、歴史自体を語る本というよりは、歴史の中に生きる人びとを描く本である。年表的な歴史についてはごく簡略にしか述べられないので、フランス革命の概略は前提知識として知っておく必要がある。

舞台は大体3つに分けられる。まずは絶対王政の完成までである。次にフランス革命、そして最後にフランス革命に直面した王族たち。

絶対王政の成立の背景には、売官制があったというのが面白い。つまり官僚の地位を金で買えたのである。旧貴族が没落する中で新興の成金が現れ、しかも教養を身につけた彼らは官職すらも金で買うようになっていく。一見これは行政機構の腐敗に見えるのだが、旧い価値観を持つ貴族が排されて、清新な思想を持つ新興階級(ジャンティヨム)が勃興してくることはフランスの行政を動かす力の一つにもなった。

この新興階級は新しい時代の貴族としてやがて民衆と結託するようになる。そして様々な思想のゆりかごにもなるのである。その象徴の一つがサロン文化だ。サロンは女主人が切り盛りする一種の社交サークルであり、そこでは文学と芸術が語られ、貴族たちが風流を競い合った。しかしそれはただの風流合戦ではなく、そこで科学主義(デカルト、パスカルなど)が育ち、また政権への鋭い批判が論ぜられていくのである。

新しい時代の思想が百家争鳴する中で、旧態依然の宮廷との対決は鮮明になっていく。そして遂に起こったのがフロンドの乱だ。新貴族と民衆が王権に挑戦したのである。だがこれはあえなく失敗に終わる。そして再度権力を掌握した宮廷は、絶対王政を敷くことになる。

絶対王政は、フランスの宮廷文化の最後の仇花であった。そこからフランス革命まではもう一歩である。そして著者の筆は、この最後の仇花の中で生きた貴族たちの人生を鮮やかに活写する。恋に生き、哲学に生き、現実と妥協し、理想を追求し、栄達を極める。悲喜こもごもの人間模様だ。いきおい著者の筆は、歴史を語るそれよりも、文学のそれに靡いていく。それもやむなし、と思う。語るべきことは人生の襞の中にある。文飾、いや虚飾によってしか語れぬ世界を、著者は語ろうとするのである。

最後のフランス革命に直面した王族たちの話は、ちょっととってつけたようなところがある。だが、ルイ17世の逸話は面白い。ルイ17世が、密かに幽閉先から運び出されたのではないか、というのはフランス革命の最後を彩る謎である。もちろん、その謎は歴史のダイナミズムには関係ない謎である。だがそういう逸話によってしか、語られない歴史があるのだろう。

歴史というより文学的な、フランス革命を語る好著。

2014年12月6日土曜日

『発展する地域 衰退する地域: 地域が自立するための経済学 』ジェイン・ジェイコブス 著、 中村 達也 翻訳

都市の発展と衰退のダイナミズムを説明する本。

著者のジェイン・ジェイコブスは『アメリカ大都市の死と生』で著名な都市の経済論の論客である。彼女は経済学者ではなくジャーナリストであったので、その筆は理論的というよりも経験主義的で、その主張は厳密でもない。しっかり定義せずに新出概念を提示するあたりは、ちょっと学問的に脇が甘い感じがする。

だが一方で、既存の経済学が見落としていた「都市を基本単位に据えた経済」というものを鮮やかに描くのは爽快である。国を単位に経済を見れば、統計などの面で対象を厳密に扱うことができ学問的にはなるけれども、経済のダイナミズムを解明するという点ではあまりにその解像度が低すぎて、どうして経済は成長する(できる)のかという基本的なことすらもよく分からない有様なのである。

本書では、都市を経済の単位に見て、経済成長のダイナミズムの中心を「輸入置換」という現象に置く。これは、これまで他の都市から輸入されていた財を、自ら生産するようになること、つまり輸入品を地場品で置換することである。これによって、これまで輸入に当てられていた資本を他の輸入品に振り向けることもでき、より重要なことに置換品の生産のための雇用も生まれるのである。

都市が発展していくためには、この「輸入置換」が次々に起こっていく必要がある。さもなければ、その「都市」は僅かな特産品のみを生産するだけの地域になってしまい、情勢の変化などに脆くなり、発展の道がなくなるからである。

では、この「輸入置換」が起こるためにはどうしたらよいのだろうか? 著者は、そのためには「インプロヴィゼーション」が必要だという。「インプロヴィゼーション」とは、即興的な工夫とでも言えばいいだろうか。先進都市から輸入されている物品は、発展途上にある都市にとっては高度すぎることが多く、自前でそのものを作ることは難しい。またそのための設備や材料も乏しいだろう。だから、あり合わせのものでなんとかする必要がある。この「あり合わせのものでなんとかする」のがインプロヴィゼーションである。

これをもっと乱暴にまとめてしまうと、経済発展の原動力は広い意味での「創造性」にあるといえるだろう。本書ではここまで乱暴にはまとめない。経済発展は個人の才覚だけの問題ではないことも示す。しかし大きく見れば、経済が活性化するということは、創造性ある事業家が様々な事業を地域内で興していくこと以外にはない、というのが著者の見解であるようだ。

