2019年12月31日火曜日

『墓石が語る江戸時代—大名・庶民の墓事情』関根 達人 著

墓石によって江戸時代の社会を考察する本。

古代や中世の墓石は芸術性も高く文化財として保護されているものも多いが、江戸時代の墓石は特に貴重なものともみなされず、むしろ無縁仏として整理される対象であり、打ち捨てられてきた。

しかし著者は江戸時代の墓石によって当時の社会を考察することが出来ると主張する。大量の墓石を悉皆調査することでだ。

確かに江戸時代の墓石は(大名墓などを除いて)立派な文化財ではない。しかしそれは逆に言えば、名もない庶民も墓石を造立したということである。古代や中世の墓石がごく限られた社会の上流だけのものであったのに、江戸時代の墓石は全階層的なものであった。江戸時代後期には全国的に半数近くの人々が墓石を建てていたと見られる。だからそれを悉皆調査すれば、社会の有りさまがかなりわかってくるのである。

著者は弘前大学に赴任した際に松前を中心に墓石調査を行った。江戸時代の最北端の城下町である。この辺境の地でも、墓石はかなり造立された。この他著者は交易地を中心に墓石の調査を行っている。それによりわかるのは、歴史人口学(人口の推計)、飢饉の際に死亡した人の推計、社会階層の分析、家族のあり方の変遷、街の盛衰といったものだ。

しかしながら、そうした墓石の悉皆調査による考察は、墓石をデータとしてみるものであるから、参考にはなるがやや味気ないものだ。それよりも面白いのは、やはり墓石一つひとつを見ていくことである。例えば面白い戒名「米汁呑了信士」(ふざけているのか?)、個性的な墓石(挽き臼の形)など見ていて飽きない。

江戸時代から現代まではほとんどの人が墓石を造立した時代であり、古墳が造立された時代を「古墳時代」と呼ぶのなら、「墓石時代」と呼んでもいいのではないかと著者は提案する。墓石時代が到来した理由を著者は6つに整理している。(1)直系家族からなる世帯の形成、(2)儒教思想に基づく祖先祭祀の浸透、(3)寺檀制度の確立、(4)読み書きの普及に伴う文字文化の成熟、(5)海上交通網の整備による石材の遠距離輸送の実現、(6)石工の全国的拡散、である。

しかし現代は樹木葬や散骨など、墓石を敢えて造立しない葬送が一般化しつつある。人口減少時代にあって、墓を見る子孫がいない、墓参りが負担になる、家族像が変化しているといった理由からだ。墓石時代は今終わろうとしているのかもしれない。

墓石を通じて社会を見る視点が独特な本。


2019年12月29日日曜日

『石仏・石の神を旅する』吉田さらさ 著・宮本 和義 写真

全国の石仏のガイドブック。

本書は学術書でもエッセイでもなく、全国の見応えのある石仏(と神像もちょっと)をキレイな写真付きで紹介する本である。

そこに紹介されているのは、学術的に貴重であるとかいうよりも、まずは見て楽しい、感動する、驚くといったものである。いわば本書は石仏の入門書であって、それぞれについても詳細な考察があるでもなく、ごくあっさりと紹介されている。

しかし石仏だけを選んで紹介している本というのは少ないので本書の存在は貴重だ。見応えのある仏像を選んで紹介している本は多いが、本書の特色はまさに「石」という材質に注目してセレクションしたところだ。

石仏は寺の中にあるものもあるが、路傍にあったり磨崖仏であったり、誰でも自由に見ることができるものが多いのが特色だ。当然、写真撮影も自由である。それが旅との相性の良さだと思う。本書は単なる石仏紹介本ではなく、旅のガイドブック的に書いてあって、石仏を見に旅に出たくなる。

ただ、本書は全国を網羅しているわけではなく、あくまでも著者なりの視点で選んだものであるし、それに全く訪問していない地域も多そうである(例えば鹿児島には来ていないようだ)。体系的に石仏の紹介をする本ではないのでそれで全く問題はないが、2倍くらいの分量があったらもっと面白い本になったと思う。

石仏の世界を気軽に旅する本。

『板碑と石塔の祈り』千々和 到 著

板碑を中心として石塔の世界を紹介する本。

日本では大規模な石造構造物はほとんど存在していないが、石塔については数多く残っており、特にそれが庶民的なものであるだけに当時の信仰を窺わせる格好の遺物となっている。

ではそうした石塔はどのように造立されたか。石塔と言えば五輪塔、宝篋印塔、 層塔、宝塔、多宝塔、無縫塔、板碑があるが、これらは層塔を除いて平安時代後期から鎌倉時代初期、1200年前後の70年間ほどに現れる。そしてそれまでの仏塔とは、仏舎利を安置する礼拝の対象であったが、仏塔は墓塔の性格を持つようになるのである。

さらにこれらの石塔は最初は社会の上流の人々が極楽往生を願って造立するものであったが、15世紀半ばにはそれが農民や町人など多様な人々によって、しかも現世利益など多様な願いを託して作られるようになった。例えば「一石五輪塔」がそういうもので、これは一つの石を五輪塔の形に刻んだもので、製造コストを抑えた既製品が利用されていたそうだ。

著者はそうした石塔の中でも特に板碑に関心を持ち、板碑についてやや詳しく紹介している。板碑は関東で多く作られたもので、本書ではいくつかの板碑についてケーススタディ的に取り上げられている。「誰が何のために造立したのか」「当初の姿はどうだったのか」といったことを一つひとつ探っていくことで、当時の信仰や社会のあり方を知ることができるのである。

板碑の世界の手軽な入門書。

【関連書籍の読書メモ】
『中世の板碑文化』播磨 定男 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/09/blog-post_24.html

板碑の世界を概観する本。板碑の世界を手軽に俯瞰できる良書。



2019年12月27日金曜日

『石造物が語る中世職能集団』山川 均 著

宝篋印塔の起源を考察する本。

従来、宝篋印塔は「銭弘淑八万四千塔」をモデルとして日本で創作されたものと考えられてきた。しかし近年、大陸にも宝篋印塔が見つかったことから、大陸の宝篋印塔を模して作られたものだとする説が濃厚になった。ではこれを輸入し、制作したのは誰なのか。

著者は様々な理由から、日本における最初期の宝篋印塔「高山寺宝篋印塔」(1239年)の発願者を證月房慶政であり、その制作者を宋人石工、伊 行末(いの・ゆきすえ)であると推測する。慶政は京都の西山法華山寺を創建した天台宗の僧侶であり、伊 行末は、重源が大仏再興にあたって宋から招聘した石工である。

慶政は、自身が宋に留学しており、泉州近辺で宝篋印塔を見た可能性がある。その記憶に基づいて伊氏に日本版宝篋印塔を制作させたというのである。そして伊氏は代々石工となり、「伊派石工」を形成。またその分派の大蔵氏も「大蔵派石工」として活躍した。

このように1230年代に登場した宝篋印塔は、その後空白をおいて1260年前後に再度あらわれ、また空白期があった後1290年代以降に数多く作られるようになる。この1260年前後に作られた初期宝篋印塔については、律僧の忍性との関連が深く、伊派・大蔵派の石工によるものと考えられると言うことだ。

なお忍性の師にあたる叡尊は、非人や遊女、漁民などのために層塔をいくつか造立しているが、これも伊派石工によるものと見られる。また彼らは非常に完成度の高い五輪塔も造立した。

このように大陸に出自を持つ伊派・大蔵派という2つの職能集団は、100年あまりの間に中世における石塔造営に大きな影響を及ぼし、特に宝篋印塔の像容を確立させた。しかし彼らは忍性没後もしばらく活動を続けていたものの、大蔵派は鎌倉幕府の滅亡とともに途絶え、伊派も徐々に衰退して1350年代には存在が確認できなくなる。なぜ優秀な石工集団だったにもかかわらず両派が衰微してしまったのかは謎である。

宝篋印塔の成立事情を伊派・大蔵派の動向によって推測した意欲作。

2019年12月25日水曜日

『古寺巡礼』和辻 哲郎 著

奈良の古刹見聞記。

和辻哲郎はこの見聞記をどのような気持ちで書いたのだろう。内容は恬淡としたもので、訪問した寺の先々で寺院建築や仏像の素晴らしさに感激し、またその故事来歴に思いをいたすというものである。特に西域からの文化交渉、ギリシア的なるものの東洋的変容、日本的変容については頻繁に洞察されている。

しかし本書は、どうやらそうした考察を展開するためにかかれたものではなさそうだ。いわば「手慰み」といった雰囲気が漂っているのである。実際本書は刊行するために書いたものではないらしい。そしてそれが却って清新な魅力を生み、本書は寺院観賞の一つの基本的態度さえも形作った。

その態度は、仏像や寺院建築を美術品として観賞しながら、しかも宗教的意味合いを閑却せず、文化史的な知識を用いて読み解くというものである。日本の仏教美術を「発見」したフェノロサや岡倉天心があくまでそれを美術品として見ていたのと違い、そこに信仰の持つ意味合いを加味したのが和辻の新味であった。