後半は、逆に都市の衰退のダイナミズムについて述べる。都市に衰退をもたらすものの第一に掲げられているのは為替変動の間違ったフィードバックである。マクロ経済学では、ある国家の競争力が落ちてきたらその国家の通貨の価値が下がり、輸出がしやすくなることによって競争力を取り戻すというフィードバック機構がある、とされている。しかし著者によればこの仕組みはうまく働かない。

なぜなら、通貨は国家を単位にして流通しているが、経済の実態は都市が単位だからである。ある為替水準は、ある都市にとっては高すぎ、ある都市にとっては低すぎる。円安になると喜ぶ企業もあれば、いやがる企業もある。つまりいくら為替変動というフィードバック機構があっても、それは都市という単位ではさほど有益なものではないということである。

そしてひとたび衰退が始まると、それは坂を転げ落ちるように進んでしまい、挽回が難しい。競争力を取り戻すための現実的な処方箋は、ほとんどないようである。ただ、衰退を遅らせることはできる。それが著者のいう「衰退の取引」というもので、こういう取引が行われるようになることは衰退の象徴でもあり、また衰退しているさなかではやむを得ないものでもあり、しかもある面では衰退をさらに進めてしまうものでもある。

それは、軍需産業への依存、後進国への輸出に頼ること、また補助金に頼った取引である。これらは詰まるところ、都市に必要な創造性を発揮させる機会を減らし、経済を単調なものにしてしまうのである。だがしかし、これらを続けている間はある程度経済を回すことができる。だから衰退の過程にある都市(または国家)は、こうした取引を続けていくことになる。そしてこれらの取引への依存度がどんどん高まってしまい、経済は後戻りできないほど衰退していくのだという。

著者が提示する、この衰退の過程を回避する空想的な解決策は、都市ごとに通貨を独立させることである。そうすれば為替変動により適切なフィードバックが働き、都市は競争力を取り戻せるかもしれない、という。この思考実験は、まだまだ多くの検証が必要だと思う。それにいくらこの方法が有効だとしても、現実的な問題(例えば九州と本州で異なる通貨にするということだけでも、クリアすべき障壁が膨大にある)のために実現はできないだろう。

にしても、都市を単位に経済のダイナミズムを考えるという本書の視点は有効である。どうやって都市に経済発展を起こせるか、というところまでは踏み込んでいないが、そのヒントがたくさん詰まっている良書。

2014年11月28日金曜日

『農産物直売所(ファーマーズマーケット)運営のてびき』都市農山漁村交流活性化機構 編

タイトルそのまま、農産物直売所をどう運営していくか、という本。

ただし内容は、農家数人が集まって自前で農産物直売所をオープンさせるということが中心で、例えば規約作り、店番の体制づくりといったことが述べられる。一方で、既にある直売所をどう盛り上げていくかといったような、いわば繁盛させるノウハウといったことはあまり書かれていない。それはいわば応用問題であるし、その店が置かれている状況次第で対応は千差万別にならざるを得ないから基本的テキストとしては十分な内容ではあると思う。

といっても、本書で述べることは、一度でも組織の中で働いたことがある人にとっては常識のようなことが多く、これまで組織で働くということを経験したことがない零細農家に、組織の運営を噛んで含めて教え諭すような調子のところがある。正直、その程度はさすがに農家でも分かってるんじゃないですか、と思う部分もあった。そういう所を簡素にして、運営の具体的なやり方に踏み込んだ方が(例示されている直売所の具体的運営方法を述べるなど) より役立つ本になったのではないかと思う。


個人的な興味は、既にある直売所をどう活用していくか、という視点で本書を読んだが、それに対するヒントはそんなに多くなかった。というより、ちゃんとしたリーダーを置き、組織の規律をしっかりとして、品物を切らさないようにし、出荷する農家がそれぞれ当事者意識をもって販売に当たり、情報発信やイベントを行うといったような経営の基本を着実にこなすということ以上に、重要なこともないのだと思う。

農産物直売所の運営について、良くも悪くも当たり前にやるべきことが書いてある本。

2014年10月20日月曜日

『イスラームの生活と技術』佐藤 次高 著

中世イスラーム世界における、紙の伝播と利用、砂糖の生産と消費について述べた本。

まず内容以前に、「生活と技術」というかなり広い視野を持った書名ながら、実際には紙と砂糖についての本であり看板に偽りがある。

内容については、短くまとめる世界史リブレットなだけあって、かなり簡潔である。本書の中心は砂糖の生産と消費であるが、それに関してはよく纏まっていると思った。一方、オマケ的な位置づけである紙の伝播と利用については、あくまで素材としての紙にのみ注目して書かれているのは少し残念で、やはり紙である以上書かれている内容の方が重要なわけだから、消化不良な感じがした。例えばイスラームの絢爛たる写本文化についてはもう少し考察が加えられてもよいと思う。

それから、砂糖については著者はさらに研究を進め、本書を著して後『砂糖のイスラーム生活史』という、より充実した本を執筆している。中世のイスラーム世界における砂糖生産はただ嗜好品の栽培・生産というだけでなく、世界史的・文化史的に非常に重要であるため、こうしたテーマでより深い本を出してくれることはありがたい。

タイトルと内容が乖離しているが、イスラーム世界における砂糖について手軽に学べる本。

2014年10月14日火曜日

『中世シチリア王国』高山 博著

シチリア王国の歴史本。

シチリアというと、現在のヨーロッパではある意味で辺境の地であるため、高校の世界史などではほとんど登場しない。しかし地中海世界という視点に立ってみると、シチリアはそのほぼ中央に位置し、中世においては交易の拠点でもあり、また文明の結節点でもあった。

すなわち、ビザンツ=ギリシア正教文化、ローマ=カトリック文化、アラブ=イスラーム文化という3つの文化=宗教が混淆し合う場所がシチリアであった。本書は、まさにその3つの文化が交錯した中世シチリア王国の成立、発展を記述する。中世シチリア王国はおおよそ12世紀に栄えた国であり、本書の対象とする時代はかなり短い。歴史書というよりは、中世シチリア王国が存在した歴史的一瞬に注目してみようという本である。

筆の流れは悪くない。かなり煩瑣で複雑な歴史を適度に簡略化して、要点がわかりやすい。一般的な世界史では閑却されがちなシチリア王国が、実は世界史的にも重要でまた興味深い役割を果たしたということが強く述べられていることは、本書の大きな価値である。ただその副作用として、少し概略的な説明すぎる部分もあり、もう少し詳しく知りたいと思う箇所も散見される。新書という体裁である以上、致し方ないが。

もう一つ不満を述べれば、3つの文化を同列に扱っているというより、視点がローマ=カトリックからの記述が多いということである。 シチリア王国という国は、当時の国際社会の枠組みからするとローマ教皇から認められて存在している国なので、これも致し方ないのかもしれない。だが一方で、シチリア王国はギリシア人、フランク人、アラブ人の連合政権であったともみなせるわけだから、やはりこの3つの文化は同列に記述しなければおかしい。本書は、あくまで「(支配者だった)フランク人からみたシチリア王国の歴史」という面が強い。

特に私が興味を持っているのはアラブ人、というかイスラーム勢力で、イスラームの文化がどのくらいシチリア王国に影響を及ぼしているかというのが本書を手に取った主要な動機であった。だが、本書にはイスラーム文化はシチリア王国に大きな影響を及ぼしているという概説は述べるが、さほど具体的なところには踏み込まないし、そもそもアラブ人たちから見たシチリア王国という視点もないので、少し隔靴掻痒な感じがする。

シチリア王国というマイナーな国の貴重な歴史書であるが、フランク人寄りの視点が少し残念な本。

2014年10月12日日曜日

『ピアノ―誕生とその歴史』ヘレン・ライス ホリス著、黒瀬 基郎訳

ピアノの歴史を図像によって辿る本。

本書は、ピアノの発達史というよりも、それを様々な図像によって確認してみようという本である。ピアノそのものが残っている場合はそれを見ればよいとして、ほとんどの古いピアノ(やその前身にあたる楽器)は失われているうえ、特にその姿形も記録されていない。そこで著者は、ピアノが描かれた絵画などをたくさん探し出してきて、隅っこに描かれたそれを興味深く眺めるわけである。

ピアノの歴史というと、まずは構造の変化を見てゆくということが普通だろうが、歴史を物語る主体が絵画であるために、記述はいきおいピアノを取り巻く社会ということになってゆく。絵画の中でピアノは主役ではなく、ある意味では調度品の一つに過ぎないからだ。

音楽を取り巻く社会の変化があり、それが楽器の変化を催し、楽器の変化によって演奏も変わり、そして楽器を演奏する人も変わってゆく。ピアノ発達史としてはシンプルな記述が多いが、どういう社会変化に基づいてピアノが変わっていったのかという物語の方は面白い。

私自身の興味は、ニコラ・ヴィチェンティーノという人が発明したアーキチェンバロという楽器がどのようなもので、ピアノの歴史の中にどのように位置づけられるのかという興味を抱いて本書を取ったのだが、これについては説明する部分がなかった(ただし関連する事項はある)。


イメージによってピアノの歴史が理解できる労作。

2014年9月29日月曜日

『マゼラン 最初の世界一周航海』長南 実 訳

世界で初めて世界一周を行ったマゼラン隊の記録。

本書には、マゼラン隊の一員で無事生還したピガフェッタの『最初の世界周航』と、マゼラン隊の生還者3名からの聞き取り記録をまとめたトランシルヴァーノの『モルッカ諸島遠征調書』を所収する。

ピガフェッタの方は実際の体験に基づいていることもあり物語風で、未知の世界との遭遇が興味深い。またピガフェッタはかなり民俗学的な関心があった人なのか、各民族の言葉(語彙)などを書き記すとともに、生活習慣や文化などを記録している。

また興味深かったのは、相当長かったはずの太平洋横断がかなりあっさりと、何事もなかったかのように記述されていることである。当時、アメリカ大陸はアジアの一部とされており、目的地であるモルッカ諸島(東南アジア)とさほど遠くないものと思われていた。だから実際には遠路だったにも関わらず、それを強調しなかったのだろうか? 事実、マゼランの航海後も、かなり長い間世界地図には(広大な海という意味で)太平洋が描かれなかったそうであるから、隊員たちにもその距離感がよくわかっていなかったのかもしれない。