しかし和辻は、仏教美術を信仰の対象として見ながらも、「これは有り難い仏さまだ」といった宗教的な感興を極力廃しているように見える。書名に「巡礼」とあるにも関わらず巡礼的態度は微塵もない。和辻は信仰の対象としては少し距離を置きつつ、「日本とは何か」というテーマの下に仏教美術を解きほぐそうとした。フェノロサや岡倉天心が「美術」としてそれらを見たとすれば、和辻は「研究対象」としてそれを見ていた。

そうでありながら、研究書としてではなく、エッセイとして書かれたということが本書の価値であったと思う。ここには大上段の文化論はないが、鋭い考察に基づいた「感性の日本論」がある。

古寺巡礼で描き出した日本論。

【関連書籍】
『西域文明史概論・西域文化史』羽田 亨 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/02/blog-post.html
西域の文明および文化の概論。和辻がたびたび言及する西域の仏教美術の概説も知れる。


2019年12月21日土曜日

『仏と女(シリーズ 中世を考える)』西口 順子 編

仏教における女性のあり方を考える論文集。

例えば高野山や比叡山は女人禁制であった。僧は、女性を近づけてはいけない。また女性は五障三従の身と考えられた(「五障三従」とは、女性は生まれながらに罪深く、男性に従属して生きる存在だ、という仏教の考え方)。さらに女性は往生(浄土へ行く)ができないため、一度男性に生まれ変わってから往生するという「変成男子(へんじょうなんし)」という考え方も生まれた。

歴史的存在としてのブッダが説いた仏教では女性を対等に扱っていたのだが、いつしか仏教の教えは女性を斥けるものとなっていた。ところが中世において、女性は仏教的活動にたくさん参画していたのである。もちろん尼僧の数は僧侶に比べて少なく、また大寺院の住持のような社会的頂点には女性はいなかった。しかし様々な面で中世仏教は女性の存在に負うものも多かったのである。本書は、そうした女性と仏教の関係について7つの論文を収める。

1 貴族女性の信仰生活(小原 仁):中御門家の一条尼は、日夜熱心に勤行を行い浄土へ往生したと見なされた。九条家では家の枢要な財産(最勝金剛院)が女性によっても相続され、家の仏事は女性によって取り計らわれていた。仏教の建前としては女性は「五障三従」の身であったが、実態としては貴族の信仰生活を主導したのは女性であった。

2 女の死後とその救済(勝浦 令子): 男性に比べ女性は地獄に落ちやすいものと考えられ、特に母の堕地獄を救済する信仰が生まれた。また女性自身も堕地獄を避けるために積極的にさまざまな信仰活動を行った。しかし女性は女性であるだけで罪とされたり、子を養育する罪(養育には絶対に殺生が伴うため)が女性だけに課せられていたことなど、当時の仏教は男女差別的と言うほかない。

3 法然の念仏と女性(今堀 太逸):法然の浄土宗では、念仏によって往生できると教えたが、であれば女性も念仏によって往生できるのか。著者は当時の資料を詳細に分析して「女人往生」思想を辿っている。その結果、法然は女人往生を語っていたとされるがそれは伝説であり、法然の女人教化譚が成立したのは、法然没後百年以上経ってから作成された『法然上人行状絵図』においてであることが明らかになった。

4 絵系図の成立と仏光寺・了明尼教団(遠藤 一):初期真宗教団は親鸞・恵信尼夫妻とその子を中心とした家族経営組織によって形成されたが、そうしたやり方を継承したのが武蔵国の仏光寺教団だった。その絵系図を見ると、夫と妻が一対として扱われており、この教団では夫婦が基本単位とされていたことが窺える。さらに了明尼は夫の死後、実施的に住持の立場となった。女性に高い地位を与えた仏光寺は興隆し、当時の山門(延暦寺)から本願寺よりもむしろ真宗の代表と見なされた。坊主・坊守という住職夫妻が寺院を管理していく今の真宗のあり方は、本願寺よりも仏光寺の方が体現していた。