トランシルヴァーノの方は、いわば報告書であるので記述はあっさりしているが、一種の解説の面持ちもあるため私には面白かった。特に目を引いたのは、地球の遙か彼方にも「怪物がいなかった」という報告である。当時は、ヨーロッパ人たちに知られない遠方の地は、まさしく化外の地であり、魑魅魍魎が跋扈していると思われていたし、一つ目の人間とか一本足の人間とか、こびとといったものが住んでいると信じられていたのである。

しかし実際にマゼラン隊の人間が出会ったのは、ヨーロッパ人とさほど変わらない、普通の人間だったのである。この事実は、当時の世界観を大きく揺さぶったに違いない。そしてより重要なのは、そうした変わった人間や怪物の存在をまことしやかに書いていた巨匠たちの書物の信頼性を揺るがせたことである。トランシルヴァーノによると
それどころかむしろ、昔の文筆家たちが書き残している事柄のほうが作り話であり、事実に反しているということをわれわれは今理解し、そして現代の人たちの経験によって(昔の人たちの)それらの記録を否定することができることを、確信しているのであります。
という認識に達した。大航海時代に少し先立つルネサンス期においては、「昔の文筆家」たちの作品が再発見され、古代の知によって文芸が勃興したのであるが、この時代にはその古代の知の限界が認識され、批判され、現実世界の観察に基づいて新たな世界観を構築していこうとする姿が現れてくる。それが後の科学の発達や啓蒙主義に繋がっていくのだと思われた。

ところで、マゼラン隊は基本的には香料を仕入れに航海を行ったのだが、各地で「生姜」の有無を非常に気にしており、生姜は重要な香辛料だったのだなあと感じた。

航海の記録というよりも、世界観の転換期に生きた人びとの実感を伝える書として貴重な本。

2014年9月26日金曜日

『アレクサンドロスの時代(第1巻)―文明の道 NHKスペシャル 』NHK「文明の道」プロジェクト著、 森谷 公俊著

少し前のNHKスペシャル「文明の道」の第1回「アレクサンドロスの時代」の単行本。

こういうNHKスペシャルの単行本は、番組の内容を深掘りするというより、一種の取材記に近いものがあるので、アレクサンドロス大王やその文明史的影響についての記述はさほど多くはない。ただ、番組を見るよりも若干情報量は多く、また背景情報なども分かるのは確かである。

アレクサンドロスの事績については、私は『アレクサンドロス大王東征記』も合わせて読んでいたのでさほど新味のある情報はなかったが、『東征記』には図表もなく重要な会戦(例えば「イッソスの会戦」とか)の具体的な様子もわからない。本書には図表がたくさんあるので、『東征記』の参考図書としてよいのではないかと思う。もちろん、『東征記』自体の要約にもなっているので、本書のみでも楽しめる。

本書の(というか多分番組の)主張は、「アレクサンドロスはギリシア文明の帝国を作ろうとしたのではなく、東西の文明を融合させようとした(少なくともそのきっかけをつくった)」というところにあり、それはさほど間違っているとも思わないが、2001年の同時多発テロの直後の製作ということもあり少しイデオロギー的すぎる記述も散見される。『東征記』を読む限りアレクサンドロスには戦いの明確な目的もなく(というのは本書でも指摘されているが)、東西の文明を融合といっても戦乱の一生を送ったわけで、どうも文明の仲介者として賞揚しすぎているきらいもある。

とはいえ、一般向けのアレクサンドロスの本は意外と少ないので、このように図版も豊富で関連事項まで含めて俯瞰できる体裁でまとめられた本は貴重である。ものすごく参考になるというわけではないが、手軽に参照できるアレクサンドロスの本。

2014年6月27日金曜日

『ペクチン―その科学と食品のテクスチャー』真部 孝明 著

ペクチン―その科学と食品のテクスチャー (Food Technology)
ペクチンについての先行研究をまとめた本。

ペクチンは、食品のテクスチャー(固さ、食感など)を決める重要な物質だが、構造が複雑で植物ごとに千差万別な組成を持つこともあり、十分に解明が進んでいるとはいえない。であるから、食品製造業の現場においても、科学的というよりは職人の感的に扱われているきらいがある。

そこで、これまで分かっていることをまとめて、食品製造業やその基礎研究に携わる人への参考書にしてほしいというような意図を持って本書は執筆されている。

であるから、本書では膨大な先行研究(論文)が参照されて、これまで何がわかっていて、何がわかっていないのか、ということが示されるのであるが、その調子はやや羅列の感が強くとりとめのない箇所がある。軸足は基礎研究にあるので、ペクチンを食品製造の実際でどのように扱うべきかというテーマでまとめられていないのはしょうがないとしても、もう少し系統立った、すっきりした記述ができたのではないかと思う。

一方で、情報量は多いのでペクチンについての参考書としての価値は高く、ペクチンについて知りたいと思ったら必ず座右に置くべき本であると思う(というか類書もほどんどない)。数少ないペクチンの教科書・参考書。

※本書の内容については、別ブログ(南薩日乗)にも触れている。→「ペクチン」のお勉強

2014年6月22日日曜日

『おっぱいとトラクター』マリーナ・レヴィツカ 著、青木 純子 翻訳

ウクライナの近代史を下敷きにして移民のドタバタ騒動を描く気軽な小説。

最近ウクライナの政変があって、実際のウクライナ人は祖国の近代をどう見ているのだろうか? という、娯楽小説を読むにしては鬱屈した興味から手に取ったのだが、ウクライナの近代史に関しては詳しい記述はない。それは、ロシアにひどいことをされた、その後は西側諸国にいいようにあしらわれた、というだけの話で、(実際そのくらい単純な話なのかもしれないが)どこか一般論的というか、実体験した人ならではのディテールがない歴史観だと感じた。


娯楽小説としての出来は悪くない。特に前半の、色ぼけした老父が美女(ビザと金目当て)に目が眩んで結婚し、その生活がめちゃくちゃになるあたりはよく出来ている。だが、中盤で離婚闘争編に入ると少し中だるみというか、サスペンス仕立てにしようという意図はわかるが、少し騒動が地味になり、主人公の迂闊さや子供っぽさに頼った筋書きになっているような気がする。もう少し、荒唐無稽なネタを入れたり、人物描写に深みを持たせたりするなど、展開に変化を持たせた方が退屈しなかったと思う。

そして後半は「話を回収する」という感じが強い。中だるみしたせいでうまく話が深まっていないからか、話の筋が平板なものになっている。また、ドタバタ劇のおかげで家族間の確執が解決するという筋も少しとってつけたようなところがある(最後の最後に、娘に諍いをやめるよう諭される場面など、ない方がよかったと思う)。

それから、翻訳小説に慣れている人には気にならないことであるが、あまりに「翻訳文体」なのが少し気になるところ。この小説は、登場人物が悪態をつきまくる場面が多いので、もう少し罵倒にリアリティが欲しい。例えば「アバズレ」という言葉が出てくるが、これは日常語ではほとんど使われない単語であるから、「ヤリマン」くらいにしたらよかったと思う(まあ、これもあまり使われない単語だが、この小説ではやたらと若者言葉を使っているので)。

原題の『ウクライナ語版トラクター小史』は気が利いている。これは老父が作中で書いている本の名前で、かつて農業とエンジニアの国として発展していたウクライナが、パワーポリティクスに翻弄され衰退していく様を象徴するものとしてトラクターの歴史が語られているわけだ。ただ、話の筋とはほとんど独立して、単なる象徴として扱われているので、もう少し本筋のプロットと関係づけたら読者が退屈しないだろう。私はトラクターの歴史にも関心があるので全く退屈しないどころか、もっと詳しくトラクターの歴史を紹介してほしいと思ったくらいだが、娯楽小説としては収まりが悪い。

暇つぶしの娯楽小説として考えると出来はそれほど悪くないが、翻訳の生硬さもあってイギリスの「滑稽小説」(P.G.ウッドハウス的な)として見ると、笑いの要素は少ない。小難しくない程度に社会派の、昼ドラな小説。

2014年6月11日水曜日

『イスラーム農書の世界』 清水 宏祐 著

中世から近世のイスラーム世界で著された農書を概観する本。

10世紀から17世紀の中東イスラーム世界(アラビア語を共通語とし、ムスリムが中心となって構成されている世界)では、多くの農書が出現したという。本書では、それらの農書を地域的・歴史的に概観し、そのうちの一書『農業便覧』の内容をやや詳しく紹介した上で、中東の農業の特質を考察するものである。

本書には記載がないが、10世紀のイスラーム世界というと、いわゆる「アラブの農業革命」の時代にあたる。これは、このころのイスラーム世界で農業の生産性の飛躍的な向上と作物の広範な伝播が起こったとする説で、アンドリュー・ワトソンという人が1973年に提唱した。その後、革命といえるほどの大変化ではなかったのでは、という反論(例えばマイケル・デッカーという人が主張している)が出ているので、今の学界ではどのように考えられているのか分からないが、平均的な農業技術が進歩した時代であることは認められているように思う。

そこで、実際のイスラーム世界の農業はどのくらい発展していたのだろうか、という疑問を抱いて本書を手に取ったのだが、本書は農書をごくかいつまんで紹介するものであるから、農業そのものの有り様(例えば、どのような人が農業を担っていたのか、どのような土地制度だったのか、など)を説明してはいないし、中東の農業技術の発展段階についても世界的な比較を行って位置づけることはしない。例えば、中世において既に中東では条播きと中耕の技術が一般化していたが、ヨーロッパにこれが導入されるのは近代になってからであって、この面で中東の農業は欧州のそれに先んじているのであるが、そういった比較は本書ではなされないのである。

また、なぜ農書が出現したのか、という根本的な問題についてもあまり深く考察していない。農業というのは、現代においてすら口伝えや研修、いわばOJTによって学んでいくものであり、ましては中世においては書物を頼りに農業技術を習得するということはほとんど稀有なことだったに違いない。にも関わらず多くの農書が生まれたのはなぜか、というのは大きな問題で、本書ではその理由について(1)領地の経営を行うため、(2)一度農書が生まれるとそれを各地の気候や風土に合わせる必要がでてきたから、と簡単な解説を添えているが、それが本質なのだろうか? 私はこの点に関して、徴税の仕組みともしかしたら土地制度が関連しているのではないかと思っているが、本書を読む限りでは不明である。