5 女人と禅宗(原田 正俊):中世においては特に禅宗と律宗の尼の活動が盛んであった。曹洞宗では少数ながら男性と対等に扱われた尼が輩出。臨済宗では「尼五山」が設けられ、五山と似たようなシステムがあった。従来、尼五山は行き場のない上流階級の女性が自らの意志とは関係なく収容される場所であったと考えられていた。確かにそういう面はあり、女性は僧衆たちの下にあったことも事実だが、自主的に参禅し得法(悟り)を目指した女性もいた。彼女たちは無学祖元に参じた無外如大(尼僧)を理想像として仰いだ。また臨済宗では五山派以外にも大徳寺派で尼・尼寺が多かった。中国の語録では尼達が男性僧侶と対等に扱われていたから、禅宗では女性を宗教的に無視できなかったのである。禅思想は女性にとって、顕密仏教(当時の支配体制側仏教)のイデオロギーを覆す拠り所となりえた。

6 尼の法華寺と僧の法華寺(大石 雅章):古代の国分尼寺だった法華寺は衰退していたが、叡尊によって律宗の寺院として生まれ変わる。法華寺では尼、尼に準じる存在、近住女など200名を超える様々な女性が積極的に活動した。しかし15世紀初頭には法華寺は「比丘尼御所」となっていた。「比丘尼御所」とは、天皇家・将軍家・摂関家など貴種の子女が入寺する尼寺で、幕府の丸抱え経営であって御所的形態をとり、門跡寺院と同等の存在である。宮廷文化の衰退に伴って、将来結婚が期待できない未婚の子女にとっての宮廷に代わる居場所として形成されたものである。

7 女性と亡者忌日供養(西口 順子):親族の忌日供養は中世仏教の中心であった。従来、忌日供養は女性の手によるものとの認識があったが、実際には男性も忌日供養を行っており女性だけが営んだものではない。しかし貴族において近親の女性が尼となり一族の供養を行うことはよくあることだった。女性は往生できないとの説や「五障三従説」などは理念的に存在していたとはいえ、当の女性自身はそうした言説をあまり真に受けていなかったと思われるフシがある。

全体を通じて、中世の仏教において女性がどのように扱われていたのかというのが、意外とよく分かっていないことが痛感させられた。確かに中世仏教は女性差別的であった。しかし仏事の中心には女性がいたし、貴種の女性は寺院の荘園の相続人として莫大な財産を管理していたりもした。社会の中の女性のあり方自体が、今とはだいぶ異なっていたのに、「尼は僧に従属させられていたからこうだったに違いない」というような思い込みで尼・尼寺の有り様が誤解されていたことも多いらしい。

私自身は、中世仏教への関心というより、中世における女性のあり方を知りたいという思いで本書を手に取った。しかし読み進めるうちに、「中世仏教はどうして女性差別的になってしまったのだろう」ということの関心が移った。

中世において女性は男性と対等な財産権を持っていたし、しばしば家督を相続した。また家の仏事の中心的役割を果たしていた。そして古代の仏教では僧・尼は対等とはいえないまでも差別的な扱いはなかったし、中国の禅宗でも尼が活躍していた。それなのに中世仏教はなぜ「五障三従」や「変成男子」といった女性差別的な言説を展開させていったのか? それが不思議なのだ。

中世仏教の女性のあり方を様々な事例から紐解く真面目な本。

2019年12月17日火曜日

『オーパ!』開高 健 著・ 高橋 昇 写真

アマゾン川の釣りルポ。

本書は、『PLAYBOY』誌の企画で開高 健 氏がアマゾン川で釣りをして書いたルポ・紀行文・エッセイである。

「オーパ!」とは、現地の言葉で驚いた時に口に出る「わお!」や「おやまあ!」みたいな言葉で、アマゾン川は兎にも角にも驚異に満ちている。世界最大の淡水魚ピラルクー、ほとんど神のごとく偏在している猛魚ピラーニャ、驚異的な引きが楽しめる黄金の魚トラド、アマゾン川は全てが桁外れであり、そしてそこに生きる文化も極端で豪放磊落であり、時に神話的ですらある。

本書は、基本的には釣りの体験記である。どこそこに行って何をどうして釣った、ということが書かれる。ただし、餌がなんだとか、仕掛けがどうしたというような細かい話は出ない。むしろ釣りをする中で著者が体験した「驚異」を中心に話は進む。といってもアマゾンの自然誌を語ろうとするものでもないし、ブラジルの文化誌を述べようというのでもない。そうした大上段の見方を敢えて排して、身の丈に合った体験記に留めようとしているように見える。

しかしさすが文学者の著者だけあって、文章は非常に妙味がある。元来釣りの紀行文というものは文学の一角をなすものではあるが、これは恬淡とした日本の釣り文学とは全く違う、絢爛な新しい釣り文学であると感じた。