というような不満があるのだが、なにしろ本書は中世イスラーム世界の農業というニッチな分野の入り口を用意する短い本なので、込み入った考察を期待するのは酷というものだろう。イスラーム農書の系譜を簡潔に述べる章だけでも本書の価値はあるくらいで、よくぞこういうテーマで本を書いてくれたと喝采したい気持ちである。

また、農書の内容については、本書が中心的に解説する穀物栽培のことはさておき、果樹栽培の技術が進んでいたらしいことに興味を惹かれた。本書ではほとんど果樹栽培の内容については触れていないが、これはより具体的に栽培技術を知りたいと思う。

とにかく、簡潔すぎることが憾みではあるものの、イスラーム農書という豊穣な世界の入り口となる貴重な本。

2014年6月5日木曜日

『Lemon: A Global History』by Toby Sonneman

レモンの辿った世界史を語る本。

先日読んだ『Citrus: A History』が期待はずれだったので、リベンジを期して最近出版された本書を手に取った。これは、レモンを中心としたカンキツの世界史を概説する本である。

アジアに発祥したカンキツ(シトロン)は、まずはユダヤ人によって祭祀に使われたことで西洋世界に広まった。だが、ユダヤ人たちがヨーロッパに直接カンキツ文化をもたらしたのではなかった。本書が指摘するのは、カンキツ栽培の技術を高め、栽培を広めたのはアラブ人たちの功績であるということだ。そのため、近代世界までのカンキツの大生産地は、シチリアやスペインといった、中世までにイスラム勢力により征服されていた地域と重なっている。例えばシチリアでは、レコンキスタ以降には、かつてアラブ人たちが作った灌漑設備を受け継いでレモン栽培が行われたのである。

ユダヤからアラブへと受け継がれたカンキツ栽培は、こうしてイタリアにもたらされた。そして、それを北部ヨーロッパへと伝えていくのがメディチ家である。フランスに嫁いでいったカトリーヌ・ド・メディシスがカンキツ文化を伝導するわけである。メディチ家は、カンキツのコレクターでもあり、大変な種類のカンキツ類を栽培していたようだ。カンキツ類は貴族たちのステータスシンボルとなり、ほとんどカンキツ類の採れないネーデルラント(オランダ)ではカンキツを静物画に描くことが流行した。

大航海時代には、レモンは壊血病の予防のために非常に重要な作物となる。長い航海中にビタミンCの欠乏から「壊血病」に罹るわけだがこれの「特効薬」がカンキツ類であることがわかったため、「命がけ」だった航海が比較的安全なものになったのである。このあたりの科学史について本書は詳しいが、私が疑問なのは、より古くからの航海者だったアラブ人は、そのことを知っていたのだろうか、ということだ。あるいは、他の予防法があってカンキツに頼る必要がなかったのかもしれないが、ここは非常に気になるところである。

米国にカンキツ産業が興ってからの歴史は、既に『Citrus: A History』で読んでいるところであるからさほど新味はなかったが、そこにシチリア系移民が関わっているというのが面白かった。

全体として、冗長な部分があまりなく、端正にまとめられている本である。著者はジャーナリズムを専門としており、レモン業界の人でも研究者でもないが、適度な距離感でレモン(を中心とするカンキツ類)の歴史を概説している。ただ、気になるのは世界史とは言っても結局はヨーロッパとアメリカの話しか出てこないことで、アラブの話をもう少し深掘りして欲しかったのと、本場である中国とインドのカンキツの歴史について触れてもらいたかったというところである。

レモンの(世界史ではなく)西洋史をコンパクトにまとめた本。

2014年5月17日土曜日

『だれでもできる果樹の病害虫防除―ラクして減農薬』田代 暢哉 著

果樹の病害虫防除、つまりは薬剤散布を効果的・省力的に行うためにはどうすればよいか、という本である。

私はカンキツの無農薬栽培に取り組んでいるが、農薬に対してさほど敵意はなく、無農薬に取り組むからこそ農薬のことをよく知らなければならないと思い本書を手に取った。

本書が強調するのは、JAなどが提供する防除暦によるカレンダー的防除を脱し、合理的に農薬を使いましょうということである。では合理的な薬剤散布とはどういうことかというと、それは必要な時に必要なだけの薬剤を、できるだけ効果的に撒布するということである。これは極めて当たり前のことで、問題なのはその具体的手法だ。

まず、殺菌剤に関してはその効果が切れないようにローテーション的に撒布しなくてはならない。そのためには、農薬散布後からの累積降雨量を記録して、残効期間があっても降雨量が多い場合には薬剤を散布するといった工夫が必要である。

殺虫剤に関しては、その発生初期に集中的に薬剤散布を行い、初期の発生数をとにかく低く抑えるということが重要である。そのためには、毎日圃場に足を運び、害虫の発生に注意しなくてはならない。また殺虫剤に関しては、新薬よりも長く使われている伝統的な薬剤(マシン油、ボルドー液など)をうまく使うことを推奨する(これらは抵抗性が出にくいため)。

そして、撒布については、果樹栽培ではよく使われているピストルタイプの噴霧器は、ドリフト(飛散)が多く実は撒布が効率的でないとし、飛散防止タイプの使用を勧める。飛散防止タイプのノズルを低圧(1Mpa程度)で使うことで、撒布する薬剤の量をかなり減らすことができるらしい。

本書によれば、一人の農家が使う農薬の種類は必ずしも多くない。であるから、その数少ない農薬の特性をしっかり理解してほしい、という。かくいう私も、園芸野菜に関してはあまり農薬の特性を理解しないままに使っている一人である。反省して、徐々に農薬の勉強もしていきたいと思う。

また、本書では展着剤の効用は実はあまりないのではないか、と指摘する。 要は、既に個々の農薬はそれぞれが最適な展着性能を持っているわけだから、展着剤を添加することによる機能性の向上はさほど望めないどころか、展着剤を使うことにより付着量は確実に低下するので、使わない方がマシな場合が多い、とのこと。もちろん、使う方がよい場合もあるのでこれは是々非々で使い分ける必要がある。

ところで、「ラクして減農薬」を謳う割には、殺菌剤の効果が切れないように農薬をローテーションすること、とかしており、さほど省力的な管理は推奨していない。そこが信頼できるところでもあるが、減農薬に取り組むための本ではなくて、どちらかというと農薬をばっちりと効果的に使うための本であると思う。それから、「病害虫防除」は必ずしも薬剤散布だけでなくて、耕種的防除や生物的防除など農薬以外の手法もあるわけだが、実質的には農薬散布のみが詳細に書かれているので、タイトルは『果樹の薬剤散布』とした方がよいように思った。

全体として、なんとなくやっていた薬剤散布を基礎から学べる良書。

2014年5月1日木曜日

『Citrus: A History』Pierre Laszlo 著

老化学者によるカンキツ類の四方山話。

本書は「A History」という副題だったので、カンキツ類が辿ってきた歴史に関する本かと思い購入したのだが、分量的には歴史部分は半分程度である。また、歴史の記述についても、中心的なのは米国のカンキツ産業がどうして興ったか、ということで、世界的なカンキツの歴史は簡単に触れられるに過ぎない。

例えば、大航海時代においてカンキツは大変重要な役割を果たした果物であるわけだが、具体的にどこでどのようなものが生産されていたのか、というような話は出てこず、概略的・一般論的にその重要性が指摘されるに留まっている。ただ、イギリス人は17世紀までカンキツ類でビタミン欠乏を防げることを知らなかったので命がけの航海をしていたが、ポルトガル人は知っていたので健康的な航海ができたというのは知らなかったのでナルホドと思った。

米国のカンキツ産業の歴史についてはやや詳しい。いかにして米国にオレンジが渡ったかから説き起こし、それが次第に広まり、寒波などの天災を乗り越えて一大産業を築き、またやがて生産過剰となって「オレンジを飲もう」キャンペーンを実施し、オレンジのジュースとしての消費を開拓してアメリカ人の朝食にオレンジジュースが不可欠なものとなるまでが説明されている。 このあたりの歴史のダイナミズムは大変に興味深いところで、より詳しい文献で調べてみたい気持ちになった。

歴史を除いた残りの半分に何が書かれているかというと、著者の思い出やカンキツが文化的にどう扱われてきたか、そしてレシピといったところで、正直私は興味があまり湧かなかった。例えば、絵画作品において柑橘類がどう描かれてきたかという項があるが、著者の提示する作例が絵画史的に見て妥当なものであるのか判断もつかないし、そもそも話題に出ている絵画のサムネイルが載っていないし、著者の好みの単なる羅列なのか、学術的に意味のある話なのか不明である。

詩におけるカンキツ、という項目もあるが、これに至ってはWallace Stevensという詩人の”An Ordinary Evening in New Haven"という詩を紹介したかっただけなんじゃないかなあ…というような内容で、カンキツが表現された詩を体系的に見渡してみようという意志が感じられず、思いつきで挙げていった感が強い。

というように、歴史の部分は記載が表面的であり、それ以外の部分については思いつきや著者の思い入れが先行して散漫である。ただ、カンキツというテーマでこうした本は他にないと思うので、特にカンキツに対して思い入れがある人は、面白く読めるだろう。

ところで、本書について個人的に失敗したのは、邦訳があったのにわざわざ原書で読んでしまったことだ。別段原書で読む価値がある本でもなかったので、ちゃんと調べてから購入すべきだったと思う。カンキツの文化誌という比類ないテーマでまとめられながら、内容には今ひとつ深みが足りない本。

2014年4月2日水曜日

『薩摩民衆支配の構造―現代民衆意識の基層を探る』中村 明蔵 著

薩摩藩がどうやって民衆を支配し、それが現在の県民性にどのように影響を及ぼしているかを推測した本。

本書では、近世の薩摩藩における農民の統治政策を概観しているが、著者は古代史の専門家であり、近世史は「興味ある分野」としているに過ぎないので、その記述ぶりは随分と大雑把であり、「民衆支配の構造」というほど重厚な分析はされていない。だが逆に様々な統治政策の全体像を見渡すのには便利ではある。

私が本書を手に取ったのは、薩摩藩の宗教政策について知りたいことがあったからなのだが、実は疑問点については解消しなかった。また、内容は郷土誌等でよく説明されることが多い「門割制度」「外城制」や高率の税制などが中心なので、特に新規な事項もなく、個人的にはさほど勉強になる本ではなかったが、そうしたことが教科書風に手際よくまとまっているところに本書の価値がある。