それにしても、かつては『PLAYBOY』誌がこうした企画を実行し得たということに、今となっては驚きを禁じ得ない。

桁外れの釣り紀行。

2019年12月16日月曜日

『中世奇人列伝』今谷 明 著

中世における、知られざる6人の小伝。

本書に収められているのは、一般的な歴史書ではほとんど看過される人物であるが、型破りの人生を生きた人ばかりである。「奇人」とはいっても「変わった人」のことではなく、数奇な運命を辿った人のことだ。

歴史書というのは面白いもので、同時代に大きな存在感があった人でも、何らかのことでその重要人物が省略され、後続の歴史書でもそれが踏襲されてほとんど顧みられぬままになっていることがある。本書が収録する6人は、そういう過小評価が続いてきた人たちだ。その6人は次の通り。

法印尊長:尊長は頼朝との血縁から出世し、寺院社会の中でも最高位に上り詰めた。厖大な天皇家荘園が寄進されていた法勝寺の執行を始め、蓮華王院、歓喜光院等の歴代上皇の御願寺の執行、備前の任国司までにもなって、彼の元には全国から財宝が集まった。後鳥羽上皇の信が篤かった尊長は、承久の乱の黒幕となったが乱は幕府から鎮圧され逃亡。最後は捕らえられて壮絶な死を遂げた。

京極為兼:伏見天皇の腹心であり、一流の歌人でもあった為兼は興福寺の騒動(永仁の南都闘乱)に巻き込まれて失脚したが復活。勅撰和歌集『玉葉和歌集』は為兼の独撰となった。晩年には再び失脚して配流され、その業績は以後顧みられることはなかった。

雪村友梅:一山一寧の侍童で聡明だった友梅は中国へ留学するが、日元関係の悪化から捕らえられ長年にわたり中国で幽囚生活を送る。しかし斬首されかけた際に詠んだ「臨剣頌(りんけんじゅ)」が友梅の作とされるほど(本当は無学祖元作)中国でもその学識は認められ、帰国後は各地の名刹の住持を歴任した。

広義門院(西園寺寧子)
:南北朝の動乱の渦中にいた広義門院は、後伏見天皇の妻であり、花園天皇の准母(名義上の母)であり、また後に光厳天皇と光明天皇も生んだ。南朝が北朝の三上皇・皇太子を拉致し、三種の神器を奪ったことで幕府により北朝の中心として担ぎ出される。幕府は北朝に天皇がいないという異常事態に直面し、上皇后によって天皇の権能が代行できると解釈、さらに「天下同一法」という人事・官位等の全てを過去に遡らせるという大奇策によって切り抜けた。広義門院はこれらの策を実行するための名目上の登場かに思われたが、その権力は実質化し、あらゆる政治の決定に関与、文和2年(1353)には政務を後光厳天皇に譲ったものの、長講堂領、法金剛院領、今出川領という天皇家領荘園の全てを所有し続け、北朝の家督者として死ぬまで重きをなした。

願阿弥:時衆の僧で、著名な勧進聖であった願阿弥は、寛正の大飢饉で京が難民と死体で溢れるや、勧進(募金)を募って難民収容所を開設し人々を救った(しかし多くは収容の甲斐なく死亡したという)。18年後、応仁の乱後には、消失していた清水寺の再建に取り組んで諸国を勧進に巡り成功させた。この背景には、清水寺の参拝者を宛てに生活していた清水坂の乞食非人たちの救済があったと考えられるという。

足利義稙(よしたね):足利義視の子である義稙は、義視・義政という父世代の対立がありながらも、義政の子義尚が若くして陣没したことで棚ぼた的に将軍に就任する。ところが政権を牛耳っていた日野富子と不仲になり、細川政元らがクーデターを起こし幽閉された。脱出後、大内義興の力を借りて将軍に返り咲いたものの、お人好しの義稙には政権運営能力はなく、かつての腹心細川高国との確執から逐電し逃げ延びた撫養(むや:鳴門市)で病没した。武家で将軍を再任したのは彼だけである。

著者自身が後書きで書いているように、本書に取り上げられた6人のうち義稙を除く5人が法体(ほったい:出家後の姿)で生涯を終えている。しかし専門的宗教家と呼べるのは雪村友梅だけである。中世においては、人は晩年には出家するのが普通だったし、また法体であることに各種の便宜があった時代だったからだという。本書の中心テーマではないが中世における出家の意味を改めて考えさせられた。

また、6人の中で私が最も興味を抱いたのは広義門院。幕府によって担ぎ出されたのにもかかわらず、その権力が実質化した過程を知りたくなった(本書ではごく簡単に書いている)。

歴史書ではあまり語られない人物を題材に、いろいろな角度から中世を知れる良書。