内容を簡単に紹介すると以下の通りである。

少し長いプロローグでは、江戸期に鹿児島を訪れた人の目を通してその実態を探り、他藩にくらべて遅れた社会であったとする。

第1章では鹿児島の土地の低い生産性と近世以前の鹿児島の歴史を概観する。

第2章は薩摩藩の統治政策の説明であり、武士が極端に多い社会だったこと、その帰結としての外城制、そして農民を均一で弱い存在とするための門割制度、高率の税制を述べ、それらが他藩の一般的状況とどう異なっていたか比較する。

第3章は文教政策の説明であり、武士階層は郷中教育があったが庶民階層には教育施設・仕組みらしきものはなかったとし、特に鹿児島には寺子屋がほとんど存在していなかったことを指摘する。また宗教政策では真宗禁制と廃仏毀釈について述べる。

第4章では、そうした統治政策を「中世的」であったとまとめ、そのために農民が無知蒙昧で無気力な状態に置かれたとする。

第5章は明治以降に士族・平民の意識がどう変化していったかを簡単に見るもので、士族的な考え方や行動様式が平民にも次第に浸透していった(その逆ではない)と推測し、郷土芸能などにも民衆的なものが少なく武士階級のものがよく残っているとのはその証拠であると示唆する。

これらそれぞれの項目について、それぞれ一冊の本が必要であるような大きなテーマなのであるが、本書では深くは立ち入らず、簡潔にまとめている。そこに不満もないではないが、薩摩藩の統治政策を大まかに掴むにはよい本。

【関連書籍】
『鹿児島藩の廃仏毀釈』名越 護 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/10/blog-post_18.html
鹿児島の廃仏毀釈の実態について、郷土資料を中心にまとめた本。

2014年3月25日火曜日

『 生活の世界歴史(7) イスラムの蔭に』前嶋 信次 著

生活の世界歴史〈7〉イスラムの蔭に (河出文庫)
地中海周辺のイスラム文明圏の生活と文化について、10世紀を中心として記述する本。

生活と文化といっても、庶民の衣食住についてはさほど触れられない。むしろ、イスラム文明を担った中心的人物たち、具体的にはカリフとか宰相とか、あるいは文化人たちの織りなす人生のタペストリーを眺めてみましょうという体の本である。

叙述の形式は、縦に流れる歴史というより、「こんなこともあった」「あんなこともあった」というようなエピソードを連ねるもので、 まさに千夜一夜物語風の、アラビア文学的なとりとめもない話の集成である。これが歴史の本としてどうかというのは人それぞれの好みだろうが、私には結構面白かった。

特に、典拠としているアラビア文学の書物に書かれていることが生き生きしているのがよい。本書に紹介されている書物のみで判断すれば、アラビア文学は同時代や少し後の時代のラテン語文学と比べると随分と平明で人間性があり、近代的とさえ言える。アラビア語は、イスラム文明圏の共通語であったので、キリスト教文明圏におけるラテン語のような位置づけにあったわけだが、アラビア語とラテン語では発展していった方向性が全く異なっていたようだ。

アラビア語は物語を記述するのに便利だったのか、どこが始まりとも終わりともつかないような問わず語りの文学が数多く残っている(らしい)。本書ではアラビア文学の豊穣な世界を垣間見ることができるが、あまりにも面白そうなので、アラビア語を学びたいという気持ちにさせられてしまった。

本書は、イスラム文明圏に生きたいろいろな人の悲喜こもごもを並べた本であって、生活の歴史を解説するものではないし、イスラム文明圏の何かを学ぼうという本でもない。ただ、10世紀のイスラム文明圏に生きるというその雰囲気を、少しだけ感じてみようという本である。

2014年1月16日木曜日

『道教の伝播と古代国家』野口 鉄郎、酒井 忠夫編

日本への道教伝播に関する重要な論文をまとめた本。

本書は、「選集 道教と日本」の第1巻を飾るもので、日本への道教伝播について考察する1920年代の津田左右吉の「天皇考」、黒板勝美の「我が上代に於ける道教思想及び道教について」といった先駆的論文から始まり、1980年代の論文まで収めた、この研究分野の発展史を縦覧するような本である。

道教の日本への影響についてはとかく「これまで閑却されてきた」などという枕詞がつくことが多いが、現代提示されているような日本文化への影響については、既に1920年代に指摘されていたことを知った。第1部に収録されている、津田左右吉、黒板勝美、妻木直良、小柳司気太、那波利貞の各論考では、現代における当該テーマの基本的着眼点が大凡提示されていると言っても過言ではない。

本書は日本文化と道教ということを考える際に土台となる部分を提示するものであるが、決して基礎的な内容ではなく、例えば「功過格」「老子化胡経」といった言葉が注釈なしで出てくるために、ある程度の道教の知識を前提としている。既に日本への道教の影響がボンヤリと見えている人が、その輪郭をはっきりさせるために読む本という感じで、ある意味では退屈な部分もあるが、必ず一度は目を通すべき内容と言える。

道教と日本という大きなテーマに分け入っていく上で、先人の考察の肩に乗るための本。